運命
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著者名:幸田露伴 

呉江(ごこう)の邑丞(ゆうじょう)鞏徳(きょうとく)、蘇州府(そしゅうふ)の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且(かつ)曰く、聞く君が家建文(けんぶん)皇帝をかしずくと。彬(ひん)驚いて曰く、全く其(その)事(こと)無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出(い)で、舟に上(のぼ)りて京口(けいこう)に至り、六合(ろくごう)を過ぎ、陸路襄陽(じょうよう)に至り、廖平が家に至りたもうに、其(その)後(あと)を訊(と)う者ありければ、遂(つい)に意を決して雲南(うんなん)に入りたもう。


 永楽(えいらく)元年、帝雲南(うんなん)の永嘉寺(えいかじ)に留(とど)まりたもう。二年、雲南を出(い)で、重慶(じゅうけい)より襄陽(じょうよう)に抵(いた)り、また東して、史彬(しひん)の家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州(こうしゅう)、天台(てんだい)、雁蕩(がんとう)の遊(ゆう)をなして、又雲南に帰りたもう。
 三年、重慶の大竹善慶里(たいちくぜんけいり)に至りたもう。此(この)年(とし)若(もし)くは前年の事なるべし、帝金陵(きんりょう)の諸臣惨死(さんし)の事を聞きたまい、□然(げんぜん)として泣きて曰く、我罪を神明に獲(え)たり、諸人皆我が為(ため)にする也(なり)と。
 建文帝(けんぶんてい)は今は僧応文(おうぶん)たり。心の中(うち)はいざ知らず、袈裟(けさ)に枯木(こぼく)の身を包みて、山水に白雲の跡を逐(お)い、或(あるい)は草庵(そうあん)、或は茅店(ぼうてん)に、閑坐(かんざ)し漫遊したまえるが、燕王(えんおう)今は皇帝なり、万乗の尊に居(お)りて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼(だったん)の兵、遼東(りょうとう)を犯し、永平(えいへい)に寇(あだ)し、二年には韃靼(だったん)と瓦剌(わら)(Oirats, 西部蒙古)との相(あい)和せる為に、辺患無しと雖(いえど)も、三年には韃靼の塞下(さくか)を伺うあり。特(こと)に此(この)年(とし)はタメルラン大兵を起して、道を別失八里(ベシバリ)(Bisbalik)に取り、甘粛(かんしゅく)よりして乱入せんとするの事あり。甘粛は京(けい)を距(さ)る遠しと雖(いえど)も、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察す可(べ)し。此(この)事(こと)明史(みんし)には其の外国伝に、朝廷、帖木児(チモル)の道を別失八里(ベシバリ)に仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛(かんしゅく)総兵官(そうへいかん)宋晟(そうせい)に勅して□備(けいび)せしむ、とあるに過ぎず。然(しか)れども塞外(さくがい)の事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々(しばしば)漠北(ばくほく)を親征せしほどの帝の、帖木児(チモル)東せんとするを聞きては、奚(いずく)んぞ能(よ)く晏然(あんぜん)たらん。太祖の洪武(こうぶ)二十八年、傅安(ふあん)等(ら)を帖木児(チモル)の許(もと)に使(つかい)せしめて、安(あん)等(ら)猶(なお)未(いま)だ還(かえ)らず、忽(たちまち)にして此(この)報を得、疑虞(ぎぐ)する無きを得んや。帖木児(チモル)、父は答剌豈(タラガイ)(Taragai)、元(げん)の至元二年を以(もっ)て生る。生れて跛(ひ)なりしかば、悪(にく)む者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクは跛(ひ)の義の波斯(ペルシヤ)語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅(ゆうき)、兵を用い政(まつりごと)を為(な)すを善(よ)くす。