第二菎蒻本
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著者名:泉鏡花 

       一

 雪の夜路(よみち)の、人影もない真白(まっしろ)な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍(わき)なる置炬燵(おきごたつ)に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦(おんな)の一重々々(ひとえひとえ)、燃立つような長襦袢(ながじゅばん)ばかりだった姿は、思い懸けずもまた類(たぐい)なく美しいものであった。
 膚(はだ)を蔽(おお)うに紅(くれない)のみで、人の家に澄まし振(ふり)。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。
 世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪(あやし)まなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂(あが)って、路々の雪礫(ゆきつぶて)に目が眩(くら)んだ次第ではない。
 ――逢いに来た――と報知(しらせ)を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家(うち)から、番傘を傾け傾け、雪を凌(しの)いで帰る途中も、その婦(おんな)を思うと、鎖(とざ)した町家(まちや)の隙間洩(も)る、仄(ほのか)な燈火(あかり)よりも颯(さっ)と濃い緋(ひ)の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視(み)たのであるから。
 当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己(ちかづき)が集って、袋廻しの運座があった。雪を当込(あてこ)んだ催(もよおし)ではなかったけれども、黄昏(たそがれ)が白くなって、さて小留(こや)みもなく降頻(ふりしき)る。戸外(おもて)の寂寞(さみ)しいほど燈(ともしび)の興は湧(わ)いて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚(ふぐ)も鉄砲も、持って来い。……勢(いきおい)はさりながら、もの凄(すご)いくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破(すわ)や、蒐(かか)れと、木戸を開いて切って出(い)づべき矢種はないので、逸雄(はやりお)の面々歯噛(はがみ)をしながら、ひたすら籠城(ろうじょう)の軍議一決。
 そのつもりで、――千破矢(ちはや)の雨滴(あまだれ)という用意は無い――水の手の燗徳利(かんどくり)も宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自(てんで)が、好(すき)、悪(きらい)、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一(ひとつ)……何某(なにがし)……好(すき)なものは、美人。
「遠慮は要らないよ。」
 悪(にく)むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。
 箇条の中に、最好、としたのがあり。
「この最好というのは。」
「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引(ひっ)くるめてちょっと金麩羅(きんぷら)にして頬張るんだ。」
 その標目(みだし)の下へ、何よりも先に==待人来(きた)る==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。
 襖(ふすま)をすうと開けて、当家の女中が、
「吉岡さん、お宅からお使(つかい)でございます。」
「内から……」
「へい、女中さんがお見えなさいました。」
「何てって?」
「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」
「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。
 お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人(としより)を持つ胸に応(こた)えた。
「敵の間諜(まわしもの)じゃないか。」と座の右に居て、猪口(ちょく)を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向(うつむ)いたままで云った。
「まさか。」
 と□(みまわ)すと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、燈(あかり)の色が颯(さっ)と白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。

       二

「ちょっと、失礼する。」
 で、引返して行(ゆ)く女中のあとへついて、出しなに、真中(まんなか)の襖(ふすま)を閉める、と降積(ふりつも)る雪の夜(よ)は、一重(ひとえ)の隔(へだて)も音が沈んで、酒の座は摺退(すりの)いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴(きな)れた家(うち)で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。
 取次いだ女中は、もう台所へ出て、鍋(なべ)を上る湯気の影。
 そこから彗星(ほうきぼし)のような燈(あかり)の末が、半ば開けかけた襖越、仄(ほのか)に玄関の畳へさす、と見ると、沓脱(くつぬぎ)の三和土(たたき)を間(あい)に、暗い格子戸にぴたりと附着(くッつ)いて、横向きに立って[#「立って」は底本では「立つて」]いたのは、俊吉の世帯に年増(としま)の女中で。
 二月ばかり給金の借(かり)のあるのが、同じく三月ほど滞(とどこお)った、差配で借りた屋号の黒い提灯(ちょうちん)を袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立(たなだ)てをくわせもしまい。
「おい、……何だ、何だ。」と框(かまち)まで。
「あ、旦那様。」
 と小腰を屈(かが)めたが、向直って、
「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。
 余り要ありそうなのに、急(せ)き心に声が苛立(いらだ)って、
「入れよ、こっちへ。」
「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿(はき)ものが、」
 成程、暴風雨(あらし)の舟が遁込(にげこ)んださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。
「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」
「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から燈(あかり)の透く、その正面の襖を閉めた。
 真暗(まっくら)になる土間の其方(そなた)に、雪の袖なる提灯一つ、夜を遥(はるか)な思(おもい)がする。
 労(ねぎ)らい心で、
「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。
「もう、貴方(あなた)、足駄(あしだ)が沈みますほどでございます。」
 聞きも果てずに格子に着いて、
「何だ。」
「お客様でございまして。」と少し顔を退(ど)けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸(いき)づかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。
「誰だ。」
「あの、宮本様とおっしゃいます。」
「宮本……どんな男だ。」
 時に、傘(からかさ)を横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を潜(くぐ)った。
「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」
「婦(おんな)が?」
「はい。」
「婦だ……待ってるのか。」
「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」
「はてな、……」
 とのみで、俊吉はちょっと黙った。
 女中は、その太った躯(からだ)を揉(も)みこなすように、も一つ腰を屈(かが)めながら、
「それに、あの、お出先へお迎いに行(ゆ)くのなら、御朋輩(ごほうばい)の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証(ないしょ)でと、くれぐれも、お託(ことづ)けでございましたものですから。」
「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」
「ええ、御遠方。」
「遠い処か。」
「深川からとおっしゃいました。」
「ああ、襟巻なんか取らんでも可(い)い。……お帰り。」
 女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、
「どういたしましょう。」
「……可(よ)し、直ぐ帰る。」
 座敷に引返(ひっかえ)そうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、
「どんな風采(ふう)をしている。」と声を密(ひそ)めると。
「あの真紅(まっか)なお襦袢(じゅばん)で、お跣足(はだし)で。」

