義血侠血
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著者名:泉鏡花 

行き違いさまに、綱曳(つなひ)きは血声(ちごえ)を振り立て、
「後生だい、手を仮(か)してくんねえか。あの瓦多(がた)馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇(ひとり)は叫べり。
 血気事を好む徒(てあい)は、応と言うがままにその車を道ばたに棄(す)てて、総勢五人の車夫は揉(も)みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐(お)い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
 そのとき車夫はいっせいに吶喊(とっかん)して馬を駭(おど)ろかせり。馬は懾(おび)えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
 恐怖、叫喚、騒擾(そうじょう)、地震における惨状は馬車の中(うち)に顕(あら)われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
 一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻(きんぽん)せらるる汽船の、やがて千尋(ちひろ)の底に汨没(こつぼつ)せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾(よう)々たる穏波を截(き)ると異ならざる精神をもって、その職を竭(つ)くすがごとく、従容(しょうよう)として手綱を操り、競争者に後(おく)れず前(すす)まず、隙(ひま)だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨(にら)み合いつつ推し行くさまは、この道堪能(かんのう)の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
 されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌(あわ)て忙(ふため)きて、あまたの神と仏とは心々に祷(いの)られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶(まも)りたり。
 かくて六箇(むつ)の車輪はあたかも同一(ひとつ)の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡(ふくおか)というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲(みずか)い、客に茶を売るを例とすれども、今日(きょう)ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想(おも)いぬ。
 御者はこの店頭(みせさき)に馬を駐(とど)めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮(ふ)り、声を揚(あ)げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
 乗り合いは切歯(はがみ)をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙(すなけぶり)に裹(つつ)まれて、ついに眼界のほかに失われき。
 旅商人体(たびあきゅうどてい)の男は最も苛(いらだ)ちて、
「なんと皆さん、業肚(ごうはら)じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁(べっとう)さん、早く行(や)ってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者(おやじ)はまことにはやどうも。第一この疝(せん)に障(さわ)りますのでな」
 と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫(おやじ)なり。馬は群がる蠅(はえ)と虻(あぶ)との中に優々と水飲み、奴は木蔭(こかげ)の床几(しょうぎ)に大の字なりに僵(たお)れて、むしゃむしゃと菓子を吃(く)らえり。御者は框(かまち)に息(いこ)いて巻き莨(たばこ)を燻(くゆら)しつつ茶店の嚊(かか)と語(ものがた)りぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟(つぶや)けば、田舎(いなか)女房と見えたるがその前面(むかい)にいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
 最初の発言者(はつごんしゃ)はますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮(はず)みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
 渠は直ちに帯佩(おびさ)げの蟇口(がまぐち)を取り出して、中なる銭を撈(さぐ)りつつ、
「ねえあなた、ここでああ惰(なま)けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
 やがて銅貨三銭をもって隗(かい)より始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人(ひとびと)の前に差し出して、渠はあまねく義捐(ぎえん)を募れり。
 あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
 美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞(ことば)を卑(ひく)うして挨拶(あいさつ)せり。
「とんだお附(つ)き合いで、どうもおきのどく様でございます」
 美人は軽(かろ)く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬(ひしおぜ)の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
 余所目(よそめ)に瞥(み)たる老夫はいたく驚きて面(かお)を背(そむ)けぬ、世話人は頭を掻(か)きて、
「いや、これは剰銭(おつり)が足りない。私もあいにく小(こま)かいのが……」
 と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
 世話人は呆(あき)れて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
 これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財(きれはなれ)の婦女子(おんな)に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝(いぶか)れり。
 世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「〆(しめ)て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
 御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
 渠は気軽に御者の肩を拊(たた)きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
 御者は流眄(ながしめ)に紙包みを見遣(みや)りて空嘯(そらうそぶ)きぬ。
