連環記
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著者名:幸田露伴 

 寂心は弥陀(みだ)の慈願によって往生浄土を心にかけたのみの、まことに素直な仏徒ではあったが、此時はまだ後の源空以後の念仏宗のような教義が世に行われていたのでなく、したがって捨閉擱抛(しゃへいかくほう)と、他の事は何も彼も擲(なげう)ち捨てて南無阿弥陀仏一点張り、唱名三昧に二六時中を過したというのではなく、後世からは余業雑業(よごうざつごう)と斥(しりぞ)けて終(しま)うようなことにも、正道正業(しょうどうしょうごう)と思惟(しゆい)さるる事には恭敬心(くぎょうしん)を以て如何にも素直にこれを学び之を行(ぎょう)じたのであった。で、横川に増賀の聖が摩訶止観(まかしかん)を説くに当って、寂心は就いて之を承(う)けんとした。
 増賀は参議橘恒平(たちばなのつねひら)の子で、四歳の時につきものがしたように、叡山に上(のぼ)って学問をしよう、と云ったとか伝えられ、十歳から山へ上せられて、慈慧に就いて仏道を学んだ。聡明(そうめい)驚くべく、学は顕密を綜(す)べ、尤(もっと)も止観に邃(ふか)かったと云われている。真の学僧気質(かたぎ)で、俗気が微塵(みじん)ほども無く、深く名利(みょうり)を悪(にく)んで、断岸絶壁の如くに身の取り置きをした。元亨釈書(げんこうしゃしょ)に、安和の上皇、勅して供奉(ぐぶ)と為す、佯狂垢汗(ようきょうこうかん)して逃れ去る、と記しているが、憚(はばか)りも無く馬鹿げた事をして、他に厭(いと)い忌まれても、自分の心に済むように自分は生活するのを可なりとした人であった。自分の師の慈慧が僧正に任ぜられたので、宮中に参って御礼を申上げるに際し、一山の僧侶(そうりょ)、翼従甚だ盛んに、それこそ威儀を厳荘にし、飾り立てて錬り行った。一体本来を云えば樹下石上にあるべき僧侶が、御尊崇下さる故とは云え、世俗の者共月卿雲客(げっけいうんかく)の任官謝恩の如くに、喜びくつがえりて、綺羅(きら)をかざりて宮廷に拝趨(はいすう)するなどということのあるべきでは無いから、増賀には俗僧どもの所為が尽(ことごと)く気に入らなかったのであろう。衛府の大官が立派な長剣を帯びたように、乾鮭(からさけ)の大きな奴を太刀(たち)の如くに腰に佩(お)び、裸同様のあさましい姿で、痩(や)せた牝牛(めうし)の上に乗(のり)跨(また)がり、えらそうな顔をして先駆の列に立って、都大路の諸人環視の中を堂々と打たせたから、群衆は呆れ、衆徒は驚いて、こは何事と増賀を引(ひき)退(さが)らせようとしたが、増賀は声を□(はげ)しくして、僧正の御車の前駈(さきがけ)、我をさしおいて誰が勤むべき、と怒鳴った。盛儀も何様(どう)も散々な打壊(ぶちこわ)しであった。こういう人だったから、或立派な家の法会があって、請われて其処へ趣く途中、是は名聞(みょうもん)のための法会である、名聞のためにすることは魔縁である、と思いついたので、遂に願主と□(むし)りあい的諍議(そうぎ)を仕出して終(しま)って、折角の法会を滅茶滅茶にして帰った。随分厄介といえば厄介な僧である。
 かかる狂気(きちがい)じみたところのある僧であったから、三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、途轍(とてつ)も無き□言(そげん)を吐き、悪行をはたらき、殊勝の筵(えん)に列(つらな)れる月卿雲客、貴嬪采女(きひんさいじょ)、僧徒等をして、身戦(おのの)き色失い、慙汗憤涙(ざんかんふんるい)、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している宇治拾遺(うじしゅうい)の巻十二の文は、ここに抄出するさえ忌(いま)わしいから省くが、虎関禅師は、出麁語(しゅっそご)の三字きりで済ませているから上品ではあるが事情は分らぬ。大江匡房は詞藻の豊な人であって、時代も近い人だったから、記せぬわけにもゆかぬと思って書いたのであろうが、流石(さすが)に筆鋒(ひっぽう)も窘蹙(きんしゅく)している。放臭風の三字を以て瀉下(しゃか)したことを写しているが、写し得ていない。誰人以二増賀一為二※[#「謬」の「言」に代えて「女」、928-中-18]※[#「士/毋」、928-中-18]之輩一(たれびとかぞうがをもつてきうあいのはいとなり)、啓二達后□一乎(こうゐにけいたつするものとなすか)、と麁語を訳しているが、これも髣髴(ほうふつ)たるに至らず、訳して真を失っている。仕方が無い。匡房の才の拙なるにあらず、増賀の狂の甚しきのみと言って置こう。釈迦(しゃか)の弟子の中で迦留陀夷(かるだい)というのが、教壇の上で穢語(えご)を放って今に遺り伝わっているが、迦留陀夷のはただ阿房(あほ)げているので、増賀のは其時既に衰老の年であったが、ふたたび宮□などに召出されぬよう斬釘截鉄的(ざんていせってつてき)に狂叫したのだとも云えば云えよう。実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。
 此の断岸絶壁のような智識に、清浅の流れ静かにして水は玉の如き寂心が魔訶止観(まかしかん)を学び承(う)けようとしたのであった。止観は隋(ずい)の天台智者大師の所説にして門人灌頂(かんじょう)の記したものである。たとい唐の□陵(びりょう)の堪然(たんねん)の輔行弘決(ぶぎょうぐけつ)を未だ寂心が手にし得無かったにせよ、寂心も既に半生を文字の中に暮して、経論の香気も身に浸々(しみじみ)と味わっているのであるから、止観の文の読取れぬわけは無い。然し甚源微妙(じんげんみみょう)の秘奥のところをというので、乞うて増賀の壇下に就いたのである。勿論同会の僧も幾人か有ったのである。増賀はおもむろに説きはじめた。止観明静(めいじょう)、前代未だ聞かず、という最初のところから演(の)べる。其の何様(どう)いうところが寂心の※(むね)[#「匈/月」、928-下-18]に響いたのか、其の意味がか、其の音声(おんじょう)が乎(か)、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、蓋(けだ)し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は大(おおい)に感激した随喜した。そして堪(たま)り兼ねて流涕(りゅてい)し、すすり泣いた。すると増賀は忽(たちま)ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と拳(こぶし)を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲(ちょうちゃく)するは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘(そのまま)になって終(しま)った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。是(かく)の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、流石(さすが)の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。何故(なにゆえ)に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。
