悪獣篇
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著者名:泉鏡花 

 身悶(みもだ)えして引切(ひっき)ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。
 その黒髪の船に垂れたのが、逆(さかさ)に上へ、ひょろひょろと頬(ほお)を掠(かす)めると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――身体(からだ)が宙に浮くのであった。
「ああ!」
 船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺(おぼ)れていたのが自分であろうか。
 また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な室(へや)も穴めいて、膚(はだえ)の色も水の底、おされて呼吸(いき)の苦しげなるは、早や墳墓(おくつき)の中にこそ。呵呀(あなや)、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。
 枕を前に、飜った掻巻(かいまき)を背(せな)の力に、堅いもののごとく腕(かいな)を解いて、密(そ)とその鬢(びん)を掻上(かきあ)げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄(つま)に乱れた縮緬(ちりめん)の、浅葱(あさぎ)も色の凄(すご)きまで。

       十六

 疲れてそのまま、掻巻(かいまき)に頬(ほお)をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸(どうき)に髪が揺れて、頭(かしら)を上へ引かれるのである。
「ああ、」
 とばかり声も出ず、吃驚(びっくり)したようにまた起直った。
 扱帯(しごき)は一層(ひとしお)しゃらどけして、褄(つま)もいとどしく崩れるのを、懶(ものう)げに持て扱いつつ、忙(せわ)しく肩で呼吸(いき)をしたが、
「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」
 と重たい髷(まげ)をうしろへ振って、そのまま仰(のけ)ざまに倒れそうな、身を揉(も)んで膝(ひざ)で支えて、ハッとまた呼吸(いき)を吐(つ)くと、トントンと岩に当って、時々崖(がけ)を洗う浪。松風が寂(しん)として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
「松か、」
 夫人は残燈(ありあけ)に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。
 けれども、直ぐに寐入(ねい)ったものの呼覚(よびさま)される時刻でない。
 第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現(うつつ)である。
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許(こころもと)ない。
 まあ、口も利けなくなったのか、と情(なさけ)なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺(ゆす)って、
「松や、」と、急(せ)き調子でもう一度。
(松や、)と細いのが、咽喉(のど)を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方(こなた)へ聞えて、遥(はる)か間(ま)を隔てた襖(ふすま)の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息(ためいき)になってしまう。蚊帳が煽(あお)るか、衾(ふすま)が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊(し)めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄(つま)もはらはらと靡(なび)く。
 引掴(ひッつか)んでまで、撫(な)でつけた、鬢(びん)の毛が、煩(うるさ)くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈(はげ)しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、汀(みぎわ)の嫗(おうな)。
 今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆(あし)が生えて、台所の煙出(けむだ)しが、水面へあらわれると、芥溜(ごみため)のごみが淀(よど)んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒(さかさ)に、髻(たぶさ)から搦(から)まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる響(ひびき)。
 恍惚(うっとり)と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
 船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……
 今、舷(ふなべり)へ髪の毛が。
「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を支(つ)くと、胸を反らして、抜け出る状(さま)に、裳(もすそ)を外。
 蚊帳が顔へ搦んだのが、芬(ぷん)と鼻をついた水の香(におい)。引き息で、がぶりと一口、溺(おぼ)るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
 目もようよう判然(はっきり)と、蚊帳の緑は水ながら、紅(くれない)の絹のへり、かくて珊瑚(さんご)の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱(あさぎ)も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然(ありあり)と見たのである。

       十七

 しばらくして、浦子は玉(ぎょく)ぼやの洋燈(ランプ)の心を挑(あ)げて、明(あかる)くなった燈(ともし)に、宝石輝く指の尖(さき)を、ちょっと髯(びん)に触ったが、あらためてまた掻上(かきあ)げる。その手で襟を繕って、扱帯(しごき)の下で褄(つま)を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体(からだ)の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。
 且つその身体を棄(す)てもせず、老実(まめ)やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床(ゆか)しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。
 一つくぐって鳩尾(みずおち)から膝(ひざ)のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、燈(ともし)を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用(こよう)に、と思い切った。
 時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途(めいど)の路(みち)か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が駈(か)け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳(かや)の内を窺(うかが)って見ることで。
 蹴出(けだ)しも雪の爪尖(つまさき)へ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣(ねまき)の褄(つま)を圧(おさ)えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗(のぞ)こうとして、爪立(つまだ)って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶(もだ)えた、閨(ねや)の内の、情(なさけ)ない状(さま)を見るのも忌(いま)わしし、また、何となく掻巻(かいまき)が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を覗(うかが)うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退(すさ)って、引(ひっ)くるまる裳(もすそ)危(あやう)く、はらりと捌(さば)いて廊下へ出た。
 次の室(へや)は真暗(まっくら)で、そこにはもとより誰も居ない。
 閨(ねや)と並んで、庭を前に三間続きの、その一室(ひとま)を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
 そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈(はず)。
 その方(ほう)にも厠(かわや)はあるが、運ぶのに、ちと遠い。
 件(くだん)の次の明室(あきま)を越すと、取着(とッつき)が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働(なかばたらき)、お三と、もう一人女中が三人。
 婦人(おんな)ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
 それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那(だんな)が留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯(あかり)がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響(ひびき)がするのを、保養の場所と大目に見ても、好(い)いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母(たのも)しい。さらばと、やがて廊下づたい、踵(かかと)の音して、するすると、裳(もすそ)の気勢(けはい)の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室(あきま)の前を急いで越すと、次なる小室(こべや)の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
 中(うち)から風も吹くようなり、傍正面(わきしょうめん)の姿見に、勿(な)、映りそ夢の姿とて、首垂(うなだ)るるまで顔を背(そむ)けた。
 新しい檜(ひのき)の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直(まっすぐ)に向き直って、衝(つ)と燈(ともしび)を差出しながら、突(つき)あたりへ辿々(たどたど)しゅう。

