陽炎座
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著者名:泉鏡花 

 雪女の、その……擬(なぞら)えた……姿見に向って立つ後姿を、美しい女(ひと)は、と視(なが)めて、
「島田も可(い)いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯(しごき)を前帯じゃどう。遊女(おいらん)のようではなくって、」
「構わないの、お稲さんが寝衣(ねまき)の処だから、」
「ああ、ちょっと。」
 と美しい女(ひと)が留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと引込(ひっこ)む。
「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」
 と言う。紳士を顧みた美しい女(ひと)の睫(まつげ)が動いて、目瞼(まぶた)が屹(きっ)と引緊(ひきしま)った。
「何、稲荷(いなり)だよ、おい、稲荷だろう。」
 紳士も並んで、見物の小児(こども)の上から、舞台へ中折(なかおれ)を覗(のぞ)かせた。
「ねえ、この人の名は?……」
 黒縮緬の雪女は、さすが一座に立女形(たておやま)の見識を取ったか、島田の一さえ、端然(きちん)と済まして口を利こうとしないので、美しい女(ひと)はまた青月代に、そう訊(き)いた。
「嵐お萩ッてえの……東西々々。」
 と飜然(ひらり)と隠れる。
「芸名(げいみょう)ではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」
 と美しい女(ひと)は、やや急込(せきこ)んで言って、病身らしく胸を圧(おさ)えた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の嬌娜姿(やさすがた)、雲を出(い)でたる月かと視(み)れば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵に艶(つや)ある青柳(あおやぎ)の枝。
 春の月の凄(すご)きまで、蒼青(まっさお)な、姿見の前に、立直って、
「お稲です。」
 と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水に朧(おぼろ)なものではなかった。

       十六

 舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、――俳優(やくしゃ)は人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、俯向伏(うつむきふ)している間に、玉の曇(くもり)を拭(ぬぐ)ったらしい。……眉は鮮麗(あざやか)に、目はぱっちりと張(はり)を持って、口許(くちもと)の凜(りん)とした……やや強(きつ)いが、妙齢(としごろ)のふっくりとした、濃い生際(はえぎわ)に白粉(おしろい)の際立たぬ、色白な娘のその顔。
 松崎は見て悚然(ぞっ)とした……
 名さえ――お稲です――
 肖(に)たとは迂哉(おろか)。今年如月(きさらぎ)、紅梅に太陽(ひ)の白き朝、同じ町内、御殿町(ごてんまち)あたりのある家の門を、内端(うちわ)な、しめやかな葬式(とむらい)になって出た。……その日は霜が消えなかった――居周囲(いまわり)の細君女房連が、湯屋でも、髪結(かみゆい)でもまだ風説を絶(たや)さぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。
「私も今はじめて聞いて吃驚(びっくり)したの。」
 その時、松崎の女房は、二階へばたばたと駈上(かけあが)り、御注進と云う処を、鎧(よろい)が縞(しま)の半纏(はんてん)で、草摺(くさずり)短(みじか)な格子の前掛、ものが無常だけに、ト手は飜(ひるがえ)さず、すなわち尋常に黒繻子(くろじゅす)の襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……
 髪も櫛巻(くしまき)、透切(すきぎ)れのした繻子の帯、この段何とも致方(いたしかた)がない。亭主、号が春狐であるから、名だけは蘭菊(らんぎく)とでも奢(おご)っておけ。
 春狐は小机を横に、座蒲団(ざぶとん)から斜(ななめ)になって、
「へーい、ちっとも知らなかった。」
「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家(となり)の女房(かみ)さんが立って、通(とおり)の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式(ともらい)が出る所だって、他家(よそ)の娘(こ)でも最惜(いとし)くってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日(しばらく)姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの娘(こ)が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お覗(のぞ)きだっけがね。」
 苦笑いで、春狐子。
「余計な事を言いなさんな、……しかし惜(おし)いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」
「うっかり下町にだってあるもんですか。」
「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは讃(ほ)めない奴(やつ)さ、顔がちっと強(きつ)すぎる、何のってな。」
「ええ、それは廂髪(ひさしがみ)でお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつきたいようだったの。
 髮のいい事なんて、もっとも盛(さかり)も盛だけれども。」
「幾歳(いくつ)だ。」
「十九……明けてですよ。」
「ああ、」と思わず煙管(きせる)を落した。
「勿論、お婿さんは知らずらしいね。」
「ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。」
 はっと思い、
「や、自殺か。」
「おお吃驚(びっくり)した……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり同一(おんなじ)だわ、自殺をしたのも。」
「じゃどうしたんだよ。」
「それがだわね。」
「焦(じれ)ったい女だな。」
「ですから静(しずか)にお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ内証(ないしょ)に秘(かく)していたんだそうですけれど、あの娘(こ)はね、去年の夏ごろから――その事で――狂気(きちがい)になったんですって。」
「あの、綺麗な娘(こ)が。」
「まったくねえ。」
 と俯向(うつむ)いて、も一つ半纏の襟を合わせる。

