弥次行
ご協力下さい!!
★暇つぶし何某★

[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:泉鏡花 

 今(いま)は然(さ)る憂慮(きづかひ)なし。大塚(おほつか)より氷川(ひかは)へ下(お)りる、たら/\坂(ざか)は、恰(あたか)も芳野世經氏宅(よしのせいけいしたく)の門(もん)について曲(まが)る、昔(むかし)は辻斬(つじぎり)ありたり。こゝに幽靈坂(いうれいざか)、猫又坂(ねこまたざか)、くらがり坂(ざか)など謂(い)ふあり、好事(かうず)の士(し)は尋(たづ)ぬべし。田圃(たんぼ)には赤蜻蛉(あかとんぼ)、案山子(かゝし)、鳴子(なるこ)などいづれも風情(ふぜい)なり。天(てん)麗(うらゝ)かにして其(その)幽靈坂(いうれいざか)の樹立(こだち)の中(なか)に鳥(とり)の聲(こゑ)す。句(く)になるね、と知(し)つた振(ふり)をして聲(こゑ)を懸(か)くれば、何(なに)か心得(こゝろえ)たる樣子(やうす)にて同行(どうかう)の北八(きたはち)は腕組(うでぐみ)をして少時(しばらく)默(だま)る。
 氷川神社(ひかはじんじや)を石段(いしだん)の下(した)にて拜(をが)み、此宮(このみや)と植物園(しよくぶつゑん)の竹藪(たけやぶ)との間(あひだ)の坂(さか)を上(のぼ)りて原町(はらまち)へ懸(かゝ)れり。路(みち)の彼方(あなた)に名代(なだい)の護謨(ごむ)製造所(せいざうしよ)のあるあり。職人(しよくにん)眞黒(まつくろ)になつて働(はたら)く。護謨(ごむ)の匂(にほひ)面(おもて)を打(う)つ。通(とほ)り拔(ぬ)ければ木犀(もくせい)の薫(かをり)高(たか)き横町(よこちやう)なり。これより白山(はくさん)の裏(うら)に出(い)でて、天外君(てんぐわいくん)の竹垣(たけがき)の前(まへ)に至(いた)るまでは我々(われ/\)之(これ)を間道(かんだう)と稱(とな)へて、夜(よる)は犬(いぬ)の吠(ほ)ゆる難處(なんしよ)なり。件(くだん)の垣根(かきね)を差覗(さしのぞ)きて、をぢさん居(ゐ)るか、と聲(こゑ)を懸(か)ける。黄菊(きぎく)を活(い)けたる床(とこ)の間(ま)の見透(みとほ)さるゝ書齋(しよさい)に聲(こゑ)あり、居(ゐ)る/\と。
 やがて着流(きなが)し懷手(ふところで)にて、冷(つめた)さうな縁側(えんがは)に立顯(たちあらは)れ、莞爾(につこ)として曰(いは)く、何處(どこ)へ。あゝ北八(きたはち)の野郎(やらう)とそこいらまで。まあ、お入(はひ)り。いづれ、と言(い)つて分(わか)れ、大乘寺(だいじようじ)の坂(さか)を上(のぼ)り、駒込(こまごめ)に出(い)づ。
 料理屋(れうりや)萬金(まんきん)の前(まへ)を左(ひだり)へ折(を)れて眞直(まつすぐ)に、追分(おひわけ)を右(みぎ)に見(み)て、むかうへ千駄木(せんだぎ)に至(いた)る。
 路(みち)に門(もん)あり、門内(もんない)兩側(りやうがは)に小松(こまつ)をならべ植(う)ゑて、奧深(おくふか)く住(すま)へる家(いへ)なり。主人(あるじ)は、巣鴨(すがも)邊(へん)の學校(がくかう)の教授(けうじゆ)にて知(し)つた人(ひと)。北八(きたはち)を顧(かへり)みて、日曜(にちえう)でないから留守(るす)だけれども、氣(き)の利(き)いた小間使(こまづかひ)が居(ゐ)るぜ、一寸(ちよつと)寄(よ)つて茶(ちや)を呑(の)まうかと笑(わら)ふ。およしよ、と苦(にが)い顏(かほ)をする。即(すなは)ちよして、團子坂(だんござか)に赴(おもむ)く。坂(さか)の上(うへ)の煙草屋(たばこや)にて北八(きたはち)嗜(たし)む處(ところ)のパイレートを購(あがな)ふ。勿論(もちろん)身錢(みぜに)なり。此(こ)の舶來(はくらい)煙草(たばこ)此邊(このへん)には未(いま)だ之(こ)れあり。但(たゞ)し濕(しめ)つて味(あじはひ)可(か)ならず。