       十八

 ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
 壁は白いが、真暗(まっくら)な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留(や)んだを、気の毒らしく思うまで、今夜(こよい)はそれが嬉しかった。
 浦子の姿は、無事に厠(かわや)を背後(うしろ)にして、さし置いたその洋燈(ランプ)の前、廊下のはずれに、媚(なまめ)かしく露(あら)われた。
 いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、廂(ひさし)をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝(あした)の色は何々ぞ。紺に、瑠璃(るり)に、紅絞(べにしぼ)り、白に、水紅色(ときいろ)、水浅葱(みずあさぎ)、莟(つぼみ)の数は分らねども、朝顔形(あさがおなり)の手水鉢(ちょうずばち)を、朦朧(もうろう)と映したのである。
 夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢(こずえ)に寄る浪の、沖の景色にも目は遣(や)らず、瞳を恍惚(うっとり)見据えるまで、一心に車夫部屋の灯(ともし)を、遥(はるか)に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓(ひしゃく)に障(さわ)らぬ。
 気にもせず、なお上(うわ)の空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫(な)でて、手をのばして、向うまで辷(すべ)らしたが、指にかかる木(こ)の葉もなかった。
 目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
 直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対(むこう)まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。
 夫人は手のものを落したように、俯向(うつむ)いて熟(じっ)と見る。
 手水鉢と垣の間の、月の隈(くま)暗き中に、ほのぼのと白く蠢(うごめ)くものあり。
 その時、切髪(きりかみ)の白髪(しらが)になって、犬のごとく踞(つくば)ったが、柄杓の柄に、痩(や)せがれた手をしかとかけていた。
 夕顔の実に朱の筋の入った状(さま)の、夢の俤(おもかげ)をそのままに、ぼやりと仰向(あおむ)け、
「水を召されますかいの。」
 というと、艶(つや)やかな歯でニヤリと笑む。
 息とともに身を退(ひ)いて、蹌踉々々(よろよろ)と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって面(おもて)を背けた。斜(はす)ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒(まっくろ)な影法師のちぎれちぎれな襤褸(ぼろ)を被(き)て、茶色の毛のすくすくと蔽(おお)われかかる額のあたりに、皺手(しわで)を合わせて、真俯向(まうつむ)けに此方(こなた)を拝んだ這身(はいみ)の婆(ばば)は、坂下の藪(やぶ)の姉様(あねさま)であった。
 もう筋も抜け、骨崩れて、裳(もすそ)はこぼれて手水鉢、砂地に足を蹈(ふ)み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
 胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の眼(まなこ)をむいた。
 のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤(まっか)な口を横ざまに開けて、
「ふァはははは、」
「う、うふふ、うふふ、」と傾(かた)がって、戸を揺(ゆす)って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗(おうな)は、
「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。
 廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった鬢(びん)の毛を弄(もてあそ)びながら、
「洲(す)の股(また)の御前(ごぜん)も、山の峡(かい)の婆さまも早かったな。」というと、
「坂下の姉(あね)さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。
 銀の目をじろじろと、
「さあ、手を貸され、連れて行(い)にましょ。」

       十九

「これの、吐(つ)く呼吸(いき)も、引く呼吸も、もうないかいの、」と洲(す)の股(また)の御前(ごぜん)がいえば、
「水くらわしや、」
 と峡(かい)の婆(ばば)が邪慳(じゃけん)である。
 ここで坂下の姉様(あねさま)は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫(な)でて、
「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」
「手を掛けて肩を上げされ、私(わし)が腰を抱こうわいの。」
 と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
 洲の股の御前、傍(かたわら)より、
「お婆さん、ちょっとその□(えい)の針で口の端(はた)縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」
「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で圧(おさ)えた。
 峡の婆、僅(わずか)に手を解き、頤(おとがい)[#ルビの「おとがい」は底本では「おとがひ」]で襟を探って、無性(ぶしょう)らしく撮(つま)み出した、指の爪(つめ)の長く生伸(はえの)びたかと見えるのを、一つぶるぶると掉(ふ)って近づき、お伽話(とぎばなし)の絵に描いた外科医者という体(てい)で、震(おのの)く唇に幽(かすか)に見える、夫人の白歯(しらは)の上を縫うよ。
 浦子の姿は烈(はげ)しく揺れたが、声は始めから得(え)立てなかった。目は□(みひら)いていたのである
「もう可(よ)いわいの、」
 と峡の婆、傍(かたわら)に身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の傍(わき)を抱いて起した。
 浦子の身は、柔かに半ば起きて凭(もた)れかかると、そのまま庭へずり下りて、
「ござれ、洲の股の御前、」
 といって、坂下の姉様、夫人の片手を。
 洲の股の御前も、おなじく傍(かたわら)から夫人の片手を。
 ぐい、と取って、引立(ひった)てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱帯(しごき)の端が縁を離れた。髪の根は髷(まげ)ながら、笄(こうがい)ながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足(いつあし)ばかり、釣られ工合に、手水鉢(ちょうずばち)を、裏の垣根へ誘われ行(ゆ)く。
 背後(うしろ)に残って、砂地に独り峡の婆、件(くだん)の手を腰に極(き)めて、傾(かた)がりながら、片手を前へ、斜めに一煽(ひとあお)り、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて閉(しま)った。
 二人の婆に挟(さしはさ)まれ、一人(いちにん)に導かれて、薄墨の絵のように、潜門(くぐりもん)を連れ出さるる時、夫人の姿は後(うしろ)ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。
 時しも一面の薄霞(うすがすみ)に、処々艶(つや)あるよう、月の影に、雨戸は寂(しん)と連(つらな)って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮歩(れんぽ)のあとのここかしこ、夫人をしとうて散々(ちりぢり)なり。

