神鷺之巻
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著者名:泉鏡花 

くされたというは心持で、何ですか、水に棲(す)むもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不具(かたわ)でも、虫でもいい。鳶(とんび)鴉(からす)でも、鮒(ふな)、鰌(どじょう)でも構わない。その子を連れて、勧進比丘尼(かんじんびくに)で、諸国を廻(めぐ)って親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。」
「ああ、観音の利益だなあ。」
 つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。
「その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。」
「…………」
「鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな形(なり)もする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……」
    (!…………)
「焼火箸を脇の下へ突貫(つきぬ)かれた気がしました。扇子(おうぎ)をむしって棄(す)ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺(しび)れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛(か)みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍(みちばた)のつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。
 もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜(くやし)くって、もどかしくって居堪(いたたま)らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟(たたり)の鋭い、明神様に、一昨日(おととい)と、昨日(きのう)、今日……」
 ――誓ただひとりこの御堂(みどう)に――
「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――前刻(さっき)も前刻、絵馬の中に、白い女の裸身(はだかみ)を仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安達(あだち)ヶ原の孤家(ひとつや)の、もの凄(すご)いのを見ますとね。」
(――実は、その絵馬は違っていた――)
「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡(なか)で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這(は)うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨(おお)きな鼻が息をするような、その鼻が舐(な)めるような、舌を出すような、蒼黄色(あおぎいろ)い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死(いきしに)も知らないでいたうちの事が現(うつつ)に顕(あら)われて、お腹の中で、土蜘蛛(つちぐも)が黒い手を拡げるように動くんですもの。
 帯を解いて、投げました。
 ええ、男に許したのではない。
 自分の腹を露出(むきだ)したんです。
 芬(ぷん)と、麝香(じゃこう)の薫(かおり)のする、金襴(きんらん)の袋を解いて、長刀(なぎなた)を、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子(ちょうじ)の香がしましたのです。」……

