連環記
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著者名:幸田露伴 

後拾遺集恋一、「恋そめし心をのみぞうらみつる人のつらさを我になしつゝ」、続千載集恋五、「つらくのみ見ゆる君かな山の端(は)に風まつ雲のさだめなき世に」も兼盛の歌である。猶(なお)まだ幾首も挙げることが出来るが、いずれも此方負け、力負けの哀しい歌のみで、しかも何となく兼盛がかわゆそうに年が相手よりも老いているような気味合が見える。此女が兼盛に一時は靡(なび)いたが、年もそぐわず、気も合わないで終(つい)に赤染氏に之(ゆ)いて了ったのではないか、それが右衛門の母では無かったかと想われてならない。然し勿論取留もないことで、女が何様(どう)いう人であったかさえも考え得無い。兼盛だとて王家を出で下って遠からぬ人ではあり、女児を得たい一心から相当に突張ったので、その噂が今にまで遺り伝っているのだろうが、生憎(あいにく)と赤染時用が其時は検非違使であったから敵(かな)わなかった。女児は女と共に赤染氏に取られて終(しま)った。それで其娘は生長して、赤染右衛門となったのである。だから当時の人が、それらの経緯(いきさつ)を知らぬ筈はないから、右衛門が右衛門となるまでには、随分苦労をしたことだろうと十二分に同情されるのである。
 然し右衛門は不幸の霜雪に圧虐されたままに消朽ちてしまう草や菅(すげ)では無かった。当時の大権威者だった藤原道長の妻の倫子(とも)に仕えて、そして大(おおい)に才名を馳(は)せたのであった。倫子は左大臣源雅信の女(むすめ)で、もとより道長の正室であり、准三宮(じゅさんぐう)で、鷹司殿と世に称されたのである。此の倫子の羽翼(はがい)の蔭に人となったことは、如何ばかり右衛門をして幸福ならしめたか知れないが、右衛門の天資が勝(すぐ)れていなければ、中々豪華驕奢(きょうしゃ)の花の如く錦(にしき)の如く、人多く事多き生活の中に織込まれた一員となって、末々まで道長の輝かしい光に浴するを得るには至らなかったろう。詩人や歌人というものは、もとより人情にも通じ、自然にも親しむものであるが、それでも兎角奇特性があって、随分良い人でも常識には些(ちと)欠けていたり、妙にそげていたり、甚しいのになると何処か抜けていたりするものがあるが、右衛門は少しも然様(そう)いうところの無い、至極円満性、普通性の人で、放肆(ほうし)な気味合の強い和泉式部や、神経質過ぎる右大将道綱の母などとは選を異にしていた。これはずっと後の事であるが、吾(わ)が子の挙周の病気の重かった時、住吉の神に、みてぐら奉って、「千代(ちよ)経(へ)よとまだみどり児にありしよりたゞ住吉の松を祈りき」「頼みては久しくなりぬ住吉のまつ此度はしるしみせてよ」「かはらむと祈る命(いのち)はをしからで別ると思はむほどぞ悲しき」と三首の歌を記したなどは、種々の書にも見えて、いかにも好い母である。其挙周を出世させようとして、正月の司召(つかさめし)始まる夜、雪のひどく降ったのに鷹司殿にまいりて、任官の事を願いあげ、「おもへ君、かしらの雪をかきはらひ、消えぬさきにといそぐ心を」と詠んだので、道長も其歌を聞いて、哀れを催し、そこで挙周を其望み通り和泉守にしてやった。「払ひけるしるしも有りて見ゆるかな雪間(ゆきま)をわけて出づる泉(いづみ)の」と、道長か倫子か知らぬがお歌を賜わった。それに返して、「人よりもわきて嬉しきいづみかな雪げの水のまさるなるべし」など詠んでいるところは、実に好くいえば如才ない、悪く云えば世智に長(た)けた女である。いやそれよりもまだ驚くことは、夫の匡衡が或時家に帰って来ると、何か浮かぬ顔をして、物かんがえをしているようだ。そこで怪しく思って、何様(どう)遊ばしましたと問う。余り問われるので、匡衡先生も少し器量は善くないが泥を吐いた。実は四条中納言公任卿(きんとうきょう)、中納言を辞そうとなさるのである。そこで同卿が紀ノ斉名に辞表を草するように御依頼なされた。斉名は筆を揮(ふる)って書いた。ところで卿の御気に召さなかった。そして卿は更(あらた)めて大江ノ以言に委嘱された。以言も骨を折って起草した。然るに以言の草稿をも飽足らず思召(おぼしめ)して、其果に此の匡衡に文案して欲しいとの御頼みなのだ。斉名の文は典雅荘重であり、以言の文は奇を出し才を騁(は)せ、其風体各々異なれど、いずれも文章の海山の竜であり象である。然るに両人の文いずれも御心にあかずして、更に匡衡に篤く御頼みありたりとて、同題にして異色の文、既に二章まで成りたる上は、匡衡が作、いずれのところにか筆を立てむ。御辞退申兼ねて帰りては来たれども、これを思うに、われも亦御心に飽かずとせらるる文字をつらぬるに過ぎざらんと、口惜しくもまた心苦しくおもうのである、と話した。公任卿は元来学問詩歌の才に長けたまえるのに、かかる場合に立たせられた夫が、困りもし悶(もだ)えもするのは文章で立っている身の道理千万の事と、右衛門は何の答をすることも出来ず、しばし思案に沈んだが、斯様(かう)いうところに口を出して夫を扶(たす)けられる者は中々あるものでは無い。勿論右衛門は歌を善くしたばかりではない、法華経(ほけきょう)廿八品(にじゅうはちほん)を歌に詠じたり、維摩経(ゆいまきょう)十喩(じゅうゆ)を詠んだりしているところを見ると、学問もあった人には相違ないが、夫のおもて業(わざ)にしている文章の事などに、女の差出口などが何で出来るべきものであろう。然し流石(さすが)に才女で、世の中の鹹(から)いも酸いも味わい知っていた人であった。御道理でござりまする、まことに斉名以言の君の御文章の宜しからぬということは無いことと存じまする、ただし公任卿はゆゆしく心高き御方におわす、御先祖よりの貴かりし由を述べ立て、少しく沈滞の意をあらわして記したまわむには、恐らくは意にかないて善しとせられなむ、如何におぼす、と助言した。匡衡ここに於て成程と合点して、然様いう意味を含めて、辞表とは云え、やや威張ったような調子を交えて起草した。果してそれは公任卿の意にかなって、中納言左衛門督(かみ)を罷(や)めんことを請うの状は公(おおやけ)に奉呈され、匡衡は少くとも公任卿には斉名以言よりも文威の高いものと認められて面目を施した。其文が今遺っているから面白い。読んで見ると其中に、「臣幸(さいはひ)に累代上台の家より出でゝ、謬(あやま)って過分顕赫(けんかく)の任に至る。才は拙(つたな)くして零落(れいらく)せり、槐葉(くわいえふ)前蹤(ぜんしよう)を期(き)し難く、病重うして栖遅(せいち)す、柳枝(りうし)左の臂(ひぢ)に生(お)ふ可(べ)し」とあるところなどは、実に謙遜(けんそん)の中(うち)に衿持(きょうじ)をあらわして、如何にもおもしろい。槐葉前蹤を期し難し、と云って、少し厭味(いやみ)を云って置いて、柳枝左臂(さび)に生ずべしと、荘子を引張り出してオホンと澄ましたところなどは、成程気位の高い公任卿を破顔させたろうと思われる。それから加之(しかのみならず)と云って、皇太后の御上を云い、「猶子(いうし)の恩を蒙りて、兼ねて長秋(ちやうしう)の監たり、嘗薬(しやうやく)の事、相譲るに人無し」といい、「暫く彼(か)の仙院の塵を継(つ)いで、偏(ひと)へに此の后□(こうゐ)の月に宿せん」と云ったあたり、此時代の文章として十分の出来である。公任卿は悦(よろこ)んだに相違無いが、匡衡の此手柄も右衛門の助言から出たのである。