        *     *     *     *     *

 あと白浪(しらなみ)の寄せては返す、渚(なぎさ)長く、身はただ、黄なる雲を蹈(ふ)むかと、裳(もすそ)も空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟々(ごうごう)と聞ゆるあたり。
「ここじゃ、ここじゃ。」
 どしりと夫人の横倒(よこたおし)。
「来たぞや、来たぞや、」
「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」
 何処(いずこ)の果(はて)か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。
 ぐるりと三人、三(み)つ鼎(がなえ)に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅糸(べにいと)の目の六つを、凶(あし)き星のごとくキラキラと砂(いさご)の上に輝かしたが、
「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)祭れ、ふァふァ、」と嘲笑(あざわら)って、山の峡(かい)がハタと手拍子。
「山の峡は繁昌(はんじょう)じゃ、あはは、」と洲(す)の股(また)の御前(ごぜん)、足を挙げる。
「洲の股もめでたいな、うふふ、」
 と北叟笑(ほくそえ)みつつ、坂下の嫗(おうな)は腰を捻(ひね)った。
 諸声(もろごえ)に、
「ふァふァふァ、」
「うふふ、」
「あはははは。」
「坂の下祝いましょ。」
 今度は洲の股の御前が手を拍(う)つ。
「地蔵菩薩祭れ。」
 と山の峡が一足出る、そのあとへ臀(いしき)を捻って、
「山の峡は繁昌じゃ。」
「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。
 拍子を取って、手を拍って、
「坂の下祝いましょ。」
 据え腰で、ぐいと伸び、
「地蔵菩薩祭れ。」
「山の峡は繁昌じゃ、」
「洲の股もめでたいな、」
「坂の下祝いましょ、」
「地蔵菩薩祭れ。」
 さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調(しらべ)、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ靄(もや)となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。

       二十

 ここに、一つ目と二つ目の浜境(はまざかい)、浪間の巌(いわ)を裾(すそ)に浸して、路傍(みちばた)に衝(つ)と高い、一座螺(ら)のごとき丘がある。
 その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を吐(つ)いて彳(たたず)んだのは、狭島(さじま)に宿れる鳥山廉平。
 例の縞(しま)の襯衣(しゃつ)に、その綛(かすり)の単衣(ひとえ)を着て、紺の小倉(こくら)の帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端折(ばしょ)りの空脛(からずね)に、草履ばきで帽は冠(かぶ)らず。
 昨日(きのう)は折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性(かいしょう)が無さそう、高い処で投首(なげくび)して、太(いた)く草臥(くたび)れた状(さま)が見えた。恐らく驚破(すわ)といって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。
 それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり形(かたち)、他(ほか)の人々は思いやられる。
 銑太郎、賢之助、女中の松、仲働(なかばたらき)、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭博仲間(ぶちなかま)の漁師も四五人、別荘を引(ひっ)ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに駈(か)け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと靄(もや)に点(とも)れて、松明(たいまつ)の火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば攀(よ)じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。
 もとより当(あて)のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方(かなた)此方(こなた)、同じ処を四五度(たび)も、およそ二三里の路はもう歩行(ある)いた。
 不祥な言を放つものは、曰(いわ)く厠(かわや)から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と即(すなわ)ち船を漕(こ)ぎ出(いだ)したのも有るほどで。
 死んだは、活(い)きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手(くもで)に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬一疋(いっぴき)、匂(におい)の高い総菜にも、見る目、□(か)ぐ鼻の狭い土地がら、俤(おもかげ)を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然(ひょうぜん)として出かけられたかも料(はか)られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方(ゆくえ)が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自(おのおの)。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。
 廉平とても、夫人が魚(うお)の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的(めあて)がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫(つか)むのであった。
 目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉(も)まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢(こずえ)はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍(あい)を湛(たた)えて、或(あるい)は十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂(まさご)の床に絶えては連なる、平らな岩の、天地(あめつち)の奇(く)しき手に、鉄槌(かなづち)のあとの見ゆるあり、削りかけの鑪(やすり)の目の立ったるあり。鑿(のみ)の歯形を印したる、鋸(のこぎり)の屑(くず)かと欠々(かけかけ)したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松(みる)、ところ、あわび、蠣(かき)などいうものの、夜半(よわ)に吐いた気を収めず、まだほのぼのと揺(ゆら)ぐのが、渚(なぎさ)を籠(こ)めて蒸すのである。
 漁家二三。――深々と苫屋(とまや)を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚(おおびく)が五つ六つ。