「酒手で馬は動きません」
 わずかに五銭六厘を懐(ふところ)にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的(こころありげ)に御者の面(おもて)を眺(なが)めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
 車は徐々として進行せり。
「戴(いただ)く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
 六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入(ちんにゅう)せんとせり。渠は固(かた)く拒(こば)みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定(きめ)の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由(わけ)がございません」
 世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
「理由(わけ)も糸瓜(へちま)もあるものかな。お客が与(くれ)るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰(もら)って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車(くるま)を抽(ぬ)いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
 世話人は冷笑(あざわら)いぬ。
「そんなりっぱな口を※(き)[#「口+世」、16-16]いたって、約束が違や世話はねえ」
 御者はきと振り顧(かえ)りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅(はや)いという約束だぜ」
 儼然(げんぜん)として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉(ねえ)さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大(ばくだい)な酒手も奮(はず)もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
 鼻蠢(うごめ)かして世話人は御者の背(そびら)を指もて撞(つ)きぬ。渠は一言(いちごん)を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰(なじ)れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
 なお渠は緘黙(かんもく)せり。その脣(くちびる)を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄(ばてい)たちまち高く挙(あ)ぐれば、車輪はその輻(やぼね)の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾(なみ)に盪(ゆ)られて、浮沈の憂(う)き目に遭(あ)いぬ。
 縦騁(しょうてい)五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動(いするぎ)はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗(おくれ)を取らざるを得ざるべきなり。憐(あわ)れむべし過度の馳□(ちぶ)に疲れ果てたる馬は、力なげに俛(た)れたる首を聯(なら)べて、策(う)てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
 何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
 乗り合いは顔を見合わせて、この謎(なぞ)を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨(またが)りたり。
 魂消(たまげ)たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面(おもて)を鳩(あつ)め、あけらかんと頤(おとがい)を垂れて、おそらくは画(え)にも観(み)るべからざるこの不思議の為体(ていたらく)に眼(め)を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動(ふるまい)とを載せてましぐらに馳(は)せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復(かえ)りて響動(どよ)めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
 例の老夫は頭を悼(ふ)り悼り呟(つぶや)けり。
「いや洒落(しゃれ)どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
 不審の眉(まゆ)を攅(あつ)めたる前(さき)の世話人は、腕を拱(こまぬ)きつつ座中を□(みまわ)して、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事(ただごと)じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈(か)け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常(ただ)の鼠(ねずみ)じゃあんめえと睨(にら)んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用を抱(かか)えている身(からだ)だから、こうして安閑(あんかん)としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣(や)ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態(ざま)を見せられて、置き去りを吃(く)うやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯(ふざけ)た真似(まね)をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
 奴(やっこ)は途方に暮れて、曩(さき)より車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「活(い)きてるものの動かないという法があるものか」
「臀部(けつっぺた)を引(ひ)っ撲(ぱた)け引っ撲け」
 奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭曳(び)きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
 腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵(ののし)る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊(あつ)まれり。渠はさんざんに苛(さいな)まれてついに涙ぐみ、身の措(お)き所に窮して、辛くも車の後(あと)に竦(すく)みたりき。乗り合いはますます躁(さわ)ぎて、敵手(あいて)なき喧嘩(けんか)に狂いぬ。