公任卿は中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位にまでなられたこと人の知る通りである。右衛門の才は此話を考えると、中々隅へ置けるどころでは無い、男子であったらば随分栄達したであろう。これほどの女であるが、当時の風俗で、男女の間は自由主義が尚(とうと)ばれていたから、これも後の談(はなし)であるが、夫の匡衡には一時負かされた。匡衡は何様した因縁だったか、三輪の山のあたりの稲荷(いなり)の禰宜(ねぎ)の女に通うようになった。ここに三輪という地名を出したが、それは今昔物語なんどにも無く、自分の捏造(ねつぞう)でも無いが、地名も人名も何も無くては余り漠然としているから、赤染右衛門集に、三輪の山のあたりにや、と記してあるので用いたまでである。右衛門は如何に聡明(そうめい)怜悧(れいり)な女でも、矢張り女だから、忌々(いまいま)しくもあり、勘忍もしがたいから、定石どおり焼き立てたにちがい無い。匡衡よりも多分器量の上だったに疑い無い右衛門に責められては、相手が上手(うわて)だったから敵(かな)わない、一応は降参して、向後(きょうこう)然様(さよう)なところへはまいりませぬと謝罪して済んだが、そこには又あやしきは男女の縁で、焼木杭(やけぼっくい)は火の着くこと疾(はや)く、復(また)匡衡はそこへ通い出した。すると右衛門は、すっかり女の身許(みもと)から、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べ上げて置いて、丁度匡衡の其処に居た折、「我が宿のまつにしるしも無かりけり杉むらならば尋ねきなまし」という歌を使に持たせて、受取証明を取ってこいと責めたてた。待つに松をかけて、吾家(わがや)へ帰るべきを忘れたのを怨(うら)んだも好いが、相手の女が稲荷様の禰宜(ねぎ)の女というので、杉村ならば帰ったろうにと云ったのは、冷視と蔑視(べっし)とを兼ねて、狐にばかされているのが其様(そんな)に嬉しいかと云わぬばかりに、ぴしゃりと一本見事に見舞っている。人に歌を読みかけられて返歌をせぬのは七生(しちしょう)暗(やみ)に生れるなどという諺(ことわざ)のある日本の人、まして匡衡だって中古三十六歌仙の中に入っている男だから、是非無くも「人をまつ山路(やまぢ)わかれず見えしかば思ひまどふにふみすぎにけり」と返事して使をかえした。然程(さほど)に待っていてくれるとも分らず思いまどうて余の路に踏みまどうた、相済みませぬ、恐れ入りました、という謝まりの証文の一札の歌であって、※中(きょうちゅう)[#「匈/月」、936-中-8]も苦しかったろうが歌も苦しい。ふみすぎにけり、で杉を使ったなどは随分せつない、歌仙の歌でも何でも有りはしない、音律不たしかな切(せつ)な屁(へ)のような歌である。しかし是に懲らされて、狐は落されてしまったと見え、それからは、鳶肩(えんけん)長身、傲骨(ごうこつ)稜々(りょうりょう)たる匡衡朝臣も、おとなしくなって、好いお父さんになっていたという話である。此歌も余り拙(まず)いから、多分後の物語作者などが作ったのだろうと思われては迷惑であるから断って置くが、慥(たしか)に右衛門集に出ているのである。
 赤染右衛門は斯様(こう)いう女である。こういう女が身体の血の気も漲(みなぎ)っていれば、心の火の熱も熾(さか)んな若盛りで、しかも婚後の温い生活を楽んでいる際に当って、近親の定基の家には、卑しい身分の一艶婦のために冷雨悲風が起って、其若い妻が泣きの涙でいるということを知っては、其儘(そのまま)に他所(よそ)の事だと澄ましかえっては居にくいことである。まして段々と風波が募って、定基の妻が日に日に虐(いじ)められるようになっては、右衛門に対して援(すくい)を求めるように何等かのことをしたかも知れない。そこで何も弁護士然と出かけた訳では無かろうが、右衛門は定基の妻のために、折にふれて何かと口をきいたことは自然であったろう。定基の家と右衛門とは、ただ一家というばかりの親しさのみでは無かったようである。これは少し言過ぎるかも知らぬが、定基の兄の為基、これは系図には、歌人とあり、文章博士、正五位下、摂津守とある。此人と右衛門との間には、何様(どう)もなみならぬ心のゆきかいが有ったかと見ゆるのである。此の頃の雑談(ぞうだん)を書記した類(たぐい)の書籍(しょじゃく)にも、我が知れる限りでは右衛門為基の恋愛譚(だん)は見当らず、又果して恋物語などが有ったのか否かも不明であるが、為基と右衛門との間に、歌の贈答が少くなかったことは、顕証が存している。ただし其恋があったとしても、双方ともに遠慮がちで終ったのかも知れないし、且又為基は病弱で、そして蚤(はや)く亡くなったことは事実である。とにかく、此の事は別にして其儘遺して置くことにする。が、為基定基兄弟の母と右衛門との間にも後になって互に問いおとずれし合ったことのあったのは、これも贈答の歌が幾首も残っているので分明である。梅の花、常夏の花などにつけて、定基の母の歌をおこしたのに右衛門の返ししたのもあり、又右衛門の家に定基の母が宿って、夜ふかき月をながむるに虫の声のみして人皆寝しずまりたるに、「雲ゐにてながむるだにもあるものを袖にやどれる月を見るらむ」と老女の悲愴(ひそう)の感をのべたのがある。為基定基の弟に成基(しげもと)、尊基(たかもと)が無かった訳ではないが、頼もしくした二人に離れて、袖(そで)にやどれる月を見るかな、とは何という悲しい歌だろう。右衛門も感傷にたえで、「ありあけの月は袂(たもと)にながれつゝかなしき頃の虫の声かな」と返している。此歌は続古今集に載せられている。一家の事だから、交通もかくの如く繁かったことだろう、何も不思議はない。
 かかる一家の間柄である。かかる人品の赤染右衛門である。虐(しいた)げられた定基の若妻に同情し、又無論のこと力寿の方の肩を持ちそうもない定基の母にも添うて、右衛門は或日定基にむかって、美しいのみの力寿に溺(おぼ)るることの宜(よ)からぬことを説き、妻をやさしくあつかうべきことを、説きすすめたのである。実にそれは、言葉にそつは無く、情理兼ね到って、美しくもまたことわりせめて上手に説いたことであったろう。元来財力あるものは財を他(ひと)に貸して貧者を扶(たす)けることが出来る、才力ある者は才を他に貸して拙者を助けることが出来、自然と然様(そう)いうことの生ずるのが世の自然のありさまである。それで赤染右衛門ほどになると、自分の子の挙周が恋に落ちていた時になって、恋には最大武器である和歌を挙周に代って作ってやって、それを相手の女に寄せさせたことが数々(しばしば)有った、実に頼もしい有難いお母(っか)さんで、坊ちゃん挙周はお蔭で何程(いくら)好い男になっていたか知れない。其歌は今に明らかに残っているから、嘘でも何でもない。ところが相手の女もまだ若くて、中々赤染右衛門の代作の手はしの利いている歌に返歌は出来なかったが、幸に其の姉分に和泉式部という偉い女歌人があったから、それに頼んで答をして貰った。和泉式部の代作の恋の歌も今確存しているのである。双方手だれのくせものであるから、何の事は無い恋愛弁理士同士の雄弁巧説、うるわしかりける次第なりと云った形で、斯様いうことのつづきの末が、高(こう)ノ武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなお)という厭(いや)なじじいが、卜部(うらべ)の兼好という生ぐさ坊主に艶書の注文をしたなどという談(はなし)を生ずるに至っているのである。小倉百人一首に載っている、赤染右衛門、やすらはで寝なましものを小夜(さよ)ふけて傾(かたぶ)くまでの月をみしかな、は実に好い歌であるが、あれも右衛門自身の情から出た歌では無くて、人に代って其時の情状を写実に詠んだものである。恐れ入った妙作で、綿々たる情緒、傾くまでの月を見しかな、と彼(あ)の様に「かな」の二字のピンと響く「かな」は今に至るまで百千万度も使われたかなの中にも滅多には無い。あのような歌をよこされては、男子たるもの蜘蛛(くも)の糸に絡められた蜻蜒(とんぼう)のようになって了って、それこそカナ縛りにされたことだったろう。これほどの赤染右衛門に出て来られて、有り余る才を向う側に用立てられて、しかも正しい道理のある方に立って物を云われては、定基たるものも敵(かな)う筈は無い、差当りだけでも、如何にも御もっともと、降伏せざるを得ないところであった。
