運命
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著者名:幸田露伴 

 世おのずから数(すう)というもの有りや。有りといえば有るが如(ごと)く、無しと為(な)せば無きにも似たり。洪水(こうずい)天に滔(はびこ)るも、禹(う)の功これを治め、大旱(たいかん)地を焦(こが)せども、湯(とう)の徳これを済(すく)えば、数有るが如くにして、而(しか)も数無きが如し。秦(しん)の始皇帝、天下を一にして尊号(そんごう)を称す。威□(いえん)まことに当る可(べ)からず。然(しか)れども水神ありて華陰(かいん)の夜に現われ、璧(たま)を使者に托して、今年祖龍(そりゅう)死せんと曰(い)えば、果(はた)して始皇やがて沙丘(しゃきゅう)に崩ぜり。唐(とう)の玄宗(げんそう)、開元は三十年の太平を享(う)け、天宝(てんぽう)は十四年の華奢(かしゃ)をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)、陛下万里に行幸して、聖祚(せいそ)疆(かぎり)無(な)からんと奏したりしかば、心得がたきことを白(もう)すよとおぼされしが、安禄山(あんろくざん)の乱起りて、天宝十五年蜀(しょく)に入りたもうに及び、万里橋(ばんりきょう)にさしかゝりて瞿然(くぜん)として悟り玉(たま)えりとなり。此等(これら)を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録(ていめいろく)、続定命録(ぞくていめいろく)、前定録(ぜんていろく)、感定録(かんていろく)等、小説野乗(やじょう)の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭(いんたくしょうこく)も、悉(ことごと)く天意に因(よ)るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令(たとえ)数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏(おそ)れて、巫覡卜相(ふげきぼくそう)の徒の前に首(こうべ)を俯(ふ)せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教(おしえ)の下(もと)に心を安くせんには如(し)かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命(めい)を称して歎(たん)じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋(ろう)とすべし。事敗れて之(これ)を吾(わ)が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委(ゆだ)ねなば、其(その)人(ひと)偽らずして真(しん)、其器(き)小ならずして偉なりというべし。先哲曰(いわ)く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或(あるい)は能(よ)く数を知らん。
 古(いにしえ)より今に至るまで、成敗(せいばい)の跡、禍福の運、人をして思(おもい)を潜(ひそ)めしめ歎(たん)を発せしむるに足(た)るもの固(もと)より多し。されども人の奇を好むや、猶(なお)以(もっ)て足れりとせず。是(ここ)に於(おい)て才子は才を馳(は)せ、妄人(もうじん)は妄(もう)を恣(ほしいいまま)にして、空中に楼閣を築き、夢裏(むり)に悲喜を画(えが)き、意設筆綴(いせつひってつ)して、烏有(うゆう)の談を為(つく)る。或は微(すこ)しく本(もと)づくところあり、或は全く拠(よ)るところ無し。小説といい、稗史(はいし)といい、戯曲といい、寓言(ぐうげん)というもの即(すなわ)ち是(これ)なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈(あに)図(はか)らんや造物の脚色は、綺語(きご)の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能(あた)わざるの巧緻(こうち)あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試(こころみ)に看(み)よ建文(けんぶん)永楽(えいらく)の事を。


 我が古(こ)小説家の雄(ゆう)を曲亭主人馬琴(きょくていしゅじんばきん)と為(な)す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝(はっけんでん)の雄大、弓張月(ゆみはりづき)の壮快、皆江湖(こうこ)の嘖々(さくさく)として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優(まさ)るあるも劣らざるものを侠客伝(きょうかくでん)と為(な)す。憾(うら)むらくは其の叙するところ、蓋(けだ)し未(いま)だ十の三四を卒(おわ)るに及ばずして、筆硯(ひっけん)空しく曲亭の浄几(じょうき)に遺(のこ)りて、主人既に逝(ゆ)きて白玉楼(はくぎょくろう)の史(し)となり、鹿鳴草舎(はぎのや)の翁(おきな)これを続(つ)げるも、亦(また)功を遂げずして死せるを以(もっ)て、世其(そ)の結構の偉(い)、輪奐(りんかん)の美を観(み)るに至らずして已(や)みたり。然(しか)れども其の意を立て材を排する所以(ゆえん)を考うるに、楠氏(なんし)の孤女(こじょ)を仮(か)りて、南朝の為(ため)に気を吐かんとする、おのずから是(こ)れ一大文章たらずんば已(や)まざるものあるをば推知するに足るあり。惜(おし)い哉(かな)其の成らざるや。
 侠客伝は女仙外史(じょせんがいし)より換骨脱胎(かんこつだったい)し来(きた)る。其の一部は好逑伝(こうきゅうでん)に藉(よ)るありと雖(いえど)も、全体の女仙外史を化(か)し来(きた)れるは掩(おお)う可(べ)からず。此(これ)の姑摩媛(こまひめ)は即(すなわ)ち是(こ)れ彼(かれ)の月君(げっくん)なり。月君が建文帝(けんぶんてい)の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本(らんぽん)たらずんばあらず。此(こ)は是(こ)れ馬琴が腔子裏(こうしり)の事なりと雖(いえど)も、仮(かり)に馬琴をして在らしむるも、吾(わ)が言を聴かば、含笑(がんしょう)して点頭(てんとう)せん。


 女仙外史一百回は、清(しん)の逸田叟(いつでんそう)、呂熊(りょゆう)、字(あざな)は文兆(ぶんちょう)の著(あらわ)すところ、康熙(こうき)四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒(おわ)る。其(そ)の書の体(たい)たるや、水滸伝(すいこでん)平妖伝(へいようでん)等に同じと雖(いえど)も、立言(りつげん)の旨(し)は、綱常(こうじょう)を扶植(ふしょく)し、忠烈を顕揚するに在りというを以(もっ)て、南安(なんあん)の郡守陳香泉(ちんこうせん)の序、江西(こうせい)の廉使(れんし)劉在園(りゅうざいえん)の評、江西の学使楊念亭(ようねんてい)の論、広州(こうしゅう)の太守葉南田(しょうなんでん)の跋(ばつ)を得て世に行わる。幻詭猥雑(げんきわいざつ)の談に、干戈(かんか)弓馬の事を挿(はさ)み、慷慨(こうがい)節義の譚(だん)に、神仙縹緲(しんせんひょうびょう)の趣(しゅ)を交(まじ)ゆ。西遊記(さいゆうき)に似て、而(しか)も其の誇誕(こたん)は少しく遜(ゆず)り、水滸伝に近くして、而も其(そ)の豪快は及ばず、三国志の如(ごと)くして、而も其の殺伐はやゝ少(すくな)し。たゞ其の三者の佳致(かち)を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝(まさ)る所以(ゆえん)にして、其の大体の風度(ふうど)は平妖伝に似たりというべし。憾(うら)むらくは、通篇(つうへん)儒生(じゅせい)の口吻(こうふん)多くして、説話は硬固勃率(こうこぼっそつ)、談笑に流暢尖新(りゅうちょうせんしん)のところ少(すくな)きのみ。
 女仙外史の名は其の実(じつ)を語る。主人公月君(げっくん)、これを輔(たす)くるの鮑師(ほうし)、曼尼(まんに)、公孫大娘(こうそんたいじょう)、聶隠娘(しょういんじょう)等皆女仙なり。鮑聶(ほうしょう)等の女仙は、もと古伝雑説より取り来(きた)って彩色となすに過ぎず、而(しこう)して月君は即(すなわ)ち山東蒲台(さんとうほだい)の妖婦(ようふ)唐賽児(とうさいじ)なり。賽児の乱をなせるは明(みん)の永楽(えいらく)十八年二月にして、燕(えん)王の簒奪(さんだつ)、建文(けんぶん)の遜位(そんい)と相関するあるにあらず、建文猶(なお)死せずと雖(いえども)、簒奪の事成って既に十八春秋を経(へ)たり。賽児何ぞ実に建文の為(ため)に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠(ほふ)り、安遠侯(あんえんこう)柳升(りゅうしょう)をして征戦に労し、都指揮(としき)衛青(えいせい)をして撃攘(げきじょう)に力(つと)めしめ、都指揮劉忠(りゅうちゅう)をして戦歿(せんぼつ)せしめ、山東の地をして一時騒擾(そうじょう)せしむるに至りたるもの、真に是(こ)れ稗史(はいし)の好題目たり。之(これ)に加うるに賽児が洞見(どうけん)預察の明(めい)を有し、幻怪詭秘(きひ)の術を能(よ)くし、天書宝剣を得て、恵民(けいみん)布教の事を為(な)せるも、亦(また)真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟(じっせき)既に是(かく)の如(ごと)し。此(これ)を仮(か)り来(きた)りて以(もっ)て建文の位を遜(ゆず)れるに涙を堕(おと)し、燕棣(えんてい)の国を奪えるに歯を切(くいしば)り、慷慨(こうがい)悲憤して以て回天の業を為(な)さんとするの女英雄(じょえいゆう)となす。女仙外史の人の愛読耽翫(たんがん)を惹(ひ)く所以(ゆえん)のもの、決して尠少(せんしょう)にあらずして、而して又実に一篇(ぺん)の淋漓(りんり)たる筆墨(ひつぼく)、巍峨(ぎが)たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
 賽児(さいじ)は蒲台府(ほだいふ)の民(たみ)林三(りんさん)の妻、少(わか)きより仏を好み経を誦(しょう)せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之(これ)を郊外に葬(ほうむ)る。賽児墓に祭りて、回(かえ)るさの路(みち)、一山の麓(ふもと)を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石露(あら)われたり。これを視(み)るに石匣(せきこう)なりければ、就(つ)いて窺(うかが)いて遂(つい)に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪(き)って人馬となし、剣(けん)を揮(ふる)って咒祝(じゅしゅく)を為(な)し、髪を削って尼となり、教(おしえ)を里閭(りりょ)に布(し)く。祷(いのり)には効あり、言(ことば)には験(げん)ありければ、民翕然(きゅうぜん)として之に従いけるに、賽児また饑者(きしゃ)には食(し)を与え、凍者には衣を給し、賑済(しんさい)すること多かりしより、終(つい)に追随する者数万に及び、尊(とうと)びて仏母と称し、其(その)勢(いきおい)甚(はなは)だ洪大(こうだい)となれり。官之(これ)を悪(にく)みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲(とうげんこう)、劉俊(りゅうしゅん)、賓鴻(ひんこう)等、敢然として起(た)って戦い、益都(えきと)、安州(あんしゅう)、□州(きょしゅう)、即墨(そくぼく)、寿光(じゅこう)等、山東諸州鼎沸(ていふつ)し、官と賊と交々(こもごも)勝敗あり。官兵漸(ようや)く多く、賊勢日に蹙(しじ)まるに至って賽児を捕え得、将(まさ)に刑に処せんとす。賽児怡然(いぜん)として懼(おそ)れず。衣を剥(は)いで之を縛(ばく)し、刀(とう)を挙げて之を□(き)るに、刀刃(とうじん)入る能(あた)わざりければ、已(や)むを得ずして復(また)獄に下し、械枷(かいか)を体(たい)に被(こうむ)らせ、鉄鈕(てっちゅう)もて足を繋(つな)ぎ置きけるに、俄(にわか)にして皆おのずから解脱(げだつ)し、竟(つい)に遯(のが)れ去って終るところを知らず。三司郡県将校(さんしぐんけんしょうこう)等(ら)、皆寇(あだ)を失うを以て誅(ちゅう)せられぬ。賽児は如何(いかが)しけん其後踪跡(そうせき)杳(よう)として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京(ほくけい)山東(さんとう)の尼姑(にこ)は尽(ことごと)く逮捕して京に上せ、厳重に勘問(かんもん)し、終(つい)に天下の尼姑という尼姑を逮(とら)うるに至りしが、得る能(あた)わずして止(や)み、遂に後の史家をして、妖耶(ようか)人耶(ひとか)、吾(われ)之(これ)を知らず、と云(い)わしむるに至れり。
 世の伝うるところの賽児の事既に甚(はなは)だ奇、修飾を仮(か)らずして、一部稗史(はいし)たり。女仙外史の作者の藉(か)りて以(もっ)て筆墨を鼓(こ)するも亦(また)宜(むべ)なり。然(しか)れども賽児の徒、初(はじめ)より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐(かぎゃく)するところとなって而(しこう)して後爆裂迸発(へいはつ)して□(ほのお)を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索(もと)むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮(きんきゅう)して戈(ほこ)を執(と)って立つに及び、或(あるい)は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其(その)実(じつ)を知るを得ん。永楽簒奪(さんだつ)して功を成す、而(しか)も聡明(そうめい)剛毅(ごうき)、政(まつりごと)を為(な)す甚だ精、補佐(ほさ)また賢良多し。こゝを以て賽児の徒忽(たちまち)にして跡を潜むと雖(いえど)も、若(も)し秦末(しんまつ)漢季(かんき)の如(ごと)きの世に出(い)でしめば、陳渉(ちんしょう)張角(ちょうかく)、終(つい)に天下を動かすの事を為(な)すに至りたるやも知る可(べ)からず。嗚呼(ああ)賽児も亦奇女子(きじょし)なるかな。而して此(この)奇女子を藉(か)りて建文に与(くみ)し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其(そ)の奇を求めずして而しておのずから然(しか)るあらんのみ。然りと雖も予(よ)猶(なお)謂(おも)えらく、逸田叟(いつでんそう)の脚色は仮(か)にして後纔(わずか)に奇なり、造物爺々(やや)の施為(しい)は真にして且(かつ)更に奇なり。


 明(みん)の建文(けんぶん)皇帝は実に太祖(たいそ)高(こう)皇帝に継(つ)いで位に即(つ)きたまえり。時に洪武(こうぶ)三十一年閏(うるう)五月なり。すなわち詔(みことのり)して明年を建文元年としたまいぬ。御代(みよ)しろしめすことは正(まさ)しく五歳にわたりたもう。然(しか)るに廟諡(びょうし)を得たもうこと無く、正徳(しょうとく)、万暦(ばんれき)、崇禎(すうてい)の間、事しば/\議せられて、而(しか)も遂(つい)に行われず、明(みん)亡び、清(しん)起りて、乾隆(けんりゅう)元年に至って、はじめて恭憫恵(きょうびんけい)皇帝という諡(おくりな)を得たまえり。其(その)国の徳衰え沢(たく)竭(つ)きて、内憂外患こも/″\逼(せま)り、滅亡に垂(なりなん)とする世には、崩じて諡(おく)られざる帝(みかど)のおわす例(ためし)もあれど、明の祚(そ)は其(そ)の後猶(なお)二百五十年も続きて、此(この)時太祖の盛徳偉業、炎々(えんえん)の威を揚げ、赫々(かくかく)の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後(のち)なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其(そ)[#ルビの「そ」は底本では「その」]の是(かく)の如(ごと)くなるに至りし所以(ゆえん)は、天意か人為かはいざ知らず、一波(ぱ)動いて万波動き、不可思議の事の重畳(ちょうじょう)連続して、其の狂濤(きょうとう)は四年の間の天地を震撼(しんかん)し、其の余瀾(よらん)は万里の外の邦国に漸浸(ぜんしん)するに及べるありしが為(ため)ならずばあらず。
 建文皇帝諱(いみな)は允□(いんぶん)、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父(おんちち)懿文(いぶん)太子、太祖に紹(つ)ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢(おんとし)六十五にわたらせ給(たま)いければ、流石(さすが)に淮西(わいせい)の一布衣(いっぷい)より起(おこ)って、腰間(ようかん)の剣(けん)、馬上の鞭(むち)、四百余州を十五年に斬(き)り靡(なび)けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭(しょく)を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎(しお)れたもう。翰林学士(かんりんがくし)の劉三吾(りゅうさんご)、御歎(おんなげき)はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君(ちょくん)と仰せ出されんには、四海心を繋(か)け奉らんに、然(さ)のみは御過憂あるべからず、と白(もう)したりければ、実(げ)にもと点頭(うなず)かせられて、其(その)歳(とし)の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即(すなわ)ち後に建文の帝(みかど)と申す。谷氏(こくし)の史に、建文帝、生れて十年にして懿文(いぶん)卒(しゅっ)すとあるは、蓋(けだ)し脱字(だつじ)にして、父君に別れ、儲位(ちょい)に立ちたまえる時は、正(まさ)しく十六歳におわしける。資性穎慧(えいけい)温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘(わた)りて昼夜膝下(しっか)を離れたまわず、薨(かく)れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠(や)せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾(なんじ)まことに純孝なり、たゞ子を亡(うしな)いて孫を頼む老いたる我をも念(おも)わぬことあらじ、と宣(のたま)いて、過哀に身を毀(やぶ)らぬよう愛撫(あいぶ)せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
 はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏(しょうそう)を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於(おい)て宥(なだ)め軽めらるゝこと多かりき。太子亡(う)せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍(あまね)く礼経(れいけい)を考え、歴代の刑法を参酌(さんしゃく)し、刑律は教(おしえ)を弼(たす)くる所以(ゆえん)なれば、凡(およ)そ五倫(ごりん)と相(あい)渉(わた)る者は、宜(よろ)しく皆法を屈して以(もっ)て情(じょう)を伸ぶべしとの意により、太祖の准許(じゅんきょ)を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下大(おおい)に喜びて徳を頌(しょう)せざる無し。太祖の言(ことば)に、吾(われ)は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝(なんじ)は平世を治むるなれば、刑おのずから当(まさ)に軽(かろ)うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌(ぶしょう)を平らげたる呉(ご)の元年に、李善長(りぜんちょう)等(ら)の考え設けたるを初(はじめ)とし、洪武六年より七年に亙(わた)りて劉惟謙(りゅういけん)等(ら)の議定するに及びて、所謂(いわゆる)大明律(たいみんりつ)成り、同じ九年胡惟庸(こいよう)等(ら)命を受けて釐正(りせい)するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰(へんせん)を経て、終(つい)に洪武の末に至り、更定大明律(こうていたいみんりつ)三十巻大成し、天下に頒(わか)ち示されたるなり。呉の元年より茲(ここ)に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精(くわ)しくして、一代の法始めて定まり、朱氏(しゅし)の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視(くら)ぶれば簡覈(かんかく)、而(しか)して寛厚は宗(そう)に如(し)かざるも、其の惻隠(そくいん)の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦(わがくに)に及び、徳川期の識者をして此(これ)を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此(これ)に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦(また)人君の度ありて、明律因(よ)りて以(もっ)て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即(つ)きたもうや、刑官に諭(さと)したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕(ちん)に命じて細閲せしめたまえり。前代に較(くら)ぶるに往々重きを加う。蓋(けだ)し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前(さき)に改定せるところは、皇祖已(すで)に命じて施行せしめたまえり。然(しか)れども罪の矜疑(きょうぎ)すべき者は、尚(なお)此(これ)に止(とど)まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順(したが)う。民を斉(ととの)うるに刑を以てするは礼を以てするに若(し)かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇(たっと)び、疑獄を赦(ゆる)し、朕が万方(ばんぽう)と与(とも)にするを嘉(よろこ)ぶの意に称(かな)わしめよと。嗚呼(ああ)、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰(たれ)がこれを然らずとせんや。
 是(かく)の如きの人にして、帝(みかど)となりて位を保つを得ず、天に帰して諡(おくりな)を得(う)る能(あた)わず、廟(びょう)無く陵無く、西山(せいざん)の一抔土(いっぽうど)、封(ほう)せず樹(じゅ)せずして終るに至る。嗚呼(ああ)又奇なるかな。しかも其の因縁(いんえん)の糾纏錯雑(きゅうてんさくざつ)して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或(あるい)は刻毒(こくどく)なる、或は杳渺(ようびょう)たる、奇も亦(また)太甚(はなはだ)しというべし。