太祖(たいそ)の明(みん)の基(もとい)を開くに前後して大(おおい)に勢(いきおい)を得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名亜非利加(アフリカ)、欧羅巴(ヨウロッパ)に及ぶ。帖木児(チモル)は回教を奉ず。明の初(はじめ)回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児(チモル)の領土に帰(き)す。帖木児(チモル)の甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児(チモル)の許(もと)に在(あ)りしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)記(しる)す、タメルラン、支那(しな)帝使を西班牙(スペイン)帝使の下(しも)に座せしめ、吾(わが)児(こ)たり友たる西帝(せいてい)の使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使(し)の下に坐(ざ)せしむる勿(なか)れと云(い)いしと。又同時タメルラン軍営に事(つか)えしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使進貢(しんこう)を求む、タメルラン怒って曰く、吾(われ)復(また)進貢せざらん、貢を求めば帝みずから来(きた)れと。乃(すなわ)ち使(つかい)を発して兵を徴し、百八十万を得、将(まさ)に発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部波斯(ペルシヤ)を征したりしが、其(その)冬(ふゆ)明の太祖及び埃及(エジプト)王の死を知りたりと也(なり)。帖木児(チモル)が意を四方に用いたる知る可し。然(しか)らば則(すなわ)ち燕王の兵を起ししより終(つい)に位(くらい)に即(つ)くに至るの事、タメルラン之(これ)を知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外に在(あ)る五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドに還(かえ)りぬ。カスチリヤの使(し)と、支那の使とを引見したるは、即(すなわ)ち此(この)歳(とし)にして、其(そ)の翌年直(ただち)に馬首を東にし、争乱の余(よ)の支那に乱入せんとしたる也。永楽帝の此(この)報を得るや、宋晟(そうせい)に勅(ちょく)して□備(けいび)せしむるのみならず、備えたるあること知りぬ可(べ)し。宋晟は好将軍なり、平羌将軍(へいきょうしょうぐん)西寧侯(せいねいこう)たり。かつて御史(ぎょし)ありて晟(せい)の自ら専(もっぱら)にすることを劾(がい)しけるに、帝聴(き)かずして曰く、人に任ずる専(せん)ならざれば功を成す能(あた)わず、況(いわ)んや大将は一辺を統制す、いずくんぞ能(よ)く文法に拘(かかわ)らんと。又嘗(かつ)て曰く、西北の辺務は、一に以(もっ)て卿(けい)に委(ゆだ)ぬと。其の材武称許せらるゝ是(かく)の如し。タメルランの来(きた)らんとするや、帝また別に虞(おそ)るゝところあり。蓋(けだ)し燕の兵を挙ぐるに当って、史之(これ)を明記せずと雖(いえど)も、韃靼(だったん)の兵を借りて以(もっ)て功を成せること、蔚州(いしゅう)を囲めるの時に徴して知る可し。建文未(いま)だ死せず、従臣の中(うち)、道衍(どうえん)金忠(きんちゅう)の輩の如き策士あって、西北の胡兵(こへい)を借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和(ていか)胡「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、411-12]《こえい》の出(い)づるある、徒爾(とじ)ならんや。建文の草庵(そうあん)の夢、永楽の金殿(きんでん)の夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、試(こころみ)に之を問わんと欲する也。幸(さいわい)にしてタメルランは、千四百〇五年即(すなわち)永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄相(あい)下らずして龍闘虎争(りゅうとうこそう)するの惨禍(さんか)を禹域(ういき)の民に被(こうむ)らしむること無くして已(や)みぬ。