 ところが然様はいかなかった。定基に取っては力寿のかわゆさが骨身に徹していたのである。イヤ、骨身に徹するどころではない、魂魄(たましい)なども疾(とっ)くに飛出して終(しま)って、力寿の懐中(ふところ)の奥深くに潜(もぐ)り込んで居たのである。妻は既に妻ではないのであった、袖の上の飛花、脚の下の落葉ほどにも無いものであったのである。妻に深刻な眼で恨まれたこともあったろうが、それは籬(まがき)の外の蛍ぐらいにしか見えなかったであろう。母に慈愛のまなざしで諭されたことも有ったろうが、それも勿体ないが雲辺(うんぺん)の禽(とり)の影、暫時(しばし)のほどしか心には留(とど)まらなかったのであったろう。如何に歌人でも才女でも、常識の円満に発達した、中々しっかり者の赤染右衛門でもが、高が従兄弟の妻である。そんなものが兎や角言ったとて、定基の耳には頭(てん)から入らなかったのであろう。別に抗弁するのでも無ければ、駁撃(ばくげき)するというでも無く、樹間の蝉声(せんせい)、聴き来って意に入るもの無し、という調子にあしらって終(しま)った。右衛門も腕の力を暖簾(のれん)にごまかされたようになっては、流石(さすが)にあれだけの器量のある女だから、やっきとなって色々にかき口説いたろうが、人間には生れついて性格技能のほかに、丈の高さというものがあるのだから、定基の馬鹿に丈の高いのには、右衛門の手が届きかねたのであろう、何の手応えも生じかねたのである。世の中には何も出来ないで丈ばかり高いものがあるが、それは戦乱の世なら萱(かや)や薄(すすき)のように芟(か)り倒されるばかり、平和の世なら自分から志願して狂人(きちがい)になる位が結局(おち)で、社会の難物たるに止(とどま)るものだが、定基は蓋(けだ)し丈の高い人だったろう。そこで右衛門は自尊心や自重心を傷つけられたに過ぎぬ結果になって、甚だ面白く無く、手持無沙汰になって、定基の妻や母にも面目無く、いささか器量を下げて、腹の中は甚だ面白からず、何様(どう)ぞ宜く御考えなされまして、という位を定基に言って引退(ひきさが)るよりほか無くなった。此処で何様いう風に右衛門が巧みに訴え、上手に弁じ、手強(てづよ)く筋を通して物語ったかは、一寸書き現わしたくもあるところだが、負けた相撲の手さばきを詳しく説くのもコケなことだから省いて置く。
 定基の方は、好かない煙が鼻の先を通った程の事で済ませて了ったが、収まらないのは右衛門の腹の中だった。右衛門に取って直接に苦痛が有るの無いのということでは無いが、自分の思ったことが何の手応えも無く、風の中へ少しの灰を撒(ま)いたように消えて終ったというようなことは、誰に取っても口惜(くや)しいものである。まして相当の自負心のあるものには、自分が少しの打撃を蒙(こうむ)ったよりも忌わしい厭(いと)わしい感じを生じ勝のものである。それに加えて、相互の間に敬愛こそは有れ、憎悪も嫌悪もあるべき筈は無い自分に対してさえ、然様(そう)いう軽視若(もし)くは蔑視(べっし)を与える如き男が、今は嫌厭(けんえん)から進んで憎悪又は虐待をさえ与えて居る其妻に対しては、なまじ横合からその妻に同情して其夫を非難するような気味の言を聞かされては、愈々(いよいよ)其妻に対して厭悪(えんお)の情を増し虐待の状を増すことであろうと思うと、其妻に対しても気の毒で堪(たま)らぬ上に、其男の憎らしさが込みあげて来てならぬ。吾(わ)が心の平衡が保てぬというほどでは無いが、硬粥(かたがゆ)が煮えるときにブツブツと小さな泡が立っては消え、消えては復(また)立つというような、取留めのない平らかならぬものが腹中に間断なく起滅するのを免れなかったことだったろう。そこで右衛門は遂に夫の匡衡に委曲を語って、定基の近状の良くないことを云い、其妻のあわれなことを告げ、何とかしてやって欲しいことを訴えた。男は男で、他(ひと)の斯様(こん)なことには取合いたがらぬものである。匡衡は一応はただ其儘(そのまま)に聞流そうとした。しかし右衛門は巧みに物語った。匡衡はここで取合わずに過して了えば、さも自分も定基と同じような場合にあっては吾が妻に対して冷酷である男のように、自分の妻から看做(みな)さるるであろうかのように感じずには居られなかったであったろう。そこで定基に対してよりは、自分の妻に対しての感じから動き出して、よし、それでは折を見て定基に話ししよう、ということになった。匡衡と右衛門との間は実に仲が好かったのであった。
 男と女との間の□(そむ)きあったところへ口を出すほど危険なことは無い。もし其男女の仲が直れば、後(あと)で好く思われる筈は無い、双方の古疵(ふるきず)を知っている一(いつ)の他人であるからである。又仲直りが出来ずに終れば、もとより口をきいた甲斐もないのであるからである。しかし親類合のことであって見ると、又別である。が、匡衡も定基も血の気の多い、覇気満々の年頃ではあり、双方とも学問はあり才器はあり、かりそめの雑談を仕合っても互に負けては居ぬ頃合であるから、斯様(こう)いう談(はなし)などは、好い結果を生じそうにないのが自然であった。然し双方とも幸に愚劣な高慢的な人で無かったから、何等の後の語り草になるほどのことも無くて済んでしまったが、互の感情は□離(けいり)し、そして匡衡は匡衡、定基は定基で、各々峭立(しょうりつ)して疎遠になるに終ったことだったろう。察するに一方は、路花墻柳(ろかしょうりゅう)の美に目を奪われるの甲斐無きことをあげて、修身斉家の大切なことを、それとなく諷(ふう)したに違いない。それに対し反対の仕ようは無いから、一方は黙っていたに違いない。此の黙っているというのは誠に張合の無い困ったことだから、又更に一方は大江の家が儒を以て立っているのだから、家の内の斉(ととの)わないで、妻を去るに至るの何のということは、よくよくの事でなければ、一家一門に取って取分け世間の非難を被って、非常に不利であることを云いもしたろう。これに対しても一方は又黙っていたろう。七出(しちしゅつ)の目(もく)に就いても言議に及んだことであろう。七出というのは、子無きが一、淫佚(いんいつ)が二、舅姑(きゅうこ)に事(つか)えざるが三、口舌(くぜつ)多きが四、盗窃が五、妬忌(とき)が六、悪疾(あくしつ)が七である。これに対しては定基の方からは、口舌、妬忌の二条を挙げて兎角を云うことも出来るわけだが、定基今差当って必ずしも妻を出そうと主張しているのでも無いから、やはり何も云わず黙っていたろう。何を云っても黙って居られる。