       十七

「妙齢(としごろ)で、あの容色(きりょう)ですからね、もう前(ぜん)にから、いろいろ縁談もあったそうですけれど、お極(きま)りの長し短しでいた処、お稲ちゃんが二三年前まで上っていなすった……でも年二季の大温習(おおざらい)には高台へ出たんだそうです……長唄のお師匠さんの橋渡しで。
 家(うち)は千駄木辺で、お父さんは陸軍の大佐だか少将だか、それで非職(ひい)てるの。その息子さんが新しい法学士なんですって……そこからね、是非、お嫁さんに欲(ほし)いって言ったんですとさ。
 途中で、時々顔を見合って、もう見合いなんか済んでるの。男の方は大変な惚方(ほれかた)なのよ。もっとも家同士、知合いというんでも何でもないんですから、口を利いたことなんて、そりゃなかったんでしょうけれど、ほんに思えば思わるるとやらだわね。」
 半纏着の蘭菊は、指のさきで、火鉢の縁(ふち)へちょいと当って、
「お稲ちゃんの方でも、嬉しくない事はなかったんでしょう。……でね、内々その気だったんだって、……お師匠さんは云うんですとさ、――隣家(となり)の女房(かみ)さんの、これは談話(はなし)よ。」
 まだ卒業前ですから、お取極(とりき)めは、いずれ学校が済んでからッて事で、のびのびになっていたんだそうですがね。
 去年の春、お茶の水の試験が済むと、さあ、その翌日(あくるひ)にでも結納を取替わせる勢(いきおい)で、男の方から急込(せきこ)んで来たんでしょう。
 けれども、こっちぢゃ煮切(にえき)らない、というのがね――あの、娘(こ)にはお母(っか)さんがありません。お父さんというのは病身で、滅多に戸外(そと)へも出なさらない、何でも中気か何からしいんです――後家さんで、その妹さん、お稲ちゃんには叔母に当る、お婆さんのハイカラが取締って、あの娘(こ)の兄さん夫婦が、すっかり内の事を遣(や)っているんだわね。
 その兄さんというのが、何とか云う、朝鮮にも、満洲とか、台湾にも出店のある、大(おおき)な株式会社に、才子で勤めているんです。
 その何ですとさ、会社の重役の放蕩息子(どらむすこ)が、ダイヤの指輪で、春の歌留多(かるた)に、ニチャリと、お稲ちゃんの手を圧(おさ)えて、おお可厭(いや)だ。」
 と払う真似して、
「それで、落第、もう沢山。」
「どうだか。」
「ほんとうですとも。それからそのニチャリが、」
「右のな、」
 と春狐は、ああと歎息する。
「ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これには嫂(あによめ)が一はながけに乗ったでしょう。」
「極(きま)りでいやあがる。」
「大分、お芝居になって来たわね。」
「余計な事を言わないで……それから、」
「兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという談話(はなし)の時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって――無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。」
「その法学士の方をだな、――無い御縁が凄(すさま)じいや、てめえが勝手に人の縁を、頤(あご)にしゃぼん玉の泡沫(あぶく)を塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でに粧(めけ)やあがる西洋剃刀(かみそり)で切ったんじゃないか。」
「ねえ……鬱(ふさ)いでいましたとさ、お稲ちゃんは、初心(うぶ)だし、世間見ずだから、口へ出しては何にも言わなかったそうだけれど……段々、御飯が少くなってね、好(すき)なものもちっとも食べない。
 その癖、身じまいをする事ったら、髪も朝に夕に撫でつけて、鬢(びん)の毛一筋こぼしていた事はない。肌着も毎日のように取替えて、欠かさずに湯に入って、綺麗にお化粧をして、寝る時はきっと寝白粧(ねおしろい)をしたんですって。
 皓歯(しらは)に紅(べに)よ、凄(すご)いようじゃない事、夜が更けた、色艶(いろつや)は。
 そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんと〆(し)めるのを――お稲や、何をおしだって、叔母さんが咎(とが)めた時、――私はお母(っか)さんの許(とこ)へ行くの――
 そう云ってね、枕許(まくらもと)へちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、現(うつつ)で正体がないんですとさ。
 思詰(おもいつ)めたものだわねえ。」