 四年応文(おうぶん)は西平侯(せいへいこう)の家に至り、止(とど)まること旬日、五月庵(いおり)を白龍山(はくりゅうざん)に結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を為(つく)りて之(これ)を哭(こく)したもう。朝廷帝(てい)を索(もと)むること密(みつ)なれば、帝深く潜(ひそ)みて出(い)でず。此(この)歳(とし)傅安(ふあん)朝(ちょう)に帰る。安の胡地(こち)を歴游(れきゆう)する数万里、域外に留(とど)まる殆(ほとん)ど二十年、著す所西遊勝覧詩(せいゆうしょうらんし)あり、後の好事(こうず)の者の喜び読むところとなる。タメルランの後(のち)の哈里(ハリ)(Hali)雄志(ゆうし)無し、使(つかい)を安(あん)に伴わしめ方物(ほうぶつ)を貢(こう)す。六年、白龍庵災(さい)あり、程済(ていせい)[#ルビの「ていせい」は底本では「ていさい」]募(つの)り葺(ふ)く。七年、建文帝、善慶里(ぜんけいり)に至り、襄陽(じょうよう)に至り、□(てん)に還(かえ)る。朝廷密(ひそか)に帝を雲南(うんなん)貴州(きしゅう)の間に索(もと)む。
 八年春三月、工部尚書(こうぶしょうしょ)厳震(げんしん)安南(あんなん)に使(つかい)するの途(みち)にして、忽(たちま)ち建文帝に雲南に遇(あ)う。旧臣猶(なお)錦衣(きんい)にして、旧帝既(すで)に布衲(ふとつ)なり。震(しん)たゞ恐懼(きょうく)して落涙止(とど)まらざるあるのみ。帝、我を奈何(いかん)せんとするぞや、と問いたもう。震対(こた)えて、君は御心(みこころ)のまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと申(もう)す。人生の悲しきに堪えずや有りけん、其(その)夜(よ)駅亭にみずから縊(くび)れて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬(しひん)、程亨(ていこう)、郭節(かくせつ)たま/\至る。三人留まる久しくして、帝これを遣(や)りたまい、今後再び来(きた)る勿(なか)れ、我安居(あんきょ)す、心づかいすなと仰(おお)す。帝白龍庵を舎(す)てたもう。此(この)歳(とし)永楽帝は去年丘福(きゅうふく)を漠北(ばくほく)に失えるを以て北京(ほくけい)を発して胡地(こち)に入り、本雅失里(ベンヤシリ)(Benyashili)阿魯台(アルタイ)(Altai)等(ら)と戦いて勝ち、擒狐山(きんこざん)、清流泉(せいりゅうせん)の二処に銘を勒(ろく)して還りたもう。
 九年春、白龍庵有司(ゆうし)の毀(こぼ)つところとなる。夏建文帝浪穹(ろうきゅう)鶴慶山(かくけいざん)に至り、大喜庵(たいきあん)を建つ。十年楊応能(ようおうのう)卒し、葉希賢(しょうきけん)次(つ)いで卒す。帝因(よ)って一弟子(いちていし)を納(い)れて応慧(おうえ)と名づけたもう。十一年甸(てん)に至りて還り、十二年易数を学びたもう。此(この)歳(とし)永楽帝また塞外(さくがい)に出(い)で、瓦剌(オイラト)を征したもう。皇太孫九龍口(きゅうりゅうこう)に於(おい)て危難に臨む。十三年建文帝衡山(こうざん)に遊ばせたもう。十四年、帝程済(ていせい)に命じて従亡伝(じゅうぼうでん)を録せしめ、みずから叙(じょ)を為(つく)らる。十五年史彬(しひん)白龍庵に至る、庵(あん)を見ず、驚訝(きょうが)して帝を索(もと)め、終(つい)に大喜庵(たいきあん)に遇(あ)い奉る。十一月帝衡山(こうざん)に至りたもう、避くるある也。十六年、黔(きん)に至りたもう。十七年始めて仏書を観(み)たもう。十八年蛾眉(がび)に登り、十九年粤(えつ)に入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。此(この)歳(とし)阿魯台(アルタイ)反す。二十年永楽帝、阿魯台(アルタイ)を親征す。二十一年建文帝章台山(しょうだいさん)に登り、漢陽(かんよう)に遊び、大別山(たいべつざん)に留(とど)まりたもう。