自分も妻の右衛門同様、相手にされずに黙過されるに至っては匡衡も堪(こら)えきれなくなったろう。遂に力寿が非常に美(よ)い女だということが定基耽溺(たんでき)の基だというのに考えが触れて、美色ということに鉾(ほこ)が向いたろう。妲己(だっき)や褒□(ほうじ)のような妖怪(ばけもの)くさい恐ろしい美人を譬(たと)えに引くのも大袈裟(おおげさ)だが、色を貪(むさぼ)るという語に縁の有るところがら、楚王が陳を討破って後に夏姫(かき)を納(い)れんとした時、申公(しんこう)巫臣(ふしん)が諫(いさ)めた、「色を貪るを淫と為す、淫を大罰と為す」と云ったのを思い出して、色を貪るのを愚(ぐ)なことだと云いもしたろう。貪色(たんしょく)の二字は実に女の美(よ)いのを愛(め)ずる者にはピンと響かずには居ない語だ。夏姫というのは下らない女ではあったが、大層美い女だったには疑無い。荘王は巫臣の諫を容れて何事も無く済んだが、巫臣が不祥の女だと云った如く、到るところに不幸を播(ま)いた女であった。夏姫に力寿を比したでも何でも無かったろうが、貪色というが如き一語は定基には強く響いたことだろう。全く色を貪って居たには違無いのだから。すべて人は何様いう強(きつ)いことを言われても、急所に触れないのは捨てても置けるものであるが、たまたま逆鱗(げきりん)即ち急所に触れることを言われると腹を立てるものである。グッと反対心敵対心の火炎(ほのお)を挙げるものである。ここまでは好くない顔はしていても、別に逆らうでもなく、聞流しに聞いていた定基も、ここに至って爆発した。一ツは此頃始終足の裏に踏付けた飯粒のような古女房(ふるにょうぼう)を、何様しようか何様しようかと思って内々は問題にしていたせいでもあったろう、又一ツには譬(たと)えば絹の糸の結ばれて解き兼ねるようになっているのを如何に処理しようかと問題にして惑って居る時、好意ではあるにしても傍(そば)より急に其一端を強く引かれて愈々解き難くなったので、ええ面倒ナ切って終え、と剪刀(はさみ)を取出す気になるような、腹の中で決断がついて終ったせいもあったろう。定基は突然として、家にも似合わず、如是因(にょぜいん)、如是縁(にょぜえん)、如是因、如是縁、と繰返して謂(い)って、如何にしても縁というものは是非の無いものと見えまする、聖人賢人でも気に入らぬ妻は離別された先蹤(せんしょう)さえござる、まして我等は、と云って、背筋を立てた。匡衡は、ヤ、と云って聊(いささ)か身を退(ひ)いた。定基は幾月か扱っていた問題だったから、自然と後が口を衝(つ)いて出て来た。檀弓(だんぐう)に見えて居る通り、子上(しじょう)の母死して喪(そう)せずの条によれば、孔子(こうし)の御孫の子思子(ししし)が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は子(し)の先君子出母を喪せる乎(か)」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して猶(なお)哭(こく)す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人孔夫子(こうふうし)に去られたことは分明である。何様(どう)いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして宋(そう)の幵官氏(けんかんし)を娶(めと)られ、其翌年に鯉(り)字(あざな)は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして猶(なお)哭(こく)せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を斉(ととの)うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの歟(か)、或は幵官氏に宜しからぬことのありし歟。すべて遠き古(いにしえ)の事、考え知らんにも今如何ともし難けれど、我等凡愚にはただ因縁不可思議とのみ存ずる、何様いうものでござろうか、と意外な逆手に出られた。これは何も定基が匡衡より学識が勝(すぐ)れていた故というのでは無いが、定基の方は自分の境遇の現在から斯様(こう)いうことを実際の問題にして、いろいろ苦悩して考えていたからである。匡衡は一寸身を退(ひ)かずには居られなかった。相撲なら、ここで定基の出足さえ速かったら、匡衡は手もなく推出されて終(しま)うところだったが、何も定基は勝負(かちまけ)を争うつもりのわけでは無かったから、追窮するような態度に出無かった。が、匡衡の方では、明らかに自分が推戻されてたじたじとなったのを感じた。けれども匡衡も鳶肩倔強(えんけんくっきょう)の男児だ、斯様なると話が学問がかったところで推出されじまいになるのには堪えられなかった。何も争いを仕に来たので無いのは知れきったことだが、負けたようになって引退(ひきさが)ることは厭(いや)だった。そこは流石(さすが)に才子で、粟津の浜に精兵を率いて駈通るような文章を作る男だけに、檀弓は六国(りくこく)の人、檀弓一篇は礼記(らいき)に在りと雖(いえど)も、もと伝聞に出ずるもので、多く信ず可からず、というような論は、云えば云えぬでは無いが、そんな迂(う)なことを馬鹿正直に云うよりも、相手の推しを其儘(そのまま)にいなせて、「如何にも」と云ったまま少時(しばらく)考えたが、忽(たちま)ち思い得たところがあったか薄笑いして、成程、聖人も性の合わぬ妻を去られたということは有ったでもござろう、然し聖人は妻を去られたにしても、其後(そののち)他の婦人を迎えて妻とせられたことは無いように存ずる、其証は孔子の御子は伯魚一人限(ぎ)りで、幵官氏の出(しゅつ)ただ一人(いちにん)、其他に伯魚の弟、妹というものは無かったのでござる、又孔子が継室を迎えられた、それは何氏であったということも、それがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬでござるが、と談話は実に斡旋(あっせん)の妙を極めた。此度は定基の推した手を却(かえ)って軽く引いて置いて、側(そば)から横へ推したようなものだった。定基は抵抗されたのでは無いが、思わぬ方(かた)へ身を持って行かれたのであった。妻を去るのは去るにしても、力寿を其後(あと)へ入れることは無くてあるべきように云われたのである。元来聖人などを持出したのが、変なことだったので、変なことの結果は変なことになって終ったのである。双方の話は生活の実際に就てであったのだが、歯に物の挟まった物の云い方を仕合った結果は、書物の古話になってしまった。しかしそれも好かった、書生の閑談で事は終って了って、何等のいさくさも無く稜立(かどだ)つことも無く済んで了った。
