五重塔
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著者名:幸田露伴 

       其一

 木理(もくめ)美(うるは)しき槻胴(けやきどう)、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳(がんでふ)作りの長火鉢に対ひて話し敵(がたき)もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日(いつ)掃ひしか剃つたる痕の青□と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとゞめて翠(みどり)の□ひ一トしほ床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリヽと上り、洗ひ髪をぐる/\と酷(むご)く丸(まろ)めて引裂紙をあしらひに一本簪(いつぽんざし)でぐいと留めを刺した色気無の様はつくれど、憎いほど烏黒(まつくろ)にて艶ある髪の毛の一ト綜(ふさ)二綜後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかゝれる趣きは、年増嫌ひでも褒めずには置かれまじき風体(ふうてい)、我がものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢(しれもの)が随分頼まれもせぬ詮議を蔭では為べきに、さりとは外見(みえ)を捨てゝ堅義を自慢にした身の装(つく)り方、柄の選択(えらみ)こそ野暮ならね高が二子(ふたこ)の綿入れに繻子襟かけたを着て何所に紅くさいところもなく、引つ掛けたねんねこばかりは往時(むかし)何なりしやら疎(あら)い縞の糸織なれど、此とて幾度か水を潜つて来た奴なるべし。
 今しも台所にては下婢(おさん)が器物(もの)洗ふ音ばかりして家内静かに、他には人ある様子もなく、何心なくいたづらに黒文字を舌端(したさき)で嬲(なぶ)り躍(おど)らせなどして居し女、ぷつりと其を噛み切つてぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火体よく埋(い)け、芋籠より小巾(こぎれ)とり出し、銀ほど光れる長五徳を磨きおとしを拭き銅壺の蓋まで奇麗にして、さて南部霰地(なんぶあられ)の大鉄瓶を正然(ちやんと)かけし後、石尊様詣りのついでに箱根へ寄つて来しものが姉御へ御土産(おみや)と呉れたらしき寄木細工の小繊麗(こぎよう)なる煙草箱を、右の手に持た鼈甲管(べつかふらお)の煙管(きせる)で引き寄せ、長閑に一服吸ふて線香の烟るやうに緩□(ゆる/\)と烟りを噴(は)き出し、思はず知らず太息(ためいき)吐いて、多分は良人(うち)の手に入るであらうが憎いのつそりめが対(むか)ふへ廻り、去年使ふてやつた恩も忘れ上人様に胡麻摺り込んで、強(たつ)て此度(こんど)の仕事を為(せ)うと身の分も知らずに願ひを上げたとやら、清吉の話しでは上人様に依怙贔屓(えこひいき)の御情(おこゝろ)はあつても、名さへ響かぬのつそりに大切(だいじ)の仕事を任せらるゝ事は檀家方の手前寄進者方の手前も難しからうなれば、大丈夫此方(こち)に命(いひつ)けらるゝに極つたこと、よしまたのつそりに命けらるればとて彼奴(あれめ)に出来る仕事でもなく、彼奴の下に立つて働く者もあるまいなれば見事出来(でか)し損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く良人(うちのひと)が愈□御用命(いひつ)かつたと笑ひ顔して帰つて来られゝばよい、類の少い仕事だけに是非為て見たい受け合つて見たい、慾徳は何でも関はぬ、谷中(やなか)感応寺(かんおうじ)の五重塔は川越の源太が作り居つた、嗚呼よく出来した感心なと云はれて見たいと面白がつて、何日(いつ)になく職業(しやうばい)に気のはづみを打つて居らるゝに、若し此仕事を他に奪られたら何のやうに腹を立てらるゝか肝癪を起さるゝか知れず、それも道理であつて見れば傍(わき)から妾の慰めやうも無い訳、嗚呼何にせよ目出度う早く帰つて来られゝばよいと、口には出さねど女房気質、今朝背面(うしろ)から我が縫ひし羽織打ち掛け着せて出したる男の上を気遣ふところへ、表の骨太格子手あらく開けて、姉御、兄貴は、なに感応寺へ、仕方が無い、それでは姉御に、済みませんが御頼み申します、つい昨晩(ゆうべ)酔(へゞ)まして、と後は云はず異な手つきをして話せば、眉頭に皺をよせて笑ひながら、仕方のないも無いもの、少し締まるがよい、と云ひ/\立つて幾干(いくら)かの金を渡せば、其をもつて門口に出で何やら諄□(くど/\)押問答せし末此方(こなた)に来りて、拳骨で額を抑へ、何(どう)も済みませんでした、ありがたうござりまする、と無骨な礼を為たるも可笑(をかし)。

       其二

 火は別にとらぬから此方(こち)へ寄るがよい、と云ひながら重げに鉄瓶を取り下して、属輩(めした)にも如才なく愛嬌を汲んで与(や)る櫻湯一杯、心に花のある待遇(あしらひ)は口に言葉の仇繁きより懐かしきに、悪い請求(たのみ)をさへすらりと聴て呉れし上、胸に蟠屈(わだかま)りなく淡然(さつぱり)と平日(つね)のごとく仕做(しな)されては、清吉却つて心羞(うらはづ)かしく、何(どう)やら魂魄(たましひ)の底の方がむづ痒いやうに覚えられ、茶碗取る手もおづ/\として進みかぬるばかり、済みませぬといふ辞誼(じぎ)を二度ほど繰返せし後、漸く乾き切つたる舌を湿す間もあらせず、今頃の帰りとは余り可愛がられ過ぎたの、ホヽ、遊ぶはよけれど職業(しごと)の間(ま)を欠いて母親(おふくろ)に心配さするやうでは、男振が悪いではないか清吉、汝(そなた)は此頃仲町の甲州屋様の御本宅の仕事が済むと直に根岸の御別荘の御茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人(うち)のも遊ぶは随分好で汝達の先に立つて騒ぐは毎□なれど、職業(しごと)を粗略(おろそか)にするは大の嫌ひ、今若し汝の顔でも見たらば又例の青筋を立つるに定つて居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなつたれど母親(おふくろ)の持病が起つたとか何とか方便は幾干でもつくべし、早う根岸へ行くがよい、五三(ごさ)様も了(わか)つた人なれば一日をふてゝ怠惰(なまけ)ぬに免じて、見透かしても旦那の前は庇護(かば)ふて呉るゝであらう、おゝ朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに御膳を其方へこしらへよ、湯豆腐に蛤鍋(はまなべ)とは行かぬが新漬に煮豆でも構はぬはのう、二三杯かつこんで直と仕事に走りやれ走りやれ、ホヽ睡くても昨夜をおもへば堪忍(がまん)の成らうに精を惜むな辛防せよ、よいは弁当も松に持たせて遣るは、と苦くはなけれど効験(きゝめ)ある薬の行きとゞいた意見に、汗を出して身の不始末を慚(は)づる正直者の清吉。
 姉御、では御厄介になつて直に仕事に突走ります、と鷲掴みにした手拭で額拭き/\勝手の方に立つたかとおもへば、既(もう)ざら/\ざらつと口の中へ打込む如く茶漬飯五六杯、早くも食ふて了つて出て来り、左様なら行つてまゐります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ下げて煙草管(きせる)を収め、壺屋の煙草入(りやうさげ)三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子気質、草履つつかけ門口出づる、途端に今まで黙つて居たりし女は急に呼びとめて、此二三日にのつそり奴(め)に逢ふたか、と石から飛んで火の出し如く声を迸(はし)らし問ひかくれば、清吉ふりむいて、逢ひました逢ひました、しかも昨日御殿坂で例ののつそりがひとしほのつそりと、往生した鶏(とり)のやうにぐたりと首を垂れながら歩行(ある)いて居るを見かけましたが、今度此方の棟梁の対岸(むかう)に立つてのつそりの癖に及びも無い望みをかけ、大丈夫ではあるものゝ幾干か棟梁にも姉御にも心配をさせる其面が憎くつて面が憎くつて堪りませねば、やいのつそりめと頭から毒を浴びせて呉れましたに、彼奴の事故気がつかず、やいのつそりめ、のつそりめと三度めには傍へ行つて大声で怒鳴つて遣りましたれば漸く吃驚して梟(ふくろ)に似た眼で我(ひと)の顔を見詰め、あゝ清吉あーにーいかと寝惚声の挨拶、やい、汝(きさま)は大分好い男児(をとこ)になつたの、紺屋(こうや)の干場へ夢にでも上(のぼ)つたか大層高いものを立てたがつて感応寺の和尚様に胡麻を摺り込むといふ話しだが、其は正気の沙汰か寝惚けてかと冷語(ひやかし)を驀向(まつかう)から与(や)つたところ、ハヽヽ姉御、愚鈍(うすのろ)い奴といふものは正直ではありませんか、何と返事をするかとおもへば、我(わし)も随分骨を折つて胡麻は摺つて居るが、源太親方を対岸に立てゝ居るので何(どう)も胡麻が摺りづらくて困る、親方がのつそり汝(きさま)為(やつ)て見ろよと譲つて呉れゝば好いけれどものうとの馬鹿に虫の好い答へ、ハヽヽ憶ひ出しても、心配相に大真面目くさく云つた其面が可笑くて堪りませぬ、余り可笑いので憎気(にくつけ)も無くなり、箆棒(べらぼう)めと云ひ捨てに別れましたが。其限(それぎ)りか。然(へい)。左様かへ、さあ遅くなる、関はずに行くがよい。左様ならと清吉は自己(おの)が仕事におもむきける、後はひとりで物思ひ、戸外(おもて)では無心の児童(こども)達が独楽戦(こまあて)の遊びに声□喧しく、一人殺しぢや二人殺しぢや、醜態(ざま)を見よ讐(かたき)をとつたぞと号(わめ)きちらす。おもへばこれも順□競争(がたき)の世の状(さま)なり。