 二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月史彬(しひん)と旅店に相(あい)遇(あ)う。此(この)歳(とし)阿魯台(アルタイ)大同(だいどう)[#ルビの「だいどう」は底本では「たいどう」]に寇(あだ)す。去年阿魯台(アルタイ)を親征し、阿魯台(アルタイ)遁(のが)れて戦わず、師空(むな)しく還る。今又塞(さい)を犯す。永楽帝また親征す。敵に遇(あ)わずして、軍食(ぐんし)足らざるに至る。帰路楡木川(ゆぼくせん)に次(じ)し、急に病みて崩ず。蓋(けだ)し疑う可(べ)きある也(なり)。永楽帝既に崩じ、建文帝猶(なお)在(あ)り、帝と史彬(しひん)と客舎(かくしゃ)相(あい)遇(あ)い、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位(さんこくだつい)の叔父(しゅくふ)の死を聞く。世事(せいじ)測る可からずと雖(いえど)も、薙髪(ちはつ)して宮(きゅう)を脱し、堕涙(だるい)して舟に上るの時、いずくんぞ茅店(ぼうてん)の茶後に深仇(しんきゅう)の冥土(めいど)に入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ亦(また)奇なりというべし。知らず応文禅師(おうぶんぜんじ)の如何(いかん)の感を為(な)せるを。即(すなわ)ち彬(ひん)とゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山(てんだいさん)に登りたもう。
 仁宗(じんそう)の洪□(こうき)元年正月、建文帝観音大士(かんおんだいし)を潮音洞(ちょうおんどう)に拝し、五月山に還りたもう。此(この)歳(とし)仁宗また崩じて、帝を索(もと)むること、漸(ようや)くに忘れらる。宣宗(せんそう)の宣徳(せんとく)元年秋八月、従亡(じゅうぼう)諸臣を菴前(あんぜん)に祭りたもう。此(この)歳(とし)漢王(かんおう)高煦(こうこう)反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝(せんとくてい)の叔父(しゅくふ)なり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に従(したが)って力戦す。材武みずから負(たの)み、騎射を善(よ)くし、酷(はなは)だ燕王に肖(に)たり。永楽帝の儲(ちょ)を立つるに当って、丘福(きゅうふく)、王寧(おうねい)等(ら)の武臣意(こころ)を高煦に属するものあり。高煦亦(また)窃(ひそか)に戦功を恃(たの)みて期するところあり。然(しか)れども永楽帝長子(ちょうし)を立てゝ、高煦を漢王とす。高煦怏々(おうおう)たり。仁宗立って其(その)歳(とし)崩じ、仁宗の子大位に即(つ)くに及びて、遂(つい)に反す。高煦の宣徳帝(せんとくてい)に於(お)けるは、猶(なお)燕王の建文帝に於けるが如きなり。其(その)父反して而(しか)して帝たり、高煦父の為(な)せるところを学んで、陰謀至らざる無し。然(しか)れども事発するに至って、帝親征して之を降(くだ)す。高煦乃(すなわ)ち廃せられて庶人(しょじん)となる。後鎖※(さしつ)[#「執/糸」、UCS-7E36、416-8]されて逍遙城(しょうようじょう)に内(い)れらるゝや、一日(いちじつ)帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に出(い)で、一足(いっそく)を伸(のば)して帝を勾(こう)し地に□(ばい)せしむ。帝大(おおい)に怒って力士に命じ、大銅缸(だいどうこう)を以(もっ)て之を覆(おお)わしむ。高煦多力(たりき)なりければ、缸(こう)の重き三百斤(きん)なりしも、項(うなじ)に缸(こう)を負いて起(た)つ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を燃(もや)す。高煦生きながらに焦熱地獄に堕(だ)し、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を敢(あえ)てし、身幸(さいわい)にして志を得たりと雖も、終(つい)に域外の楡木川(ゆぼくせん)に死し、愛子高煦は焦熱地獄に堕(お)つ。如是果(にょぜか)、如是報(にょぜほう)、悲(かなし)む可(べ)く悼(いた)む可く、驚く可く嘆ずべし。
 二年冬、建文帝永慶寺(えいけいじ)に宿(しゅく)して詩を題して曰く、

