露肆
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著者名:泉鏡花 

       一

 寒くなると、山の手大通りの露店(よみせ)に古着屋の数が殖(ふ)える。半纏(はんてん)、股引(ももひき)、腹掛(はらがけ)、溝(どぶ)から引揚げたようなのを、ぐにゃぐにゃと捩(よじ)ッつ、巻いつ、洋燈(ランプ)もやっと三分(さんぶ)心(しん)が黒燻(くろくすぶ)りの影に、よぼよぼした媼(ばあ)さんが、頭からやがて膝(ひざ)の上まで、荒布(あらめ)とも見える襤褸頭巾(ぼろずきん)に包(くる)まって、死んだとも言わず、生きたとも言わず、黙って溝のふちに凍り着く見窄(みすぼ)らしげな可哀(あわれ)なのもあれば、常店(じょうみせ)らしく張出した三方へ、絹二子(きぬふたこ)の赤大名、鼠の子持縞(こもちじま)という男物の袷羽織(あわせばおり)。ここらは甲斐絹裏(かいきうら)を正札附、ずらりと並べて、正面左右の棚には袖裏(そでうら)の細(ほっそ)り赤く見えるのから、浅葱(あさぎ)の附紐(つけひも)の着いたのまで、ぎっしりと積上げて、小さな円髷(まげ)に結った、顔の四角な、肩の肥(ふと)った、きかぬ気らしい上(かみ)さんの、黒天鵝絨(くろびろうど)の襟巻したのが、同じ色の腕までの手袋を嵌(は)めた手に、細い銀煙管(ぎんぎせる)を持ちながら、店(たな)が違いやす、と澄まして講談本を、ト円心(まるじん)に翳(かざ)していて、行交う人の風采(ふうつき)を、時々、水牛縁(すいぎゅうぶち)の眼鏡の上からじろりと視(なが)めるのが、意味ありそうで、この連中には小母御(おばご)に見えて――
 湯帰(ゆあが)りに蕎麦(そば)で極(き)めたが、この節当(あて)もなし、と自分の身体(からだ)を突掛(つっか)けものにして、そそって通る、横町の酒屋の御用聞(ごようきき)らしいのなぞは、相撲の取的(とりてき)が仕切ったという逃尻(にげじり)の、及腰(およびごし)で、件(くだん)の赤大名の襟を恐る恐る引張りながら、
「阿母(おふくろ)。」
 などと敬意を表する。
 商売冥利(みょうり)、渡世(くちすぎ)は出来るもの、商(あきない)はするもので、五布(いつの)ばかりの鬱金(うこん)の風呂敷一枚の店に、襦袢(じゅばん)の数々。赤坂だったら奴(やっこ)の肌脱(はなぬぎ)、四谷じゃ六方を蹈(ふ)みそうな、けばけばしい胴、派手な袖。男もので手さえ通せばそこから着て行(ゆ)かれるまでにして、正札が品により、二分から三両内外(うちそと)まで、膝の周囲(まわり)にばらりと捌(さば)いて、主人(あるじ)はと見れば、上下縞(うえしたしま)に折目あり。独鈷入(とっこいり)の博多(はかた)の帯に銀鎖を捲(ま)いて、きちんと構えた前垂掛(まえだれがけ)。膝で豆算盤(まめそろばん)五寸ぐらいなのを、ぱちぱちと鳴らしながら、結立(ゆいた)ての大円髷(おおまるまげ)、水の垂りそうな、赤い手絡(てがら)の、容色(きりょう)もまんざらでない女房を引附けているのがある。
 時節もので、めりやすの襯衣(しゃつ)、めちゃめちゃの大安売、ふらんねる切地(きれじ)の見切物、浜から輸出品の羽二重(はぶたえ)の手巾(ハンケチ)、棄直段(すてねだん)というのもあり、外套(がいとう)、まんと、古洋服、どれも一式の店さえ八九ヶ所。続いて多い、古道具屋は、あり来(きた)りで。近頃古靴を売る事は……長靴は烟突(えんとつ)のごとく、すぽんと突立(つった)ち、半靴は叱られた体(てい)に畏(かしこま)って、ごちゃごちゃと浮世の波に魚(うお)の漾(ただよ)う風情がある。
 両側はさて軒を並べた居附(いつき)の商人(あきんど)……大通りの事で、云うまでも無く真中(まんなか)を電車が通る……
 夜店は一列片側に並んで出る。……夏の内は、西と東を各晩であるが、秋の中ばからは一月置きになって、大空の星の沈んだ光と、どす赤い灯の影を競いつつ、末は次第に流(ながれ)の淀(よど)むように薄く疎(まばら)にはなるが、やがて町尽(まちはず)れまで断(た)えずに続く……
 宵をちと出遅れて、店と店との間へ、脚が極(き)め込みになる卓子(テエブル)や、箱車をそのまま、場所が取れないのに、両方へ、叩頭(おじぎ)をして、
「いかがなものでございましょうか、飛んだお邪魔になりましょうが。」
「何、お前さん、お互様です。」
「では一ツ御不省(ごふしょう)なすって、」
「ええ可(よ)うございますともね。だが何ですよ。成(なり)たけ両方をゆっくり取るようにしておかないと、当節は喧(やかま)しいんだからね。距離をその八尺ずつというお達しでさ、御承知でもございましょうがね。」
「ですからなお恐入りますんで、」
「そこにまたお目こぼしがあろうッてもんですよ、まあ、口明(くちあけ)をなさいまし。」
「難有(ありがと)う存じます。」
 などは毎々の事。