 この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。
 誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。
 ――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元結(もとゆい)を掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、静(しずか)に掛直した。お誓は偉い!……落着いている。
 そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。
 下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……
 ちっと擽(くすぐ)ったいばかり。こういう時の男の起居挙動(たちいふるまい)は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視(み)ていた。薙刀の、それからはじめて。――
 一度横目を流したが、その時は、投げた単衣(ひとえ)の後褄(うしろづま)を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出(けだ)しの色の片膝を立て、それによりかかるように脛(はぎ)をあらわに、おくれ毛を撫(な)でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。
「その絵馬なんですわ、小県さん。」
 起(た)つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢(けはい)は通ずる。安達ヶ原の……
「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎(まないた)の上へ――裸体(はだか)の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄(すご)い鬼婆々(おにばばあ)じゃなくって、鮹(たこ)の口を尖(とが)らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事(ねがいごと)でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」
 事情(ことがら)も解(よ)めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視(なが)めていたのは、その次の絵馬で。
 はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛(ひとはけ)なすりつけた、波の線が太いから、海を被(かつ)いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈(かれい)、比目魚(ひらめ)には、どんよりと色が赤い。赤□(あかえい)だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎(まちじょろう)の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。
 斑□(はんみょう)だ。斑□が留っていた。
「お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗(きれい)な虫が一つ居はしませんか、虫が。」
「ええ。」
「居る?」
「ええ。居ますわ。」
 バタリと口に啣(くわ)えた櫛(くし)が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛(ひっか)けを手繰っていたが、
「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪(かんざし)も衣(き)ものも欲(ほし)いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」
 筐(かたみ)の簪、箪笥(たんす)の衣(きぬ)、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。
 いや、懸念に堪えない。
「玉虫どころか……」
 名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。
「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」
「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢(びん)の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体(からだ)を、構わんですわ。」
 ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念(あきらめ)がよく聞えた。いやが上に、それも可哀(あわれ)で、その、いじらしさ。
「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」
 再び巨榎(おおえのき)の翠(みどり)の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視(み)た。
 水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。
「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可(よ)かった。」
 引立てて階(きざはし)を下りた、その蔀格子(しとみごうし)の暗い処に、カタリと音がした。
「あれ、薙刀がはずれましたか。」
 清水の面(おもて)が、柄杓(ひしゃく)の苔(こけ)を、琅□(ろうかん)のごとく、梢(こずえ)もる透間(すきま)を、銀象嵌(ぎんぞうがん)に鏤(ちりば)めつつ、そのもの音の響きに揺れた。
「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……
 榎の梢を、兎のような雲にのって。
「桃色の三日月様のように。」
 と言った。
 松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎(かげろう)を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭(と)き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅(とき)の羅(うすもの)して、あま翔(かけ)る鳥の翼を見よ。
「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」
「行って、どうします? 行って。」
「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗(ひきだし)にしまって封をすれば、仏様の情(なさけ)を仇(あだ)の女の邪念で、蛇、蛭(ひる)に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛(くも)になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭(さと)しなんです。小県さん。あの沼は、真中(まんなか)が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」
 と、銑吉の袂(たもと)の端を確(しか)と取った。
「行(ゆ)く道が分っていますか。」
「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」――
 欄干の折れた西の縁の出端(はずれ)から、袖形に地の靡(なび)く、向うの末の、雑樹(ぞうき)茂り、葎蔽(むぐらおお)い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予(ため)らわず潜(くぐ)る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝(うね)って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退(さが)ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹(しまぎぬ)に黒髪した遁水(にげみず)のごとき姿を追ったからである。
 沼は、不忍(しのばず)の池を、その半(なかば)にしたと思えば可(い)い。ただ周囲に蓊鬱(おううつ)として、樹が茂って暗い。
 森をくぐって、青い姿見が蘆間(あしま)に映った時である。
 汀(なぎさ)の、斜向(はすむこ)うへ――巨(おおき)な赤い蛇が顕(あら)われた。蘆萱(かや)を引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤(まっか)なヘルメット帽である。
 小県が追縋(おいすが)る隙(すき)もなかった。
 衝(つ)と行(ゆ)く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙(しろたえ)なる、乳首の深秘は、幽(かすか)に雪間の菫(すみれ)を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
「畜生……」
 と云った、女の声とともに、谺(こだま)が冴えて、銃が響いた。
 小県は草に、伏(ふせ)の構(かまえ)を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行(や)るかも知れない……爪さきに接吻(キス)をしようとしたのではない。ものいう間(ま)もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
 その草伏(くさぶし)の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽(ぬ)いて、高く、金色(こんじき)の夕日に聳(そばだ)って見えた。斉(ひと)しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖(とが)った、巨(おおい)なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投(なげ)るのを視た。足でなく、頭で雀躍(こおどり)したのである。たちまち、法衣(ころも)を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢(いきおい)よく沼へ入った。
 続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
 中心へ近づくままに、掻(か)く手の肱(ひじ)の上へ顕(あら)われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸(きのこ)のくさりかかったような面(おもて)を視た。水に拙(つたな)いのであろう。喘(あえ)ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形(おんぎょう)の一術(ひとて)であろうも計られぬ。
「ばか。」
 投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
 早く解いて流した紅(くれない)の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼(は)を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来(きた)り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行(ゆ)く。その、花片(はなびら)に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
 鼻を仰向け、諸手(もろて)で、腹帯を掴(つか)むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜(ひるがえ)った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
 ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八爺(じい)が押えたのが見える。押えられて、手を突込(つっこ)んだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀(こおろぎ)のように□(もが)いて、頭で臼(うす)を搗(つ)いていた。

「――そろそろと歩行(ある)いて行(ゆ)き、ただ一番あとのものを助けるよう――」
 途中から女の子に呼戻させておいて、媼巫女(うばみこ)、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って――方角を教えた。
 ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。
 この少年は、少なからぬ便宜を与えた。――検(しらべ)する官人の前で、
「――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真赤(まっか)になる情報があったであります。緋(ひ)の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真紅(まっか)な鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。」
 と明確に言った。
 のみならず、紳士の舌には、斑□がねばりついていた。
 一人として事件に煩わされたものはない。
 汀(なぎさ)で、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝薬(しょうやく)のにおいがしたからである。
 水を汲(く)もうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り駈(が)けに駈けつけた孫八が慌(あわただ)しく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前等(めえら)がいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。……
 明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。
 清水につくと、魑魅(すだま)が枝を下り、茂りの中から顕(あら)われたように見えたが、早く尾根づたいして、八十路(やそじ)に近い、脊の低い柔和なお媼(ばあ)さんが、片手に幣結(しでゆ)える榊(さかき)を持ち、杖(つえ)はついたが、健(すこやか)に来合わせて、
「苦労さしゃったの。もうよし、よし。」
 と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下で擦(さす)って微笑(ほほえ)んだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、弾丸(たま)は外(そ)れたらしい。小指のさきほどの打身があった。淡(うす)いふすぼりが、媼(うば)の手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの冷罨法(れいあんぽう)にも合(かな)えるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、乳(ち)が銀の露に汗ばんで、濡色の睫毛(まつげ)が生きた。
 町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、
「お前様は?」
 お誓が聞くと、
「姫神様がの、お冠の纓(ひも)が解けた、と御意じゃよ。」