       三

「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」
 俊吉は、外套(がいとう)も無(な)しに、番傘で、帰途(かえり)を急ぐ中(うち)に、雪で足許(あしもと)も辿々(たどたど)しいに附けても、心も空も真白(まっしろ)に跣足(はだし)というのが身に染みる。
 ――しかし可訝(おか)しい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損(しそこな)いで、あの、お染(そめ)の、あの体(からだ)に、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――
 □(みまわ)せば、我が袖も、他(ひと)の垣根も雪である。
 ――去年の夏、たしか八月の末と思う、――
 その事のあった時、お染は白地明石(あかし)に藍(あい)で子持縞(こもちじま)の羅(うすもの)を着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋(げいしゃや)に丸抱えという、可哀(あわれ)な流(ながれ)にしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、明(あかる)いのも、そこいら、……御神燈並(なみ)に、絽(ろ)なり、お召(めし)なり単衣(ひとえもの)に衣更(きか)える筈(はず)。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤(で)て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染(なじみ)は無いらしく、連立って行(ゆ)く先を、内証で、抱主(かかえぬし)の蔦家(つたや)の女房とひそひそと囁(ささや)いて、その指図に任かせた始末。
 披露(ひろめ)の日は、目も眩(くら)むように暑かったと云った。
 主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣(ほろ)を掛けて護謨輪(ゴムわ)を軋(きし)らせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘(こうもり)をさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。
「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児(あかんぼ)に生れかわった気になったんですけれど、情(なさけ)ないッてなかったわ。
 その洋傘(かさ)だって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行(ある)いた、黄色い汚点(しみ)だらけなんじゃありませんか。
 そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」
 と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩(おもや)せた、が、色の白い顋(おとがい)で圧(おさ)えて云う。
 その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、膚(はだえ)を包んだ紅(くれない)であった。
「……この土地じゃ、これでないと不可(いけな)いんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。
 それで、白足袋でお練(ねり)でしょう。もう五にもなって真白(まっしろ)でしょう、顔はむらになる……奥山相当で、煤(すす)けた行燈(あんどん)の影へ横向きに手を支(つ)いて、肩で挨拶(あいさつ)をして出るんなら可(い)いけれど、それだって凄(すご)いわね。
 真昼間(まっぴるま)でしょう、遣切(やりき)れたもんじゃありゃしない。
 冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘(かさ)を持った手が辷(すべ)るんですもの、掌(てのひら)から、」
 と二の腕が衝(つ)と白く、且つ白麻の手巾(ハンケチ)で、ト肩をおさえて、熟(じっ)と見た瞼(まぶた)の白露。
 ――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々(しらじら)と俤(おもかげ)立(た)つ。

       四

「この、お前さん手巾(ハンケチ)でさ、洋傘(かさ)の柄を、しっかりと握って歩行(ある)きましたんですよ。
 あとへ跟(つ)いて来る女房(おかみ)さんの風俗(ふう)ッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長(すそなが)か何かで、鬢(びん)をべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、売(うり)ますの口上言いだわね。
 察して下さいな。」
 と遣瀬(やるせ)なげに、眉をせめて俯目(ふしめ)になったと思うと、まだその上に――気障(きざ)じゃありませんか、駈出(かけだ)しの女形がハイカラ娘の演(す)るように――と洋傘(かさ)を持った風采(なり)を自ら嘲(あざわら)った、その手巾(ハンケチ)を顔に当てて、水髪や荵(しのぶ)の雫(しずく)、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓(げいこ)島田を俯向(うつむ)けに膝に突伏(つっぷ)した。
 その時、待合の女房が、襖越(ふすまごし)に、長火鉢の処(とこ)で、声を掛けた。
「染ちゃん、お出ばなが。」
 俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀(とし)ではない。遊女(つとめ)あがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、侮(あなど)り、軽(かろ)んじ、冷評(ひやか)されたような気がして、悚然(ぞっ)として五体を取って引緊(ひきし)められたまで、極(きま)りの悪い思いをしたのであった。
 いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。
 思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。
 はじめ、無理をして廓(くるわ)を出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓(げいしゃ)になった。
 その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎気質(かたぎ)の赫(かッ)と逆上(のぼ)せた深嵌(ふかはま)りで、家も店も潰(つぶ)した果(はて)が、女房子を四辻へ打棄(うっちゃ)って、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて遁(に)げると、旅籠住居(はたごずまい)の気を換える見物の一夜。洲崎(すさき)の廓(くるわ)へ入った時、ここの大籬(おおまがき)の女を俺が、と手折(たお)った枝に根を生(はや)す、返咲(かえりざき)の色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。
 まず引掛(ひっかけ)の昼夜帯が一つ鳴って〆(しま)った姿。わざと短い煙管(きせる)で、真新しい銅壺(どうこ)に並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、廓(くるわ)をちらつく影法師を見て思出したか。
 ――勘定(つけ)をかく、掛(かけ)すずりに袖でかくして参らせ候、――
 二年ぶり、打絶えた女の音信(たより)を受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、主(ぬし)あるものに、あえて返事もしなかったのである。
 〆(しめ)の形や、雁(かり)の翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋(はるあき)の空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居(すまい)に届いたけれども、疑(うたがい)も嫉妬(しっと)も無い、かえって、卑怯(ひきょう)だ、と自分を罵(ののし)りながらも逢わずに過した。
 朧々(おぼろおぼろ)の夜(よ)も過ぎず、廓は八重桜の盛(さかり)というのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻(くしまき)が褄(つま)白(しろ)く土手の暗がりを忍んで出たろう。
 引手茶屋は、ものの半年とも持堪(もちこた)えず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を倒(さかさま)に浅草へ流着(ながれつ)いた。……手切(てぎれ)の髢(かもじ)も中に籠(こ)めて、芸妓髷(げいしゃまげ)に結(い)った私、千葉の人とは、きれいに分(わけ)をつけ参らせ候(そろ)。
 そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥(ほととぎす)。奥山の青葉頃。……
 雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。