 寂心が出家した後を続往生伝には、諸国を経歴して、広く仏事を作(な)した、とのみ記してあるばかりで、何様いうことがあったということは載せていないが、既に柔□(にゅうなん)の仏子となった以上は別に何の事も有ろう訳も無い。しかし諸国を経歴したとある其の諸国とは何処何処であったろうかというに、西は播磨(はりま)、東は三河にまで行ったことは、証(しょう)があって分明するから、猶(なお)遠く西へも東へも行ったかと想われる。其の播磨へ行った時の事である。これは堂塔伽藍(がらん)を建つることは、法(のり)の為、仏の為の最善根であるから、寂心も例を追うて、其のため播磨の国に行(ゆ)いて材木勧進をした折と見える。何処(いずこ)の町とも分らぬが、或処で寂心が偶然(ふと)見やると、一人の僧形の者が紙の冠を被(き)て陰陽師(おんようじ)の風体を学び、物々しげに祓(はらえ)するのが眼に入った。もとより陰陽道を以て立っている賀茂の家に生れた寂心であるから、自分は其道に依らないで儒道文辞の人となり、又其の儒を棄て仏(ぶつ)に入って今の身になってはいるものの、陰陽道の如何なるものかの大凡(おおよそ)は知っているのである。陰陽道は歴緯に法(のっと)り神鬼を駆ると称して、世俗の為に吉を致し凶を禳(はら)うものである。儒より云えば巫覡(ふげき)の道、仏より云えば旃陀羅(せんだら)の術である。それが今、かりにも法体(ほったい)して菩提(ぼだい)の大道(たいどう)に入り、人天の導師ともならんと心掛けたと見ゆる者が、紙の冠などして、えせわざするを見ては、堪え得らるればこそ、其時は寂心馬に打乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、忽(たちま)ち滾(こぼ)るように馬から下(くだ)り、あわてて走り寄って、なにわざし給う御房ぞ、と詰(なじ)り咎(とが)めた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞと咎めたのは流石に寂心で、実に宜かった。しかし紙の冠して其様(そん)な事をするほどの者であったから、却(かえ)ってけげんな顔をしたことであろう。祓(はらえ)を仕候也、と答えた。何しに紙の冠をばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほど少時(しばし)は仕て侍(はべ)るという。寂心今は堪えかねて、声をあげて大に泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師は心得かねて只呆れに呆れ、祓をしさして、これは如何に、と云えば、頼みて祓をさせたる主人(あるじ)も驚き呆れた。寂心は猶も独り感じ泣きて、彼(か)の紙の冠を攫(つか)み取りて、引破りて地に抛(なげう)ち、漣々(れんれん)たる涙を止(とど)めもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたまうとて如来の忌みたまうことを忘れて、世俗に反り、冠などして、無間地獄(むげんじごく)に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて然(さ)ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、飽(あく)まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、是(かく)の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、吾(わ)が生命(いのち)をも続(つな)ぐことのなりましょうや、道業(どうごう)猶(なお)つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、後世(ごせ)のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも斯様(こう)いう俗物は多いもので、そして又然様(そう)いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに対(むか)って突進しようと心ざした者共が、此の一関(いっかん)に塞止(せきと)められて已(や)むを得ずに、躊躇(ちゅうちょ)し、俳徊(はいかい)し、遂に後退するに至るものが、何程(どれほど)多いことであろうか。額を破り※(むね)[#「匈/月」、930-上-5]を傷つけるのを憚(はば)からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして終(しま)うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で後(あと)へ退(さが)って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を被(かぶ)った世渡り人(びと)の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、将又(はたまた)智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、却(かえ)ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一ト休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ御首(みぐし)の上に、勿体無くも俗の冠を被(き)玉(たま)うや、不幸に堪えずして斯様(かよう)の事を仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進し集めたる物どもを御房にまいらすべし、一人を菩薩(ぼさつ)に勧むれば、堂寺造るに勝りたる功徳である、と云って、弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙の冠被った僧は其後何様(どう)なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚(もんがく)だの、黄蘗(おうばく)の鉄眼(てつげん)だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。
 寂心が三河国を経行したというのは、晩秋過参州薬王寺有感(ばんしうさんしうやくわうじをよぎりてかんあり)という短文が残っているので此を証するのである。勿論入道してから三河へ行ったのか、猶(なお)在俗の時行ったのかは、其文に年月の記が無いから不詳であるが、近江掾(おうみのじょう)になったことは有ったけれど、大江匡房の慶保胤伝にも、緋袍之後(ひほうののち)、不改其官(そのかんをあらためず)と有り、京官(きょうがん)であったから、三河へ下ったのは、僧になってからの事だったろうと思われる。文に、余は是れ羈旅(きりょ)の卒、牛馬の走(そう)、初尋寺次逢僧(はじめてらをたづねついでそうにあひ)、庭前俳徊(ていぜんにはいくわいし)、灯下談話(とうかにだんわす)、とあるので、羈旅牛馬の二句は在俗の時のことのようにも想われるが、庭前灯下の二句は何様(どう)も行脚修業中のこととも想われる。薬王寺は碧海郡(あおみぐん)の古刹(こさつ)で、行基(ぎょうぎ)菩薩の建立するところである。何で寂心が三河に行ったか、堂寺建立の勧化(かんげ)の為だったか何様か、それは一切考え得るところが無いが、抖□(とそう)行脚の因(ちな)みに次第次第三河の方へまで行ったとしても差支はあるまい。