 建文帝の国を遜(ゆず)らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋(そう)元(げん)傾覆の所以(ゆえん)を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆(おお)く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以(もっ)て帝室に藩屏(はんべい)たらしめ、京師(けいし)を拱衛(きょうえい)せしめんと欲せり。是(こ)れ亦(また)故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥(しょうすい)外に傲(おご)り、奸邪(かんじゃ)間(あいだ)に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能(あた)わず、宗廟(そうびょう)祀(まつ)られざるに至るべし。若(も)し夫(そ)れ衆(おお)く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢(いきおい)を得るの隙(すき)無し。こゝに於(おい)て、第二子※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]を秦(しん)王に封(ほう)じ、藩に西安(せいあん)に就(つ)かしめ、第三子棡(こう)を晋(しん)王に封じ、太原府(たいげんふ)に居(お)らしめ、第四子棣(てい)を封じて燕(えん)王となし、北平府(ほくへいふ)即(すなわ)ち今の北京(ぺきん)に居らしめ、第五子※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]を封じて周(しゅう)王となし、開封府(かいほうふ)に居らしめ、第六子□(てい)を楚(そ)王とし、武昌(ぶしょう)に居らしめ、第七子榑(ふ)を斉(せい)王とし、青州府(せいしゅうふ)に居らしめ、第八子梓(し)を封じて潭(たん)王とし、長沙(ちょうさ)に居(お)き、第九子※(き)[#「木+巳」、252-7]を趙(ちょう)王とせしが、此(こ)は三歳にして殤(しょう)し、藩に就くに及ばず、第十子檀(たん)を生れて二月にして魯(ろ)王とし、十六歳にして藩に□州府(えんしゅうふ)に就かしめ、第十一子椿(ちん)を封じて蜀(しょく)王とし、成都(せいと)に居(お)き、第十二子柏(はく)を湘(しょう)王とし、荊州府(けいしゅうふ)に居き、第十三子桂(けい)を代(だい)王とし、大同府(だいどうふ)に居き、第十四子※(えい)[#「木+英」、UCS-6967、252-11]を粛(しゅく)王とし、藩に甘州府(かんしゅうふ)に就かしめ、第十五子植(しょく)を封じて遼(りょう)王とし、広寧府(こうねいふ)に居き、第十六子※(せん)[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]を慶(けい)王として寧夏(ねいか)に居き、第十七子権(けん)を寧(ねい)王に封じ、大寧(たいねい)に居らしめ、第十八子□(べん)を封じて岷(びん)王となし、第十九子※(けい)[#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]を封じて谷(こく)王となす、谷王というは其(そ)の居(お)るところ宣府(せんふ)の上谷(じょうこく)の地たるを以てなり、第二十子松(しょう)を封じて韓(かん)王となし、開源(かいげん)に居らしむ。第二十一子模(ぼ)を瀋(しん)王とし、第二十二子楹(えい)を安(あん)王とし、第二十三子※(けい)[#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]を唐(とう)王とし、第二十四子棟(とう)を郢(えい)王とし、第二十五子※(い)[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]を伊(い)王としたり。藩(しん)王以下は、永楽(えいらく)に及んで藩に就きたるなれば、姑(しば)らく措(お)きて論ぜざるも、太祖の諸子を封(ほう)じて王となせるも亦(また)多しというべく、而(しこう)して枝柯(しか)甚(はなは)だ盛んにして本幹(ほんかん)却(かえ)って弱きの勢(いきおい)を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝(きんさつきんほう)を授けられ、歳禄(さいろく)は万石(まんせき)、府には官属を置き、護衛の甲士(こうし)、少(すくな)き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服(べんぷく)車旗(しゃき)邸第(ていだい)は、天子に下(くだ)ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦(また)至れりというべし。且つ元(げん)の裔(えい)の猶(なお)存して、時に塞下(さいか)に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中(こくちゅう)に専制し、三護衛の重兵(ちょうへい)を擁するを得せしめ、将を遣(や)りて諸路の兵を徴(め)すにも、必ず親王に関白して乃(すなわ)ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦(また)大なりというべし。太祖の意に謂(おも)えらく、是(かく)の如(ごと)くなれば、本支(ほんし)相(あい)幇(たす)けて、朱氏(しゅし)永く昌(さか)え、威権下(しも)に移る無く、傾覆の患(うれい)も生ずるに地無からんと。太祖の深智(しんち)達識(たっしき)は、まことに能(よ)く前代の覆轍(ふくてつ)に鑑(かんが)みて、後世に長計を貽(のこ)さんとせり。されども人智は限(かぎり)有り、天意は測り難し、豈(あに)図(はか)らんや、太祖が熟慮遠謀して施為(しい)せるところの者は、即(すなわ)ち是れ孝陵(こうりょう)の土未(いま)だ乾かずして、北平(ほくへい)の塵(ちり)既に起り、矢石(しせき)京城(けいじょう)に雨注(うちゅう)して、皇帝遐陬(かすう)に雲遊するの因とならんとは。
 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙(つと)に之(これ)を論じて、然(しか)る可(べ)からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其(その)歳(とし)閏(うるう)九月、たま/\天文(てんもん)の変ありて、詔(みことのり)を下し直言(ちょくげん)を求められにければ、山西(さんせい)の葉居升(しょうきょしょう)というもの、上書して第一には分封の太(はなは)だ侈(おご)れること、第二には刑を用いる太(はなは)だ繁(しげ)きこと、第三には治(ち)を求むる太(はなは)だ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈(たいし)を論ずるに曰(いわ)く、都城百雉(ひゃくち)を過ぐるは国の害なりとは、伝(でん)の文にも見えたるを、国家今や秦(しん)晋(しん)燕(えん)斉(せい)梁(りょう)楚(そ)呉(ご)□(びん)の諸国、各其(その)地(ち)を尽して之(これ)を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜(つ)ぎ、之に賜(たま)うに甲兵衛士の盛(さかん)なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世(すうせい)の後は尾大(びだい)掉(ふる)わず、然(しか)して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則(すなわ)ち其の怨(うらみ)を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則(すなわ)ち険(けん)を恃(たの)みて衡(こう)を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚(はなはだ)しければ則ち間(かん)に縁(よ)りて而して起(た)たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景(こうけい)皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗(どうそう)父兄弟(ふけいてい)子孫(しそん)なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫(しんしそん)なり。然るに世を易(か)うるの後は迭(たがい)に兵を擁して、以て皇帝を危(あやう)くせり。昔は賈誼(かぎ)漢の文帝に勧めて、禍を未萌(みぼう)に防ぐの道を白(もう)せり。願わくば今先(ま)ず諸王の都邑(とゆう)の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里(きょうり)を限りたまえと。居升(きょしょう)の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正(まさ)に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中(ごくちゅう)に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験(しるし)ありて、漢の七国の喩(たとえ)、眼(ま)のあたりの事となれるぞ是非無き。
 七国の事、七国の事、嗚呼(ああ)是れ何ぞ明室(みんしつ)と因縁の深きや。葉居升(しょうきょしょう)の上書の出(い)ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂(たいほんどう)というを建てたまい、古今(ここん)の図書を充(み)て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注(ききょちゅう)の魏観(ぎかん)字(あざな)は※山(きざん)[#「木+巳」、256-9]というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書(かんじょ)の七図漢に叛(そむ)ける事を講じ聞(きか)せたりと答え白(もう)す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰(いずれ)に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対(こた)う。時に太祖肯(がえん)ぜずして、否(あらず)、其(そ)は講官の偏説なり。景帝(けいてい)太子たりし時、博局(はくきょく)を投じて呉王(ごおう)の世子(せいし)を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯(ちょうさく)の説を聴きて、諸侯の封(ほう)を削りたり、七国の変は実に此(これ)に由る。諸子の為(ため)に此(この)事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、国家の藩輔(はんぽ)となりて、天下の公法を撓(みだ)す無かれと言うべきなり、此(かく)の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦(とんぼく)し、親しきを親しむの恩を隆(さか)んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼(きょうよく)し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此(こ)の太祖の言は、正(まさ)に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙(はや)くより此(この)意ありたればこそ、其(それ)より二年ほどにして、洪武三年に、※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]、棡(こう)、棣(てい)、※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]、□(てい)、榑(ふ)、梓(しん)、檀(たん)、※(き)[#「木+巳」、257-10]の九子を封じて、秦(しん)晋(しん)燕(えん)周(しゅう)等に王とし、其(その)甚(はなはだ)しきは、生れて甫(はじ)めて二歳、或(あるい)は生れて僅(わずか)に二ヶ月のものをすら藩王とし、次(つ)いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而(しこう)して又夙(はや)くより此意ありたればこそ、葉居升(しょうきょしょう)が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文(いぶん)太子に、七国反漢の事を喩(さと)したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯(か)ばかり思いしことの、其(その)身(み)死すると共に直(ただち)に禍端乱階(かたんらんかい)となりて、懿文(いぶん)の子の允□(いんぶん)、七国反漢の古(いにしえ)を今にして窘(くるし)まんとは。不世出の英雄朱元璋(しゅげんしょう)も、命(めい)といい数(すう)というものゝ前には、たゞ是(これ)一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
 七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承(う)けて其(その)御子(おんこ)允□皇太孫の位に即(つ)かせたもう。継紹(けいしょう)の運まさに是(かく)の如くなるべきが上に、下(しも)は四海の心を繋(か)くるところなり。上(かみ)は一人(にん)の命(めい)を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲(こうちょ)となりたまえる上は、齢(よわい)猶(なお)弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或(あるい)は功あり或は徳ありと雖(いえど)も、遠からず俯首(ふしゅ)して命(めい)を奉ずべきなれば、理に於(おい)ては当(まさ)に之(これ)を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟(はさ)み、大封の勢(いきおい)に藉(よ)り、且(かつ)は叔父(しゅくふ)の尊きを以(もっ)て、不遜(ふそん)の事の多かりければ、皇太孫は如何(いか)ばかり心苦しく厭(いと)わしく思いしみたりけむ。一日(いちじつ)東角門(とうかくもん)に坐して、侍読(じどく)の太常卿(たいじょうけい)黄子澄(こうしちょう)というものに、諸王驕慢(きょうまん)の状を告げ、諸(しょ)叔父(しゅくふ)各大封重兵(ちょうへい)を擁し、叔父の尊きを負(たの)みて傲然(ごうぜん)として予に臨む、行末(ゆくすえ)の事も如何(いかが)あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰(のたま)いたもう。子澄名は□(てい)、分宜(ぶんぎ)の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖(いえど)も、世故(せいこ)に練達することは未(いま)だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其(その)昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔(わずか)に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛(そむ)きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰(たれ)か能(よ)く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心(みこころ)安く思召(おぼしめ)せ、と七国の古(いにしえ)を引きて対(こた)うれば、太孫は子澄が答を、げに道理(もっとも)なりと信じたまいぬ。太孫猶(なお)齢(とし)若く、子澄未だ世に老いず、片時(へんじ)の談、七国の論、何ぞ図(はか)らん他日山崩れ海湧(わ)くの大事を生ぜんとは。
 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同(どう)閏(うるう)五月西宮(せいきゅう)に崩ず。其(その)遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度(いくたび)と無く畏(おそ)るべき危険の境を冒して、無産無官又無家(むか)、何等(なんら)の恃(たの)むべきをも有(も)たぬ孤独の身を振い、終(つい)に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮(おも)[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭(つく)して民を済(すく)い、而(しこう)して礼を尚(たっと)び学を重んじ、百忙(ぼう)の中(うち)、手に書を輟(や)めず、孔子の教(おしえ)を篤信し、子(し)は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此(これ)に依拠し、又蚤歳(そうさい)にして仏理に通じ、内典を知るも、梁(りょう)の武帝の如く淫溺(いんでき)せず、又老子(ろうし)を愛し、恬静(てんせい)を喜び、自(みず)から道徳経註(どうとくけいちゅう)二巻を撰(せん)し、解縉(かいしん)をして、上疏(じょうそ)の中に、学の純ならざるを譏(そし)らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚(こうしょう)せず、嘗(かつ)て宗濂(そうれん)に謂(い)って、人君能(よ)く心を清くし欲を寡(すくな)くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々□々(ききこうこう)として自(みずか)ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰(い)い、詩文を善(よ)くして、文集五十巻、詩集五巻を著(あらわ)せるも、□同(せんどう)と文章を論じては、文はたゞ誠意溢出(いっしゅつ)するを尚(たっと)ぶと為し、又洪武六年九月には、詔(みことのり)して公文に対偶文辞(たいぐうぶんじ)を用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵(そうかい)を事とするを遏(とど)めたるが如き、まことに通ずること博(ひろ)くして拘(とら)えらるゝこと少(すくな)く、文武を兼(か)ねて有し、智有を併(あわ)せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高(かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう)皇帝の諡号(しごう)に負(そむ)かざる朱元璋(しゅげんしょう)、字(あざな)は国瑞(こくずい)の世(よ)を辞(じ)して、其(その)身は地に入り、其神(しん)は空(くう)に帰せんとするに臨みて、言うところ如何(いかん)。一鳥の微(び)なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可(べ)く考う可(べ)きもの無からんや。遺詔に曰く、朕(ちん)皇天の命を受けて、大任に世に膺(あた)ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何(いかん)せん寒微(かんび)より起りて、古人の博智無く、善を好(よみ)し悪を悪(にく)むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼(きく)す、慮(はか)るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得(う)、其(そ)れ奚(いずく)んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允□(いんぶん)、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜(よろ)しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐(ほゆう)し、以(もっ)て吾(わ)が民を福(さいわい)せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異(こと)にする勿(なか)れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川(さんせん)は、其の故(ふるき)に因りて改むる勿(なか)れ、天下の臣民は、哭臨(こくりん)する三日にして、皆服を釈(と)き、嫁娶(かしゅ)を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨(なげ)きて、京師に至る母(なか)れ。諸(もろもろ)の令の中(うち)に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
 嗚呼(ああ)、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺(あた)ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是(こ)れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕(あいあいじんじょ)の情景、百歳の下(しも)、人をして欽仰(きんごう)せしむるに足るものあり。奈何(いかん)せん寒微より起りて、智浅く徳寡(すくな)し、といえるは、謙遜(けんそん)の態度を取り、反求(はんきゅう)の工夫に切に、諱(い)まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕(たんせき)に在り、といえるは、英雄も亦(また)大限(たいげん)の漸(ようや)く逼(せま)るを如何(いかん)ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚(いずく)にぞ哀念かこれ有らん、と云(い)える、流石(さすが)に孔孟仏老(こうもうぶつろう)の教(おしえ)に於(おい)て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少(すくな)きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真(しん)豪傑、生きて長春不老の癡想(ちそう)を懐(いだ)かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容(しょうよう)として逼(せま)らず、晏如(あんじょ)として□(おそ)れず、偉なる哉(かな)、偉なる哉。皇太孫允□(いんぶん)、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言(げん)や鉄の鋳られたるが如(ごと)し。衆論の糸の紛(もつ)るゝを防ぐ。これより前(さき)、太孫の儲位(ちょい)に即(つ)くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖(いえど)も、太孫の人となり仁孝聡頴(そうえい)にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚(はなは)だ欠く。此(これ)を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其(その)詩婉美柔弱(えんびじゅうじゃく)、豪壮瑰偉(かいい)の処(ところ)無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句(しく)の属対(ぞくたい)をなさしめしに、大(おおい)に旨(し)に称(かな)わず、復(ふたた)び以て燕王(えんおう)棣(てい)に命ぜられけるに、燕王の語は乃(すなわ)ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌(ようぼう)偉(い)にして髭髯(しぜん)美(うる)わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖(に)たること多かりしかば、太祖も此(これ)を悦(よろこ)び、人も或(あるい)は意(こころ)を寄するものありたり。此(ここ)に於(おい)て太祖密(ひそか)に儲位(ちょい)を易(か)えんとするに意(い)有りしが、劉三吾(りゅうさんご)之(これ)を阻(はば)みたり。三吾は名は如孫(じょそん)、元(げん)の遺臣なりしが、博学にして、文を善(よ)くしたりければ、洪武十八年召されて出(い)でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡(おうえい)、朱善(しゅぜん)と与(とも)に、世(よ)称して三老(ろう)と為(な)す。人となり慷慨(こうがい)にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁(たんたんおう)といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平(せいへい)実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与(あずか)りて定むる所多く、帝の洪範(こうはん)の注成るや、命を承(う)けて序を為(つく)り、勅修(ちょくしゅう)の書、省躬録(せいきゅうろく)、書伝会要(しょでんかいよう)、礼制集要(れいせいしゅうよう)等の編撰(へんせん)総裁となり、居然(きょぜん)たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節(たいせつ)に臨むに至りては、屹(きつ)として奪う可(べ)からず。懿文(いぶん)太子の薨(こう)ずるや、身を挺(ぬき)んでゝ、皇孫は世嫡(せいちゃく)なり、大統を承(う)けたまわんこと、礼也(なり)、と云いて、内外の疑懼(ぎく)を定め、太孫を立てゝ儲君(ちょくん)となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言(げん)無からん、乃(すなわ)ち曰(いわ)く、若(も)し燕王を立て給(たま)わば秦王(しんおう)晋王(しんおう)を何の地に置き給わんと。秦王※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]、晋王棡(こう)は、皆燕王の兄たり。孫(そん)を廃して子(し)を立つるだに、定まりたるを覆(かえ)すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世(よ)豈(あに)事無くして已(や)まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其(その)事止(や)みけるなり。是(かく)の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏(とど)めて、特(こと)に厳しく皇太孫允□宜(よろ)しく大位に登るべしとは詔を遺(のこ)されたるなるべし。太祖の治(ち)を思うの慮(りょ)も遠く、皇孫を愛するの情も篤(あつ)しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如(ごと)くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨(こくりん)三日にして服を釈(と)き、嫁娶(かしゅ)を妨ぐる勿(なか)れ、と云える、何ぞ倹素(けんそ)にして仁恕(じんじょ)なる。文帝の如くせよとは、金玉(きんぎょく)を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故(もと)に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福(さいわい)あらしめんとなり。諸王は国中に臨(なげ)きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋(けだ)し其(その)意(い)諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺□(いげつ)、辺土の黠豪(かつごう)等、或(あるい)は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原(りょうげん)の勢を成すに至らんことを虞(おそ)るるに似たり。此(こ)も亦(また)愛民憂世の念、おのずから此(ここ)に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼(ああ)、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。


 然(しか)りと雖(いえど)も、太祖の遺詔、考う可(べ)きも亦(また)多し。皇太孫允□(いんぶん)、天下心を帰す、宜(よろ)しく大位に登るべし、と云(い)えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当(まさ)に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或(あるい)は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少(わか)く勇(ゆう)乏しき、自ら謙譲して諸王の中(うち)の材雄に略大なる者に位を遜(ゆず)らんことを欲する者ありしが如(ごと)きをも猜(すい)せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明(みん)の世を治むる、纔(わずか)に三十一年、元(げん)の裔(えい)猶(なお)未(いま)だ滅びず、中国に在るもの無しと雖(いえど)も、漠北(ばくほく)に、塞西(さいせい)に、辺南(へんなん)に、元の同種の広大の地域を有して□踞(ばんきょ)するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和(こうわ)に寇(あだ)するあり。国外の情(じょう)是(かく)の如し。而(しこう)して域内の事、また英主の世を御せんことを幸(さいわい)とせずんばあらず。仁明孝友は固(もと)より尚(たっと)ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或(あるい)は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐(ほゆう)し、以(もっ)て吾(わ)が民を福(さいわい)せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼(おそ)るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶(か)、非(ひ)耶(か)。諸王は国中に臨(なげ)きて京(けい)に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其(その)封国(ほうこく)を空(むな)しゅうして奸※(かんごう)[#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]の乗ずるところとならんことを虞(おそ)るというも、諸王の臣、豈(あに)一時を托(たく)するに足る者無からんや。子の父の葬(そう)に趨(はし)るは、おのずから是(こ)れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為(な)さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔(みことのり)は、果して是れ太祖の言に出(い)づるか。太祖にして此(この)詔を遺(のこ)すとせば、太祖ひそかに其(そ)の斥(しりぞ)けて聴かざりし葉居升(しょうきょしょう)の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚(はなはだ)しければ則(すなわ)ち間(かん)に縁(よ)りて起(た)たんに、之(これ)を防ぐも及ぶ無き也(なり)、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼(ああ)子にして父の葬に会するを得ず、父の意(い)なりと謂(い)うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦(また)疎(そ)にして薄きの憾(うらみ)無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中(あた)らん、而(しか)も実に人情に遠いかな。凡(およ)そ施為(しい)命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚(はなはだ)しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計(けい)は中(あた)るも、見(けん)は徹するも、必らず弊に坐(ざ)し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則(すなわ)ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高(こう)皇后の崩ずるや、奏(しん)王晋(しん)王燕(えん)王等皆国に在り、然(しか)れども諸王喪(も)に奔(はし)りて京(けい)に至り、礼を卒(お)えて還れり。太祖の崩ぜると、其后(きさき)の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此(これ)も亦人を強いて人情に遠きを為(な)さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈(あに)弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端(じたん)は先(ま)ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将(まさ)に淮安(わいあん)に至らんとせるに当りて、斉泰(せいたい)は帝に言(もう)し、人をして□(ちょく)を賚(もた)らして国に還(かえ)らしめぬ。燕王を首(はじめ)として諸王は皆悦(よろこ)ばず。これ尚書(しょうしょ)斉泰(せいたい)の疎間(そかん)するなりと謂(い)いぬ。建文帝は位に即(つ)きて劈頭(へきとう)第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父(しゅくふ)なり、尊族なり、封土(ほうど)を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯(しか)、皇室の藩屏(はんぺい)たるも何かあらん。嗚呼(ああ)、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑(そも)又遺詔にあるか、諸王にあるか、之(これ)を知らざる也。又飜(ひるがえ)って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止(とど)むるの語ありしや否や。或(あるい)は疑う、太祖の人情に通じ、世故(せいこ)に熟せる、まさに是(かく)の如きの詔を遺(のこ)さゞるべし。若(も)し太祖に果して登遐(とうか)の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就(つ)くの時に於(おい)て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦(また)発駕奔喪(はつがほんそう)の際に於て、半途にして擁遏(ようかつ)せらるゝの不快事に会う無く、各□(おのおの)其(その)封に於て哭臨(こくりん)して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此(ここ)に出(い)でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可(べ)からず。人の情屈すれば則(すなわ)ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨(うらみ)を懐(いだ)き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之(これ)を知るの明(めい)無からん。故に曰(いわ)く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止(とど)むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄(こうしちょう)の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯(た)むるの事も、世其例に乏しからず、是(かく)の如きの事、未だ必ずしも無きを保(ほ)せず。然れども是(こ)れ推測の言のみ。真(しん)耶(か)、偽(ぎ)耶(か)、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為(い)か、為にあらざる耶(か)、将又(はたまた)斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏(とど)めざる能(あた)わざるの勢の存せしか、非耶(か)。建文永楽の間(かん)、史に曲筆多し、今新(あらた)に史徴を得るあるにあらざれば、疑(うたがい)を存せんのみ、確(たしか)に知る能(あた)わざる也。


 太祖の崩ぜるは閏(うるう)五月なり、諸王の入京(にゅうけい)を遏(とど)められて悦(よろこ)ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎(こぶじろう)卓敬(たくけい)というもの、密疏(みっそ)を上(たてまつ)る。卓敬字(あざな)は惟恭(いきょう)、書を読んで十行倶(とも)に下ると云(い)われし頴悟聡敏(えいごそうびん)の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究(きわ)めざること無く、後に成祖(せいそ)をして、国家士(し)を養うこと三十年、唯(ただ)一卓敬を得たりと歎(たん)ぜしめしほどの英才なり。□直慷慨(こうちょくこうがい)にして、避くるところ無し。嘗(かつ)て制度未(いま)だ備わらずして諸王の服乗(ふくじょう)も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶(ちゃくしょ)相(あい)乱(みだ)り、尊卑序無くんば、何を以(もっ)て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾(なんじ)の言(げん)是(ぜ)なり、と曰(い)わしめたり。其(そ)の人となり知る可(べ)きなり。敬の密疏は、宗藩(そうはん)を裁抑(さいよく)して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事竟(つい)に寝(や)みぬ。敬の言、蓋(けだ)し故無くして発せず、必らず窃(ひそか)に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升(しょうきょしょう)が言は、是(ここ)に於(おい)て其(その)中(あた)れるを示さんとし、七国の難は今将(まさ)に発せんとす。燕(えん)王、周(しゅう)王、斉(せい)王、湘(しょう)王、代(だい)王、岷(みん)王等、秘信相通じ、密使互(たがい)に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝(ちょう)に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其(そ)の未(いま)だ位に即(つ)かざりしより諸王を忌憚(きたん)し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君(ちょくん)を侮り、叔父(しゅくふ)の尊を挟(さしば)んで不遜(ふそん)の事多かりしなり。入京会葬を止(とど)むるの事、遺詔に出(い)づと云うと雖(いえど)も、諸王、責(せめ)を讒臣(ざんしん)に托(たく)して、而(しこう)して其の奸悪(かんあく)を除(のぞ)かんと云い、香(こう)を孝陵(こうりょう)に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋(けだ)し辞柄(じへい)無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼(ああ)、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ□離(かいり)せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔(そかく)せざらん。疎隔し、□離す、而して帝の為(ため)に密(ひそか)に図るものあり、諸王の為に私(ひそか)に謀るものあり、況(いわ)んや藩王を以(もっ)て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於(おい)てをや。事遂(つい)に決裂せずんば止(や)まざるものある也。
 帝の為(ため)に密(ひそか)に図る者をば誰(たれ)となす。曰(いわ)く、黄子澄(こうしちょう)となし、斉泰(せいたい)となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は□水(りっすい)の人、洪武十七年より漸(ようや)く世に出(い)づ。建文帝位(くらい)に即きたもうに及び、子澄と与(とも)に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏(とど)めたる時の如き、諸王は皆謂(おも)えらく、泰皇考(たいこうこう)の詔を矯(た)めて骨肉を間(へだ)つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
 諸王の為に私(ひそか)に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄(ゆう)を燕王となす。燕王の傅(ふ)に、僧道衍(どうえん)あり。道衍は僧たりと雖(いえど)[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智(かいしんめっち)の羅漢(らかん)にあらずして、却(かえ)って是(こ)れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就(つ)く時、道衍躬(み)ずから薦(すす)めて燕王の傅(ふ)とならんとし、謂(い)って曰く、大王(だいおう)臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽(いちはくぼう)を奉りて大王がために戴(いただ)かしめんと。王上(おうじょう)に白(はく)を冠すれば、其(その)文(ぶん)は皇なり、儲位(ちょい)明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是(かく)の如(ごと)きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而(しこう)して燕王是(かく)の如きの怪僧を延(ひ)いて帷※(いばく)[#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]の中に居(お)く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲(そうこう)も毒ありというべし。道衍燕邸(えんてい)に至るに及んで袁□(えんこう)を王に薦む。袁□は字(あざな)は廷玉(ていぎょく)、□(きん)の人にして、此(これ)亦(また)一種の異人なり。嘗(かつ)て海外に遊んで、人を相(そう)するの術を別古崖(べつこがい)というものに受く。仰いで皎日(こうじつ)を視(み)て、目尽(ことごと)く眩(げん)して後、赤豆(せきとう)黒豆(こくとう)を暗室中に布(し)いて之を弁(べん)じ、又五色の縷(いと)を窓外に懸け、月に映じて其(その)色を別って訛(あやま)つこと無く、然(しか)して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬(りょうきょ)を燃(もや)し、人の形状気色(きしょく)を視(み)て、参するに生年月日(げつじつ)を以てするに、百に一謬(びょう)無く、元末より既に名を天下に馳(は)せたり。其の道衍(どうえん)と識(し)るに及びたるは、道衍が嵩山寺(すうざんじ)に在りし時にあり。袁□(えんこう)道衍が相をつく/″\と観(み)て、是(こ)れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎(びょうこ)の如し。性必(かな)らず殺を嗜(たしな)まん。劉秉忠(りゅうへいちゅう)の流(りゅう)なりと。劉秉忠は学(がく)内外を兼ね、識(しき)三才を綜(す)ぶ、釈氏(しゃくし)より起(おこ)って元主を助け、九州を混一(こんいつ)し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼(よ)ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※(きかく)[#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]の宜(よろ)しきを得るに因(よ)るもの亦(また)鮮(すくな)からず。秉忠は実に奇偉卓犖(きいたくらく)の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処(ようしょ)に爬着(はちゃく)するもの。是れより二人、友とし善(よ)し。道衍の□(こう)を燕王に薦むるに当りてや、燕王先(ま)ず使者をして□(こう)と与(とも)に酒肆(しゅし)に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑(まじ)わり、おのれ亦(また)衛士の服を服し、弓矢(きゅうし)を執(と)りて肆中(しちゅう)に飲む。□一見して即(すなわ)ち趨(はし)って燕王の前に拝して曰(いわ)く、殿下何ぞ身を軽んじて此(ここ)に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩(わがはい)皆護衛の士なりと。□頭(こうべ)を掉(ふ)って是(ぜ)とせず。こゝに於て王起(た)って入り、□を宮中に延(ひ)きて詳(つばら)に相(そう)せしむ。□諦視(ていし)すること良(やや)久しゅうして曰(いわ)く、殿下は龍行虎歩(りゅうこうこほ)したまい、日角(にっかく)天を挿(さしはさ)む、まことに異日太平の天子にておわします。御年(おんとし)四十にして、御鬚(おんひげ)臍(へそ)を過(す)ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位(たいほうい)に登らせたまわんこと疑(うたがい)あるべからず、と白(もう)す。又燕府(えんふ)の将校官属を相せしめたもうに、□一々指点して曰く、某(ぼう)は公(こう)たるべし、某は侯(こう)たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語(ことば)の洩(も)れんことを慮(はか)り、陽(うわべ)に斥(しりぞ)けて通州(つうしゅう)に至らしめ、舟路(しゅうろ)密(ひそか)に召して邸(てい)に入る。道衍は北平(ほくへい)の慶寿寺(けいじゅじ)に在り、□は燕府(えんふ)に在り、燕王と三人、時々人を屏(しりぞ)けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。□は柳荘居士(りゅうそうこじ)と号す。時に年蓋(けだ)し七十に近し。抑(そも)亦(また)何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹(ちゅうてつ)の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶(なお)存し、風鑑(ふうかん)の津梁(しんりょう)たり。□と永楽帝と答問するところの永楽百問の中(うち)、帝鬚(ていしゅ)の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書(ろうしょ)となすと雖も、尽(ことごと)く斥(しりぞ)く可(べ)からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著(あら)わすところ、今古識鑑(ここんしきかん)八巻ありて、明志(みんし)採録す。予(よ)未だ寓目(ぐうもく)せずと雖も、蓋(けだ)し藻鑑(そうかん)の道を説く也。□と忠徹と、偕(とも)に明史方伎伝(ほうぎでん)に見ゆ。□の燕王に見(まみ)ゆるや、鬚(ひげ)長じて臍(へそ)を過(す)ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾(わ)が年将(まさ)に四旬ならんとす、鬚豈(あに)能(よ)く復(また)長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠(きんちゅう)というものを薦(すす)む。金忠も亦□(きん)の人なり、少(わか)くして書を読み易(えき)に通ず。卒伍(そつご)に編せらるゝに及び、卜(ぼく)を北平(ほくへい)に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神(しん)となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦(け)を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意漸(ようや)くにして固(かた)し。忠後(のち)に仕えて兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)を以て太子(たいし)監国(かんこく)に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。


