化鳥
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著者名:泉鏡花 

初卯(はつう)の日(ひ)、母様(おつかさん)が腰元(こしもと)を二人連(つ)れて、市(まち)の卯辰(うたつ)の方(はう)の天神様(てんじんさま)へお参(まゐ)ンなすつて、晩方(ばんがた)帰(かへ)つて居(ゐ)らつしやつた、ちやうど川向(かはむか)ふの、いま猿(さる)の居(ゐ)る処(ところ)で、堤坊(どて)[#「堤坊」はママ]の上(うへ)のあの柳(やなぎ)の切株(きりかぶ)に腰(こし)をかけて猿(さる)のひかへ綱(づな)を握(にぎ)つたなり、俯向(うつむ)いて、小(ちひ)さくなつて、肩(かた)で呼吸(いき)をして居(ゐ)たのが其(その)猿廻(さるまはし)のぢいさんであつた。
大方(おほかた)今(いま)の紅雀(べにすゞめ)の其(その)姉(ねえ)さんだの、頬白(ほゝじろ)の其(その)兄(にい)さんだのであつたらうと思(おも)はれる、男(をとこ)だの、女(をんな)だの七八人寄(よ)つて、たかつて、猿(さる)にからかつて、きやあ/\いはせて、わあ/\笑(わら)つて、手(て)を拍(う)つて、喝采(かつさい)して、おもしろがつて、をかしがつて、散々(さんざ)慰(なぐさ)むで、そら菓子(くわし)をやるワ、蜜柑(みかん)を投(な)げろ、餅(もち)をたべさすワツて、皆(みんな)でどつさり猿(さる)に御馳走(ごちさう)をして、暗(くら)くなるとどや/\いつちまつたんだ。で、ぢいさんをいたはつてやつたものは、唯(たゞ)の一人(いちにん)もなかつたといひます。
あはれだとお思(おも)ひなすつて、母様(おつかさん)がお銭(あし)を恵(めぐ)むで、肩掛(シヨール)を着(き)せておやんなすつたら、ぢいさん涙(なみだ)を落(おと)して拝(をが)むで喜(よろ)こびましたつて、さうして、
□あゝ、奥様(おくさま)、私(わたくし)は獣(けだもの)になりたうございます。あいら、皆(みんな)畜生(ちくしやう)で、この猿(さる)めが夥間(なかま)でござりましやう。それで、手前達(てまへたち)の同類(どうるゐ)にものをくはせながら、人間一疋(にんげんいつぴき)の私(わたくし)には目(め)を懸(か)けぬのでござります□トさういつてあたりを睨(にら)むだ、恐(おそ)らくこのぢいさんなら分(わか)るであらう、いや、分(わか)るまでもない、人(ひと)が獣(けだもの)であることをいはないでも知(し)つて居(ゐ)やうとさういつて母様(おつかさん)がお聞(き)かせなすつた、
うまいこと知(しつ)てるな、ぢいさん。ぢいさんと母様(おつかさん)と私(わたし)と三人(さんにん)だ。其時(そのとき)ぢいさんが其(その)まんまで控綱(ひかへづな)を其処(そこ)ン処(とこ)の棒杭(ばうぐひ)に縛(しば)りツ放(ぱな)しにして猿(さる)をうつちやつて行(ゆ)かうとしたので、供(とも)の女中(ぢよちう)が口(くち)を出(だ)して、何(ど)うするつもりだつて聞(き)いた。母様(おつかさん)もまた傍(そば)からまあ捨児(すてご)にしては可哀想(かあいさう)でないかツて、お聞(き)きなすつたら、ぢいさんにや/\と笑(わら)つたさうで、
□はい、いえ、大丈夫(だいじやうぶ)でござります。人間(にんげん)をかうやつといたら、餓(う)ゑも凍(こゞ)ゑもしやうけれど、獣(けだもの)でござりますから今(いま)に長(なが)い目(め)で御覧(ごらう)じまし、此奴(こいつ)はもう決(けつ)してひもじい目(め)に逢(あ)ふことはござりませぬから□

トさういつてかさね/″\恩(おん)を謝(しや)して分(わか)れて何処(どこ)へか行(い)つちまひましたツて。
果(はた)して猿(さる)は餓(う)ゑないで居(ゐ)る。もう今(いま)では余程(よつぽど)の年紀(とし)であらう。すりや、猿(さる)のぢいさんだ。道理(だうり)で、功(かう)を経(へ)た、ものゝ分(わか)つたやうな、そして生(き)まじめで、けろりとした、妙(めう)な顔(かほ)をして居(ゐ)るんだ。見(み)える/\、雨(あめ)の中(なか)にちよこなんと坐(すわ)つて居(ゐ)るのが手(て)に取(と)るやうに窓(まど)から見(み)えるワ。

     第八