特(こと)に寂心が僧となっての二三年は恰(あたか)も大江定基(さだもと)が三河守になっていた時である。定基は大江斉光(なりみつ)の子で、斉光は参議左大弁正三位(さたいべんしょうさんみ)までに至った人で、贈従二位大江維時(これとき)の子であった。大江の家は大江音人(おとんど)以来、儒道文学の大宗(たいそう)として、音人の子玉淵、千里、春潭(はるふち)、千古(ちふる)、皆詩歌を善くし、千里は和歌をも善くし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時は皆文章博士であり、維時の子の重光の子の匡衡(まさひら)も文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図を覧(み)れば、文章博士や大学頭(だいがくのかみ)の鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とは従兄弟同士である。で、定基は父祖の功により、早く蔵人(くろうど)に擢(ぬきん)でられ、尋(つい)で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、然様(そう)いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、特(こと)に古人の曾孫(そうそん)に道真公を出したので大(おおい)に家声を挙げた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時は実に古人六世の孫であり、匡衡の如きも亦文時に文章詩賦の点鼠(てんざん)を乞うたというから、定基も勿論同じ文雅の道の流れのものとして、自然保胤即ち寂心とは知合で、無論年輩の関係から保胤を先輩として交っていたろうことは明らかである。
 三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、其父祖の功労によったことは勿論であるが、長男でもあらばこそ、次男の身を以て其処まで出世していたことは、一は其人物が英発して居って、そして学問詞才にも長(た)け、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致を得ていたと後年になって支那の人にさえ称讃されたほどであるから、内に自から収め養うところの工夫にも切なる立派な人物、所謂(いわゆる)捨てて置いても挺然(ていぜん)として群を抜くの器量が有ったからであったろう。
 此の定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮世を思いきって、簪纓(しんえい)を抛(なげう)ち棄て、耀(かがや)ける家柄をも離れ、木の端、竹の片(きれ)のような青道心(あおどうしん)になって、寂心の許(もと)に走り、其弟子となったのは、これも因縁成熟(じょうじゅく)して其処に至ったのだと云えば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に彷徨(ほうこう)して、道心の帰趨(きすう)を抑えた後に、漸(ようや)く暮年になって世を遁(のが)れ、仏に入ったとは異なって、別に一段の運命機縁にあやつられたものであった。定基は家柄なり、性分なりで、もとより学問文章に親んで、其の鋭い資質のまにまに日に日に進歩して居たが、豪快な気象もあった人のこととて合間合間には田猟馳聘(でんりょうちへい)をも事として鬱懐(うつかい)を開いて喜びとしていた。斯様(こう)いう人だったので、若(も)し其儘(そのまま)に歳月を経て世に在ったなら、其の世に老い事に練れるに従って国家有用の材となって、おのずから出世栄達もした事だったろうが、好い松の樹檜(ひ)の樹も兎角に何かの縁で心(しん)が折られたり止められたりして、そして十二分の発達をせずに異様なものになって終うのが世の常である。定基は図らずも三河の赤坂の長(おさ)の許の力寿という美しい女に出会った。長というのは駅(うまや)の長で、駅館を主(つかさ)どるものが即ち長である。其の土地の長者が駅館を主どり、駅館は官人や身分あるものを宿泊休憩せしめて旅の便宜(びんぎ)を半公的に与える制度から出来たものである。何時からとも無く、自然の成りゆきで駅の長は女となり、其長の下には美女が其家の娘分のようになっていて、泊る貴人(きにん)等の世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、何処(どこ)其処(そこ)の長が家といえば、娼家(しょうか)というほどの意味にさえなった位であるが、初めは然程(さほど)に堕落したものでは無かったから、長の家の女の腹に生れて立派な者になった人々も歴史に数々見えている。力寿という名は宇治拾遺などには見えず、後の源平時代くさくてやや疑わしいが、まるで想像から生み出されたとも思えぬから、まず力寿として置くが、何にせよこれが定基には前世因縁とも云うものであったか素晴らしく美しい可愛(かわゆ)いものに見えて、それこそ心魂を蕩尽(とうじん)されて終ったのである。蓋(けだ)し又実際に佳(よ)い女でもあったのであろう。そこで三河の守であるもの、定基は力寿を手に入れた。力寿も身の果報である、赤坂の長の女(むすめ)が三河守に思いかしずかれるのであるから、誠実を以て定基に仕えたことだったろう。
 これだけの事だったらば、それで何事も無い、当時の一艶話で済んだのであろうが、其時既に定基には定まった妻があったのであって、其妻が徳川時代の分限者(ぶげんしゃ)の洒落(しゃれ)れた女房(にょうぼ)のように、わたしゃ此の家の床柱、瓶花(はな)は勝手にささしゃんせ、と澄ましかえって居てくれたなら論は無かったのだが、然様(そう)はいかなかった。一体女というものほど太平の恩沢に狎(なら)されて増長するものは無く、又嶮(けわ)しい世になれば、忽(たちま)ち縮まって小さくなる憐れなもので、少し面倒な時になると、江戸褄(えどづま)も糸瓜(へちま)も有りはしない、モンペイはいて。バケツ提げて、ヒョタコラ姿の気息(いき)ゼイゼイ、御いたわしの御風情やと云いたい様になるのであるが、天日とこしえに麗わしくして四海波穏やかなる時には、鬚眉(しゅび)の男子皆御前に平伏して御機嫌を取結ぶので、朽木形の几帳(きちょう)の前には十二一重の御めし、何やら知らぬびらしゃらした御なりで端然(たんねん)としていたまうから、野郎共皆ウヘーとなって恐入り奉る。平安朝は丁度太平の満潮、まして此頃は賢女(けんじょ)才媛(さいえん)輩出時代で、紫式部やら海老茶式部、清少納言やら金時大納言など、すばらしい女が赫奕(かくえき)として、やらん、からん、なん、かん、はべる、すべるで、女性(にょしょう)尊重仕るべく、一切異議申間敷(もおすまじく)候と抑えられていた代(よ)であったから、定基の妻は中々納まっては居なかった、瞋恚(しんい)の火(ほ)むらで焼いたことであったろう。いや、むずかしくも亦おそろしく焼き立てたことであったろう。ところが、火の傍へ寄れば少くとも髭(ひげ)は焼かれるから、誰しも御免蒙(こうむ)って疎み遠ざかる。此の方を疎みて遠ざかれば、余分に彼方を親み睦(むつ)ぶようになる。彼方に親しみ、此方に遠ざかれば、此方は愈々(いよいよ)火の手をあげる。愈々逃げる、愈々燃えさかる。不動尊の背負(しょ)って居らるる伽婁羅炎(かるらえん)という火は魔が逃げれば逃げるだけ其火□(ほのお)が伸びて何処までも追駈けて降伏(ごうぶく)させるというが、嫉妬(しっと)の火もまた追駈ける性質があるから、鬚髭(ひげ)ぐらい焼かれる間はましもだが、背中へ追いかかって来て、身柱大椎(ちりけだいつい)へ火を吹付けるようにやられては、灸(きゅう)を据えられる訳では無いし、向直って闘うに至るのが、世間有勝(ありがち)の事である。即ち出すの引くのという騒動になるのである。ここになると小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりゃこそ、時至れりとばかり筆を揮(ふる)って、有ること無いこと、見て来たように出たらめを描くのである。と云って置いて、此以下少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思っていただきたい。但し出たらめを描くようにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。