       二十一

 さてこの丘の根に引寄せて、一艘(そう)苫(とま)を掛けた船があった。海士(あま)も簑(みの)きる時雨かな、潮の※(しぶき)[#「さんずい+散」、240-3]は浴びながら、夜露や厭(いと)う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男(めお)の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、舳(みよし)の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
 傍(かたわら)なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い繞(めぐ)らした蘆垣(あしがき)も、船も、岩も、ただなだらかな面平(おもたいら)に、空に躍った刎釣瓶(はねつるべ)も、靄(もや)を放れぬ黒い線(いとすじ)。些(さ)と凹凸なく瞰下(みおろ)さるる、かかる一枚の絵の中に、裳(もすそ)の端さえ、片袖(かたそで)さえ、美しき夫人の姿を、何処(いずこ)に隠すべくも見えなかった。
 廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、踏(ふみ)はずしそうに崖(がけ)の尖(さき)、五尺の地蔵の像で立ったけれども。
 頭(こうべ)を垂れて嘆息した。
 さればこの時の風采(ふうさい)は、悪魔の手に捕えられた、一体の善女(ぜんにょ)を救うべく、ここに天降(あまくだ)った菩薩(ぼさつ)に似ず、仙家の僕(しもべ)の誤って廬(ろ)を破って、下界に追い下(おろ)された哀れな趣。
 廉平は腕を拱(こまぬ)いて悄然(しょうぜん)としたのである。時に海の上にひらめくものあり。
 翼の色の、鴎(かもめ)や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
 帆風に散るか、露(もや)消えて、と見れば、海に露(あらわ)れた、一面大(おおい)なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
 ぴたりとついて留まったが、飜然(ひらり)と此方(こなた)へ向(むき)をかえると、渚(なぎさ)に据(すわ)った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を湛(たた)えた状(さま)に、路一条(みちひとすじ)、東雲(しののめ)のあけて行(ゆ)く、蒼空(あおぞら)の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、巌(いわ)の面(おも)に靡(なび)く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに軽(かろ)くまた渚に止(とま)った。
 帆の中より、水際立って、美しく水浅葱(みずあさぎ)に朝露置いた大輪(おおりん)の花一輪、白砂の清き浜に、台(うてな)や開くと、裳(もすそ)を捌(さば)いて衝(つ)と下り立った、洋装したる一人の婦人。
 夜干(よぼし)に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を賞(め)ずるよしして、四辺(あたり)を見ながら、その苫船(とまぶね)に立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は啼(な)かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣(びゃくえ)の婦人、水紅色(ときいろ)なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。
 二人は右の舷(ふなばた)に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、互(たがい)に苫を取って分けて、船の中を差覗(さしのぞ)いた。淡きいろいろの衣(きぬ)の裳は、長く渚へ引いたのである。
 廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠等(かれら)三人の西洋婦人、惟(おも)うに誂(あつら)えの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短艇(ボオト)ででもあるのであろう。
 と見ると二人の脇の下を、飜然(ひらり)と飛び出した猫がある。
 トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて舳(へさき)から衝(つ)と抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝(ひとうね)り畝らしたまで鮮麗(あざやか)に認められた。
 前のは白い毛に茶の斑(まだら)で、中のは、その全身漆のごときが、長く掉(ふ)った尾の先は、舳(みよし)を掠(かす)めて失(う)せたのである。

       二十二

 その時、前後して、苫(とま)からいずれも面(おもて)を離し、はらはらと船を退(の)いて、ひたと顔を合わせたが、方向(むき)をかえて、三人とも四辺(あたり)を□(みまわ)して彳(たたず)む状(さま)、おぼろげながら判然(はっきり)と廉平の目に瞰下(みおろ)された。
 水浅葱(みずあさぎ)のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。
 手を挙げて、二三度続(つづけ)ざまに麾(さしまね)くと、あとの二人もひらひらと、高く手巾(ハンケチ)を掉(ふ)るのが見えた。
 要こそあれ。
 廉平は雲を抱(いだ)くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、慌(あわただ)しく領(うなず)き答えて、直ちに丘の上に踵(くびす)を回(めぐ)らし、栄螺(さざえ)の形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈(か)けて下り、裾(すそ)を伝うて、衝(つ)と高く、ト一飛(ひととび)低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に曝(さら)された岩の上。
 綱もあり、立樹もあり、大きな畚(びく)も、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫葺(ふ)いたり。あの位高かった、丘は近く頭(かしら)に望んで、崖の青芒(あおすすき)も手に届くに、婦人(おんな)たちの姿はなかった。白帆は早や渚(なぎさ)を彼方(かなた)に、上からは平(たいら)であったが、胸より高く踞(うずく)まる、海の中なる巌(いわ)かげを、明石の浦の朝霧に島がくれ行(ゆ)く風情にして。
 かえって別なる船一艘(そう)、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見出(みいだ)されたが、一つ目の浜の方(かた)へ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真黒(まっくろ)な男の児(こ)。一人はヤッシと艪柄(ろづか)を取って、丸裸の小腰を据え、圧(お)すほどに突伏(つッぷ)すよう、引くほどに仰反(のけぞ)るよう、ただそこばかり海が動いて、舳(へさき)を揺り上げ、揺り下すを面白そうに。穉(おさな)い方は、両手に舷(ふなべり)に掴(つか)まりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一(おなじ)処にもう一艘、渚に纜(もや)った親船らしい、艪(ろ)を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。
 いや、道草する場合でない。
 廉平は、言葉も通じず、国も違って便(たより)がないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船(とまぶね)の中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛(けずね)[#ルビの「けずね」は底本では「げずね」]長く藁草履(わらぞうり)で立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、確(たしか)に、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……
 ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤髯(あごひげ)一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪立(つまだ)ったと思うと、両の肩で、吃驚(おどろき)の腹を揉(も)んで、けたたましく飛び退(の)いて、下なる網に躓(つまず)いて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の顰(ひそ)んだ下に、眼(まなこ)を円(つぶら)にして四辺(あたり)を眺めた。
 これなる丘と相対して、対(むこ)うなる、海の面(おも)にむらむらと蔓(はびこ)った、鼠色の濃き雲は、彼処(かしこ)一座の山を包んで、まだ霽(は)れやらぬ朝靄(あさもや)にて、もの凄(すさま)じく空に冲(ひひ)って、焔(ほのお)の連(つらな)って燃(もゆ)るがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤地(あかつち)へ、仄(ほのか)に反映するのである。
 かくて一つ目の浜は彎入(わんにゅう)する、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を漕(こ)ぎ繞(めぐ)る長幼二人の裸児(はだかご)あるのみ。