 但し双方とも、平常の往来、学問文章の談論でなくて有ったことは互の腹に分って居ない筈は無かったのだから、匡衡の方は人が折角親切気で物を云ってやったに、分らぬ男だと思えば、定基の方は大きな御世話で先日は生才女(なまさいじょ)、今日は生学者が何を云って来居るのだ、それも畢竟(つまり)は家の女めが何か彼か外へ漏らすより、と腹なりを悪くしたに違無い。物の因縁というものは、善くなるのも悪くなるのも、都(す)べて斯様いうもので、親切は却って仇(あだ)となり、助けは却って障りとなって、正基は愈々(いよいよ)妻を疎み、妻は愈々夫を恨み、無言の冷眼と嫉妬(しっと)のひぞり言とは、日に戦ったが、定基は或はずみに遂に妻を去ろうと云い出して了った。女は流石に泣いたり笑ったりしたが、何様も仕方無く、遂に家を出て終った。当時の離別の形式などは今これを詳知する材料に乏しいが、いずれ美しく笑って別れるということは有ろう筈無く、男の瞋眼(しんがん)、女の怨気(えんき)、あさましく、忌わしい限りを尽して別れたことであったろう。それで無くては別れられる訳も無いのだから。特(こと)に女に取っては、一生を全く墨塗りにされるのだから、定基の妻は恨みもしたろう、悪(にく)みもしたろう、人でも無いもののように今までの夫を蔑視(べっし)もしたろう、行末悪(あし)かれ、地獄に墜(お)ちよ、畜生になれ、修羅になって苦め、餓鬼になって悩め、と呪(のろ)いもしたろう。そして自分の将来、何の光も無く、色も無く、香も無い、ただ真黒な冷い闇のみの世界を望み視(み)ては、愴然(そうぜん)栗然(りつぜん)として堪(こら)えきれぬ思いをしたことであったろう。
 およそ人間世界に夫婦別れをする女ほど同情に値するものはあるまい。それは決して純善から生ずるものでは無かろうから、同情に値しない個処が存在することを疑わない。たとえば定基の妻にしても妬忌(とき)の念が今少し寡(すくな)かったら如何に定基が力寿に迷溺(めいでき)したにせよ、強いて之を去るまでには至らなかったろうと想われる。然し何が何様あろうとも、一生の苦楽を他人に頼る女のことであるから、善かれ悪かれ取宛てた籤(くじ)の男に別れては堪(たま)るものではない。そこへ行くと男の方は五割も十割も割がよい。甚だしいのになると、雨晴れて簑(みの)を脱ぎ、水尽きて舟を棄つるような気分で女に別れて、ああせいせいしたなどと洒落(しゃれ)れているのである。それでいて其男が甚(ひど)い悪人でも無いというのが有るのだから、一体愛情というものの上には道徳が存するものか何様かと疑われるほどで、何にしても女は不利な地に立っている。定基は勿論悪人というのではないが、つまりは馬で言えば癇強(かんづよ)な馬で、人としては生一本(きいっぽん)の人であったろう。で、女房を逐出(おいだ)し得てからは、それこそせいせいした心持になって、渾身(こんしん)の情を傾けて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何一ツ心に任せぬことも無く、好きな狩猟でもして、山野を馳駆(ちく)して快い汗をかくか、天潤いて雨静かな日は明窓浄几(じょうき)香炉詩巻、吟詠(ぎんえい)翰墨(かんぼく)の遊びをして性情を頤養(いよう)するとかいう風に、心ゆくばかり自由安適な生活を楽んでいたことだったろう。ところが、それで何時迄も済めば其様(そん)な好いことは無いが、花に百日の紅無し、玉樹亦凋傷(ちょうしょう)するは、人生のきまり相場で、造物豈(あに)独り此人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の呪詛(じゅそ)が利いたのかも知らぬ。いつからという事も無く力寿はわずらい出した。当時は医術が猶(なお)幼かったとは云え、それでも相応に手の尽しかたは有った。又十一面の、薬師の、何の修法(しゅほう)、彼(か)の修法と、祈祷(きとう)の術も数々有った。病は苦悩の多く強いものでは無かったが、美しい花の日に瓶中(へいちゅう)に萎(しお)れゆくが如く、清らな瓜の筺裏(きょうり)に護られながら漸(ようや)く玉の艶を失って行くように、次第次第衰え弱った。定基は焦躁(しょうそう)しだした。怒りを人に遷(うつ)すことが多くなった。愁を独りで味わっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。或時はやや病が衰えて元気が回復したかのように、透徹(すきとお)るような瘻(やつ)れた顔に薄紅の色がさして、それは実に驚くほどの美しさが現われることも有ったが、それは却(かえ)って病気の進むのであった。病人は定基の愛に非常な感謝をして、定基の手から受ける薬の味の飲みにくいのをも、強いて嬉しげを装うて飲んだ。定基にはそれが分って実に苦かった。修法の霊水、本尊に供えたところの清水(せいすい)を頂かせると、それは甘美の清水であるので、病人は心から喜んで飲んで、そして定基を見て微かに笑う、其の此世に於て今はただ冷水を此様(かよう)に喜ぶかと思うと、定基は堪(たま)らなく悲しくて腹の中で泣けて仕方がなかった。病気は少しも治る方へは向かなかった。良い馬が確かな脚取りを以て進むように、次第次第に悪い方へのみ進んだ。其の到着点の死という底無しの谷が近くなったことは定基にも想いやられるようになったし、力寿にもそれが想い知られているようになったことが、此方の眼に判然と見ゆるようになった。しかし二人とも其の忌わしいことには、心をも言葉をも触れさせないように力(つと)めた。互に相棄てたくない、執着(しゅうじゃく)の心が、世相の実在に反比例して強く働いたからである。
 日影の動かない日は有り得ない。其時は来て其影は流れた。力寿は樹の葉が揺れ止んで風の無くなったのが悟られるように、遂に安らかに死んで終(しま)った。定基は自分も共に死んだようになったが、それは一時(いっとき)のことで、死なないものは死ななかった。たしかに生残っていた。別れたのだ。二つが一つになっていた魂が、彼は我を捨て、我は彼に従うことが叶わないで、彼は去り、我は遺ったのであった。ただ茫然(ぼうぜん)漠然としていたのみであった。
 生は相憐れみ、死は相捐(あいす)つという諺(ことわざ)がある。其諺通りなら定基は早速に僧を請じ経を誦(じゅ)させ、野辺の送りを営むべきであった。しかし普通の慣例の如くに然様(そう)いう社会事相を進捗(しんちょく)させるには定基の愛着は余りにも深くて、力寿は死んで確かに我を捐てたけれども、我は力寿を捐つるには忍びなかった。簀(さく)を易(か)え机(き)を按(お)き、花を供(くう)し香を焼(た)くような事は僕婢(ぼくひ)の為すがままに任せていたが、僧を喚(よ)び柩(ひつぎ)に斂(おさ)めることは、其命を下さなかったから誰も手をつけるものは無かった。一日過ぎ、二日過ぎた。病気の性の故であったろうか、今既に幾日か過ぎても、面ざし猶(なお)生けるが如くであった。定基は其の傍(かたえ)に昼も居た、夜も臥(ふ)して、やるせない思いに、吾(わ)が身の取置きも吾が心よりとは無く、ただ恍惚(こうこつ)杳渺(ようびょう)と時を過した。古き文に、ここを叙して、「悲しさの余りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき香(か)の口より出来(いでき)たりけるにぞ、うとむ心いできて、なく/\はふりてける」と書いてある。生きては人たり、死しては物たり、定基はもとより人に愛着を感じたのである、物に愛着を感じたのでは無かった。しかし物猶人の如くであったから、いつまでも傍に居たのであろう。そして或時思いも寄らず、吾が口を死人の口に近づけたのであろう。口を吸いたりけるに、と素樸(そぼく)に書いた昔の文は実に好かった。あさましき香の口より出来りける、とあるが、それは実に誰もが想像し兼ねるほどの厭(いと)わしい、それこそ真にあさましい香であったろう。死に近づいている人の口臭は他の何物にも比べ難い希有(けう)の香のするもので、俗に仏様くさいと云って怖れ忌むものであるが、まして死んでから幾日か経ったものの口を吸ったのでは、如何に愛着したものでも堪らなかったろう。