杖錫(じょうしゃく) 来(きた)り遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟に傍(そ)ふ。
塵心(じんしん) 消尽(しょうじん)して 些子(さし)も無し、
受けず 人間の物色の侵すを。

 これより帝優游自適(ゆうゆうじてき)、居然として一頭陀(いちずだ)なり。九年史彬(しひん)死し、程済(ていせい)猶(なお)従う。帝詩を善(よ)くしたもう。嘗(かつ)て賦(ふ)したまえる詩の一に曰く、

牢落(ろうらく) 西南 四十秋、
蕭々(しょうしょう)たる白髪 已(すで)に頭(こうべ)に盈(み)つ。
乾坤(けんこん) 恨(うらみ)あり 家いづくにか在(あ)る。
江漢 情(じょう)無し 水おのづから流る。
長楽 宮中(きゅうちゅう) 雲気散じ、
朝元(ちょうげん) 閣上 雨声収まる。
新蒲(しんぽ) 細柳(さいりゅう) 年々緑に、
野老(やろう) 声を呑(の)んで 哭(こく)して未(いま)だ休(や)まず。

 又嘗(かつ)て貴州(きしゅう)金竺(きんちく)長官司羅永菴(しらえいあん)の壁(へき)に題したまえる七律二章の如き、皆誦(しょう)す可し。其二に曰く、

楞厳(りょうごん)を閲(けみ)し罷(や)んで 磬(けい)も敲(たた)くに懶(ものう)し。
笑って看(み)る 黄屋(こうおく) 団瓢(だんぴょう)を寄す。
南来 瘴嶺(しょうれい) 千層□(はるか)に、
北望 天門 万里遙(はるか)なり。
款段(かんだん) 久しく 忘る 飛鳳(ひほう)の輦(れん)、
袈裟(けさ) 新(あらた)に換(かわ)る □龍(こんりゅう)の袍(ほう)。
百官 此(この)日(ひ) 知る何(いず)れの処(ところ)ぞ、
唯(ただ)有り 羣烏(ぐんう)の 早晩に朝する。

 建文帝是(かく)の如くにして山青く雲白き処(ところ)に無事の余生を送り、僊人(せんにん)隠士(いんし)の踪跡(そうせき)沓渺(ようびょう)として知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵(しんえん)に潜(ひそ)めども案に上るの日あり、禽(とり)は高空に翔(か)くれども天に宿(しゅく)するに由(よし)無し。忽然(こつぜん)として復(また)宮(きゅう)に入るに及びたもう。其(その)事(こと)まことに意表に出(い)づ。帝の同寓(どうぐう)するところの僧、帝の詩を見て、遂(つい)に建文帝なることを猜知(すいち)し、其(その)詩を窃(ぬす)み、思恩(しおん)の知州(ちしゅう)岑瑛(しんえい)のところに至り、吾(われ)は建文皇帝なりという。意(こころ)蓋(けだ)し今の朝廷また建文を窘(くるし)めずして厚く之(これ)を奉ず可きをおもえるなり。瑛(えい)はこれを聞きて大(おおい)に驚き、尽(ことごと)く同寓(どうぐう)の僧を得て之を京師(けいし)に送り、飛章(ひしょう)して以聞(いぶん)す。帝及び程済(ていせい)も京(けい)に至るの数(すう)に在り。御史(ぎょし)僧を糾(ただ)すに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父の陵(りょう)の旁(かたわら)に葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武(こうぶ)十年に生れたまいて、正統(せいとう)五年を距(へだた)る六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂に其(その)偽(ぎ)なるを断ず。僧実(じつ)は鈞州(きんしゅう)白沙里(はくさり)の人、楊応祥(ようおうしょう)というものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺を戍(まも)らしめんとす。帝其(その)中(うち)に在(あ)り。是(ここ)に於(おい)て已(や)むを得ずして其(その)実を告げたもう。御史また今更に大(おおい)に驚きて、此(この)事を密奏す。正統帝(せいとうてい)の御父(おんちち)宣宗(せんそう)皇帝は漢王高煦(こうこう)の反に会いたまいて、幸(さいわい)に之を降したまいたれども、叔父(しゅくふ)の為(ため)に兵を動(うごか)すに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。其(そ)の宣宗(せんそう)に紹(つ)ぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何(いかん)の感をや為(な)したまえる。御史の密奏を聞召(きこしめ)して、即(すなわ)ち宦官(かんがん)の建文帝に親しく事(つか)えたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮(ごりょう)というものあり、建文帝に事(つか)えたり。乃(すなわ)ち亮をして応文の果して帝なるや否(あらぬ)やを探らしめたもう。亮の応文(おうぶん)を見るや、応文たゞちに、汝(なんじ)は呉亮にあらずや、と云いたもう。亮猶(なお)然(しか)らざるを申せば、帝旧(ふる)き事を語りたまいて、爾(なんじ)亮に非(あら)ずというや、と仰(おお)す。亮胸塞(ふさ)がりて答うる能(あた)わず、哭(こく)して地に伏す。建文帝の左の御趾(おんあし)には黒子(ほくろ)ありたまいしことを思ひ出(い)でゝ、亮近づきて、御趾(おんあし)を摩(ま)し視(み)るに、正(まさ)しく其のしるし御座(おわ)したりければ、懐旧の涙遏(とど)めあえず、復(また)仰ぎ視(み)ること能(あた)わず、退いて其(その)由(よし)を申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内(せいだい)に入れたてまつる。程済(ていせい)この事を聞きて、今日(こんにち)臣が事終りぬとて、雲南に帰りて庵(あん)を焚(や)き、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏(ろうぶつ)を以て呼ばれたまい、寿(じゅ)をもて終りたまいぬという。