       十八

「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に密(そっ)と箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)を開けたんですよ。」
「法学士の見合いの写真?……」
「いいえ、そんなら可(い)いけれど、短刀を密(そっ)と持ったの、お母さんの守護刀(まもりがたな)だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢(としごろ)で可愛い中にも品の可(よ)かった事を御覧なさい。」
「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」
「あれ、」
 と見向く、と朱鷺色(ときいろ)に白の透(すか)しの乙女椿(おとめつばき)がほつりと一輪。
 熟(じっ)と視(み)たが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるよう掌(てのひら)に据えて俯向(うつむ)いた。
 隙間もる冷い風。
「ああ、四辻がざわざわする、お葬式(ともらい)が行くんですよ。」
 と前掛の片膝、障子へ片手。
「二階の欄干(てすり)から見る奴(やつ)があるものか。見送るなら門(かど)へお出な。」
「止(よ)しましょう、おもいの種だから……」
 と胸を抱いて、
「この一輪は蔭ながら、お手向(たむ)けになったわね。」と、鼻紙へ密(そっ)と置くと、冷い風に淡い紅(くれない)……女心はかくやらむ。
 窓の障子に薄日が映(さ)した。
「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」
「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ蔵(しま)って、錠(じょう)をおろして、兄さんがその鍵(かぎ)を握って寝たんだっていうんですもの。」
「ははあ、重役の忰(せがれ)に奉って、手繰りつく出世の蔓(つる)、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」
「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お在(いで)だったかと思うと、そうじゃないの……精々(せっせ)裁縫(おしごと)をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗(ひのし)を掛けて、ちゃんと蔵(しま)って、それなり手を通さないでも、ものの十日も経(た)つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児(あかんぼ)のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」
「おやおや、兄の嬰児(あかんぼ)の洗濯かね。」
「嫂(あによめ)というのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんの傍(そば)へは寄附(よッつ)けもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、――どういう了簡(りょうけん)ですかね、兄さんが容色(きりょう)望みで娶(と)ったっていうんですから……
 小児(こども)は二人あるし、家(うち)は大勢だし、小体(こてい)に暮していて、別に女中っても居ないんですもの、お守(も)りから何から、皆(みんな)、お稲ちゃんがしたんだわ。」
「ははあ、その児だ……」
 ともすると、――それが夕暮が多かった――嬰児(あかんぼ)を背負(おぶ)って、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、清(すずし)い目を□(みは)って、蝙蝠(こうもり)も柳も無しに、何を見るともなく、熟(じっ)と暮れかかる向側(むこうがわ)の屋根を視(なが)めて、其家(そこ)の門口(かどぐち)に彳(たたず)んだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。
 面影は、その時の見覚えで。
 出窓の硝子越(がらすごし)に、娘の方が往(ゆき)かえりの節などは、一体傍目(わきめ)も触(ふ)らないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと歩行(ある)く振(ふり)、打水にも褄(つま)のなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。
 が、思い当る……葬式(とむらい)の出たあとでも、お稲はその身の亡骸(なきがら)の、白い柩(ひつぎ)で行(ゆ)く状(さま)を、あの、門(かど)に一人立って、さも恍惚(うっとり)と見送っているらしかった。

       十九

 女房は語(かたり)続けた――
「お稲ちゃんが、そんなに美しく身のまわりの始末をしたのも、あとで人に見られて恥かしくないように躾(たしな)んでいたんだわね――そして隙さえあれば、直ぐに死ぬ気で居たんでしょう、寝しなにお化粧をするのなんか。
 ですから、病院へ入ったあとで、針箱の抽斗(ひきだし)にも、畳紙(たとうがみ)の中にも、皺(しわ)になった千代紙一枚もなく……油染(あぶらじ)みた手柄一掛(ひとかけ)もなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ……友達から来た手紙なんか、中には焼いたのもあるんですって、……心掛けたじゃありませんか。惜(おし)まれる娘(こ)は違うわね。
 ぐっと取詰(とりつ)めて、気が違った日は、晩方、髪結(かみゆい)さんが来て、鏡台に向っていた時ですって。夏の事でね、庭に紫陽花(あじさい)が咲いていたせいか、知らないけれど、その姿見の蒼(あお)さったら、月もささなかったって云うんですがね。――そして、お稲ちゃんのその時の顔ぐらい、色の白いって事は覚えないんですとさ――
 髪結さんが、隣家(となり)の女房(かみさん)へ談話(はなし)なんです。
 同一(おなじ)のが廻りますからね。
 隣家(となり)と、お稲ちゃん許(とこ)と、同一(おなじ)のは、そりゃ可(い)いけれど、まあ、飛んでもない事……その法学士さんの家(うち)が、一つ髪結さんだったんでしょう。だもんだから、つい、その頃、法学士さんに、余所(よそ)からお嫁さんが来て、……箱根へ新婚旅行をして帰った日に頼まれて行って、初結いをしたって事を……可(よ)ござんすか……お稲ちゃんの島田を結いながら、髪結さんが話したんです。」
「ああ、悪い。」
 と春狐は聞きながら、眉を顰(ひそ)めた。
 同じように、打顰(うちひそ)んで、蘭菊は、つげの櫛で鬢(びん)の毛を、ぐいと撫でた。
「……気を附けないと……何でも髪結さんが、得意先の女の髪を一条(ひとすじ)ずつ取って来て、内証(ないしょ)で人のと人のと結び合わせて蔵(しま)っておいて御覧なさい。
 世間は直ぐに戦争(いくさ)よりは余計乱れると、私、思うんですよ。
 お稲さんは黙って俯向(うつむ)いていたんですって。左挿しに、毛筋を通して銀の平打(ひらうち)を挿込んだ時、先が突刺(つっささ)りやしないかと思った。はっと髪結さんが抜戻した発奮(はずみ)で、飛石へカチリと落ちました。……
 ――口惜(くや)しい――とお稲ちゃんが言ったんですって。根揃(ねぞろ)え自慢で緊(し)めたばかりの元結(もっとい)が、プッツリ切れ、背中へ音がして颯(さっ)と乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。
 でも、髪結さんは、あの娘(こ)の髪の事ばかり言って惜(おし)がってるそうですよ。あんな、美しい、柔軟(やわらか)な、艶(つや)の可(い)い髪は見た事がないってね、――死骸(しがい)を病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」
「ああ……聞いても惜(おし)い……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」
 春狐は思わず、詰(なじ)るがごとく急込(せきこ)んで火鉢を敲(たた)いた。
「ねえ、私にだって分りませんわ。」
「で、どうしたんだい。」
「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に駈出(かりだ)すの、手が掛(かか)るのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。
 賺(すか)しても、叱っても。
 しようがないから、病院へ入れたんです。お医者さんも初(はじめ)から首をお傾(ま)げだったそうですよ。
 まあね。それでも出来るだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり、……ねえ……おとむらいになってしまって――」
 と薄(うっす)りした目のうちが、颯(さっ)とさめると、ほろりとする。