       其三

 世に栄え富める人□は初霜月の更衣(うつりかへ)も何の苦慮(くるしみ)なく、紬に糸織に自己(おの)が好き/″\の衣(きぬ)着て寒さに向ふ貧者の心配も知らず、やれ炉開きぢや、やれ口切ぢや、それに間に合ふやう是非とも取り急いで茶室成就(しあげ)よ待合の庇廂(ひさし)繕へよ、夜半のむら時雨も一服やりながらで無うては面白く窓撲つ音を聞き難しとの贅沢いふて、木枯凄じく鐘の音氷るやうなつて来る辛き冬をば愉快(こゝろよ)いものかなんぞに心得らるれど、其茶室の床板(とこいた)削りに鉋(かんな)礪(と)ぐ手の冷えわたり、其庇廂の大和がき結ひに吹きさらされて疝癪も起すことある職人風情は、何(どれ)ほどの悪い業を前の世に為し置きて、同じ時候に他とは違ひ悩め困(くるし)ませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に疎く心好き吾夫(うちのひと)、腕は源太親方さへ去年いろ/\世話して下されし節(をり)に、立派なものぢやと賞められし程確実(たしか)なれど、寛濶(おうやう)の気質(きだて)故に仕事も取り脱(はぐ)り勝で、好い事は毎□(いつも)他(ひと)に奪られ年中嬉しからぬ生活(くらし)かたに日を送り月を迎ふる味気無さ、膝頭の抜けたを辛くも埋め綴つた股引ばかり我が夫に穿かせ置くこと、婦女(をんな)の身としては他人(よそ)の見る眼も羞づかしけれど、何にも彼も貧が為(さ)する不如意に是非のなく、今ま縫ふ猪之が綿入れも洗ひ曝した松坂縞、丹誠一つで着させても着させ栄えなきばかりでなく見とも無いほど針目勝ち、それを先刻は頑是ない幼心といひながら、母様其衣(それ)は誰がのぢや、小いからは我(おれ)の衣服(べゞ)か、嬉いのうと悦んで其儘戸外(おもて)へ駈け出し、珍らしう暖い天気に浮かれて小竿持ち、空に飛び交ふ赤蜻□(あかとんぼ)を撲(はた)いて取らうと何処の町まで行つたやら、嗚呼考へ込めば裁縫(しごと)も厭気になつて来る、せめて腕の半分も吾夫(うちのひと)の気心が働いて呉れたならば斯も貧乏は為まいに、技倆(わざ)はあつても宝の持ち腐れの俗諺(たとへ)の通り、何日(いつ)其手腕(うで)の顕れて万人の眼に止まると云ふことの目的(あて)もない、たゝき大工穴鑿(あなほ)り大工、のつそりといふ忌□しい諢名さへ負せられて同業中(なかまうち)にも軽しめらるゝ歯痒さ恨めしさ、蔭でやきもきと妾が思ふには似ず平気なが憎らしい程なりしが、今度はまた何した事か感応寺に五重塔の建つといふ事聞くや否や、急にむら/\と其仕事を是非為(す)る気になつて、恩のある親方様が望まるゝをも関はず胴慾に、此様な身代の身に引き受けうとは、些(ちと)えら過ぎると連添ふ妾でさへ思ふものを、他人は何んと噂さするであらう、ましてや親方様は定めし憎いのつそりめと怒つてござらう、お吉(きち)様は猶ほ更ら義理知らずの奴めと恨んでござらう、今日は大抵何方(どちら)にか任すと一言上人様の御定めなさる筈とて、今朝出て行かれしが未だ帰られず、何か今度の仕事だけは彼程吾夫は望んで居らるゝとも此方は分に応ぜず、親方には義理もあり旁(かたが)た親方の方に上人様の任さるればよいと思ふやうな気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫に為せて見事成就させたいやうな気持もする、ゑゝ気の揉める、何なる事か、到底(とても)良人(うち)には御任せなさるまいが若もいよ/\吾夫の為る事になつたら、何の様にまあ親方様お吉様の腹立てらるゝか知れぬ、あゝ心配に頭脳(あたま)の痛む、また此が知れたらば女の要らぬ無益(むだ)心配、其故何時も身体の弱いと、有情(やさし)くて無理な叱言(こゞと)を受くるであらう、もう止めましよ止めましよ、あゝ痛、と薄痘痕(うすいも)のある蒼い顔を蹙(しか)めながら即効紙の貼つてある左右の顳□(こめかみ)を、縫ひ物捨てゝ両手で圧へる女の、齢は二十五六、眼鼻立ちも醜からねど美味(うま)きもの食はぬに膩気(あぶらけ)少く肌理(きめ)荒れたる態あはれにて、襤褸衣服(ぼろぎもの)にそゝけ髪ます/\悲しき風情なるが、つく/″\独り歎ずる時しも、台所の劃(しき)りの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と猪之が云ふに吃驚して、汝は何時から其所に居た、と云ひながら見れば、四分板六分板の切端を積んで現然(あり/\)と真似び建てたる五重塔、思はず母親涙になつて、おゝ好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之に抱きつきぬ。

        其四

 当時に有名(なうて)の番匠川越の源太が受負ひて作りなしたる谷中感応寺の、何処に一つ批点を打つべきところ有らう筈なく、五十畳敷格天井(がうてんじやう)の本堂、橋をあざむく長き廻廊、幾部(いくつ)かの客殿、大和尚が居室(ゐま)、茶室、学徒所化(しよけ)の居るべきところ、庫裡(くり)、浴室、玄関まで、或は荘厳を尽し或は堅固を極め、或は清らかに或は寂(さ)びて各□其宜しきに適ひ、結構少しも申し分なし。そも/\微□たる旧基を振ひて箇程(かほど)の大寺を成せるは誰ぞ。法諱(おんな)を聞けば其頃の三歳児(みつご)も合掌礼拝すべきほど世に知られたる宇陀の朗圓上人とて、早くより身延の山に螢雪の苦学を積まれ、中ごろ六十余州に雲水の修行をかさね、毘婆舎那(びばしやな)の三行に寂静(じやくじやう)の慧剣(ゑけん)を礪(と)ぎ、四種の悉檀(しつたん)に済度の法音を響かせられたる七十有余の老和尚、骨は俗界の葷羶(くんせん)を避くるによつて鶴の如くに痩せ、眼(まなこ)は人世の紛紜に厭きて半睡れるが如く、固より壊空(ゑくう)の理を諦(たい)して意欲の火炎(ほのほ)を胸に揚げらるゝこともなく、涅槃(ねはん)の真を会(ゑ)して執着の彩色(いろ)に心を染まさるゝことも無ければ、堂塔を興し伽藍を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕ひ風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、其等のものが雨露凌がん便宜(たより)も旧(もと)のまゝにては無くなりしまゝ、猶少し堂の広くもあれかしなんど独語(つぶや)かれしが根となりて、道徳高き上人の新に規模を大うして寺を建てんと云ひ玉ふぞと、此事八方に伝播(ひろま)れば、中には徒弟の怜悧(りこう)なるが自ら奮つて四方に馳せ感応寺建立に寄附を勧めて行(ある)くもあり、働き顔に上人の高徳を演(の)べ説き聞かし富豪を慫慂(すゝ)めて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに平素(ひごろ)より随喜渇仰の思ひを運べるもの雲霞の如きに此勢をもつてしたれば、上諸侯より下町人まで先を争ひ財を投じて、我一番に福田(ふくでん)へ種子を投じて後の世を安楽(やす)くせんと、富者は黄金白銀を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川(ひやくせん)海に入るごとく瞬く間(ひま)に金銭の驚かるゝほど集りけるが、それより世才に長(た)けたるものの世話人となり用人なり、万事万端執り行ふて頓(やが)て立派に成就しけるとは、聞いてさへ小気味のよき話なり。
 然るに悉皆(しつかい)成就の暁、用人頭の爲右衞門普請諸入用諸雑費一切しめくゝり、手脱(てぬか)る事なく決算したるに尚大金の剰(あま)れるあり。此をば如何になすべきと役僧の圓道もろとも、髪ある頭に髪無き頭突き合はせて相談したれど別に殊勝なる分別も出でず、田地を買はんか畠買はんか、田も畠も余るほど寄附のあれば今更また此浄財を其様な事に費すにも及ばじと思案にあまして、面倒なり好(よき)に計らへと皺枯れたる御声にて云ひたまはんは知れてあれど、恐る/\圓道或時、思さるゝ用途(みち)もやと伺ひしに、塔を建てよと唯一言云はれし限(ぎ)り振り向きも為たまはず、鼈甲縁の大きなる眼鏡の中より微なる眼の光りを放たれて、何の経やら論やらを黙□と読み続けられけるが、いよ/\塔の建つに定つて例の源太に、積り書出せと圓道が命令(いひつ)けしを、知つてか知らずに歟(か)上人様に御目通り願ひたしと、のつそりが来しは今より二月程前なりし。