 御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞(かすみ)と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋(すが)りつ。風は※々(しゅうしゅう)[#「風にょう」+「容」の「口」に代えて「又」、20-11]と両腋(りょうえき)に起こりて毛髪竪(た)ち、道はさながら河(かわ)のごとく、濁流脚下に奔注(ほんちゅう)して、身はこれ虚空を転(まろ)ぶに似たり。
 渠は実に死すべしと念(おも)いぬ。しだいに風歇(や)み、馬駐(とど)まると覚えて、直ちに昏倒(こんとう)して正気(しょうき)を失いぬ。これ御者が静かに馬より扶(たす)け下ろして、茶店の座敷に舁(か)き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主(あるじ)の嫗(おうな)に嘱(たの)みて、その身は息をも継(つ)かず再び羸馬(るいば)に策(むちう)ちて、もと来し路(みち)を急ぎけり。
 ほどなく美人は醒(さ)めて、こは石動の棒端(ぼうばな)なるを覚(さと)りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊(たず)ねて、金さんなるを知りぬ。その為人(ひととなり)を問えば、方正謹厳、その行ないを質(ただ)せば学問好き。

       二

 金沢なる浅野川の磧(かわら)は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯(つら)ねて、猿芝居(さるしばい)、娘軽業(かるわざ)、山雀(やまがら)の芸当、剣の刃渡り、活(い)き人形、名所の覗(のぞ)き機関(からくり)、電気手品、盲人相撲(めくらずもう)、評判の大蛇(だいじゃ)、天狗(てんぐ)の骸骨(がいこつ)、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑(いとま)あらず。
 なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸(みずげい)なり。太夫(たゆう)滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称(あいかな)いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当(えいとう)たり。
 時まさに午後一時、撃柝(げきたく)一声、囃子(はやし)は鳴りを鎮(しず)むるとき、口上は渠(かれ)がいわゆる不弁舌なる弁を揮(ふる)いて前口上を陳(の)べ了(お)われば、たちまち起こる緩絃(かんげん)朗笛の節(せつ)を履(ふ)みて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結(やっこもとゆ)い掛けて、脂粉こまやかに桃花の媚(こ)びを粧(よそお)い、朱鷺(とき)色縮緬(ちりめん)の単衣(ひとえ)に、銀糸の浪(なみ)の刺繍(ぬい)ある水色絽(ろ)の□□(かみしも)を着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々に喚(わめ)きぬ。
「いよう、待ってました大明神(だいみょうじん)様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう金沢暴(あら)し!」
「ここな命取り!」
 喝采(やんや)の声のうちに渠は徐(しず)かに面(おもて)を擡(もた)げて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙(あ)げて一咳(いちがい)し、
「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初腕調(こてしら)べとして御覧に入れまするは、露に蝶(ちょう)の狂いを象(かたど)りまして、(花野の曙(あけぼの))。ありゃ来た、よいよいよいさて」
 さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手(ゆんで)に把(と)りて、右手(めて)には黄白(こうはく)二面の扇子を開き、やと声発(か)けて交互(いれちがい)に投げ上ぐれば、露を争う蝶一双(ひとつ)、縦横上下に逐(お)いつ、逐われつ、雫(しずく)も滴(こぼ)さず翼も息(やす)めず、太夫の手にも住(とど)まらで、空に文(あや)織る練磨(れんま)の手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声(だみごえ)高く喚(よば)わりつつ、外面(おもて)の幕を引き揚(あ)げたるとき、演芸中の太夫はふと外(と)の方(かた)に眼を遣(や)りたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
 口上は狼狽(ろうばい)して走り寄りぬ。見物はその為損(しそん)じをどっと囃(はや)しぬ。太夫は受け住(と)めたる扇を手にしたるまま、その瞳(ひとみ)をなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
 口上はいよいよ狼狽して、為(せ)ん方を知らざりき。見物は呆(あき)れ果てて息を斂(おさ)め、満場斉(ひと)しく頭(こうべ)を回(めぐ)らして太夫の挙動(ふるまい)を打ち瞶(まも)れり。
 白糸は群れいる客を推し排(わ)け、掻(か)き排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
 あわただしく木戸口に走り出で、項(うなじ)を延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼(わかもの)あり。
 何事や起こりたると、見物は白糸の踵(あと)より、どろどろと乱れ出ずる喧擾(ひしめき)に、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面(おもて)を見るを得たり。渠は色白く瀟洒(いなせ)なりき。
「おや、違ってた!」
 かく独語(ひとりご)ちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。

       三

 夜(よ)はすでに十一時に近づきぬ。磧(かわら)は凄涼(せいりょう)として一箇(ひとり)の人影(じんえい)を見ず、天高く、露気(ろき)ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
 熱鬧(ねっとう)を極(きわ)めたりし露店はことごとく形を斂(おさ)めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩(も)るる燈火(ともしび)は、かすかに宵のほどの名残(なごり)を留(とど)めつ。河(かわ)は長く流れて、向山(むこうやま)の松風静かに度(わた)る処(ところ)、天神橋の欄干に靠(もた)れて、うとうとと交睫(まどろ)む漢子(おのこ)あり。
 渠(かれ)は山に倚(よ)り、水に臨み、清風を担(にな)い、明月を戴(いただ)き、了然たる一身、蕭然(しょうぜん)たる四境、自然の清福を占領して、いと心地(ここち)よげに見えたりき。
 折から磧の小屋より顕(あら)われたる婀娜者(あだもの)あり。紺絞りの首抜きの浴衣(ゆかた)を着て、赤毛布(ゲット)を引き絡(まと)い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄(げた)の爪頭(つまさき)に戞々(かつかつ)と礫(こいし)を蹴遣(けや)りつつ、流れに沿いて逍遥(さまよ)いたりしが、瑠璃(るり)色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
 川風はさっと渠の鬢(びん)を吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