朝晩(あさばん)見馴(みな)れて珍(めづ)らしくもない猿(さる)だけれど、いまこんなこと考(かんが)え(ママ)出(だ)していろんなこと思(おも)つて見(み)ると、また殊(こと)にものなつかしい、あのおかしな顔(かほ)早(はや)くいつて見たいなと、さう思(おも)つて、窓(まど)に手(て)をついてのびあがつて、づゝと肩(かた)まで出(だ)すと※(しぶき)[#「さんずい+散」、53-4]がかゝつて、眼(め)のふちがひやりとして、冷(つめ)たい風(かぜ)が頬(ほゝ)を撫(な)でた。
爾時(そのとき)仮橋(かりばし)ががた/\いつて、川面(かはづら)の小糠雨(こぬかあめ)を掬(すく)ふやうに吹(ふ)き乱(みだ)すと、流(ながれ)が黒(くろ)くなつて颯(さつ)と出(で)た。トいつしよに向岸(むかふぎし)から橋(はし)を渡(わた)つて来(く)る、洋服(やうふく)を着(き)た男(をとこ)がある。
橋板(はしいた)がまた、がツたりがツたりいつて、次第(しだい)に近(ちか)づいて来(く)る、鼠色(ねづみいろ)の洋服(やうふく)で、釦(ぼたん)をはづして、胸(むね)を開(あ)けて、けば/\しう襟飾(えりかざり)を出(だ)した、でつぷり紳士(しんし)で、胸(むね)が小(ちひ)さくツて、下腹(したつぱら)の方(ほう)が図(づ)ぬけにはずんでふくれた、脚(あし)の短(みぢか)い、靴(くつ)の大(おほ)きな、帽子(ばうし)の高(たか)い、顔(かほ)の長(なが)い、鼻(はな)の赤(あか)い、其(それ)は寒(さむ)いからだ。そして大跨(おほまた)に、其(その)逞(たくまし)い靴(くつ)を片足(かたあし)づゝ、やりちがへにあげちやあ歩行(ある)いて来(く)る、靴(くつ)の裏(うら)の赤(あか)いのがぽつかり、ぽつかりと一(ひと)ツづゝ此方(こつち)から見(み)えるけれど、自分(じぶん)じやあ、其(その)爪(つま)さきも分(わか)りはしまい。何(なん)でもあんなに腹(はら)のふくれた人(ひと)は臍(へそ)から下(した)、膝(ひざ)から上(うへ)は見(み)たことがないのだとさういひます。あら! あら! 短服(チツヨツキ)に靴(くつ)を穿(は)いたものが転(ころ)がつて来(く)るぜと、思(おも)つて、じつと見(み)て居(ゐ)ると、橋(はし)のまんなかあたりへ来(き)て鼻眼鏡(はなめがね)をはづした、※(しぶき)[#「さんずい+散」、53-15]がかゝつて曇(くも)つたと見(み)える。
で、衣兜(かくし)から半拭(はんかち)を出(だ)して、拭(ふ)きにかゝつたが、蝙蝠傘(かうもりがさ)を片手(かたて)に持(も)つて居(ゐ)たから手(て)を空(あ)けやうとして咽喉(のど)と肩(かた)のあひだへ柄(え)を挟(はさ)んで、うつむいて、珠(たま)を拭(ぬぐ)ひかけた。
これは今(いま)までに幾度(いくたび)も私(わたし)見(み)たことのある人(ひと)で、何(なん)でも小児(こども)の時(とき)は物見高(ものみだか)いから、そら、婆(ばあ)さんが転(ころ)んだ、花(はな)が咲(さ)いた、といつて五六人人(ひと)だかりのすることが眼(め)の及(およ)ぶ処(ところ)にあれば、必(かなら)ず立(た)つて見(み)るが何処(どこ)に因(よ)らずで場所(ばしよ)は限(かぎ)らない、すべて五十人以上(いじやう)の人(ひと)が集会(しふくわい)したなかには必(かなら)ずこの紳士(しんし)の立交(たちまじ)つて居(ゐ)ないといふことはなかつた。
見(み)る時(とき)にいつも傍(はた)の人(もの)を誰(たれ)か知(し)らつかまへて、尻上(しりあが)りの、すました調子(てうし)で、何(なに)かものをいつて居(ゐ)なかつたことは殆(ほと)んど無(な)い、それに人(ひと)から聞(き)いて居(ゐ)たことは曾(かつ)てないので、いつでも自分(じぶん)で聞(き)かせて居(ゐ)る、が、聞(き)くものがなければ独(ひとり)で、むゝ、ふむ、といつたやうな、承知(しようち)したやうなことを独言(ひとりごと)のやうでなく、聞(き)かせるやうにいつてる人(ひと)で、母様(おつかさん)も御存(ごぞん)じで、彼(あれ)は博士(はかせ)ぶりといふのであるとおつしやつた。