 定基の妻の名は何と云ったか、何氏(なにうじ)の女(むすめ)であったか、それは皆分らない。此頃の女は本名が無かった訳ではあるまいが、紫式部だって、本名はおむらだったかお里だったか、誰も知らない、清少納言だって、本名はおきよだったかおせいだったか、誰も知らない、知ってる方は手をあげなさいと云われたって、大抵の人は懐手で御免を蒙るでしょう。まさか赤ン坊の時から、紫式部や、おっぱい御上り、清少納言や、おしっこをなさい、ワンワン来い来い、などと云われたので無かろうことは分っているが、仙人の女王、西王母の、姓は侯(こう)、名は婉※(えんせん)[#「女+今」、932-中-26]、などと見えすいた好い加減なことを答えるよりは面倒だから、其儘(そのまま)にして置こう。美人だったか、醜婦だったかも不明だが、先ず十人並の人だったとして置いて差支えは無かろうが、其の気質だけは温和で無くて、強(きつ)い方だったろうことは、連添うた者と若い身そらで争い別れをしたことでも想いやられる。此女が定基に対して求めたことは無論恋敵(こいがたき)の力寿を遠ざけることであったろうが、定基は力寿に首ったけだったから、それを承知すべくは無いし、又直截(ちょくせつ)な性質の人だったから、吾(わ)が妻に対することでは有り、にやくやに云(いい)紛(まぎ)らして、□泥(たでい)滞水の挨拶を以て其場を済ませて置くというようなことも仕無かったろうから、次第次第に夫婦の間は険悪になっていったであろう。ところが、飢えたる者は人の美饌(びせん)を享(う)くるを見ては愈々飢の苦(くるしみ)を感ずる道理がある。飽(あ)ける者は人の饑餓(きが)に臨めるを見ては、余計に之を哀れむの情を催す道理がある。ここに定基に取っては従兄弟同士である大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家も其格が好い。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどの年頃であるが、才学は優劣無いにしても匡衡は既に文名を馳(は)せて大(おおい)に称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立って居る。そこへ持って来て匡衡は、定基が妻を迎えたと彼是(かれこれ)同じ頃に矢張り妻を迎えたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したと云われた英才で、祖父の維時の学を受け、長じて博学、渉(わた)らざるところ無しと世に称せられていた。其文章の英気があって、当時に水際だっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を□(ぬ)き駿馬(しゅんめ)に鞭(むち)うって、粟津の浜を過ぐるが如し、とあったほどで、前にも既に其事は述べた。しかも和歌までも堪能(かんのう)で、男ぶりは何様(どう)だったか、ひょろりとして丈高く、さし肩であったと云われるから、ポッチャリとした御公卿(おくげ)さん達(だち)の好い男子(おとこ)では無かったろうと思われる。さし肩というのは、菩薩肩(ぼさつがた)というのとは反対で、菩薩肩は菩薩像のような優しい肩つき、今でいう撫肩であり、さし肩というのは今いう怒り肩で漢語の所謂(いわゆる)鳶肩(えんけん)である。鳶肩豺目(さいもく)結喉(けっこう)露唇(ろしん)なんというのは、物の出来る人や気嵩(きがさ)の人に、得てある相だが、余り人好きのする方では無い。だから男振りは好い方であったとも思われないが、此の匡衡の迎えた妻は、女歌人(じょかじん)の中(うち)でも指折りの赤染(あかぞめ)右衛門(えもん)で、其頃丁度匡衡もまだ三十前、赤染右衛門も二十幾歳、子の挙周(たかちか)は生れていたか、未だ生れていなかったか知らないが、若盛りの夫婦で、女貌郎才、相当って居り、琴瑟(きんしつ)こまやかに相和して人も羨(うらや)む中であったろうことは思いやられるのである。さて定基夫婦の間の燻(ふすぶ)りかえり、ひぞり合い、煙(けむ)を出し火を出し合うようになっている傍に、従兄弟同士の匡衡夫婦の間は、詩思歌情、ハハハ、オホホで朝夕(ちょうせき)を睦(むつ)び合っているとすれば、定基の方の側からは、自然と匡衡の方は羨ましいものに見え、従って自分の方の現在が余計忌々(いまいま)しいものに見えたに違い無く、匡衡の方からは、定基の方を、気の毒な、従って下らないものに見ていたと思われる。まして定基の妻からは、それこそ饑(う)えたる者が人の美饌を享くるを見る感(おもい)がしたろうことは自然であって、余計にもしゃくしゃが募ったろうことは測り知られる。
 赤染右衛門は生れだちから苦労を背負(しょ)って来た女で、まだ当人が物の色さえ知らぬころから、なさけ無い争の間に立たせられたのであった。というのは右衛門の母が、何様いう訳合があったか、何様いう身分の女であったのか、今は更に知れぬことであるが、右衛門が赤染を名乗ったのは、赤染大隅守(おおすみのかみ)時用(ときもち)の子として育ったからである。然るに歌人として名高い平兼盛が、其当時、生れた子を吾(わ)が女(むすめ)と称して引取ろうとしたのである。検非違使沙汰(けびいしざた)となった。検非違使庁は非違を検(あらた)むるところであるから、今の警視庁兼裁判所のようなものである。母は其子を兼盛の胤(たね)では無いと云張り、兼盛は吾子(わがこ)だと争ったが、畢竟(ひっきょう)これは母が其子を手離したくない母性愛の本然(ほんねん)から然様(そう)云ったのだと解せられもするが、又吾が手を離れた女の其子を強いても引取ろうとするのはよくよく正しい父性愛の強さからだとも解せられるのである。であるから男女の情理から判断すれば、兼盛の方に分があって、女には分が乏しい。まして生長し上った赤染右衛門は歌人であった兼盛の血を享けたと見えて、才学凡(つね)ならぬ優秀なものとなり、赤染時用という検非違使から大隅守になっただけで別に才学の噂も無い平凡官吏の胤とも思われない。であるから、当時を去ること遠からぬ清輔朝臣抄などにも、実(まこと)には兼盛の女(むすめ)云々(うんぬん)と出ているのである。よくよく事情を察するに、当時は恋愛至上主義の行われていた世で、女は愛情の命ずるがままに行動して、それで自から欺かぬ、よい事と許されていた惰弱(だじゃく)時代であったから、右衛門の母は兼盛と、手を繋(つな)いで居た間に懐胎したが、何様いう因縁かで兼盛と別れて時用の許(もと)へ帰したのである。