 女仙外史(じょせんがいし)に、忠臣等名山幽谷に帝を索(もと)むるを記(き)する、有るが如(ごと)く無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣(ひょうびょうゆうしゅ)の文を為(な)す。永楽亭(えいらくてい)楡木川(ゆぼくせん)の崩(ほう)を記する、鬼母(きぼ)の一剣を受くとなし、又野史(やし)を引いて、永楽帝楡木川(ゆぼくせん)に至る、野獣の突至するに遇(あ)い、之(これ)を搏(ばく)す、攫(かく)されてたゞ半躯(はんく)を剰(あま)すのみ、□(れん)して而(しか)して匠を殺す、其(その)迹(あと)を泯滅(びんめつ)する所以(ゆえん)なりと。野獣か、鬼母か、吾(われ)之(これ)を知らず。西人(せいじん)或(あるい)は帝胡人(こじん)の殺すところとなると為す。然(しか)らば則(すなわ)ち帝丘福(きゅうふく)を尤(とが)めて、而して福と其(その)死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦危(あやう)きを冒(おか)す、楡木川(ゆぼくせん)の崩、蓋(けだ)し明史(みんし)諱(い)みて書せざるある也。

 数(すう)か、数か。紅篋(こうきょう)の度牒(どちょう)、袈裟(けさ)、剃刀(ていとう)、噫(ああ)又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝(ぎょこう)の片舟(へんしゅう)、噫(ああ)又何ぞ奇なるや。吾(われ)嘗(かつ)て明史(みんし)を読みて、其(その)奇に驚き、建文帝と共に所謂(いわゆる)数(すう)なりの語を発せんと欲す。後(のち)又道衍(どうえん)の伝を読む。中(うち)に記して曰く、道衍永楽(えいらく)十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、僧(そう)溥洽(ふこう)というもの繋(つな)がるゝこと久し。願わくは之を赦(ゆる)したまえと。溥洽(ふこう)は建文帝の主録僧(しゅろくそう)なり。初め帝の南京(なんきん)に入るや、建文帝僧となりて遁(のが)れ去り、溥洽状(じょう)を知ると言うものあり、或(あるい)は溥洽の所に匿(かく)すと云(い)うあり。帝乃(すなわ)ち他事を以て溥洽を禁(いまし)めて、而(しか)して給事中(きゅうじちゅう)胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、423-8]等(ら)に命じて□(あまね)く建文帝を物色せしむ。之(これ)を久しくして得ず。溥洽坐(ざ)して繋(つな)がるゝこと十余年、是(ここ)に至りて帝道衍の言を以(もっ)て命じて之を出(いだ)さしむ。衍頓首(とんしゅ)して謝し、尋(つい)で卒すと。篋中(きょうちゅう)の朱書、道士の霊夢、王鉞(おうえつ)の言、呉亮(ごりょう)の死と、道衍の請(こい)と、溥洽の黙(もく)と、嗚呼(ああ)、数たると数たらざると、道衍蓋(けだ)し知ることあらん。而(しか)して楡木川(ゆぼくせん)の客死(かくし)、高煦(こうこう)の焦死(しょうし)、数たると数たらざるとは、道衍袁□(えんこう)の輩(はい)の固(もと)より知らざるところにして、たゞ天之(これ)を知ることあらん。




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