       其五

 紺とはいへど汗に褪め風に化(かは)りて異な色になりし上、幾度か洗ひ濯(すゝ)がれたるため其としも見えず、襟の記印(しるし)の字さへ朧気となりし絆纏を着て、補綴(つぎ)のあたりし古股引を穿きたる男の、髪は塵埃(ほこり)に塗(まみ)れて白け、面は日に焼けて品格(ひん)なき風采(やうす)の猶更品格なきが、うろ/\のそ/\と感応寺の大門を入りにかゝるを、門番尖り声で何者ぞと怪み誰何(たゞ)せば、吃驚して暫時(しばらく)眼を見張り、漸く腰を屈めて馬鹿丁寧に、大工の十兵衞と申しまする、御普請につきまして御願に出ました、とおづ/\云ふ風態(そぶり)の何となく腑には落ちねど、大工とあるに多方源太が弟子かなんぞの使ひに来りしものならむと推察(すゐ)して、通れと一言押柄(あふへい)に許しける。
 十兵衞これに力を得て、四方(あたり)を見廻はしながら森厳(かう/″\)しき玄関前にさしかゝり、御頼申(おたのまを)すと二三度いへば鼠衣の青黛頭(せいたいあたま)、可愛らしき小坊主の、応(おゝ)と答へて障子引き開けしが、応接に慣れたるものの眼捷(ばや)く人を見て、敷台までも下りず突立ちながら、用事なら庫裡の方へ廻れ、と情無(つれな)く云ひ捨てゝ障子ぴつしやり、後は何方(どこ)やらの樹頭(き)に啼く鵯(ひよ)の声ばかりして音もなく響きもなし。成程と独言しつゝ十兵衞庫裡にまはりて復案内を請へば、用人爲右衞門仔細らしき理屈顔して立出で、見なれぬ棟梁殿、何所(いづく)より何の用事で見えられた、と衣服(みなり)の粗末なるに既(はや)侮り軽しめた言葉遣ひ、十兵衞さらに気にもとめず、野生(わたくし)は大工の十兵衞と申すもの、上人様の御眼にかゝり御願ひをいたしたい事のあつてまゐりました、どうぞ御取次ぎ下されまし、と首(かうべ)を低くして頼み入るに、爲右衞門ぢろりと十兵衞が垢臭き頭上(あたま)より白の鼻緒の鼠色になつた草履穿き居る足先まで睨め下し、ならぬ、ならぬ、上人様は俗用に御関りはなされぬは、願といふは何か知らねど云ふて見よ、次第によりては我が取り計ふて遣る、と然(さ)も/\万事心得た用人めかせる才物ぶり。それを無頓着の男の質朴(ぶきよう)にも突き放して、いゑ、ありがたうはござりますれど上人様に直□で無うては、申しても役に立ちませぬ事、何卒たゞ御取次を願ひまする、と此方の心が醇粋(いつぽんぎ)なれば先方(さき)の気に触る言葉とも斟酌せず推返し言へば、爲右衞門腹には我を頼まぬが憎くて慍(いか)りを含み、理(わけ)の解らぬ男ぢやの、上人様は汝(きさま)ごとき職人等に耳は仮したまはぬといふに、取次いでも無益(むやく)なれば我が計ふて得させんと、甘く遇(あしら)へば附上る言分、最早何も彼も聞いてやらぬ、帰れ帰れ、と小人の常態(つね)とて語気たちまち粗暴(あら)くなり、謬(にべ)なく言ひ捨て立んとするに周章(あわ)てし十兵衞、ではござりませうなれど、と半分いふ間なく、五月蠅、喧しいと打消され、奥の方に入られて仕舞ふて茫然(ぼんやり)と土間に突立つたまゝ掌(て)の裏(うち)の螢に脱去(ぬけ)られし如き思ひをなしけるが、是非なく声をあげて復案内を乞ふに、口ある人の有りや無しや薄寒き大寺の岑閑(しんかん)と、反響(ひゞき)のみは我が耳に堕ち来れど咳声(しはぶき)一つ聞えず、玄関にまはりて復頼むといへば、先刻(さき)見たる憎気な怜悧小僧(こばうず)の一寸顔出して、庫裡へ行けと教へたるに、と独語(つぶや)きて早くも障子ぴしやり。
 復庫裡に廻り復玄関に行き、復玄関に行き庫裡に廻り、終には遠慮を忘れて本堂にまで響く大声をあげ、頼む/\御頼申すと叫べば、其声(それ)より大(でか)き声を発(いだ)して馬鹿めと罵りながら爲右衞門づか/\と立出で、僮僕(をとこ)ども此狂漢(きちがひ)を門外に引き出せ、騒□しきを嫌ひたまふ上人様に知れなば、我等が此奴のために叱らるべしとの下知、心得ましたと先刻より僕人(をとこ)部屋に転がり居し寺僕(をとこ)等立かゝり引き出さんとする、土間に坐り込んで出されじとする十兵衞。それ手を取れ足を持ち上げよと多勢口□に罵り騒ぐところへ、後園の花二枝三枝剪(はさ)んで床の眺めにせんと、境内彼方此方逍遙されし朗圓上人、木蘭色(もくらんじき)の無垢を着て左の手に女郎花桔梗、右の手に朱塗(しゆ)の把りの鋏持たせられしまゝ、図らず此所に来かゝりたまひぬ。