 帝の側(かたえ)には黄子澄(こうしちょう)斉泰(せいたい)あり、諸藩を削奪(さくだつ)するの意、いかでこれ無くして已(や)まん。燕王(えんおう)の傍(かたえ)には僧道衍(どうえん)袁□(えんこう)あり、秘謀を□醸(うんじょう)するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是(かく)の如(ごと)し、風声鶴唳(ふうせいかくれい)、人相(あい)驚かんと欲し、剣光火影(かえい)、世漸(ようや)く将(まさ)に乱れんとす。諸王不穏の流言、朝(ちょう)に聞ゆること頻(しきり)なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔(ちゅうせき)の東角門(とうかくもん)の言を憶(おぼ)えたもうや、と仰(おお)す。子澄直ちに対(こた)えて、敢(あえ)て忘れもうさずと白(もう)す。東角門の言は、即(すなわ)ち子澄七国(しちこく)の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰(せいたい)と議す。泰曰(いわ)く、燕(えん)は重兵(ちょうへい)を握り、且(かつ)素(もと)より大志あり、当(まさ)に先(ま)ず之(これ)を削るべしと。子澄が曰く、然(しか)らず、燕は予(あらかじ)め備うること久しければ、卒(にわか)に図り難し。宜(よろ)しく先ず周(しゅう)を取り、燕の手足(しゅそく)を剪(き)り、而(しこう)して後燕図るべしと。乃(すなわ)ち曹国公(そうこくこう)李景隆(りけいりゅう)に命じ、兵を調して猝(にわか)に河南に至り、周王※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]及び其(そ)の世子(せいし)妃嬪(ひひん)を執(とら)え、爵を削りて庶人(しょじん)となし、之(これ)を雲南(うんなん)に遷(うつ)しぬ。※(ゆうどう)[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるを以(もっ)て、帝もかねて之を疑い憚(はばか)り、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]も亦(また)異謀あり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-4]の長史(ちょうし)王翰(おうかん)というもの、数々諫(いさ)めたれど納(い)れず、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-5]の次子(じし)汝南(じょなん)王有※[#「火+動」、279-5]の変を告ぐるに及び、此(この)事(こと)あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月(いくばくげつ)を距(さ)らざる也。冬十一月、代王(だいおう)桂(けい)暴虐(ぼうぎゃく)民を苦(くるし)むるを以て、蜀(しょく)に入りて蜀王と共に居らしむ。
 諸藩漸(ようや)く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍(ぜんぐん)都督府断事(ととくふだんじ)高巍(こうぎ)書を上(たてまつ)りて政を論ず。巍は遼州(りょうしゅう)の人、気節を尚(たっと)び、文章を能(よ)くす、材器偉ならずと雖(いえど)も、性質実に惟(これ)美(び)、母の蕭氏(しょうし)に事(つか)えて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表(せいひょう)せらる。其(そ)の立言正平(せいへい)なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又(また)是(これ)一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍(ぎ)と御史(ぎょし)韓郁(かんいく)とは説を異にす。巍の言に曰(いわ)く、我が高皇帝、三代の公(こう)に法(のっと)り、□秦(えいしん)の陋(ろう)を洗い、諸王を分封(ぶんぽう)して、四裔(しえい)に藩屏(はんぺい)たらしめたまえり。然(しか)れども之(これ)を古制に比すれば封境過大にして、諸王又率(おおむ)ね驕逸(きょういつ)不法なり。削らざれば則(すなわ)ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親(しん)を親(したし)むの恩を傷(やぶ)る。賈誼(かぎ)曰く、天下の治安を欲(ほっ)するは、衆(おお)く諸侯を建てゝ其(その)力を少(すくな)くするに若(し)くは無しと。臣愚(しんぐ)謂(おも)えらく、今宜(よろ)しく其(その)意(い)を師とすべし、晁錯(ちょうさく)が削奪の策を施す勿(なか)れ、主父偃(しゅほえん)が推恩の令(れい)に効(なら)うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権(けん)は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々(ますます)親親(しんしん)の礼を隆(さか)んにし、歳時(さいじ)伏臘(ふくろう)、使問(しもん)絶えず、賢者は詔を下して褒賞(ほうしょう)し、不法者は初犯は之を宥(ゆる)し、再犯は之を赦(ゆる)し、三犯(ぱん)改めざれば、則ち太廟(たいびょう)に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈(あに)服順せざる者あらんやと。帝之(これ)を然(さ)なりとは聞召(きこしめ)したりけれど、勢(いきおい)既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満(みちみ)ちたりければ、高巍(こうぎ)の説も用いられて已(や)みぬ。
 建文元年二月、諸王に詔(みことの)りして、文武の吏士(りし)を節制し、官制を更定(こうてい)するを得ざらしむ。此(こ)も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯(せいへいこう)沐晟(もくせい)、岷王(びんおう)梗(こう)の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟(そうりん)を誅(ちゅう)し、王を廃して庶人となす。又湘王(しょうおう)柏(はく)偽(いつわ)りて鈔(しょう)を造り、及び擅(ほしいまま)に人を殺すを以て、勅(ちょく)を降(くだ)して之を責め、兵を遣(や)って執(とら)えしむ。湘王もと膂力(りょりょく)ありて気を負う。曰く、吾(われ)聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈(あに)能(よ)く僕隷(ぼくれい)の手に辱(はずか)しめられて生活を求めんやと。遂(つい)に宮(きゅう)を闔(と)じて自ら焚死(ふんし)す。斉王(せいおう)榑(ふ)もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王桂(けい)もまた終(つい)に廃せられて庶人となり、大同(だいどう)に幽せらる。
 燕王は初(はじめ)より朝野の注目せるところとなり、且(かつ)は威望材力も群を抜けるなり、又其(そ)の終(つい)に天子たるべきを期するものも有るなり、又私(ひそか)に異人術士を養い、勇士勁卒(けいそつ)をも蓄(たくわ)え居(お)れるなり、人も疑い、己(おのれ)も危ぶみ、朝廷と燕と竟(つい)に両立する能(あた)わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、282-3]の執(とら)えらるゝを見て、燕王は遂に壮士(そうし)を簡(えら)みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容(ゆる)す能わず。たま/\北辺に寇警(こうけい)ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞(さい)を出(い)でしめ、其の羽翼(うよく)を去りて、其の咽喉(いんこう)を扼(やく)せんとし、乃(すなわ)ち工部侍郎(こうぶじろう)張□(ちょうへい)をもて北平左布政使(ほくへいさふせいし)となし、謝貴(しゃき)を以(もっ)て都指揮使(としきし)となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公(ぎこくこう)徐輝祖(じょきそ)、曹国公(そうこくそう)李景隆(りけいりゅう)をして、謀(はかりごと)を協(あわ)せて燕を図(はか)らしむ。
 建文元年正月、燕王長史(ちょうし)葛誠(かつせい)をして入って事を奏せしむ。誠(せい)、帝の為(ため)に具(つぶさ)に燕邸(えんてい)の実を告ぐ。こゝに於(おい)て誠を遣(や)りて燕に還(かえ)らしめ、内応を為(な)さしむ。燕王覚(さと)って之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲(にゅうきん)す。皇道(こうどう)を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史(かんさつぎょし)曾鳳韶(そうほうしょう)これを劾(がい)せしが、帝曰く、至親(ししん)問う勿(なか)れと。戸部侍郎(こぶじろう)卓敬(たくけい)、先に書を上(たてまつ)って藩を抑え禍(わざわい)を防がんことを言う。復(また)密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平(ほくへい)は、形勝の地にして、士馬(しば)精強に、金(きん)元(げん)の由って興るところなり、今宜(よろ)しく封(ほう)を南昌(なんしょう)に徒(うつ)したもうべし。然(しか)らば則(すなわ)ち万一の変あるも控制(こうせい)し易(やす)しと、帝敬(けい)に対(こた)えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此(これ)に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋(ずい)文揚広(ぶんようこう)は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑(しい)す。燕王の傲慢(ごうまん)なる、何をか為(な)さゞらん。敬の言、敦厚(とんこう)を欠き、帝の意、醇正(じゅんせい)に近しと雖(いえど)も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲(かなし)む可(べ)きかな、敬の言却(かえ)って実に切なり。然れども帝黙然たること良(やや)久しくして曰く、卿(けい)休せよと。三月に至って燕王国に還(かえ)る。都御史(とぎょし)暴昭(ぼうしょう)、燕邸(えんてい)の事を密偵して奏するあり。北平の按察使(あんさつし)僉事(せんじ)の湯宗(とうそう)、按察使(あんさつし)陳瑛(ちんえい)が燕の金(こがね)を受けて燕の為に謀ることを劾(がい)するあり。よって瑛(えい)を逮捕し、都督宗忠(そうちゅう)をして兵三万を率(ひき)い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下(きか)に隷(れい)し、開平(かいへい)に屯(とん)して、名を辺に備うるに藉(か)り、都督の耿※(こうけん)[#「王+獻」、UCS-74DB、284-4]に命じて兵を山海関(さんかいかん)に練り、徐凱(じょがい)をして兵を臨清(りんせい)に練り、密(ひそか)に張□(ちょうへい)謝貴(しゃき)に勅して、厳に北平(ほくへい)の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視(み)、国に帰れるより疾(やまい)に托(たく)して出でず、之(これ)を久しゅうして遂に疾(やまい)篤(あつ)しと称し、以て一時の視聴を避(さ)けんとせり。されども水あるところ湿気無き能(あた)わず、火あるところは燥気(そうき)無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒(げいりょう)というもの変を上(たてまつ)り、燕の官校于(かんこうう)諒周鐸(りょうしゅうたく)等(ら)の陰事を告げゝれば、二人は逮(とら)えられて京(けい)に至り、罪明らかにして誅(ちゅう)せられぬ。こゝに於て事(こと)燕王に及ばざる能わず、詔(みことのり)ありて燕王を責む。燕王弁疏(べんそ)する能わざるところありけん、佯(いつわ)りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食(しゅし)を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或(あるい)は土壌に臥(ふ)して、時を経(ふ)れど覚めず、全く常を失えるものゝ如(ごと)し。張□(ちょうへい)謝貴(しゃき)の二人、入りて疾(やまい)を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐(ろ)を囲み、身を顫(ふる)わせて、寒きこと甚(はななだ)しと曰(い)い、宮中をさえ杖(つえ)つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂(おも)う者もあり、朝廷も稍(やや)これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠(かつせい)ひそかに□と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩(ゆる)くして、後日の計(けい)に便にせんまでの詐(いつわり)に過ぎず、本(もと)より恙無(つつがな)きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の□庸(とうよう)というもの、闕(けつ)に詣(いた)り事を奏したりけるを、斉泰請(こ)いて執(とら)えて鞠問(きくもん)しけるに、王が将(まさ)に兵を挙げんとするの状をば逐一に白(もう)したり。
 待設(まちもう)けたる斉泰は、たゞちに符を発し使(し)を遣わし、往(ゆ)いて燕府の官属を逮捕せしめ、密(ひそか)に謝貴(しゃき)張□(ちょうへい)をして、燕府に在りて内応を約せる長史(ちょうし)葛誠(かつせい)、指揮(しき)盧振(ろしん)と気脈を通ぜしめ、北平都指揮(としき)張信(ちょうしん)というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執(とら)えしむ。信(しん)は命を受けて憂懼(ゆうく)為(な)すところを知らず、情誼(じょうぎ)を思えば燕王に負(そむ)くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能(あた)わず、進退両難にして、行止(こうし)ともに艱(かた)く、左思右慮(さしゆうりょ)、心終(つい)に決する能わねば、苦悶(くもん)の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝(なんじ)の深憂太息することよ、と詰(なじ)り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大(おおい)に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興(こう)、毎(つね)に言えり王気(おうき)燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能(よ)く擒(とりこ)にするところにあらざるなり、燕王に負(そむ)いて家を滅することなかれと。信愈々(いよいよ)惑(まど)いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂(つい)に怒って曰く、何ぞ太甚(はなはだ)しきやと。乃(すなわち)ち意を決して燕邸に造(いた)る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径(ただ)ちに門に至りて見(まみ)ゆることを求め、ようやく召入(めしい)れらる。されども燕王猶(なお)疾(やまい)を装いて言(ものい)わず。信曰く、殿下爾(しか)したもう無かれ、まことに事あらば当(まさ)に臣に告げたもうべし、殿下もし情(じょう)を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当(まさ)に執(とら)われに就きたもうべし、如(も)し意あらば臣に諱(い)みたもう勿(なか)れと。燕王信の誠(まこと)あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子(し)なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍(どうえん)を召して、将(まさ)に大事を挙(あ)げんとす。
 天耶(か)、時(とき)耶、燕王の胸中颶母(ばいぼ)まさに動いて、黒雲(こくうん)飛ばんと欲し、張玉(ちょうぎょく)、朱能(しゅのう)等(ら)の猛将梟雄(きょうゆう)、眼底紫電閃(ひらめ)いて、雷火発せんとす。燕府(えんぷ)を挙(こぞ)って殺気陰森(いんしん)たるに際し、天も亦(また)応ぜるか、時抑(そも)至れるか、□風(ひょうふう)暴雨卒然として大(おおい)に起りぬ。蓬々(ほうほう)として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然(はいぜん)として至り、澎然(ほうぜん)として瀉(そそ)ぎ、猛打乱撃するの雨と伴(とも)なって、乾坤(けんこん)を震撼(しんかん)し、樹石(じゅせき)を動盪(どうとう)しぬ。燕王の宮殿堅牢(けんろう)ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦(えんが)吹かれて空(くう)に飄(ひるがえ)り、□然(かくぜん)として地に堕(お)ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆(ちょう)ぞ。さすがの燕王も心に之を悪(にく)みて色懌(よろこ)ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹(き)裂くる声、物凄(ものすさま)じき天地を睥睨(へいげい)して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛(しゅく)として言(ものい)わず。時に道衍(どうえん)少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆(しょうちょう)や、と白(もう)す。本(もと)より此(こ)の異僧道衍は、死生禍福の岐(ちまた)に惑うが如き未達(みだつ)の者にはあらず、膽(きも)に毛も生(お)いたるべき不敵の逸物(いちもつ)なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何(いかん)、とありけるに、昂然(こうぜん)として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦(えんが)を堕(おと)す。時に取っての祥(さが)とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言(きょうげん)に聞えければ、燕王も堪(こら)えかねて、和尚(おしょう)何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵(ののし)る。道衍騒がず、殿下聞(きこ)しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以(もっ)てすと申す、瓦(かわら)墜(お)ちて砕けぬ、これ黄屋(こうおく)に易(かわ)るべきのみ、と泰然として対(こた)えければ、王も頓(とみ)に眉(まゆ)を開いて悦(よろこ)び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼(かの)邦(くに)の制、天子の屋(おく)は、葺(ふ)くに黄瓦(こうが)を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易(かわ)るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然(ぼつぜん)凛然(りんぜん)、糾々然(きゅうきゅうぜん)、直(ただち)にまさに天下を呑(の)まんとするの勢(いきおい)をなさしめぬ。
 燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛(まも)らしめぬ。矢石(しせき)未(いま)だ交(まじわ)るに至らざるも、刀鎗(とうそう)既に互(たがい)に鳴る。都指揮使謝貴(しゃき)は七衛(しちえい)の兵、并(なら)びに屯田(とんでん)の軍士を率いて王城を囲み、木柵(ぼくさく)を以て端礼門(たんれいもん)等の路(みち)を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔(みことのり)、及び王府の官属を逮(とら)うべきの詔至りぬ。秋七月布政使(ふせいし)張□(ちょうへい)、謝貴(しゃき)と与(とも)に士卒を督して皆(みな)甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言(げん)の支吾(しご)あらんには、巌石(がんせき)鶏卵(けいらん)を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為(な)し、□貴(へいき)の軍の殺気の迸(はし)るところ、箭(や)をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡(すくな)く、彼の軍は甚だ多し、奈何(いかに)せんと。朱能進んで曰く、先(ま)ず張□謝貴を除かば、余(よ)は能(よ)く為す無き也と。王曰く、よし、□貴(へいき)を擒(とりこ)にせんと。壬申(じんしん)の日、王、疾(やまい)癒(い)えぬと称し、東殿(とうでん)に出で、官僚の賀を受け、人をして□と貴とを召さしむ。二人応ぜず。復(また)内官を遣(つかわ)して、逮(とら)わるべき者を交付するを装う。二人乃(すなわ)ち至る。衛士甚だ衆(おお)かりしも、門者呵(か)して之(これ)を止(とど)め、□と貴とのみを入る。□と貴との入るや、燕王は杖(つえ)を曳(ひ)いて坐(ざ)し、宴を賜い酒を行(や)り宝盤に瓜(うり)を盛って出(いだ)す。王曰く、たま/\新瓜(しんか)を進むる者あり、卿(けい)等(ら)と之を嘗(こころ)みんと。自ら一瓜(か)を手にしけるが、忽(たちまち)にして色を作(な)して詈(ののし)って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族(けいていそうぞく)、尚(なお)相(あい)互(たがい)に恤(あわれ)ぶ、身は天子の親属たり、而(しか)も旦夕(たんせき)に其命(めい)を安んずること無し、県官の我を待つこと此(かく)の如し、天下何事か為す可(べ)からざらんや、と奮然として瓜を地に擲(なげう)てば、護衛の軍士皆激怒して、前(すす)んで□と貴とを擒(とら)え、かねて朝廷に内通せる葛誠(かつせい)盧振(ろしん)等(ら)を殿下に取って押(おさ)えたり。王こゝに於(おい)て杖を投じて起(た)って曰く、我何ぞ病まん、奸臣(かんしん)に迫らるゝ耳(のみ)、とて遂に□貴等を斬(き)る。□貴等の将士、二人が時を移して還(かえ)らざるを見、始(はじめ)は疑い、後(のち)は覚(さと)りて、各(おのおの)散じ去る。王城を囲める者も、首脳已(すで)に無くなりて、手足(しゅそく)力無く、其兵おのずから潰(つい)えたり。張□(ちょうへい)が部下北平都指揮(ほくへいとしき)の彭二(ほうじ)、憤慨已(や)む能(あた)わず、馬を躍らして大(おおい)に市中に呼(よば)わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門(たんれいもん)に殺到す。燕王の勇卒□来興(ほうらいこう)、丁勝(ていしょう)の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦(また)散じぬ。此(この)勢(いきおい)に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北(さいほく)に転戦して元兵(げんぺい)と相(あい)馳駆(ちく)し、千軍万馬の間に老い来(きた)れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明(れいめい)に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門(せいちょくもん)をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余□(よてん)は、走って居庸関(きょようかん)を守り、馬宣(ばせん)は東して薊州(けいしゅう)に走り、宋忠(そうちゅう)は開平(かいへい)より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢(あえ)て進まずして、退いて懐来(かいらい)を保ちたり。
 煙は旺(さか)んにして火は遂に熾(も)えたり、剣(けん)は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔(せいさく)を奉ぜず、敢(あえ)て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍(どうえん)を帷幄(いあく)の謀師とし、金忠(きんちゅう)を紀善(きぜん)として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福(きゅうふく)を都指揮僉事(せんじ)とし、張□部下にして内通せる李友直(りゆうちょく)を布政司(ふせいし)参議(さんぎ)と為(な)し、乃(すなわ)ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣(かんしん)の為に謀害せらる。祖訓に云(い)わく、朝(ちょう)に正臣無く、内に奸逆(かんぎゃく)あれば、必ず兵を挙げて誅討(ちゅうとう)し、以(もっ)て君側の悪を清めよと。こゝに爾(なんじ)将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王(せいおう)を輔(たす)くるに法(のっ)とらん。爾(なんじ)等(ら)それ予が心を体せよと。一面には是(かく)の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上(たてまつ)りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固(きょうこ)にして、盤石の計を為(な)したまえり。然(しか)るに奸臣(かんしん)斉泰(せいたい)黄子澄(こうしちょう)、禍心を包蔵し、※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、292-11]、榑(ふ)、栢(はく)、桂(けい)、□(べん)の五弟、数年ならずして、並びに削奪(さくだつ)せられぬ、栢(はく)や尤(もっとも)憫(あわれ)むべし、闔室(こうしつ)みずから焚(や)く、聖仁上(かみ)に在り、胡(なん)ぞ寧(なん)ぞ此(これ)に忍ばん。蓋(けだし)陛下の心に非ず、実に奸臣の為(な)す所ならん。心尚(なお)未(いま)だ足らずとし、又以て臣に加う。臣藩(はん)を燕に守ること二十余年、寅(つつし)み畏(おそ)れて小心にし、法を奉じ分(ぶん)に循(したが)う。誠に君臣の大分(たいぶん)、骨肉の至親なるを以て、恒(つね)に思いて慎(つつしみ)を加う。而(しか)るに奸臣跋扈(ばっこ)し、禍を無辜(むこ)に加え、臣が事を奏するの人を執(とら)えて、※楚(すいそ)[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5][#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]。刺※(ししつ)[#「執/糸」、UCS-7E36、293-5]し、備(つぶ)さに苦毒を極め、迫りて臣不軌(ふき)を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張□等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢(がいく)に馳突(ちとつ)し、鉦鼓(しょうこ)は遠邇(えんじ)に喧鞠(けんきく)し、臣が府を囲み守る。已(すで)にして護衛の人、貴□(きへい)を執(とら)え、始めて奸臣欺詐(ぎさ)の謀を知りぬ。窃(ひそか)に念(おも)うに臣の孝康(こうこう)皇帝に於(お)けるは、同父母兄弟なり、今陛下に事(つか)うるは天に事うるが如きなり。譬(たと)えば大樹を伐(き)るに、先ず附枝(ふし)を剪(き)るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷(しゃしょく)危(あやう)からん。臣伏(ふ)して祖訓を覩(み)るに云(い)えることあり、朝(ちょう)に正臣無く、内に奸悪あらば、則(すなわ)ち親王兵を訓して命を待ち、天子密(ひそ)かに諸王に詔(みことのり)し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏(ふふく)して命を俟(ま)つ、と言辞を飾り、情理を綺(いろ)えてぞ奏しける。道衍少(わか)きより学を好み詩を工(たくみ)にし、高啓(こうけい)と友とし善(よ)く、宋濂(そうれん)にも推奨(すいしょう)され、逃虚子集(とうきょししゅう)十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或(あるい)は又金忠の輩や詞(ことば)を綴(つづ)りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐(いだ)き、己(おのれ)を護(まも)りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此(この)書(しょ)のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情(じょう)無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可(べ)きを覚ゆ。されども擅(ほしいまま)に謝張を殺し、妄(みだり)に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑(こうえん)に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分(ぶん)に循(したが)うにあらず。君側の奸を掃(はら)わんとすと云うと雖(いえど)も、詔無くして兵を起し、威を恣(ほしいまま)にして地を掠(かす)む。其(その)辞(じ)は則(すなわ)ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦(また)理に於て欠け、情に於て薄し。夫(そ)れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐(いだ)いて諸王に臨むは、上(かみ)は太祖の意を壊(やぶ)り、下(しも)は宗室の親(しん)を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土(ほうど)未だ乾(かわ)かず、直(ただち)に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是(こ)れ理に於(おい)て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是(かく)の如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏(しりぞ)くるも亦(また)削奪罪責を免(まぬ)かれざらんとす。太祖の血を承(う)けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首(べんしゅ)して寃(えん)に服するに忍びんや。瓜(うり)を投じて怒罵(どば)するの語、其中に機関ありと雖(いえど)も、又尽(ことごと)く偽詐(ぎさ)のみならず、本(もと)より真情の人に逼(せま)るに足るものあるなり。畢竟(ひっきょう)両者各(おのおの)理あり、各非理(ひり)ありて、争鬩(そうげい)則(すなわ)ち起り、各情(じょう)なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰(たれ)か能(よ)く其の是非を判せんや。高巍(こうぎ)の説は、敦厚(とんこう)悦(よろこ)ぶ可(べ)しと雖も、時既に晩(おそ)く、卓敬(たくけい)の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢回(かえ)し難く、朝旨の酷責すると、燕師(えんし)の暴起すると、実に互(たがい)に已(や)む能(あた)わざるものありしなり。是れ所謂(いわゆる)数(すう)なるものか、非(ひ)耶(か)。