       二十三

 得も言われぬ顔して、しばらく棒のごとく立っていた、廉平は何思いけん、足を此方(こなた)に返して、ずッと身を大きく巌(いわ)の上へ。
 それを下りて、渚(なざさ)づたい、船を弄(もてあそ)ぶ小児(こども)の前へ。
 近づいて見れば、渠等(かれら)が漕(こ)ぎ廻る親船は、その舳(じく)を波打際。朝凪(あさなぎ)の海、穏(おだや)かに、真砂(まさご)を拾うばかりなれば、纜(もやい)も結ばず漾(ただよ)わせたのに、呑気(のんき)にごろりと大の字形(なり)、楫(かじ)を枕の邯鄲子(かんたんし)、太い眉の秀でたのと、鼻筋の通ったのが、真向(まの)けざまの寝顔である。
 傍(かたわら)の船も、穉(おさな)いものも、惟(おも)うにこの親の子なのであろう。
 廉平は、ものも言わずに駈(か)け歩行(ある)いた声をまず調えようと、打咳(うちしわぶ)いたが、えへん! と大きく、調子はずれに響いたので、襯衣(しゃつ)の袖口の弛(ゆる)んだ手で、その口許を蔽(おお)いながら、
「おい、おい。」
 寝た人には内証らしく、低調にして小児(こども)を呼んだ。
「おい、その兄さん、そっちの児(こ)。むむ、そうだ、お前達だ。上手に漕ぐな、甘(うま)いものだ、感心なもんじゃな。」
 声を掛けられると、跳上(はねあが)って、船を揺(ゆす)ること木(こ)の葉のごとし。
「あぶない、これこれ、話がある、まあ、ちょっと静まれ。
 おお、怜悧(りこう)々々、よく言うことを肯(き)くな。
 何(なん)じゃ、外じゃないがな、どうだ余り感心したについて、もうちッと上手な処が見せてもらいたいな。
 どうじゃ、ずッと漕げるか。そら、あの、そら巌のもっとさきへ、海の真中(まんなか)まで漕いで行(ゆ)けるか、どうじゃろうな。」
 寄居虫(やどかり)で釣る小鰒(こふぐ)ほどには、こんな伯父さんに馴染(なじみ)のない、人馴れぬ里の児は、目を光らすのみ、返事はしないが、年紀上(としうえ)なのが、艪(ろ)の手を止めつつ、けろりで、合点の目色(めつき)をする。
「漕げる? むむ、漕げる! 豪(えら)いな、漕いで見せな/\。伯父さんが、また褒美をやるわ。
 いや、親仁(おやじ)、何よ、お前の父(とっ)さんか、父爺(とっさん)には黙ってよ、父爺に肯(き)くと、危いとか悪戯(いたずら)をするなとか、何とか言って叱られら。そら、な、可(い)いか、黙って黙って。」
 というと、また合点(がってん)々々。よい、と圧(お)した小腕ながら艪を圧す精巧な昆倫奴(くろんぼ)の器械のよう、シッと一声飛ぶに似たり。疾(はや)い事、但(ただ)し揺れる事、中に乗った幼い方は、アハハアハハ、と笑って跳ねる。
「豪いぞ、豪いぞ。」
 というのも憚(はばか)り、たださしまねいて褒めそやした。小船は見る見る廉平の高くあげた手の指を離れて、岩がくれにやがてただ雲をこぼれた点となンぬ。
 親船は他愛がなかった。
 廉平は急ぎ足に取って返して、また丘の根の巌を越して、苫船(とまぶね)に立寄って、此方(こなた)の船舷(ふなばた)を横に伝うて、二三度、同じ処を行ったり、来たり。
 中ごろで、踞(しゃが)んで畚(びく)の陰にかくれたと思うと、また突立(つった)って、端の方から苫を撫(な)でたり、上からそっと叩きなどしたが、更にあちこちを□(みまわ)して、ぐるりと舳(へさき)の方へ廻ったと思うと、向うの舷(ふなばた)の陰になった。
 苫がばらばらと煽(あお)ったが、「ああ」と息の下に叫ぶ声。藁(わら)を分けた艶(えん)なる片袖、浅葱(あさぎ)の褄(つま)が船からこぼれて、その浴衣の染(そめ)、その扱帯(しごき)、その黒髪も、その手足も、ちぎれちぎれになったかと、砂に倒れた婦人(おんな)の姿。

       二十四

「気を静めて、夫人(おくさん)、しっかりしなければ不可(いけ)ません。落着いて、可(い)いですか。心を確(たしか)にお持ちなさいよ。
 判りましたか、私です。
 何も恥かしい事はありません、ちっとも極(きま)りの悪いことはありませんです。しっかりなさい。
 御覧なさい、誰も居ないです、ただ私一人です。鳥山たった一人、他(ほか)には誰も居(お)らんですから。」
 海の方を背(そびら)にして安からぬ状(さま)に附添った、廉平の足許に、見得もなく腰を落し、裳(もすそ)を投げて崩折(くずお)れつつ、両袖に面(おもて)を蔽(おお)うて、ひたと打泣くのは夫人であった。
「ほんとうに夫人(おくさん)、気を落着けて下さらんでは不可(いけ)ません。突然(いきなり)海へ飛込もうとなすったりなんぞして、串戯(じょうだん)ではない。ええ、夫人(おくさん)、心が確(たしか)になったですか。」
 声にばかり力を籠(こ)めて、どうしようにも先は婦人(おんな)、ひとえに目を見据えて言うのみであった。
 風そよそよと呼吸(いき)するよう、すすりなきの袂(たもと)が揺れた。浦子は涙の声の下、
「先生、」と幽(かすか)にいう。
「はあ、はあ、」
 と、纔(わず)かに便(たより)を得たらしく、我を忘れて擦り寄った。
「私(わ)、私は、もう死んでしまいたいのでございます。」
 わッとまた忍び音(ね)に、身悶(みもだ)えして突伏すのである。
「なぜですか、夫人(おくさん)、まだ、どうかしておいでなさる、ちゃんとなさらなくッては不可(いか)んですよ。」
「でも、貴下(あなた)、私は、もう……」
「はあ、どうなすった、どんなお心持なんですか。」
「先生、」
「はあ、どうですな。」
「私が、あの、海へ入って死のうといたしましたのより、貴下(あなた)は、もっとお驚きなさいました事がございましょう。」
「……………………」
 何と言おうと、黙って唾(つ)を呑(の)む。
「私が、私が、こんな処に船の中に、寝て、寝て、」
 と泣いじゃくりして、
「寝かされておりましたのに、なお吃驚(びっくり)なさいましてしょうねえ、貴下。」
「……ですが、それは、しかし……」とばかり、廉平は言うべき術(すべ)を知らなかった
「先生、」
 これぎり、声の出ない人になろうも知れず、と手に汗を握ったのが、我を呼ばれたので、力を得て、耳を傾け、顔を寄せて、
「は、」
「ここは、どこでございます。」
「ここですか、ここは、一つ目の浜を出端(ではず)れた、崖下の突端(とっぱずれ)の処ですが、」
「もう、夜があけましたのでございますか。」
「明けたですよ。明方です、もう日が当るばかりです。」
 聞くや否や、
「ええ!」とまた身を震わした。浦子はそれなり、腰を上げて立とうとして、ままならぬ身をあせって、
「恥かしい、私、恥かしいんですよ。先生、どうしましょう、人が見ます。人が来ると不可(いけ)ません、人に見られるのは厭(いや)ですから、どうぞ死なして下さいまし、死なして下さいましよ。」
「と、ともかく。ですからな、夫人(おくさん)、人が来ない内に、帰りましょう。まだ大して人通(ひとどおり)もないですから。疾(はや)く、さあ、疾く帰ろうではありませんか。お内へ行って、まず、お心をお鎮めなさい、そうなさい。」
 浦子は烈(はげ)しく頭(かぶり)を掉(ふ)った。