       二十

 春狐は肩を聳(そびや)かした。
「なったんじゃない……葬式(ともらい)にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、不埒(ふらち)だよ。妹を餌(えさ)に、鰌(どじょう)が滝登りをしようなんて。」
「ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう不可(いけ)ないっていう時分から、酷(ひど)く何かを気にしてさ。嬰児(あかんぼ)が先に死ぬし、それに、この葬式(ともらい)の中だ、というのに、嫂(あによめ)だわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。」
「待っていた、そうだろう。その何だ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに、家中鏖殺(みなごろし)に願いたい。ついでにお父さんの中気だけ治してな。」と妙に笑った。
「まあ、」
 と目を□(みは)って、
「串戯(じょうだん)じゃないわ、人の気も知らないで。」
「無論、串戯ではないがね、女言濫(みだ)りに信ずべからず、半分は嘘だろう。」
「いいえ!」
「まあさ、お前の前だがね、隣の女房(かみさん)というのが、また、とかく大袈裟(おおげさ)なんですからな。」
「勝手になさいよ、人に散々饒舌(しゃべ)らしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。」
 と乙女椿に頬摺(ほおず)りして、鼻紙に据えて立つ……
 実はそれさえ身に染みた。
 床の間にも残ったが、と見ると、莟(つぼみ)の堅いのと、幽(かすか)に開いた二輪のみ。
「ちょっと、お待ち。」
「何(なあに)、」と襖(ふすま)に手を掛ける。
「でも、少し気になるよ、肝心、焦(こが)れ死(じに)をされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。」
「先方(さき)でもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね――法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって――お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、確(たしか)に結婚したつもりだって――」
 春狐はふと黙ってそれには答えず……
「ああ、その椿は、成りたけ川へ。」
「流しましょうね、ちょっと拝んで、」
 と二階を下りる[#「 と二階を下りる」は底本では「「と二階を下りる」]、……その一輪の朱鷺色(ときいろ)さえ、消えた娘の面影に立った。
 が、幻ならず、最も目に刻んで忘れないのは、あの、夕暮を、門(かど)に立って、恍惚(うっとり)空を視(なが)めた、およそ宇宙の極まる所は、艶やかに且つ黒きその一点の秘密であろうと思う、お稲の双の瞳であった。
 同じその瞳である。同じその面影である。……
 ――お稲です――
 と云って、振向いた時の、舞台の顔は、あまつさえ、凝(なぞら)えたにせよ、向って姿見の真蒼(まっさお)なと云う行燈(あんどん)があろうではないか。
 美しい女(ひと)は屹(き)と紳士を振向いた。
「貴方(あなた)。」
 若い紳士は、杖(ステッキ)を小脇に、細い筒袴(ずぼん)で、伸掛(のしかか)って覗(のぞ)いて、
「稲荷だろう、おい、狐が化けた所なんだろう。」と中折(なかおれ)の廂(ひさし)で押(おし)つけるように言った。
 羽織に、ショオルを前結び。またそれが、人形に着せたように、しっくりと姿に合って、真向(まんむ)きに直った顔を見よ。
「いいえ、私はお稲です。」
 紳士は、射られたように、縁台へ退(さが)った。
 美しい女の褄(つま)は、真菰(まこも)がくれの花菖蒲(はなあやめ)、で、すらりと筵(むしろ)の端に掛(かか)った……
「ああ、お稲さん。」
 と、あたかもその人のように呼びかけて、
「そう。そして、どうするの。」
 お稲は黙って顔を見上げた。
 小さなその姿は、ちょうど、美しい女(ひと)が、脱いだ羽織をしなやかに、肱(ひじ)に掛けた位置に、なよなよとして見える。
「止(よ)せ!品子さん。」
「可(い)いわ。」
「見っともないよ。」
「私は構わないの。」