けれども鰤(ぶり)ではたしかにない、あの腹(はら)のふくれた様子(やうす)といつたら、宛然(まるで)、鮟鱇(あんかう)に肖(に)て居(ゐ)るので、私(わたし)は蔭(かげ)じやあ鮟鱇博士(あんかうはかせ)とさういひますワ。此間(このあひだ)も学校(がくかう)へ参観(さんくわん)に来(き)たことがある。其時(そのとき)も今(いま)被(かむ)つて居(ゐ)る、高(たか)い帽子(ばうし)を持(も)つて居(ゐ)たが、何(なん)だつてまたあんな度(ど)はづれの帽子(ばうし)を着(き)たがるんだらう。
だつて、眼鏡(めがね)を拭(ふ)かうとして、蝙蝠傘(かうもりがさ)を頤(をとがひ)で押(おさ)へて、うつむいたと思(おも)ふと、ほら/\、帽子(ばうし)が傾(かたむ)いて、重量(おもみ)で沈(しづ)み出(だ)して、見(み)てるうちにすつぼり、赤(あか)い鼻(はな)の上(うへ)へ被(かぶ)さるんだもの。眼鏡(めがね)をはづした上(うへ)で帽子(ばうし)がかぶさつて、眼(め)が見(み)えなくなつたんだから驚(おどろ)いた、顔中(かほぢう)帽子(ばうし)、唯(たゞ)口(くち)ばかりが、其(その)口(くち)を赤(あか)くあけて、あはてゝ、顔(かほ)をふりあげて、帽子(ばうし)を揺(ゆ)りあげやうとしたから蝙蝠傘(かうもりがさ)がばツたり落(お)ちた。落(おつ)こちると勢(いきほひ)よく三(みつ)ツばかりくる/\とまつた間(あひだ)に、鮟鱇博士(あんかうはかせ)は五(いつ)ツばかりおまはりをして、手(て)をのばすと、ひよいと横(よこ)なぐれに風(かぜ)を受(う)けて、斜(なゝ)めに飛(と)んで、遙(はる)か川下(かはしも)の方(はう)へ憎(にく)らしく落着(おちつ)いた風(ふう)でゆつたりしてふわりと落(お)ちるト忽(たちま)ち矢(や)の如(ごと)くに流(なが)れ出(だ)した。
博士(はかせ)は片手(かたて)で眼鏡(めがね)を持(も)つて、片手(かたて)を帽子(ばうし)にかけたまゝ烈(はげ)しく、急(きふ)に、殆(ほと)んど数(かぞ)へる遑(ひま)がないほど靴(くつ)のうらで虚空(こくう)を踏(ふ)むだ、橋(はし)ががた/\と動(うご)いて鳴(な)つた。
「母様(おつかさん)、母様(おつかさん)、母様(おつかさん)」
と私(わたし)は足(あし)ぶみをした。
「あい。」としづかに、おいひなすつたのが背後(うしろ)に聞(き)こえる。
窓(まど)から見(み)たまゝ振向(ふりむ)きもしないで、急込(せきこ)んで、
「あら/\流(なが)れるよ。」
「鳥(とり)かい、獣(けだもの)かい。」と極(きは)めて平気(へいき)でいらつしやる。
「蝙蝠(かうもり)なの、傘(からかさ)なの、あら、もう見(み)えなくなつたい、ほら、ね、流(なが)れツちまひました。」
「蝙蝠(かうもり)ですと。」
「あゝ、落(お)ツことしたの、可哀想(かあいさう)に。」
と思(おも)はず嘆息(たんそく)をして呟(つぶや)いた。
母様(おつかさん)は笑(ゑみ)を含(ふく)むだお声(こゑ)でもつて、
「廉(れん)や、それはね、雨(あめ)が晴(は)れるしらせなんだよ。」
此時(このとき)猿(さる)が動(うご)いた。

     第九

一廻(ひとまはり)くるりと環(わ)にまはつて前足(まへあし)をついて、棒杭(ばうぐひ)の上(うへ)へ乗(の)つて、お天気(てんき)を見(み)るのであらう、仰向(あをむ)いて空(そら)を見(み)た。晴(は)れるといまに行(ゆ)くよ。
母様(おつかさん)は嘘(うそ)をおつしやらない。
博士(はかせ)は頻(しきり)に指(ゆびさ)しをして居(ゐ)たが、口(くち)[#「くち」は底本では「くゐ」]が利(き)けないらしかつた、で、一散(いつさん)に駆(か)けて、来(き)て黙(だま)つて小屋(こや)の前(まへ)を通(とほ)らうとする。
「おぢさん/\。」
と厳(きび)しく呼(よ)んでやつた。追懸(おひか)けて、
「橋銭(はしせん)を置(お)いて去(い)らつしやい、おぢさん。」
とさういつた。
「何(なん)だ!」
一通(ひとゝほり)の声(こゑ)ではない、さつきから口(くち)が利(き)けないで、あのふくれた腹(はら)に一杯(いつぱい)固(かた)くなるほど詰(つ)め込(こ)み/\して置(お)いた声(こゑ)を、紙鉄砲(かみでつぱう)ぶつやうにはぢきだしたものらしい。
で、赤(あか)い鼻(はな)をうつむけて、額越(ひたひごし)に睨(にら)みつけた。
「何(なに)か」と今度(こんど)は応揚(おうやう)[#「応揚」はママ]である。
