陽炎座
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著者名:泉鏡花 

 南無三宝(なむさんぽう)、電光に幕あるのみ。
「あれえ。」と聞えた。
 瞬間、松崎は猶予(ためら)ったが、棄ておかれぬのは、続いて、編笠した烏と古女房が、衝(つ)と幕を揚げて追込んだ事である。
 手を掛けると、触るものなく、篠(しの)つく雨の簾(すだれ)が落ちた。
 と見ると、声のしたものは何も見えない。三つ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、松崎の殺進に、気を打たれたか、ばらばらと、奥へ遁(に)げる。と果(はて)しもなく野原のごとく広い中に、塚を崩した空洞(うつろ)と思う、穴がぽかぽかと大(おおき)く窪(くぼ)んで蜂の巣を拡げたような、その穴の中へ、すぽん、と一個(ひとつ)ずつ飛込んで、ト貝鮹(かいだこ)と云うものめく……頭だけ出して、ケラケラと笑って失(う)せた。
 何等の魔性ぞ。這奴(しゃつ)等が群り居た、土間の雨に、引□(ひきむし)られた衣(きぬ)の綾(あや)を、驚破(すわ)や、蹂躙(ふみにじ)られた美しい女(ひと)かと見ると、帯ばかり、扱帯(しごき)ばかり、花片(はなびら)ばかり、葉ばかりぞ乱れたる。
 途端に海のような、真昼を見た。
 広場は荒廃して日久しき染物屋らしい。縦横(たてよこ)に並んだのは、いずれも絵の具の大瓶(おおがめ)である。
 あわれ、その、せめて紫の瓶なれかし。鉄のひびわれたごとき、遠くの壁際の瓶の穴に、美しい女(ひと)の姿があった。頭(つむり)を編笠が抱えた、手も胸も、面影も、しろしろと、あの、舞台のお稲そのままに見えたが、ただ既に空洞(うつほ)へ入って、底から足を曳(ひ)くものがあろう、美しい女(ひと)は、半身を上に曲げて、腰のあたりは隠れたのである。
 雪のような胸には、同じ朱鷺色(ときいろ)の椿がある。
 叫んで、走りかかると、瓶の区劃(しきり)に躓(つまず)いて倒れた手に、はっと留南奇(とめき)して、ひやひやと、氷のごとく触ったのは、まさしく面影を、垂れた腕(かいな)にのせながら土間を敷いて、長くそこまで靡(なび)くのを認めた、美しい女(ひと)の黒髪の末なのであった。
 この黒髪は二筋三筋指にかかって手に残った。
 海に沈んだか、と目に何も見えぬ。
 四ツの壁は、流るる電(いなびかり)と輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、大灘(おおなだ)の波の唸(うな)りである。
「おでんや――おでん。」
 戸外(おもて)を行(ゆ)く、しかも女の声。
 我に返って、這(は)うように、空屋の木戸を出ると、雨上りの星が晃々(きらきら)。
 後で伝え聞くと、同一(おなじ)時、同一(おなじ)所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うら少(わか)い娘の余り果敢(はか)なさに、亀井戸詣(もうで)の帰途(かえるさ)、その界隈(かいわい)に、名誉の巫子(いちこ)を尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊の来(きた)った状(さま)は秘密だから言うまい。魂(たま)の上(あが)る時、巫子は、空(くう)を探って、何もない所から、弦(ゆんづる)にかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の記念(かたみ)ぞとて授けたのを、とやせんとばかりで迷(まよい)の巷(ちまた)。
 黒髪は消えなかった。
大正二(一九一三)年五月



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