       五

 八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島(むこうじま)[#ルビの「むこうじま」は底本では「むかうじま」]の百花園に行った帰途(かえるさ)、三囲(みめぐり)のあたりから土手へ颯(さっ)と雲が懸(かか)って、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車(くるま)で来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓(ざっとう)。急な雨の混雑はまた夥(おびただ)しい。江戸中の人を箱詰(はこづめ)にする体裁(ていたらく)。不見識なのはもちに捏(でっ)ちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着(くッつ)く。
 電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうに軋(きし)んで出る。それをも厭(いと)わない浅間しさで、児(こ)を抱いた洋服がやっと手を縋(すがっ)って乗掛(のっか)けた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児(こども)がぎゃっと悲鳴を揚げた。
 この発奮(はずみ)に、
「乗るものか。」
 濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出(かけだ)したが。
 仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞(ひっそり)としたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂(みどう)の石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、廂(ひさし)の頼母(たのも)しさを親船の舳(みよし)のように仰いで、沫(しぶき)を避(よ)けつつ、吻(ほつ)と息。
 濡れた帽子を階段擬宝珠(ぎぼし)に預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然(ぼうぜん)としてしばらく彳(たたず)む。……
 風が出て、雨は冷々(ひやひや)として小留(おや)むらしい。
 雫(しずく)で、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合(かきあわ)す。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。
 早や暮れかかって、ちらちらと点(とも)れる、灯の数ほど、ばらばら誰彼(たそがれ)の人通り。
 話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠(こうもり)のように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立(こだち)も見えて、濃く淡く墨になり行く。
 朝から内を出て、随分遠路(とおみち)を掛けた男は、不思議に遥々(はるばる)と旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。
「訪ねてみようか、この近処だ。」
 既に、駈込(かけこ)んで、一呼吸(ひといき)吐(つ)いた頃から、降籠(ふりこ)められた出前(でさき)の雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢(はか)ない顔を出して格子に縋(すが)って、此方(こなた)を差覗(さしのぞ)くような気がして、筋骨(すじぼね)も、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいや増(まさ)る。……
 ここで逢うのは、旅路遥(はるか)な他国の廓(くるわ)で、夜更けて寝乱れた従妹(いとこ)にめぐり合って、すがり寄る、手の緋縮緬(ひぢりめん)は心の通う同じ骨肉の血であるがごとく胸をそそられたのである。
 抱えられた家も、勤めの名も、手紙のたよりに聞いて忘れぬ。
「可(よ)し。」
 肩を揺(ゆす)って、一ツ、胸で意気込んで、帽子を俯向(うつむ)けにして、御堂の廂(ひさし)を出た。……
 軽い雨で、もう面(おもて)を打つほどではないが、引緊(ひきし)めた袂(たもと)重たく、しょんぼりとして、九十九折(つづらおり)なる抜裏、横町。谷のドン底の溝(どぶ)づたい、次第に暗き奥山路(おくやまみち)。

       六

 時々足許から、はっと鳥の立つ女の影。……けたたましく、可哀(あわれ)に、心悲(うらがな)しい、鳶(とび)にとらるると聞く果敢(はか)ない蝉の声に、俊吉は肝を冷しつつ、※々(ぱっぱっ)[#「火+發」、269-9]と面(おもて)を照らす狐火(きつねび)の御神燈に、幾たびか驚いて目を塞(ふさ)いだが、路も坂に沈むばかり。いよいよ谷深く、水が漆(うるし)を流した溝端(どぶばた)に、茨(いばら)のごとき格子前(さき)、消えずに目に着く狐火が一つ、ぼんやりとして(蔦屋(つたや))とある。
「これだ。」
 密(そっ)と、下へ屈(かが)むようにしてその御神燈を□(みまわ)すと、他(ほか)に小草(おぐさ)の影は無い、染次、と記した一葉(ひとは)のみ。で、それさえ、もと居たらしい芸妓(げいしゃ)の上へ貼紙(はりがみ)をしたのに記してあった。看板を書(かき)かえる隙(ひま)もない、まだ出たてだという、新しさより、一人旅の木賃宿に、かよわい女が紙衾(かみぶすま)の可哀さが見えた。
 とばかりで、俊吉は黙って通過ぎた。
 が、筋向うの格子戸の鼠鳴(ねずみなき)に、ハッと、むささびが吠(ほ)えたほど驚いて引返(ひっかえ)して、蔦屋の門を逆に戻る。
 俯向(うつむ)いて彳(たたず)んでまた御神燈を覗(のぞ)いた。が、前刻(さっき)の雨が降込んで閉めたのか、框(かまち)の障子は引いてある。……そこに切張(きりばり)の紙に目隠しされて、あの女が染次か、と思う、胸がドキドキして、また行過ぎる。
 トあの鼠鳴がこっちを見た。狐のようで鼻が白い。
 俊吉は取って返した。また戻って、同じことを四五度(たび)した。
 いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼の笈(おい)に国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染(なじみ)に逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降って湧(わ)くような事があろう、と取越苦労の胸騒(むなさわぎ)がしたのであった。
「御免。」
 と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子を圧(おさ)えて、そして片足遁構(にげがま)えで立っていた。
「今晩は。」
「はい、今晩は。」
 と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家(ひとつや)の婆々(ばばあ)かと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀(とし)には似ないで、頸(くび)を塗った、浴衣の模様も大年増。
 これが女房とすぐに知れた。
 俊吉は、ト御神燈の灯を避(よ)けて、路地の暗い方へ衝(つッ)と身を引く。
 白粉(おしろい)のその頸を、ぬいと出額(おでこ)の下の、小慧(こざか)しげに、世智辛く光る金壺眼(かなつぼまなこ)で、じろりと見越して、
「今晩は。誰方様(どなたさま)で?」
「お宅に染次ってのは居(お)りますか。」
「はい居りますでございますが。」
 と立塞(たちふさ)がるように、しかも、遁(にが)すまいとするように、框(かまち)一杯にはだかるのである。
「ちょっとお呼び下さいませんか。」
 ああ、来なければ可(よ)かった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘(ぬかるみ)へ落ちた気がする。
「唯今(ただいま)お湯へ参ってますがね、……まあ、貴方(あなた)。」と金壺眼はいよいよ光った。
「それじゃまた来ましょう。」
「まあ、貴方。」
 風体を見定めたか、慌(あわただ)しく土間へ片足を下ろして、
「直(じ)きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」
「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」
「あら、貴方、串戯(じょうだん)じゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」