       二

 この次第で、露店の間(あわい)は、どうして八尺が五尺も無い。蒟蒻(こんにゃく)、蒲鉾(かまぼこ)、八ツ頭(がしら)、おでん屋の鍋(なべ)の中、混雑(ごたごた)と込合って、食物店(たべものみせ)は、お馴染(なじみ)のぶっ切飴(きりあめ)、今川焼、江戸前取り立ての魚焼(うおやき)、と名告(なのり)を上げると、目の下八寸の鯛焼(たいやき)と銘を打つ。真似(まね)はせずとも可(い)い事を、鱗焼(うろこやき)は気味が悪い。
 引続いては兵隊饅頭(へいたいまんじゅう)、鶏卵入(たまごいり)の滋養麺麭(じようパン)。……かるめら焼のお婆さんは、小さな店に鍋一つ、七つ五つ、孫の数ほど、ちょんぼりと並べて寂(さみ)しい。
 茶めし餡掛(あんかけ)、一品料理、一番高い中空の赤行燈(あかあんどう)は、牛鍋の看板で、一山三銭二銭に鬻(ひさ)ぐ。蜜柑(みかん)、林檎(りんご)の水菓子屋が負けじと立てた高張(たかはり)も、人の目に着く手術(てだて)であろう。
 古靴屋の手に靴は穿(は)かぬが、外套(がいとう)を売る女の、釦(ぼたん)きらきらと羅紗(らしゃ)の筒袖。小間物店(こまものみせ)の若い娘が、毛糸の手袋嵌(は)めたのも、寒さを凌(しの)ぐとは見えないで、広告めくのが可憐(いじ)らしい。
 気取ったのは、一軒、古道具の主人、山高帽。売っても可(い)いそうな肱掛椅子(ひじかけいす)に反身(そりみ)の頬杖(ほおづえ)。がらくた壇上に張交(はりま)ぜの二枚屏風(にまいびょうぶ)、ずんどの銅(あか)の花瓶に、からびたコスモスを投込んで、新式な家庭を見せると、隣の同じ道具屋の亭主は、炬燵櫓(こたつやぐら)に、ちょんと乗って、胡坐(あぐら)を小さく、風除(かぜよ)けに、葛籠(つづら)を押立(おった)てて、天窓(あたま)から、その尻まですっぽりと安置に及んで、秘仏はどうだ、と達磨(だるま)を極(き)めて、寂寞(じゃくまく)として定(じょう)に入(い)る。
「や、こいつア洒落(しゃれ)てら。」
 と往来が讃(ほ)めて行(ゆ)く。
 黒い毛氈(もうせん)の上に、明石(あかし)、珊瑚(さんご)、トンボの青玉が、こつこつと寂(さ)びた色で、古い物語を偲(しの)ばすもあれば、青毛布(あおげっと)の上に、指環(ゆびわ)、鎖、襟飾(えりかざり)、燦爛(さんらん)と光を放つ合成金の、新時代を語るもあり。……また合成銀と称(とな)えるのを、大阪で発明して銀煙草(ぎんぎせる)を並べて売る。
「諸君、二円五十銭じゃ言うたんじゃ、可(え)えか、諸君、熊手屋が。露店の売品の値価(ねだん)にしては、いささか高値(こうじき)じゃ思わるるじゃろうが、西洋の話じゃ、で、分るじゃろう。二円五十銭、可えか、諸君。」
 と重なり合った人群集(ひとだかり)の中に、足許(あしもと)の溝の縁に、馬乗提灯(うまのりぢょうちん)を動き出しそうに据えたばかり。店も何も無いのが、額を仰向(あおむ)けにして、大口を開(あ)いて喋(しゃべ)る……この学生風な五ツ紋は商人(あきんど)ではなかった。
 ここらへ顔出しをせねばならぬ、救世軍とか云える人物。
「そこでじゃ諸君、可(え)えか、その熊手の値を聞いた海軍の水兵君が言わるるには、可(よし)、熊手屋、二円五十銭は分った、しかしながらじゃな、ここに持合わせの銭が五十銭ほか無い。すなわちこの五十銭を置いて行(ゆ)く。直ぐに後金(あときん)の二円を持って来るから受取っておいてくれい。熊手は預けて行(ゆ)くぞ、誰も他(ほか)のものに売らんようになあ、と云われましたが、諸君。
 手附(てつけ)を受取って物品を預っておくんじゃからあ、」
と俯向(うつむ)いて、唾を吐いて、
「じゃから諸君、誰にしても異存はあるまい。宜(よろ)しゅうございます。行っていらっしゃいと云うて、その金子(かね)を請取(うけと)ったんじゃ、可(え)えか、諸君。ところでじゃ、約束通りに、あとの二円を持って、直ぐにその熊手を取りに来れば何事もありませんぞ。
 そうら、それが遣(や)って来ん、来んのじゃ諸君、一時間経(た)ち、二時間経ち、十二時が過ぎ、半が過ぎ、どうじゃ諸君、やがて一時頃まで遣って来んぞ。
 他(ほか)の露店は皆仕舞うたんじゃ。それで無うてから既に露店の許された時間は経過して、僅(わずか)に巡行の警官が見て見ぬ振(ふり)という特別の慈悲を便りに、ぼんやりと寂しい街路の霧になって行(ゆ)くのを視(なが)めて、鼻の尖(さき)を冷たくして待っておったぞ。
 処へ、てくりてくり、」
 と両腕を奮(はず)んで振って、ずぼん下の脚を上げたり、下げたり。
「向うから遣(や)って来たものがある、誰じゃろうか諸君、熊手屋の待っておる水兵じゃろうか。その水兵ならばじゃ、何事も別に話は起らんのじゃ、諸君。しかるに世間というものはここが話じゃ、今来たのは一名の立派な紳士じゃ、夜会の帰りかとも思われる、何分(なにぶん)か酔うてのう。」

       三

「皆さん、申すまでもありませんが、お家で大切なのは火の用心でありまして、その火の用心と申す中(うち)にも、一番危険なのが洋燈(ランプ)であります。なぜ危い。お話しをするまでもありません、過失(あやま)って取落しまする際に、火の消えませんのが、壺(つぼ)の、この、」
 と目通りで、真鍮(しんちゅう)の壺をコツコツと叩く指が、掌(てのひら)掛けて、油煙で真黒(まっくろ)。
 頭髪(かみ)を長くして、きちんと分けて、額にふらふらと捌(さば)いた、女難なきにしもあらずなのが、渡世となれば是非も無い。
「石油が待てしばしもなく、※(ぱっ)[#「火+發」、422-7]と燃え移るから起るのであります。御覧なさいまし、大阪の大火、青森の大火、御承知でありましょう、失火の原因は、皆この洋燈(ランプ)の墜落から転動(と妙な対句で)を起しまする。その危険な事は、硝子壺(がらすつぼ)も真鍮壺も決して差別はありません。と申すが、唯今(ただいま)もお話しました通り、火が消えないからであります。そこで、手前商いまするのは、ラジーンと申して、金山鉱山におきまして金を溶かしまする処の、炉壺(ろつぼ)にいたしまするのを使って製造いたしました、口金(くちがね)の保助器は内務省お届済みの専売特許品、御使用の方法は唯今お目に懸けまするが、安全口金、一名火事知らずと申しまして、」
「何だ、何だ。」
 と立合いの肩へ遠慮なく、唇の厚い、真赤(まっか)な顔を、ぬい、と出して、はたと睨(にら)んで、酔眼をとろりと据える。
「うむ、火事知らずか、何を、」と喧嘩腰(けんかごし)に力を入れて、もう一息押出しながら、
「焼けたら水を打懸(ぶっか)けろい、げい。」
 と□(おくび)をするかと思うと、印半纏(しるしばんてん)の肩を聳(そび)やかして、のッと行(ゆ)く。新姐子(しんぞっこ)がばらばらと避(よ)けて通す。
 と嶮(けん)な目をちょっと見据えて、
「ああいう親方が火元になります。」と苦笑(にがわらい)。
 昔から大道店(だいどうみせ)に、酔払いは附いたもので、お職人親方手合(てあい)の、そうしたのは有触(ありふ)れたが、長外套(なががいとう)に茶の中折(なかおれ)、髭(ひげ)の生えた立派なのが居る。
 辻に黒山を築いた、が北風(ならい)の通す、寒い背後(うしろ)から藪(やぶ)を押分けるように、杖(ステッキ)で背伸びをして、
「踊っとるは誰(だい)じゃ、何しとるかい。」
「へい、面白ずくに踊ってる[#「踊ってる」は底本では「踊つてる」]じゃござりません。唯今、鼻紙で切りました骸骨(がいこつ)を踊らせておりますんで、へい、」
「何じゃ、骸骨が、踊(おどり)を踊る。」
 どたどたと立合(たちあい)の背(うしろ)に凭懸(よりかか)って、
「手品か、うむ、手品を売りよるじゃな。」
「へい、八通(やとお)りばかり認(したた)めてござりやす、へい。」
「うむ、八通り、この通(とおり)か、はッはッ、」と変哲もなく、洒落(しゃれ)のめして、
「どうじゃ五厘も投げてやるか。」
「ええ、投銭、お手の内は頂きやせん、材(たね)あかしの本を売るのでげす、お求め下さいやし。」
「ふむ……投銭は謝絶する、見識じゃな、本は幾干(いくら)だ。」
「五銭、」
「何、」
「へい、お立合にも申しておりやす。へい、ええ、ことの外音声を痛めておりやすんで、お聞苦しゅう、……へい、お極(きま)りは五銅の処、御愛嬌(ごあいきょう)に割引をいたしやす、三銭でございやす。」
「高い!」
 と喝(しか)って、
「手品屋、負けろ。」
「毛頭、お掛値(かけね)はございやせん。宜(よろ)しくばお求め下さいやし、三銭でごぜいやす。」
「一銭にせい、一銭じゃ。」
「あッあ、推量々々。」と対手(あいて)にならず、人の環(わ)の底に掠(かす)れた声、地(つち)の下にて踊るよう。
「お次は相場の当る法、弁ずるまでもありませんよ。……我人(われひと)ともに年中螻(おけら)では不可(いけ)ません、一攫千金(いっかくせんきん)、お茶の子の朝飯前という……次は、」
 と細字(さいじ)に認(したた)めた行燈(あんどん)をくるりと廻す。綱が禁札、ト捧げた体(てい)で、芳原被(よしわらかぶ)りの若いもの。別に絣(かすり)の羽織を着たのが、板本を抱えて彳(たたず)む。
「諸人に好かれる法、嫌われぬ法も一所ですな、愛嬌のお守(まもり)という条目。無銭で米の買える法、火なくして暖まる法、飲まずに酔う法、歩行(ある)かずに道中する法、天に昇る法、色を白くする法、婦(おんな)の惚(ほ)れる法。」