然し定基は流石(さすが)に快男児だった、愛も痴もここまでに到れば突当りまで行ったものだった。其時その腐りかかった亡者が、嬉しゅうござんす定基さん、と云って楊枝(ようじ)のような細い冷い手を男の頸(くび)に捲(ま)きつけて、しがみ着いて来たら何様(どう)いうものだったか知らぬが、自然の法輪に逆廻りは無かったから、定基はあさましい其香に畏(おそ)れ戦(おのの)いて後へ退(すさ)ったのである。人間というものは変なもので、縁もゆかりも無い遠い海の鰹(かつお)や鮪(まぐろ)の死骸などは、嘗(な)めて味わって噛んで嚥(の)んで了うのであるから、可愛いい女の口を吸うくらい、当りまえ過ぎるほど当りまえであるべきだが、然様は出来ないのである。ダーキーニなら、これは御馳走と死屍(しかばね)を食べも仕ようが、ダーキーニでは無かった定基は人間だったから後へ退って了ったのであった。ここを坊さんの虎関は、会失レ配(たま/\はいをうしなひ)、以二愛厚一緩レ喪(あいこうをもつてさうをゆるうし)、因観二九相一(よりてきうさうをくわんじ)、深生二厭離一(ふかくをんりをしやうず)、と書いているが、それは文飾が届き過ぎて事実に遠くなっている。九相(きゅうそう)は死人の変化道程を説いたもので、膨張相(ぼうちょうそう)、青□(せいお)相、壊(え)相、血塗(けっと)相、膿瀾(のうらん)相、虫□(ちゅうかん)相、散相、骨相、土相をいうので、何も如何に喪を緩うしたとて、九相を観ずるまで長く葬らずに居たのでは無い、大納言の「口を吸ひたりけるに」の方が遥かに好い文である。そこで定基は力寿を葬ってしまった。葬という字は、死屍を、上も草なら下も草、草むらの中に捨てて了うことであり、ほうむるという言葉は、抛(ほう)り放つことで、野か山へ抛り出して終うのである。何様も致しかたの無い人の終りは、然様するか然様されるのが自然なのである。生相憐み、死相捐(す)つるのである、力寿定基は終(つい)に死相捐てたのである。
 力寿に捐てられ、力寿を捐てた後の定基は何様なったか。何様も無い、斯様(こう)も無い、ただそこには空虚があったばかりであった。定基は其空虚の中に、頭(かしら)は天を戴くでもなく、脚は地を履(ふ)むでも無く、東西も知らず南北も弁(わきま)えず、是非善悪吉凶正邪、何も分らずふらふらと月日を過した。其中(うち)に四月が来て、年々の例式で風祭りということをする時が来た。風祭りと云っても、万葉の歌の、花に嵐を厭うて「風な吹きそと打越えて、名に負へる森に風祭りせな」というような風流な風祭りではない。三河の当時の田舎の神祭りの式で、生贄(いけにえ)を神に献じて暴風悪風の田穀を荒さぬようにと祈るのであった。趣意はもとより悪いことではない、例は年々行われて来たことだった。定基は三河の守である、式には勿論あずかったのである。ただ其の生贄を献(ささ)げるというのは、野猪(いのしし)を生けながら神前に引据えて、男共が情も無くおろしたのであった。野猪は鈍物でも殺されるのを合点して忍従する訳は無いから、逃れようともすれば、抵抗もする。終に敵(かな)わずして変な声を出して哀しみ困(くるし)んで死んでしまうのであった。定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途で止める訳にはゆかぬから、自ら堪えて其儘(そのまま)に済ませて終った。生贄ということは何時から始まったか知らぬが、吾が邦(くに)では清らな神代の古(いにしえ)にはなかったようである。支那では古からあったことのようであるが、犠牲の観念は吾が神国にも支那の思想や文物の移入と共に伝わったのではないか、既に今昔物語には人身御供(ごくう)の物語が載っていて、遥かに後(のち)の宮本左門之助の武勇談などの祖と為っている。社会組織の発達の半途にあっては、生贄の是認せらるべき趨勢(すうせい)は有りもしようが、□□(こくそく)たる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、何様も善いことか善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである。換言すれば犠牲ということを可なりとする社会善というものが、果して善であろうか、然様で無かろうかも疑わしいことである。然し豪傑主義から云えば、勿論のこと、神に献げる犠牲などは論ずるにも足らぬことで、其様(そん)なことを否認などしては国家の組織は解体するのであるから、巌窟(がんくつ)に孤独生活でも営んでいる者で無い限りは犠牲ということを疑ってはならぬのが、人間世界の実状である。扨(さて)それから少し後(あと)のことであった。今まで狩猟などをも悦(よろこ)んでいたことであるから定基のところへ生き雉子(きじ)を献じたものがあった。定基は、此の雉子生けながら作りて食わん、味やよき、心みん、と言い出した。奴僕(ぬぼく)の中(うち)の心のあらい者は、主人を神とも思っているから、然様(さよう)でござる、それは一段と味も勝り申そうと云い、少し物わかりのした者は、それは酷(むご)いとは思ったが、諫(いさ)め止(とど)めるまでにも至らなかった。やがてむしらせると、雉子はばたばたとするのを、取って抑えてむしりにむしった。鳥は堪らぬから、涙の目をしばたたきて、あたりの人々を見る。目を見合せては流石に哀れに堪兼ねて立退くものもあったが、鳴き居るは、などと却(かえ)って興じ笑いつつ猶もむしり立てる強者(つわもの)もあった。□(むし)りおおせたから、おろさせると、刀(とう)に従って血はつぶつぶと出で、堪えがたい断末間の声を出して死んで終った。炒(あぶ)り焼きして心見よ、と云うと、情無い下司男(げすおとこ)は、其言葉通りにして見て、これはことの外に結構でござる、生身(いきみ)の炒(あぶ)り焼きは、死したるのよりも遥かに勝りたり、などと云った。いずれは此世の豪傑共である。定基はつくづくと見て居たが、終(つい)に堪えかねて、声を立てて泣き出して、自分の豪傑性を否認して終(しま)って、三河守も何もあらばこそ、衣袍(いほう)取繕う遑(いとま)も無く、半天の落葉ただ風に飛ぶが如く国府を後(あと)にして都へ出てしまった。
 勿論官職位階は皆辞して終った。疑い訝(いぶか)る者、引留める者も有ったには相違無い、一族朋友(ほうゆう)に非難する者も有ったには相違無い。が、もう無茶苦茶無理やり、何でも構わずに非社会的の一個のただの生物(いきもの)になって仕舞った。犠牲を献(ささ)げるのを正しいこととし、犠牲を献げるのを怠るごときは、神に対する甚しい非礼とし、不道とし、大悪とする。犠牲を要求するのは神の権威であり、高徳であり、一切を光被する最善最恵の神の自然の方則であり、或る場合には自ら進んで神の犠牲となり、自己の血肉肝脳を神に献げるのを最高最大最美最壮烈の雄偉な精神の発露として甘んずるのを純粋な道徳であるとする、従って然様(そう)して神に一致するを得るに至るを得(う)、ということで社会は勇健に成立っているのである。如何にもそれで無くては堅固な社会は成立たぬであろう。犠牲の累積と連続とで社会というものは成立っているのである。犠牲の否認というが如きは最卑最小最劣の精神である、犠牲の強要強求乃至(ないし)巧要巧求をするのは、豪傑乃至智者なのである。犠牲を甘受しなければ鮒一尾(いっぴき)、卵一箇も摂(と)れぬのである。