 燕王(えんおう)の兵を起したる建文元年七月より、恵帝(けいてい)の国を遜(ゆず)りたる建文四年六月までは、烽烟(ほうえん)剣光(けんこう)の史(し)にして、今一々之(これ)を記するに懶(ものう)し。其(その)詳(しょう)を知らんとするものは、明史(みんし)及び明朝紀事本末(みんちょうきじほんまつ)等(ら)に就きて考うべし。今たゞ其概略(がいりゃく)と燕王恵帝の性格風□(ふうぼう)を知る可(べ)きものとを記せん。燕王もと智勇天縦(ちゆうてんしょう)、且(かつ)夙(つと)に征戦に習う。洪武(こうぶ)二十三年、太祖(たいそ)の命を奉じ、諸王と共に元族(げんぞく)を漠北(ばくほく)に征す。秦王(しんおう)晋王(しんおう)は怯(きょ)にして敢(あえ)て進まず、王将軍傅友徳(ふゆうとく)等を率いて北出し、□都山(いとさん)に至り、其将乃児不花(ナルプファ)を擒(とりこ)にして還(かえ)る。太祖大(おおい)[#「大(おおい)」は底本では「大(おおい)い」]に喜び、此(これ)より後屡(しばしば)諸将を帥(ひき)いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名大(おおい)に振(ふる)う。王既に兵を知り戦(たたかい)に慣(な)る。加うるに道衍(どうえん)ありて、機密に参し、張玉(ちょうぎょく)、朱能(しゅのう)、丘福(きゅうふく)ありて爪牙(そうが)と為(な)る。丘福は謀画(ぼうかく)の才張玉に及ばずと雖(いえど)も、樸直(ぼくちょく)猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦(たたかい)終って功を献ずるや必ず人に後(おく)る。古(いにしえ)の大樹(たいじゅ)将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我之(これ)を知る、と歎美(たんび)せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福其(その)首(しゅ)たり、淇国公(きこくこう)に封(ほう)ぜらる。其(その)他(た)将士の鷙悍※雄(しかんごうゆう)[#「敖/馬」、UCS-9A41、297-4]の者も、亦(また)甚(はなは)だ少(すくな)からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋(けだ)し胸算(きょうさん)あるなり。燕王の張□(ちょうへい)謝貴(しゃき)を斬(き)って反を敢(あえ)てするや、郭資(かくし)を留(とど)めて北平(ほくへい)を守らしめ、直(ただち)に師を出(いだ)して通州(つうしゅう)を取り、先(ま)ず薊州(けいしゅう)を定めずんば、後顧の患(うれい)あらんと云(い)える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次(つい)で夜襲して遵化(じゅんか)を降(くだ)す。此(これ)皆開平(かいへい)の東北の地なり。時に余□(よてん)居庸関(きょようかん)を守る。王曰く、居庸は険隘(けんあい)にして、北平の咽喉(いんこう)也、敵此(ここ)に拠(よ)るは、是(こ)れ我が背(はい)を拊(う)つなり、急に取らざる可からずと。乃(すなわ)ち徐安(じょあん)、鐘祥(しょうしょう)等(ら)をして□(てん)を撃(う)って、懐来(かいらい)に走らしむ。宗忠(そうちゅう)懐来(かいらい)に在(あ)り 兵三万と号す。諸将之を撃つを難(かた)んず。王曰く、彼衆(おお)く、我寡(すくな)し、然(しか)れども彼新(あらた)に集まる、其心未(いま)だ一ならず、之を撃たば必(かな)らず破れんと。精兵八千を率い、甲(こう)を捲(ま)き道を倍して進み、遂(つい)に戦って克(か)ち、忠と□とを獲(え)て之を斬る。こゝに於(おい)て諸州燕に降(くだ)る者多く、永平(えいへい)、欒州(らんしゅう)また燕に帰す。大寧(たいねい)の都指揮(としき)卜万(ぼくばん)、松亭関(しょうていかん)を出(い)で、沙河(さが)に駐(とど)まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢(いきおい)やゝ振う。燕王反間(はんかん)を放ち、万の部将陳亨(ちんこう)、劉貞(りゅうてい)をして万を縛し獄に下さしむ。
 帝黄子澄の言を用い、長興侯(ちょうこうこう)耿炳文(こうへいぶん)を大将軍とし、李堅(りけん)、寧忠(ねいちゅう)を副(そ)えて北伐せしめ、又安陸侯(あんりくこう)呉傑(ごけつ)、江陰侯(こういんこう)呉高(ごこう)、都督(ととく)都指揮(としき)盛庸(せいよう)、潘忠(はんちゅう)、楊松(ようしょう)、顧成(こせい)、徐凱(じょがい)、李文(りぶん)、陳暉(ちんき)、平安(へいあん)等(ら)に命じ、諸道並び進みて、直(ただち)に北平を擣(つ)かしむ。時に帝諸将士を誡(いまし)めたまわく、昔(むかし)蕭繹(しょうえき)、兵を挙げて京(けい)に入らんとす、而(しか)も其(その)下(しも)に令して曰く、一門の内(うち)自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今爾(なんじ)将士、燕王と対塁するも、務めて此(この)意(い)を体して、朕(ちん)をして叔父(しゅくふ)を殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹(しょうえき)は梁(りょう)の孝元(こうげん)皇帝なり。今梁書(りょうしょ)を按(あん)ずるに、此事を載せず。蓋(けだ)し元帝兵を挙げて賊を誅(ちゅう)し京(けい)に入らんことを図る。時に河東(かとう)王誉(おうよ)、帝に従わず、却(かえ)って帝の子方(ほう)等(ら)を殺す。帝鮑泉(ほうせん)を遣(や)りて之を討たしめ、又王(おう)僧弁(そうべん)をして代って将たらしむ。帝は高祖武帝(ぶてい)の第七子にして、誉(よ)は武帝の長子にして文選(もんぜん)の撰者(せんじゃ)たる昭明太子(しょうめいたいし)統(とう)の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔(じんじゅう)の性、宋襄(そうじょう)に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖(いえど)も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器(きょうき)を弄(ろう)し王師に抗す、其罪本(もと)より誅戮(ちゅうりく)に当る。然(しか)るに是(かく)の如(ごと)きの令を出征の将士に下す。これ適(たまたま)以(もっ)て軍旅の鋭(えい)を殺(そ)ぎ、貔貅(ひきゅう)の胆(たん)を小にするに過ぎざるのみ、智(ち)なりという可(べ)からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或(あるい)は勝つあるも、此(この)令あるを以(もっ)て、飛箭(ひせん)長槍(ちょうそう)、燕王を殪(たお)すに至らず。然りと雖も、小人の過(あやまち)や刻薄(こくはく)、長者の過(あやまち)や寛厚(かんこう)、帝の過を観(み)て帝の人となりを知るべし。
 八月耿炳文(こうへいぶん)等(ら)兵三十万を率いて真定(しんてい)に至り、徐凱(じょがい)は兵十万を率いて河間(かかん)に駐(とど)まる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠(ちょうしせい)に当りて、長興(ちょうこう)を守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、終(つい)に士誠をして志を逞(たくま)しくする能(あた)わざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列(ほうれつ)するや、炳文を以て大将軍徐達(じょたつ)に付(ふ)して一等となす。後又、北は塞(さい)を出でゝ元の遺族を破り、南は雲南(うんなん)を征して蛮を平らげ、或(あるい)は陝西(せんせい)に、或は蜀(しょく)に、旗幟(きし)の向う所、毎(つね)に功を成す。特(こと)に洪武(こうぶ)の末に至っては、元勲宿将多く凋落(ちょうらく)せるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。樹(き)老いて材愈(いよいよ)堅く、将老いて軍益々(ますます)固し。然れども不幸にして先鋒(せんぽう)楊松、燕王の為(ため)に不意を襲われて雄県(ゆうけん)に死し、潘忠(はんちゅう)到(いた)り援(すく)わんとして月漾橋(げつようきょう)の伏兵に執(とら)えられ、部将張保(ちょうほ)敵に降りて其の利用するところとなり、遂に□沱河(こだか)の北岸に於(おい)て、燕王及び張玉、朱能、譚淵(たんえん)、馬雲(ばうん)等(ら)の為に大(おおい)に敗れて、李堅(りけん)、※忠(ねいちゅう)[#「宀/必/冉」、UCS-5BD7、300-11]、顧成(こせい)、劉燧(りゅうすい)を失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して而(しか)も潰(つい)えず、真定城(しんていじょう)に入りて門を闔(と)じて堅く守る。燕兵勝(かち)に乗じて城を囲む三日、下す能(あた)わず。燕王も炳文が老将にして破り易(やす)からざるを知り、囲(い)を解いて還(かえ)る。
 炳文の一敗は猶(なお)復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄(こうしちょう)の言によりて、李景隆(りけいりゅう)を大将軍とし、斧鉞(ふえつ)を賜(たま)わって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は□袴(がんこ)の子弟、趙括(ちょうかつ)の流(りゅう)なればなり。趙括を挙げて廉頗(れんぱ)に代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に此(これ)に本づく。炳文の子□(えい)[#「□」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-7]」]は、帝の父懿文(いぶん)太子の長女江都公主(こうとこうしゅ)を妻とす、□(えい)[#「□」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-7]」]父の復(また)用いられざるを憤ること甚(はなはだ)しかりしという。又□[#「□」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-8]」]の弟※(けん)[#「王+獻」、UCS-74DB、301-7]、遼東(りょうとう)の鎮守(ちんじゅ)呉高(ごこう)、都指揮使(としきし)楊文(ようぶん)と与(とも)に兵を率いて永平(えいへい)を囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡(そとうば)が所謂(いわゆる)善(よ)く奕(えき)する者も日に勝って日に敗(やぶ)るゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児(きょうじ)を挙ぐ。燕王手を拍(う)って笑って、李九江(りきゅうこう)は膏梁(こうりょう)の豎子(じゅし)のみ、未だ嘗(かつ)て兵に習い陣を見ず、輙(すなわ)ち予(あた)うるに五十万の衆を以てす、是(これ)自ら之(これ)を坑(あな)にする也(なり)、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して回(かえ)らしめたる、まことに歎(たん)ずべし。
 景隆小字(しょうじ)は九江(きゅうこう)、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦(すす)むるに因(よ)るも、又別に所以(ゆえ)有るなり。景隆は李文忠(りぶんちゅう)の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経(けい)を治め、其(そ)の家居するや恂々(じゅんじゅん)として儒者の如く、而(しか)も甲を□(ぬ)き馬に騎(の)り槊(ほこ)を横たえて陣に臨むや、□□(たくれい)風発、大敵に遇(あ)いて益(ますます)壮(さかん)に、年十九より軍に従いて数々(しばしば)偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重(あいちょう)[#「愛重」は底本では「受重」]するところとなれるのみならず、西安(せいあん)に水道を設けては人を利し、応天(おうてん)に田租を減じては民を恵(めぐ)み、誅戮(ちゅうりく)を少(すくな)くすることを勧め、宦官(かんがん)を盛(さか)[#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることを諫(いさ)め、洪武十五年、太祖日本懐良王(かねながおう)の書に激して之を討たんとせるを止(とど)め、(懐良王、明史(みんし)に良懐に作るは蓋(けだ)し誤(あやまり)也。懐良王は、後醍醐(ごだいご)帝の皇子、延元(えんげん)三年、征西大将軍に任じ、筑紫(つくし)を鎮撫(ちんぶ)す。菊池武光(きくちたけみつ)等(ら)之(これ)に従い、興国(こうこく)より正平(しょうへい)に及び、勢威大(おおい)に張る。明の太祖の辺海毎(つね)に和寇(わこう)に擾(みだ)さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以(もっ)て威嚇(いかく)するや、王答うるに書を以てす。其(その)略に曰く、乾坤(けんこん)は浩蕩(こうとう)たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪(かんこう)なり、諸邦を作(な)して以て分守す。蓋(けだ)し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也(なり)。吾(われ)聞く、天朝戦(たたかい)を興(おこ)すの策ありと、小邦亦(また)敵を禦(ふせ)ぐの図(と)あり。豈(あに)肯(あえ)て途(みち)に跪(ひざまず)いて之を奉ぜんや。之に順(したが)うも未(いま)だ其生(せい)を必せず、之に逆(さから)うも未だ其死を必せず、相(あい)逢(あ)う賀蘭山前(がらんさんぜん)、聊(いささか)以(もっ)て博戯(はくぎ)せん、吾何をか懼(おそ)れんやと。太祖書を得て慍(いか)ること甚だしく、真(しん)に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和(こうわ)元年に当る。時に王既に今川了俊(いまがわりょうしゅん)の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝(ごむらかみてい)[#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子良成(ながなり)王に譲り、筑後(ちくご)矢部(やべ)に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務(つとめ)をば執りたまわず、年代齟齬(そご)[#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王と明(みん)との交渉は夙(つと)に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此(この)事(こと)我が国に史料全く欠け、大日本史(だいにほんし)も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚(ふだん)にあらず。)一個(いっか)優秀の風格、多く得(う)可(べ)からざるの人なり。洪武十七年、疾(やまい)を得て死するや、太祖親しく文を為(つく)りて祭(まつり)を致し、岐陽王(きようおう)に追封し、武靖(ぶせい)と諡(おくりな)し、太廟(たいびょう)に配享(はいきょう)したり。景隆は是(かく)の如き人の長子にして、其父の蓋世(がいせい)の武勲と、帝室の親眷(しんけん)との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統(す)ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀(びもくそしゅう)、雍容都雅(ようようとが)、顧盻偉然(こべんいぜん)、卒爾(そつじ)に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡(しばしば)出(い)でゝ軍を湖広(ここう)陝西(せんせい)河南(かなん)に練り、左軍都督府事(さぐんととくふじ)となりたるほかには、為(な)すところも無く、其(その)功としては周王(しゅうおう)を執(とら)えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮(こひ)にして羊質(ようしつ)、所謂(いわゆる)治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を※(ふ)[#「足へん+諜のつくり」、UCS-8E40、305-1]み剣を揮(ふる)いて進み、創(きず)を裹(つつ)み歯を切(くいしば)って闘(たたか)うが如き経験は、未(いま)だ曾(かつ)て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其(その)真を得たりしなり。
 李景隆は大兵を率いて燕王を伐(う)たんと北上す。帝は猶(なお)北方憂うるに足らずとして意(こころ)を文治に専らにし、儒臣方孝孺(ほうこうじゅ)等(ら)と周官の法度(ほうど)を討論して日を送る、此(この)間(かん)に於て監察御史(かんさつぎょし)韓郁(かんいく)(韓郁或(あるい)は康郁(こういく)に作る)というもの時事を憂いて疏(そ)を上(たてまつ)りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒(じゅじゅ)となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康(こうこう)の手足(しゅそく)なりとなし、之(これ)を待つことの厚からずして、周王湘(しょう)王代(だい)王斉(せい)王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為(ため)に計る者の過(あやまち)にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為(な)し、諺(ことわざ)に曰(いわ)く、親者(しんしゃ)之を割(さ)けども断たず、疎者(そしゃ)之を続(つ)げども堅(かた)からずと、是(これ)殊(こと)に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜(び)し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈(ゆる)し、湘王を封(ほう)じ、周王を京師(けいし)に還(かえ)し、諸王世子(せいし)をして書を持し燕に勧め、干戈(かんか)を罷(や)め、親戚(しんせき)を敦(あつ)うしたまえ、然らずんば臣愚(ぐ)おもえらく十年を待たずして必ず噬臍(ぜいせい)の悔(くい)あらん、というに在(あ)り。其の論、彝倫(いりん)を敦(あつ)くし、動乱を鎮(しず)めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既(すで)に去り、勢(いきおい)既に成るの後に於て、此(この)言あるも、嗚呼(ああ)亦晩(おそ)かりしなり。帝遂(つい)に用いたまわず。
 景隆の炳文(へいぶん)に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆(はいちょう)を具せるを指摘し、我之(これ)を擒(とりこ)にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平(ほくへい)を世子(せいし)に守らしめ、東に出でゝ、遼東(りょうとう)の江陰侯(こういんこう)呉高(ごこう)を永平より逐(お)い、転じて大寧(たいねい)に至りて之を抜き、寧(ねい)王を擁して関(かん)に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥(ひき)いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲(りじょう)、梁明(りょうめい)等(ら)、世子(せいし)を奉じて防守甚だ力(つと)むと雖(いえど)も、景隆が軍衆(おお)くして、将も亦(また)雄傑なきにあらず、都督(ととく)瞿能(くのう)の如き、張掖門(ちょうえきもん)に殺入して大(おおい)に威勇を奮い、城殆(ほとん)ど破る。而(しか)も景隆の器(き)の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟(ま)ちて倶(とも)に進めと令し、機に乗じて突至せず。是(ここ)に於て守る者便(べん)を得、連夜水を汲(く)みて城壁に灌(そそ)げば、天寒くして忽(たちま)ち氷結し、明日に至れば復(また)登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予(あらかじ)め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱(つく)さんことを期せしに、景隆既に□(やごろ)に入り来(きた)りぬ、何ぞ箭(や)を放たざらんや。大寧より還(かえ)りて会州(かいしゅう)に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬(りひん)を右軍(ゆうぐん)に、徐忠(じょちゅう)を前軍に、降将房寛(ぼうかん)を後軍に将たらしめ、漸(ようや)く南下して京軍(けいぐん)と相対したり。十一月、京軍の先鋒(せんぽう)陳暉(ちんき)、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷(もくとう)して曰く、天若(も)し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果(はた)して合す。燕の師勇躍して進み、暉(き)の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃(きょうげき)し、遂に連(しき)りに其七営を破って景隆の営に逼(せま)る。張玉等(ら)も陣を列(つら)ねて進むや、城中も亦(また)兵を出して、内外交(こもごも)攻む。景隆支うる能(あた)わずして遁(のが)れ、諸軍も亦粮(かて)を棄(す)てゝ奔(はし)る。燕の諸将是(ここ)に於て頓首(とんしゅ)して王の神算及ぶ可(べ)からずと賀す。王曰(いわ)く、偶中(ぐうちゅう)のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙(けん)す。燕王が英雄の心を攬(と)るも巧(たくみ)なりというべし。
 景隆が大軍功無くして、退いて徳州(とくしゅう)に屯す。黄子澄其(その)敗(はい)を奏せざるを以(もっ)て、十二月に至って却(かえ)って景隆に太子(たいし)太師(たいし)を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌(こうしょう)を攻めて之を降す。
 前に疏(そ)を上(たてまつり)りて、諸藩を削るを諫(いさ)めたる高巍(こうぎ)は、言用いられず、事遂(つい)に発して天下動乱に至りたるを慨(なげ)き、書を上(たてまつり)りて、臣願わくは燕に使(つかい)して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上(たてまつり)りたり。其(その)略に曰く、太祖(たいそ)[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐(しょうか)したまいて意(おも)わざりき大王と朝廷と隙(げき)あらんとは。臣おもえらく干戈(かんか)を動かすは和解に若(し)かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見(まみ)えん。昔周公流言を聞きては、即(すなわ)ち位を避けて東に居(い)たまいき。若(も)し大王能(よ)く首計(しゅけい)の者を斬(き)りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質(しち)にし、骨肉猜忌(さいき)の疑(うたがい)を釈(と)き、残賊離間の口を塞(ふさ)ぎたまわば、周公と隆(さか)んなることを比すべきにあらずや。然(しか)るを慮(おもんばかり)こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇(きょうう)を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉(し)くことを得て、殿下文臣を誅(ちゅう)することを仮りて実は漢の呉(ご)王の七国に倡(とな)えて晁錯(ちょうさく)を誅せんとしゝに効(なら)わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠(よ)りて数群を取りたもうと雖(いえど)も、数月(すうげつ)以来にして、尚(なお)□爾(さつじ)たる一隅の地を出(い)づる能わず、較(くら)ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其(その)一(いつ)をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統(す)べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則(すなわ)ち君臣たり、親(しん)は則ち骨肉たるも、尚(なお)離れ間(へだ)たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍(ぎ)が念(おもい)こゝに至るごとに大王の為に流涕(りゅうてい)せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言(ことば)を信じ、上表(じょうひょう)謝罪し、甲を按(お)き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥(かんゆう)あり、天人共に悦(よろこ)びて、太祖在天の霊も亦(また)安んじたまわん。□(もし)迷(まよい)を執りて回(かえ)らず、小勝を恃(たの)み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為(な)す可からざるの悖事(はいじ)を僥倖(ぎょうこう)するを敢(あえ)てしたまわば、臣大王の為に言(もう)すべきところを知らざる也(なり)。況(いわ)んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜(むこ)の民驚きを受く。仁を求め国を護(まも)るの義と、逕庭(けいてい)あるも亦(また)甚(はなはだ)し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪(さんだつ)するの批議無きにあらじ。もし幸(さいわい)にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何(いかん)の人と謂(い)い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣(ふゆう)の微命(びめい)、もとより死を畏(おそ)れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩(ぎょおん)を蒙(こうむ)りて、臣が孝行を旌(あらわ)したもうを辱(かたじけな)くす。巍既(すで)に孝子たる、当(まさ)に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見(まみ)ゆるを得ば、巍も亦以て愧(はじ)無かるべし。巍至誠至心、直語して諱(い)まず、尊厳を冒涜(ぼうとく)す、死を賜うも悔(くい)無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚(はばか)るところ無く白(もう)しける。されど燕王答えたまわねば、数次(しばしば)書を上(たてまつ)りけるが、皆効(かい)無かりけり。
 巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此(これ)に対して如何(いかん)の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦(たたかい)を開く、巍の言(ことば)善(よ)しと雖も、大河既に決す、一葦(いちい)の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言(げん)と、忠孝敦厚(とんこう)の人たるに負(そむ)かず。数百歳の後、猶(なお)読む者をして愴然(そうぜん)として感ずるあらしむ。魏と韓郁(かんいく)とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正(まさ)に拠りて、言(げん)を為せる者也。


 年は新(あらた)になりて建文二年となりぬ。燕(えん)は洪武(こうぶ)三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州(いしゅう)を下し、大同(だいどう)を攻む。景隆(けいりゅう)師を出して之(これ)を救わんとすれば、燕王は速く居庸関(きょようかん)より入りて北平(ほくへい)に還(かえ)り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼(だったん)の兵来(きた)りて燕を助く。蓋(けだ)し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮(はか)りて、燕王の請えるなり。春闌(たけなわ)にして、南軍勢(いきおい)を生じぬ。四月朔(さく)、景隆兵を徳州(とくしゅう)に会す、郭英(かくえい)、呉傑(ごけつ)は真定(しんてい)に進みぬ。帝は巍国公(ぎこくこう)徐輝祖(じょきそ)をして、京軍(けいぐん)三万を帥(ひき)いて疾馳(しっし)して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑等(ら)、軍六十万を合(がっ)し、百万と号して白溝河(はくこうが)に次(じ)す。南軍の将平安(へいあん)驍勇(ぎょうゆう)にして、嘗(かつ)て燕王に従いて塞北(さいほく)に戦い、王の兵を用いるの虚実を識(し)る。先鋒(せんぽう)となりて燕に当り、矛(ほこ)を揮(ふる)いて前(すす)む。瞿能(くのう)父子も亦(また)踴躍して戦う。二将の向(むか)う所、燕兵披靡(ひび)す。夜、燕王、張玉(ちょうぎょく)を中軍に、朱能(しゅのう)を左軍に、陳亨(ちんこう)を右(ゆう)軍に、丘福(きゅうふく)を騎兵に将とし、馬歩(ばほ)十余万、黎明(れいめい)に畢(ことごと)く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛(ぼうかん)の陣を擣(つ)いて之を破る。張玉等之(これ)を見て懼色(くしょく)あり。王曰く、勝負(しょうはい)は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為(ため)に敵を破らんと。既(すなわ)ち精鋭数千を麾(さしまね)いて敵の左翼に突入す。王の子高煦(こうこう)、張玉等の軍を率いて斉(ひと)しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声(かんせい)天に震い 飛矢(ひし)雨の如し。王の馬、三たび創(きず)を被(こうむ)り、三たび之を易(か)う。王善(よ)く射る。射るところの箭(や)、三箙(ふく)皆尽く。乃(すなわ)ち剣を提(ひっさ)げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒(けんぽう)折れ欠けて、撃(う)つに堪(た)えざるに至る。瞿能(くのう)と相(あい)遇(あ)う。幾(ほと)んど能の為に及ばる。王急に走りて□(つつみ)に登り、佯(いつわ)って鞭(むち)を麾(さしまね)いで、後継者を招くが如くして纔(わずか)に免(まぬか)れ、而して復(また)衆を率いて馳(は)せて入る。平安善(よ)く鎗刀(そうとう)を用い、向う所敵無し。燕将陳亨(ちんこう)、安の為に斬られ、徐忠亦創(きず)を被(こうむ)る。高煦(こうこう)急を見、精騎数千を帥(ひき)い、前(すす)んで王と合(がっ)せんとす。瞿能(くのう)また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相(あい)視(み)て驚き動く。王これに乗じ、勁騎(けいき)を以て繞(めぐ)って其(その)後(うしろ)に出で、突入馳撃(しげき)し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏(うち)に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵(ゆつうえん)、勝聚(しょうしゅう)等(ら)皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼(せま)り火を縦(はな)つ。急風火を扇(あお)る。是(ここ)に於(おい)て南軍大(おおい)に潰(つい)え、郭英(かくえい)等(ら)は西に奔(はし)り、景隆は南に奔る。器械輜重(しちょう)、皆燕の獲(う)るところとなり、南兵の横尸(おうし)百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此(この)戦(たたかい)、軍を全くして退く者、徐輝祖(じょきそ)あるのみ。瞿能、平安等、驍将(ぎょうしょう)無きにあらずと雖(いえど)も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦(てんしょう)の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以(もっ)てす。北軍の克(か)ち、南軍の潰(つい)ゆる、まことに所以(ゆえ)ある也。
 山東参政(さんとうさんせい)鉄鉉(てつげん)は儒生より身を起し、嘗(かつ)て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石(ていせき)という字(あざな)を賜わりたる者なり。北征の師の出(い)づるや、餉(しょう)を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師潰(つい)えて、諸州の城堡(じょうほ)皆風(ふう)を望みて燕に下るに会い、臨邑(りんゆう)に次(やど)りたるに、参軍高巍(こうぎ)の南帰するに遇(あ)いたり。偕(とも)に是(こ)れ文臣なりと雖(いえど)も、今武事の日に当り、目前に官軍の大(おおい)に敗れて、賊威の熾(さか)んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上(たてまつ)りしも効(かい)無かりしを歎(たん)ずれば、鉉は忠臣の節に死する少(すくな)きを憤る。慨世の哭(なげき)、憂国の涙、二人相(あい)持(じ)して、□然(げんぜん)として泣きしが、乃(すなわ)ち酒を酌(く)みて同(とも)に盟(ちか)い、死を以て自ら誓い、済南(せいなん)に趨(はし)りてこれを守りぬ。景隆は奔(はし)りて済南に依(よ)りぬ。燕王は勝(かち)に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆尚(なお)十余万の兵を有せしが、一戦に復(また)敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢愈(いよいよ)旺(さか)んにして城を屠(ほふ)らんとす。鉄鉉、左都督(さととく)盛庸(せいよう)、右都督(ゆうととく)陳暉(ちんき)等(ら)と力を尽して捍(ふせ)ぎ、志を堅うして守り、日を経(ふ)れど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使(さんとうふせいしし)と為(な)し、盛庸を大将軍と為(な)し、陳暉を副将軍に陞(のぼ)す。景隆は召還(めしかえ)されしが、黄子澄(こうしちょう)、練子寧(れんしねい)は之を誅(ちゅう)せずんば何を以(もっ)て宗社(そうしゃ)に謝し将士を励まさんと云(い)いしも、帝卒(つい)に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂(つい)に下(くだ)すこと能(あた)わず。乃(すなわ)ち城外の諸渓(しょけい)の水を堰(せ)きて灌(そそ)ぎ、一城の士(し)を魚とせんとす。城中是(ここ)に於て大(おおい)に安んぜず。鉉曰く、懼(おそ)るゝ勿(なか)れ、吾(われ)に計ありと。千人を遣(や)りて詐(いつわ)りて降(くだ)らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予(かね)て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯(うかが)いて大鉄板を墜(おと)して之(これ)を撃ち、又別に伏(ふく)を設けて橋を断たしめんとす。燕王計(はかりごと)に陥り、馬に乗じ蓋(がい)を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板驟(にわか)に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易(か)えて馳(は)せて出(い)づ。橋を断たんとす。橋甚(はなは)だ堅(かた)し。未(いま)だ断つに及ばずして、王竟(つい)に逸し去る。燕王幾(ほと)んど死して幸(さいわい)に逃る。天助あるものゝ如し。王大(おおい)に怒り、巨※(きょほう)[#「石+駁」、UCS-791F、316-5]を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉愈(いよいよ)屈せず、太祖高皇帝の神牌(しんぱい)を書して城上に懸けしむ。燕王敢(あえ)て撃たしむる能(あた)わず。鉉又数々(しばしば)不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅(おびや)かさしむ。燕王憤(いか)ること甚(はなはだ)しけれども、計の出づるところ無し。道衍(どうえん)書を馳(は)せて曰く、師老いたり、請う暫(しば)らく北平に還(かえ)りて後挙を図りたまえと。王囲(かこみ)を撤して還る。鉉と盛庸等(ら)と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍大(おおい)に振う。鉉是(ここ)に於て擢(ぬきん)でられて兵部尚書(へいぶしょうしょ)となり、盛庸は歴城侯(れきじょうこう)となりたり。
 盛庸は初め耿炳文(こうへいぶん)に従い、次(つい)で李景隆(りけいりゅう)に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦(ぼうぎょ)、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕(へいえん)将軍となり、陳暉(ちんき)、平安(へいあん)、馬溥(ばふ)、徐真(じょしん)等の上に立ち、呉傑(ごけつ)、徐凱(じょがい)等と与(とも)に燕を伐(う)つの任に当りぬ。庸乃(すなわ)ち呉傑、平安をして西の方定州(ていしゅう)を守らしめ、徐凱をして東の方滄州(そうしゅう)に屯(たむろ)せしめ、自ら徳州に駐(とど)まり、猗角(きかく)の勢を為(な)して漸(ようや)く燕を蹙(しじ)めんとす。燕王、徳州の城の、修築已(すで)に完(まった)く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰(つい)え※(くず)[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ[#「※(くず)[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ」は底本では「※(くず)[#「土へん+已」、317-6]るゝ」]こと久しくして破り易(やす)きを思い、之(これ)を下して庸の勢を殺(そ)がんと欲す。乃(すなわ)ち陽(よう)に遼東(りょうとう)を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津(てんしん)より直沽(ちょくこ)に至り、俄(にわか)に河(か)に沿いて南下するを令す。軍士猶(なお)知らず、其(そ)の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途(みち)に偵騎(ていき)に遇(あ)えば、尽(ことごと)く之(これ)を殺し、一昼夜にして暁(あかつき)に比(およ)びて滄州に至る。凱の燕師の到(いた)れるを覚(さと)りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能(あた)わず。張玉の肉薄して登るに及び、城遂(つい)に抜かれ、凱と程暹(ていせん)、兪□(ゆき)、趙滸(ちょうこ)等皆獲(え)らる。これ実に此(この)年(とし)十月なり。
 十二月、燕王河に循(したが)いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清(りんせい)に至り、館陶(かんとう)に屯(たむろ)し、次(つい)で大名府(たいめいふ)を掠(かす)め、転じて□上(ぶんじょう)に至り、済寧(せいねい)を掠(かす)めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其(その)後(のち)を躡(ふ)み、東昌(とうしょう)に営したり。此(この)時(とき)北軍却(かえ)って南に在(あ)り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢(いきおい)成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初(はじめ)は官軍の先鋒(せんぽう)孫霖(そんりん)、燕将(えんしょう)朱栄(しゅえい)、劉江(りゅうこう)の為(ため)に敗れて走りしが、両軍持重(じちょう)して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉牛(うし)を宰して将士を犒(ねぎら)い、義を唱(とな)え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密(ひそか)に火器毒弩(どくど)を列(つら)ねて、粛(しゅく)として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟(こそう)して薄(せま)る。火器電(でん)の如(ごと)くに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟(ころうしきょう)、皆傷ついて倒る。又平安(へいあん)の兵の至るに会う。庸是(ここ)に於て兵を麾(さしまね)いて大(おおい)に戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝(つ)く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝(つ)く。庸陣を開いて王の入るに縦(まか)せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃甚(はなは)だ力(つと)むれども出(い)づることを得ず、殆(ほと)んど其の獲(う)るところとならんとす。朱能(しゅのう)、周長(しゅうちょう)等、王の急を見、韃靼(だったん)騎兵を縦(はな)って庸の軍の東北角を撃つ。庸之(これ)を禦(ふせ)がしめ、囲(かこみ)やゝ緩(ゆる)む。能(のう)衝いて入って死戦して王を翼(たす)けて出づ。張玉(ちょうぎょく)も亦(また)王を救わんとし、王の已(すで)に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍勝(かち)に乗じ、残獲万余人、燕軍大(おおい)に敗れて奔(はし)る。庸兵を縦(はな)って之を追い、殺傷甚だ多し。此(この)役(えき)や、燕王数々(しばしば)危(あやう)し、諸将帝の詔(みことのり)を奉ずるを以て、刃(じん)を加えず。燕王も亦之(これ)を知る。王騎射尤(もっと)も精(くわ)し、追う者王を斬(き)るを敢(あえ)てせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々(たまたま)高煦(こうこう)、華衆(かしゅう)等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
 燕王張玉の死を聞きて痛哭(つうこく)し、諸将と語るごとに、東昌(とうしょう)の事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾(われ)今に至って寝食安からずと。涕(なみだ)下りて已(や)まず。諸将も皆泣く。後(のち)功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間(かかん)王を追封(ついほう)す。