       四

「お痛(いて)え、痛え、」
 尾を撮(つま)んで、にょろりと引立(ひった)てると、青黒い背筋が畝(うね)って、びくりと鎌首を擡(もた)げる発奮(はずみ)に、手術服という白いのを被(はお)ったのが、手を振って、飛上る。
「ええ驚いた、蛇が啖(くら)い着くです――だが、諸君、こんなことでは無い。……この木製の蛇が、僕の手練に依って、不可思議なる種々の運動を起すです。急がない人は立って見て行(ゆ)きたまえよ、奇々妙々感心というのだから。
 だが、諸君、だがね、僕は手品師では無いのだよ。蛇使いではないのですが、こんな処じゃ、誰も衛生という事を心得ん。生命(いのち)が大切という事を弁別(わきま)えておらん人ばかりだから、そこで木製の蛇の運動を起すのを見て行(ゆ)きたまえと云うんだ。歯の事なんか言って聞かしても、どの道分りはせんのだから、無駄だからね、無駄な話だから決して売ろうとは云わんです。売らんのだから買わんでも宜しい。見て行(ゆ)きたまえ。見物をしてお出でなさい。今、運動を起す、一分間にして暴れ出す。
 だが諸君、だがね諸君、歯磨(はみがき)にも種々(いろいろ)ある。花王歯磨、ライオン象印、クラブ梅香散……ざっと算(かぞ)えた処で五十種以上に及ぶです。だが、諸君、言ったって無駄だ、どうせ買いはしまい、僕も売る気は無い、こんな処じゃ分るものは無いのだから、売りやせん、売りやせんから木製の蛇の活動を見て行(ゆ)きたまえ。」
 と青い帽子をずぼらに被(かぶ)って、目をぎろぎろと光らせながら、憎体(にくてい)な口振(くちぶり)で、歯磨を売る。
 二三軒隣では、人品骨柄(じんぴんこつがら)、天晴(あっぱれ)、黒縮緬(くろちりめん)の羽織でも着せたいのが、悲愴(ひそう)なる声を揚げて、殆(ほとん)ど歎願に及ぶ。
「どうぞ、お試し下さい、ねえ、是非一回御試験が仰ぎたい。口中に熱あり、歯の浮く御仁、歯齦(はぐき)の弛(ゆる)んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口の臭い、舌の粘々(ねばねば)するお方がありましたら、ここに出しておきます、この芳口剤で一度漱(うがい)をして下さい。」
 と一口がぶりと遣(や)って、悵然(ちょうぜん)として仰反(のけぞ)るばかりに星を仰ぎ、頭髪(かみ)を、ふらりと掉(ふ)って、ぶらぶらと地(つち)へ吐き、立直ると胸を張って、これも白衣(びゃくえ)の上衣兜(うわかくし)から、綺麗(きれい)な手巾(ハンケチ)を出して、口のまわりを拭いて、ト恍惚(うっとり)とする。
「爽(さわや)かに清(すずし)き事、」
 と黄色い更紗(さらさ)の卓子掛(テエブルかけ)を、しなやかな指で弾(はじ)いて、
「何とも譬(たと)えようがありません。ただ一分間、一口含みまして、二三度、口中を漱(そそ)ぎますと、歯磨楊枝(ようじ)を持ちまして、ものの三十分使いまするより、遥(はる)かに快くなるのであります。口中には限りません。精神の清く爽かになりますに従うて、頭痛などもたちどころに治ります。どうぞ、お試し下さい、口は禍(わざわい)の門(かど)、諸病は口からと申すではありませんか、歯は大事にして下さい、口は綺麗にして下さいまし、ねえ、私が願います、どうぞ諸君(みなさん)。」
「この砥石(といし)が一挺(ちよう)ありましたらあ、今までのよに、盥(たらい)じゃあ、湯水じゃあとウ、騒ぐにはア及びませぬウ。お座敷のウ真中(まんなか)でもウ、お机、卓子台(ちゃぶだい)の上エでなりとウ、ただ、こいに遣って、すぅいすぅいと擦(こす)りますウばかりイイイ。菜切庖丁(なっきりぼうちょう)、刺身庖丁(さしみぼうちょう)ウ、向ウへ向ウへとウ、十一二度、十二三度、裏を返しまして、黒い色のウ細い砥ウ持(もち)イましてエ、柔(やわら)こう、すいと一二度ウ、二三度ウ、撫(なで)るウ撫るウばかりイ、このウ菜切庖丁が、面白いようにイ切(きれ)まあすウる、切れまあすウる。こいに、こいに、さッくりさッくり横紙が切れますようなら、当分のウ内イ、誰方様(どなたさま)のウお邸(やしき)でもウ、切(きれ)ものに御不自由はございませぬウ。このウ細(こまか)い方一挺がア、定価は五銭のウ処ウ、特別のウ割引イでエ、粗(あら)のと二ツ一所に、名倉(なぐら)の欠(かけ)を添えまして、三銭、三銭でエ差上げますウ、剪刀(はさみ)、剃刀磨(かみそりとぎ)にイ、一度ウ磨がせましても、二銭とウ三銭とは右から左イ……」
 と賽(さい)の目に切った紙片(かみきれ)を、膝にも敷物にもぱらぱらと夜風に散らして、縞(しま)の筒袖凜々(りり)しいのを衝(つ)と張って、菜切庖丁に金剛砂(こんごうしゃ)の花骨牌(はながるた)ほどな砥を当てながら、余り仰向いては人を見ぬ、包ましやかな毛糸の襟巻、頬の細いも人柄で、大道店の息子株。
 押並んで、めくら縞の襟の剥(は)げた、袖に横撫(よこなで)のあとの光る、同じ紺のだふだふとした前垂(まえだれ)を首から下げて、千草色の半股引(はんももひき)、膝のよじれたのを捻(ねじ)って穿(は)いて、ずんぐりむっくりと肥(ふと)ったのが、日和下駄で突立(つった)って、いけずな忰(せがれ)が、三徳用大根皮剥(かわはぎ)、というのを喚(わめ)く。