 これを聞いて、活ける女神(じょしん)が、なぜみずからのその手にて、などというものは、烏帽子折(えぼしおり)を思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。

       五

 神巫(いちこ)たちは、数々(しばしば)、顕霊を示し、幽冥(ゆうめい)を通じて、俗人を驚かし、郷土に一種の権力をさえ把持(はじ)すること、今も昔に、そんなにかわりなく、奥羽地方は、特に多い、と聞く。
 むかし、秋田何代かの太守が郊外に逍遥(しょうよう)した。小やすみの庄屋が、殿様の歌人なのを知って、家に持伝えた人麿の木像を献じた。お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない――帰途に、身が領分に口寄(くちよせ)の巫女(いちこ)があると聞く、いまだ試みた事がない。それへ案内(あない)をせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのである。

 しのびで、裏町の軒へ寄ると、破屋(あばらや)を包む霧寒く、松韻颯々(さつさつ)として、白衣(びゃくえ)の巫女が口ずさんだ。
「ほのぼのと……」
 太守は門口(かどぐち)を衝(つ)と引いた。「これよ。」「ははッ。」「巫女に謝儀をとらせい。……あの輩(やから)の教化は、士分にまで及ぶであろうか。」「泣きみ、笑いみ……ははッ、ただ婦女子のもてあそびものにござりまする。」「さようか――その儀ならば、」……仔細(しさい)ない。
 が、孫八の媼(うば)は、その秋田辺のいわゆる(おかみん)ではない。越後路(えちごじ)から流漂(るひょう)した、その頃は色白な年増であった。呼込んだ孫八が、九郎判官は恐れ多い。弁慶が、ちょうはん、熊坂ではなく、賽(さい)の目の口でも寄せようとしたのであろう。が、その女振(ぶり)を視(み)て、口説(くど)いて、口を遁(に)げられたやけ腹に、巫女の命とする秘密の箱を攫(さら)って我が家を遁げて帰らない。この奇略は、モスコオの退都に似ている。悪孫八が勝ち、無理が通った。それも縁であろう。越後巫女(みこ)は、水飴(みずあめ)と荒物を売り、軒に草鞋(わらじ)を釣(つる)して、ここに姥塚(うばづか)を築くばかり、あとを留(とど)めたのであると聞く。

 ――前略、当寺檀那、孫八どのより申上げ候。入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に快癒(かいゆ)、鬱散(うっさん)のそとあるきも出来候との事、御安心下され度(たく)候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、其(そ)の砌(みぎり)某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦冥(かいめい)、雹(ひょう)の降ること凄(すさ)まじく、且(かつ)は電光の中(うち)に、清げなる婦人一人(にん)、同所、鳥博士の新墓の前に彳(たたず)み候が、冷く莞爾(にこり)といたし候とともに、手の壺微塵(みじん)に砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流れ、降積りたる雹を染め候が、赤き霜柱の如く、暫時(しばし)は消えもやらず有之(これあり)候よし、貧道など口にいたし候もいかが、相頼まれ申候ことづてのみ、いずれ仏菩薩の思召す処にはこれあるまじく、奇(く)しく厳(いつく)しき明神の嚮導(きょうどう)指示のもとに、化鳥の類の所為(しょい)にもやと存じ候――
西明寺   木魚。 和尚さんも、貧地の癖に「木魚」などと洒落(しゃ)れている。が、それはとにかく――(上人の手紙は取意の事)東京の小県へこの来書の趣は、婦人が受辱(じゅにく)、胎蔵(たいぞう)の玻璃(はり)を粉砕して、汚血(おけつ)を猟色の墳墓に、たたき返したと思われぬでもない。
昭和八(一九三三)年一月



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