       二十一

「ねえ、お稲さん、どうするの。」
 とまた優しく聞いた。
「どうするって、何、小母さん。」
 役者は、ために羽織を脱いだ御贔屓(ごひいき)に対して、舞台ながらもおとなしい。
「あのね、この芝居はどういう脚色(しくみ)なの、それが聞きたいの。」
「小母さん見ていらっしゃい。」
 と云った。
 その間(うち)も、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。
「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」
 雲にも、人にも、松崎は胸が轟(とどろ)く。
「待ってて下さい。」
 と見返りもしないで、
「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい児(こ)だから。」
「だって、言ったって、芝居だって、同一(おなじ)なんですもの、見ていらっしゃい。」
「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可(いけな)い。」
 お稲は黙って頭(かぶり)を掉(ふ)る。
「まあ、強情だわねえ。」
「強情ではござりませぬ。」
 と思いがけず幕の中から、皺(しわ)がれた声を掛けた。美しい女(ひと)は瞳を注いだ、松崎は衝(つ)と踏台を離れて立った。――その声は見越入道が絶句した時、――紅蓮(ぐれん)大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと同一(おなじ)であった。
「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。貴女(あなた)がお急ぎであらばの、衣裳(いしょう)をお返し申すが可(い)い。」
 と半ば舞台に指揮(さしず)をする。
「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。」
「六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。」
 と幕が動くように向うで言った。
 松崎は、思わず紳士と目を見合った。小児(こども)なぞは眼中にない、男は二人のみだったから。
 美しい女(ひと)は、かえって恐れげもなくこう言った。
「ああ、分りました、そしてお前さんは?」
「いろいろの魂を瓶(かめ)に入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。」
「ええ、どうぞ。」
 と少々(わかわか)しいのが、あわれに聞えた。
「そこへ……髪結(かみゆい)が一人出るわいの。」
 松崎は骨の硬くなるのを知ったのである。
「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結の口からの、若い男と、美しい女と、祝言して仲の睦じい話をするのじゃ。
 その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。
 もうもう今までとてもな、腹の汚(きたな)い、慾(よく)に眼(まなこ)の眩(くら)んだ、兄御のために妨げられて、双方で思い思うた、繋がる縁が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、紅蓮(ぐれん)、大紅蓮、……」
 ああ、可厭(いや)な。
「阿鼻焦熱(あびしょうねつ)の苦悩(くるしみ)から、手足がはり、肉(み)を切(きり)こまざいた血の池の中で、悶(もだ)え苦(くるし)んで、半ば活(い)き、半ば死んで、生きもやらねば死にも遣(や)らず、死にも遣らねば生きも遣らず、呻(うめ)き悩んでいた所じゃ。
 また万に一つもと、果敢(はかな)い、細い、蓮(はす)の糸を頼んだ縁は、その話で、鼠の牙(きば)にフッツリと食切られたが、……
 ドンと落ちた穴の底は、狂気(きちがい)の病院入(いり)じゃ。この段替ればいの、狂乱の所作(しょさ)じゃぞや。」
 と言う。風が添ったか、紙の幕が、煽(あお)つ――煽つ。お稲は言(ことば)につれて、すべて科(しぐさ)を思ったか、振(ふり)が手にうっかり乗って、恍惚(うっとり)と目を□(みは)った。……

       二十二

「どうするの、それから。」
 細い、が透(とお)る、力ある音調である。美しい女(ひと)のその声に、この折から、背後(うしろ)のみ見返られて、雲のひだ染(にじ)みに蔽(おお)いかかる、桟敷裏(さじきうら)とも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。
 舞台を見返す瞬間、むこうから、先刻(さっき)の編笠を被(かぶ)った鴉(からす)ような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが一団(ひとかたまり)残って、底に幽(かすか)に蒼空(あおぞら)の見える……遥(はる)かに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた前途(さき)から、黒雲を背後(うしろ)に曳(ひ)いて襲(おそ)い来るごとく見て取られた。
 それ、もうそこに、編笠を深く、舞台を覗(のぞ)く。
 いつの間にか帰って来て、三人に床几(しょうぎ)を貸した古女房も交って立つ。
 彼処(かしこ)に置捨てた屋台車が、主(ぬし)を追うて自ら軋(きし)るかと、響(ひびき)が地を畝(うね)って、轟々(ごろごろ)と雷(らい)の音。絵の藤も風に颯(さっ)と黒い。その幕の彼方(かなた)から、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと饒舌(しゃべ)る。……
「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死(くるいじに)に死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属(うからやから)の余所(よそ)で見る眼(まなこ)には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛(まつげ)を黒う塞(ふさ)いで、の、長煩らいの死ぬ身には塵(ちり)も据(すわ)らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで痩(や)せもせず、苦患(くげん)も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の裡(うち)の苦痛(くるしみ)はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」
「そして、後は、」
 と美しい女(ひと)は、白い両手で、確(しか)と紫の襟を圧(おさ)えた。
「死骸になっての、空蝉(うつせみ)の藻脱けた膚(はだ)は、人間の手を離れて牛頭(ごず)馬頭(めず)の腕に上下から掴(つか)まれる。や、そこを見せたい。その娘(こ)の仮髪(かつら)ぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸も切(きれ)もかからぬ膚を黒く輝く、吾(あ)が天女の後光のように包むを見さい。末は踵(かかと)に余って曳(ひ)くぞの。
 鼓草(たんぽぽ)の花の散るように、娘の身体(からだ)は幻に消えても、その黒髪は、金輪(こんりん)、奈落、長く深く残って朽ちぬ。百年(ももとせ)、千歳(ちとせ)、失(う)せず、枯れず、次第に伸びて艶を増す。その髪千筋一筋ずつ、獣(けもの)が食えば野の草から、鳥が啄(は)めば峰の花から、同じお稲の、同じ姿容(かたち)となって、一人ずつ世に生れて、また同一(おなじ)年、同一(おなじ)月日に、親兄弟、家眷親属、己(おの)が身勝手な利慾(りよく)のために、恋をせかれ、情(なさけ)を破られ、縁を断(き)られて、同一(おなじ)思いで、狂死(くるいじに)するわいの。あの、厄年の十九を見され、五人、三人一時(いっとき)に亡(う)せるじゃろうがの。死ねば思いが黒髪に残ってその一筋がまた同じ女と生れる、生きかわるわいの。死にかわるわいの。
 その誰もが皆揃うて、親兄弟を恨む、家眷親属を恨む、人を恨む、世を恨(うら)む、人間五常の道乱れて、黒白(あやめ)も分かず、日を蔽(おお)い、月を塗る……魔道の呪詛(のろい)じゃ、何と! 魔の呪詛を見せますのじゃ、そこをよう見さっしゃるが可(い)い。
 お稲の髪の、乱れて摩(なび)く処をのう。」
「死んだお稲さんの髪が乱れて……」
 と美しい女(ひと)は、衝(つ)と鬢(びん)に手を遣ったが、ほつれ毛よりも指が揺(ゆら)いで、
「そして、それからはえ?」
 と屹(きっ)と言う
「此方(こなた)、親があらば叱らさりょう。よう、それからと聞きたがるの、根問(ねど)いをするのは、愛嬌(あいきょう)が無うてようないぞ。女子(おなご)は分けて、うら問い葉問(はどい)をせぬものじゃ。」
 雲の暗さが増すと、あたりに黒く艶が映(さ)す。
 その中に、美しい女(ひと)は、声も白いまで際立って、
「いいえ、聞きたい。」