       二十五

 為(せ)ん術(すべ)を知らず黙っても、まだ頭(かぶり)をふるのであるから、廉平は茫然(ぼうぜん)として、ただ拳(こぶし)を握って、
「どうなさる。こうしていらしっては、それこそ、人が寄って来るか分りません。第一、捜しに出ましたのでも四人や八人ではありません。」
 言いも終らず、あしずりして、
「どうしましょう、私、どうしましょうねえ。どうぞ、どうぞ、貴下(あなた)、一思いに死なして下さいまし、恥かしくっても、死骸(しがい)になれば……」
 泣くのに半ば言消(ことき)えて、
「よ、後生ですから、」
 も曇れる声なり。
 心弱くて叶(かな)うまじ、と廉平はやや屹(きっ)としたものいいで、
「飛んだ事を! 夫人(おくさん)、廉平がここに居(お)るです。決(け)して、決(け)して、そんな間違(まちがい)はさせんですよ。」
「どうしましょうねえ、」
 はッと深く溜息(ためいき)つくのを、
「……………………」
 ただ咽喉(のど)を詰めて熟(じっ)と見つつ、思わず引き入れられて歎息した。
 廉平は太い息して、
「まあ、貴女(あなた)、夫人(おくさん)、一体どうなさった。」
「訳を、訳をいえば貴下(あなた)、黙って死なして下さいますよ。もう、もう、もう、こんな汚(けがら)わしいものは、見るのも厭(いや)におなりなさいますよ。」
「いや、厭になるか、なりませんか、黙って見殺しにしましょうか。何しろ、訳をおっしゃって下さい。夫人(おくさん)、廉平です。人にいって悪い事なら、私は盟(ちか)って申しませんです。」
 この人の平生はかく盟うのに適していた。
「は、申します、先生、貴下(あなた)だけなら申します。」
「言うて下さるか、それは難有(ありがた)い、むむ、さあ、承りましょう。」
「どうぞ、その、その前(さき)に先生、どこへか、人の居ない、谷底か、山の中か、島へでも、巌穴(いわあな)へでも、お連れなすって下さいまし。もう、貴下(あなた)にばかりも精一杯、誰にも見せられます身体(からだ)ではないんです。」
 袖を僅(わずか)に濡れたる顔、夢見るように恍惚(うっとり)と、朝ぼらけなる酔芙蓉(すいふよう)、色をさました涙の雨も、露に宿ってあわれである。
「人の来ない処といって、お待ちなさい、船ででもどちらへか、」
 と心当りがないでもなかった。沖の方へ見え初(そ)めて、小児(こども)の船が靄(もや)から出て来た。
 夫人は時にあらためて、世に出たような目(まな)ざししたが、苫船(とまぶね)を一目見ると、目(ま)ぶちへ、颯(さっ)と――蒼(あお)ざめて、悚然(ぞっ)としたらしく肩をすくめた、黒髪おもげに、沖の方(かた)。
「もし、」
「は、」
「参られますなら、あすこへでも。」
 いかにも人は籠(こも)らぬらしい、物凄(ものすさま)じき対岸(むこう)の崖、炎を宿して冥々(めいめい)たり。
「あんな、あんなその、地獄の火が燃えておりますような、あの中へ、」
「結構なんでございます、」と、また打悄(うちしお)れて面(おもて)を背ける。
 よくよくの事なるべし。
「参りましょうか。靄が霽(は)れれば、ここと向い合った同一(おなじ)ような崖下でありますけれども、途中が海で切れとるですから、浜づたいに人の来る処ではありません。
 御覧なさい、あの小児(こども)の船を。大丈夫漕(こ)ぐですから、あれに乗せてもらいましょう、どうです。」
 夫人は、がッくりして頷(うなず)いた、ものを言うも切なそうに太(いた)く疲労して見えたのである。
「夫人(おくさん)、それでは。」
「はい、」
 と言って礼心に、寂しい笑顔して、吻(ほっ)と息。