       五

 その鯉口(こいぐち)の両肱(りょうひじ)を突張(つっぱ)り、手尖(てさき)を八ツ口へ突込(つっこ)んで、頸(うなじ)を襟へ、もぞもぞと擦附けながら、
「小母(おば)さん、買ってくんねえ、小父的(おじき)買いねえな。千六本に、おなますに、皮剥(かわはぎ)と一所に出来らあ。内が製造元だから安いんだぜ。大小(でいしょう)あらあ。大(でい)が五銭で小が三銭だ。皮剥一ツ買ったってお前(めえ)、三銭はするぜ、買っとくんねえ、あ、あ、あ、」
 と引捻(ひんねじ)れた四角な口を、額まで闊(かつ)と開けて、猪首(いくび)を附元(つけもと)まで窘(すく)める、と見ると、仰状(のけざま)に大欠伸(おおあくび)。余り度外(どはず)れなのに、自分から吃驚(びっくり)して、
「はっ、」と、突掛(つっかか)る八ツ口の手を引張出して、握拳(にぎりこぶし)で口の端(はた)をポン、と蓋(ふた)をする、トほっと真白(まっしろ)な息を大きく吹出す……
 いや、順に並んだ、立ったり居たり、凸凹としたどの店も、同じように息が白い。むらむらと沈んだ、燻(くすぶ)った、その癖、師走空に澄透(すみとお)って、蒼白(あおじろ)い陰気な灯(あかり)の前を、ちらりちらりと冷たい魂が□□(さまよ)う姿で、耄碌頭布(もうろくずきん)の皺(しわ)から、押立(おった)てた古服の襟許(えりもと)から、汚れた襟巻の襞□(ひだ)の中から、朦朧(もうろう)と顕(あらわ)れて、揺れる火影(ほかげ)に入乱れる処を、ブンブンと唸(うな)って来て、大路(おおじ)の電車が風を立てつつ、颯(さっ)と引攫(ひっさら)って、チリチリと紫に光って消える。
 とどの顔も白茶(しらちゃ)けた、影の薄い、衣服前垂(きものまえだれ)の汚目(よごれめ)ばかり火影に目立って、煤(すす)びた羅漢の、トボンとした、寂しい、濁った形が溝端(みぞばた)にばらばらと残る。
 こんな時は、時々ばったりと往来が途絶えて、その時々、対合(むかいあ)った居附(いつき)の店の電燈瓦斯(がす)の晃々(こうこう)とした中に、小僧の形(かげ)や、帳場の主人、火鉢の前の女房(かみさん)などが、絵草子の裏、硝子(がらす)の中、中でも鮮麗(あざやか)なのは、軒に飾った紅入友染(べにいりゆうぜん)の影に、くっきりと顕(あらわ)れる。
 露店は茫(ぼう)として霧に沈む。
 たちまち、ふらふらと黒い影が往来へ湧(わ)いて出る。その姿が、毛氈(もうせん)の赤い色、毛布(けっと)の青い色、風呂敷の黄色いの、寂(さみ)しい媼(ばあ)さんの鼠色まで、フト判然(はっきり)と凄(すご)い星の下に、漆のような夜の中に、淡い彩(いろどり)して顕れると、商人連(あきゅうどれん)はワヤワヤと動き出して、牛鍋(ぎゅうなべ)の唐紅(とうべに)も、飜然(ひらり)と揺(ゆら)ぎ、おでん屋の屋台もかッと気競(きおい)が出て、白気(はくき)濃(こま)やかに狼煙(のろし)を揚げる。翼の鈍(のろ)い、大きな蝙蝠(こうもり)のように地摺(じずり)に飛んで所を定めぬ、煎豆屋(いりまめや)の荷に、糸のような火花が走って、
「豆や、煎豆、煎立豆や、柔い豆や。」
 と高らかに冴(さ)えて、思いもつかぬ遠くの辻のあたりに聞える。
 また一時(ひとしきり)、がやがやと口上があちこちにはじまるのである。
 が、次第に引潮が早くなって、――やっと柵(しがらみ)にかかった海草のように、土方の手に引摺(ひきず)られた古股引(ふるももひき)を、はずすまじとて、媼(ばあ)さんが曲った腰をむずむずと動かして、溝の上へ膝を摺出(ずりだ)す、その効(かい)なく……博多の帯を引掴(ひッつか)みながら、素見(ひやかし)を追懸(おっか)けた亭主が、値が出来ないで舌打をして引返す……煙草入(たばこいれ)に引懸(ひっかか)っただぼ鯊(はぜ)を、鳥の毛の采配(さいはい)で釣ろうと構えて、ストンと外した玉屋の爺様(じいさま)が、餌箱(えさばこ)を検(しら)べる体(てい)に、財布を覗(のぞ)いて鬱(ふさ)ぎ込む、歯磨屋(はみがきや)の卓子(テエブル)の上に、お試用(ためし)に掬出(すくいだ)した粉が白く散って、売るものの鰌髯(どじょうひげ)にも薄(うっす)り霜を置く――初夜過ぎになると、その一時(ひととき)々々、大道店の灯筋(あかりすじ)を、霧で押伏(おっぷ)せらるる間が次第に間近になって、盛返す景気がその毎(たび)に、遅く重っくるしくなって来る。
 ずらりと見渡した皆がしょんぼりする。
 勿論、電燈の前、瓦斯の背後(うしろ)のも、寝る前の起居(たちい)が忙(せわ)しい。
 分けても、真白(まっしろ)な油紙(あぶらっかみ)の上へ、見た目も寒い、千六本を心太(ところてん)のように引散(ひっち)らして、ずぶ濡(ぬれ)の露が、途切れ途切れにぽたぽたと足を打って、溝縁(みぞぶち)に凍りついた大根剥(だいこんむき)の忰(せがれ)が、今度は堪(たま)らなそうに、凍(かじか)んだ両手をぶるぶると唇へ押当てて、貧乏揺(びんぼうゆる)ぎを忙(せわ)しくしながら、
「あ、あ、」
 とまた大欠伸(おおあくび)をして、むらむらと白い息を吹出すと、筒抜けた大声で、
「大福が食いてえなッ。」