       二十三

「たって聞きたくばの、こうさしゃれ。」
 幕の蔭で、間(ま)を置いて、落着いて、
「お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後は去(い)んで、二度添(ぞい)どのに聞かっしゃれ、二度添いの女子(おなご)に聞かっしゃれ。」
「二度添とは? 何です、二度添とは。」
 扱帯(しごき)を手繰るように繰返して問返した。
「か、知らぬか、のう。二度添とはの、二度目の妻の事じゃ。男に取替えられた玩弄(おもちゃ)の女子(おなご)じゃ。古い手に摘まれた、新しい花の事いの。後妻(うわなり)じゃ、後妻(ごさい)と申しますものじゃわいのう。」
 ト一度引(ひっ)かかったように見えたが、ちらりと筵(むしろ)の端を、雲の影に踏んで、美しい女(ひと)の雪なす足袋は、友染凄(すご)く舞台に乗った。
 目を明(あきら)かに凝(じっ)と視(み)て、
「その後妻とは、二度添とは誰れ、そこに居る人。」と肩を斜め、手を、錆(さ)びたが楯(たて)のごとく、行燈(あんどん)に確(しか)と置く。
「おおおお、誰や知らぬ、その二度添というのはの、……お稲が望(のぞみ)が遂げなんだ、縁の切れた男に、後で枕添(まくらぞえ)となった女子(おなご)の事いの。……娑婆(しゃば)はめでたや、虫の可(い)い、その男はの、我が手で水を向けて、娘の心を誘うておいて、弓でも矢でも貫こう心はなく、先方(さき)の兄者に、ただ断り言われただけで指を銜(くわ)えて退(すさ)ったいの、その上にの。
 我勝手(われがって)や。娘がこがれ死(じに)をしたと聞けば、おのれが顔をかがみで見るまで、自惚(うぬぼ)れての。何と、早や懐中(ふところ)に抱いた気で、お稲はその身の前妻じゃ。――
 との、まだお稲が死なぬ前に、ちゃッと祝言した花嫁御寮に向うての、――お主(ぬし)は後妻じゃ、二度目ぢゃと思うておくれい、――との。何と虫が可(よ)かろうが。その芋虫にまた早や、台(うてな)も蕊(しべ)も嘗(な)められる、二度添どのもあるわいの。」
 と言うかと思う、声の下で、
「ほほほほほ」
 と口紅がこぼれたように、散って舞うよと花やかに笑った。
 ああ、膚(はだ)が透く、心が映る、美しい女(ひと)の身の震う影が隈(くま)なく衣(きぬ)の柳条(しま)に搦(から)んで揺れた。
「帰ろう、品子、何をしとる。」
 紳士はずかずかと寄って、
「詰(つま)らん、さあ、帰るんです、帰るんだ。」
 とせり着くように云ったが、身動きもしないのを見て、堪(たま)りかねた体(てい)で、ぐいと美しい女(ひと)の肩を取った。
「帰らんですか、おい、帰らんのか。」
 その手は衝(つ)と袖で払われた。
「貴方(あなた)は何です。女の身体(からだ)に、勝手に手を触って可(い)いんですか。他人の癖に、……」
「何だ、他人とは。」
 憤気(むき)になると、……
「舞台へ、靴で、誰、お前は。」
 先刻(さっき)から、ただ柳が枝垂(しだ)れたように行燈に凭(もた)れていた、黒紋着(くろもんつき)のその雪女が、りんとなって、両手で紳士の胸を圧(お)した。
 トはっとした体(てい)で、よろよろと退(しさ)ったが、腰も据らず、ひょろついて来て縋(すが)るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。
「貴方(あなた)を、伴侶(つれ)、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」
 紳士は探険と言った。
「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」
「それはよくない。不可(いけ)ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」
「そ、そんなら、妻(さい)を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出(ひっぱりだ)して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」