       七

「相合傘でいらっしゃいまし、染ちゃん、嬉しいでしょう、えへへへへ、貴方、御機嫌よう。」
 と送出した。……
 傘(からかさ)は、染次が褄(つま)を取ってさしかける。
「可厭(いや)な媽々(かかあ)だな。」
「まだ聞えますよ。」
 と下へ、袂(たもと)の先をそっと引く。
 それなり四五間、黙って小雨の路地を歩行(ある)く、……俊吉は少しずつ、…やがて傘の下を離れて出た。
「濡れますよ、貴方。」
 男は黙然(だんまり)の腕組して行(ゆ)く。
「ちょっと、濡れるわ、お前さん。」
 やっぱり暗い方を、男は、ひそひそ。
「濡れると云うのに、」
 手は届く、羽織の袖をぐっと引いて突附けて、傘(からかさ)を傾けて、
「邪慳(じゃけん)だねえ。」
「泣いてるのか、何だな、大(おおき)な姉さんが。」
「……お前さん、可懐(なつか)しい、恋しいに、年齢(とし)に加減はありませんわね。」
「何しろ、お前、……こんな路地端(ろじばた)に立ってちゃ、しょうがない。」
「ああ、早く行きましょう。」
 と目を蔽(お)うていた袖口をはらりと落すと、瓦斯(がす)の遠灯(とおあかり)にちらりと飜(かえ)る。
「少(わか)づくりで極(きま)りが悪いわね。」
 と褄を捌(さば)いて取直して、
「極(きまり)が悪いと云えば、私は今、毛筋立を突張(つっぱ)らして、薄化粧は可(い)いけれども、のぼせて湯から帰って来ると、染ちゃんお客様が、ッて女房(おかみ)さんが言ったでしょう。
 内へ来るような馴染(なじみ)はなし、どこの素見(ひやかし)だろうと思って、おやそうか何か気の無い返事をして、手拭(てぬぐい)を掛けながら台所口(だいどころぐち)から、ひょいと見ると、まあ、お前さんなんだもの。真赤(まっか)になったわ。極(きまり)が悪くって。」
「なぜだい。」
「悟られやしないかと思ってさ。」
「何を?……」
「だって、何をッて、お前さん、どこか、お茶屋か、待合からかけてくれれば可いじゃありませんか、唐突(だしぬけ)に内へなんぞ来るんだもの。」
「三年越(ごし)だよ、手紙一本が当(あて)なんだ。大事な落しものを捜すような気がするからね、どこかにあるには違いないが、居るか居ないか、逢えるかどうか分りやしない。おまけに一向土地不案内で、東西分らずだもの。茶屋の広間にたった一つ膳(ぜん)を控えて、待っていて、そんな妓(こ)は居(お)りません。……居ますが遠出だなんぞと来てみたが可い。御存じの融通(ゆずう)が利かないんだから、可(よし)、ついでにお銚子(ちょうし)のおかわりが、と知らない女を呼ぶわけにゃ行かずさ、瀬ぶみをするつもりで、行ったんだ。
 もっともね、居ると分ったら、門口(かどぐち)から引返(ひっかえ)[#ルビの「ひっかえ」は底本では「ひつかへ」]して、どこかで呼ぶんだっけ。媽々(かかあ)が追掛(おっかけ)るじゃないか。仕方なし奥へ入ったんだ。一間(ひとま)しかありやしない。すぐの長火鉢の前に媽々は控えた、顔の遣場(やりば)もなしに、しょびたれておりましたよ、はあ。
 光った旦那じゃなし、飛んだお前の外聞だっけね、済まなかったよ。」
「あれ、お前さんも性悪(しょうわる)をすると見えて、ひがむ事を覚えたね。誰が外聞だと申しました、俊さん、」
 取った袂に力が入って、
「女房(おかみ)さんに、悟られると、……だと悟られると、これから逢うのに、一々、勘定が要るじゃありませんか。おまいりだわ、お稽古だわッて内証(ないしょ)で逢うのに出憎いわ。
 はじめの事は知ってるから私の年が年ですからね。主人の方じゃ目くじらを立てていますもの、――顔を見られてしまってさ……しょびたれていましたよ、はあ。――お前の外聞だっけね、済まなかった。……誰が教えたの。」
 とフフンと笑って、
「素人だね。」