 初め燕王(えんおう)の師の出(い)づるや、道衍(どうえん)曰(いわ)く、師は行(ゆ)いて必ず克(か)たん、たゞ両日を費(ついや)すのみと。東昌(とうしょう)より還(かえ)るに及びて、王多く精鋭を失い、張玉(ちょうぎょく)を亡(うしな)うを以(もっ)て、意稍(やや)休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌也(なり)、東昌の事了(おわ)る、此(これ)より全勝ならんのみと。益々(ますます)士を募り勢(いきおい)を鼓(こ)す。建文三年二月、燕王自ら文を撰(せん)し、流涕(りゅうてい)して陣亡の将士張玉等を祭り、服するところの袍(ほう)を脱して之(これ)を焚(や)き、以て亡者(ぼうしゃ)に衣(き)するの意をあらわし、曰く、其(そ)れ一糸(し)と雖(いえど)もや、以て余が心を識(し)れと。将士の父兄子弟之(これ)を見て、皆感泣して、王の為(ため)に死せんと欲す。
 燕王遂(つい)に復(また)師を帥(ひき)いて出(い)づ。諸将士を諭(さと)して曰く、戦(たたかい)の道、死を懼(おそ)るゝ者は必ず死し、生(せい)を捐(す)つる者は必ず生く、爾(なんじ)等(ら)努力せよと。三月、盛庸(せいよう)と來河(きょうが)に遇(あ)う。燕将譚淵(たんえん)、董中峰(とうちゅうほう)等(ら)、南将荘得(そうとく)と戦って死し、南軍亦(また)荘得(そうとく)、楚知(そち)、張皀旗(ちょうそうき)等を失う。日暮れ、各(おのおの)兵を斂(おさ)めて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営に逼(せま)って野宿(やしゅく)す。天明(あ)く、四面皆敵なり。王従容(しょうよう)として去る。庸の諸将相(あい)顧(かえり)みて愕(おどろ)き□(み)るも、天子の詔、朕をして叔父(しゅくふ)を殺すの名を負わしむる勿(なか)れの語あるを以て、矢を発(はな)つを敢(あえ)てせず。此(この)日(ひ)復(また)戦う。辰(たつ)より未(ひつじ)に至って、両軍互(たがい)に勝ち互に負く。忽(たちまち)にして東北風大(おおい)に起り、砂礫(されき)面(おもて)を撃つ。南軍は風に逆(さから)い、北軍は風に乗ず。燕軍吶喊(とっかん)鉦鼓(しょうこ)の声地を振(ふる)い、庸の軍当る能(あた)わずして大(おおい)に敗れ走る。燕王戦罷(や)んで営に還(かえ)るに、塵土(じんど)満面、諸将も識(し)る能わず、語声を聞いて王なるを覚(さと)りしという。王の黄埃(こうあい)天に漲(みなぎ)るの中に在(あ)って馳駆奔突(ちくほんとつ)して叱□(しった)号令せしの状、察す可(べ)きなり。
 呉傑(ごけつ)、平安(へいあん)は、盛庸(せいよう)の軍を援(たす)けんとして、真定(しんてい)より兵を率いて出(い)でしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出して糧(かて)を取り、営中備(そなえ)無しと言わしめ、傑等を誘(いざな)う。傑等之を信じて、遂に□沱河(こだか)に出づ。王河(かわ)を渡り流(ながれ)に沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城(ごうじょう)に遇う。実に閏(うるう)三月己亥(きがい)なり。翌日大(おおい)に戦う。燕将薛禄(せつろく)[#「薛禄」は底本では「薜禄」]、奮闘甚(はなは)だ力(つと)む。王驍騎(ぎょうき)を率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍箭(や)を飛ばす雨の如(ごと)く、王の建つるところの旗、集矢(しゅうし)蝟毛(いもう)の如く、燕軍多く傷つく。而(しか)も王猶(なお)屈せず、衝撃愈(いよいよ)急なり。会(たまたま)また暴□(ぼうひょう)起り、樹(き)を抜(ぬ)き屋(おく)を飜(ひるがえ)す。燕軍之に乗じ、傑等大(おおい)に潰(つい)ゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将(ぎょうしょう)□□(とうしん)、陳□(ちんちゅう)等を擒(とりこ)にし、斬首(ざんしゅ)六万余級、尽(ことごと)く軍資器械を得たり。王其(そ)の旗を北平(ほくへい)に送り、世子(せいし)に諭(さと)して曰く、善(よ)く之(これ)を蔵し、後世をして忘る勿(なか)らしめよと。旗世子の許(もと)に至る。時に降将(こうしょう)顧成(こせい)、坐(ざ)に在(あ)りて之を見る。成は操舟(そうしゅう)を業とする者より出づ。魁岸(かいがん)勇偉、膂力(りょりょく)絶倫、満身の花文(かぶん)、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。嘗(かつ)て太祖に随(したが)って出でし時、巨舟(きょしゅう)沙(すな)に膠(こう)して動かず。成即(すなわち)便舟を負いて行きしことあり。鎮江(ちんこう)の戦(たたかい)に、執(とら)えられて縛(ばく)せらるゝや、勇躍して縛を断ち、刀(とう)を持てる者を殺して脱帰し、直(ただち)に衆を導いて城を陥(おと)しゝことあり。勇力察す可(べ)し。後(のち)戦功を以(も)って累進して将となり、蜀(しょく)を征し、雲南(うんなん)を征し、諸蛮(しょばん)を平らげ、雄名世に布(し)く。建文元年耿炳文(こうへいぶん)に従いて燕と戦う。炳文敗れて、成執(とら)えらる。燕王自ら其(その)縛を解いて曰く、皇考の霊、汝(なんじ)を以(もっ)て我に授くるなりと。因(よ)って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心を帰(き)し、遂(つい)に世子を輔(たす)けて北平を守る。然(しか)れども多く謀画(ぼうかく)を致すのみにして、終(つい)に兵に将として戦うを肯(がえ)んぜす、兵器を賜(たま)うも亦(また)受けず。蓋(けだ)し中年以後、書を読んで得るあるに因(よ)る。又一種の人なり。後(のち)、太子高熾(こうし)の羣小(ぐんしょう)の為(ため)に苦(くるし)めらるるや、告げて曰く、殿下は但(ただ)当(まさ)に誠を竭(つく)して孝敬(こうけい)に、孳々(しし)として民を恤(めぐ)みたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を措(お)くに足らずと。識見亦高しというべし。成は是(かく)の如き人なり。旗を見るや、愴然(そうぜん)として之を壮(そう)とし、涙下りて曰く、臣少(わか)きより軍に従いて今老いたり、戦陣を歴(へ)たること多きも、未(いま)だ嘗(かつ)て此(かく)の如きを見ざるなりと。水滸伝(すいこでん)中の人の如き成をして此(この)言を為(な)さしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を攬(と)る所以(ゆえん)のもの、実に王の此(こ)の勇往邁進(まいしん)、艱危(かんき)を冒して肯(あえ)て避けざるの雄風(ゆうふう)にあらずんばあらざる也。
 四月、燕兵大名(だいみょう)に次(じ)す。王、斉泰(せいたい)と黄子澄(こうしちょう)との斥(しりぞ)けらるゝを聞き、書を上(たてまつ)りて、呉傑(ごけつ)、盛庸(せいよう)、平安(へいあん)の衆を召還せられんことを乞(こ)い、然(しか)らずんば兵を釈(と)く能(あた)わざるを言う。帝大理少卿(たいりしょうけい)薛□(せつがん)[#「薛□」は底本では「薜□」]を遣(や)りて、燕王及び諸将士の罪を赦(ゆる)して、本国に帰らしむることを詔(みことのり)し、燕軍を散ぜしめて、而して大軍を以(もっ)て其(その)後(あと)に躡(つ)かしめんとす。□(がん)到りて却(かえ)って燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語直(ちょく)にして意誠(まこと)なるを奏し、皇上権奸(けんかん)を誅(ちゅう)し、天下の兵を散じたまわば、臣単騎(たんき)闕下(けっか)に至らんと、云える燕王の語を奏す。帝方孝孺(ほうこうじゅ)に語りたまわく、誠に□の言の如くならば、斉黄(せいこう)我を誤るなりと。孝孺悪(にく)みて曰く、□の言、燕の為(ため)に游説(ゆうぜい)するなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮(しき)武勝(ぶしょう)を遣(や)りて、朝廷兵を罷(や)むるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔(ぜんしょう)と背馳(はいち)すと奏す。帝書を得て兵を罷(や)むるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康(こうこう)皇帝同産(どうさん)の弟なり、朕(ちん)の叔父(しゅくふ)なり、吾(われ)他日宗廟(そうびょう)神霊に見(まみ)えざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急に聚(あつ)む可からず。彼長駆して闕(けつ)を犯さば、何を以て之(これ)を禦(ふせ)がん、陛下惑いたもうなかれと。勝(しょう)を錦衣獄(きんいごく)に下す。燕王聞(きい)て大(おおい)に怒る。孝孺の言、真(まこと)に然(しか)り、而して建文帝の情(じょう)、亦敦(あつ)しというべし。畢竟(ひっきょう)南北相戦う、調停の事、復(また)為(な)す能わざるの勢(いきおい)に在(あ)り、今に於(おい)て兵戈(へいか)の惨(さん)を除かんとするも、五色(しき)の石、聖手にあらざるよりは、之を錬(ね)ること難きなり。
 此(この)月(つき)燕王指揮(しき)李遠(りえん)をして軽騎六千を率いて徐沛(じょはい)に詣(いた)り、南軍の資糧を焚(や)かしむ。李遠、丘福(きゅうふく)、薛禄(せつろく)[#「薛禄」は底本では「薜緑」]と策応して、能(よ)く功を収(おさ)め、糧船数万艘(そう)、糧数百万を焚(や)く。軍資器械、倶(とも)に□燼(かいじん)となり、河水尽(ことごと)く熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭(しんがい)す。
 七月、平安(へいあん)兵を率いて真定より北平に到り、平村(へいそん)に営す。平村は城を距(さ)る五十里のみ。燕王の世子(せいし)、危(あやう)きを告ぐ。王劉江(りゅうこう)を召して策を問う。江乃(すなわ)ち兵を率いて□沱(こだ)を渡り、旗幟(きし)を張り、火炬(かきょ)を挙げ、大(おおい)に軍容を壮(さかん)にして安と戦う。安の軍敗れ、安還(かえ)って真定に走る。
 方孝孺の門人林嘉猷(りんかゆう)、計(はかりごと)をもって燕王父子をして相(あい)疑わしめんとす。計(けい)行われずして已(や)む。
 盛庸等、大同(だいどう)の守将房昭(ぼうしょう)に檄(げき)し、兵を引いて紫荊関(しけいかん)に入り、保定(ほてい)の諸県を略し、兵を易州(えきしゅう)の西水寨(せいすいさい)に駐(とど)め、険(けん)に拠(よ)りて持久の計を為(な)し、北平を窺(うかが)わしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平危(あやう)しとて、遂(つい)に令を下して師を班(かえ)す。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併(あわ)せて寨を破る。房昭走りて免(のが)る。
 十一月、□馬都尉(ふばとい)梅殷(ばいいん)をして淮安(わいあん)を鎮守(ちんしゅ)せしむ。殷は太祖の女(じょ)の寧国(ねいこく)公主(こうしゅ)に尚(しょう)す。太祖の崩ぜんとするや、其の側(かたえ)に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、汝(なんじ)老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、敢(あえ)て天に違(たが)う者あらば、朕が為(ため)に之(これ)を伐(う)て、と言い訖(おわ)りて崩(かく)れたまえるなり。燕の勢(いきおい)漸(ようや)く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。乃(すなわ)ち淮南(わいなん)の民を募り、軍士を合(がっ)して四十万と号し、殷に命じて之を統(す)べて、淮上(わいじょう)に駐(とど)まり、燕師を扼(やく)せしむ。燕王これを聞き、殷に書を遣(おく)り、香(こう)を金陵(きんりょう)に進むるを以て辞と為(な)す。殷答えて曰く、進香は皇考(こうこう)禁あり、遵(したが)う者は孝たり、遵(したが)わざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻(じび)を割(さ)き、峻厳(しゅんげん)の語をもて斥(しりぞ)く。燕王怒ること甚(はなはだ)し。
 燕王兵を起してより既に三年、戦(たたかい)勝つと雖(いえど)も、得るところは永平(えいへい)・大寧(たいねい)・保定(ほてい)にして、南軍出没して已(や)まず、得るもまた棄(す)つるに至ること多く、死傷少(すくな)からず。燕王こゝに於(おい)て、太息(たいそく)して曰く、頻年(ひんねん)兵を用い、何の時か已(や)む可(べ)けん、まさに江に臨みて一決し、復(また)返顧せざらんと。時に京師(けいし)の内臣等、帝の厳(げん)なるを怨(うら)みて、燕王を戴(いただ)くに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、間(かん)に乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
 四年正月、燕の先鋒(せんぽう)李遠、徳州(とくしゅう)の裨将(ひしょう)葛進(かっしん)を□沱河(こだか)に破り、朱能(しゅのう)もまた平安の将賈栄(かえい)等(ら)を衡水(こうすい)に破りて之(これ)を擒(とりこ)にす。燕王乃ち館陶(かんとう)より渡りて、東阿(とうあ)を攻め、□上(ぶんじょう)を攻め、沛県(はいけん)を攻めて之を略し、遂に徐州(じょしゅう)に進み、城兵を威(おど)して敢(あえ)て出でざらしめて南行し、三月宿州(しゅくしゅう)に至り、平安が馬歩兵(ばほへい)四万を率いて追躡(ついせつ)せるを□河(ひが)に破り、平安の麾下(きか)の番将火耳灰(ホルフイ)を得たり。此(この)戦(たたかい)や火耳灰(ホルフイ)□(ほこ)を執(と)って燕王に逼(せま)る、相(あい)距(さ)るたゞ十歩ばかり、童信(どうしん)射って、其(その)馬に中(あ)つ。馬倒れて王免(のが)れ、火耳灰(ホルフイ)獲(え)らる。王即便(すなわち)火耳灰(ホルフイ)を釈(ゆる)し、当夜に入って宿衛(しゅくえい)せしむ。諸将これを危(あやぶ)みて言(ものい)えども、王聴(き)かず。次(つ)いで蕭県(しょうけん)を略し、淮河(わいか)の守兵を破る。四月平安小河(しょうか)に営し、燕兵河北(かほく)に拠(よ)る。総兵(そうへい)何福(かふく)奮撃して、燕将陳文(ちんぶん)を斬(き)り、平安勇戦して燕将王真(おうしん)を囲む。真(しん)身に十余創(そう)を被(こうむ)り、自ら馬上に刎(くびは)ぬ。安(あん)いよいよ逼(せま)りて、燕王に北坂(ほくはん)に遇(あ)う。安の槊(ほこ)ほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮(ばんきしき)王騏(おうき)、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将張武(ちょうぶ)悪戦して敵を却(しりぞ)くと雖(いえど)も、燕軍遂に克(か)たず。是(ここ)に於て南軍は橋南(きょうなん)に駐(とど)まり、北軍は橋北に駐まり、相(あい)持(じ)するもの数日、南軍糧(かて)尽きて、蕪(ぶ)を採って食う。燕王曰く、南軍飢(う)えたり、更に一二日にして糧(かて)やゝ集まらば破り易からずと。乃(すなわ)ち兵千余を留(とど)めて橋を守らしめ、潜(ひそか)に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞(めぐ)って敵の後(うしろ)に出づ。時に徐輝祖(じょきそ)の軍至る。甲戌(こうじゅつ)大(おおい)に斉眉山(せいびざん)に戦う。午(うま)より酉(とり)に至りて、勝負(しょうはい)相(あい)当(あた)り、燕の驍将(ぎょうしょう)李斌(りひん)死す。燕復(また)遂に克(か)つ能(あた)わず。南軍再捷(さいしょう)して振(ふる)い、燕は陳文(ちんぶん)、王真(おうしん)、韓貴(かんき)、李斌等を失い、諸将皆懼(おそ)る。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土(わいど)湿蒸に、疾疫(しつえき)漸(ようや)く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二麦(ばく)まさに熟せんとす。河を渡り地を択(えら)み、士馬を休息せしめ、隙(げき)を観(み)て動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は進(しん)ありて退(たい)無し。勝形成りて而して復(また)北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣(こうれん)するのみと。乃(すなわ)ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨(はし)る。王大(おおい)に怒って曰く、公等みずから之を為(な)せと。此(この)時(とき)や燕の軍の勢(いきおい)、実に岌々乎(きゅうきゅうこ)として将(まさ)に崩れんとするの危(き)に居(お)れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠(りょうえん)にして、而(しか)も本拠の四囲亦(また)皆敵たる也。燕の軍戦って克(か)てば則(すなわ)ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而(しこう)して当面の敵たる何福(かふく)は兵多くして力戦し、徐輝祖(じょきそ)は堅実にして隙(ひま)無く、平安(へいあん)は驍勇(ぎょうゆう)にして奇を出(いだ)す。我軍(わがぐん)は再戦して再挫(さいざ)し、猛将多く亡びて、衆心疑懼(ぎく)す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功尽(ことごと)く廃(すた)りて、不振の形勢新(あらた)に見(あら)われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離(かいり)、不測の変を生ずる無きを保(ほ)せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦(また)宜(むべ)なりというべし。然(しか)れども此(この)時(とき)の勢(いきおい)、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容(い)れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看(み)る明確、事を断ずる勇決、実に是(こ)れ豪傑の気象、鉄石の心膓(しんちょう)を見(あら)わせるものならずして何ぞや。時に坐(ざ)に朱能(しゅのう)あり、能は張玉(ちょうぎょく)と共に初(はじめ)より王の左右の手たり。諸将の中(うち)に於て年最も少(わか)しと雖(いえど)も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長(たけ)八尺、年三十五、雄毅開豁(ゆうきかいかつ)、孝友敦厚(とんこう)の人たり。慨然として席を立ち、剣を按(あん)じて右に趨(おもむ)きて曰く、諸君乞(こ)うらくは勉(つと)めよ、昔漢高(かんこう)は十たび戦って九たび敗れぬれど終(つい)に天下を有したり、今事を挙げてより連(しきり)に勝(かち)を得たるに、小挫(しょうざ)して輙(すなわ)ち帰らば、更(さら)に能(よ)く北面して人に事(つか)えんや。諸君雄豪誠実、豈(あに)退心あるべけんや、と云いければ、諸将相(あい)見(み)て敢(あえ)て言(ものい)うものあらず、全軍の心機(しんき)一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能後(のち)に龍州(りゅうしゅう)に死して、東平王(とうへいおう)に追封(ついほう)せらるゝに至りしもの、豈(あに)偶然ならんや。
 燕軍の勢(いきおい)非にして、王の甲(よろい)を解かざるもの数日なりと雖(いえど)も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷(さいしょう)すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中(うち)に、燕今は且(まさ)に北に還(かえ)るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖(じょきそ)を召還(めしかえ)したもう。輝祖(きそ)已(や)むを得ずして京(けい)に帰りければ、何福(かふく)の軍の勢(いきおい)殺(そ)げて、単糸(たんし)の□(しない)少(すくな)く、孤掌(こしょう)の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突(ちとつ)に備うる為に塹濠(ざんごう)を掘り、塁壁を作りて営と為(な)すを常としければ、軍兵休息の暇(いとま)少(すくな)く、往々虚(むな)しく人力を耗(つく)すの憾(うらみ)ありて、士卒困罷(こんひ)退屈の情あり。燕王の軍は塹塁(ざんるい)を為(つく)らず、たゞ隊伍(たいご)を分布し、陣を列して門と為(な)す。故に将士は営に至れば、即(すなわ)ち休息するを得、暇(いとま)あれば王射猟(しゃりょう)して地勢を周覧し、禽(きん)を得(う)れば将士に頒(わか)ち、塁を抜くごとに悉(ことごと)く獲(う)るところの財物を賚(たま)う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是(かく)の如し。一は人役(えき)に就(つ)くを苦(くるし)み、一は人用(よう)を為(な)すを楽(たのし)む。彼此(ひし)の差、勝敗に影響せずんばあらず。
 かくて対塁(たいるい)日を累(かさ)ぬる中(うち)、南軍に糧餉(りょうしょう)大(おおい)に至るの報あり。燕王悦(よろこ)んで曰(いわ)く、敵必ず兵を分ちて之を護(まも)らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何(いか)で能(よ)く支えんや、と朱栄(しゅえい)、劉江(りゅうこう)等(ら)を遣(や)りて、軽騎を率いて、餉道(しょうどう)を截(き)らしめ、又游騎(ゆうき)をして樵採(しょうさい)を妨げ擾(みだ)さしむ。何福(かふく)乃(すなわ)ち営を霊壁(れいへき)に移す。南軍の糧五方、平安(へいあん)馬歩(ばほ)六万を帥(ひき)いて之を護(まも)り、糧を負うものをして中(うち)に居(お)らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮(さえぎ)らしめ、子高煦(こうこう)をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出(い)でゝ撃つべしと命じ、躬(み)ずから師を率いて逆(むか)え戦い、騎兵を両翼と為(な)す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍(ほぐん)を麾(さしまね)いて縦撃(しょうげき)し、其(その)陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍遂(つい)に乱れたり。何福等此(これ)を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之(これ)を却(しりぞ)けしが、高煦は南軍の罷(つか)れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還(かえ)して掩(おお)い撃ちたり。是(ここ)に於(おい)て南軍大(おおい)に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪(うしな)い、糧餉(りょうしょう)尽(ことごと)く燕の師に獲(え)らる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞(ふさ)ぎて堅守しけるが、福此(この)夜(よ)令を下して、明旦(めいたん)砲声三たびするを聞かば、囲(かこみ)を突いて出で、糧に淮河(わいか)に就くべし、と示したり。然(しか)るに此(これ)も亦(また)天か命(めい)か、其(その)翌日燕軍霊壁(れいへき)の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此(これ)を我(わが)砲となし、争って急に門に趨(おもむ)きしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞(ふさ)がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾(ふんじょう)し、人馬滾転(こんてん)す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷(びんしょう)を極む。南軍こゝに至って大敗収む可(べ)からず。宗垣(そうえん)、陳性善(ちんせいぜん)、彭与明(ほうよめい)は死し、何福は遁(のが)れ走り、陳暉(ちんき)、平安(へいあん)、馬溥(ばふ)、徐真(じょしん)、孫晟(そんせい)、王貴(おうき)等、皆執(とら)えらる。平安の俘(とりこ)となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等(われら)此(これ)より安きを獲(え)んと。争って安(あん)を殺さんことを請う。安が数々(しばしば)燕兵を破り、驍将(ぎょうしょう)を斬(き)る数人なりしを以(もっ)てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、□河(ひか)の戦(たたかい)、公の馬躓(つまず)かずんば、何以(いか)に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽(くちき)を拉(とりひし)ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好(よ)く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善(よ)く之を視(み)せしむ。安後(のち)永楽七年に至りて自殺す。安等を喪(うしな)いてより、南軍大(おおい)に衰う。黄子澄(こうしちょう)、霊壁(れいへき)の敗を聞き、胸を撫(ぶ)して大慟(たいどう)して曰く、大事去る、吾輩(わがはい)万死、国を誤るの罪を贖(つぐな)うに足らずと。
 五月、燕兵泗州(ししゅう)に至る。守将周景初(しゅうけいしょ)降(くだ)る。燕の師進んで淮(わい)に至る。盛庸(せいよう)防ぐ能(あた)わず、戦艦皆燕の獲(う)るところとなり、□□(くい)陥(おとしい)れらる。燕王諸将の策を排して、直(ただち)に揚州(ようしゅう)に趨(おもむ)く。揚州の守将王礼(おうれい)と弟宗(そう)と、監察御史(かんさつぎょし)王彬(おうひん)を縛して門を開いて降(くだ)る。高郵(こうゆう)、通泰(つうたい)、儀真(ぎしん)の諸城、亦(また)皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓(きこ)天を蔽(おお)うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為(な)して、復(また)立って争わんとする者無し。方孝孺(ほうこうじゅ)、地を割(さ)きて燕に与え、敵の師を緩(ゆる)うして、東南の募兵の至るを俟(ま)たんとす。乃(すなわ)ち慶城(けいじょう)郡主(ぐんしゅ)を遣(や)りて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉(じゅうし)なり。燕王聴(き)かずして曰く、皇考の分ちたまえる吾(わが)地(ち)も且(かつ)保つ能(あた)わざらんとせり、何ぞ更に地を割(さ)くを望まん、たゞ奸臣(かんしん)を得るの後、孝陵(こうりょう)に謁(えっ)せんと。六月、燕師浦子口(ほしこう)に至る。盛庸等之を破る。帝都督(ととく)僉事(せんじ)陳□(ちんせん)を遣りて舟師(しゅうし)を率いて庸を援(たす)けしむるに、□却(かえ)って燕に降(くだ)り、舟を具(そな)えて迎う。燕王乃ち江神(こうじん)を祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫(じくろ)相(あい)銜(ふく)みて、金鼓(きんこ)大(おおい)に震(ふる)う。盛庸等海舟(かいしゅう)に兵を列せるも、皆大(おおい)に驚き愕(おどろ)く。燕王諸将を麾(さしまね)き、鼓譟(こそう)して先登(せんとう)す。庸の師潰(つい)え、海舟皆其の得るところとなる。鎮江(ちんこう)の守将童俊(どうしゅん)、為(な)す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為(な)し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱(ゆううつ)して計(はかりごと)を方孝孺に問う。孝孺民を駆(か)りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆(りけいりゅう)等(ら)燕王に見(まみ)えて割地の事を説くも、王応ぜず。勢(いきおい)いよ/\逼(せま)る。群臣或(あるい)は帝に勧むるに淅(せつ)に幸(こう)するを以てするあり、或(あるい)は湖湘(こしょう)に幸するに若(し)かずとするあり。方孝孺堅く京(けい)を守りて勤王(きんのう)の師の来(きた)り援(たす)くるを待ち、事若(も)し急ならば、車駕(しゃが)蜀(しょく)に幸(みゆき)して、後挙を為さんことを請う。時に斉泰(せいたい)は広徳(こうとく)に奔(はし)り、黄子澄は蘇州(そしゅう)に奔り、徴兵を促(うなが)す。蓋(けだ)し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴(め)さんとして果(はた)さず。燕将劉保(りゅうほ)、華聚(かしゅう)等(ら)、終(つい)に朝陽門(ちょうようもん)に至り、備(そなえ)無きを覘(うかが)いて還りて報ず。燕王大(おおい)に喜び、兵を整えて進む。金川門(きんせんもん)に至る。谷王(こくおう)※(けい)[#「木+惠」、UCS-6A5E、337-8]と李景隆(りけいりゅう)と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂(つい)に門を開いて降る。魏国公(ぎこくこう)徐輝祖(じょきそ)屈せず、師を率いて迎え戦う。克(か)つ能(あた)わず。朝廷文武皆倶(とも)に降って燕王を迎う。


 史を按(あん)じて兵馬の事を記す、筆墨も亦(また)倦(う)みたり。燕王(えんおう)事を挙げてより四年、遂(つい)に其(その)志を得たり。天意か、人望か、数(すう)か、勢(いきおい)か、将又(はたまた)理の応(まさ)に然(しか)るべきものあるか。鄒公(すうこう)瑾(きん)等(ら)十八人、殿前に於(おい)て李景隆(りけいりゅう)を殴(う)って幾(ほとん)ど死せしむるに至りしも、亦(また)益無きのみ。帝、金川門(きんせんもん)の守(まもり)を失いしを知りて、天を仰いで長吁(ちょうく)し、東西に走り迷(まど)いて、自殺せんとしたもう。明史(みんし)、恭閔恵(きょうびんけい)皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏(ばし)は火に赴いて死したもう。丙寅(へいいん)、諸王及び文武の臣、燕王に位に即(つ)かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣(ぐんしん)、頓首(とんしゅ)して固く請う。王遂(つい)に奉天殿(ほうてんでん)に詣(いた)りて、皇帝の位に即く。
 是(これ)より先建文(けんぶん)中、道士ありて、途(みち)に歌って曰(いわ)く、

燕(えん)を逐(お)ふ莫(なか)れ、
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、帝畿(ていき)に上(のぼ)らん。