       二十四

「いいえ、御心配には及びません。」
 松崎は先んじられた……そして美しい女(ひと)は、淵(ふち)の測り知るべからざる水底(みなそこ)の深き瞳を、鋭く紳士の面(おもて)に流して
「私は確(たしか)です。発狂するなら貴方がなさい、御令妹(ごれいまい)のお稲さんのために。」
 と、爽(さわや)かに言った。
「私とは、他人なんです。」
「他人、何だ、何だ。」
 と喘(あえ)ぐ、
「ですが、私に考えがあって、ちょっと知己(ちかづき)になっていたばかりなんです。」
 美しい女(ひと)は、そんなものは、と打棄(うっちゃ)る風情で、屹(き)とまた幕に向って立直った。
「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。豪(えら)いのね。でも悪魔、変化(へんげ)ばかりではない、人間にも神通(じんずう)があります。私が問うたら、お前さんは、去(い)って聞けと言いましたね。
 私は即座に、その二度添(ぞい)、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……
 お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」
 幕の内で、
「朧気(おぼろげ)じゃ、冥土(めいど)の霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」
「ええ、聞かしてあげましょう。――男に取替えられた玩弄(おもちゃ)は、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、旭(あさひ)に向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。
 お稲さんの事を聞かされました。玩弄(おもちゃ)は取替えられたんです、花は古い手に摘(つま)れたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。
 贅沢(ぜいたく)です、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めれば可(い)い、そのために恋人が、そうまでにして生命(いのち)を棄てたと思ったら、自分も死ねば可(い)いんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。
 力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人極(ぎ)めにして、その上に、新妻(にいづま)を後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ洒亜々々(しゃあしゃあ)として、髪を光らしながら、鰌髭(どじょうひげ)の生えた口で言うのは何事でしょうね。」
「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」
 紳士は肩で息をした、その手は松崎に縋(すが)っている。……
「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには幾多(いくたり)居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。
 夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、皆(みんな)、女の仇(かたき)です。
 幕の中の人、お聞きなさい。
 二度添にされた後妻はね……それから夫の言(ことば)に、わざと喜んで従いました。
 涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。
 そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、少(わか)い女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でも彼(か)でも涙を流すに極(きま)っています。
 私は精々(せっせ)と出入(ではい)りしました。先方(さき)からも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くに極(きま)っているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」
 電(いなびかり)が、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木(しゅもく)橋、川を射て、橋に輝くか、と衝(つ)と町を徹(とお)った。