兼盛は卅六歌仙の一人であり、是忠親王の曾孫(そうそん)であり、父の篤行(あつゆき)から平姓を賜わり、和漢の才もあった人ではあるが、従五位上駿河守(するがのかみ)になっただけで終った余り世栄を享けなかった人であるから、年齢其他の関係から、女には疎まれたのかも知れない。兼盛の集を見ると、「いひそめていと久しうなりにける人に」「返事もさらにせねば」「物などいへどいとつれなき人に」「女のもとにまかりて、ものなどいふにつれなきを思ひなげくほどに鳥さへなけば」「女よにこひしとも思はじといひたりければ」「女返しもせざりければ」「なをいとつらかりける女に」「いといたう恨みて」「思ひかけて久しくなりぬる人のことさまになりぬときゝて」などという前書の恋の歌が多い。後撰集雑二に「難波(なには)がた汀のあしのおいのよにうらみてぞふる人のこゝろを」というのが読人不知(よみびとしらず)になって出て居るが、兼盛の歌である。新勅撰集恋二に「しら山の雪のした草われなれやしたにもえつゝ年の経(へ)ぬらん」とあるのも兼盛の歌である。後拾遺集恋一、「恋そめし心をのみぞうらみつる人のつらさを我になしつゝ」、続千載集恋五、「つらくのみ見ゆる君かな山の端(は)に風まつ雲のさだめなき世に」も兼盛の歌である。猶(なお)まだ幾首も挙げることが出来るが、いずれも此方負け、力負けの哀しい歌のみで、しかも何となく兼盛がかわゆそうに年が相手よりも老いているような気味合が見える。此女が兼盛に一時は靡(なび)いたが、年もそぐわず、気も合わないで終(つい)に赤染氏に之(ゆ)いて了ったのではないか、それが右衛門の母では無かったかと想われてならない。然し勿論取留もないことで、女が何様(どう)いう人であったかさえも考え得無い。兼盛だとて王家を出で下って遠からぬ人ではあり、女児を得たい一心から相当に突張ったので、その噂が今にまで遺り伝っているのだろうが、生憎(あいにく)と赤染時用が其時は検非違使であったから敵(かな)わなかった。女児は女と共に赤染氏に取られて終(しま)った。それで其娘は生長して、赤染右衛門となったのである。だから当時の人が、それらの経緯(いきさつ)を知らぬ筈はないから、右衛門が右衛門となるまでには、随分苦労をしたことだろうと十二分に同情されるのである。
 然し右衛門は不幸の霜雪に圧虐されたままに消朽ちてしまう草や菅(すげ)では無かった。当時の大権威者だった藤原道長の妻の倫子(とも)に仕えて、そして大(おおい)に才名を馳(は)せたのであった。倫子は左大臣源雅信の女(むすめ)で、もとより道長の正室であり、准三宮(じゅさんぐう)で、鷹司殿と世に称されたのである。此の倫子の羽翼(はがい)の蔭に人となったことは、如何ばかり右衛門をして幸福ならしめたか知れないが、右衛門の天資が勝(すぐ)れていなければ、中々豪華驕奢(きょうしゃ)の花の如く錦(にしき)の如く、人多く事多き生活の中に織込まれた一員となって、末々まで道長の輝かしい光に浴するを得るには至らなかったろう。詩人や歌人というものは、もとより人情にも通じ、自然にも親しむものであるが、それでも兎角奇特性があって、随分良い人でも常識には些(ちと)欠けていたり、妙にそげていたり、甚しいのになると何処か抜けていたりするものがあるが、右衛門は少しも然様(そう)いうところの無い、至極円満性、普通性の人で、放肆(ほうし)な気味合の強い和泉式部や、神経質過ぎる右大将道綱の母などとは選を異にしていた。これはずっと後の事であるが、吾(わ)が子の挙周の病気の重かった時、住吉の神に、みてぐら奉って、「千代(ちよ)経(へ)よとまだみどり児にありしよりたゞ住吉の松を祈りき」「頼みては久しくなりぬ住吉のまつ此度はしるしみせてよ」「かはらむと祈る命(いのち)はをしからで別ると思はむほどぞ悲しき」と三首の歌を記したなどは、種々の書にも見えて、いかにも好い母である。其挙周を出世させようとして、正月の司召(つかさめし)始まる夜、雪のひどく降ったのに鷹司殿にまいりて、任官の事を願いあげ、「おもへ君、かしらの雪をかきはらひ、消えぬさきにといそぐ心を」と詠んだので、道長も其歌を聞いて、哀れを催し、そこで挙周を其望み通り和泉守にしてやった。「払ひけるしるしも有りて見ゆるかな雪間(ゆきま)をわけて出づる泉(いづみ)の」と、道長か倫子か知らぬがお歌を賜わった。それに返して、「人よりもわきて嬉しきいづみかな雪げの水のまさるなるべし」など詠んでいるところは、実に好くいえば如才ない、悪く云えば世智に長(た)けた女である。いやそれよりもまだ驚くことは、夫の匡衡が或時家に帰って来ると、何か浮かぬ顔をして、物かんがえをしているようだ。そこで怪しく思って、何様(どう)遊ばしましたと問う。余り問われるので、匡衡先生も少し器量は善くないが泥を吐いた。実は四条中納言公任卿(きんとうきょう)、中納言を辞そうとなさるのである。そこで同卿が紀ノ斉名に辞表を草するように御依頼なされた。斉名は筆を揮(ふる)って書いた。ところで卿の御気に召さなかった。そして卿は更(あらた)めて大江ノ以言に委嘱された。以言も骨を折って起草した。然るに以言の草稿をも飽足らず思召(おぼしめ)して、其果に此の匡衡に文案して欲しいとの御頼みなのだ。斉名の文は典雅荘重であり、以言の文は奇を出し才を騁(は)せ、其風体各々異なれど、いずれも文章の海山の竜であり象である。然るに両人の文いずれも御心にあかずして、更に匡衡に篤く御頼みありたりとて、同題にして異色の文、既に二章まで成りたる上は、匡衡が作、いずれのところにか筆を立てむ。御辞退申兼ねて帰りては来たれども、これを思うに、われも亦御心に飽かずとせらるる文字をつらぬるに過ぎざらんと、口惜しくもまた心苦しくおもうのである、と話した。公任卿は元来学問詩歌の才に長けたまえるのに、かかる場合に立たせられた夫が、困りもし悶(もだ)えもするのは文章で立っている身の道理千万の事と、右衛門は何の答をすることも出来ず、しばし思案に沈んだが、斯様(かう)いうところに口を出して夫を扶(たす)けられる者は中々あるものでは無い。勿論右衛門は歌を善くしたばかりではない、法華経(ほけきょう)廿八品(にじゅうはちほん)を歌に詠じたり、維摩経(ゆいまきょう)十喩(じゅうゆ)を詠んだりしているところを見ると、学問もあった人には相違ないが、夫のおもて業(わざ)にしている文章の事などに、女の差出口などが何で出来るべきものであろう。然し流石(さすが)に才女で、世の中の鹹(から)いも酸いも味わい知っていた人であった。御道理でござりまする、まことに斉名以言の君の御文章の宜しからぬということは無いことと存じまする、ただし公任卿はゆゆしく心高き御方におわす、御先祖よりの貴かりし由を述べ立て、少しく沈滞の意をあらわして記したまわむには、恐らくは意にかないて善しとせられなむ、如何におぼす、と助言した。匡衡ここに於て成程と合点して、然様いう意味を含めて、辞表とは云え、やや威張ったような調子を交えて起草した。果してそれは公任卿の意にかなって、中納言左衛門督(かみ)を罷(や)めんことを請うの状は公(おおやけ)に奉呈され、匡衡は少くとも公任卿には斉名以言よりも文威の高いものと認められて面目を施した。其文が今遺っているから面白い。読んで見ると其中に、「臣幸(さいはひ)に累代上台の家より出でゝ、謬(あやま)って過分顕赫(けんかく)の任に至る。才は拙(つたな)くして零落(れいらく)せり、槐葉(くわいえふ)前蹤(ぜんしよう)を期(き)し難く、病重うして栖遅(せいち)す、柳枝(りうし)左の臂(ひぢ)に生(お)ふ可(べ)し」とあるところなどは、実に謙遜(けんそん)の中(うち)に衿持(きょうじ)をあらわして、如何にもおもしろい。