私(わたし)は返事(へんじ)をしませんかつた。それは驚(おどろ)いたわけではない、恐(こは)かつたわけではない。鮟鱇(あんかう)にしては少(すこ)し顔(かほ)がそぐはないから何(なに)にしやう、何(なに)に肖(に)て居(ゐ)るだらう、この赤(あか)い鼻(はな)の高(たか)いのに、さきの方(はう)が少(すこ)し垂(た)れさがつて、上唇(うはくちびる)におつかぶさつてる工合(ぐあい)といつたらない、魚(うを)より獣(けもの)より寧(むし)ろ鳥(とり)の嘴(はし)によく肖(に)て居(ゐ)る、雀(すゞめ)か、山雀(やまがら)か、さうでもない。それでもないト考(かんが)えて七面鳥(しちめんちやう)に思(おも)ひあたつた時(とき)、なまぬるい音調(おんちやう)で、
「馬鹿(ばか)め。」
といひすてにして沈(しづ)んで来(く)る帽子(ばうし)をゆりあげて行(ゆ)かうとする。
「あなた。」とおつかさんが屹(きつ)とした声(こゑ)でおつしやつて、お膝(ひざ)の上(うへ)の糸屑(いとくづ)を細(ほそ)い、白(しろ)い、指(ゆび)のさきで二(ふた)ツ三(み)ツはじき落(おと)して、すつと出(で)て窓(まど)の処(ところ)へお立(た)ちなすつた。
「渡(わたし)をお置(お)きなさらんではいけません。」
「え、え、え。」
といつたがぢれつたさうに、
「僕(ぼく)は何(なん)じやが、うゝ知(し)らんのか。」
「誰(だれ)です、あなたは。」と冷(ひやゝか)で。私(わたし)こんなのをきくとすつきりする、眼(め)のさきに見(み)える気(き)にくわ(ママ)ないものに、水(みづ)をぶつかけて、天窓(あたま)から洗(あら)つておやんなさるので、いつでもかうだ、極(きは)めていゝ。
鮟鱇(あんかう)は腹(はら)をぶく/\さして、肩(かた)をゆすつたが、衣兜(かくし)から名刺(めいし)を出(だ)して、笊(ざる)のなかへまつすぐに恭(うやうや)しく置(お)いて、
「かういふものじや、これじや、僕(ぼく)じや。」
といつて肩書(かたがき)の処(ところ)を指(ゆびさ)した、恐(おそ)ろしくみぢかい指(ゆび)で、黄金(きん)の指輪(ゆびわ)の太(ふと)いのをはめて居(ゐ)る。
手(て)にも取(と)らないで、口(くち)のなかに低声(こゞゑ)におよみなすつたのが、市内衛生会委員(しないえいせいくわいゐゝん)、教育談話会幹事(きやういくだんわくわいかんじ)、生命保険会社々員(せいめいほけんくわいしや/\ゐん)、一六会々長(いちろくくわい/\ちやう)、美術奨励会理事(びじゆつしやうれいくわいりじ)、大日本赤十字社社員(だいにつぽんせきじふじしや/\ゐん)、天野喜太郎(あまのきたらう)。
「この方(かた)ですか。」
「うゝ。」といつた時(とき)ふつくりした鼻(はな)のさきがふら/\して、手(て)で、胸(むね)にかけた赤十字(せきじふじ)の徽章(きしやう)をはぢいたあとで、
「分(わか)つたかね。」
こんどはやさしい声(こゑ)でさういつたまゝまた行(ゆ)きさうにする。
「いけません。お払(はらひ)でなきやアあとへお帰(かへ)ンなさい。」とおつしやつた。先生(せんせい)妙(めう)な顔(かほ)をしてぼんやり立(た)つてたが少(すこ)しむきになつて、
「えゝ、こ、細(こまか)いのがないんじやから。」
「おつりを差上(さしあ)げましやう。」
おつかさんは帯(おび)のあひだへ手(て)をお入(い)れ遊(あそ)ばした。

     第十

母様(おつかさん)はうそをおつしやらない、博士(はかせ)が橋銭(はしせん)をおいてにげて行(ゆ)くと、しばらくして雨(あめ)が晴(は)れた。橋(はし)も蛇籠(じやかご)も皆(みんな)雨(あめ)にぬれて、黒(くろ)くなつて、あかるい日中(ひなか)へ出(で)た。榎(えのき)の枝(えだ)からは時(とき)々はら/\と雫(しづく)が落(お)ちる、中流(ちうりう)へ太陽(ひ)がさして、みつめて居(ゐ)るとまばゆいばかり。
「母様(おつかさん)遊(あそ)びに行(ゆ)かうや。」
此時(このとき)鋏(はさみ)をお取(と)んなすつて、
「あゝ。」
「ねイ、出(で)かけたつて可(いゝ)の、晴(は)れたんだもの。」
「可(いゝ)けれど、廉(れん)や、お前(まへ)またあんまりお猿(さる)にからかつてはなりませんよ。さう、可塩梅(いゝあんばい)にうつくしい羽(はね)の生(は)へた姉(ねえ)さんが何時(いつ)でもいるんぢやあありません。また落(お)つこちやうもんなら。」