       其六

 何事に罵り騒ぐぞ、と上人が下したまふ鶴の一声の御言葉に群雀の輩(ともがら)鳴りを歇(とゞ)めて、振り上げし拳を蔵(かく)すに地(ところ)なく、禅僧の問答に有りや有りやと云ひかけしまゝ一喝されて腰の折(くだ)けたる如き風情なるもあり、捲り縮めたる袖を体裁(きまり)悪げに下して狐鼠□□(こそ/\)と人の後に隠るゝもあり。天を仰げる鼻の孔より火烟も噴べき驕慢の怒に意気昂ぶりし爲右衞門も、少しは慚(は)ぢてや首を俛(た)れ掌(て)を揉みながら、自己(おのれ)が発頭人なるに是非なく、有し次第を我田に水引き/\申し出れば、痩せ皺びたる顔に深く長く痕(つ)いたる法令の皺溝(すぢ)をひとしほ深めて、につたりと徐(ゆるや)かに笑ひたまひ、婦女(をんな)のやうに軽く軟かな声小さく、それならば騒がずともよいこと、爲右衞門汝(そなた)がたゞ従順(すなほ)に取り次さへすれば仔細は無うてあらうものを、さあ十兵衞殿とやら老衲(わし)について此方へ可来(おいで)、とんだ気の毒な目に遇はせました、と万人に尊敬(うやま)ひ慕はるゝ人は又格別の心の行き方、未学を軽んぜず下司をも侮らず、親切に温和(ものやさ)しく先に立て静に導きたまふ後について、迂濶な根性にも慈悲の浸み透れば感涙とゞめあへぬ十兵衞、段□と赤土のしつとりとしたるところ、飛石の画趣(ゑごゝろ)に布(しか)れあるところ、梧桐の影深く四方竹の色ゆかしく茂れるところなど□(めぐ)り繞(めぐ)り過ぎて、小(さゝ)やかなる折戸を入れば、花も此といふはなき小庭の唯ものさびて、有楽形(うらくがた)の燈籠に松の落葉の散りかゝり、方星宿(はうせいしゆく)の手水鉢に苔の蒸せるが見る眼の塵をも洗ふばかりなり。
 上人庭下駄脱ぎすてゝ上にあがり、さあ汝(そなた)も此方へ、と云ひさして掌に持たれし花を早速(さそく)に釣花活に投げこまるゝにぞ、十兵衞なか/\怯(おめ)ず臆せず、手拭で足はたくほどの事も気のつかぬ男とて為すことなく、草履脱いでのつそりと三畳台目の茶室に入りこみ、鼻突合はすまで上人に近づき坐りて黙□と一礼する態は、礼儀に嫻(なら)はねど充分に偽飾(いつはり)なき情(こゝろ)の真実(まこと)をあらはし、幾度か直にも云ひ出んとして尚開きかぬる口を漸くに開きて、舌の動きもたど/\しく、五重の塔の、御願に出ましたは五重の塔のためでござります、と藪から棒を突き出したやうに尻もつたてゝ声の調子も不揃に、辛くも胸にあることを額やら腋の下の汗と共に絞り出せば、上人おもはず笑を催され、何か知らねど老衲(わし)をば怖いものなぞと思はず、遠慮を忘れて緩(ゆる)りと話をするがよい、庫裡の土間に坐り込うで動かずに居た様子では、何か深う思ひ詰めて来たことであらう、さあ遠慮を捨てゝ急かずに、老衲をば朋友(ともだち)同様におもふて話すがよい、と飽くまで慈(やき)しき注意(こゝろぞへ)。十兵衞脆くも梟と常□悪口受くる銅鈴眼(すゞまなこ)に既(はや)涙を浮めて、唯(はい)、唯、唯ありがたうござりまする、思ひ詰めて参上(まゐ)りました、その五重の塔を、斯様いふ野郎でござります、御覧の通り、のつそり十兵衞と口惜い諢名(あだな)をつけられて居る奴(やつこ)でござりまする、然し御上人様、真実(ほんと)でござりまする、工事(しごと)は下手ではござりませぬ、知つて居ります私しは馬鹿でござります、馬鹿にされて居ります、意気地の無い奴でござります、虚誕(うそ)はなか/\申しませぬ、御上人様、大工は出来ます、大隅流(おほすみりう)は童児(こども)の時から、後藤立川二ツの流義も合点致して居りまする、為(さ)せて、五重塔の仕事を私に為せていたゞきたい、それで参上(まゐり)ました、川越の源太様が積りをしたとは五六日前聞きました、それから私は寐ませぬは、御上人様、五重塔は百年に一度一生に一度建つものではござりませぬ、恩を受けて居ります源太様の仕事を奪(と)りたくはおもひませぬが、あゝ賢い人は羨ましい、一生一度百年一度の好い仕事を源太様は為るゝ、死んでも立派に名を残さるゝ、あゝ羨ましい羨ましい、大工となつて生てゐる生甲斐もあらるゝといふもの、それに引代へ此十兵衞は、鑿(のみ)手斧(てうな)もつては源太様にだとて誰にだとて、打つ墨縄の曲ることはあれ万が一にも後れを取るやうな事は必ず/\無いと思へど、年が年中長屋の羽目板(はめ)の繕ひやら馬小屋箱溝の数仕事、天道様が智慧といふものを我(おれ)には賜(くだ)さらない故仕方が無いと諦めて諦めても、拙(まづ)い奴等が宮を作り堂を受負ひ、見るものの眼から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを築造(こしら)へたを見るたびごとに、内□自分の不運を泣きますは、御上人様、時□は口惜くて技倆(うで)もない癖に智慧ばかり達者な奴が憎くもなりまするは、御上人様、源太様は羨ましい、智慧も達者なれば手腕(うで)も達者、あゝ羨ましい仕事をなさるか、我(おれ)はよ、源太様はよ、情無い此我はよと、羨ましいがつひ高(かう)じて女房(かゝ)にも口きかず泣きながら寐ました其夜の事、五重塔を汝(きさま)作れ今直つくれと怖しい人に吩附(いひつ)けられ、狼狽(うろたへ)て飛び起きさまに道具箱へ手を突込んだは半分夢で半分現(うつゝ)、眼が全く覚めて見ますれば指の先を鐔鑿(つばのみ)につつかけて怪我をしながら道具箱につかまつて、何時の間にか夜具の中から出て居た詰らなさ、行燈(あんどん)の前につくねんと坐つて嗚呼情無い、詰らないと思ひました時の其心持、御上人様、解りまするか、ゑゝ、解りまするか、これだけが誰にでも分つて呉れゝば塔も建てなくてもよいのです、どうせ馬鹿なのつそり十兵衞は死んでもよいのでござりまする、腰抜鋸(のこ)のやうに生て居たくもないのですは、其夜(それ)からといふものは真実(ほんと)、真実でござりまする上人様、晴れて居る空を見ても燈光(あかり)の達(とゞ)かぬ室(へや)の隅の暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬつと突立つて私を見下して居りまするは、とう/\自分が造りたい気になつて、到底(とても)及ばぬとは知りながら毎日仕事を終ると直に夜を籠めて五十分一の雛形をつくり、昨夜で丁度仕上げました、見に来て下され御上人様、頼まれもせぬ仕事は出来て仕たい仕事は出来ない口惜さ、ゑゝ不運ほど情無いものはないと私(わし)が歎けば御上人様、なまじ出来ずば不運も知るまいと女房(かゝ)めが其雛形(それ)をば揺り動かしての述懐、無理とは聞えぬだけに余計泣きました、御上人様御慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下され、拝みます、こゝ此通り、と両手を合せて頭を畳に、涙は塵を浮べたり。