槐葉前蹤を期し難し、と云って、少し厭味(いやみ)を云って置いて、柳枝左臂(さび)に生ずべしと、荘子を引張り出してオホンと澄ましたところなどは、成程気位の高い公任卿を破顔させたろうと思われる。それから加之(しかのみならず)と云って、皇太后の御上を云い、「猶子(いうし)の恩を蒙りて、兼ねて長秋(ちやうしう)の監たり、嘗薬(しやうやく)の事、相譲るに人無し」といい、「暫く彼(か)の仙院の塵を継(つ)いで、偏(ひと)へに此の后□(こうゐ)の月に宿せん」と云ったあたり、此時代の文章として十分の出来である。公任卿は悦(よろこ)んだに相違無いが、匡衡の此手柄も右衛門の助言から出たのである。公任卿は中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位にまでなられたこと人の知る通りである。右衛門の才は此話を考えると、中々隅へ置けるどころでは無い、男子であったらば随分栄達したであろう。これほどの女であるが、当時の風俗で、男女の間は自由主義が尚(とうと)ばれていたから、これも後の談(はなし)であるが、夫の匡衡には一時負かされた。匡衡は何様した因縁だったか、三輪の山のあたりの稲荷(いなり)の禰宜(ねぎ)の女に通うようになった。ここに三輪という地名を出したが、それは今昔物語なんどにも無く、自分の捏造(ねつぞう)でも無いが、地名も人名も何も無くては余り漠然としているから、赤染右衛門集に、三輪の山のあたりにや、と記してあるので用いたまでである。右衛門は如何に聡明(そうめい)怜悧(れいり)な女でも、矢張り女だから、忌々(いまいま)しくもあり、勘忍もしがたいから、定石どおり焼き立てたにちがい無い。匡衡よりも多分器量の上だったに疑い無い右衛門に責められては、相手が上手(うわて)だったから敵(かな)わない、一応は降参して、向後(きょうこう)然様(さよう)なところへはまいりませぬと謝罪して済んだが、そこには又あやしきは男女の縁で、焼木杭(やけぼっくい)は火の着くこと疾(はや)く、復(また)匡衡はそこへ通い出した。すると右衛門は、すっかり女の身許(みもと)から、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べ上げて置いて、丁度匡衡の其処に居た折、「我が宿のまつにしるしも無かりけり杉むらならば尋ねきなまし」という歌を使に持たせて、受取証明を取ってこいと責めたてた。待つに松をかけて、吾家(わがや)へ帰るべきを忘れたのを怨(うら)んだも好いが、相手の女が稲荷様の禰宜(ねぎ)の女というので、杉村ならば帰ったろうにと云ったのは、冷視と蔑視(べっし)とを兼ねて、狐にばかされているのが其様(そんな)に嬉しいかと云わぬばかりに、ぴしゃりと一本見事に見舞っている。人に歌を読みかけられて返歌をせぬのは七生(しちしょう)暗(やみ)に生れるなどという諺(ことわざ)のある日本の人、まして匡衡だって中古三十六歌仙の中に入っている男だから、是非無くも「人をまつ山路(やまぢ)わかれず見えしかば思ひまどふにふみすぎにけり」と返事して使をかえした。然程(さほど)に待っていてくれるとも分らず思いまどうて余の路に踏みまどうた、相済みませぬ、恐れ入りました、という謝まりの証文の一札の歌であって、※中(きょうちゅう)[#「匈/月」、936-中-8]も苦しかったろうが歌も苦しい。ふみすぎにけり、で杉を使ったなどは随分せつない、歌仙の歌でも何でも有りはしない、音律不たしかな切(せつ)な屁(へ)のような歌である。しかし是に懲らされて、狐は落されてしまったと見え、それからは、鳶肩(えんけん)長身、傲骨(ごうこつ)稜々(りょうりょう)たる匡衡朝臣も、おとなしくなって、好いお父さんになっていたという話である。此歌も余り拙(まず)いから、多分後の物語作者などが作ったのだろうと思われては迷惑であるから断って置くが、慥(たしか)に右衛門集に出ているのである。
 赤染右衛門は斯様(こう)いう女である。こういう女が身体の血の気も漲(みなぎ)っていれば、心の火の熱も熾(さか)んな若盛りで、しかも婚後の温い生活を楽んでいる際に当って、近親の定基の家には、卑しい身分の一艶婦のために冷雨悲風が起って、其若い妻が泣きの涙でいるということを知っては、其儘(そのまま)に他所(よそ)の事だと澄ましかえっては居にくいことである。まして段々と風波が募って、定基の妻が日に日に虐(いじ)められるようになっては、右衛門に対して援(すくい)を求めるように何等かのことをしたかも知れない。そこで何も弁護士然と出かけた訳では無かろうが、右衛門は定基の妻のために、折にふれて何かと口をきいたことは自然であったろう。定基の家と右衛門とは、ただ一家というばかりの親しさのみでは無かったようである。これは少し言過ぎるかも知らぬが、定基の兄の為基、これは系図には、歌人とあり、文章博士、正五位下、摂津守とある。此人と右衛門との間には、何様(どう)もなみならぬ心のゆきかいが有ったかと見ゆるのである。此の頃の雑談(ぞうだん)を書記した類(たぐい)の書籍(しょじゃく)にも、我が知れる限りでは右衛門為基の恋愛譚(だん)は見当らず、又果して恋物語などが有ったのか否かも不明であるが、為基と右衛門との間に、歌の贈答が少くなかったことは、顕証が存している。ただし其恋があったとしても、双方ともに遠慮がちで終ったのかも知れないし、且又為基は病弱で、そして蚤(はや)く亡くなったことは事実である。とにかく、此の事は別にして其儘遺して置くことにする。が、為基定基兄弟の母と右衛門との間にも後になって互に問いおとずれし合ったことのあったのは、これも贈答の歌が幾首も残っているので分明である。梅の花、常夏の花などにつけて、定基の母の歌をおこしたのに右衛門の返ししたのもあり、又右衛門の家に定基の母が宿って、夜ふかき月をながむるに虫の声のみして人皆寝しずまりたるに、「雲ゐにてながむるだにもあるものを袖にやどれる月を見るらむ」と老女の悲愴(ひそう)の感をのべたのがある。為基定基の弟に成基(しげもと)、尊基(たかもと)が無かった訳ではないが、頼もしくした二人に離れて、袖(そで)にやどれる月を見るかな、とは何という悲しい歌だろう。右衛門も感傷にたえで、「ありあけの月は袂(たもと)にながれつゝかなしき頃の虫の声かな」と返している。此歌は続古今集に載せられている。一家の事だから、交通もかくの如く繁かったことだろう、何も不思議はない。