       八

「……わざと口数も利かないで、一生懸命に我慢をしていた、御免なさいよ。」
 声がまた悄(しお)れて沈んで、
「何にも言わないで、いきなり噛(かじ)りつきたかったんだけれど、澄し返って、悠々と髪を撫着(なでつ)けたりなんかして。」
「行場(ゆきば)がないから、熟々(しみじみ)拝見をしましたよ、……眩(まぶ)しい事でございました。」
「雪のようでしょう、ちょっと片膝立てた処なんざ、千年ものだわね、……染ちゃん大分御念入だねなんて、いつもはもっと塗れ、もっと髱(たぼ)を出せと云う女房(おかみ)さんが云うんだもの。どう思ったか知らないけれど、大抵こんがらかったろうと私は思うの。
 そりゃ成りたけ、よくは見せたいが弱身だって、その人の見る前じゃあねえ、……察して頂戴。私はお前さんに恥かしかったわ、お乳なんか。」
 と緊(し)められるように胸を圧(おさ)えた、肩が細(ほっそ)りとして重そうなので、俊吉が傘を取る、と忘れたように黙って放す。
「いいえ、結構でございました、湯あがりの水髪で、薄化粧を颯(さっ)と直したのに、別してはまた緋縮緬(ひぢりめん)のお襦袢(じゅばん)を召した処と来た日にゃ。」
「あれさ、止(よ)して頂戴……火鉢の処は横町から見通しでしょう、脱ぐにも着るにも、あの、鏡台の前しかないんだもの。……だから、お前さんに壁の方を向いてて下さいと云ったじゃありませんか。」
「だって、以前は着ものを着たより、その方が多かった人じゃないか、私はちっとも恐れやしないよ。」
「ねえ……ほほほ。……」
 笑ってちょっと口籠(くちごも)って、
「ですがね、こうなると、自分ながら気が変って、お前さんの前だと花嫁も同じことよ。……何でしたっけね、そら、川柳とかに、下に居て嫁は着てからすっと立ち……」
「お前は学者だよ。」
「似てさ、お前さんに。」
「大きにお世話だ、学者に帯を〆(し)めさせる奴があるもんか、おい、……まだ一人じゃ結べないかい。」
「人、……芸者の方が、ああするんだわ。」
「勝手にしやがれ。」
「あれ。」
「ちっとやけらあねえ。」
「溝(どぶ)へ落っこちるわねえ。」
「えへん!」
 と怒鳴って擦違いに人が通った。早や、旧(もと)来た瓦斯(がす)に頬冠(ほおかむ)りした薄青い肩の処が。
「どこだ。」
「一直(いちなお)の塀の処だわ。」
 直(じ)きその近所であった。
「座敷はこれだけかね。」
 と俊吉は小さな声で。
「もう、一間ありますよ。」
 と染次が云う。……通された八畳は、燈(あかり)も明(あかる)し、ぱっとして畳も青い。床には花も活(いか)って。山家を出たような俊吉の目には、博覧会の茶座敷を見るがごとく感じられた。が、入る時見た、襖一重(ふすまひとえ)が直ぐ上框(あがりかまち)兼帯の茶の室で、そこに、髷(まげ)に結(い)った娑婆気(しゃばき)なのが、と膝を占めて構えていたから。
 話に雀ほどの声も出せない。
 で、もう一間と□(みまわ)すと、小庭の縁が折曲りに突当りが板戸になる。……そこが細目にあいた中に、月影かと見えたのは、廂(ひさし)に釣った箱燈寵(はこどうろう)の薄明りで、植込を濃く、むこうへぼかして薄(うっす)りと青い蚊帳(かや)。
 ト顔を見合せた。
 急に二人は更(あらたま)ったのである。
 男が真中(まんなか)の卓子台(ちゃぶだい)に、肱(ひじ)を支(つ)いて、
「その後(のち)は。どうしたい。」
「お話にならないの。」
 と自棄(やけ)に、おくれ毛を揺(ゆす)ったが、……心配はさせない、と云う姉のような呑込んだ優(やさし)い微笑(ほほえみ)。

       九

「失礼な、どうも奥様をお呼立て申しまして済みません。でも、お差向いの処へ、他人が出ましてはかえってお妨げ、と存じまして、ねえ、旦那。」
 と襖越に待合の女房が云った。
 ぴたりと後手(うしろで)にその後を閉めたあとを、もの言わぬ応答(うけこたえ)にちょっと振返って見て、そのまま片手に茶道具を盆ごと据えて立直って、すらりと蹴出(けだ)しの紅(くれない)に、明石の裾を曳(ひ)いた姿は、しとしとと雨垂れが、子持縞(こもちじま)の浅黄に通って、露に活(い)きたように美しかった。
「いや。」
 とただ間拍子(まびょうし)もなく、女房の言いぐさに返事をする、俊吉の膝へ、衝(つ)と膝をのっかかるようにして盆ごと茶碗を出したのである。
 茶を充満(いっぱい)の吸子(きびしょ)が一所に乗っていた。
 これは卓子台(ちゃぶだい)に載(の)せると可(よ)かった。でなくば、もう少し間(なか)を措(お)いて居(すわ)れば仔細(しさい)なかった。もとから芸妓(げいしゃ)だと離れたろう。前(さき)の遊女(おいらん)は、身を寄せるのに馴(な)れた。しかも披露目(ひろめ)の日の冷汗を恥じて、俊吉の膝に俯伏(うっぷ)した処を、(出ばな。)と呼ばれて立ったのである。……
 お染はもとの座へそうして近々と来て盆ごと出しながら、も一度襖越しに見返った。名ある女を、こうはいかに、あしらうまい、――奥様と云ったな――膝に縋(すが)った透見(すきみ)をしたか、恥と怨(うらみ)を籠めた瞳は、遊里(さと)の二十(はたち)の張(はり)が籠(こも)って、熟(じっ)と襖に注がれた。
 ト見つつ夢のようにうっかりして、なみなみと茶をくんだ朝顔形(なり)の茶碗に俊吉が手を掛ける、とコトリと響いたのが胸に通って、女は盆ごと男が受取ったと思ったらしい。ドンと落ちると、盆は、ハッと持直そうとする手に引かれて、俊吉の分も浚(さら)った茶碗が対。吸子(きびしょ)も共に発奮(はずみ)を打ってお染は肩から胸、両膝かけて、ざっと、ありたけの茶を浴びたのである。
 むらむらと立つ白い湯気が、崩るる褄(つま)の紅(くれない)の陽炎(かげろう)のごとく包んで伏せた。
 頸(うなじ)を細く、面(おもて)を背けて、島田を斜(ななめ)に、
「あっ。」と云う。
「火傷(やけど)はしないか。」と倒れようとするその肩を抱いた。
「どうなさいました。」と女房飛込み、この体(てい)を一目見るや、
「雑巾々々。」と宙に躍って、蹴返(けかえ)す裳(もすそ)に刎(は)ねた脚は、ここに魅(さ)した魔の使(つかい)が、鴨居(かもい)を抜けて出るように見えた。
 女の袖つけから膝へ湛(たま)って、落葉が埋(うず)んだような茶殻を掬(すく)って、仰向(あおむ)けた盆の上へ、俊吉がその手の雫(しずく)を切った時。
「可(よ)ござんすよ、可ござんすよ、そうしてお置きなさいまし、今私(わたくし)が、」
 と言いながら白に浅黄を縁(へり)とりの手巾(ハンケチ)で、脇を圧(おさ)えると、脇。膝をずぶずぶと圧えると、膝を、濡れたのが襦袢を透(とお)して、明石の縞(しま)に浸(にじ)んでは、手巾にひたひたと桃色の雫を染めた。――