旨(うま)く味わうが為に雉子(きじ)の一羽や二羽の生(いけ)づくりが何であろう。風の神にささげる野猪(いのしし)の一匹や二匹の生贄(いけにえ)が何であろう。易牙(えきが)は吾(わ)が子を炙(あぶ)り物にして君にささげたという。あの中間の犠牲取扱者は一体何様(どう)いうものであるか、卑怯者(ひきょうもの)なのか豪傑なのか。既に犠牲の累積と連続とで社会が成立っている以上は、夥(おびただ)しい数の犠牲取扱人が居なければならぬが、イヤ、一切の人間が大抵相互に犠牲となり犠牲を取り犠牲取扱人となっているのが此の人間世界の実相なのである。人間同士、甘んじて犠牲となり合うのが愛であり、犠牲を強要しあうのが争闘であり、然様でない犠牲の自、他、中間の種々相は即ち娑婆(しゃば)世界の実相である。自分はもう幻影に過ぎなかった愛の世界を失って娑婆即ち忍苦の世界の者となったのみだ、其娑婆に在って又ふたたび幻影の世界を求めて、遅かれ速かれふたたび浅ましい物の香に接しようとも思わぬ、と取留めも無く、物を思うでもなく、思わぬでもなく、五月雨(さみだれ)のしとしとと降る頃を、何か分らぬ時を過した。もう然様いう境界(きょうがい)を透過した者から云わせれば、所謂(いわゆる)黒山鬼窟裏の活計を為て居たのであった。そこへ従僕が突として現われて、手に何か知らぬ薄い筐(かたみ)様のものを捧げて来た。
「何か」と問うと、老いた其男の答は極めて物しずかであった。「其のさま卑しからぬ女の、物ごしもまことに宜しくはあれどいたく貧苦愁苦にやつれて見えたるが、願はくは此鏡を然るべく購(あがな)ひ取りてたまはれかしとて持参り深々と頼み入りましてのことに、強(きつ)くは拒(こば)み兼ねて、要無きこととは存じましたれど、御眼の前にもてまゐりたり」という。鏡が今の定基に何のかかわりがあろう。然し定基は何彼(なにか)と尋ねると、いずれ五位六位ほどの妻であろうか、夫の長い病(わずらい)の末か、或は何様いうかの事情の果にいたく窮乏して、如何ともし難くなって、吾(わ)が随一の宝の鏡を犠牲にして売って急を凌(しの)ごうということらしい。鏡は当時猶(なお)なかなかに貴いものであったのである。定基は其筺を開いて鏡を見ようとすると、其包み紙の萎(な)えたるに筆のあとも薄く、「今日(けふ)のみと見るになみだのます鏡なれにし影を人にかたるな」と書いてあった。事情が何も分った訳ではないが、女の魂魄(たましい)とする鏡を売ろうとするに臨みての女の心や其事情がまざまざと※(むね)[#「匈/月」、944-下-25]に浮んで来て、定基は闇然として眼を瞑(つむ)って打仰いで、堪えがたい哀れを催した。そこで、鏡は吾(われ)に要なければ返し取らせよ、定めて何彼と物の用あろうほどに、我がものは何なりと惜みなく其人に取らせよ、よくよくあわれびをかけよ、と吩附(いいつ)けて、涙の漏る眼をおし拭うた。この鏡を売りに来た女は何様いうものであったか、定基に何か因縁のあったものか、文化文政度の小説ならば、何かの仔細(しさい)を附加えそうなところだが、それは何も分明していない。恐らくは偶然に斯様(こう)いうことが湧いて来たのであろう。強いて筋道を求むれば、人が濁悪(じょくあく)の世界を離れようとする時には、不思議に上求菩提(じょうぐぼだい)の因縁となることが現出するもので、それは浄居天(じょうごてん)がさせるわざだ、という小乗的の談(はなし)があるが、仮りに其談に従えば、浄居天が定基を喚(よ)びに来てくれたものであったろう。定基は其婦人の窮を救うために、種々の自分の財物(ざいもつ)を与え取らせた後不思議に清々(すがすが)しい好い心持になった。そして遂に愈々(いよいよ)吾が家を棄てて出た。勿論定基の母は恩愛の涙を流したことでは有ろうが、これを塞(ふさ)ぎ遮ろうとするような人では無く、却(かえ)って其背影(うしろかげ)に合掌したことであったろう。棄恩入無為、真実報恩者の偈(げ)は、定基の※[#「匈/月」、945-上-22]の中(うち)にも断えず唱えられたろうが、定基の母にも恩愛の涙と共に随喜の涙によって唱えられたことであったろう。
 定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人が居たのである。定基は寂心の前に端座して吾が淵底を尽して寂心の明鑑を仰いだのである。寂心は出塵(しゅつじん)してから僅に二三年だが、今は既に泥水全く分れて、湛然(たんぜん)清照、もとより浮世の膠も無ければ、仏の金箔(きんぱく)臭い飾り気も無くなっていて、ただ平等慈悲の三昧(ざんまい)に住していたのである。二人の談話は何様(どん)なものだったか、有ったか無かったか、それも分らぬ。ただ然し機縁契合して、師と仰がれ弟子と容れられ、定基は遂に剃髪(ていはつ)して得度を受け、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、齢(とし)はと云えば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。
 寂照は入道してから、ただもう道心を持し、道行(どうぎょう)を励み道義を詮するほかに余念も無く、清浄安静(しょうじょうあんじょう)に生活した。眼前は日に日に朗らかに開けて、大千世界を観ること漸(ようや)くにして掌上の菓を視るが如くになり、未来は刻々に鮮やかに展じて、億万里程もただ一条の大路(たいろ)の砥(と)の如く通ずるを信ずるに至ったでもあったろう。仏乗の研修は寂心の教導のみならず、寂心の友たり師たる恵心の指示をも得て、俊敏鋭利の根器に任せて精到苦修したことでもあったろう。恵心はもとより緻密厳詳の学風の人であったから、寂照はこれに従って大(おおい)に益を得たことでもあろう、それで寂照を恵心の弟子のように云伝えることも生じたのであろう。しかも恵心はまた頭陀行(ずだぎょう)を厳修したので、当時円融院の中宮遵子(ゆきこ)の御方は、新たに金の御器ども打たせたまいて供養せられたので、かくては却ってあまりに過ぎたりと云って、恵心は乞食(こつじき)をとどめたと云う噂さえ、大鏡にのこり伝わっているほどである。頭陀行というのは、仏弟子たるものの如法に行うべき十二の行をいうので、何も乞食をするのみが唯一の事ではないが、衣(え)二、食(し)四、住(じゅう)六の法式の中(うち)の、第三、常乞食(じょうこつじき)の法が自然に十二行の中枢たるの観を為すに至っているので、頭陀行をすると云えば乞食をするということのようになっている。本来を云えば此の優美でも円満でも清浄でも無い娑婆世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分は汚(むさ)い色目も分らぬ襤褸(らんる)を着て甘んじ、慾得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれを護る住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向し了(おわ)らんとするのが頭陀行である。其の頭陀行の中(うち)の常乞食は、一には因縁所生(しょしょう)の吾が身を解脱に至らしむるまでの経程を為すのである、二には我に食を施す者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三には我に食を施すものをして悲心を生ぜしむ、四には我に我心無し、仏の教行に順ずるなり、五には満ち易く養い易く、安易の法なり、六には諸悪の根幹たる□慢(きょうまん)を破る、七には最卑下の法を行ずるに因りて最頂上相の感得を致す、八には他の善根を修する者の倣(なら)うことを生ず、九には男女大小の諸(もろもろ)の縁事を離る、十には次第に乞食(こつじき)するが故に、衆生の中(うち)に於て平等無差別(むしゃべつ)の心を生ず。