       二十五

「その望みが叶(かな)ったんです。
 そして、今日も、夫婦のような顔をして、二人づれで、お稲さんの墓参りに来たんです――夫は、私がこうするのを、お稲さんの霊魂(たましい)が乗りうつったんだと云って、無性に喜んでいるんです。
 殺した妹の墓の土もまだ乾かないのに、私と一所に、墓参りをして、御覧なさい、裁下(たちお)ろしの洋服の襟に、乙女椿の花を挿して、お稲は、こういう娘だったと、平気で言います。
 その気ですからね。」
 紳士の身体(からだ)は靴を刻んで、揺上(ゆりあ)がるようだったが、ト松崎が留めたにもかかわらず、かッと握拳(にぎりこぶし)で耳を圧(おさ)えて、横なぐれに倒れそうになって、たちまち射るがごとく町を飛んだ。その状(さま)は、人の見る目に可笑(おかし)くあるまい、礫(つぶて)のごとき大粒の雨。
 雨の音で、寂寞(ひっそり)する、と雲にむせるように息が詰(つま)った。
「幕の内の人、」
 美しい女(ひと)は、吐息(といき)して、更(あらた)めて呼掛けて、
「お前さんが言った、その二度添いの談話(はなし)は分ったんですか。」
「それから、」
 と雨に濡れたような声して言う。
「これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです。」
「さて、その後(あと)はどうなるのじゃ。」
「あら、……」
 もどかしや。
「お前さんも、根問(ねどい)をするのね。それで可(い)いではありませんか。」
「いや、可(よ)うないわいの、まだ肝心な事が残ったぞ。」
「肝心な事って何です。」
「はて、此方(こなた)も、」
 雨に、つと口を寄せた気勢(けはい)で、
「知れた事じゃ……肝心のその二度添(ぞい)どのはどうなるいの。」
 聞くにも堪えじ、と美しい女(ひと)の眦(まなじり)が上(あが)った。
「ええ、廻りくどい! 私ですよ。」
 と激した状(さま)で、衝(つ)と行燈(あんどん)を離れて、横ざまに幕の出入口に寄った。流るるような舞台の姿は、斜めに電光(いなびかり)に颯(さっ)と送られた。……
「分っているがの。」
 と鷹揚(おうよう)に言って、
「さてじゃ、此方(こなた)の身は果(はて)はどうなるのじゃ。」
「…………」
 ふと黙って、美しい女(ひと)は、行燈に、しょんぼりと残ったお稲の姿にその眦(まなじり)を返しながら、
「お前さんの方の芝居は? この女はどうなる幕です。」
「おいの、……や、紛れて声を掛けなんだじゃで、お稲は殊勝気(けなげ)に舞台じゃった。――雨に濡りょうに……折角の御見物じゃ、幕切れだけ、ものを見しょうな。」
 と言うかと思うと、唐突(だしぬけ)にどろどろと太鼓が鳴った。音を綯交(なえま)ぜに波打つ雷(らい)鳴る。
 猫が一疋と鼬(いたち)が出た。
 ト無慙(むざん)や、行燈の前に、仰向(あおむ)けに、一個(ひとつ)が頭(つむり)を、一個(ひとつ)が白脛(しらはぎ)を取って、宙に釣ると、綰(わが)ねの緩んだ扱帯(しごき)が抜けて、紅裏(もみうら)が肩を辷(すべ)った……雪女は細(ほっそ)りとあからさまになったと思うと、すらりと落した、肩なぞえの手を枕に、がっくりと頸(うなじ)が下(さが)って、目を眠った。その面影に颯(さっ)と影、黒髪が丈(たけ)に乱れて、舞台より長く敷いたのを、兇悪異変な面(つら)二つ、ただ面(めん)のごとく行燈より高い所を、ずるずると引いて、美しい女(ひと)の前を通る。
 幕に、それが消える時、風が擲(なげう)つがごとく、虚空から、――雨交りに、電光の青き中を、朱鷺色(ときいろ)が八重に縫う乙女椿の花一輪。はたと幕に当って崩れもせず……お稲の玉なす胸に留まって、たちまち隠れた。
 美しい女(ひと)は筵(むしろ)に爪立(つまだ)って身悶(みもだ)えしつつ、
「お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです。」
「むむ、くどいの、あとは魔界のものじゃ。雪女となっての、三つ目入道、大入道の、酌なと伽(とぎ)なとしょうぞいの。わはは、」
 と笑った。
 美しい女(ひと)は、額を当てて、幕を掴(つか)んで、
「生意気な事をお言いでない。幕の中の人、悪魔、私も女だよ、十九だよ……お稲さんと同じ死骸になるんだけれど、誰が、誰が、酌なんか、……可哀相にお稲さんを――女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私を御覧。」
 はたた、はたた神。
 南無三宝(なむさんぽう)、電光に幕あるのみ。
「あれえ。」と聞えた。
 瞬間、松崎は猶予(ためら)ったが、棄ておかれぬのは、続いて、編笠した烏と古女房が、衝(つ)と幕を揚げて追込んだ事である。
 手を掛けると、触るものなく、篠(しの)つく雨の簾(すだれ)が落ちた。
 と見ると、声のしたものは何も見えない。三つ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、松崎の殺進に、気を打たれたか、ばらばらと、奥へ遁(に)げる。と果(はて)しもなく野原のごとく広い中に、塚を崩した空洞(うつろ)と思う、穴がぽかぽかと大(おおき)く窪(くぼ)んで蜂の巣を拡げたような、その穴の中へ、すぽん、と一個(ひとつ)ずつ飛込んで、ト貝鮹(かいだこ)と云うものめく……頭だけ出して、ケラケラと笑って失(う)せた。
 何等の魔性ぞ。這奴(しゃつ)等が群り居た、土間の雨に、引□(ひきむし)られた衣(きぬ)の綾(あや)を、驚破(すわ)や、蹂躙(ふみにじ)られた美しい女(ひと)かと見ると、帯ばかり、扱帯(しごき)ばかり、花片(はなびら)ばかり、葉ばかりぞ乱れたる。
 途端に海のような、真昼を見た。
 広場は荒廃して日久しき染物屋らしい。縦横(たてよこ)に並んだのは、いずれも絵の具の大瓶(おおがめ)である。
 あわれ、その、せめて紫の瓶なれかし。鉄のひびわれたごとき、遠くの壁際の瓶の穴に、美しい女(ひと)の姿があった。頭(つむり)を編笠が抱えた、手も胸も、面影も、しろしろと、あの、舞台のお稲そのままに見えたが、ただ既に空洞(うつほ)へ入って、底から足を曳(ひ)くものがあろう、美しい女(ひと)は、半身を上に曲げて、腰のあたりは隠れたのである。
 雪のような胸には、同じ朱鷺色(ときいろ)の椿がある。
 叫んで、走りかかると、瓶の区劃(しきり)に躓(つまず)いて倒れた手に、はっと留南奇(とめき)して、ひやひやと、氷のごとく触ったのは、まさしく面影を、垂れた腕(かいな)にのせながら土間を敷いて、長くそこまで靡(なび)くのを認めた、美しい女(ひと)の黒髪の末なのであった。
 この黒髪は二筋三筋指にかかって手に残った。
 海に沈んだか、と目に何も見えぬ。
 四ツの壁は、流るる電(いなびかり)と輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、大灘(おおなだ)の波の唸(うな)りである。
「おでんや――おでん。」
 戸外(おもて)を行(ゆ)く、しかも女の声。
 我に返って、這(は)うように、空屋の木戸を出ると、雨上りの星が晃々(きらきら)。
 後で伝え聞くと、同一(おなじ)時、同一(おなじ)所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うら少(わか)い娘の余り果敢(はか)なさに、亀井戸詣(もうで)の帰途(かえるさ)、その界隈(かいわい)に、名誉の巫子(いちこ)を尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊の来(きた)った状(さま)は秘密だから言うまい。魂(たま)の上(あが)る時、巫子は、空(くう)を探って、何もない所から、弦(ゆんづる)にかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の記念(かたみ)ぞとて授けたのを、とやせんとばかりで迷(まよい)の巷(ちまた)。
 黒髪は消えなかった。
大正二(一九一三)年五月



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