       六

「大福餅が食べたいとさ、は、は、は、」
 と直きその傍(そば)に店を出した、二分心(にぶしん)の下で手許(てもと)暗く、小楊枝(こようじ)を削っていた、人柄なだけ、可憐(いとし)らしい女隠居が、黒い頭巾(ずきん)の中から、隣を振向いて、掠(かす)れ掠れ笑って言う。
 その隣の露店は、京染正紺請合(しょうこんうけあい)とある足袋の裏を白く飜(かえ)して、ほしほしと並べた三十ぐらいの女房(にょうぼ)で、中がちょいと隔っただけ、三徳用の言った事が大道でぼやけて分らず……但し吃驚(びっくり)するほどの大音であったので、耳を立てて聞合わせたものであった。
 会得(えとく)が行(ゆ)くとさも無い事だけ、おかしくなったものらしい。
「大福を……ほほほ、」と笑う。
 とその隣が古本屋で、行火(あんか)の上へ、髯(ひげ)の伸びた痩(や)せた頤(おとがい)を乗せて、平たく蹲(うずくま)った病人らしい陰気な男が、釣込まれたやら、
「ふふふ、」
 と寂(さみ)しく笑う。
 続いたのが、例の高張(たかはり)を揚げた威勢の可(い)い、水菓子屋、向顱巻(むこうはちまち)の結び目を、山から飛んで来た、と押立(おった)てたのが、仰向けに反(そり)を打って、呵々(からから)と笑出す。次へ、それから、引続いて――一品料理の天幕張(テントばり)の中などは、居合わせた、客交じりに、わはわはと笑(わらい)を揺(ゆす)る。年内の御重宝(ごちょうほう)九星売が、恵方(えほう)の方へ突伏(つっぷ)して、けたけたと堪(たま)らなそうに噴飯(ふきだ)したれば、苦虫と呼ばれた歯磨屋(はみがきや)が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に、もぐらもちが昇天しようと、水道の鉄管を躍り抜けそうな響きで、片側一条(ひとすじ)、夜が鳴って、哄(どっ)と云う。時ならぬに、木(こ)の葉が散って、霧の海に不知火(しらぬい)と見える灯(ともしび)の間を白く飛ぶ。
 なごりに煎豆屋(いりまめや)が、かッと笑う、と遠くで凄(すさ)まじく犬が吠(ほ)えた。
 軒の辺(あたり)を通魔(とおりま)がしたのであろう。
 北へも響いて、町尽(まちはずれ)の方へワッと抜けた。
 時に片頬笑(かたほえ)みさえ、口許(くちもと)に莞爾(にっこり)ともしない艶(えん)なのが、露店を守って一人居た。
 縦通(たてどおり)から横通りへ、電車の交叉点(こうさてん)を、その町尽れの方へ下(さが)ると、人も店も、灯(ひ)の影も薄く歯の抜けたような、間々を冷い風が渡る癖に、店を一ツ一ツ一重(ひとえ)ながら、茫(ぼう)と渦を巻いたような霧で包む。同じ燻(くす)ぶった洋燈(ランプ)も、人の目鼻立ち、眉も、青、赤、鼠色の地(じ)の敷物ながら、さながら鶏卵(たまご)の裡(うち)のように、渾沌(こんとん)として、ふうわり街燈の薄い影に映る。が、枯れた柳の細い枝は、幹に行燈(あんどう)を点(つ)けられたより、かえってこの中に、処々すっきりと、星に蒼(あお)く、風に白い。
 その根に、茣蓙(ござ)を一枚の店に坐ったのが、件(くだん)の婦(おんな)で。
 年紀(とし)は六七……三十にまず近い。姿も顔も窶(やつ)れたから、ちと老けて見えるのであろうも知れぬ。綿らしいが、銘仙縞(めいせんじま)の羽織を、なよなよとある肩に細く着て、同じ縞物の膝を薄く、無地ほどに細い縞の、これだけはお召らしいが、透切(すきぎ)れのした前垂(まえだれ)を〆(し)めて、昼夜帯の胸ばかり、浅葱(あさぎ)の鹿子(かのこ)の下〆(したじめ)なりに、乳の下あたり膨(ふっく)りとしたのは、鼻紙も財布も一所に突込(つっこ)んだものらしい。
 ざっと一昔は風情だった、肩掛というのを四つばかりに畳んで敷いた。それを、褄(つま)は深いほど玉は冷たそうな、膝の上へ掛けたら、と思うが、察するに上へは出せぬ寸断(ずたずた)の継填(つぎはぎ)らしい。火鉢も無ければ、行火(あんか)もなしに、霜の素膚(すはだ)は堪えられまい。
 黒繻子(くろじゅす)の襟も白く透く。
 油気(あぶらけ)も無く擦切るばかりの夜嵐にばさついたが、艶(つや)のある薄手な丸髷(まるまげ)がッくりと、焦茶色の絹のふらしてんの襟巻。房の切れた、男物らしいのを細く巻いたが、左の袖口を、ト乳の上へしょんぼりと捲(ま)き込んだ袂(たもと)の下に、利休形(りきゅうがた)の煙草入(たばこいれ)の、裏の緋塩瀬(ひしおぜ)ばかりが色めく、がそれも褪(あ)せた。
 生際(はえぎわ)の曇った影が、瞼(まぶた)へ映(さ)して、面長(おもなが)なが、さして瘠(や)せても見えぬ。鼻筋のすっと通ったを、横に掠(かす)めて後毛(おくれげ)をさらりと掛けつつ、ものうげに払いもせず……切(きれ)の長い、睫(まつげ)の濃いのを伏目(ふしめ)になって、上気して乾くらしい唇に、吹矢の筒を、ちょいと含んで、片手で持添えた雪のような肱(ひじ)を搦(から)む、唐縮緬(とうちりめん)の筒袖のへりを取った、継合わせもののその、緋鹿子(ひがのこ)の媚(なまめ)かしさ。