 坂(さか)の下(した)は、左右(さいう)の植木屋(うゑきや)、屋外(をくぐわい)に足場(あしば)を設(まう)け、半纏着(はんてんぎ)の若衆(わかもの)蛛手(くもで)に搦(から)んで、造菊(つくりぎく)の支度最中(したくさいちう)なりけり。行(ゆ)く/\フと古道具屋(ふるだうぐや)の前(まへ)に立(た)つ。彌次(やじ)見(み)て曰(いは)く、茶棚(ちやだな)はあんなのが可(い)いな。入(い)らつしやいまし、と四十恰好(しじふかつかう)の、人柄(ひとがら)なる女房(にようばう)奧(おく)より出(い)で、坐(ざ)して慇懃(いんぎん)に挨拶(あいさつ)する。南無三(なむさん)聞(きこ)えたかとぎよつとする。爰(こゝ)に於(おい)てか北八(きたはち)大膽(だいたん)に、おかみさん彼(あ)の茶棚(ちやだな)はいくら。皆(みな)寒竹(かんちく)でございます、はい、お品(しな)が宜(よろ)しうございます、五圓六十錢(ごゑんろくじつせん)に願(ねが)ひたう存(ぞん)じます。兩人(りやうにん)顏(かほ)を見合(みあは)せて思入(おもひいれ)あり。北八(きたはち)心得(こゝろえ)たる顏(かほ)はすれども、さすがにどぎまぎして言(い)はむと欲(ほつ)する處(ところ)を知(し)らず、おかみさん歸(かへり)にするよ。唯々(はい/\)。お邪魔(じやま)でしたと兄(にい)さんは旨(うま)いものなり。虎口(ここう)を免(のが)れたる顏色(かほつき)の、何(ど)うだ、北八(きたはち)恐入(おそれい)つたか。餘計(よけい)な口(くち)を利(き)くもんぢやないよ。
 思(おも)ひ懸(が)けず又(また)露地(ろぢ)の口(くち)に、抱餘(かゝへあま)る松(まつ)の大木(たいぼく)を筒切(つゝぎり)にせしよと思(おも)ふ、張子(はりこ)の恐(おそろ)しき腕(かひな)一本(いつぽん)、荷車(にぐるま)に積置(つみお)いたり。追(おつ)て、大江山(おほえやま)はこれでござい、入(い)らはい/\と言(い)ふなるべし。
 笠森稻荷(かさもりいなり)のあたりを通(とほ)る。路傍(みちばた)のとある駄菓子屋(だぐわしや)の奧(おく)より、中形(ちうがた)の浴衣(ゆかた)に繻子(しゆす)の帶(おび)だらしなく、島田(しまだ)、襟白粉(えりおしろい)、襷(たすき)がけなるが、緋褌(ひこん)を蹴返(けかへ)し、ばた/\と駈(か)けて出(い)で、一寸(ちよつと)、煮豆屋(にまめや)さん/\。手(て)には小皿(こざら)を持(も)ちたり。四五軒(しごけん)行過(ゆきす)ぎたる威勢(ゐせい)の善(よ)き煮豆屋(にまめや)、振返(ふりかへ)りて、よう!と言(い)ふ。
 そら又(また)化性(けしやう)のものだと、急足(いそぎあし)に谷中(やなか)に着(つ)く。いつも變(かは)らぬ景色(けしき)ながら、腕(うで)と島田(しまだ)におびえし擧句(あげく)の、心細(こゝろぼそ)さいはむ方(かた)なし。
 森(もり)の下(した)の徑(こみち)を行(ゆ)けば、土(つち)濡(ぬ)れ、落葉(おちば)濕(しめ)れり。白張(しらはり)の提灯(ちやうちん)に、薄(うす)き日影(ひかげ)さすも物淋(ものさび)し。苔(こけ)蒸(む)し、樒(しきみ)枯(か)れたる墓(はか)に、門(もん)のみいかめしきもはかなしや。印(しるし)の石(いし)も青(あを)きあり、白(しろ)きあり、質(しつ)滑(なめらか)にして斑(ふ)のあるあり。あるが中(なか)に神婢(しんぴ)と書(か)いたるなにがしの女(ぢよ)が耶蘇教徒(やそけうと)の十字形(じふじがた)の塚(つか)は、法(のり)の路(みち)に迷(まよ)ひやせむ、異國(いこく)の人(ひと)の、友(とも)なきかと哀(あはれ)深(ふか)し。