ちよいと見向(みむ)いて、清(すゞし)い眼(め)で御覧(ごらん)なすつて莞爾(につこり)してお俯向(うつむ)きで、せつせと縫(ぬ)つて居(ゐ)らつしやる。
さう、さう! さうであつた。ほら、あの、いま頬(ほ)つぺたを掻(か)いてむく/\濡(ぬ)れた毛(け)からいきりをたてゝ日向(ひなた)ぼつこをして居(ゐ)る、憎(にく)らしいツたらない。
いまじやあもう半年(はんとし)も経(た)つたらう、暑(あつ)さの取着(とつつき)の晩方頃(ばんかたごろ)で、いつものやうに遊(あそ)びに行(い)つて、人(ひと)が天窓(あたま)を撫(な)でゝやつたものを、業畜(がふちく)、悪巫山戯(わるふざけ)をして、キツ/\と歯(は)を剥(む)いて、引掻(ひつか)きさうな権幕(けんまく)をするから、吃驚(びつくり)して飛退(とびの)かうとすると、前足(まへあし)でつかまへた、放(はな)さないから力(ちから)を入(い)れて引張(ひつぱ)り合(あ)つた奮(はづ)みであつた。左(ひだり)の袂(たもと)がびり/\と裂(さけ)てちぎれて取(とれ)たはづみをくつて、踏占(ふみし)めた足(あし)がちやうど雨上(あまあが)りだつたから、堪(たま)りはしない、石(いし)の上(うへ)を辷(すべ)つて、ずる/\と川(かは)へ落(お)ちた。わつといつた顔(かほ)へ一波(ひとなみ)かぶつて、呼吸(いき)をひいて仰向(あをむ)けに沈(しづ)むだから、面(めん)くらつて立(た)たうとするとまた倒(たふ)れて眼(め)がくらむで、アツとまたいきをひいて、苦(くる)しいので手(て)をもがいて身躰(からだ)を動(うご)かすと唯(たゞ)どぶん/\と沈(しづ)むで行(ゆ)く、情(なさけ)ないと思(おも)つたら、内(うち)に母様(おつかさん)の坐(すは)つて居(ゐ)らつしやる姿(すがた)が見(み)えたので、また勢(いきおひ)ついたけれど、やつぱりどぶむ/\と沈(しづ)むから、何(ど)うするのかなと落着(おちつ)いて考(かんが)へたやうに思(おも)ふ。それから何(なん)のことだらうと考(かんが)え(ママ)たやうにも思(おも)はれる、今(いま)に眼(め)が覚(さ)めるのであらうと思(おも)つたやうでもある、何(なん)だか茫乎(ぼんやり)したが俄(にわか)に水(みづ)ン中(なか)だと思(おも)つて叫(さけ)ばうとすると水(みづ)をのんだ。もう駄目(だめ)だ。
もういかんとあきらめるトタンに胸(むね)が痛(いた)かつた、それから悠々(いういう)と水(みづ)を吸(す)つた、するとうつとりして何(なん)だか分(わか)らなくなつたと思(おも)ふと溌(ぱつ)と糸(いと)のやうな真赤(まつか)な光線(くわうせん)がさして、一巾(ひとはゞ)あかるくなつたなかにこの身躰(からだ)が包(つゝ)まれたので、ほつといきをつくと、山(やま)の端(は)が遠(とほ)く見(み)えて私(わたし)のからだは地(つち)を放(はな)れて其頂(そのいたゞき)より上(うへ)の処(ところ)に冷(つめた)いものに抱(かゝ)へられて居(ゐ)たやうで、大(おほ)きなうつくしい眼(め)が、濡髪(ぬれがみ)をかぶつて私(わたし)の頬(ほゝ)ん処(とこ)へくつゝいたから、唯(たゞ)縋(すが)り着(つ)いてじつと眼(め)を眠(ねむ)つた[「眠つた」に「ママ」の注記]覚(おぼえ)がある。夢(ゆめ)ではない。
やつぱり片袖(かたそで)なかつたもの、そして川(かは)へ落(おつ)こちて溺(おぼ)れさうだつたのを救(すく)はれたんだつて、母様(おつかさん)のお膝(ひざ)に抱(だ)かれて居(ゐ)て、其晩(そのばん)聞(き)いたんだもの。だから夢(ゆめ)ではない。
一躰(いつたい)助(たす)けて呉(く)れたのは誰(だれ)ですッて、母様(おつかさん)に問(と)ふた。私(わたし)がものを聞(き)いて、返事(へんじ)に躊躇(ちうちよ)をなすつたのは此時(このとき)ばかりで、また、それは猪(いぬしゝ)だとか、狼(おほかみ)だとか、狐(きつね)だとか、頬白(ほゝじろ)だとか、山雀(やまがら)だとか、鮟鱇(あんかう)だとか鯖(さば)だとか、蛆(うぢ)だとか、毛虫(けむし)だとか、草(くさ)だとか、竹(たけ)だとか、松茸(まつたけ)だとか、しめぢだとかおいひでなかつたのも此時(このとき)ばかりで、そして顔(かほ)の色(いろ)をおかへなすつたのも此時(このとき)ばかりで、それに小(ちひ)さな声(こゑ)でおつしやつたのも此時(このとき)ばかりだ。