        其七

 木彫の羅漢のやうに黙□と坐りて、菩提樹の実の珠数(ずゞ)繰りながら十兵衞が埒なき述懐に耳を傾け居られし上人、十兵衞が頭を下ぐるを制しとゞめて、了解(わか)りました、能く合点が行きました、あゝ殊勝な心掛を持つて居らるゝ、立派な考へを蓄へてゐらるゝ、学徒どもの示しにも為たいやうな、老衲(わし)も思はず涙のこぼれました、五十分一の雛形とやらも是非見にまゐりませう、然し汝に感服したればとて今直に五重の塔の工事(しごと)を汝に任するはと、軽忽(かるはずみ)なことを老衲の独断(ひとりぎめ)で云ふ訳にもならねば、これだけは明瞭(はつきり)とことわつて置きまする、いづれ頼むとも頼まぬとも其は表立つて、老衲からではなく感応寺から沙汰を為ませう、兎も角も幸ひ今日は閑暇(ひま)のあれば汝が作つた雛形を見たし、案内して是より直に汝が家へ老衲を連れて行ては呉れぬか、と毫(すこし)も辺幅(やうだい)を飾らぬ人の、義理(すぢみち)明かに言葉渋滞(しぶり)なく云ひたまへば、十兵衞満面に笑を含みつゝ米春(つ)くごとく無暗に頭を下げて、唯(はい)、唯、唯と答へ居りしが、願ひを御取上げ下されましたか、あゝ有難うござりまする、野生(わたくし)の宅(うち)へ御来臨(おいで)下さりますると、あゝ勿体ない、雛形は直に野生めが持つてまゐりまする、御免下され、と云ひさま流石ののつそりも喜悦に狂して平素(つね)には似ず、大袈裟に一つぽつくりと礼をばするや否や、飛石に蹴躓きながら駈け出して我家に帰り、帰つたと一言女房にも云はず、いきなりに雛形持ち出して人を頼み、二人して息せき急ぎ感応寺へと持ち込み、上人が前にさし置きて帰りけるが、上人これを熟視(よくみ)たまふに、初重より五重までの配合(つりあひ)、屋根庇廂の勾配、腰の高さ、椽木(たるき)の割賦(わりふり)、九輪請花露盤宝珠(くりんうけばなろばんはうじゆ)の体裁まで何所に可厭(いや)なるところもなく、水際立つたる細工ぶり、此が彼不器用らしき男の手にて出来たるものかと疑はるるほど巧緻(たくみ)なれば、独り私(ひそか)に歎じたまひて、箇程の技倆を有ちながら空しく埋もれ、名を発せず世を経るものもある事か、傍眼(わきめ)にさへも気の毒なるを当人の身となりては如何に口惜きことならむ、あはれ如是(かゝる)ものに成るべきならば功名(てがら)を得させて、多年抱ける心願(こゝろだのみ)に負(そむ)かざらしめたし、草木とともに朽て行く人の身は固より因縁仮和合(いんねんけわがふ)、よしや惜むとも惜みて甲斐なく止めて止まらねど、仮令(たとへ)ば木匠(こだくみ)の道は小なるにせよ其に一心の誠を委ね生命を懸けて、慾も大概(あらまし)は忘れ卑劣(きたな)き念(おもひ)も起さず、唯只鑿をもつては能く穿(ほ)らんことを思ひ、鉋(かんな)を持つては好く削らんことを思ふ心の尊さは金にも銀にも比(たぐ)へ難きを、僅に残す便宜(よすが)も無くて徒らに北□(ほくばう)の土に没(うづ)め、冥途(よみぢ)の苞(つと)と齎し去らしめんこと思へば憫然(あはれ)至極なり、良馬主(しゆう)を得ざるの悲み、高士世に容れられざるの恨みも詮ずるところは異(かは)ることなし、よし/\、我図らずも十兵衞が胸に懐ける無価の宝珠の微光を認めしこそ縁なれ、此度(こたび)の工事を彼に命(いひつ)け、せめては少しの報酬(むくい)をば彼が誠実(まこと)の心に得させんと思はれけるが、不図思ひよりたまへば川越の源太も此工事を殊の外に望める上、彼には本堂庫裏(くり)客殿作らせし因みもあり、然も設計予算(つもりがき)まで既(はや)做(な)し出して我眼に入れしも四五日前なり、手腕(うで)は彼とて鈍きにあらず、人の信用(うけ)は遙に十兵衞に超たり。一ツの工事に二人の番匠、此にも為せたし彼にも為せたし、那箇(いづれ)にせんと上人も流石これには迷はれける。

       其八

 明日辰の刻頃までに自身当寺へ来るべし、予て其方工事仰せつけられたきむね願ひたる五重塔の儀につき、上人直接(ぢき)に御話示(おはなし)あるべきよしなれば、衣服等失礼なきやう心得て出頭せよと、厳格(おごそか)に口上を演ぶるは弁舌自慢の圓珍とて、唐辛子をむざと嗜(たしな)み食(くら)へる崇り鼻の頭(さき)にあらはれたる滑稽納所(おどけなつしよ)。平日(ふだん)ならば南蛮和尚といへる諢名を呼びて戯談口きゝ合ふべき間なれど、本堂建立中朝夕顔を見しより自然(おのづ)と狎(な)れし馴染みも今は薄くなりたる上、使僧らしう威儀をつくろひて、人さし指中指の二本でやゝもすれば兜背形(とつぱいなり)の頭顱(あたま)の頂上(てつぺん)を掻く癖ある手をも法衣(ころも)の袖に殊勝くさく隠蔽(かく)し居るに、源太も敬ひ謹んで承知の旨を頭下つゝ答へけるが、如才なきお吉は吾夫をかゝる俗僧(づくにふ)にまで好く評(い)はせんとてか帰り際に、出したまゝにして行く茶菓子と共に幾干銭(いくら)か包み込み、是非にといふて取らせけるは、思へば怪しからぬ布施の仕様なり。圓珍十兵衞が家にも詣(いた)りて同じ事を演べ帰りけるが、扨(さて)其翌日となれば源太は鬚(ひげ)剃り月代(さかやき)して衣服をあらため、今日こそは上人の自ら我に御用仰せつけらるゝなるべけれと勢込んで、庫裏より通り、とある一ト間に待たされて坐を正しくし扣(ひか)へける。
 態(さま)こそ異れ十兵衞も心は同じ張を有ち、導かるゝまゝ打通りて、人気の無きに寒さ湧く一室(ひとま)の中に唯一人兀然(つくねん)として、今や上人の招びたまふか、五重の塔の工事(しごと)一切汝に任すと命令(いひつけ)たまふか、若し又我には命じたまはず源太に任すと定めたまひしを我にことわるため招ばれしか、然(さう)にもあらば何とせん、浮むよしなき埋れ木の我が身の末に花咲かむ頼みも永く無くなるべし、唯願はくは上人の我が愚※(おろか)[#「(章+(攵/貢))/心」、66-上-14]しきを憐みて我に命令たまはむことをと、九尺二枚の唐襖に金鳳銀凰(きんほうぎんわう)翔(かけ)り舞ふ其箔模様の美しきも眼に止めずして、茫□と暗路(やみぢ)に物を探るごとく念想(おもひ)を空に漂はすこと良(やゝ)久しきところへ、例の怜悧気な小僧(こばうず)いで来りて、方丈さまの召しますほどに此方へおいでなされまし、と先に立つて案内すれば、素破(すは)や願望(のぞみ)の叶ふとも叶はざるとも定まる時ぞと魯鈍(おろか)の男も胸を騒がせ、導かるゝまゝ随ひて一室の中へずつと入る、途端に此方をぎろりつと見る眼鋭く怒を含むで斜に睨むは思ひがけなき源太にて、座に上人の影もなし。事の意外に十兵衞も足踏みとめて突立つたるまゝ一言もなく白眼(にらみ)合ひしが、是非なく畳二ひらばかりを隔てしところに漸く坐り、力なげ首悄然(しを/\)と己れが膝に気勢(いきほひ)のなきたさうなる眼を注ぎ居るに引き替へ、源太郎は小狗(こいぬ)を瞰下(みおろ)す猛鷲(あらわし)の風に臨んで千尺の巌の上に立つ風情、腹に十分の強みを抱きて、背をも屈げねば肩をも歪めず、すつきり端然(しやん)と構へたる風姿(やうだい)と云ひ面貌(きりやう)といひ水際立つたる男振り、万人が万人とも好かずには居られまじき天晴小気味のよき好漢(をとこ)なり。
 されども世俗の見解(けんげ)には堕ちぬ心の明鏡に照らして彼れ此れ共に愛し、表面(うはべ)の美醜に露泥(なづ)まれざる上人の却つて何れをとも昨日までは択びかねられしが、思ひつかるゝことのありてか今日はわざ/\二人を招び出されて一室に待たせ置かれしが、今しも静□居間を出られ、畳踏まるゝ足も軽く、先に立つたる小僧(こばうず)が襖明、額の皺の幾条の溝には沁出(にじみ)し熱汗(あせ)を湛へ、鼻の顔(さき)にも珠をくる後より、すつと入りて座につきたまへば、二人は恭(うやま)ひ敬(つゝし)みて共に斉しく頭を下げ、少時上げも得せざりしが、嗚呼いぢらしや十兵衞が辛くも上げし面には、未だ世馴れざる里の子の貴人の前に出しやうに羞(はぢ)を含みて紅潮(さ)し湧かせば腋の下には雨なるべし。膝に載(お)きたる骨太の掌指(ゆび)は枯れたる松枝(まつがえ)ごとき岩畳作りにありながら、一本ごとに其さへも戦□(わな/\)顫へて一心に唯上人の一言を一期(いちご)の大事と待つ笑止さ。
 源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ、那方(どちら)を那方と判かぬる、二人の情(こゝろ)を汲みて知る上人もまた中□に口を開かん便宜(よすが)なく、暫時は静まりかへられしが、源太十兵衞ともに聞け、今度建つべき五重塔は唯一ツにて建てんといふは汝達二人、二人の願ひを双方とも聞き届けては遣りたけれど、其は固より叶ひがたく、一人に任さば一人の歎き、誰に定めて命(いひつ)けんといふ標準(きめどころ)のあるではなし、役僧用人等の分別にも及ばねば老僧(わし)が分別にも及ばぬほどに、此分別は汝達の相談に任す、老僧は関はぬ、汝達の相談の纏まりたる通り取り上げて与(や)るべければ、熟く家に帰つて相談して来よ、老僧が云ふべき事は是ぎりぢやによつて左様心得て帰るがよいぞ、さあ確と云ひ渡したぞ、既早(もはや)帰つてもよい、然し今日は老僧も閑暇(ひま)で退屈なれば茶話しの相手になつて少時居てくれ、浮世の噂なんど老衲に聞かせて呉れぬか、其代り老僧も古い話しの可笑なを二ツ三ツ昨日見出したを話して聞かさう、と笑顔やさしく、朋友(ともだち)かなんぞのやうに二人をあしらふて、扨何事を云ひ出さるゝやら。

