連環記
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著者名:幸田露伴 

 寂照には成基尊基の二弟があって、成基は此頃既に近江守にもなっていたであろうから、老母を後に出て行く寂照には、せめてもの心強さであったろう。然し寂照が老母を後に、老母が寂照を引留めずに、慈母孝子互に相別るるということは甚だしく当時の社会を感動せしめた。しかも上(かみ)は宮廷より下(しも)は庶民までが尊崇(そんそう)している恵心院僧都(そうず)の弟子であり、又僧都の使命を帯びているということもあり、彼の人柄も優にやさしかった大内記の聖(ひじり)寂心の弟子であるということもあり、三河守定基の出家因縁の前後の談の伝わって居たためもあり、老若男女、皆此噂を仕合った。で、寂照が願文(がんもん)を作って、母の為めに法華(ほっけ)八講(はっこう)を山崎の宝寺に修(しゅ)し、愈々本朝を辞せんとした時は、法輪壮(さか)んに転じて、情界大(おおい)に風立ち、随喜結縁(けちえん)する群衆(ぐんじゅ)数を知らず、車馬填咽(てんえつ)して四面堵(と)を成し、講師の寂照が如法に文を誦(じゅ)し経を読む頃には、感動に堪えかねて涕泣(ていきゅう)せざる者無く、此日出家する者も甚だ多く、婦女に至っては車より髪を切って講師に与うる者も出来たということである。席には無論に匡衡も参していたろう、赤染右衛門も居たろう。ただ彼の去られた妻が猶(なお)生きていて此処の参集に来合せたか否やは、知る由も無い。
 寂照が去った其翌年の六月八日に、寂心が止観を承(う)けた彼の増賀は死んだ。時に年八十七だったという。死に近づいた頃、弟子共に歌をよませ、自分も歌をよんだが、其歌は随分増賀上人らしい歌である。「みづはさす八十路(やそじ)あまりの老(おい)の浪くらげの骨(ほね)にあふぞうれしき」というのであった。甥の春久(しゅんきゅう)上人という竜門寺に居たのが、介抱に来ていた。増賀は侍僧(じそう)に、碁盤を持(も)て来いと命じた。平生、碁なぞ打ったことの無い人であるので、侍僧はあやしく思ったが、これは仏像でも身近く据えようとするのかと思って取寄せて、前に置くと、我を掻(か)き起せ、という。侍僧が掻き起すと、碁一局打とう、と春久に挑んだ。合点のゆかぬことだとは思ったが、怖ろしい人の云うことだから、言葉に従って春久は相手になると、十目ばかり互に石を下した時、よしよしもはや打つまい、と云って押し壊(やぶ)ってしまった。春久は恐る恐る、何とて碁をば打給いし、と問うと、何にもなし、小法師なりし時、人の碁打つを見しが、今念仏唱えながら、心に其が思いうかびしかば、碁を打たばやと思いて打ったるまでぞ、と何事も無き気配だった。又、泥障(あおり)一ト懸(かけ)持(もて)来(きた)れ、という。馬の泥障などは、臨終近き人に何の要あるべきものでも無く、寺院の物でもないが、とにかく取寄せて持来ると、身を掻抱(かいいだ)かせて起上り、それを結びて吾が頸(くび)に懸けよ、という。是非なく言葉の如くにすると、増賀は強いておのが左右の肱(ひじ)を指延べて、それを身の翼のようになし、古泥障を纏(まと)いてぞ舞う、と云って二三度ふたふたとさせて、これ取去れ、と云った。取去って後、春久は、これは何したまえる、と恐る恐る問うと、若かりし頃、隣の房に小法師ばらの多く有りて笑い罵(ののし)れるを覗きて見しに、一人の小法師、泥障を頸に懸けて、胡蝶(こちょう)胡蝶とぞ人は云えども古泥障を頸にかけてぞ舞うと歌いて舞いしを、おかしと思うたが、年頃は忘れたに、今日思い出られたれば、それ学びて見たまで、とケロリとしていた。九十に近い老僧が瘠(や)せ枯(から)びた病躯(びょうく)に古泥障を懸けて翼として胡蝶の舞を舞うたのであった。死に瀕(ひん)したおぼえのある人は誰も語ることだが、将(まさ)に死せんとする時は幼き折の瑣事(さじ)が鮮やかに心頭に蘇(よみが)えるものだという。晴れた天(そら)の日の西山に没せんとするや、反って東の山の山膚(やまはだ)までがハッキリと見えるものだ。増賀上人の遥に遠い東の山には仔細らしい碁盤や滑稽(こっけい)な胡蝶(こちょう)舞、そんな無邪気なものが判然(はっきり)と見えたのであろう。然し其様(そん)なことを見ながらに終ったのではない、最期の時は人を去らせて、室内廓然(かくねん)、縄床に居て口に法花経(ほけきょう)を誦(じゅ)し、手に金剛の印を結んで、端然(たんねん)として入滅したということである。布袋(ほてい)や寒山の類を散聖というが、増賀も平安期の散聖とも云うべきか。いや、其様な評頌(ひょうしょう)などは加えぬでもよい。