       二十六

「そんな、そんな貴女(あなた)、詰(つま)らん、怪(け)しからん事があるべき次第(わけ)のものではないです。汚(けが)れた身体(からだ)だの、人に顔は合わされんのとお言いなさるのはその事ですか。ははははは、いや、しかし飛んだ目にお逢(あ)いでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をお拭(ふ)きなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、酷(ひど)くお濡れなすったようだ。」
 廉平は砥(と)に似て蒼(あお)き条(すじ)のある滑(なめら)かな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしく踞(しゃが)んだ、身にただ襯衣(しゃつ)を纏(まと)えるのみ。
 船の中でも人目を厭(いと)って、紺がすりのその単衣(ひとえ)で、肩から深く包んでいる。浦子の蹴出(けだ)しは海の色、巌端(いわばな)に蒼澄(あおず)みて、白脛(しらはぎ)も水に透くよう、倒れた風情に休らえる。
 二人は靄(もや)の薄模様。
「構わんですから、私の衣服(きもの)でお拭きなさい。
 何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、裾(すそ)が濡れましたで、気味が悪いでありましょう。」
「いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます身体(からだ)ではありません。」と、投げたように岩の上。
「まだ、おっしゃる!」
「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの未(いま)だ解けぬ、蘆(あし)の中なる幻影(まぼろし)を、この際なれば気(け)もない風で、
「夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫船(とまぶね)の中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」
「それでも私、」
 と、かかる中にも夫人は顔を赧(あか)らめた。
「覚えがあるのでございますもの。貴下(あなた)が気をつけて下すって、あの苫船の中で漸々(ようよう)自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。」
 といいかけて差俯向(さしうつむ)く、額に乱れた前髪は、歯にも噛(か)むべく怨(うら)めしそう。
「ですが、ですが、それは心の迷いです。昨日(きのう)あたりからどうかなさって、お身体(からだ)の工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」
 言(ことば)の下に聞き咎(とが)め、
「西洋とおっしゃれば、貴下(あなた)は西洋の婦人(おんな)の方が、私のつかまっておりました船の中を覗(のぞ)いて見て、仔細(しさい)がありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。
 その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。
 ですから私は、」
 と早や力なげに、なよなよとするのであった。
「いや、」
 と当(あて)なしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして発見(みいだ)したかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉児(おさなご)に船を漕(こ)がせつつ、自分が語ったは、まずその通(とおり)。
「ですけれども、何ですな。」
「いいえ」
 今度は夫人から遮って、
「もう昨日(きのう)、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴下(あなた)、忌(いま)わしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。
 三十という年に近いこの年になりますまで、少(わか)い折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。
 腹の立った事さえござんせん、余(あんま)り果報な身体(からだ)ですから、盈(みつ)れば虧(か)くるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。唯今(ただいま)ここへ船を漕いでくれました小児(こども)たちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助に肖(に)ておりましたのも、皆(みんな)私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」
 いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一層(ひとしお)慰めかねる。

       二十七

 夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、
「小児(こども)と申しても継(まま)しい中で、それでも姉弟(きょうだい)とも、真(ほん)の児(こ)とも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴下(あなた)が御丹精下さいましたお庇(かげ)で、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。
 もう私は、こんな身体(からだ)、見るのも厭(いや)でなりません。ぶつぶつ切って刻んでも棄(す)てたいように思うんですもの、ちっとも残り惜(おし)いことはないのですが、慾(よく)には、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、活(い)きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」
 と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、熟(じっ)と見て、廉平堪(たま)りかねた面色(おももち)して、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺(しわ)を刻んで、深く両手を拱(こまぬ)いたが、噫(ああ)、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、我(わが)心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也(なり)と、そもさんか菩薩(ぼさつ)。
「夫人(おくさん)、どうしても、貴女(あなた)、怪(あやし)い獣に……という、疑(うたがい)は解けんですか。」
「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を支(つ)いて、誰(たれ)にか詫(わ)び入る、そのいじらしさ。
 眼(まなこ)を閉じたが、しばらくして、
「恐るべきです、恐るべきだ。夢現(ゆめうつつ)の貴女(あなた)には、悪獣(あくじゅう)の体(たい)に見えましたでありましょう。私の心は獣(けだもの)でした。夫人(おくさん)、懺悔(ざんげ)をします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚(よつあし)の獣ではない、獣のような人間じゃ。
 私です。
 鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣(しゃつ)ばかりの頸(うなじ)を垂れた。
 夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻(とみこうみ)つつ、背(せな)に乱れた千筋(ちすじ)の黒髪、解くべき術(すべ)もないのであった。
「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女(あなた)に接したのが因果です。賢君に対して殆(ほと)んど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。
 未(いま)だ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。
 なかなか以(もっ)て、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。
 けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍(そば)を離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。
 五年勤労に酬(むく)いるのに、何か記念の品をと望まれて、悟(さとり)も徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。
 今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。
 廉平は魔法づかいじゃ。」
 と石上に跣坐(ふざ)したその容貌(ようぼう)、その風采(ふうさい)、或はしかあるべく見えるのであった。
 夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。
「貴女(あなた)も、昨日(きのう)、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに憑(つ)かれたとおっしゃった。……
 すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢現(ゆめうつつ)の境(きょう)に乗じて、その妄執(もうしゅう)を晴しました。
 けれども余りに痛(いたわ)しい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身体(からだ)を、砕いて切っても棄(す)てたいような御容子(ごようす)が、余りお可哀相(かわいそう)で見ておられん。
 夫人(おくさん)、真の獣よりまだこの廉平と、思(おぼ)し召す方が、いくらかお心が済むですか。」
 夫人はせいせい息を切った。