そして母様(おつかさん)はかうおいひであつた。
(廉(れん)や、それはね、大(おほ)きな五色(ごしき)の翼(はね)があつて天上(てんじやう)に遊(あそ)んで居(ゐ)るうつくしい姉(ねえ)さんだよ)

     第十一

(鳥(とり)なの、母様(おつかさん))とさういつて其時(そのとき)私(わたし)が聴(き)いた。
此(これ)にも母様(おつかさん)は少(すこ)し口籠(くちごも)つておいでゝあつたが、
(鳥(とり)ぢやないよ、翼(はね)の生(は)へた美(うつく)しい姉(ねえ)さんだよ)
何(ど)うしても分(わか)らんかつた。うるさくいつたらしまひにやお前(まへ)には分(わか)らない、とさうおいひであつた、また推返(おしかへ)して聴(き)いたら、やつぱり、
(翼(はね)の生(は)へたうつくしい姉(ねえ)さんだつてば)
それで仕方(しかた)がないからきくのはよして、見(み)やうと思(おも)つた、其(その)うつくしい翼(はね)のはへたもの見(み)たくなつて、何処(どこ)に居(ゐ)ます/\ツて、せつツ(ママ)いても知(し)らないと、さういつてばかりおいでゝあつたが、毎日(まいにち)/\あまりしつこかつたもんだから、とう/\余儀(よぎ)なさゝうなお顔色(かほつき)で、
(鳥屋(とりや)の前(まへ)にでもいつて見(み)て来(く)るが可(いゝ))
そんならわけはない。
小屋(こや)を出(で)て二町(ちやう)ばかり行(ゆ)くと直(すぐ)坂(さか)があつて、坂(さか)の下口(おりくち)に一軒(いつけん)鳥屋(とりや)があるので、樹蔭(こかげ)も何(なん)にもない、お天気(てんき)のいゝ時(とき)あかるい/\小(ちひ)さな店(みせ)で、町家(まちや)の軒(のき)ならびにあつた。鸚鵡(あうむ)なんざ、くるツとした露(つゆ)のたりさうな、小(ちい)[#「ちい」はママ]さな眼(め)で、あれで瞳(ひとみ)が動(うご)きますね。毎日(まいにち)々々行(い)つちやあ立(た)つて居(ゐ)たので、しまひにやあ見知顔(みしりがほ)で私(わたし)の顔(かほ)を見(み)て頷(うなづ)くやうでしたつけ、でもそれぢやあない。
駒(こま)はね、丈(たけ)の高(たか)い、籠(かご)ん中(なか)を下(した)から上(うへ)へ飛(と)んで、すがつて、ひよいと逆(さかさ)に腹(はら)を見(み)せて熟柿(ぢくし)の落(おつ)こちるやうにぽたりとおりて餌(え)をつゝいて、私(わたし)をばかまひつけない、ちつとも気(き)に懸(か)けてくれやうとはしないで(ママ)あつた、それでもない。皆(みんな)違(ちが)つとる。翼(はね)の生(は)へたうつくしい姉(ねえ)さんは居(ゐ)ないのッて、一所(いつしよ)に立(た)つた人(ひと)をつかまへちやあ、聞(き)いたけれど、笑(わら)ふものやら、嘲(あざ)けるものやら、聞(き)かないふりをするものやら、つまらないとけなすものやら、馬鹿(ばか)だといふものやら、番小屋(ばんごや)の媽々(かゝ)に似(に)て此奴(こいつ)も何(ど)うかして居(ゐ)らあ、といふものやら、皆(みんな)獣(けだもの)だ。
(翼(はね)の生(は)へたうつくしい姉(ねえ)さんは居(ゐ)ないの)ツて聞(き)いた時(とき)、莞爾(につこり)笑(わら)つて両方(りやうはう)から左右(さいう)の手(て)でおうやうに私(わたし)の天窓(あたま)を撫(な)でゝ行(い)つた、それは一様(いちやう)に緋羅紗(ひらしや)のづぼんを穿(は)いた二人(ふたり)の騎兵(きへい)で――聞(き)いた時(とき)――莞爾(につこり)笑(わら)つて、両方(りやうほう)から左右(さいう)の手(て)で、おうやうに私(わたし)の天窓(あたま)をなでゝ、そして手(て)を引(ひき)あつて黙(だま)つて坂(さか)をのぼつて行(い)つた、長靴(ながぐつ)の音(おと)がぼつくりして、銀(ぎん)の剣(けん)の長(なが)いのがまつすぐに二(ふた)ツならんで輝(かゞや)いて見(み)えた。そればかりで、あとは皆(みな)馬鹿(ばか)にした。