これであるから余りに鄭重(ていちょう)な供養を提出された時に、恵心が其の燦爛(さんらん)たる膳部に対して「かくては余りに見ぐるし」と云ったのも無理はないことで、ぴかぴかきらきらしたものを「見ぐるしい」としたのは流石(さすが)に恵心であった。其の恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日に引かえて、今日は見るかげも無い青道心である。次第(しだい)乞食は之を苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。次第乞食とは、良い家も貧しい家も撰(えら)まず、鉢を持して次第に其門に立って食(し)を乞うのである。或日の事寂照は師の恵心の如く頭陀行(ずだぎょう)をした。一鉢三衣(いっぱつさんえ)、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家に喚(よ)び入れられた。通って見ると、食物を体よくして「庭に畳を敷きて、供養しようとしたのである。何の心も無く其畳に居て、唱え言をして食わんとした。其時そこに向いて下(おろ)してあった簾(すだれ)を捲上(まきあ)げたので、そなたを見ると、好き装束した女の姿が次第にあらわれた。簾は十分に上げられた。誰に言うたのか、女は「あの乞丐(かたい)、如是(かく)てあらんを見んと思いしぞ」と言った。寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とは確かに見合せた。女は正(まさ)しく寂照が三河守定基であった時に逐(おい)出(いだ)した其女であった。女の眼の中には無量なものがあった。怨恨(えんこん)の毒気のようなものもあった、勝利を矜(ほこ)るようなものもあった、冷やかなものもあった、甚だしい軽蔑(けいべつ)もあった、軽蔑し罵倒(ばとう)し去っての哀れみのようなものもあった、猶(なお)自己(おの)が不幸に沈淪(ちんりん)している苦痛を味わいかえして居るが如きものもあった、又其の反対に飽(あく)までも他を嘲(あざけ)りさいなむような、氷ででも出来た利刃の如きものもあって、それは定基の身体のあらゆるところを深く深く□(えぐ)りまわろうとした。割り口説いて云えば斯様(こう)でもあるが、何もそれが一ツ一ツに存在しているのではなく、皆が皆一緒になって、青黄赤白、何の光りともない毒火の□(ほのお)となって迸(ほとばし)り出て掩(おお)いかかるのであった。そして女は極めて緩く鈍く薄笑いに笑った。それは笑いというべきものであったか、何であったか分らぬ、如何なる画にも彫刻にも無い、妖異(ようい)で凄惨(せいさん)なものであった。
 定基が定基であったなら、一石が池水に投ぜられたのであったから、波瀾淪□(はらんりんい)はここに生ぜずには済まなかったろう。然し寂照は寂照であった、鳥影が池上に墜(お)ちたのみであったから、白蘋緑蒲(はくひんりょくほ)、かつて動かずであった。今は六波羅密(ろくはらみつ)の薄い衣(ころも)に身を護られて、風の射る箭(や)もとおらざる境界(きょうがい)に在るものであった。忍辱(にんじょく)波羅密(はらみつ)、禅波羅密、般若(はんにゃ)波羅密の自然の動きは、逼(せま)り来る魔□(まえん)をも毒箭をも容易に遮断し消融せしめた。寂照はただ穏やかに合掌した。諸仏菩薩(ぼさつ)の虚空に充満して居られて此方を瞰(み)ていらるるに対し、奉恩謝徳の念のみの湧き上るに任せた。我に吹掛ける火□の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼を与えるわけになった。我に射掛くる利箭(りせん)の毒は、それだけ彼女の懐を出でて彼女の※裏(きょうり)[#「匈/月」、946-下-14]を清浄(しょうじょう)にすることになった。我を切り、突き、□らんとする一切兇悪(きょうあく)の刀槍剣戟(とうそうけんげき)の類は、我に触れんとするに当って、其の刃頭が皆妙蓮華(みょうれんげ)の莟(つぼみ)となって地に落つるを観た。施行(せぎょう)の食(し)は彼の我に与うるによって彼の檀波羅密(だんはらみつ)を成(じょう)じ、我の彼に受けて酬(むく)いるに法を与うるを以てするの故に、我の檀波羅密を成じ、速疾得果の妙用を現ずるを観た。寂照は「あな、とうと」と云いて端然(たんねん)と食(し)を摂(と)り、自他平等利益(りやく)の讃偈(さんげ)を唱えて、しずかに其処を去った。戒波羅密や精進波羅密、寂照は愈々(いよいよ)道に励むのみであった。彼女は其後何様(どう)なったかは伝わって居らぬが、恐らくは当時の有識階級の女子であったから、多分は仏縁に引かれて化度(けど)されたでもあったろう。
 寂照は寂心恵心の間に挟まり、其他の碩徳(せきとく)にも参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、幾干歳(いくばくさい)も経ないで僧都(そうず)になった。僧都だの僧正(そうじょう)だのというのは、俗界から教界を整理する便宜上から出来たもので、本来から云えば、名誉でもなく、有るべき筈もないものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。寂心は僧官などは受けなかったようだが、一世の崇仰(すうぎょう)を得たことは勿論であって、後には天(あめ)が下を殆どおのが心のままにしたように謂(い)われ、おのれも寛仁の二年の冬には、自己満足の喜びの余りに「此世をば吾(わ)が世とぞおもふ望月(もちづき)のかけたることも無しとおもへば」と、実にケチな歌を詠んで好い気になった藤原道長も、寂心を授戒の師と頼んだのであった。何も道長が寂心に三帰五戒を授かったからとて寂心の為に重きを成すのでは無いが、あの果報いみじくて□慢至極であった御堂関白が、此の瘠(や)せぼけたおとなしい寂心を授戒の師とし、自分は白衣(びゃくえ)の弟子として、しおらしく其前に坐ったかと思うと、おかしいような気がする。寂心は長保四年の十月に眠るが如く此世を去ったが、其の四十九日に当って、道長が布施を為し、其諷誦文(ふうじゅもん)を大江匡衡が作っている。そして其請状は寂照が記している。それは今に存しているが、匡衡の文の日付は長保四年十二月九日とある。然るに続往生伝には、寂心の往生は長徳三年とあって、五年ほどの差がある。続往生伝は匡衡の孫の成衡(しげひら)の子の匡房の撰(せん)だから、これも信ずべきであるが、何様して然様(そう)いう相違が生じたのであろう。世外の老人の死だから、五年やそこらは何れが真実でも差支は無いが、想うに書写輾転(てんてん)の間に生じた何れかの誤りなるのみであろう。長徳の方が正しいかも知れぬ。長保四年の冬には寂照が日本に居無かったかと思われるから。
 長徳でも長保でもよい、寂心は晏然(あんぜん)として死んだのである。勿論俗界の仕事師ではなかったから、大した事跡は遺さなかった。
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