 寂照は宋に入って、南湖の知礼に遇い、恵心の台宗問目二十七条を呈して、其答を求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方に是(かく)の如き深解(じんげ)の人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧□然(ちょうねん)、入宋(にっそう)渡天の願(がん)を立てて彼地(かのち)へ到った。其前年即ち天元五年七月十三日、□然は母の為に修善(しゅぜん)の大会(だいえ)を催した。母は六十にして既に老いたれど、身は万里を超えて遠く行かんとするので、再会の期(ご)し難きをおもい、逆修(ぎゃくしゅ)の植善を為さんとするのであった。丁度慶滋保胤が未だ俗を脱せずに池亭を作り設けた年であったが、保胤は□然の為に筆を揮(ふる)って其願文を草したのであった。中々の長文で、灑々(さいさい)数千言、情を尽し理を尽し、当時の社会を動かすには十分のものであった。それから又□然上人の唐に赴くを餞(せん)して賦して贈る人々の詩の序をも保胤が撰(せん)した。今や其寂心は既に亡くなっているが、不思議因縁で寂心の弟子寂照が独り唐土に渡ったのである。□然は印度へ行くのは止めて、大蔵(だいぞう)五千四十八巻及び十六羅漢像、今の嵯峨清涼院(しょうりょういん)仏像等を得て、寛和元年に帰朝したのであった。それより後(のち)十六七年にして寂照は宋に入ったのであるが、寂照は人品学識すべて□然には勝(まさ)って見えたので、彼土(かのど)の人々も流石(さすが)に神州の高徳と崇敬(そうけい)したのであった。で、知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見せらるるに至った。宋主が寂照を見たまうに及びて、我が日本の事を問いたもうたので、寂照は紙筆を請いて、我が神聖なる国体、優美なる民俗を答え叙(の)べた。文章は宿構の如くに何の滞るところも無く、筆札は遒麗(しゅうれい)にして二王の妙をあらわした。それは其筈で、何もこしらえ事をして飾り立てて我国のことを記したのでもなく、詞藻はもとより大江の家筋を受けていた定基法師であり、又翰墨(かんぼく)の書は空海(くうかい)道風(とうふう)を去ること遠からず、佐理(さり)を四五年前に失ったばかりの時代の人であったのである。そこで宋主(真宗)は日本の国体に嘆美措(お)く能(あた)わず、又寂照の風神才能に傾倒の情を発して、大(おおい)にこれを悦(よろこ)び、紫衣束帛(しえそくはく)を賜わり、上寺(じょうじ)にとどめ置かせたまいて号を円通大師と賜わった。前世因縁値遇だか何だかは知らぬが、此頃寂照は丁謂(ていい)と相知るに至った。
 丁謂は恐しいような、又然程(さほど)でも無いような人であるが、とにかく異色ある人だったに違い無く、宋史の伝は之を貶(へん)するに過ぎている嫌がある。道仏の教が世に出てから、道仏に倚(よ)るの人は、歴史には大抵善正でない人にされていると解するのが当る。丁謂が寂照と知ったのは年猶(なお)若き時であり、後に貶所(へんしょ)に在りて専ら浮屠(ふと)因果の説を事としたと史にはある。さすれば謂は早くより因果の説を信じていたればこそ、後年貶謫(へんたく)されるに至って愈々(いよいよ)深く之を信じたので、或は早く寂照に点化(てんけ)されたのかも知れない。楊億(ようおく)の談苑(だんえん)によれば、丁謂が寂照を供養したとある。何時から何時まで給助したのか知らぬが、有力な檀那(だんな)が附かなくては、寂照も長く他邦には居れまいから、其事は実際だったに違無い。
 丁謂は蘇州長州の人、少(わか)い時孫何(そんか)と同じく文を袖(そで)にして王禹□(おううしょう)に謁したら、王は其文を見て大に驚き、唐の韓愈(かんゆ)、柳宗元の後三百年にして始めて此作あり、と褒めたという。当時孫・丁と称されたということだが、孫、丁の名は少し後に出た欧陽修・王安石・三蘇の名に掩(おお)われて、今は知る者も少い。淳化三年進士及第して官に任じて、其政事の才により功を立てて累進して丞相(じょうしょう)に至り、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公に封(ほう)ぜらるるに至った。蘇州節度使だった時、真宗の賜わった詩に、