       其九

 小僧(こばうず)が将(も)つて来し茶を上人自ら汲み玉ひて侑(すゝ)めらるれば、二人とも勿体ながりて恐れ入りながら頂戴するを、左様遠慮されては言葉に角が取れいで話が丸う行かぬは、さあ菓子も挟んではやらぬから勝手に摘んで呉れ、と高坏(たかつき)推遣りて自らも天目取り上げ喉を湿(うるほ)したまひ、面白い話といふも桑門(よすてびと)の老僧等には左様沢山無いものながら、此頃読んだ御経の中につく/″\成程と感心したことのある、聞いて呉れ此様いふ話しぢや、むかし某(ある)国の長者が二人の子を引きつれて麗かな天気の節(をり)に、香のする花の咲き軟かな草の滋(しげ)つて居る広野を愉快(たのし)げに遊行(ゆきやう)したところ、水は大分に夏の初め故涸(か)れたれど猶清らかに流れて岸を洗ふて居る大きな川に出逢(いであ)ふた、其川の中には珠のやうな小磧(こいし)やら銀のやうな砂で成(でき)て居る美しい洲のあつたれば、長者は興に乗じて一尋ばかりの流を無造作に飛び越え、彼方此方を見廻せば、洲の後面(うしろ)の方もまた一尋ほどの流で陸と隔てられたる別世界、全然(まるで)浮世の腥羶(なまぐさ)い土地(つち)とは懸絶れた清浄の地であつたまま独り歓び喜んで踊躍(ゆやく)したが、渉らうとしても渉り得ない二人の児童(こども)が羨ましがつて喚(よ)び叫ぶを可憐(あはれ)に思ひ、汝達には来ることの出来ぬ清浄の地であるが、然程に来たくば渡らして与(や)るほどに待つて居よ、見よ/\我が足下の此磧は一□蓮華の形状(かたち)をなし居る世に珍しき磧なり、我が眼の前の此砂は一□五金の光を有てる比類(たぐひ)稀なる砂なるぞと説き示せば、二人は遠眼にそれを見ていよ/\焦操(あせ)り渡らうとするを、長者は徐(しづか)に制しながら、洪水(おほみづ)の時にても根こぎになつたるらしき棕櫚の樹の一尋余りなを架渡して橋として与つたに、我が先へ汝(そなた)は後にと兄弟争ひ鬩(せめ)いだ末、兄は兄だけ力強く弟を終に投げ伏せて我意の勝を得たに誇り高ぶり、急ぎ其橋を渡りかけ半途(なかば)に漸く到りし時、弟は起き上りさま口惜さに力を籠めて橋を盪(うご)かせば兄は忽ち水に落ち、苦しみ□いて洲に達せしが、此時弟は既(はや)其橋を難なく渡り超えかくるを見るより兄も其橋の端を一揺り揺り動せば、固より丸木の橋なる故弟も堪らず水に落ち、僅に長者の立つたるところへ濡れ滴りて這ひ上つた、爾時(そのとき)長者は歎息して、汝達には何と見ゆる、今汝等が足踏みかけしより此洲は忽然(たちまち)前と異なり、磧は黒く醜くなり沙(すな)は黄ばめる普通(つね)の沙となれり、見よ/\如何にと告げ知らするに二人は驚き、眼(まなこ)を□(みは)りて見れば全く父の言葉に少しも違はぬ沙磧、あゝ如是(かゝる)もの取らんとて可愛き弟を悩せしか、尊き兄を溺らせしかと兄弟共に慚ぢ悲みて、弟の袂を兄は絞り兄の衣裾(もすそ)を弟は絞りて互ひに恤(いた)はり慰めけるが、彼橋をまた引き来りて洲の後面(うしろ)なる流れに打ちかけ、既(はや)此洲には用なければ尚も彼方に遊び歩かん、汝達先づこれを渡れと、長者の言葉に兄弟は顔を見合ひて先刻には似ず、兄上先に御渡りなされ、弟よ先に渡るがよいと譲合ひしが、年順なれば兄先づ渡る其時に、転びやすきを気遣ひて弟は端を揺がぬやう確と抑ゆる、其次に弟渡れば兄もまた揺がぬやうに抑へやり、長者は苦なく飛び越えて、三人ともに最(いと)長閑(のどけ)く徐(そゞろ)に歩む其中に、兄が図らず拾ひし石を弟が見れば美しき蓮華の形をなせる石、弟が摘み上げたる砂を兄が覗けば眼も眩く五金の光を放ちて居たるに、兄弟とも/″\歓喜(よろこ)び楽み、互に得たる幸福(しあはせ)を互に深く讃歎し合ふ、爾時(そのとき)長者は懐中(ふところ)より真実の璧(たま)の蓮華を取り出し兄に与へて、弟にも真実の砂金を袖より出して大切(だいじ)にせよと与へたといふ、話して仕舞へば小供欺しのやうぢやが仏説に虚言(うそ)は無い、小児(こども)欺しでは決してない、噛みしめて見よ味のある話しではないか、如何ぢや汝等(そなたたち)にも面白いか、老僧(わし)には大層面白いが、と軽く云はれて深く浸む、譬喩方便も御胸の中に有たるゝ真実から。源太十兵衞二人とも顔見合せて茫然たり。