「ええ、私あの時の事を思出したの、短刀で、ここを切られた時、」……
 と、一年おいて如月(きさらぎ)の雪の夜更けにお染は、俊吉の矢来の奥の二階の置炬燵(おきごたつ)に弱々と凭(もた)れて語った。

 さてその夜は、取って返して、両手に雑巾を持って、待合の女房が顕(あらわ)れたのに、染次は悄(しお)れながら、羅(うすもの)の袖を開いて見せて、
「汚点(しみ)になりましょうねえ。」
「まあ、ねえ、どうも。」
 と伸上ったり、縮んだり。
「何しろ、脱がなくッちゃお前さん、直き乾くだけは乾きますからね……あちらへ来て。さあ――旦那、奥様のお膚(はだ)を見ますよ、済みませんけれど、貴下(あなた)が邪慳(じゃけん)だから仕方が無い。……」
 俊吉は黙って横を向いた。
「浴衣と、さあ、お前さん、」
 と引立てるようにされて、染次は悄々(しおしお)と次に出た。……組合の気脉(きみゃく)が通(かよ)って、待合の女房も、抱主(かかえぬし)が一張羅(いっちょうら)を着飾らせた、損を知って、そんなに手荒にするのであろう、ああ。

       十

「大丈夫よ……大丈夫よ。」
「飛んだ、飛んだ事を……お前、主人にどうするえ。」
「まさか、取って食おうともしませんから、そんな事より。」
 と莞爾(にっこり)した、顔は蒼白(あおじろ)かったが、しかしそれは蚊帳の萌黄(もえぎ)が映ったのであった。
 帰る時は、効々(かいがい)しくざっと干したのを端折(はしょ)って着ていて、男に傘を持たせておいて、止せと云うに、小雨の中をちょこちょこ走りに自分で俥(くるま)を雇って乗せた。
 蛇目傘(じゃのめ)を泥に引傾(ひっかた)げ、楫棒(かじぼう)を圧(おさ)えぬばかり、泥除(どろよけ)に縋(すが)って小造(こづくり)な女が仰向(あおむ)けに母衣(ほろ)を覗(のぞ)く顔の色白々と、
「お近い内に。」
「…………」
「きっと?」
「むむ。」
「きっとですよ。」
 俊吉は黙って頷(うなず)いた。
 暗くて見えなかったろう。
「きっとよ。」
「分ったよ。」
「可(よ)ござんすか。」
「煩(うるさ)い。」と心にもなく、車夫の手前、宵から心遣いに疲れ果てて、ぐったりして、夏の雨も寒いまでに身体(からだ)もぞくぞくする癇癪(かんしゃく)まぎれに云ったのを、気にも掛けず、ほっと安心したように立直ったと思うと、
「車夫(わかいしゅ)さん、はい――……あの車賃は払いましたよ。」
「有るよ。」
「威張ってさ、それから少しですが御祝儀。気をつけて上げて下さいよ、よくねえ、気をつけて、可ござんすか。」
「大丈夫でございますよ、姉さん。」と楫(かじ)[#ルビの「かじ」は底本では「かぢ」]を取った片手に祝儀を頂きながら。
「でも遠いんですもの、道は悪し、それに暗いでしょう。」
「承合(うけあい)ましたよ。」
「それじゃ、お近いうち。」
 影を引切(ひっき)るように衝(つ)と過ぎる車のうしろを、トンと敲(たた)いたと思うと夜の潮に引残されて染次は残ってしょんぼりと立つ。
 車が路を離れた時、母衣の中とて人目も恥じず、俊吉は、ツト両掌(りょうて)で面(おもて)を蔽(おお)うて、はらはらと涙を落した。……
「でも、遠いんですもの、路は悪し、それに暗いでしょう。」
 行方も知らず、分れるように思ったのであった。
 そのまま等閑(なおざり)にすべき義理ではないのに、主人にも、女にも、あの羅(うすもの)の償(つぐない)をする用意なしには、忍んでも逢ってはならないと思うのに、あせって□(もが)いても、半月や一月でその金子(かね)は出来なかった。
 のみならず、追縋(おいすが)って染次が呼出しの手紙の端に、――明石のしみは、しみ抜屋にても引受け申さず、この上は、くくみ洗いをして、人肌にて暖め乾かし候よりせむ方なしとて、毎日少しずつふくみ洗いいたし候ては、おかみさんと私とにて毎夜添臥(そいぶし)※[#「参候」のくずし字、284-1]。夜ごとにかわる何とかより針の筵(むしろ)に候えども、お前さまにお目もうじのなごりと思い候えば、それさえうつつ心に嬉しく懐しく存じ※[#「参候」のくずし字、284-3]……
 ふくみ洗いで毎晩抱く、あの明石のしみを。行かれるものか、素手で、どうして。
 秋の半ばに、住(すみ)かえた、と云って、ただそれだけ、上州伊香保から音信(たより)があった。
 やがてくわしく、と云うのが、そのままになった――今夜なのである。
 俊吉は捗取(はかど)らぬ雪を踏(ふみ)しめ踏しめ、俥(くるま)を見送られた時を思出すと、傘も忘れて、降る雪に、頭(つむり)を打たせて俯向(うつむ)きながら、義理と不義理と、人目と世間と、言訳なさと可懐(なつか)しさ、とそこに、見える女の姿に、心は暗(やみ)の目は□(ぼう)として白い雪、睫毛(まつげ)に解けるか雫(しずく)が落ちた。