 かかる一家の間柄である。かかる人品の赤染右衛門である。虐(しいた)げられた定基の若妻に同情し、又無論のこと力寿の方の肩を持ちそうもない定基の母にも添うて、右衛門は或日定基にむかって、美しいのみの力寿に溺(おぼ)るることの宜(よ)からぬことを説き、妻をやさしくあつかうべきことを、説きすすめたのである。実にそれは、言葉にそつは無く、情理兼ね到って、美しくもまたことわりせめて上手に説いたことであったろう。元来財力あるものは財を他(ひと)に貸して貧者を扶(たす)けることが出来る、才力ある者は才を他に貸して拙者を助けることが出来、自然と然様(そう)いうことの生ずるのが世の自然のありさまである。それで赤染右衛門ほどになると、自分の子の挙周が恋に落ちていた時になって、恋には最大武器である和歌を挙周に代って作ってやって、それを相手の女に寄せさせたことが数々(しばしば)有った、実に頼もしい有難いお母(っか)さんで、坊ちゃん挙周はお蔭で何程(いくら)好い男になっていたか知れない。其歌は今に明らかに残っているから、嘘でも何でもない。ところが相手の女もまだ若くて、中々赤染右衛門の代作の手はしの利いている歌に返歌は出来なかったが、幸に其の姉分に和泉式部という偉い女歌人があったから、それに頼んで答をして貰った。和泉式部の代作の恋の歌も今確存しているのである。双方手だれのくせものであるから、何の事は無い恋愛弁理士同士の雄弁巧説、うるわしかりける次第なりと云った形で、斯様いうことのつづきの末が、高(こう)ノ武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなお)という厭(いや)なじじいが、卜部(うらべ)の兼好という生ぐさ坊主に艶書の注文をしたなどという談(はなし)を生ずるに至っているのである。小倉百人一首に載っている、赤染右衛門、やすらはで寝なましものを小夜(さよ)ふけて傾(かたぶ)くまでの月をみしかな、は実に好い歌であるが、あれも右衛門自身の情から出た歌では無くて、人に代って其時の情状を写実に詠んだものである。恐れ入った妙作で、綿々たる情緒、傾くまでの月を見しかな、と彼(あ)の様に「かな」の二字のピンと響く「かな」は今に至るまで百千万度も使われたかなの中にも滅多には無い。あのような歌をよこされては、男子たるもの蜘蛛(くも)の糸に絡められた蜻蜒(とんぼう)のようになって了って、それこそカナ縛りにされたことだったろう。これほどの赤染右衛門に出て来られて、有り余る才を向う側に用立てられて、しかも正しい道理のある方に立って物を云われては、定基たるものも敵(かな)う筈は無い、差当りだけでも、如何にも御もっともと、降伏せざるを得ないところであった。
 ところが然様はいかなかった。定基に取っては力寿のかわゆさが骨身に徹していたのである。イヤ、骨身に徹するどころではない、魂魄(たましい)なども疾(とっ)くに飛出して終(しま)って、力寿の懐中(ふところ)の奥深くに潜(もぐ)り込んで居たのである。妻は既に妻ではないのであった、袖の上の飛花、脚の下の落葉ほどにも無いものであったのである。妻に深刻な眼で恨まれたこともあったろうが、それは籬(まがき)の外の蛍ぐらいにしか見えなかったであろう。母に慈愛のまなざしで諭されたことも有ったろうが、それも勿体ないが雲辺(うんぺん)の禽(とり)の影、暫時(しばし)のほどしか心には留(とど)まらなかったのであったろう。如何に歌人でも才女でも、常識の円満に発達した、中々しっかり者の赤染右衛門でもが、高が従兄弟の妻である。そんなものが兎や角言ったとて、定基の耳には頭(てん)から入らなかったのであろう。別に抗弁するのでも無ければ、駁撃(ばくげき)するというでも無く、樹間の蝉声(せんせい)、聴き来って意に入るもの無し、という調子にあしらって終(しま)った。右衛門も腕の力を暖簾(のれん)にごまかされたようになっては、流石(さすが)にあれだけの器量のある女だから、やっきとなって色々にかき口説いたろうが、人間には生れついて性格技能のほかに、丈の高さというものがあるのだから、定基の馬鹿に丈の高いのには、右衛門の手が届きかねたのであろう、何の手応えも生じかねたのである。世の中には何も出来ないで丈ばかり高いものがあるが、それは戦乱の世なら萱(かや)や薄(すすき)のように芟(か)り倒されるばかり、平和の世なら自分から志願して狂人(きちがい)になる位が結局(おち)で、社会の難物たるに止(とどま)るものだが、定基は蓋(けだ)し丈の高い人だったろう。そこで右衛門は自尊心や自重心を傷つけられたに過ぎぬ結果になって、甚だ面白く無く、手持無沙汰になって、定基の妻や母にも面目無く、いささか器量を下げて、腹の中は甚だ面白からず、何様(どう)ぞ宜く御考えなされまして、という位を定基に言って引退(ひきさが)るよりほか無くなった。此処で何様いう風に右衛門が巧みに訴え、上手に弁じ、手強(てづよ)く筋を通して物語ったかは、一寸書き現わしたくもあるところだが、負けた相撲の手さばきを詳しく説くのもコケなことだから省いて置く。
 定基の方は、好かない煙が鼻の先を通った程の事で済ませて了ったが、収まらないのは右衛門の腹の中だった。右衛門に取って直接に苦痛が有るの無いのということでは無いが、自分の思ったことが何の手応えも無く、風の中へ少しの灰を撒(ま)いたように消えて終ったというようなことは、誰に取っても口惜(くや)しいものである。まして相当の自負心のあるものには、自分が少しの打撃を蒙(こうむ)ったよりも忌わしい厭(いと)わしい感じを生じ勝のものである。それに加えて、相互の間に敬愛こそは有れ、憎悪も嫌悪もあるべき筈は無い自分に対してさえ、然様(そう)いう軽視若(もし)くは蔑視(べっし)を与える如き男が、今は嫌厭(けんえん)から進んで憎悪又は虐待をさえ与えて居る其妻に対しては、なまじ横合からその妻に同情して其夫を非難するような気味の言を聞かされては、愈々(いよいよ)其妻に対して厭悪(えんお)の情を増し虐待の状を増すことであろうと思うと、其妻に対しても気の毒で堪(たま)らぬ上に、其男の憎らしさが込みあげて来てならぬ。吾(わ)が心の平衡が保てぬというほどでは無いが、硬粥(かたがゆ)が煮えるときにブツブツと小さな泡が立っては消え、消えては復(また)立つというような、取留めのない平らかならぬものが腹中に間断なく起滅するのを免れなかったことだったろう。そこで右衛門は遂に夫の匡衡に委曲を語って、定基の近状の良くないことを云い、其妻のあわれなことを告げ、何とかしてやって欲しいことを訴えた。男は男で、他(ひと)の斯様(こん)なことには取合いたがらぬものである。匡衡は一応はただ其儘(そのまま)に聞流そうとした。しかし右衛門は巧みに物語った。匡衡はここで取合わずに過して了えば、さも自分も定基と同じような場合にあっては吾が妻に対して冷酷である男のように、自分の妻から看做(みな)さるるであろうかのように感じずには居られなかったであったろう。そこで定基に対してよりは、自分の妻に対しての感じから動き出して、よし、それでは折を見て定基に話ししよう、ということになった。匡衡と右衛門との間は実に仲が好かったのであった。
 男と女との間の□(そむ)きあったところへ口を出すほど危険なことは無い。もし其男女の仲が直れば、後(あと)で好く思われる筈は無い、双方の古疵(ふるきず)を知っている一(いつ)の他人であるからである。又仲直りが出来ずに終れば、もとより口をきいた甲斐もないのであるからである。しかし親類合のことであって見ると、又別である。が、匡衡も定基も血の気の多い、覇気満々の年頃ではあり、双方とも学問はあり才器はあり、かりそめの雑談を仕合っても互に負けては居ぬ頃合であるから、斯様(こう)いう談(はなし)などは、好い結果を生じそうにないのが自然であった。然し双方とも幸に愚劣な高慢的な人で無かったから、何等の後の語り草になるほどのことも無くて済んでしまったが、互の感情は□離(けいり)し、そして匡衡は匡衡、定基は定基で、各々峭立(しょうりつ)して疎遠になるに終ったことだったろう。察するに一方は、路花墻柳(ろかしょうりゅう)の美に目を奪われるの甲斐無きことをあげて、修身斉家の大切なことを、それとなく諷(ふう)したに違いない。それに対し反対の仕ようは無いから、一方は黙っていたに違いない。此の黙っているというのは誠に張合の無い困ったことだから、又更に一方は大江の家が儒を以て立っているのだから、家の内の斉(ととの)わないで、妻を去るに至るの何のということは、よくよくの事でなければ、一家一門に取って取分け世間の非難を被って、非常に不利であることを云いもしたろう。