践歴(せんれき) 功皆著(いちじる)しく、諮詢(しじゆん) 務(つとめ)必ず成(な)す。
懿才(いさい) 曩彦(なうげん)に符(ふ)し、佳器(かき) 時英(じえい)を貫(つらぬ)く。
よく経綸(けいりん)の業を展(の)べ、旋(めぐり)陞(のぼ)る輔弼(ほひつ)の栄(えい)。
嘉享(かきやう) 盛遇(せいぐう)を忻(よろこ)び、尽瘁(じんすゐ)純誠(じゆんせい)を□(つく)す。

の句がある。これでは寇準(こうじゅん)の如き立派な人を政敵にしても、永い間は勝誇った訳である。政治は力を用いるよりも智を用いるを主とし、法制よりも経済を重んじ、会計録というものを撰して上(たてまつ)り、賦税(ふぜい)戸口(ここう)の準を為さんことを欲したという。文はもとより、又詩をも善くし、図画、奕棋(えきき)、営造、音律、何にも彼(か)にも通暁して、茶も此人から蔡嚢(さいじょう)へかけて進歩したのであり、蹴鞠(しゅうきく)にまで通じていたか、其詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じて後、其后(きさき)の悪(にくし)みを受け、擅(ほしいまま)に永定陵を改めたるによって罪を被(こうむ)り、且つ宦官(かんがん)雷允恭(らいいんきょう)と交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫(えんたく)せられ、数年にして道州に徙(うつ)され、致仕して光州に居りて卒(しゅつ)した。つまり政敵にたたき落されて死地に置かれたのである。謂は是(かく)の如きの人なのである。
 知礼の答釈は成った。寂照はこれを携えて、本国へと帰るべきことになったのである。然るに何様(どう)いうものだったか、其時は勢威日に盛んであった丁謂は、寂照を留(とど)めんと欲して、切(しきり)に姑蘇(こそ)の山水の美を説き、照の徒弟をして答釈を持(もて)帰(かえ)らしめ、照を呉門寺に置いて、優遇至らざるなくした。寂照は既に仏子である。一切の河川が海に入ればただ是れ海なるが如く、一切の氏族が釈門に入れば皆釈氏である。別に東西の分け隔てをして日本に帰らねばならぬという要も無いのであるから、寂照は遂に呉門寺に止(とど)まった。寂照は戒律精至、如何にも立派な高徳であることが人々に認められたから、三呉の道俗漸(ようや)く多く帰向して、寂照の教化(きょうけ)は大に行われたと云われている。そして寂照は其儘(そのまま)に呉に在ったこと三十余年、仁宗の景祐元年、我が後一条天皇の長元七年、「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾(かんじ)として微笑(みしょう)して終った。
 丁謂もこれに先だつこと一年か二年、明道年間に死んだのであるが、寂照が平坦(へいたん)な三十年ばかりの生活をした間に、謂は嶮峻(けんしゅん)な世路を歩んで、上ったり下ったりしたのであった。別に其間に謂と照との談(はなし)はない。謂は謂であり、照は照であったであろう。最初に謂がしきりに照を世話した頃、照は謂に其の有(も)っていた黒金の水瓶(すいびょう)に詩を添えて贈った。

提携(ていけい)す三五載(さんごさい)、日に用ゐて曾(かつ)て離れず。暁井(げうせい) 残月を斟(く)み、寒炉(かんろ) 砕□(さいし)を釈(お)く。□銀(はぎん) 侈(し)をを免(まぬか)れ難く、莱石(らいせき) 虧(き)を成(な)し易し。此器 堅く還(また)実なり、公(こう)に寄(よ)す 応(まさ)に知る可きなるべし。
 答詩が有ったろうが、丁謂集を有せぬから知らぬ。謂に対しての照の言葉の残っているのはただこれだけである。謂が流された崖州は当時は甚だしい蛮島であった。謂の作、

今(いま)崖州に到る 事嗟(なげ)く可し、夢中(むちゅう)常に京華(けいくわ)に在るが如し。程途(ていと)何ぞ啻(たゞ)一万里のみならん、戸口都(す)べて無し三百家。夜は聴く猿(ましら)の孤樹(こじゆ)に啼(な)いて遠きを、暁(あかつき)には看(み)る潮(うしほ)の上(のぼ)って瘴煙(しやうえん)の斜(なゝめ)なるを。吏人(りじん)は見ず中朝(ちゆうてう)の礼、麋鹿(びろく) 時々 県衙(けんが)に到る。
 かかるところへ、死ねがしに流されたのである。然し其処に在ること三年で、内地へ還(かえ)るを得た時、

九万里 鵬(ほう) 重ねて海を出で、一千里 鶴(つる) 再び巣(す)に帰る。
の句をなした。それのみか然様(そう)いう恐ろしいところではあるが、しかし沈香(じんこう)を産するの地に流された因縁で、天香伝一篇を著わして、恵(めぐみ)を後人に貽(おく)った。実に専ら香事を論賛したものは、天香伝が最初であって、そして今に伝わっているのである。かくて香に参した此人の終りは、宋人魏泰(ぎたい)の東軒筆録に記されている。曰(いわ)く、丁晋公臨終前半月、已(すで)に食(くら)はず、但(ただ)香を焚(た)いて危坐(きざ)し、黙して仏経を誦(じゆ)す、沈香の煎湯(せんたう)を以て時々(じゞ)少許(せうきよ)を呷(あふ)る、神識乱れず、衣冠を正し、奄然(えんぜん)として化し去ると。




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