       十一

「……そういったわけだもの、ね、……そんなに怨むもんじゃない。」
 襦袢一重の女の背(せな)へ、自分が脱いだ絣(かすり)の綿入羽織を着せて、その肩に手を置きながら、俊吉は向い合いもせず、置炬燵(おきごたつ)の同じ隅に凭(もた)れていた。
 内へ帰ると、一つ躓(つまず)きながら、框(かまち)へ上って、奥に仏壇のある、襖(ふすま)を開けて、そこに行火(あんか)をして、もう、すやすやと寐(ね)た、撫(なで)つけの可愛らしい白髪(しらが)と、裾(すそ)に解きもののある、女中の夜延(よなべ)とを見て、密(そっ)とまた閉めて、ずかずかと階子(はしご)を上(あが)ると、障子が閉って、張合の無さは、燈(あかり)にその人の影が見えない。
 で、嘘だと思った。
 ここで、トボンと夢が覚めるのであろう、と途中の雪の幻さえ、一斉に消えるような、げっそり気の抜けた思いで、思切って障子を開けると、更紗(さらさ)を掛けた置炬燵の、しかも机に遠い、縁に向いた暗い中から、と黒髪が揺(ゆら)めいて、窶(やつ)れたが、白い顔。するりと緋縮緬(ひぢりめん)の肩を抽(ぬ)いたのは夢ではなかったのである。
「どうした。」
 と顔を見た。
「こんな、うまい装(なり)をして、驚いたでしょう。」
 と莞爾(にっこり)する。
「驚いた。」
 とほっと呼吸(いき)して、どっか、と俊吉は、はじめて瀬戸ものの火鉢の縁(へり)に坐ったのである。
「ああ、座蒲団(ざぶとん)はこっち。」
 と云う、背中に当てて寝ていたのを、ずらして取ろうとしたのを見て、
「敷いておいで、そっちへ行こう、半分ずつ、」
 と俊吉はじめて笑った。……
 お染は、上野の停車場から。――深川の親の内へも行(ゆ)かずに――じかづけに車でここへ来たのだと云う。……神楽坂は引上げたが、見る間に深くなる雪に、もう郵便局の急な勾配で呼吸(いき)ついて、我慢にも動いてくれない。仕方なしに、あれから路(みち)の無い雪を分けて、矢来の中をそっちこっち、窓明りさえ見れば気兼(きがね)をしいしい、一時(ひととき)ばかり尋ね廻った。持ってた洋傘(こうもり)も雪に折れたから途中で落したと云う。それは洲崎を出る時に買ったままの。憑(つ)きもののようだ、と寂しく笑った。
 俊吉は、卍(まんじ)の中を雪に漾(ただよ)う、黒髪のみだれを思った。
 女中が、何よりか、と火を入れて炬燵に導いてから、出先へ迎いに出たあとで、冷いとだけ思った袖も裙(すそ)も衣類(きもの)が濡れたから不気味で脱いだ、そして蒲団の下へ掛けたと云う。
「何より不気味だね、衣類(きもの)の濡れるのは。……私、聞いても悚然(ぞっと)する。……済まなかった。お染さん。」
 女はそこで怨んだ。
 帰る途(みち)すがらも、真実の涙を流した言訳を聞いて、暖い炬燵の膚(はだ)のぬくもりに、とけた雪は、斉(ひと)しく女の瞳に宿った。その時のお染の目は、大(おおき)く□(みは)られて美しかった。
「女中(ねえ)さんは。」
「女中か、私はね、雪でひとりでに涙が出ると、茫(ぼ)っと何だか赤いじゃないか。引擦(ひっこす)ってみるとお前、つい先へ提灯(ちょうちん)が一つ行くんだ。やっと、はじめて雪の上に、こぼこぼ下駄のあとの印(つ)いたのが見えたっけ。風は出たし……歩行(ある)き悩んだろう。先へ出た女中がまだそこを、うしろの人足(ひとあし)も聞きつけないで、ふらふらして歩行(ある)いているんだ。追着(おッつ)いてね、使(つかい)がこの使だ、手を曳(ひ)くようにして力をつけて、とぼとぼ遣(や)りながら炬燵の事も聞いたよ。
 しんせつついでだ、酒屋へ寄ってくれ、と云うと、二つ返事で快く引受けたから、図に乗ってもう一つ狐蕎麦(きつねそば)を[#「狐蕎麦」は底本では「孤蕎麦」]誂(あつら)えた。」
「上州のお客にはちょうど可いわね。」
「嫌味を云うなよ。……でも、お前は先(せん)から麺類(めんるい)を断(た)ってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。」
「まあ、嬉しい。」
 と膝で確(しっか)りと手を取って、
「じゃ、あの、この炬燵の上へ盆を乗せて、お銚子をつけて、お前さん、あい、お酌って、それから私も飲んで。」
 と熟(じっ)と顔を見つつ、
「願(ねがい)が叶(かな)ったわ、私。……一生に一度、お前さん、とそうして、お酒が飲みたかった。ああ、嬉しい。余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜(くやし)い。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活(かけはないけ)を取って頂戴。」
「何にする。」
「お銚子を持つ稽古するの。」
「狂人染(きちがいじ)みた、何だな、お前。」
「よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。」
「はいはい、今夜の処(とこ)は御意次第。」
 そこが地袋で、手が直ぐに、水仙が少しすがれて、摺(ず)って、危(あやう)く落ちそうに縋(すが)ったのを、密(そっ)と取ると、羽織の肩を媚(なまめ)かしく脱掛けながら、受取ったと思うと留める間もなく、ぐ、ぐ、と咽喉(のど)を通して一息に仰いで呑んだ。