        其十

 感応寺よりの帰り道、半分は死んだやうになつて十兵衞、どんつく布子(ぬのこ)の袖組み合はせ、腕拱きつゝ迂濶(うか)□□(/\)歩き、御上人様の彼様(あゝ)仰やつたは那方(どちら)か一方おとなしく譲れと諭しの謎□とは、何程愚鈍(おろか)な我(おれ)にも知れたが、嗚呼譲りたく無いものぢや、折角丹誠に丹誠凝らして、定めし冷て寒からうに御寝みなされと親切で為て呉るゝ女房(かゝ)の世話までを、黙つて居よ余計なと叱り飛ばして夜の眼も合さず、工夫に工夫を積み重ね、今度といふ今度は一世一代、腕一杯の物を建てたら死んでも恨は無いとまで思ひ込んだに、悲しや上人様の今日の御諭し、道理には違ひない左様も無ければならぬ事ぢやが、此を譲つて何時また五重塔の建つといふ的(あて)のあるではなし、一生到底(とても)此十兵衞は世に出ることのならぬ身か、嗚呼情無い恨めしい、天道様が恨めしい、尊い上人様の御慈悲は充分了つて居て露ばかりも難有う無は思はぬが、吁(あゝ)何(どう)にも彼(かう)にもならぬことぢや、相手は恩のある源太親方、それに恨の向けやうもなし、何様しても彼様しても温順(すなほ)に此方(こち)の身を退くより他に思案も何もない歟、嗚呼無い歟、といふて今更残念な、なまじ此様な事おもひたゝずに、のつそりだけで済して居たらば此様に残念な苦悩(おもひ)もすまいものを、分際忘れた我(おれ)が悪かつた、嗚呼我が悪い、我が悪い、けれども、ゑゝ、けれども、ゑゝ、思ふまい/\、十兵衞がのつそりで浮世の怜悧(りこう)な人等(たち)の物笑ひになつて仕舞へばそれで済むのぢや、連添ふ女房にまでも内□活用(はたらき)の利かぬ夫ぢやと喞(かこた)れながら、夢のやうに生きて夢のやうに死んで仕舞へば夫で済む事、あきらめて見れば情無い、つく/″\世間が詰らない、あんまり世間が酷(むご)過ぎる、と思ふのも矢張愚痴か、愚痴か知らねど情無過ぎるが、言はず語らず諭された上人様の彼御言葉の真実のところを味はへば、飽まで御慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透つて未練な愚痴の出端(でば)も無い訳、争ふ二人を何方にも傷つかぬやう捌(さば)き玉ひ、末の末まで共に好かれと兄弟の子に事寄せて尚(たふと)い御経を解きほぐして、噛んで含めて下さつた彼御話に比べて見れば固より我は弟の身、ひとしほ他(ひと)に譲らねば人間(ひと)らしくも無いものになる、嗚呼弟とは辛いものぢやと、路も見分かで屈托の眼(まなこ)は涙(なんだ)に曇りつゝ、とぼ/\として何一ツ愉快(たのしみ)もなき我家の方に、糸で曳かるゝ木偶(でく)のやうに我を忘れて行く途中、此馬鹿野郎発狂漢(きちがひ)め、我(ひと)の折角洗つたものに何する、馬鹿めと突然(だしめけ)に噛つく如く罵られ、癇張声に胆を冷してハッと思へば瓦落離(ぐわらり)顛倒、手桶枕に立てかけありし張物板に、我知らず一足二足踏みかけて踏み覆したる不体裁(ざまのな)さ。
 尻餅ついて驚くところを、狐憑(つき)め忌□しい、と駄力ばかりは近江のお兼、顔は子供の福笑戯(ふくわらひ)に眼を付け歪めた多福面(おかめ)の如き房州出らしき下稗(おさん)の憤怒、拳を挙げて丁と打ち猿臂(ゑんぴ)を伸ばして突き飛ばせば、十衞兵堪らず汚塵(ほこり)に塗(まみ)れ、はい/\、狐に誑(つま)まれました御免なされ、と云ひながら悪口雑言聞き捨に痛さを忍びて逃げ走り、漸く我家に帰りつけば、おゝ御帰りか、遅いので如何いふ事かと案じて居ました、まあ塵埃まぶれになつて如何(どう)なされました、と払ひにかかるを、構ふなと一言、気の無ささうな声で打消す。其顔を覗き込む女房の真実心配さうなを見て、何か知らず無性に悲しくなつてぢつと湿(うるみ)のさしくる眼、自分で自分を叱るやうに、ゑゝと図らず声を出し、煙草を捻つて何気なくもてなすことはもてなすものゝ言葉も無し。平時(つね)に変れる状態(ありさま)を大方それと推察(すゐ)して扨慰むる便(すべ)もなく、問ふてよきやら問はぬが可きやら心にかゝる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつゝ、其一本は杉箸で辛くも用を足す火箸に挟んで添へる消炭の、あはれ甲斐なき火力(ちから)を頼り土瓶の茶をば温(ぬく)むるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰つて来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見て呉れ、と然(さ)も勇ましく障子を明けて褒められたさが一杯に罪無く莞爾(にこり)と笑ひながら、指さし示す塔の模形(まねかた)。母は襦袢の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衞涙に浮くばかりの円(つぶら)の眼を剥き出し、□(まじろ)ぎもせでぐいと睨めしが、おゝ出来(でか)した出来した、好く出来た、褒美を与らう、ハッハヽヽと咽び笑ひの声高く屋の棟にまで響かせしが、其まゝ頭を天に対はし、嗚呼、弟とは辛いなあ。

       其十一

 格子開くる響爽かなること常の如く、お吉、今帰つた、と元気よげに上り来る夫の声を聞くより、心配を輪に吹き/\吸て居し煙草管(きせる)を邪見至極に抛り出して忙はしく立迎へ、大層遅かつたではないか、と云ひつゝ背面(うしろ)へ廻つて羽織を脱せ、立ながら腮(あご)に手伝はせての袖畳み小早く室隅(すみ)の方に其儘さし置き、火鉢の傍へ直また戻つて火急(たちまち)鉄瓶に松虫の音を発(おこ)させ、むづと大胡坐かき込み居る男の顔を一寸見しなに、日は暖かでも風が冷く途中は随分寒(ひえ)ましたろ、一瓶(ひとつ)煖酒(つけ)ましよか、と痒いところへ能く届かす手は口をきく其間(ひま)に、がたぴしさせず膳ごしらへ、三輪漬は柚(ゆ)の香ゆかしく、大根卸(おろし)で食はする□卵(はらゝご)は無造作にして気が利たり。
 源太胸には苦慮(おもひ)あれども幾干(いくら)か此に慰められて、猪口把りさまに二三杯、後一杯を漫(ゆる)く飲んで、汝(きさま)も飲(や)れと与ふれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの海苔畳み折つて、追付三子(さんこ)の来さうなもの、と魚屋の名を独語しつ、猪口を返して酌せし後、上□吉と腹に思へば動かす舌も滑かに、それはさうと今日の首尾は、大丈夫此方のものとは極めて居ても、知らせて下さらぬ中は無益(むだ)な苦労を妾は為ます、お上人様は何と仰せか、またのつそり奴は如何なつたか、左様真面目顔でむつつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云はれて源太は高笑ひ。案じて貰ふ事は無い、御慈悲の深い上人様は何(ど)の道我(おれ)を好漢(いゝをとこ)にして下さるのよ、ハヽヽ、なあお吉、弟を可愛がれば好い兄(あにき)ではないか、腹の饑(へ)つたものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、他(ひと)の怖いことは一厘無いが強いばかりが男児(をとこ)では無いなあ、ハヽヽ、じつと堪忍(がまん)して無理に弱くなるのも男児だ、嗚呼立派な男児だ、五重塔は名誉の工事(しごと)、たゞ我一人で物の見事に千年壊れぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も智慧も寸分交(ま)ぜず川越の源太が手腕だけで遺したいが、嗚呼癇癪を堪忍するのが、ゑゝ、男児だ、男児だ、成程好い男児だ、上人様に虚言は無い、折角望みをかけた工事を半分他に呉るのはつく/″\忌□しけれど、嗚呼、辛いが、ゑゝ兄(あにき)だ、ハヽヽ、お吉、我はのつそりに半口与つて二人で塔を建てやうとおもふは、立派な弱い男児か、賞めて呉れ賞めて呉れ、汝(きさま)にでも賞めて貰はなくては余り張合ひの無い話しだ、ハヽヽと嬉しさうな顔もせで意味の無い声ばかりはづませて笑へば、お吉は夫の気を量りかね、上人様が何と仰やつたか知らぬが妾にはさつぱり分らず些(ちつと)も面白くない話し、唐偏朴の彼(あの)のつそりめに半口与るとは何いふ訳、日頃の気性にも似合はない、与るものならば未練気なしに悉皆(すつかり)与つて仕舞ふが好いし、固より此方で取る筈なれば要りもせぬ助太刀頼んで、一人の首を二人で切る様な卑劣(けち)なことをするにも当らないではありませぬか、冷水で洗つたやうな清潔(きれい)な腹を有つて居ると他にも云はれ自分でも常□云ふて居た汝(おまへ)が、今日に限つて何といふ煮切ない分別、女の妾から見ても意地の足らない愚図□□思案、賞めませぬ賞めませぬ、何(どう)して中□賞められませぬ、高が相手は此方(こち)の恩を受けて居るのつそり奴、一体ならば此方の仕事を先潜りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬやうに為れば成るのつそり奴を、左様甘やかして胸の焼ける連名工事(れんみやうしごと)を何で為るに当る筈のあらうぞ、甘いばかりが立派の事か、弱いばかりが好い男児か、妾の虫には受け取れませぬ、何なら妾が一ト走りのつそり奴のところに行つて、重□恐れ入りましたと思ひ切らせて謝罪(あやま)らせて両手を突かせて来ませうか、と女賢しき夫思ひ。源太は聞いで冷笑(あざわら)ひ、何が汝に解るものか、我の為ることを好いとおもふて居てさへ呉るればそれで可いのよ。