       七

 三枚ばかり附木(つけぎ)の表へ、(一(ひと)くみ)も仮名で書き、(二せん)も仮名で記して、前に並べて、きざ柿の熟したのが、こつこつと揃ったような、昔は螺(たにし)が尼になる、これは紅茸(べにたけ)の悟(さとり)を開いて、ころりと参った張子(はりこ)の達磨(だるま)。
 目ばかり黒い、けばけばしく真赤(まっか)な禅入(ぜんにゅう)を、木兎引(ずくひき)の木兎、で三寸ばかりの天目台(てんもくだい)、すくすくとある上へ、大は小児(こども)の握拳(にぎりこぶし)、小さいのは団栗(どんぐり)ぐらいな処まで、ずらりと乗せたのを、その俯目(ふしめ)に、ト狙(ねら)いながら、件(くだん)の吹矢筒で、フッ。
 カタリといって、発奮(はずみ)もなく引(ひっ)くりかえって、軽く転がる。その次のをフッ、カタリと飜(かえ)る。続いてフッ、カタリと下へ。フッフッ、カタカタカタと毛を吹くばかりの呼吸(いき)づかいに連れて、五つ七つたちどころに、パッパッと石鹸玉(シャボンだま)が消えるように、上手にでんぐり、くるりと落ちる。
 落ちると、片端から一ツ一ツ、順々にまた並べて、初手(しょて)からフッと吹いて、カタリといわせる。……同じ事を、絶えず休まずに繰返して、この玩弄物(おもちゃ)を売るのであるが、玉章(ふみ)もなし口上もなしで、ツンとしたように黙っているので。
 霧の中に笑(わらい)の虹(にじ)が、溌(ぱっ)と渡った時も、独り莞爾(にっこり)ともせず、傍目(わきめ)も触(ふ)らず、同じようにフッと吹く。
 カタリと転がる。
「大福、大福、大福かい。」
 とちと粘って訛(なまり)のある、ギリギリと勘走った高い声で、亀裂(ひび)を入(い)らせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋の婦(おんな)の背後(うしろ)へ、ぬっと、鼠の中折(なかおれ)を目深(まぶか)に、領首(えりくび)を覗(のぞ)いて、橙色(だいだいいろ)の背広を着、小造りなのが立ったと思うと、
「大福餅、暖(あったか)い!」
 また疳走(かんばし)った声の下、ちょいと蹲(しゃが)む、と疾(はや)い事、筒服(ずぼん)の膝をとんと揃えて、横から当って、婦(おんな)の前垂(まえだれ)に附着(くッつ)くや否や、両方の衣兜(かくし)へ両手を突込(つっこ)んで、四角い肩して、一ふり、ぐいと首を振ると、ぴんと反らした鼻の下の髯(ひげ)とともに、砂除(すなよ)けの素通し、ちょんぼりした可愛い目をくるりと遣(や)ったが、ひょんな顔。
 ……というものは、その、
「……暖(あったか)い!……」を機会(きっかけ)に、行火(あんか)の箱火鉢の蒲団(ふとん)の下へ、潜込(もぐりこ)ましたと早合点(はやがってん)の膝小僧が、すぽりと気が抜けて、二ツ、ちょこなんと揃って、灯(ともしび)に照れたからである。
 橙背広のこの紳士は、通り掛(がか)りの一杯機嫌の素見客(ぞめき)でも何でもない。冷かし数の子の数には漏れず、格子から降るという長い煙草(きせる)に縁のある、煙草(たばこ)の脂留(やにどめ)、新発明螺旋仕懸(らせんじかけ)ニッケル製の、巻莨(まきたばこ)の吸口を売る、気軽な人物。
 自から称して技師と云う。
 で、衆を立たせて、使用法を弁ずる時は、こんな軽々しい態度のものではない。
 下目づかいに、晃々(きらきら)と眼鏡を光らせ、額で睨(にら)んで、帽子を目深(まぶか)に、さも歴々が忍びの体(てい)。冷々然として落着き澄まして、咳(しわぶき)さえ高うはせず、そのニコチンの害を説いて、一吸(ひとすい)の巻莨から生ずる多量の沈澱物をもって混濁した、恐るべき液体をアセチリンの蒼光(あおびかり)に翳(かざ)して、屹(き)と試験管を示す時のごときは、何某(なにがし)の教授が理化学の講座へ立揚(たちあが)ったごとく、風采(ふうさい)四辺(あたり)を払う。
 そこで、公衆は、ただ僅(わずか)に硝子(がらす)の管へ煙草を吹込んで、びくびくと遣(や)ると水が濁るばかりだけれども、技師の態度と、その口上のぱきぱきとするのに、ニコチンの毒の恐るべきを知って、戦慄(せんりつ)に及んで、五割引が盛(さかん)に売れる。
 なかなかどうして、歯科散(しかさん)が試験薬を用いて、立合(たちあい)の口中黄色い歯から拭取(ふきと)った口塩(くちしお)から、たちどころに、黴菌(ばいきん)を躍らして見せるどころの比ではない。
 よく売れるから、益々(ますます)得意で、澄まし返って説明する。
 が、夜がやや深く、人影の薄くなったこうした時が、技師大得意の節で。今まで嚔(くしゃみ)を堪(こら)えたように、むずむずと身震いを一つすると、固くなっていた卓子(テエブル)の前から、早くもがらりと体(たい)を砕いて、飛上るように衝(つ)と腰を軽く、突然(いきなり)ひょいと隣のおでん屋へ入って、煮込を一串(ひとくし)引攫(ひっさら)う。
 こいつを、フッフッと吹きながら、すぺりと古道具屋の天窓(あたま)を撫(な)でるかと思うと、次へ飛んで、あの涅槃(ねはん)に入ったような、風除葛籠(かざよけつづら)をぐらぐら揺(ゆす)ぶる。

       八

 その時きゃっきゃっと高笑(たかわらい)、靴をぱかぱかと傍(わき)へ外(そ)れて、どの店と見当を着けるでも無く、脊を屈(かが)めて蹲(うずくま)った婆さんの背後(うしろ)へちょいと踞(しゃが)んで、
「寒いですね。」
 と声を掛けて、トントンと肩を叩いてやったもので。
「きゃっきゃっ、」とまた笑うて、横歩行(よこある)きにすらすらすら、で、居合わす、古女房の背(せな)をドンと啖(くら)わす。突然(いきなり)、年増(としま)の行火(あんか)の中へ、諸膝(もろひざ)を突込(つっこ)んで、けろりとして、娑婆(しゃば)を見物、という澄ました顔付で、当っている。
 露店中の愛嬌(あいきょう)もので、総籬(そうまがき)の柳縹(りゅうひょう)さん。
 すなわちまた、その伝で、大福暖(あったか)いと、向う見ずに遣った処、手遊屋(おもちゃや)の婦(おんな)は、腰のまわりに火の気が無いので、膝が露出(むきだ)しに大道へ、茣蓙(ござ)の薄霜に間拍子(まびょうし)も無く並んだのである。
 橙色(だいだいいろ)の柳縹子、気の抜けた肩を窄(すぼ)めて、ト一つ、大きな達磨(だるま)を眼鏡でぎらり。
 婦(おんな)は澄ましてフッと吹く……カタリ……
 はッと頤(おとがい)を引く間も無く、カタカタカタと残らず落ちると、直ぐに、そのへりの赤い筒袖の細い雪で、一(ひと)ツ一(びと)ツ拾って並べる。
「堪(たま)らんですね、寒いですな、」
 と髯(ひげ)を捻(ひね)った。が、大きに照れた風が見える。
 斜違(はすッかい)にこれを視(なが)めて、前歯の金をニヤニヤと笑ったのは、総髪(そうがみ)の大きな頭に、黒の中山高(ちゅうやまたか)を堅く嵌(は)めた、色の赤い、額に畝々(うねうね)と筋のある、頬骨の高い、大顔の役人風。迫った太い眉に、大(でっか)い眼鏡で、胡麻塩髯(ごましおひげ)を貯えた、頤(おとがい)の尖(とが)った、背のずんぐりと高いのが、絣(かすり)の綿入羽織を長く着て、霜降のめりやすを太く着込んだ巌丈(がんじょう)な腕を、客商売とて袖口へ引込(ひっこ)めた、その手に一条の竹の鞭(むち)を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、備後(びんご)は尾ノ道、肥後(ひご)は熊本の刻煙草(きざみたばこ)を指示(さししめ)す……
「内務省は煙草専売局、印紙御貼用済(ごちょうようずみ)。味は至極可(え)えで、喫(の)んで見た上で買いなさい。大阪は安井銀行、第三蔵庫の担保品。今度(このたび)、同銀行蔵掃除について払下げに相成ったを、当商会において一手販売をする、抵当流れの安価な煙草じゃ、喫んで芳(かんばし)ゅう、香味(こうみ)、口中に遍(あまね)うしてしかしてそのいささかも脂(やに)が無い。私(わし)は痰持(たんもち)じゃが、」
 と空咳(からせき)を三ツばかり、小さくして、竹の鞭を袖へ引込め、
「この煙草を用いてから、とんと悩みを忘れた。がじゃ、荒くとも脂がありとも、ただ強いのを望むという人には決してこの煙草は向かぬぞ。香味あって脂が無い、抵当流れの刻(きざみ)はどうじゃ。」
 と太い声して、ちと充血した大きな瞳(ひとみ)をぎょろりと遣る。その風采(ふうさい)、高利を借りた覚えがあると、天窓(あまた)から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。
 店の透いた時は、そこらの小児(こども)をつかまえて、
「あ、然(す)じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺(しわ)を寄せて、髯の上を撫(な)で下げ撫で下げ、滑稽(おど)けた話をして喜ばせる。その小父(おじ)さんが、
「いや、若いもの。」
 という顔色(がんしょく)で、竹の鞭を、ト笏(しゃく)に取って、尖(さき)を握って捻向(ねじむ)きながら、帽子の下に暗い額で、髯の白いに、金が顕(あらわ)な北叟笑(ほくそえみ)。
 附穂(つぎほ)なさに振返った技師は、これを知ってなお照れた。
「今に御覧(ごろう)じろ。」
 と遠灯(とおび)の目(ま)ばたきをしながら、揃えた膝をむくむくと揺(ゆす)って、
「何て、寒いでしょう。おお寒い。」
 と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ寄凭(よりかか)る、……体の重量(おもみ)が、他愛ない、暖簾(のれん)の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、半纏(はんてん)の上から触っても知れた。
 げっそり懐手(ふところで)をしてちょいとも出さない、すらりと下った左の、その袖は、何も支えぬ、婦(おんな)は片手が無いのであった。