 是(ここ)に至りて人其(その)言の応を知りぬ。燕王今は帝(てい)たり、宮人内侍(ないじ)を詰(なじ)りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆馬(ば)皇后の死したまえるところを指して応(こた)う。乃(すなわ)ち屍(かばね)を□燼中(かいじんちゅう)より出して、之(これ)を哭(こく)し、翰林侍読(かんりんじどく)王景(おうけい)を召して、葬礼まさに如何(いかん)すべき、と問いたもう。景対(こた)えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
 建文帝の皇考(おんちち)興宗孝康(こうそうこうこう)皇帝の廟号(びょうごう)を去り、旧(もと)の諡(おくりな)に仍(よ)りて、懿文(いぶん)皇太子と号し、建文帝の弟呉王(ごおう)允※(いんとう)[#「火+通」、UCS-71A5、339-9]を降(くだ)して広沢王(こうたくおう)とし、衛王(えいおう)允※(いんけん)[#「火+堅」、UCS-719E、339-9]を懐恩王(かいおんおう)となし、除王(じょおう)允□(いんき)を敷恵王(ふけいおう)となし、尋(つい)で復(また)庶人(しょじん)と為(な)ししが、諸王後(のち)皆其(その)死(し)を得ず。建文帝の少子(しょうし)は中都(ちゅうと)広安宮(こうあんきゅう)に幽せられしが、後(のち)終るところを知らず。


 魏国公(ぎこくこう)徐輝祖(じょきそ)、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖始終(しじゅう)帝を戴(いただ)くの意無し。帝大(おおい)に怒れども、元勲国舅(こくきゅう)たるを以て誅(ちゅう)する能(あた)わず、爵を削って之を私第(してい)に幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王(ちゅうさんおう)徐達(じょたつ)の子にして、雄毅(ゆうき)誠実、父達(たつ)の風骨あり。斉眉山(せいびざん)の戦(たたかい)、大(おおい)に燕兵を破り、前後数戦、毎(つね)に良将の名を辱(はずかし)めず。其(その)姉は即(すなわ)ち燕王の妃(ひ)にして、其弟増寿(ぞうじゅ)は京師(けいし)に在りて常に燕の為(ため)に国情を輸(いた)せるも、輝祖独り毅然(きぜん)として正しきに拠(よ)る。端厳の性格、敬虔(けいけん)の行為、良将とのみ云(い)わんや、有道の君子というべきなり。
 兵部尚書(へいぶしょうしょ)鉄鉉(てつげん)、執(とら)えられて京(けい)に至る。廷中に背立して、帝に対(むか)わず、正言して屈せず、遂に寸磔(すんたく)せらる。死に至りて猶(なお)罵(ののし)るを以(もっ)て、大□(たいかく)に油熬(ゆうごう)せらるゝに至る。参軍断事(さんぐんだんじ)高巍(こうぎ)、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の願(ねがい)なりと。京城(けいじょう)破れて、駅舎に縊死(いし)す。礼部尚書(れいぶしょうしょ)陳廸(ちんてき)、刑部(けいぶ)尚書暴昭(ぼうしょう)、礼部侍郎(れいぶじろう)黄観(こうかん)、蘇州(そしゅう)知府(ちふ)姚善(ようぜん)、翰林(かんりん)修譚(しゅうたん)、王叔英(おうしゅくえい)、翰林(かんりん)王艮(おうごん)、淅江(せっこう)按察使(あんさつし)王良(おうりょう)、兵部郎中(へいぶろうちゅう)譚冀(たんき)、御史(ぎょし)曾鳳韶(そうほうしょう)、谷府長史(こくふちょうし)劉□(りゅうけい)、其他数十百人、或(あるい)は屈せずして殺され、或は自死(じし)して義を全くす。斉泰(せいたい)、黄子澄(こうしちょう)、皆執(とら)えられ、屈せずして死す。右副都御史(ゆうふくとぎょし)練子寧(れんしねい)、縛(ばく)されて闕(けつ)に至る。語不遜(ふそん)なり。帝大(おおい)に怒って、命じて其(その)舌を断(き)らしめ、曰く、吾(われ)周公(しゅうこう)の成王(せいおう)を輔(たす)くるに傚(なら)わんと欲するのみと。子寧(しねい)手をもて舌血(ぜっけつ)を探り、地上に、成王(せいおう)安在(いずくにある)の四字を大書(たいしょ)す。帝益(ますます)怒りて之を磔殺(たくさつ)し、宗族(そうぞく)棄市(きし)せらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史(させんとぎょし)景清(けいせい)、詭(いつわ)りて帰附し、恒(つね)に利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清緋衣(ひい)して入る。是(これ)より先に霊台(れいだい)奏す、文曲星(ぶんきょくせい)帝座を犯す急にして色赤しと。是(ここ)に於(おい)て清の独り緋を衣(き)るを見て之を疑う。朝(ちょう)畢(おわ)る。清(せい)奮躍して駕(が)を犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。清(せい)志の遂(と)ぐべからざるを知り、植立(しょくりつ)して大に罵(ののし)る。衆其(その)歯を抉(けっ)す。且(かつ)抉せられて且(かつ)罵り、血を含んで直(ただち)に御袍(ぎょほう)に□(ふ)く。乃(すなわ)ち命じて其(その)皮を剥(は)ぎ、長安門(ちょうあんもん)に繋(つな)ぎ、骨肉を砕磔(さいたく)す。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を繞(めぐ)る。帝覚(さ)めて、清の族を赤(せき)し郷(きょう)を籍(せき)す。村里も墟(きょ)となるに至る。
 戸部侍郎(こぶじろう)卓敬(たくけい)執(とら)えらる。帝曰く、爾(なんじ)前日諸王を裁抑(さいよく)す、今復(また)我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝若(も)し敬が言に依(よ)りたまわば、殿下豈(あに)此(ここ)に至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。而(しか)も其(その)才を憐(あわれ)みて獄に繋(つな)ぎ、諷(ふう)するに管仲(かんちゅう)・魏徴(ぎちょう)の事を以(もっ)てす。帝の意(こころ)、敬を用いんとする也(なり)。敬たゞ涕泣(ていきゅう)して可(き)かず。帝猶(なお)殺すに忍びず。道衍(どうえん)白(もう)す、虎(とら)を養うは患(うれい)を遺(のこ)すのみと。帝の意遂(つい)に決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容(しょうよう)として嘆じて曰く、変宗親(そうしん)に起り、略経画(けいかく)無し、敬死して余罪ありと。神色自若(じじゃく)たり。死して経宿(けいしゅく)して、面(おもて)猶(なお)生けるが如(ごと)し。三族を誅(ちゅう)し、其(その)家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、故(もと)より隙(げき)ありしと雖(いえど)も、帝をして方孝孺(ほうこうじゅ)を殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文(ふぶん)の人にあらざるを看(み)るべし。建文の初(はじめ)に当りて、燕を憂うるの諸臣、各(おのおの)意見を立て奏疏(そうそ)を上(たてまつ)る。中に就(つい)て敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王蓋(けだ)し志を得ざるのみ。万暦(ばんれき)に至りて、御史(ぎょし)屠叔方(としゅくほう)奏して敬の墓を表し祠(し)を立つ。敬の著すところ、卓氏(たくし)遺書五十巻、予未(いま)だ目を寓(ぐう)せずと雖(いえど)も、管仲(かんちゅう)魏徴(ぎちょう)の事を以て諷(ふう)せられしの人、其の書必ず観(み)る可(べ)きあらん。


 卓敬(たくけい)を容(い)るゝ能(あた)わざりしも、方孝孺(ほうこうじゅ)を殺す勿(なか)れと云(い)いし道衍(どうえん)は如何(いかん)の人ぞや。眇(びょう)たる一山僧の身を以(もっ)て、燕王(えんおう)を勧めて簒奪(さんだつ)を敢(あえ)てせしめ、定策決機(ていさくけっき)、皆みずから当り、臣(しん)天命を知る、何(なん)ぞ民意を問わん、というの豪懐(ごうかい)を以(もっ)て、天下を鼓動し簸盪(ひとう)し、億兆を鳥飛(ちょうひ)し獣奔(じゅうほん)せしめて憚(はばか)らず、功成って少師(しょうし)と呼ばれて名いわれざるに及んで、而(しか)も蓄髪を命ぜらるれども肯(がえ)んぜず、邸第(ていだい)を賜い、宮人(きゅうじん)を賜われども、辞して皆受けず、冠帯して朝(ちょう)すれども、退けば即(すなわ)ち緇衣(しい)、香烟茶味(こうえんちゃみ)、淡然として生を終り、栄国公(えいこくこう)を贈(おく)られ、葬(そう)を賜わり、天子をして親(み)ずから神道碑(しんどうひ)を製するに至らしむ。又一箇(こ)の異人(いじん)というべし。魔王の如(ごと)く、道人(どうじん)の如く、策士の如く、詩客(しかく)の如く、実に袁□(えんこう)[#「袁□」は底本では「袁洪」]の所謂(いわゆる)異僧なり。其(そ)の詠ずるところの雑詩の一に曰(いわ)く、

志士は 苦節を守る、
達人は 玄言(げんげん)に滞(とどこお)らんや。
苦節は 貞(かた)くす可(べ)からず、
玄言 豈(あに)其(そ)れ然(しか)らんや。
出(いづ)ると処(お)ると 固(もと)より定(さだまり)有り、
語るも黙するも 縁無きにあらず。
伯夷(はくい) 量(りょう) 何(なん)ぞ隘(せま)き、

宣尼(せんじ) 智 何ぞ円(えん)なる。
所以(ゆえ)に 古(いにしえ) の君子、
命(めい)に安んずるを 乃(すなわ)ち賢と為(な)す。

 苦節は貞(かた)くす可(べ)からずの一句、易(えき)の爻辞(こうじ)の節の上六(しょうりく)に、苦節、貞(かた)くすれば凶なり、とあるに本(もと)づくと雖(いえど)も、口気おのずから是(これ)道衍の一家言なり。況(いわ)んや易の貞凶(ていきょう)の貞は、貞固(ていこ)の貞にあらずして、貞※(ていかい)[#「毎+卜」、345-6]の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ隘(せま)きというに至っては、古賢の言に拠(よ)ると雖も、聖(せい)の清(せい)なる者に対して、忌憚(きたん)無きも亦(また)甚(はなはだ)しというべし。其(そ)の擬古(ぎこ)の詩の一に曰く、

良辰(りょうしん) 遇(あ)ひ難きを念(おも)ひて、
筵(えん)を開き 綺戸(きこ)に当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞ※(あじわい)[#「月+無」、UCS-81B4、346-2]ある。
素絃(そげん) 清(きよき)商(しらべ)を発(おこ)し、
余響(よきょう) 樽爼(そんそ)を繞(めぐ)る。
緩舞(かんぶ) 呉姫(ごき) 出(い)で、
軽謳(けいおう) 越女(えつじょ) 来(きた)る。
但(ただ)欲(ねが)ふ 客(かく)の※酔(へんすい)[#「てへん+弃」、346-7]せんことを、
□籌(さかずきのかず) 何(なん)ぞ肯(あえ)て数へむ。
流年 ※(はやく)[#「犬/(犬+犬)」、UCS-730B、346-9]馳(はしる)を嘆く、
力有るも誰(たれ)か得て阻(とど)めむ。
人生 須(すべか)らく歓楽すべし、
長(とこしえ)に辛苦せしむる勿(なか)れ。

 擬古の詩、もとより直(ただち)に抒情(じょじょう)の作とす可(べ)からずと雖(いえど)も、此(これ)是(こ)れ緇(くろき)を披(き)て香を焚(た)く仏門の人の吟ならんや。其(そ)の北固山(ほっこざん)を経て賦(ふ)せる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧宗□(そうろく)一読して、此(これ)豈(あに)釈子(しゃくし)の語ならんや、と曰(い)いしという。北固山は宋(そう)の韓世忠(かんせいちゅう)兵を伏せて、大(おおい)に金(きん)の兀朮(ごつじゅつ)を破るの処(ところ)たり。其詩また想(おも)う可き也(なり)。劉文(りゅうぶん)貞公(ていこう)の墓を詠ずるの詩は、直(ただち)に自己の胸臆(きょうおく)を□(の)ぶ。文貞は即(すなわ)ち秉忠(へいちゅう)にして、袁□(えんこう)[#「袁□」は底本では「袁洪」]の評せしが如く、道衍の燕(えん)に於(お)けるは、秉忠の元(げん)に於けるが如く、其の初(はじめ)の僧たる、其の世に立って功を成せる、皆相(あい)肖(に)たり。蓋(けだ)し道衍の秉忠に於けるは、岳飛(がくひ)が関張(かんちょう)と比(ひと)しからんとし、諸葛亮(しょかつりょう)が管楽に擬したるが如く、思慕して而(しこう)して倣模(ほうも)せるところありしなるべし。詩に曰く、

良驥(りょうき) 色 羣(ぐん)に同じく、
至人 迹(あと) 俗に混ず。
知己(ちき) 苟(いやしく)も遇(あ)はざれば、
終世 怨(うら)み※(うら)[#「讀+言」、UCS-8B9F、348-2]まず。
偉なる哉(かな) 蔵春公(ぞうしゅんこう)や、
箪瓢(たんぴょう) 巌谷(がんこく)に楽(たのし)む。
一朝 風雲 会す。
君臣 おのづから心腹(しんぷく)なり。
大業 計(はかりごと) 已(すで)に成りて、
勲名 簡牘(かんとく)に照る。
身退(しりぞ)いて 即(すなわ)ち長往し、
川流れて 去つて復(かえ)ること無し。
住城(じゅうじょう) 百年の後(のち)、
鬱々(うつうつ)たり 盧溝(ろこう)の北。
松(まつ)楸(ひさぎ) 烟靄(えんあい) 青く、
翁仲(いしのまもりびと) □蕪(かおりぐさ) 緑なり。
強梁(あばれもの)も 敢(あえ)て犯さず、
何人(なんぴと)か 敢て樵(きこり)牧(うまかい)せん。
王侯の 墓累々(るいるい)たるも、
廃(はい)すること 草宿(わずかのま)をも待たず。
惟(ただ)公(こう) 民望(みんぼう)に在(あ)り、
天地と 傾覆(けいふく)を同じうす。
斯(この)人(ひと) 作(おこ)す可(べ)からず、
再拝して 還(また)一哭(こく)す。

 蔵春は秉忠(へいちゅう)の号なり。盧溝は燕の城南に在り。此(この)詩(し)劉文貞に傾倒すること甚(はなは)だ明らかに、其の高風大業を挙げ、而(しこう)して再拝一哭(いっこく)すというに至る。性情行径(こうけい)相(あい)近(ちか)し、俳徊(はいかい)感慨、まことに止(や)む能(あた)わざるものありしならん。又別に、春日(しゅんじつ)劉太保(りゅうたいほ)の墓に謁するの七律(しちりつ)あり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游(とうゆう)せんとして郷中(きょうちゅう)諸友(しょゆう)に別るゝの長詩に、

我生(うま)れて 四方(しほう)の志あり、
楽(たのし)まず 郷井(きょうせい)の中(うち)を。
茫乎(ぼうこ)たる 宇宙の内、
飄転(ひょうてん)して 秋蓬(しゅうほう)の如し。
孰(たれ)か云ふ 挾(さしはさ)む所無しと、
耿々(こうこう)たるもの 吾(わが)胸に存す。
魚(うお)の□(いけ)に止(とど)まるを為(な)すに忍びんや、
禽(とり)の籠(かご)に囚(とら)はるゝを作(な)すを肯(がえん)ぜんや。
三たび登ると 九たび到(いた)ると、
古徳(ことく)と与(とも)に同じうせんと欲す。
去年は 淮楚(わいそ)に客(かく)たりき、
今は往(ゆ)かんとす 浙水(せっすい)の東。
身を竦(そばだ)てゝ 雲衢(くものちまた)に入る、
一錫(ひとつのつえ) 游龍(うごけるりゅう)の如し。
笠(かさ)は衝(つ)く 霏々(ひひ)の霧、
衣(い)は払ふ □々(そうそう)の風。

の句あり。身を竦(そばだ)てゝの句、颯爽(さっそう)悦(よろこ)ぶ可(べ)し。其(その)末(すえ)に、

江天(こうてん) 正に秋清く、
山水 亦(また)容(すがた)を改む。
沙鳥(はまじのとり)は 烟(けむり)の際(きわ)に白く、
嶼葉(しまのこのは)は 霜の前に紅(くれない)なり。

といえる如(ごと)き、常套(じょうとう)の語なれども、また愛す可(べ)し。古徳と同じゅうせんと欲するは、是(こ)れ仮(か)にして、淮楚(わいそ)浙東(せっとう)に往来せるも、修行の為(ため)なりしや游覧(ゆうらん)の為なりしや知る可からず。然(しか)れども詩情も亦(また)饒(おお)き人たりしは疑う可からず。詩に於(おい)ては陶淵明(とうえんめい)を推(お)し、笠沢(りゅうたく)の舟中(しゅうちゅう)に陶詩(とうし)を読むの作あり、中(うち)に淵明を学べる者を評して、

応物(おうぶつ)は趣(おもむき) 頗(すこぶる)合(がっ)し、
子瞻(しせん)は 才 当るに足る。

と韋(い)、蘇(そ)の二士を挙げ、其(その)他(た)の模倣者(もほうしゃ)を、

里婦(りふ) 西(せい)が顰(ひそみ)に効(なら)ふ、
咲(わら)ふ可し 醜(しゅう)愈(いよいよ)張る。

と冷笑し、又公暇(こうか)に王維(おうい)、孟浩然(もうこうぜん)、韋応物(いおうぶつ)、柳子厚(りゅうしこう)の詩を読みて、四子(し)を賛する詩を為(な)せる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫(へんらん)ならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓(こうけい)を重んじ、交情また親しきものありしは、奉レ答二高季迪一(こうきてきにこたえたてまつる)、寄二高編脩一(こうへんしゅうによす)、賀二高啓生一レ子(こうけいのこをうめるをがす)、訪二高啓鍾山寓舎一辱二詩見一レ貽(こうけいをしょうざんぐうしゃにといしをおくらるるをかたじけなくす)、雪夜読二高啓詩一(せつやこうけいのしをよむ)等の詩に徴して知るべく、此(この)老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集(とうきょしゅう)十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと雖(いえど)も、時に逸気あり。今其集に就(つい)て交友を考うるに、袁□(えんこう)[#「袁□」は底本では「韋□」]と張天師(ちょうてんし)とは、最も親熟(しんじゅく)するところなるが如く、贈遺(ぞうい)の什(じゅう)甚(はなは)だ少(すくな)からず。□(こう)と道衍とは本(もと)より互(たがい)に知己たり。道衍又嘗(かつ)て道士席応真(せきおうしん)を師として陰陽術数(いんようじゅっすう)の学を受く。因(よ)って道家の旨(し)を知り、仙趣の微に通ず。詩集巻七(まきのしち)に、挽二席道士一(せきどうしをべんす)とあるもの、疑うらくは応真、若(も)[#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族を悼(いた)めるならん。張天師は道家の棟梁(とうりょう)たり、道衍の張を重んぜるも怪(あやし)むに足る無きなり。故友に於ては最も王達善(おうたつぜん)を親(したし)む。故に其の寄二王助教達善一(おうじょきょうたつぜんによす)の長詩の前半、自己の感慨行蔵(こうぞう)を叙(じょ)して忌(い)まず、道衍自伝として看(み)る可し。詩に曰く、

乾坤(けんこん) 果して何物ぞ、
開闔(かいこう) 古(いにしえ)より有り。
世を挙(こぞ)って 孰(たれ)か客(かく)に非(あら)ざらん、
離会 豈(あに)偶(たまたま)なりと云(い)はんや。
嗟(ああ)予(われ) 蓬蒿(ほうこう)の人、
鄙猥(ひわい) 林籔(りんそう)に匿(かく)る。
自(みず)から慚(は)づ 駑蹇(どけん)の姿、
寧(なん)ぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山(ござん) 窈(ふか)くして而(しこう)して深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
且(かつ) 木石と共に居(お)りて、
氷檗(ひょうばく)と 志(こころざし) 堅く守りぬ。
人は云ふ 鳳(ほう) 枳(からたち)に栖(す)むと、
豈(あに)同じからんや 魚の※(やな)[#「网/卯」、354-11]に在(あ)るに。
藜□(れいかく) 我(わが)腸(はらわた)を充(みた)し、
衣(い)蔽(やぶ)れて 両肘(りょうちゅう)露(あら)はる。
□龍(きりゅう) 高位に在り、
誰(たれ)か来(きた)りて 可否を問はん。
盤旋(ばんせん)す 草※(そうもう)[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、356-4]の間(あいだ)に、
樵牧(しょうぼく) 日に相(あい)叩(たた)く。
嘯詠(しょうえい) 寒山(かんざん)に擬し、
惟(ただ) 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて塗抹(とまつ)して、
乞(こい)媚(こ)びて 里婦(さとのおんな)に効(なら)ふに。
山霊 蔵(かく)るゝことを容(ゆる)さず、
辟歴(はたたがみ) 岡阜(こうふ)を破りぬ。
門を出(い)でゝ 天日を睹(み)る、
行也(こうや) 焉(いずく)にぞ 肯(あえ)て苟(いやしく)もせん。
一挙して 即ち北に上(のぼ)れば、
親藩 待つこと惟(これ)久しかりき。
天地 忽(たちま)ち 大変して、
神龍 氷湫(ひょうしゅう)より起る。
万方 共に忻(よろこ)び躍(おど)りて、
率土(そっと) 元后(げんこう)を戴(いただ)く。
吾(われ)を召して 南京(なんけい)に来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時 天眷(てんけん)を荷(にな)ふ、
愛に因(よ)って 醜(しゅう)を知らず。(下略)

 嘯詠寒山(しょうえいかんざん)に擬すの句は、此(この)老(ろう)の行為に照(てら)せば、矯飾(きょうしょく)の言に近きを覚ゆれども、若(もし)夫(そ)れ知己に遇(あ)わずんば、強項(きょうこう)の人、或(あるい)は呉山(ござん)に老朽を甘(あま)んじて、一生世外(せいがい)の衲子(とっし)たりしも、また知るべからず、未(いま)だ遽(にわか)に虚高(きょこう)の辞を為(な)すものと断ず可(べ)からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦(しょうえいぎんが)、或(あるい)は獅子(しし)の繍毬(しゅうきゅう)を弄(ろう)して日を消するが如(ごと)くに、其(その)身を終ることは之(これ)有るべし、寒山子(かんざんし)の如くに、蕭散閑曠(しょうさんかんこう)、塵表(じんぴょう)に逍遙(しょうよう)して、其身を遺(わす)るゝを得(う)可きや否(あらず)や、疑う可き也。□龍(きりゅう)高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容(ゆる)さず以下数句、燕王(えんおう)に召出(めしいだ)されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起(くっき)の事をいう。道(い)い得て佳(か)なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身(わがみ)を世に徇(とな)うるを言えるもの、亦(また)善(よ)く標置(ひょうち)すというべし。