五日(いつか)ばかり学校(がくかう)から帰(かへ)つちやあ其足(そのあし)で鳥屋(とりや)の店(みせ)へ行(い)つてじつと立(た)つて奥(おく)の方(はう)の暗(くら)い棚(たな)ん中(なか)で、コト/\と音(おと)をさして居(ゐ)る其(その)鳥(とり)まで見覚(みおぼ)えたけれど、翼(はね)の生(は)へた姉(ねえ)さんは居(ゐ)ないのでぼんやりして、ぼツとして、ほんとうに少(すこ)し馬鹿(ばか)になつたやうな気(き)がしい/\、日(ひ)が暮(く)れると帰(かへ)り帰(かへ)りした。で、とても鳥屋(とりや)には居(ゐ)ないものとあきらめたが、何(ど)うしても見(み)たくツてならないので、また母様(おつかさん)にねだつて聞(き)いた。何処(どこ)に居(ゐ)るの、翼(はね)の生(は)へたうつくしい人(ひと)は何処(どこ)に居(ゐ)るのツて。何(なん)とおいひでも肯分(きゝわ)けないものだから母様(おつかさん)が、
(それでは林(はやし)へでも、裏(うら)の田畝(たんぼ)へでも行(い)つて見(み)ておいで。何故(なぜ)ツて天上(てんじよう)に遊(あそ)んで居(ゐ)るんだから籠(かご)の中(なか)に居(ゐ)ないのかも知(し)れないよ)
それから私(わたし)、あの、梅林(ばいりん)のある処(ところ)に参(まゐ)りました。
あの桜山(さくらやま)と、桃谷(もゝだに)と、菖蒲(あやめ)の池(いけ)とある処(ところ)で。
しかし其(それ)は唯(たゞ)青葉(あをば)ばかりで菖蒲(あやめ)の短(みじか)いのがむらがつてゝ、水(みづ)の色(いろ)の黒(くろ)い時分(じぶん)、此処(こゝ)へも二日(ふつか)、三日(みつか)続(つゞ)けて行(ゆ)きましたつけ、小鳥(ことり)は見(み)つからなかつた。烏(からす)が沢山(たんと)居(ゐ)た。あれが、かあ/\鳴(な)いて一(ひと)しきりして静(しづ)まると其姿(そのすがた)の見(み)えなくなるのは、大方(おほかた)其翼(そのはね)で、日(ひ)の光(ひかり)をかくしてしまふのでしやう、大(おほ)きな翼(はね)だ、まことに大(おほき)い翼(つばさ)だ、けれどもそれではない。

     第十二

日(ひ)が暮(く)れかゝると彼方(あつち)に一(ひと)ならび、此方(こつち)に一(ひと)ならび縦横(じうわう)になつて、梅(うめ)の樹(き)が飛(とび)々に暗(くら)くなる。枝(えだ)々のなかの水田(みづた)の水(みづ)がどむよりして淀(よど)むで居(ゐ)るのに際立(きはだ)つて真白(まつしろ)に見(み)えるのは鷺(さぎ)だつた、二羽(には)一処(ひとところ)にト三羽(さんば)一処(ひとところ)にト居(ゐ)てそして一羽(いちは)が六尺(しやく)ばかり空(そら)へ斜(なゝめ)に足(あし)から糸(いと)のやうに水(みづ)を引(ひ)いて立(た)つてあがつたが音(おと)がなかつた、それでもない。
蛙(かはづ)が一斉(いつせい)に鳴(な)きはじめる。森(もり)が暗(くら)くなつて、山(やま)が見(み)えなくなつた。
宵月(よいづき)の頃(ころ)だつたのに曇(くもつ)てたので、星(ほし)も見(み)えないで、陰々(いんいん)として一面(いちめん)にものゝ色(いろ)が灰(はい)のやうにうるんであつた、蛙(かはづ)がしきりになく。
仰(あを)いで高(たか)い処(ところ)に朱(しゆ)の欄干(らんかん)のついた窓(まど)があつて、そこが母様(おつかさん)のうちだつたと聞(き)く、仰(あほ)いで高(たか)い処(ところ)に朱(しゆ)の欄干(らんかん)のついた窓(まど)があつてそこから顔(かほ)を出(だ)す、其顔(そのかほ)が自分(じぶん)の顔(かほ)であつたんだらうにトさう思(おも)ひながら破(やぶ)れた垣(かき)の穴(あな)ん処(とこ)に腰(こし)をかけてぼんやりして居(ゐ)た。
いつでもあの翼(はね)の生(は)へたうつくしい人(ひと)をたづねあぐむ、其(その)昼(ひる)のうち精神(せいしん)の疲労(つかれ)ないうちは可(いゝ)んだけれど、度(ど)が過(す)ぎて、そんなに晩(おそ)くなると、いつもかう滅入(めい)つてしまつて、何(なん)だか、人(ひと)に離(はな)れたやうな世間(せけん)に遠(とほ)ざかつたやうな気(き)がするので、心細(こゝろぼそ)くもあり、裏悲(うらかな)しくもあり、覚束(おぼつか)ないやうでもあり、恐(おそ)ろしいやうでもある、嫌(いや)な心持(こゝろもち)だ、嫌(いや)な心持(こゝろもち)だ。
早(はや)く帰(かへ)らうとしたけれど気(き)が重(おも)くなつて其癖(そのくせ)神経(しんけい)は鋭(するど)くなつて、それで居(ゐ)てひとりでにあくびが出(で)た。あれ!