       九

 もうこの時分には、そちこちで、徐々(そろそろ)店を片附けはじめる。まだ九時ちっと廻ったばかりだけれども、師走の宵は、夏の頃の十二時過ぎより帰途(かえり)を急ぐ。
 で、処々、張出しが除(と)れる、傘(からかさ)が窄(すぼ)まる、その上に冷(つめた)い星が光を放って、ふっふっと洋燈(ランプ)が消える。突張(つっぱ)りの白木(しらき)の柱が、すくすくと夜風に細って、積んだ棚が、がたがた崩れる。その中へ、炬燵(こたつ)が化けて歩行(ある)き出した体(てい)に、むっくりと、大きな風呂敷包を背負(しょ)った形が糶上(せりあが)る。消え残った灯(あかり)の前に、霜に焼けた脚が赤く見える。
 中には荷車が迎(むかい)に来る、自転車を引出すのもある。年寄には孫、女房にはその亭主が、どの店にも一人二人、人数が殖(ふ)えるのは、よりよりに家から片附けに来る手伝、……とそればかりでは無い。思い思いに気の合ったのが、帰際(かえりぎわ)の世間話、景気の沙汰(さた)が主なるもので、
「相変らず不可(いけ)ますまい、そう云っちゃ失礼ですが。」
「いえ、思ったより、昨夜(ゆうべ)よりはちっと増(まし)ですよ。」
「また私(わたくし)どもと来た日にゃ、お話になりません。」
「御多分には漏れませんな。」
「もう休もうかと思いますがね、それでも出つけますとね、一晩でも何だか皆さんの顔を見ないじゃ気寂(きさみ)しくって寝られません。……無駄と知りながら出て来ます、へい、油費(あぶらづい)えでさ。」
 と一処(ひとところ)に団(かた)まるから、どの店も敷物の色ばかりで、枯野に乾(ほ)した襁褓(むつき)の光景(ありさま)、七星の天暗くして、幹枝盤上(かんしはんじょう)に霜深し。
 まだ突立(つった)ったままで、誰も人の立たぬ店の寂(さみ)しい灯先(ひさき)に、長煙草(ながぎせる)を、と横に取って細いぼろ切れを引掛(ひっか)けて、のろのろと取ったり引いたり、脂通(やにどお)しの針線(はりがね)に黒く畝(うね)って搦(から)むのが、かかる折から、歯磨屋(はみがきや)の木蛇の運動より凄(すご)いのであった。
 時に、手遊屋(おもちゃや)の冷(ひやや)かに艶(えん)なのは、
「寒い。」と技師が寄凭(よりかか)って、片手の無いのに慄然(ぞっ)としたらしいその途端に、吹矢筒を密(そっ)と置いて、ただそれだけ使う、右の手を、すっと内懐(うちぶところ)へ入れると、繻子(しゅす)の帯がきりりと動いた。そのまま、茄子(なす)の挫(ひしゃ)げたような、褪(あ)せたが、紫色の小さな懐炉(かいろ)を取って、黙って衝(つ)と技師の胸に差出したのである。
 寒くば貸そう、というのであろう。……
 挙動(しぐさ)の唐突(だしぬけ)なその上に、またちらりと見た、緋鹿子(ひがのこ)の筒袖(つつッぽ)の細いへりが、無い方の腕の切口に、べとりと血が染(にじ)んだ時の状(さま)を目前(めのまえ)に浮べて、ぎょっとした。
 どうやら、片手無い、その切口が、茶袋の口を糸でしめたように想われるのである。
「それには及ばんですよ、ええ、何の、御新姐(ごしんぞ)。」と面啖(めんくら)って我知らず口走って、ニコチンの毒を説く時のような真面目(まじめ)な態度になって、衣兜(かくし)に手を突込(つっこ)んで、肩をもそもそと揺(ゆす)って、筒服(ずぼん)の膝を不状(ぶざま)に膨らましたなりで、のそりと立上ったが、忽(たちま)ちキリキリとした声を出した。
「嫁娶(よめどり)々々!」
 長提灯(ながぢょうちん)の新しい影で、すっすと、真新しい足袋を照らして、紺地へ朱で、日の出を染めた、印半纏(しるしばんてん)の揃衣(そろい)を着たのが二十四五人、前途(ゆくて)に松原があるように、背(せな)のその日の出を揃えて、線路際を静(しずか)に練る……
 結構そうなお爺さんの黒紋着(くろもんつき)、意地の悪そうな婆さんの黄色い襟も交(まじ)ったが、男女(なんにょ)合わせて十四五人、いずれも俥(くるま)で、星も晴々と母衣(ほろ)を刎(は)ねた、中に一台、母衣を懸けたのが当の夜(よ)の縁女であろう。
 黒小袖の肩を円く、但し引緊(ひきし)めるばかり両袖で胸を抱いた、真白(まっしろ)な襟を長く、のめるように俯向(うつむ)いて、今時は珍らしい、朱鷺色(ときいろ)の角隠(つのかくし)に花笄(はなこうがい)、櫛(くし)ばかりでも頭(つむり)は重そう。ちらりと紅(くれない)の透(とお)る、白襟を襲(かさ)ねた端に、一筋キラキラと時計の黄金鎖(きんぐさり)が輝いた。
 上が身を堅く花嫁の重いほど、乗せた車夫は始末のならぬ容体(ようだい)なり。妙な処へ楫(かじ)を極(き)めて、曳据(ひきす)えるのが、がくりとなって、ぐるぐると磨骨(みがきぼね)の波を打つ。