 道衍(どうえん)の一生を考うるに、其(そ)の燕(えん)を幇(たす)けて簒(さん)を成さしめし所以(ゆえん)のもの、栄名厚利の為(ため)にあらざるが如(ごと)し。而(しか)も名利(めいり)の為にせずんば、何を苦(くるし)んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴(いただ)かしめしぞ。道衍と建文帝(けんぶんてい)と、深仇(しんきゅう)宿怨(しゅくえん)あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可(べ)からざるある也(なり)。道衍己(おのれ)の偉功によって以(もっ)て仏道の為にすと云(い)わんか、仏道明朝(みんちょう)の為に圧逼(あっぱく)せらるゝありしに非(あらざ)る也。燕王覬覦(きゆ)の情(じょう)無き能(あた)わざりしと雖(いえど)も、道衍の扇(せん)を鼓(こ)して火を煽(あお)るにあらざれば、燕王未(いま)だ必ずしも毒烟(どくえん)猛[□(もうえん)を揚げざるなり。道衍抑(そも)又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚(りょしょう)、范増(はんぞう)、皆老いて而(しこう)して後立つと雖(いえど)も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教(おしえ)を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼(ああ)又解すべからずというべし。若(も)し強(し)いて道衍の為に解さば、惟(ただ)是(こ)れ道衍が天に禀(う)くるの気と、自ら負(たの)むの材と、※々(もうもう)[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]、蕩々(とうとう)、糾々(きゅうきゅう)、昂々(こうこう)として、屈す可(べ)からず、撓(たわ)む可からず、消(しょう)す可からず、抑(おさ)う可からざる者、燕王に遇(あ)うに当って、□然(かくぜん)として破裂し、爆然として迸発(へいはつ)せるものというべき耶(か)、非(ひ)耶(か)。予其(そ)の逃虚子集(とうきょししゅう)を読むに、道衍が英雄豪傑の蹟(あと)に感慨するもの多くして、仏灯(ぶっとう)梵鐘(ぼんしょう)の間に幽潜するの情の少(すくな)きを思わずんばあらざるなり。
 道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門(しゃもん)を以て目す可からずと雖も、而(しか)も文を好み道の為にするの情も、亦(また)偽(ぎ)なりとなす可からず。此(この)故(ゆえ)に太祖(たいそ)[#「太祖」は底本では「大祖」]実録(じつろく)を重修(ちょうしゅう)するや、衍(えん)実に其(その)監修を為(な)し、又支那(しな)ありてより以来の大編纂(だいへんさん)たる永楽大典(えいらくだいてん)の成れるも、衍実に解縉(かいしん)等(ら)と与(とも)に之(これ)を為(な)せるにて、是(こ)れ皆文を好むの余(よ)に出で、道余録(どうよろく)を著し、浄土簡要録(じょうどかんようろく)を著し、諸上善人詠(しょじょうぜんじんえい)を著せるは、是れ皆道の為にせるに出(い)づ。史に記す。道衍晩(ばん)に道余録を著し、頗(すこぶ)る先儒を毀(そし)る、識者これを鄙(いや)しむ。其(そ)の故郷の長州(ちょうしゅう)に至るや、同産の姉を候(こう)す、姉納(い)れず。其(その)友王賓(おうひん)を訪(と)う、賓も亦(また)見(まみ)えず、但(ただ)遙(はるか)に語って曰く、和尚(おしょう)誤れり、和尚誤れりと。復(また)往(ゆ)いて姉を見る、姉これを詈(ののし)る。道衍惘然(ぼうぜん)たりと。道衍の姉、儒を奉じ仏(ぶつ)を斥(しりぞ)くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝(でん)無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善(おうたつぜん)ならんか。声を揚げて遙語(ようご)す、鄙(いや)しむも亦甚(はなはだ)し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之(これ)を悪(にく)むも、亦(また)過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余曩(さき)に僧たりし時、元季(げんき)の兵乱に値(あ)う。年三十に近くして、愚庵(ぐあん)の及(きゅう)和尚に径山(けいざん)に従って禅学を習う。暇(いとま)あれば内外の典籍を披閲(ひえつ)して以(もっ)て才識に資す。因って河南(かなん)の二程先生(にていせんせい)の遺書と新安(しんあん)の晦庵朱先生(かいあんしゅせんせい)の語録を観(み)る。(中略)三先生既に斯文(しぶん)の宗主(そうしゅ)、後学の師範たり、仏老(ぶつろう)を※斥(じょうせき)[#「てへん+(嚢−口二つ)」、361-8]すというと雖も、必ず当(まさ)に理に拠(よ)って至公無私なるべし、即(すなわ)ち人心服せん。三先生多く仏書を探(さぐ)らざるに因って仏(ぶつ)の底蘊(ていおん)を知らず。一に私意を以て邪※(じゃひ)[#「言+皮」、UCS-8A56、361-10]の辞(ことば)を出して、枉抑(おうよく)太(はなは)だ過ぎたり、世の人も心亦(また)多く平らかならず、況(いわ)んや其(その)学を宗(そう)する者をやと。(下略)道余録は乃(すなわ)ち程氏(ていし)遺書(いしょ)の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目(もく)して、極めて謬誕(びょうたん)なりと為(な)し、条を逐(お)い理に拠って一々剖柝(ぼうせき)せるものなり。藁(こう)成って巾笥(きんし)に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵(たいてい)禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋(けだ)し明道(めいどう)、伊川(いせん)、晦庵(かいあん)の仏(ぶつ)を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如(ごと)き、本(もと)是(これ)弁じ易(やす)きの事たり。膽(たん)を張り目を怒らし、手を戟(ほこ)にし気を壮(さかん)にするを要せず。道衍の峻機(しゅんき)険鋒(けんぼう)を以て、徐(しずか)に幾百年前の故紙(こし)に対す、縦説横説、甚(はなは)だ是(こ)れ容易なり。是れ其の観(み)る可き無き所以(ゆえん)なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道(めいどう)の言を罵(ののし)って、豈(あに)道学の君子の為(わざ)ならんやと云(い)い、明道の執見(しっけん)僻説(へきせつ)、委巷(いこう)の曲士の若(ごと)し、誠に咲(わら)う可き也、と云い、明道何ぞ乃(すなわ)ち自ら苦(くるし)むこと此(かく)の如くなるや、と云い、伊川(いせん)の言(げん)を評しては、此(これ)は是れ伊川(いせん)みずから此(この)説を造って禅学者を誣(し)う、伊川が良心いずくにか在(あ)る、と云い、管(かん)を以て天を窺(うかが)うが如しとは夫子(ふうし)みずから道(い)うなりと云い、程夫子(ていふうし)崛強(くっきょう)自任(じにん)す、聖人の道を伝うる者、是(かく)の如くなる可からざる也、と云い、晦庵(かいあん)の言を難(なん)しては、朱子の□語(げいご)、と云い、惟(ただ)私意を逞(たくま)しくして以て仏を詆(そし)る、と云い、朱子も亦(また)怪なり、と云い、晦庵此(かく)の如くに心を用いば、市井(しせい)の間の小人の争いて販売する者の所為(しょい)と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄(ぐろう)嘲笑(ちょうしょう)すること太(はなは)だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋(けだ)し其(その)姉の納(い)れず、其(その)友の見ざるに至れる所以(ゆえん)ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大□(たいがい)禅宗(ぜんしゅう)に依り、楞伽(りょうが)、楞厳(りょうごん)、円覚(えんがく)、法華(ほっけ)、華厳(けごん)等の経に拠って、程朱(ていしゅ)の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然(しか)れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於(おい)て、抗争反撃の弁を逞(たくま)しくす。書の公(おおやけ)にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰(い)うと雖も、亦争(あらそい)を好むというべし。此(こ)も亦道衍が※々蕩々(もうもうとうとう)[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]の気の、已(や)む能わずして然るもの耶(か)、非(ひ)耶(か)。
 道衍は是(かく)の如きの人なり、而して猶(なお)卓侍郎(たくじろう)を容(い)るゝ能わず、之(これ)を赦(ゆる)さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素(もと)より相(あい)善(よ)からざるの私(わたくし)ありしに因(よ)るとは云え、又実に卓の才の大にして器(き)の偉なるを忌(い)みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭(たくいきょう)もまた雄傑の士というべし。
 道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮(か)りて之を評すれば、道衍量(りょう)何ぞ隘(せま)きやと云う可きなり。然(しか)るに道衍の方正学(ほうせいがく)に対するは則(すなわ)ち大(おおい)に異なり。方正学の燕王に於(お)けるは、実に相(あい)容(い)れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃(はら)わんとするを名として、其の目(もく)して以て事を構え親(しん)を破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方(せいこうれんほう)の四人なりき。斉は斉泰(せいたい)なり、黄は黄子澄(こうしちょう)なり、練は練子寧(れんしねい)なり、而(しか)して方は即ち方正学(ほうせいがく)なり。燕王にして功の成るや、もとより此(この)四人を得て甘心(かんしん)せんとす。道衍は王の心腹(しんぷく)なり、初(はじめ)よりこれを知らざるにあらず。然(しか)るに燕王の北平(ほくへい)を発するに当り、道衍これを郊(こう)に送り、跪(ひざまず)いて密(ひそか)に啓(もう)して曰(いわ)く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺(ほうこうじゅ)あり、学行(がくこう)あるを以(もっ)て聞(きこ)ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降(くだ)らざらんも、幸(さいわい)に之を殺したもう勿(なか)れ、之を殺したまわば則(すなわ)ち天下の読書の種子(しゅし)絶えんと。燕王これを首肯(しゅこう)す。道衍の卓敬に於(お)ける、私情の憎嫉(ぞうしつ)ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂(そうれん)の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋(けだ)し文字の交あり。道衍の少(わか)きや、学を好み詩を工(たくみ)にして、濂の推奨するところとなる。道衍豈(あに)孝孺が濂の愛重(あいちょう)するところの弟子(ていし)たるを以て深く知るところありて庇護(ひご)するか、或(あるい)は又孝孺の文章学術、一世の仰慕(げいぼ)するところたるを以て、之(これ)を殺すは燕王の盛徳を傷(やぶ)り、天下の批議を惹(ひ)く所以(ゆえん)なるを慮(はか)りて憚(はばか)るか、将(はた)又真に天下読書の種子の絶えんことを懼(おそ)るゝか、抑(そもそも)亦孝孺の厳□(げんれい)の操履(そうり)、燕王の剛邁(ごうまい)の気象、二者相(あい)遇(あ)わば、氷塊の鉄塊と相(あい)撃(う)ち、鷲王(しゅうおう)と龍王(りゅうおう)との相(あい)闘(たたか)うが如き凄惨狠毒(せいさんこんどく)の光景を生ぜんことを想察して預(あらかじ)め之を防遏(ぼうあつ)せんとせるか、今皆確知する能(あた)わざるなり。
 方孝孺は如何(いか)なる人ぞや。孝孺字(あざな)は希直(きちょく)、一字は希古(きこ)、寧海(ねいかい)の人。父克勤(こくきん)は済寧(せいねい)の知府(ちふ)たり。治を為すに徳を本(もと)とし、心を苦(くるし)めて民の為(ため)にす。田野(でんや)を闢(ひら)き、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚(とんこう)人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘(こううん)暇(いとま)あらず、何ぞ又畚□(ほんそう)に堪えんと。中書省(ちゅしょしょう)に請いて役(えき)を罷(や)むるを得たり。是より先(さ)き久しく旱(ひでり)せしが、役の罷むに及んで甘雨(かんう)大(おおい)に至りしかば、済寧の民歌って曰く。

孰(たれ)か我が役を罷(や)めしぞ、
使君(しくん)の 力なり。
孰(たれ)か我が黍(しょ)を活(い)かしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふ勿(なか)れ、
我が民の 父なり 母なり。

 克勤の民意を得(う)る是(かく)の如くなりしかば、事を視(み)ること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足(じょうそく)し、男女怡々(いい)として生を楽(たのし)みしという。克勤愚菴(ぐあん)と号す。宋濂(そうれん)に故(こ)愚庵先生方公墓銘文(ほうこうぼめいぶん)あり。滔々(とうとう)数千言(すせんげん)、備(つぶさ)に其の人となりを尽す。中(うち)に記す、晩年益(ますます)畏慎(いしん)を加え、昼の為(な)す所の事、夜は則(すなわ)ち天に白(もう)すと。愚庵はたゞに循吏(じゅんり)たるのみならざるなり。濂又曰く、古(いにしえ)に謂(い)わゆる体道(たいどう)成徳(せいとく)の人、先生誠に庶幾焉(ちかし)と。蓋(けだ)し濂が諛墓(ゆぼ)の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦(てんぷ)も厚く、庭訓(ていきん)も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸(そうぼう)烱々(けいけい)として、日に書を読むこと寸に盈(み)ち、文を為(な)すに雄邁醇深(ゆうまいじゅんしん)なりしかば、郷人呼んで小韓子(しょうかんし)となせりという。其の聰慧(そうけい)なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉(ことごと)く称して太史公(たいしこう)となして、姓氏を以てせず。濂字(あざな)は、景濂(けいれん)、其(その)先(せん)金華(きんか)の潜渓(せんけい)の人なるを以て潜渓(せんけい)と号(ごう)す。太祖濂(れん)を廷(てい)に誉(ほ)めて曰く、宋景濂朕(ちん)に事(つか)うること十九年、未(いま)だ嘗(かつ)て一言(げん)の偽(いつわり)あらず、一人(いちにん)の短(たん)を誚(そし)らず、始終二(に)無し、たゞに君子のみならず、抑(そもそも)賢と謂(い)う可しと。太祖の濂を視(み)ること是(かく)の如し。濂の人品想(おも)う可き也(なり)。孝孺洪武(こうぶ)の九年を以て、濂に見(まみ)えて弟子(ていし)となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大(おおい)に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還(かえ)るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直(きちょく)を得たり、其の人となりや凝重(ぎょうちょう)にして物に遷(うつ)らず、穎鋭(えいえい)にして以て諸(これ)を理に燭(しょく)す、間(まま)発(はっ)[#「間(まま)発(はっ)」は底本では「発(まま)間(はっ)」]して文を為(な)す、水の湧(わ)いて山の出(い)づるが如し、喧啾(けんしゅう)たる百鳥の中(うち)、此の孤鳳皇(こほうおう)を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重(ぎょうちょう)穎鋭(えいえい)の二句、老先生眼裏(がんり)の好学生を写し出(いだ)し来(きた)って神(しん)有り。此の孤鳳皇(こほうおう)を見るというに至っては、推重(すいちょう)も亦(また)至れり。詩十四章、其二に曰く、

念(おも)ふ 子(し)が 初めて来りし時、
才思 繭糸(けんし)の若(ごと)し。
之を抽(ひ)いて 已(すで)に緒(いとぐち)を見る、
染めて就(な)せ 五色(ごしき)の衣(い)。

其九に曰く、

須(すべか)らく知るべし 九仭(きゅうじん)の山も、
功 或(あるい)は 一簣(き)に少(か)くるを。
学は 貴ぶ 日に随(したが)つて新(あらた)なるを、
慎んで 中道に廃する勿(なか)れ。

其十に曰く、

羣経(ぐんけい) 明訓(めいくん) 耿(こう)たり、
白日 青天に麗(かか)る。
苟(いやしく)も徒(ただ)に 文辞に溺(おぼ)れなば、
蛍※(けいしゃく)[#「火+爵」、UCS-721D、370-6] 妍(けん)を争はんと欲するなり。

其十一に曰く、

姫(き)も 孔(こう)も 亦何人(なんぴと)ぞや、
顔面 了(つい)に異(こと)ならじ。
肯(あえ)て 盆□(ぼんおう)の中(うち)に墮(だ)せんや、
当(まさ)に 瑚□(これん)の器(き)となるべし。

其終章に曰く、

明年 二三月、
羅山(らざん) 花 正(まさ)に開かん。
高きに登りて 日に盻望(べんぼう)し、
子(し)が能(よ)く 重ねて来(きた)るを遅(ま)たむ。

 其(その)才を称(しょう)し、其学を勧め、其(そ)の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮(ふる)って聖賢の域に至らんことを求め、他日復(また)再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓(せんけい)が孝孺に対する、称許(しょうきょ)も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼(ああ)、老先生、孰(たれ)か好学生を愛せざらん、好学生、孰(たれ)か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳(ていし)、経(けい)を執って浦陽(ほよう)に潜渓に就(つ)きぬ。従学四年、業大(おおい)に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下(しも)に出で、先輩胡翰(こかん)も蘇伯衡(そはくこう)も亦(また)自(みずか)ら如(し)かずと謂(い)うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之(これ)を送る五十四韻(いん)の長詩あり。其(その)引(いん)の中(うち)に記して曰く、細(つまび)らかに其の進修の功を占(と)うに、日々に異(こと)なるありて、月々に同じからず、僅(わずか)に四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著(えいはつこうちょ)や斯(かく)の如し、後(のち)四春秋ならしめば、則(すなわ)ち其の至るところ又如何(いか)なるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿(おうようしょうけい)、蘇長公(そちょうこう)の輩(はい)は、姑(しば)らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場(じょう)に角逐(かくちく)せば、孰(たれ)か後となり孰(いずれ)か先となるを知らざる也。今此(この)説を為(な)す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当(まさ)に其の知言にして、生(せい)に許す者の過(か)に非(あら)ざるを信ずべき也。然(しか)りと雖(いえど)も予の生に許すところの者、寧(なん)ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜(おし)み、為(ため)に是(この)詩を賦(ふ)す、既に其の素有の善を揚げ、復(また)勗(つと)むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞(ことば)を行(や)る自在(じざい)にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、

生(せい)は乃(すなわ)ち 周(しゅう)の容刀(たまのさや)。
生は乃ち 魯(ろ)の□□(よきたま)。
道真(しん)なれば 器(き)乃ち貴し、
爰(なん)ぞ須(もち)ゐん 空言を用ゐるを。
孳々(じじ)として 務めて践形(せんけい)し、
負(そむ)く勿(なか)れ 七尺の身に。
敬義 以(もっ)て衣(い)と為(な)し、
忠信 以て冠(かん)と為し、
慈仁 以て佩(はい)と為し、
廉知(れんち) 以て※(かわおび)[#「般/革」、UCS-97B6、374-5]と為し、
特(ひと)り立つて 千古を睨(にら)まば、
万象 昭(あき)らかにして昏(くら)き無からむ。
此(この)意(こころ) 竟(つい)に誰(たれ)か知らん、
爾(なんじ)が為(ため)に 言(ことば)諄諄(じゅんじゅん)たり。
徒(いたずら)に 強(しいて)聒(ものい)ふと謂(おも)ふ勿(なか)れ、
一一 宜(よろ)しく紳(しん)に書(しょ)すべし。

 孝孺後(のち)に至りて此詩を録して人に視(しめ)すの時、書して曰く、前輩(せんぱい)後学(こうがく)を勉(つと)めしむ、惓惓(けんけん)の意(こころ)、特(ひと)り文辞のみに在(あ)らず、望むらくは相(あい)与(とも)に之を勉めんと。臨海(りんかい)の林佑(りんゆう)、葉見泰(しょうけんたい)等(ら)、潜渓の詩に跋(ばつ)して、又各(みな)宋太史(そうたいし)の期望に酬(むく)いんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に負(そむ)かざりき。


 孝孺(こうじゅ)の集(しゅう)は、其(その)人(ひと)天子の悪(にく)むところ、一世の諱(い)むところとなりしを以(もっ)て、当時絶滅に帰し、歿後(ぼつご)六十年にして臨海(りんかい)の趙洪(ちょうこう)が梓(し)に附せしより、復(また)漸(ようや)く世に伝わるを得たり。今遜志斎集(そんしさいしゅう)を執って之(これ)を読むに、蜀王(しょくおう)が所謂(いわゆる)正学先生(せいがくせんせい)の精神面目奕々(えきえき)として儼存(げんそん)するを覚ゆ。其(そ)の幼儀(ようぎ)雑箴(ざっしん)二十首を読めば、坐(ざ)、立(りつ)、行(こう)、寝(しん)より、言(げん)、動(どう)、飲(いん)、食(しょく)等に至る、皆道に違(たが)わざらんことを欲して、而して実践躬行底(きゅうこうてい)より徳を成さんとするの意、看取すべし。其(その)雑銘を読めば、冠(かん)、帯(たい)、衣(い)、□(く)より、※(すい)[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1][#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1]」は底本では「※[#「竹かんむり/垂の一画目の下に横画一つ足した形」、376-1]」]、鞍(あん)、轡(れん)、車(しゃ)等に至る、各物一々に湯(とう)の日新(にっしん)の銘に則(のっと)りて、語を下し文を為(な)す、反省修養の意、看取すべし。雑誡(ざっかい)三十八章、学箴(がくしん)九首、家人箴(かじんしん)十五首、宗儀(そうぎ)九首等を読めば、希直(きちょく)の学を為(な)すや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に躋(いた)らんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視(まっし)し、恒(つね)に王道を明らかにし太平を致すを以て己(おの)が任と為すと。(是(これ)鄭暁(ていぎょう)の方先生伝(ほうせんせいでん)に本(もと)づく)真(まこと)に然(しか)り、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯(しんし)なる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の微(び)なるは、四蠹(しと)之(これ)を害すればなり。姦言(かんげん)を文(かざ)り、近事(きんじ)を□(と)り、時勢を窺伺(きし)し、便(べん)に趨(はし)り隙(げき)に投じ、冨貴(ふうき)を以て、志と為(な)す。此(これ)を利禄(りろく)の蠹(と)と謂(い)う。耳剽(じひょう)し口衒(こうげん)し、色(いろ)を詭(いつわ)り辞(ことば)を淫(いん)にし、聖賢に非(あら)ずして、而(しか)も自立し、果敢(かかん)大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、是(これ)を名を務むるの蠹(と)という。鉤□(こうせき)して説を成し、上古に合(がっ)するを務め、先儒を毀□(きし)し、以謂(おもえ)らく我に及ぶ莫(な)き也(なり)と、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁(くんこ)の蠹(と)という。道徳の旨を知らず、雕飾(ちゅうしょく)綴緝(てっしゅう)して、以て新奇となし、歯を鉗(かん)し舌を刺(さ)して、以て簡古と為し、世に於(おい)て加益するところ無し。是を文辞(ぶんじ)の蠹(と)という。四者交々(こもごも)作(おこ)りて、聖人の学亡(ほろ)ぶ。必ずや諸(これ)を身に本(もと)づけ、諸を政教に見(あら)わし、以て物(もの)を成す可き者は、其(そ)れ惟(ただ)聖人の学乎(か)、聖道を去って而(しこう)して循(したが)わず、而して惟(ただ)蠹(と)にこれ帰す。甚しい哉(かな)惑えるや、と。孝孺の此(この)言(げん)に照(てら)せば、鄭暁(ていぎょう)の伝うるところ、実に虚(むな)しからざる也。四箴(ししん)の序の中(うち)の語に曰く、天に合(がっ)して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生(せんけいせんせい)が謂(い)える所の、特(ひと)り立って千古を睨(にら)み、万象昭(てら)して昏(くら)き無しの境(きょう)に入れるを看(み)るべし。又其(そ)の克畏(こくい)の箴(しん)を読めば、あゝ皇(おお)いなる上帝、衷(ちゅう)を人に降(くだ)す、といえるより、其の方(まさ)に昏(くら)きに当ってや、恬(てん)として宜(よろ)しく然(しか)るべしと謂(い)うも、中夜(ちゅうや)静かに思えば夫(そ)れ豈(あに)吾が天ならんや、廼(すなわ)ち奮って而して悲(かなし)み、丞(すみ)やかに前轍(ぜんてつ)を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿(なか)れ、嗜(たしな)む所を嗜む勿れ、といい、表裏交々(こもごも)修めて、本末一致せんといえる如き、恰(あたか)も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流(ちょうりゅう)せるを見る。父克勤(こくきん)の、昼の為せるところ、夜は則(すなわ)ち天に白(もう)したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟(こうもう)の正大純粋の教(おしえ)の徳光(とくこう)恵風(けいふう)に浸涵(しんかん)して、真に心胸(しんきょう)の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看(み)るべき也。
 孝孺既に文芸を末視(まっし)し、孔孟の学を為(な)し、伊周(いしゅう)の事に任ぜんとす。然(しか)れども其(そ)の文章亦(また)おのずから佳、前人評して曰く、醇□博朗(じゅんほうばくろう)[#「醇□博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348-9]博朗」]、沛乎(はいこ)として余(あまり)有り、勃乎(ぼっこ)として禦(ふせ)ぐ莫(な)しと。又曰く、醇深雄邁(じゅんしんゆうまい)と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋(けだ)し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観(み)る可し。其の王仲縉感懐(おうちゅうしんかんかい)の韻(いん)に次(じ)する詩の末に句あり、曰く

壮士 千載(せんざい)の心、
豈(あに)憂へんや 食(し)と衣(い)とを。
由来 海(かい)に浮(うか)ばんの志、
是(こ)れ 軒冕(けんべん)の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚(たっと)ぶ、
富貴 復(また)奚(なに)為(す)るものぞ。
賢にして有り 陋巷(ろうこう)の楽(たのしみ)、
聖にして有り 西山(せいざん)の饑(うえ)。
頤(おとがい)を朶(た)る 失ふところ多し、
苦節 未(いま)だ非とす可からず。

 道衍(どうえん)は豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子(とうきょし)は歌って曰く、苦節貞(かた)くすべからずと。遜志斎(そんしさい)は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量(はくいりょう)何ぞ隘(せま)きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑(うえ)と。孝孺又其の※陽(えいよう)[#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」][#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS-7020、380-4]を過(よ)ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因(よ)って首陽(しゅよう)を念(おも)う、西顧(せいこ)すれば清風(せいふう)生ずと。又乙丑中秋後(いっちゅうちゅうしゅうご)二日兄(あに)に寄する詩の句に曰く、苦節伯夷(はくい)を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、□籌(こうちゅう)又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直(きちょく)は俗にして、飲(いん)の箴(しん)に、酒の患(うれい)たる、謹者(きんしゃ)をして荒(すさ)み、荘者をして狂し、貴者をして賤(いや)しく、存者(そんしゃ)をして亡(ほろ)ばしむ、といい、酒巵(しゅし)の銘には、親(しん)を洽(あまね)くし衆を和するも、恒(つね)に斯(ここ)に於(おい)てし、禍(わざわい)を造り敗(はい)をおこすも、恒(つね)に斯(ここ)に於てす、其悪(あく)に懲り、以て善に趨(はし)り、其儀を慎(つつし)むを尚(たっと)ぶ、といえり。逃虚子は仏(ぶつ)を奉じて、而(しか)も順世(じゅんせい)外道(げどう)の如く、遜志斎は儒を尊んで、而(しか)も浄行者(じょうぎょうしゃ)の如し。嗚呼(ああ)、何ぞ其の奇なるや。然(しか)も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳(じょうし)南楼(なんろう)に登るの詩に曰く、

昔時(せきじ) 喜んで酒を飲み、
白(さかずき)を挙げて 深きを辞せざりき。
茲(ここ)に中歳(ちゅうさい)に及んでよりこのかた、
已(すで)に復(また) 人の斟(く)むを畏(おそ)る。
後生(わかきもの) ゆるがせにする所多きも、
豈(あに)識(し)らんや 老(おい)の会臨(かいりん)するを。
志士は 景光を惜(おし)む、
麓(ふもと)に登れば 已(すで)に岑(みね)を知る。
毎(つね)に聞く 前世(ぜんせい)の事、
頗(すこぶ)る見る 古人の心。
逝(ゆ)く者 まことに息(やす)まず、
将来 誰(たれ)か今に嗣(つ)がむ。
百年 当(まさ)に成る有るべし、
泯滅(びんめつ) 寧(なん)ぞ欽(うらや)むに足らんや。
毎(つね)に憐(あわれ)む 伯牙(はくが)の陋(ろう)にして、
鍾(しょう) 死して 其(その)琴(こと)を破れるを。
自(みずか)ら得(う)るあらば 苟(まこと)に伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも 知音(ちいん)を求めんや。
俯(ふ)しては観(み)る 水中の※(こうお)[#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9][#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9]」は底本では「□」]、
仰いでは覩(み)る 雲際(うんさい)の禽(とり)。
真楽(しんらく) 吾(われ) 隠さず、
欣然(きんぜん)として 煩襟(はんきん)を豁(ひろ)うす。

 前半は巵酒(ししゅ) 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて外(そと)に待つ無きをいう。伯牙を陋(ろう)として破琴を憐(あわれ)み、荘子(そうじ)を引きて不隠(ふいん)を挙ぐ。それ外より入る者は、中(うち)に主(しゅ)たる無し、門より入る者は家珍(かちん)にあらず。白(さかずき)を挙げて楽(たのしみ)となす、何ぞ是(こ)れ至楽ならん。
 遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神夐(はるか)に殊(こと)なり。意気の俊邁(しゅんまい)なるに至っては、互(たがい)に相(あい)遜(ゆず)らずと雖(いえど)も、正学先生(せいがくせんせい)の詩は竟(つい)に是れ正学先生の詩にして、其の帰趣(きしゅ)を考うるに、毎(つね)に正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側(きそく)詭※(きひ)[#「言+皮」、UCS-8A56、383-8]の言を為(な)さず、放逸(ほういつ)曠達(こうたつ)の態(たい)無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋(けだ)し壮時の作と雖も、其の本色(ほんしょく)なり。談詩(だんし)五首の一に曰く、

世(よ)を挙(こぞ)って 皆宗(そう)とす 李杜(りと)の詩を。
知らず 李杜の 更に誰(たれ)を宗とせるを。
能(よ)く 風雅 無窮の意を探(さぐ)らば、
始めて是れ 乾坤(けんこん) 絶妙の詞(し)ならん。

第二に曰く、

道徳を 発揮して 乃(すなわ)ち文を成す、
枝葉 何ぞ曾(かつ)て 本根(ほんこん)[#「本根」は底本では「木根」]を離れん。
末俗(ばつぞく) 工を競ふ 繁縟(はんじょく)の体(たい)、
千秋の精意 誰(たれ)と与(とも)に論ぜん。

 是(こ)れ正学先生の詩に於(お)けるの見(けん)なり。華(か)を斥(しりぞ)け実(じつ)を尚(たっと)び、雅を愛し淫(いん)を悪(にく)む。尋常一様詩詞(しし)の人の、綺麗(きれい)自ら喜び、藻絵(そうかい)自ら衒(てら)い、而(しこう)して其の本旨正道を逸し邪路に趨(はし)るを忘るゝが如きは、希直(きちょく)の断じて取らざるところなり。希直の父愚庵(ぐあん)、師潜渓(せんけい)の見も、亦(また)大略是(かく)の如しと雖(いえど)も、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
 孝孺(こうじゅ)の父は洪武(こうぶ)九年を以て歿(ぼっ)し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年呉□(ごちん)の薦(すすめ)を以て太祖に見(まみ)ゆ。太祖其(そ)の挙止端整なるを喜びて、皇孫に謂(い)って曰く、此(この)荘士、当(まさ)に其(その)才を老いしめて以て汝(なんじ)を輔(たす)けしめんと。閲(えつ)十年にして又薦(すす)められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に非(あら)ずと。太祖が孝孺を器重(きちょう)して、而(しか)も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに於(おい)て慮(りょ)を致すもの多し。然(しか)れども此(これ)は強いて解す可(べ)からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の間(あいだ)に於(おい)て、たま/\仇家(きゅうか)の為(ため)に累(るい)せられて孝孺の闕下(けっか)に械送(かいそう)せられし時、太祖其(その)名(な)を記し居たまいて特(こと)に釈(ゆる)されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳漸(ようや)く高くして、太祖の第十一子蜀王(しょくおう)椿(ちん)、孝孺を聘(へい)して世子の傅(ふ)となし、尊ぶに殊礼(しゅれい)を以(もっ)てす。王の孝孺に賜(たま)うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を閲(けみ)す孔(はなは)だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に

謙(けん)にして以て みづから牧(ぼく)し、
卑(ひく)うして以て みづから持(じ)す。
雍容(ようよう) 儒雅(じゅが)、
鸞鳳(らんぽう)の 儀あり。

とあり。又其の賜詩(しし)三首の一に

文章 金石を奏し、
衿佩(きんぱい) 儀刑(ぎけい)を覩(み)る。
応(まさ)に世々(よよ) 三輔(ぽ)に遊ぶべし、
焉(いずく)んぞ能(よ)く 一経(けい)に困(こん)せん。