赤(あか)い口(くち)をあいたんだなと、自分(じぶん)でさうおもつて、吃驚(びつくり)した。
ぼんやりした梅(うめ)の枝(えだ)が手(て)をのばして立(た)つてるやうだ。あたりを□(みまは)すと真(まつ)くらで、遠(とほ)くの方(はう)で、ほう、ほうツて、呼(よ)ぶのは何(なん)だらう。冴(さ)えた通(とほ)る声(こゑ)で野末(のずゑ)を押(おし)ひろげるやうに、啼(な)く、トントントントンと谺(こだま)にあたるやうな響(ひゞ)きが遠(とほ)くから来(く)るやうに聞(き)こえる鳥(とり)の声(こゑ)は、梟(ふくらう)であつた。
一(ひと)ツでない。
二(ふた)ツも三(みつ)ツも。私(わたし)に何(なに)を談(はな)すのだらう、私(わたし)に何(なに)を談(はな)すのだらう、鳥(とり)がものをいふと慄然(ぞつ)として身(み)の毛(け)が慄立(よだ)つた。
ほんと(ママ)うに其晩(そのばん)ほど恐(こは)かつたことはない。
蛙(かはづ)の声(こゑ)がます/\高(たか)くなる、これはまた仰山(ぎやうさん)な、何百(なんびやく)、何(ど)うして幾千(いくせん)と居(ゐ)て鳴(な)いてるので、幾千(いくせん)の蛙(かはづ)が一(ひと)ツ一(ひと)ツ眼(め)があつて、口(くち)があつて、足(あし)があつて、身躰(からだ)があつて、水(みづ)ン中(なか)に居(ゐ)て、そして声(こゑ)を出(だ)すのだ。一(ひと)ツ一(ひと)ツトわなゝいた。寒(さむ)くなつた。風(かぜ)が少(すこ)し出(で)て樹(き)がゆつさり動(うご)いた。
蛙(かはづ)の声(こゑ)がます/\高(たか)くなる、居(ゐ)ても立(た)つても居(ゐ)られなくツて、そつと動(うご)き出(だ)した、身躰(からだ)が何(ど)うにかなつてるやうで、すつと立(た)ち切(き)れないで蹲(つくば)つた、裾(すそ)が足(あし)にくるまつて、帯(おび)が少(すこ)し弛(ゆる)むで、胸(むね)があいて、うつむいたまゝ天窓(あたま)がすはつた。ものがぼんやり見(み)える。
見(み)えるのは眼(め)だトまたふるえ(ママ)た。
ふるえ(ママ)ながら、そつと、大事(だいじ)に、内証(ないしやう)で、手首(てくび)をすくめて、自分(じぶん)の身躰(からだ)を見(み)やうと思(おも)つて、左右(さいう)へ袖(そで)をひらいた時(とき)もう思(おも)はずキヤツと叫(さけ)んだ。だつて私(わたし)が鳥(とり)のやうに見(み)えたんですもの。何(ど)んなに恐(こは)かつたらう。
此時(このとき)背後(うしろ)から母様(おつかさん)がしつかり抱(だ)いて下(くだ)さらなかつたら、私(わたし)何(ど)うしたんだか知(し)れません。其(それ)はおそくなつたから見(み)に来(き)て下(くだ)すつたんで泣(な)くことさへ出来(でき)なかつたのが、
「母様(おつかさん)!」といつて離(はな)れまいと思(おも)つて、しつかり、しつかり、しつかり襟(えり)ん処(とこ)へかぢりついて仰向(あふむ)いてお顔(かほ)を見(み)た時(とき)、フツト気(き)が着(つ)いた。
何(ど)うもさうらしい、翼(はね)の生(は)へたうつくしい人(ひと)は何(ど)うも母様(おつかさん)であるらしい。もう鳥屋(とりや)には、行(ゆ)くまい、わけてもこの恐(こは)い処(ところ)へと、其後(そののち)ふつゝり。
しかし何(ど)うしても何(ど)う見(み)ても母様(おつかさん)にうつくしい五色(ごしき)の翼(はね)が生(は)へちやあ居(ゐ)ないから、またさうではなく、他(ほか)にそんな人(ひと)が居(ゐ)るのかも知(し)れない、何(ど)うしても判然(はつきり)しないで疑(うたが)はれる。
雨(あめ)も晴(は)れたり、ちやうど石原(いしはら)も辷(すべ)るだらう。母様(おつかさん)はあゝおつしやるけれど、故(わざ)とあの猿(さる)にぶつかつて、また川(かは)へ落(お)ちて見(み)やうか不知(しら)。さうすりやまた引上(ひきあ)げて下(くだ)さるだらう。見(み)たいな! 翼(はね)の生(は)へたうつくしい姉(ねえ)さん。だけれども、まあ、可(いゝ)、母様(おつかさん)が居(ゐ)らつしやるから、母様(おつかさん)が居(ゐ)らつしやつたから。(完)(「新著月刊」第一号 明治30年4月)



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