       十

 露店の目は、言合わせたように、きょときょとと夢に辿(たど)る、この桃の下路(したみち)を行(ゆ)くような行列に集まった。
 婦(おんな)もちょいと振向いて、(大道商人(あきんど)は、いずれも、電車を背後(うしろ)にしている)蓬莱(ほうらい)を額に飾った、その石のような姿を見たが、衝(つ)と向(むき)をかえて、そこへ出した懐炉(かいろ)に手を触って、上手に、片手でカチンと開けて、熟(じっ)と俯向(うつむ)いて、灰を吹きつつ、
「無駄だねえ。」
 と清(すずし)い声、冷(ひやや)かなものであった。
「弘法大師御夢想のお灸(きゅう)であすソ、利きますソ。」
 と寝惚(ねぼ)けたように云うと斉(ひと)しく、これも嫁入を恍惚(うっとり)視(なが)めて、あたかもその前に立合わせた、つい居廻りで湯帰りらしい、島田の乱れた、濡手拭(ぬれてぬぐい)を下げた娘(しんぞ)の裾(すそ)へ、やにわに一束の線香を押着(おッつ)けたのは、あるが中にも、幻のような坊様で。
 つくねんとして、一人、影法師のように、びょろりとした黒紬(くろつむぎ)の間伸びた被布(ひふ)を着て、白髪(しらが)の毛入道に、ぐたりとした真綿の帽子。扁平(ひらった)く、薄く、しかも大ぶりな耳へ垂らして、環珠数(わじゅず)を掛けた、鼻の長い、頤(おとがい)のこけた、小鼻と目が窪んで、飛出した形の八の字眉。大きな口の下唇を反らして、かッくりと抜衣紋(ぬきえもん)。長々と力なげに手を伸ばして、かじかんだ膝を抱えていたのが、フト思出した途端に、居合わせた娘の姿を、男とも女とも弁別(わさま)える隙(ひま)なく、馴(な)れてぐんなりと手の伸びるままに、細々と煙の立つ、その線香を押着(おッつ)けたものであろう。
 この坊様(ぼんさま)は、人さえ見ると、向脛(むこうずね)なり踵(かかと)なり、肩なり背なり、燻(くす)ぼった鼻紙を当てて、その上から線香を押当てながら、
「おだだ、おだだ、だだだぶだぶ、」と、歯の無い口でむぐむぐと唱えて、
「それ、利くであしょ、ここで点(す)えるは施行(せぎょう)じゃいの。艾(もぐさ)入(い)らずであす。熱うもあすまいがの。それ利くであしょ。利いたりゃ、利いたら、しょなしょなと消しておいて、また使うであすソ。それ利くであしょ。」と嘗(な)め廻す体(てい)に、足許(あしもと)なんぞじろじろと見て商う。高野山秘法の名灸。
 やにわに長い手を伸ばされて、はっと後しざりをする、娘の駒下駄(こまげた)、靴やら冷飯(ひやめし)やら、つい目が疎いかして見分けも無い、退(の)く端の褄(つま)を、ぐいと引いて、
「御夢想のお灸であすソ、施行じゃいの。」
 と鯰(なまず)が這うように黒被布の背を乗出して、じりじりと灸を押着(おッつ)けたもの、堪(たま)ろうか。
「あれえ、」
 と叫んで、ついと退(の)く、ト脛(はぎ)が白く、横町の暗(やみ)に消えた。
 坊様(ぼんさま)、眉も綿頭巾(わたずきん)も、一緒くたに天を仰いで、長い顔で、きょとんとした。
「や、いささかお灸でしたね、きゃッ、きゃッ、」
 と笑うて、技師はこれを機会(きっかけ)に、殷鑑(いんかん)遠からず、と少しく窘(すく)んで、浮足の靴ポカポカ、ばらばらと乱れた露店の暗い方を。……
 さてここに、膃肭臍(おっとせい)を鬻(ひさ)ぐ一漢子(いっかんし)!
 板のごとくに硬(こわ)い、黒の筒袖の長外套(なががいとう)を、痩(や)せた身体(からだ)に、爪尖(つまさき)まで引掛(ひっか)けて、耳のあたりに襟を立てた。帽子は被(かぶ)らず、頭髪(かみ)を蓬々(ぼうぼう)と抓(つか)み棄(す)てたが、目鼻立の凜々(りり)しい、頬は窶(やつ)れたが、屈強な壮佼(わかもの)。
 渋色の逞(たくま)しき手に、赤錆(あかさび)ついた大出刃を不器用に引握(ひんにぎ)って、裸体(はだか)の婦(おんな)の胴中(どうなか)を切放して燻(いぶ)したような、赤肉と黒の皮と、ずたずたに、血筋を縢(かが)った中に、骨の薄く見える、やがて一抱(ひとかかえ)もあろう……頭と尾ごと、丸漬(まるづけ)にした膃肭臍(おっとせい)を三頭。縦に、横に、仰向けに、胴油紙(とうゆがみ)の上に乗せた。
 正面(まむき)の肋(あばら)のあたりを、庖丁(ほうちょう)の背でびたびたと叩いて、
「世間ではですわ、めっとせいはあるが、膃肭臍は無い、と云うたりするものがあるですが、めっとせいにも膃肭臍にも、ほんとのもんは少いですが。」
 無骨な口で、
「船に乗っとるもんでもが……現在、膃肭臍を漁(と)った処で、それが膃肭臍、めっとせいという区別は着かんもんで。
 世間で云うめっとせいというから雌でしょう、勿論、雌もあれば、雄もあるですが。
 どれが雌だか、雄だか、黒人(くろうと)にも分らんで、ただこの前歯を、」
 と云って推重(おしかさ)なった中から、ぐいと、犬の顔のような真黒(まっくろ)なのを擡(もた)げると、陰干の臭(におい)が芬(ぷん)として、内へ反った、しゃくんだような、霜柱のごとき長い歯を、あぐりと剥(む)く。
「この前歯の処ウを、上下(うえした)噛合(かみあ)わせて、一寸の隙(すき)も無いのウを、雄や、(と云うのが北国(ほっこく)辺のものらしい)と云うですが、一分一寸ですから、開(あ)いていても、塞(ふさ)いでいても分らんのうです。
 私は弁舌は拙(まず)いですけれども、膃肭臍は確(たしか)です。膃肭臍というものは、やたらむたらにあるものではない。東京府下にも何十人売るものがあるかは知らんですがね、やたらむたらあるもんか。」
 と、何かさも不平に堪えず、向腹(むかっぱら)を立てたように言いながら、大出刃の尖(さき)で、繊維を掬(すく)って、一角(ウニコール)のごとく、薄くねっとりと肉を剥(は)がすのが、――遠洋漁業会社と記した、まだ油の新しい、黄色い長提灯(ながぢょうちん)の影にひくひくと動く。
 その紫がかった黒いのを、若々しい口を尖(とが)らし、むしゃむしゃと噛んで、
「二頭がのは売ってしもうたですが、まだ一頭、脳味噌もあるですが。脳味噌は脳病に利くンのですが、膃肭臍の効能は、誰でも知っている事で言うがものはない。
 疑わずにお買い下さい、まだ確(たしか)な証拠というたら、後脚の爪ですが、」
 ト大様に視(なが)めて、出刃を逆手(さかて)に、面倒臭い、一度に間に合わしょう、と狙って、ずるりと後脚を擡(もた)げる、藻掻(もが)いた形の、水掻(みずかき)の中に、空(くう)を掴(つか)んだ爪がある。
 霜風は蝋燭(ろうそく)をはたはたと揺(ゆす)る、遠洋と書いたその目標(めじるし)から、濛々(もうもう)と洋(わだつみ)の気が虚空(こくう)に被(かぶ)さる。
 里心が着くかして、寂(さみ)しく二人ばかり立った客が、あとしざりになって……やがて、はらはらと急いで散った。
 出刃を落した時、赫(かッ)と顔の色に赤味を帯びて、真鍮(しんちゅう)の鉈豆煙草(なたまめぎせる)の、真中(まんなか)をむずと握って、糸切歯で噛むがごとく、引啣(ひっくわ)えて、
「うむ、」
 と、なぜか呻(うな)る。
 処へ、ふわふわと橙色(だいだいいろ)が露(あら)われた。脂留(やにどめ)の例の技師で。
「どうですか、膃肭臍屋さん。」
「いや、」
 とただ言ったばかり、不愛想。
 技師は親しげに擦寄(よ)って、
「昨夜は、飛んだ事でしたな……」
「お話になりません。」
「一体何の事ですか、」
「何(なに)やいうて、彼(か)やいうて、まるでお話しにならんのですが、誰が何を見違えたやら、突然(いきなり)しらべに来て、膃肭臍の中を捜すんですぞ、真白(まっしろ)な女の片腕があると言うて。」……
明治四十四(一九一一)年二月



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