        其十二

 色も香も無く一言に黙つて居よと遣り込められて、聴かぬ気のお吉顔ふり上げ何か云ひ出したげなりしが、自己(おのれ)よりは一倍きかぬ気の夫の制するものを、押返して何程云ふとも機嫌を損ずる事こそはあれ、口答への甲斐は露無きを経験(おぼえ)あつて知り居れば、連添ふものに心の奥を語り明して相談かけざる夫を恨めしくはおもひながら、其所は怜悧(りこう)の女の分別早く、何も妾が遮つて女の癖に要らざる嘴(くち)を出すではなけれど、つい気にかゝる仕事の話し故思はず様子の聞きたくて、余計な事も胸の狭いだけに饒舌つた訳、と自分が真実籠めし言葉を態と極□軽う為て仕舞ふて、何所までも夫の分別に従ふやう表面(うはべ)を粧ふも、幾許か夫の腹の底に在る煩悶(もしやくしや)を殺(そ)いで遣りたさよりの真実(まこと)。源太もこれに角張りかゝつた顔をやわらげ、何事も皆天運(まはりあはせ)ぢや、此方の了見さへ温順(すなほ)に和(やさ)しく有つて居たなら又好い事の廻つて来やうと、此様おもつて見ればのつそりに半口与るも却つて好い心持、世間は気次第で忌□しくも面白くもなるもの故、出来るだけは卑劣(けち)な□(さび)を根性に着けず瀟洒(あつさり)と世を奇麗に渡りさへすれば其で好いは、と云ひさしてぐいと仰飲(あふ)ぎ、後は芝居の噂やら弟子共が行状(みもち)の噂、真に罪無き雑話を下物(さかな)に酒も過ぎぬほど心よく飲んで、下卑(げび)た体裁(さま)ではあれどとり膳睦まじく飯を喫了(をは)り、多方もう十兵衞が来さうなものと何事もせず待ちかくるに、時は空しく経過(たつ)て障子の日□(ひかげ)一尺動けど尚見えず、二尺も移れど尚見えず。
 是非先方(むかう)より頭を低し身を縮(すぼ)めて此方へ相談に来り、何卒半分なりと仕事を割与(わけ)て下されと、今日の上人様の御慈愛(おなさけ)深き御言葉を頼りに泣きついても頼みをかけべきに、何として如是(かう)は遅きや、思ひ断めて望を捨て、既早相談にも及ばずとて独り我家に燻(くすぼ)り居るか、それともまた此方より行くを待つて居る歟(か)、若しも此方の行くを待つて居るといふことならば余り増長した了見なれど、まさかに其様な高慢気も出すまじ、例ののつそりで悠長に構へて居るだけの事ならむが、扨も気の長い男め迂濶にも程のあれと、煙草ばかり徒らに喫(ふ)かし居て、待つには短き日も随分長かりしに、それさへ暮れて群烏塒(ねぐら)に帰る頃となれば、流石に心おもしろからず漸く癇癪の起り/\て耐へきれずなりし潮先、据られし晩食(ゆふめし)の膳に対ふと其儘云ひ訳ばかりに箸をつけて茶さへ緩(ゆる)りとは飲まず、お吉、十兵衞めがところに一寸行て来る、行違ひになつて不在(るす)へ来ば待たして置け、と云ふ言葉さへとげ/\しく怒りを含んで立出かゝれば、気にはかゝれど何とせん方もなく、女房は送つて出したる後にて、たゞ溜息をするのみなり。

        其十三

 渋つて聞きかぬる雨戸に一トしほ源太は癇癪の火の手を亢(たかぶ)らせつつ、力まかせにがち/\引き退け、十兵衞家にか、と云ひさまに突と這入れば、声色知つたるお浪早くもそれと悟つて、恩ある其人の敵(むかう)に今は立ち居る十兵衞に連添へる身の面を対(あは)すこと辛く、女気の繊弱(かよわ)くも胸を動悸(どき)つかせながら、まあ親方様、と唯一言我知らず云ひ出したる限(ぎ)り挨拶さへどぎまぎして急には二の句の出ざる中、煤けし紙に針の孔、油染みなんど多き行燈の小蔭に悄然(しよんぼり)と坐り込める十兵衞を見かけて源太にずつと通られ、周章て火鉢の前に請ずる機転の遅鈍(まづき)も、正直ばかりで世態(よ)を知悉(のみこま)ぬ姿なるべし。
 十兵衞は不束に一礼して重げに口を開き、明日の朝参上(あが)らうとおもふて居りました、といへばぢろりと其顔下眼に睨み、態と泰然(おちつき)たる源太、応、左様いふ其方の心算(つもり)であつたか、此方は例の気短故今しがたまで待つて居たが、何時になつて汝(そなた)の来るか知れたことでは無いとして出掛けて来ただけ馬鹿であつたか、ハヽヽ、然し十兵衞、汝は今日の上人様の彼お言葉を何と聞たか、両人(ふたり)で熟く/\相談して来よと云はれた揚句に長者の二人の児の御話し、それで態□相談に来たが汝も大抵分別は既定めて居るであらう、我も随分虫持ちだが悟つて見れば彼(あの)譬諭(たとへ)の通り、尖りあふのは互に詰らぬこと、まんざら敵同士でもないに身勝手ばかりは我も云はぬ、つまりは和熟した決定(けつぢやう)のところが欲い故に、我慾は充分折つて摧(くだ)いて思案を凝らして来たものゝ、尚汝の了見も腹蔵の無いところを聞きたく、其上にまた何様とも為やうと、我も男児(をとこ)なりや汚い謀計(たくみ)を腹には持たぬ、真実(ほんと)に如是(かう)おもふて来たは、と言葉を少時とゞめて十兵衞が顔を見るに、俯伏たまゝたゞ唯(はい)、唯と答ふるのみにて、乱鬢の中に五六本の白髪が瞬く燈火(あかり)の光を受けてちらり/\と見ゆるばかり。お浪は既(はや)寝し猪の助が枕の方につい坐つて、呼吸さへせぬやう此もまた静まりかへり居る淋しさ。却つて遠くに売りあるく鍋焼饂飩の呼び声の、幽に外方(そと)より家(や)の中に浸みこみ来るほどなりけり。
 源太はいよ/\気を静め、語気なだらかに説き出すは、まあ遠慮もなく外見(みえ)もつくらず我の方から打明けやうが、何と十兵衞斯しては呉れぬか、折角汝も望をかけ天晴名誉の仕事をして持つたる腕の光をあらはし、慾徳では無い職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衞といふ男が意匠(おもひつき)ぶり細工ぶり此視て知れと残さうつもりであらうが、察しも付かう我とても其は同じこと、さらに有るべき普請では無し、取り外(はぐ)つては一生にまた出逢ふことは覚束ないなれば、源太は源太で我(おれ)が意匠ぶり細工ぶりを是非遺したいは、理屈を自分のためにつけて云へば我はまあ感応寺の出入り、汝は何の縁(ゆかり)もないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて設計(つもり)まで為たに汝は頼まれはせず、他の口から云ふたらばまた我は受負ふても相応、汝が身柄(がら)では不相応と誰しも難をするであらう、だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕の有りながら不幸(ふしあはせ)で居るといふも知つて居る、汝が平素(ふだん)薄命(ふしあはせ)を口へこそ出さね、腹の底では何(ど)の位泣て居るといふも知つて居る、我を汝の身にしては堪忍(がまん)の出来ぬほど悲い一生といふも知つて居る、夫故にこそ去年一昨年何にもならぬことではあるが、まあ出来るだけの世話は為たつもり、然し恩に被せるとおもふて呉れるな、上人様だとて汝の清潔(きれい)な腹の中を御洞察(おみとほし)になつたればこそ、汝の薄命(ふしあはせ)を気の毒とおもはれたればこそ今日のやうな御諭し、我も汝が慾かなんぞで対岸(むかう)にまはる奴ならば、我(ひと)の仕事に邪魔を入れる猪口才な死節野郎と一釿(ひとてうな)に脳天打欠(ぶつか)かずには置かぬが、つく/″\汝の身を察すれば寧(いつそ)仕事も呉れたいやうな気のするほど、といふて我も慾は捨て断れぬ、仕事は真実何あつても為たいは、そこで十兵衞、聞ても貰ひにくゝ云ふても退けにくい相談ぢやが、まあ如是ぢや、堪忍(がまん)して承知して呉れ、五重塔は二人で建てう、我を主にして汝不足でもあらうが副(そへ)にたつて力を仮してはくれまいか、不足ではあらうが、まあ厭でもあらうが源太が頼む、聴ては呉れまいか、頼む/\、頼むのぢや、黙つて居るのは聴て呉れぬか、お浪さんも我(わし)の云ふことの了つたなら何卒口を副て聴て貰つては下さらぬか、と脆くも涙になりゐる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ゑゝありがたうござりまする、何所に此様な御親切の相談かけて下さる方のまた有らうか、何故御礼をば云はれぬか、と左の袖は露時雨、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動しつ掻口説けど、先刻より無言の仏となりし十兵衞何とも猶言はず、再度三度かきくどけど黙□(むつくり)として猶言はざりしが、やがて垂れたる首(かうべ)を擡げ、何(どう)も十兵衞それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸をついて驚く女房。
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