       二十八

「どうですか、余り推(おし)つけがましい申分(もうしぶん)ではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方が可(い)いですか。」
 口へ出すとよりは声をのんで、
「貴下(あなた)、」
「…………」
「貴下、」
「…………」
「貴下、ほんとうでございますか。」
「勿論、懺悔(ざんげ)したのじゃで。」
 と、眉を開いてきっぱりという。
 膝(ひざ)でじりりとすり寄って、
「ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。」
 としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、訝(あや)しいまで胸がせまった。
「私と言われて、お喜びになりますほど、それほどの思(おもい)をなさったですか。」
「いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも死骸(しがい)が残ります、その獣の爪(つめ)のあと舌のあとのあります、毛だらけな膚(はだ)が残るのですもの。焼きましても狐(きつね)狸(たぬき)の悪い臭(におい)がしましょうかと、心残りがしましたのに、貴下(あなた)、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。」
「はてさて、」
「………………」
「じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。」
 顔を見合わせ、打頷(うちうなず)き、
「むむ、成程、」
 と腕を解いて、廉平は従容(しょうよう)として居直った。
「成程、そうじゃ。貴女(あなた)ほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさる筈(はず)ではないのじゃった。
 懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお身体(からだ)にしたのじゃった、恥入ります。
 夫人(おくさん)、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。」
「いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、お怨(うら)みには思いません。」
「許して下さるか。」
「女の口から行(ゆ)き過ぎではございますが、」
「許して下さる。」
「はい、」
「それではどうぞ、思い直して、」
「私はもう、」
 と衝(つ)と前褄(まえづま)を引寄せる。岩の下を掻(か)いくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、丁々(トントン)と鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッと烈(はげ)しく、ざぶり砕けた波がしら、白滝(しらたき)を倒(さかしま)に、颯(さっ)とばかり雪を崩して、浦子の肩から、頭(つむり)から。
「あ、」と不意に呼吸(いき)を引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなる雫(しずく)をかくれば、南無三(なむさん)浪に攫(さら)わるる、と背(せな)を抱くのに身を恁(もた)せて、観念した顔(かんばせ)の、気高きまでに莞爾(にっこ)として、
「ああ、こうやって一思いに。」
「夫人(おくさん)、おくれはせんですよ。」と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。
「※(しぶき)[#「さんずい+散」、261-9]がかかる、※[#「さんずい+散」、261-9]がかかる、危いぞ。」
 と、空から高く呼(とば)わる声。
 靄(もや)が分れて、海面(うなづら)に兀(こつ)として聳(そび)え立った、巌(いわ)つづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、樵夫(きこり)と覚しき一個(ひとり)の親仁(おやじ)。面(おもて)長く髪の白きが、草色の針目衣(はりめぎぬ)に、朽葉色(くちばいろ)の裁着(たッつけ)穿(は)いて、草鞋(わらんじ)を爪反(つまぞ)りや、巌端(いわばな)にちょこなんと平胡坐(ひらあぐら)かいてぞいたりける。
 その岩の面(おも)にひたとあてて、両手でごしごし一挺(ちょう)の、きらめく刃物を悠々と磨(と)いでいたり。
 磨ぎつつ、覗(のぞ)くように瞰下(みおろ)して、
「上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ。」
 という。浪は水晶の柱のごとく、倒(さかしま)にほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまに攀(よ)ずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を一洗滌(ひとあらい)、白き牡丹(ぼたん)の散るごとく、巌角(いわかど)に飜って、海面(うなづら)へざっと引く。
「おじご、何を、何をしてござるのか。」と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。
「石鑿(いしのみ)を研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。」
「や、親仁御(おじご)がな。」
「おお、此方衆(こなたしゅ)はその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、婆々(ばば)どもが附き纏(まと)うぞ。」
 婆々と云うよ、生死(しょうし)を知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもって抉(えぐ)るがごとく響いたので、
「もし、」と両膝をついて伸び上った。
「婆(ばば)とお云いなさいますのは。」
「それ、銀目と、金目と、赤い目の奴等(やつら)よ。主達(ぬしたち)が功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、居処(いどこ)がなくなるじゃで、さまざまに祟(たた)りおって、命まで取ろうとするわ。女子衆(おなごしゅ)、心配さっしゃんな、身体(からだ)は清いぞ。」
 とて、鑿(のみ)をこつこつ。
「何様それじゃ、昨日(きのう)から、時々黒雲の湧(わ)くように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。」と、廉平は揖(ゆう)しながら、手を翳(かざ)して仰いで言った。
 皺手(しわで)に呼吸(いき)をハッとかけ、斜めに丁(ちょう)と鑿を押えて、目一杯に海を望み、
「三千世界じゃ、何でも居ようさ。」
「どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。」
「それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。」
「あれえ、」
「およそ其奴等(そいつら)がなす業じゃ。夜一夜踊りおって[#「踊りおって」は底本では「踊りおつて」]騒々しいわ、畜生ども、」
 とハタと見るや、うしろの山に影大きく、眼(まなこ)の光爛々(らんらん)として、知るこれ天宮の一将星。
「動くな!」
 と喝(かっ)する下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪よ渦(うずま)くよ。
 同時に、衝(つ)とその片手を挙げた、掌(たなごころ)の宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海に入(い)るぞと見えし。
 矢よりも疾(はや)く漕寄(こぎよ)せた、同じ童(わらべ)が艪(ろ)を押して、より幼き他の児(ちご)と、親船に寝た以前(さき)の船頭、三体ともに船に在(あ)り。
 斜めに高く底見ゆるまで、傾いた舷(ふなべり)から、二人(にん)半身を乗り出(いだ)して、うつむけに海を覗(のぞ)くと思うと、鉄(くろがね)の腕(かいな)、蕨(わらび)の手、二条の柄がすっくと空、穂尖(ほさき)を短(みじか)に、一斉に三叉(みつまた)の戟(ほこ)を構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に鮮血(からくれない)。
 見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐(あおあらし)する波の彼方(かなた)に、荘厳(そうごん)なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。
 怪しきものの血潮は消えて、音するばかり旭(あさひ)の影。波を渡るか、宙を行(ゆ)くか、白き鵞鳥(がちょう)の片翼(かたつばさ)、朝風に傾く帆かげや、白衣(びゃくえ)、水紅色(ときいろ)、水浅葱(みずあさぎ)、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平が彳(たたず)める、岩山の根の巌(いわ)に近く、忘るるばかりに漕ぐ蒼空(あおぞら)。魚(うお)あり、一尾舷(ふなばた)に飛んで、鱗(うろこ)の色、あたかも雪。


==篇中の妖婆(ようば)の言葉(がぎぐげご)は凡(すべ)て、半濁音にてお読み取り下されたく候==
明治三十八(一九〇五)年十二月



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