「まあ、お染。」
「だって、ここが苦しいんですもの、」
 と白い指で、わなわなと胸を擦(さす)った。
「ああ、旨(おいし)かった。さあ、お酌。いいえ、毒なものは上げはしません、ちょっと、ただ口をつけて頂戴。花にでも。」
「ままよ。」……構わず呑もうとすると雫(しずく)も無かった。
 花を唇につけた時である。
「お酒が来たら、何にも思わないで、嬉しく飲みたい。……私、ほんとに伊香保では、酷(ひど)い、情(なさけ)ない目に逢ったの。
 お前さんに逢って、皆(みんな)忘れたいと思うんだから、聞いて頂戴。……伊香保でね――すぐに一人旦那が出来たの。土地の請負師(うけおいし)だって云うのよ、頼みもしないのに無理に引かしてさ、石段の下に景ぶつを出す、射的(しゃてき)の店を拵(こしら)えてさ、そこに円髷(まるまげ)が居たんですよ。
 この寒いのに、単衣(ひとえ)一つでぶるぶる震えて、あの……千葉の。先(せん)の呉服屋が来たんでしょう。可哀相でね、お金子(かね)を遣って旅籠屋(はたごや)を世話するとね、逗留(とうりゅう)をして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人(きちがい)のような嫉妬(やきもち)やきだし、相場師と云うのが博徒(ばくちうち)でね、命知らずの破落戸(ならずもの)の子分は多し、知れると面倒だから、次の宿(しゅく)まで、おいでなさいって因果を含めて、……その時止(よ)せば可かったのに、湯に入ったのが悪かった。……帯を解いたのを見られたでしょう。
 ――染や、今日はいい天気だ、裏の山から隅田川が幽(かすか)に見えるのが、雪晴れの名所なんだ。一所に見ないかって誘うんですもの。
 余り可懐(なつか)しさに、うっかり雪路(ゆきみち)を上(のぼ)ったわ。峠の原で、たぶさを取って引倒して、覚えがあろうと、ずるずると引摺(ひきず)られて、積った雪が摺(す)れる枝の、さいかちに手足が裂けて、あの、実の真赤(まっか)なのを見た時は、針の山に追上げられる雪の峠の亡者か、と思ったんですがね。それから……立樹に結(ゆわ)えられて、……」
「お染。」
「短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体(からだ)一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きの留(とま)るほど嬉しかった。莞爾莞爾(にこにこ)したわ。何とも言えない可(い)い心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに、……あの時、――一面に染まった事を思出して何とも言えない、いい心持だったの。この襦袢です。斬(き)られたのは、ここだの、ここだの、」
 と俊吉の瞶(みは)る目に、胸を開くと、手巾(ハンケチ)を当てた。見ると、顔の色が真蒼(まっさお)になるとともに、垂々(ぽたぽた)と血に染まるのが、溢(あふ)れて、わななく指を洩(も)れる。
 俊吉は突伏(つっぷ)した。
 血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留(や)まぬ。
 カーンと仏壇のりんが響いた。
「旦那様、旦那様。」
「あ。」
 と顔を上げると、誰も居ない。炬燵の上に水仙が落ちて、花活(はないけ)の水が点滴(したた)る。
 俊吉は、駈下(かけお)りた。
 遠慮して段の下に立った女中が驚きながら、
「あれ、まあ、お銚子がつきましてございますが。」
 俊吉は呼吸(いき)がはずんで、
「せ、せ、折角だっけ、……客は帰ったよ。」
 と見ると、仏壇に灯(あかり)が点(つ)いて、老人(としより)が殊勝に坐って、御法(みのり)の声。
「……我常住於此(がじょうじゅうおし) 以諸神通力(いしょじんつうりき) 令顛倒衆生(りょうてんどうしゅじょう) 雖近而不見(すいごんにふけん) 衆見我滅度(しゅけんがめつど) 広供養舎利(こうくようしゃり) 咸皆懐恋慕(げんかいえれんぼ) 而生渇仰心(にしょうかつごうしん)……」
 白髪(しらが)に尊き燈火(ともしび)の星、観音、そこにおはします。……駈寄(かけよ)って、はっと肩を抱いた。
「お祖母(ばあ)さん、どうして今頃御経を誦(よ)むの。」
 慌てた孫に、従容(しょうよう)として見向いて、珠数を片手に、
「あのう、今しがた私(わし)が夢にの、美しい女の人がござっての、回向(えこう)を頼むと言わしった故にの、……悉(くわ)しい事は明日話そう。南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)。……広供養舎利(こうくようしゃり) 咸皆懐恋慕(げんかいえれんぼ) 而生渇仰心(にしょうかつごうしん) 衆生既信伏(しゅじょうきしんぷく) 質直意柔□(しちじきいにゅうなん)。……」
 新聞の電報と、続いて掲げられた上州の記事は、ここには言うまい。俊吉は年紀(とし)二十七。
いかほ野やいかほの沼のいかにして
      恋しき人をいま一見見む
大正三(一九一四)年一月



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