これに対しても一方は又黙っていたろう。七出(しちしゅつ)の目(もく)に就いても言議に及んだことであろう。七出というのは、子無きが一、淫佚(いんいつ)が二、舅姑(きゅうこ)に事(つか)えざるが三、口舌(くぜつ)多きが四、盗窃が五、妬忌(とき)が六、悪疾(あくしつ)が七である。これに対しては定基の方からは、口舌、妬忌の二条を挙げて兎角を云うことも出来るわけだが、定基今差当って必ずしも妻を出そうと主張しているのでも無いから、やはり何も云わず黙っていたろう。何を云っても黙って居られる。自分も妻の右衛門同様、相手にされずに黙過されるに至っては匡衡も堪(こら)えきれなくなったろう。遂に力寿が非常に美(よ)い女だということが定基耽溺(たんでき)の基だというのに考えが触れて、美色ということに鉾(ほこ)が向いたろう。妲己(だっき)や褒□(ほうじ)のような妖怪(ばけもの)くさい恐ろしい美人を譬(たと)えに引くのも大袈裟(おおげさ)だが、色を貪(むさぼ)るという語に縁の有るところがら、楚王が陳を討破って後に夏姫(かき)を納(い)れんとした時、申公(しんこう)巫臣(ふしん)が諫(いさ)めた、「色を貪るを淫と為す、淫を大罰と為す」と云ったのを思い出して、色を貪るのを愚(ぐ)なことだと云いもしたろう。貪色(たんしょく)の二字は実に女の美(よ)いのを愛(め)ずる者にはピンと響かずには居ない語だ。夏姫というのは下らない女ではあったが、大層美い女だったには疑無い。荘王は巫臣の諫を容れて何事も無く済んだが、巫臣が不祥の女だと云った如く、到るところに不幸を播(ま)いた女であった。夏姫に力寿を比したでも何でも無かったろうが、貪色というが如き一語は定基には強く響いたことだろう。全く色を貪って居たには違無いのだから。すべて人は何様いう強(きつ)いことを言われても、急所に触れないのは捨てても置けるものであるが、たまたま逆鱗(げきりん)即ち急所に触れることを言われると腹を立てるものである。グッと反対心敵対心の火炎(ほのお)を挙げるものである。ここまでは好くない顔はしていても、別に逆らうでもなく、聞流しに聞いていた定基も、ここに至って爆発した。一ツは此頃始終足の裏に踏付けた飯粒のような古女房(ふるにょうぼう)を、何様しようか何様しようかと思って内々は問題にしていたせいでもあったろう、又一ツには譬(たと)えば絹の糸の結ばれて解き兼ねるようになっているのを如何に処理しようかと問題にして惑って居る時、好意ではあるにしても傍(そば)より急に其一端を強く引かれて愈々解き難くなったので、ええ面倒ナ切って終え、と剪刀(はさみ)を取出す気になるような、腹の中で決断がついて終ったせいもあったろう。定基は突然として、家にも似合わず、如是因(にょぜいん)、如是縁(にょぜえん)、如是因、如是縁、と繰返して謂(い)って、如何にしても縁というものは是非の無いものと見えまする、聖人賢人でも気に入らぬ妻は離別された先蹤(せんしょう)さえござる、まして我等は、と云って、背筋を立てた。匡衡は、ヤ、と云って聊(いささ)か身を退(ひ)いた。定基は幾月か扱っていた問題だったから、自然と後が口を衝(つ)いて出て来た。檀弓(だんぐう)に見えて居る通り、子上(しじょう)の母死して喪(そう)せずの条によれば、孔子(こうし)の御孫の子思子(ししし)が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は子(し)の先君子出母を喪せる乎(か)」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して猶(なお)哭(こく)す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人孔夫子(こうふうし)に去られたことは分明である。何様(どう)いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして宋(そう)の幵官氏(けんかんし)を娶(めと)られ、其翌年に鯉(り)字(あざな)は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして猶(なお)哭(こく)せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を斉(ととの)うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの歟(か)、或は幵官氏に宜しからぬことのありし歟。すべて遠き古(いにしえ)の事、考え知らんにも今如何ともし難けれど、我等凡愚にはただ因縁不可思議とのみ存ずる、何様いうものでござろうか、と意外な逆手に出られた。これは何も定基が匡衡より学識が勝(すぐ)れていた故というのでは無いが、定基の方は自分の境遇の現在から斯様(こう)いうことを実際の問題にして、いろいろ苦悩して考えていたからである。匡衡は一寸身を退(ひ)かずには居られなかった。相撲なら、ここで定基の出足さえ速かったら、匡衡は手もなく推出されて終(しま)うところだったが、何も定基は勝負(かちまけ)を争うつもりのわけでは無かったから、追窮するような態度に出無かった。が、匡衡の方では、明らかに自分が推戻されてたじたじとなったのを感じた。けれども匡衡も鳶肩倔強(えんけんくっきょう)の男児だ、斯様なると話が学問がかったところで推出されじまいになるのには堪えられなかった。何も争いを仕に来たので無いのは知れきったことだが、負けたようになって引退(ひきさが)ることは厭(いや)だった。そこは流石(さすが)に才子で、粟津の浜に精兵を率いて駈通るような文章を作る男だけに、檀弓は六国(りくこく)の人、檀弓一篇は礼記(らいき)に在りと雖(いえど)も、もと伝聞に出ずるもので、多く信ず可からず、というような論は、云えば云えぬでは無いが、そんな迂(う)なことを馬鹿正直に云うよりも、相手の推しを其儘(そのまま)にいなせて、「如何にも」と云ったまま少時(しばらく)考えたが、忽(たちま)ち思い得たところがあったか薄笑いして、成程、聖人も性の合わぬ妻を去られたということは有ったでもござろう、然し聖人は妻を去られたにしても、其後(そののち)他の婦人を迎えて妻とせられたことは無いように存ずる、其証は孔子の御子は伯魚一人限(ぎ)りで、幵官氏の出(しゅつ)ただ一人(いちにん)、其他に伯魚の弟、妹というものは無かったのでござる、又孔子が継室を迎えられた、それは何氏であったということも、それがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬでござるが、と談話は実に斡旋(あっせん)の妙を極めた。此度は定基の推した手を却(かえ)って軽く引いて置いて、側(そば)から横へ推したようなものだった。定基は抵抗されたのでは無いが、思わぬ方(かた)へ身を持って行かれたのであった。妻を去るのは去るにしても、力寿を其後(あと)へ入れることは無くてあるべきように云われたのである。元来聖人などを持出したのが、変なことだったので、変なことの結果は変なことになって終ったのである。双方の話は生活の実際に就てであったのだが、歯に物の挟まった物の云い方を仕合った結果は、書物の古話になってしまった。しかしそれも好かった、書生の閑談で事は終って了って、何等のいさくさも無く稜立(かどだ)つことも無く済んで了った。

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