の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦(また)知るべし。王孝孺の読書の廬(ろ)に題して正学(せいがく)という。孝孺はみずから遜志斎(そんしさい)という。人の正学先生というものは、実に蜀(しょく)王の賜題に因(よ)るなり。
 太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々(こもごも)孝孺を薦(すす)む。乃(すなわ)ち召されて翰林(かんりん)に入る。徳望素(もと)より隆(さか)んにして、一時の倚重(きちょう)するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢(しじゅん)を承(う)くること殆(ほとん)ど間(ひま)無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄(しょうげき)皆孝孺の手に出(い)づ。三年より四年に至り、孝孺甚(はなは)だ煎心(せんしん)焦慮(しょうりょ)すと雖も、身武臣にあらず、皇師数々(しばしば)屈して、燕兵遂(つい)に城下に到(いた)る。金川門(きんせんもん)守(まもり)を失いて、帝みずから大内(たいだい)を焚(や)きたもうに当り、孝孺伍雲(ごうん)等(ら)の為(ため)に執(とら)えられて獄に下さる。
 燕王志を得て、今既に帝たり。素(もと)より孝孺の才を知り、又道衍(どうえん)の言を聴(き)く。乃(すなわ)ち孝孺を赦(ゆる)して之(これ)を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋(つな)ぎ、孝孺の弟子(ていし)廖□(りょうよう)廖銘(りょうめい)をして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯(とくけいこう)廖権(りょうけん)の子なり。孝孺怒って曰く、汝(なんじ)等(ら)予に従って幾年の書を読み、還(かえ)って義の何たるを知らざるやと。二人説く能(あた)わずして已(や)む。帝猶(なお)孝孺を用いんと欲し、一日に諭(ゆ)を下すこと再三に及ぶ。然(しか)も終(つい)に従わず。帝即位の詔(みことのり)を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃(すなわ)ち召して獄より出(い)でしむ。孝孺喪服(そうふく)して入り、慟哭(どうこく)して悲(かなし)み、声殿陛(でんへい)に徹す。帝みずから榻(とう)を降(くだ)りて労(ねぎ)らいて曰く、先生労苦する勿(なか)れ。我周公(しゅうこう)の成王(せいおう)を輔(たす)けしに法(のっと)らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在(あ)ると。帝曰く、渠(かれ)みずから焚死(ふんし)すと。孝孺曰く、成王即(もし)存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君(ちょうくん)に頼(よ)る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕(ちん)が家事なり、先生はなはだ労苦する勿(なか)れと。左右をして筆札(ひっさつ)を授けしめて、おもむろに詔(みことのり)して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺大(おおい)に数字を批して、筆を地に擲(なげう)って、又大哭(たいこく)し、且(かつ)罵(ののし)り且哭(こく)して曰く、死せんには即(すなわ)ち死せんのみ、詔(しょう)は断じて草す可からずと。帝勃然(ぼつぜん)として声を大にして曰く、汝いずくんぞ能(よ)く遽(にわか)に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何(いか)にせんやと、声甚(はなは)だ□(はげ)し。帝もと雄傑剛猛なり、是(ここ)に於て大(おおい)に怒(いか)って、刀を以て孝孺の口を抉(えぐ)らしめて、復(また)之を獄に錮(こ)す。


 孝孺の宋潜渓(そうせんけい)に知らるゝや、蓋(けだ)し其(そ)の釈統(しゃくとう)三篇(ぺん)と後正統論(こうせいとうろん)とを以(もっ)てす。四篇の文、雄大にして荘厳、其(その)大旨、義理の正に拠(よ)って、情勢の帰(き)を斥(しりぞ)け、王道を尚(たっと)び、覇略を卑み、天下を全有して、海内(かいだい)に号令する者と雖(いえど)も、其(その)道に於(おい)てせざる者は、目(もく)して、正統の君主とすべからずとするに在(あ)り。秦(しん)や隋(ずい)や王※(おうもう)[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、390-3]や、晋宋(しんそう)・斉梁(せいりょう)や、則天(そくてん)や符堅(ふけん)や、此(これ)皆これをして天下を有せしむる数百年に踰(こ)ゆと雖(いえど)も、正統とす可(べ)からずと為(な)す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈(あに)其の天下を有するを謂(い)わんやと。又曰く、天下を有して而(しか)も正統に比す可からざる者三、簒臣(さんしん)也(なり)、賊后(ぞくこう)也、夷狄(いてき)也と。孝孺篇後(へんご)に書して曰く、予が此(この)文を為(つく)りてより、未(いま)だ嘗(かつ)て出して以て人に示さず。人の此(この)言を聞く者、咸(みな)予を□笑(ししょう)して以て狂と為(な)し、或(あるい)は陰(いん)に之(これ)を詆詬(ていこう)す。其の然(しか)りと謂(い)う者は、独り予が師太史公(たいしこう)と、金華(きんか)の胡公翰(ここうかん)とのみと、夫(そ)れ正統変統の論、もとより史の為(ため)にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈(あに)其の天下を有するを謂わんやと為(な)す。是(かく)の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪(さんだつ)の君に面し、其の天下に誥(つ)ぐるの詔(みことのり)を草せんことを逼(せま)らる。嗚呼(ああ)、運命遭逢(そうほう)も亦(また)奇なりというべし。孝孺又嘗(かつ)て筆の銘を為(つく)る。曰く、

妄(みだり)に動けば 悔(くい)あり、
道は 悖(もと)る可からず。
汝(なんじ) 才ありと謂(い)ふ勿(なか)れ、
後に 万世あり。

又嘗(かつ)て紙の銘を為る。曰く、

之(これ)を以(もっ)て言を立つ、其の道を載(の)せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教(おしえ)を施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。

 此(これ)等(ら)の文、蓋(けだ)し少時の為(つく)る所なり。嗚呼、運命遭逢(そうほう)、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴(ふうき)我を遅(ま)つこと久し、これに臨みて命(めい)を拒まば、刀鋸(とうきょ)我に加わらんこと疾(と)し。嗚呼、正学先生(せいがくせんせい)、こゝに於(おい)て、成王(せいおう)いずくに在(あ)りやと論じ、こゝに於て筆を地に擲(なげう)って哭(こく)す。父に負(そむ)かず、師に負(そむ)かず、天に合(がっ)して人に合(がっ)せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々(りんりんれつれつ)として、屈せず撓(たゆ)まず、苦節伯夷(はくい)を慕わんとす。壮なる哉(かな)。
 帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎(ごと)に輙(すなわ)ち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃(すなわ)ち之を殺す。孝孺の妻鄭氏(ていし)と諸子(しょし)とは、皆先(ま)ず経死(けいし)す。二女逮(とら)えられて淮(わい)を過ぐる時、相(あい)与(とも)に橋より投じて死す。季弟(きてい)孝友(こうゆう)また逮(とら)えられて将(まさ)に戮(りく)せられんとす。孝孺之を目して涙(なんだ)下りければ、流石(さすが)は正学の弟なりけり、

阿兄(あけい) 何ぞ必ずしも 涙潜々(さんさん)たらむ、
義を取り 仁を成す 此(この)間(かん)に在り。
華表(かひょう) 柱頭(ちゅうとう) 千歳(せんざい)の後(のち)、
旅魂(りょこん) 旧に依(よ)りて 家山(かざん)に到らん。

と吟じて戮(りく)せられぬ。母族林彦清(りんげんせい)等(ら)、妻族鄭原吉(ていげんきつ)等(ら)九族既に戮せられて、門生等まで、方氏(ほうし)の族として罪なわれ、坐死(ざし)する者およそ八百七十三人、遠謫(えんたく)配流(はいる)さるゝもの数う可からず。孝孺は終(つい)に聚宝門外(しゅうほうもんがい)に磔殺(たくさつ)せられぬ。孝孺慨然(がいぜん)、絶命の詞(し)を為(つく)りて戮に就(つ)く。時に年四十六、詞に曰く、

天降二乱離一兮孰知二其由一(てんらんりをくだしてたれかそのよしをしらん)。
奸臣得レ計兮謀レ国用レ猶(かんしんはかりごとをえてくにをはかるにゆうをもちゆ)。
忠臣発レ憤兮血涙交流(ちゅうしんいきどおりをはっしてけつるいこもごもながる)。
以レ此殉レ君兮抑又何求(ここをもってきみにじゅんずそもそもまたなにをかもとめん)。
嗚呼哀哉兮庶不二我尤一(あああわれなるかなこいねがわくはわれをとがめざれ)。

 廖□(りょうよう)廖銘(りょうめい)は孝孺の遺骸(いがい)を拾いて聚宝門外(しゅうほうもんがい)の山上に葬りしが、二人も亦(また)収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷(りんかゆう)は、かつて燕王父子の間に反間の計(はかりごと)を為(な)したるもの、此(これ)亦戮せられぬ。
 方氏一族是(かく)の如くにして殆(ほとん)ど絶えしが、孝孺の幼子徳宗(とくそう)、時に甫(はじ)めて九歳、寧海県(ねいかいけん)の典史(てんし)魏公沢(ぎこうたく)の護匿(ごとく)するところとなりて死せざるを得、後(のち)孝孺の門人兪公允(ゆこういん)の養うところとなり、遂(つい)に兪氏(ゆし)を冒(おか)して、子孫繁衍(はんえん)し、万暦(ばんれき)三十七年には二百余丁(よてい)となりしこと、松江府(しょうこうふ)の儒学の申文(しんぶん)に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「□氏」]二子及び門人王※(おうじょ)[#「禾+余」、UCS-7A0C、395-2]等(ら)拾骸(しゅうがい)の功また空(むな)しからず、万暦に至って墓碑祠堂(しどう)成り、祭田(さいでん)及び嘯風亭(しょうふうてい)等備わり、松江(しょうこう)に求忠書院(きゅうちゅうしょいん)成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈(あに)後無く祠無くして泯然(びんぜん)として滅せんや。
 節(せつ)に死し族を夷(い)せらるゝの事、もと悲壮なり。是(ここ)を以て後の正学先生の墓を過(よ)ぎる者、愴然(そうぜん)として感じ、□然(げんぜん)として泣かざる能(あた)わず。乃(すなわ)ち祭弔(さいちょう)慷慨(こうがい)の詩、累篇(るいへん)積章(せきしょう)して甚だ多きを致す。衛承芳(えいしょうほう)が古風一首、中(うち)に句あり、曰く、

古来 馬を叩(たた)く者、
采薇(さいび) 逸民を称す。
明(みん)の徳 □(なん)ぞ周(しゅう)に遜(ゆず)らん。
乃(すなわ)ち其の仁を成す無からんや。

と。劉秉忠(りゅうへいちゅう)を慕うの人道衍(どうえん)は其の功を成して秉忠の如くなるを得(え)、伯夷(はくい)を慕うの人方希直(ほうきちょく)は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任(おうしじん)二律の一に句あり、曰く、

十族 魂(たま)の 暗き月に依(よ)る有り、
九原(きゅうげん) 愧(はじ)の 青灯に付する無し。

と、李維□(りいてい)五律六首の中(うち)に句あり、曰く、

国破れて 心 仍(なお)在(あ)り、
身危(あやう)ふして 舌 尚(なお)存す。

又句あり、曰く、

気は壮(さかん)なり 河山(かざん)の色、
神(しん)は留(とど)まる 宇宙の身(み)。


 燕王(えんおう)今は燕王にあらず、儼(げん)として九五(きゅうご)の位(くらい)に在り、明年を以(もっ)て改めて永楽(えいらく)元年と為(な)さんとす。而(しこう)して建文皇帝は如何(いかん)。燕王の言に曰く、予(よ)始め難に遘(あ)う、已(や)むを得ずして兵を以て禍(わざわい)を救い、誓って奸悪(かんあく)を除き、宗社を安んじ、周公(しゅうこう)の勲を庶幾(しょき)せんとす。意(おも)わざりき少主予が心を亮(まこと)とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史(みんし)には記す、帝終る所を知らずと。又記す、或(あるい)は云(い)う帝地道(ちどう)より出(い)で亡(に)ぐと。又記す、□黔(てんきん)巴蜀(ばしょく)の間(かん)、相(あい)伝(つた)う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言(ことば)を二三にするものなり。帝果して火に赴(おもむ)いて死せるか、抑(そもそも)又髪(かみ)を薙(な)いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先(ぎゅうけいせん)の伝の後に、忠賢奇秘録(ちゅうけんきひろく)および致身録(ちしんろく)等の事を記して、録は蓋(けだ)し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡(しゅつぼう)、諸臣庇護(ひご)の事を否定するの口気あり。然(しか)れども巻三百四、鄭和伝(ていかでん)には、成祖(せいそ)、恵帝(けいてい)の海外に亡(に)げたるを疑い、之(これ)を蹤跡(しょうせき)せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記(しる)せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即(すなわ)ち永楽三年なり。永楽三年にして猶(なお)疑うあるは何ぞや。又給事中(きゅうじちゅう)胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、398-8]と内侍(ないし)朱祥(しゅしょう)とが、永楽中に荒徼(こうきょう)を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人(せんにん)張三□(ちょうさんぼう)を索(もと)めんとすというを其(その)名(な)とすと雖(いえど)も、山谷(さんこく)に仙を索(もと)めしむるが如き、永楽帝の聰明(そうめい)勇決にして豈(あに)真に其(その)事(こと)あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可(べ)き也。蓋(けだ)し此(この)時に当って、元の余□(よけつ)猶(なお)所在に存し、漠北(ばくほく)は論無く、西陲南裔(せいすいなんえい)、亦(また)尽(ことごと)くは明(みん)の化(か)に順(したが)わず、野火(やか)焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢(いきおい)あり。且つや天(てん)一豪傑を鉄門関辺の碣石(けっせき)に生じて、カザン(Kazan)弑(しい)されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児(チモル)(Timur)と為す。西人(せいじん)の所謂(いわゆる)タメルラン也。帖木児(チモル)サマルカンドに拠(よ)り、四方を攻略して威を振(ふる)う甚だ大(だい)に、明(みん)に対しては貢(みつぎ)を納(い)ると雖も、太祖の末年に使(つかい)したる傅安(ふあん)を留(とど)めて帰らしめず、之(これ)を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度(いんど)を掠(かす)めて、デリヒを取り、波斯(ペルシヤ)を襲い、土耳古(トルコ)を征し、心ひそかに支那(しな)を窺(うかが)い、四百余州を席巻して、大元(たいげん)の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北(さいほく)に出征して、よく胡情(こじょう)を知る。部下の諸将もまた夷事(いじ)に通ずる者多し。王の南(みなみ)する、幕中(ばくちゅう)に番騎(ばんき)を蔵す。凡(およ)そ此(これ)等(ら)の事に徴して、永楽帝の塞外(さくがい)の状勢を暁(さと)れるを知るべし。若(も)し建文帝にして走って域外に出(い)で、崛強(くっきょう)にして自大なる者に依(よ)るあらば、外敵は中国を覦(うかが)うの便(べん)を得て、義兵は邦内(ほうない)に起る可(べ)く、重耳(ちょうじ)一たび逃れて却(かえ)って勢を得るが如きの事あらんとす。是(こ)れ永楽帝の懼(おそ)れ憂(うれ)うるところたらずんばあらず。鄭和(ていか)の艦(ふね)を泛(うか)めて遠航し、胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、401-2]の仙(せん)を索(もと)めて遍歴せる、密旨を啣(ふく)むところあるが如し。而(しこう)して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡(こ)は実に異を幽境に詢(と)えるや論無し。善(よ)く射る者は雁影(がんえい)を重ならしめて而して射、善(よ)く謀(はか)る者は機会を復ならしめて而して謀る。一箭(せん)二雁(がん)を獲(え)ずと雖(いえど)も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智(ち)、豈(あに)敢(あえ)て建文を索(もと)むるを名として使(つかい)を発するを為(な)さんや。況(いわ)んや又鄭和は宦官(かんがん)にして、胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、400-8]と偕(とも)にせるの朱祥(しゅしょう)も内侍(ないし)たるをや。秘意察す可きあるなり。


 鄭和(ていか)は王景弘(おうけいこう)等(ら)と共に出(いで)て使(つかい)しぬ。和の出(い)づるや、帝、袁柳荘(えんりゅうそう)の子の袁忠徹(えんちゅうてつ)をして相(そう)せしむ、忠徹曰(いわ)く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶(ふね)長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州(そしゅう)劉家河(りゅうかか)より海(かい)に泛(うか)びて福建(ふくけん)に至り、福建五虎門(ごこもん)より帆を揚げて海に入る。閲(えつ)三年にして、五年九月還(かえ)る。建文帝の事、得る有る無し。而(しか)れども諸番国(しょばんこく)の使者和(か)に随(したが)って朝見し、各々(おのおの)其(その)方物(ほうぶつ)を貢(こう)す。和(か)又三仏斉国(さんぶつせいこく)の酋長(しゅうちょう)を俘(とりこ)として献ず。帝大(おおい)に悦(よろこ)ぶ。是(これ)より建文の事に関せず、専(もは)ら国威を揚げしめんとして、再三和(か)を出(いだ)す。和の使(つかい)を奉ずる、前後七回、其(そ)の間、或(あるい)は錫蘭山(セイロンざん)(Ceylon)の王阿烈苦奈児(アレクナル)と戦って之を擒(とりこ)にして献じ、或(あるい)は蘇門答剌(スモタラ)(Sumotala)の前の前の偽王(ぎおう)の子蘇幹剌(スカンラ)と戦って、其(その)妻子を併(あわ)せて俘(とりこ)として献じ、大(おおい)に南西諸国に明(みん)の威を揚げ、遠く勿魯漠斯(ホルムス)(Holumusze ペルシヤ)麻林(マリン)(Mualin? アフリカ?)祖法児(ズファル)(Dsuhffar アラビヤ)天方(てんほう)(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史(みんし)外国伝(がいこくでん)西南方のやゝ詳(つまびらか)なるは、鄭和に随行したる鞏珍(きょうちん)の著わせる西洋番国志(せいようばんこくし)を採りたるに本(もと)づく歟(か)という。
 胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、402-1]等(ら)もまた得る無くして已(や)みぬ。然(しか)も張三□(ちょうさんぼう)を索(もと)めしこと、天下の知る所たり。乃(すなわ)ち三□の居(お)りし所の武当(ぶとう) 大和山(たいかざん)に観(かん)を営み、夫(ふ)を役(えき)する三十万、貲(し)を費(ついや)す百万、工部侍郎(こうぶじろう)郭※(かくつい)[#「王+追」、402-3]、隆平侯(りゅうへいこう)張信(ちょうしん)等(ら)、事に当りしという。三□嘗(かつ)て武当の諸(しょ)巌壑(がんがく)に游(あそ)び、此(この)山(やま)異日必ず大(おおい)に興(おこ)らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。


 建文帝(けんぶんてい)は如何(いか)にせしぞや。伝えて曰(いわ)く、金川門(きんせんもん)の守(まもり)を失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修(かんりんいんへんしゅう)程済(ていせい)白(もう)す、出亡(しゅつぼう)したまわんには如(し)かじと。少監(しょうかん)王鉞(おうえつ)跪(ひざまず)いて進みて白(もう)す。昔高帝(こうてい)升遐(しょうか)したもう時、遺篋(いきょう)あり、大難に臨まば発(あば)くべしと宣(のたま)いぬ。謹んで奉先殿(ほうせんでん)の左に収め奉れりと。羣臣(ぐんしん)口々に、疾(と)く出(いだ)すべしという。宦者(かんじゃ)忽(たちまち)にして一の紅(くれない)なる篋(かたみ)を舁(か)き来(きた)りぬ。視(み)れば四囲は固(かた)むるに鉄を以てし、二鎖(さ)も亦(また)鉄を灌(そそ)ぎありて開くべくも無し。帝これを見て大(おおい)に慟(なげ)きたまい、今はとて火を大内(たいだい)に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此(この)時(とき)程済は辛くも篋(かたみ)を砕き得て、篋中(きょうちゅう)の物を取出(とりいだ)す。出(い)でたる物は抑(そも)何ぞ。釈門(しゃくもん)の人ならで誰(たれ)かは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒(どちょう)というもの三張(ちょう)ありたり。度牒は人の家を出(いで)て僧となるとき官の可(ゆる)して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文(おうぶん)の名の録(ろく)され、一には応能(おうのう)の名あり、一には応賢(おうけん)の名あり。袈裟(けさ)、僧帽、鞋(くつ)、剃刀(かみそり)、一々倶(とも)に備わりて、銀十錠(じょう)添わり居(い)ぬ。篋(かたみ)の内に朱書あり、之(これ)を読むに、応文は鬼門(きもん)より出(い)で、余(よ)は水関(すいかん)御溝(ぎょこう)よりして行き、薄暮にして神楽観(しんがくかん)の西房(せいぼう)に会せよ、とあり。衆臣驚き戦(おのの)きて面々相(あい)看(み)るばかり、しばらくは言(ものい)う者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰(おお)[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝の諱(いみな)は允□(いんぶん)、応文(おうぶん)の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明(みん)の基(もとい)を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉(たま)いたれ、元(げん)の順宗(じゅんそう)の至正(しせい)四年年(とし)十七におわしける時は、疫病大(おおい)に行われて、御父(おんちち)御母兄上幼き弟皆亡(う)せたまえるに、家貧にして棺槨(かんかく)の供(そなえ)だに為(な)したもう能(あた)わず、藁葬(こうそう)という悲しくも悲しき事を取行(とりおこな)わせ玉わんとて、仲(なか)の兄と二人してみずから遺骸(いがい)を舁(か)きて山麓(さんろく)に至りたまえるに、□(なわ)絶えて又如何(いかん)ともする能(あた)わず、仲の兄馳(はせ)還(かえ)って□を取りしという談だに遺(のこ)りぬ。其の仲の兄も亦(また)亡せたれば、孤身依(よ)るところなく、遂(つい)に皇覚寺(こうかくじ)に入りて僧と為(な)り、食(し)を得んが為(ため)に合□(ごうひ)に至り、光(こう)固(こ)汝(じょ)頴(えい)の諸州に托鉢(たくはつ)修行し、三歳の間は草鞋(そうあい)竹笠(ちくりゅう)、憂(う)き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因(にょぜいん)、如是縁(にょぜえん)、今また袈裟(けさ)念珠(ねんじゅ)の人たらんとす。不思議というも余(あま)りあり。程済即(すなわ)ち御意に従いて祝髪(しゅくはつ)しまいらす。万乗の君主金冠を墜(おと)し、剃刀(ていとう)の冷光翠髪(すいはつ)を薙(な)ぐ。悲痛何ぞ能(よ)く堪(た)えんや。呉王(ごおう)の教授揚応能(ようおうのう)は、臣が名度牒(どちょう)に応ず、願わくは祝髪して随(したが)いまつらんと白(もう)す。監察御史(かんさつぎょし)葉希賢(しょうきけん)、臣が名は賢(けん)、応賢(おうけん)たるべきこと疑(うたがい)無しと白(もう)す。各(おのおの)髪を剃(そ)り衣(い)を易(か)えて牒(ちょう)を披(ひら)く。殿(でん)に在りしもの凡(およ)そ五六十人、痛哭(つうこく)して地に倒れ、倶(とも)に矢(ちか)って随(したが)いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾(さしまね)いて去らしめたもう。御史(ぎょし)曾鳳韶(そうほうしょう)、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後(のち)果して燕王の召(めし)に応(おう)ぜずして自殺しぬ。諸臣大(おおい)に慟(なげ)きて漸(ようや)くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟(いっしゅう)の岸に在(あ)るあり。誰(たれ)ぞと見るに神楽観(しんがくかん)の道士王昇(おうしょう)にして、帝を見て叩頭(こうとう)して万歳を称(とな)え、嗚呼(ああ)、来(きた)らせたまえるよ、臣昨夜の夢に高(こう)皇帝の命を蒙(こうむ)りて、此(ここ)にまいり居(い)たり、と申す。乃(すなわ)ち舟に乗じて太平門(たいへいもん)に至りたもう。昇(しょう)導きまいらせて観(かん)に至れば、恰(あたか)も已(すで)に薄暮なりけり。陸路よりして楊応能(ようおうのう)、葉希賢(しょうきけん)等(ら)十三人同じく至る。合(ごう)二十二人、兵部侍郎(へいぶじろう)廖平(りょうへい)、刑部侍郎(けいぶじろう)金焦(きんしょう)、編修(へんしゅう)趙天泰(ちょうてんたい)、検討(けんとう)程亨(ていこう)、按察使(あんさつし)王良(おうりょう)、参政(さんせい)蔡運(さいうん)、刑部郎中(けいぶろうちゅう)梁田玉(りょうでんぎょく)、中書舎人(ちゅうしょしゃじん)梁良玉(りょうりょうぎょく)、梁中節(りょうちゅうせつ)、宋和(そうか)、郭節(かくせつ)、刑部司務(けいぶしむ)馮※(ひょうかく)[#「さんずい+寉」、405-12]、鎮撫(ちんぶ)牛景先(ぎゅうけいせん)、王資(おうし)、劉仲(りゅうちゅう)、翰林侍詔(かんりんじしょう)鄭洽(ていこう)、欽天監正(きんてんかんせい)王之臣(おうししん)、太監(たいかん)周恕(しゅうじょ)、徐王府賓輔(じょおうふひんほ)史彬(しひん)と、楊応能(ようおうのう)、葉希賢(しょうきけん)、程済(ていせい)となり。帝、今後はたゞ師弟を以(もっ)て称し、必ずしも主臣の礼に拘(かかわ)らざるべしと宣(のたま)う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於(おい)て人々に謂(い)って曰く、諸人の随(したが)わんことを願うは、固(もと)よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累(るい)無くして、膂力(りょりょく)の捍(ふせ)ぎ衛(まも)るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余(よ)は倶(とも)に遙(はるか)に応援を為(な)さば、可ならんと。帝も、然(しか)るべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘(びく)と称し、程済は道人(どうじん)と称して、常に左右に侍し、馮※(ひょうかく)[#「さんずい+寉」、406-8][#「馮※[#「さんずい+寉」、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406-8]」]は馬二子(ばじし)と称し、郭節(かくせつ)は雪菴(せつあん)と称し、宋和(そうか)は雲門僧(うんもんそう)と称し、趙天泰(ちょうてんたい)は衣葛翁(いかつおう)と称し、王之臣(おうししん)は補鍋(ほか)を以(もっ)て生計を為さんとして老補鍋(ろうほか)と称し、牛景先(ぎゅうけいせん)は東湖樵夫(とうこしょうふ)と称し、各々(おのおの)姓を埋(うず)め名を変じて陰陽(いんよう)に扈従(こしょう)せんとす。帝は□南(てんなん)に往(ゆ)きて西平侯(せいへいこう)に依(よ)らんとしたもう。史彬(しひん)これを危ぶみて止(とど)め、臣(しん)等(ら)の中の、家いさゝか足りて、旦夕(たんせき)に備う可(べ)き者の許(もと)に錫(しゃく)を留(とど)めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白(もう)す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽(ていこう)、郭節、王資、史彬(しひん)、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉(しょう)、楊、牛、馮(ひょう)、宋、史なり。余(よ)は皆涙を揮(ふる)って別れまいらす。帝は道を□陽(りつよう)に取りて、呉江(ごこう)の黄渓(こうけい)の史彬の家に至りたもうに、月の終(おわり)を以て諸臣また漸(ようや)く相(あい)聚(あつ)まりて伺候(しこう)す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王位(くらい)に即(つ)きて、諸官員の職を抛(なげう)って遯去(のがれさ)りし者の官籍を削る。
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