 竹(たけ)の埒(らち)結(ゆ)ひたる中(なか)に、三四人(さんよにん)土(つち)をほり居(ゐ)るあたりにて、路(みち)も分(わか)らずなりしが、洋服(やうふく)着(き)たる坊(ばう)ちやん二人(ふたり)、學校(がくかう)の戻(もどり)と見(み)ゆるがつか/\と通(とほ)るに頼母(たのも)しくなりて、後(あと)をつけ、やがて木(こ)の間(ま)に立(た)つ湯氣(ゆげ)を見(み)れば掛茶屋(かけぢやや)なりけり。
 休(やす)ましておくれ、と腰(こし)をかけて一息(ひといき)つく。大分(だいぶ)お暖(あつたか)でございますと、婆(ばゞ)は銅(あかゞね)の大藥罐(おほやくわん)の茶(ちや)をくれる。床几(しやうぎ)の下(した)に俵(たはら)を敷(し)けるに、犬(いぬ)の子(こ)一匹(いつぴき)、其日(そのひ)の朝(あさ)より目(め)の見(み)ゆるものの由(よし)、漸(やつ)と食(しよく)づきましたとて、老年(としより)の餘念(よねん)もなげなり。折(をり)から子(こ)を背(せな)に、御新造(ごしんぞ)一人(いちにん)、片手(かたて)に蝙蝠傘(かうもりがさ)をさして、片手(かたて)に風車(かざぐるま)をまはして見(み)せながら、此(こ)の前(まへ)を通(とほ)り行(ゆ)きぬ。あすこが踏切(ふみきり)だ、徐々(そろ/\)出懸(でか)けようと、茶店(ちやてん)を辭(じ)す。
 何(ど)うだ北八(きたはち)、線路(せんろ)の傍(わき)の彼(あ)の森(もり)が鶯花園(あうくわゑん)だよ、畫(ゑ)に描(か)いた天女(てんによ)は賣藥(ばいやく)の廣告(くわうこく)だ、そんなものに、見愡(みと)れるな。おつと、また其(その)古道具屋(ふるだうぐや)は高(たか)さうだぜ、お辭儀(じぎ)をされると六(むづ)ヶしいぞ。いや、何(なに)か申(まを)す内(うち)に、ハヤこれは笹(さゝ)の雪(ゆき)に着(つ)いて候(さふらふ)が、三時(さんじ)すぎにて店(みせ)はしまひ、交番(かうばん)の角(かど)について曲(まが)る。この流(ながれ)に人(ひと)集(つど)ひ葱(ねぎ)を洗(あら)へり。葱(ねぎ)の香(か)の小川(をがは)に流(なが)れ、とばかりにて句(く)にはならざりしが、あゝ、もうちつとで思(おも)ふこといはぬは腹(はら)ふくるゝ業(わざ)よといへば、いま一足(ひとあし)早(はや)かりせば、笹(さゝ)の雪(ゆき)が賣切(うりきれ)にて腹(はら)ふくれぬ事(こと)よといふ。さあ、じぶくらずに、歩行(ある)いた/\。
 一寸(ちよつと)伺(うかゞ)ひます。此路(このみち)を眞直(まつすぐ)に參(まゐ)りますと、左樣(さやう)三河島(みかはしま)と、路(みち)を行(ゆ)く人(ひと)に教(をし)へられて、おや/\と、引返(ひきかへ)し、白壁(しらかべ)の見(み)ゆる土藏(どざう)をあてに他(た)の畦(あぜ)を突切(つツき)るに、ちよろ/\水(みづ)のある中(なか)に紫(むらさき)の花(はな)の咲(さ)いたる草(くさ)あり。綺麗(きれい)といひて見返勝(みかへりがち)、のんきにうしろ歩行(あるき)をすれば、得(え)ならぬ臭(にほひ)、細(ほそ)き道(みち)を、肥料室(こやしむろ)の挾撃(はさみうち)なり。目(め)を眠(ねむ)つて吶喊(とつかん)す。既(すで)にして三島神社(みしまじんじや)の角(かど)なり。

ご協力下さい!!
◇暇つぶし何某◇

[次ページ]
[ページジャンプ]
[青空文庫の検索]
[おまかせリスト]
[ブックマーク登録]
[作品情報参照]
[mixiチェック!]
[Twitterに投稿]
[話題のニュース]
[列車運行情報]
[暇つぶし青空文庫]

Size:21 KB

担当:FIRTREE