 しかと毛布(ケット)を絡(まと)いて、渠はあたりを□(みまわ)しぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色(けしき)なもんだ」
 渠は再び徐々として歩を移せり。
 この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠(はたご)を取らずして、小屋を家とせるもの寡(すく)なからず。白糸も然(さ)なり。
 やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄(あずまげた)の音は天地の寂黙(せきもく)を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛(おかし)さに、なおしいて響かせつつ、橋の央(なかば)近く来たれるとき、やにわに左手(ゆんで)を抗(あ)げてその高髷(たかまげ)を攫(つか)み、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
 暴々(あらあら)しく引き解(ほど)きて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
 かくて白糸は水を聴(き)き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾(ちんきん)として露下月前に快眠せる漢子(おのこ)は、数歩のうちにありて□(いびき)を立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
 囃子方(はやしかた)に新という者あり。宵より出(い)でていまだ小屋に還(かえ)らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を□(のぞ)きたり。
 新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌(そうぼう)はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝(まさ)ること千の新なるべき異常の面魂(つらだましい)なりき。
 その眉(まゆ)は長くこまやかに、睡(ねむ)れる眸子(まなじり)も凛如(りんじょ)として、正しく結びたる脣(くちびる)は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽(しゅんそう)なるを語れり。漆のごとき髪はやや生(お)いて、広き額(ひたい)に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦(そよ)げり。
 つくづく視(なが)めたりし白糸はたちまち色を作(な)して叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
 欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者(ぎょしゃ)なり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
 渠は跫音(あしおと)を忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
 恍惚(こうこつ)として瞳(ひとみ)を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡(まと)いし毛布(ケット)を脱ぎて被(き)せ懸(か)けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡(うまいね)せり。
 白糸は欄干に腰を憩(やす)めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝(ひざ)のあたりをはたと拊(う)てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚(めさ)まして、叭(あくび)まじりに、
「ああ、寝た。もう何時(なんどき)か知らん」
 思い寄らざりしわがかたわらに媚(なま)めける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
 馭者は愕然(がくぜん)として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布(ケット)ありて、深夜の寒を護(まも)れり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
 白糸は微笑(えみ)を含みて、呆(あき)れたる馭者の面(おもて)を視(み)つつ、
「夜露に打たれると体(からだ)の毒ですよ」
 馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌(ごきげん)よう」
 いよいよ呆(あき)れたる馭者は少しく身を退(すさ)りて、仮初(かりそめ)ながら、狐狸変化(こりへんげ)のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺(なが)めたる渠の眼色(めざし)は、顰(ひそ)める眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑(かたほえ)みて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首(こうべ)を傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
 馭者はいたく驚けり。月下の美人生面(せいめん)にしてわが名を識(し)る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸(こり)の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所(とこ)で!」
 袖(そで)を掩(おお)いて白糸は嫣然(えんぜん)一笑せり。
 馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首(こうべ)を正して言えり。
「抱いた記憶(おぼえ)はないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走(かけっくら)をして、石動(いするぎ)手前からおまえさんに抱かれて、馬上(うま)の合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手(よこで)を拍(う)ちて、馭者は大声(たいせい)を発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
 馭者は脣辺(しんぺん)に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶(おも)い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上(うま)の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵(すうしょ)の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
 白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日(いつ)、どうしてお出でなすったの?」
 四顧寥廓(しこりょうかく)として、ただ山水と明月とあるのみ。□戻(りょうれい)たる天風(てんぷう)はおもむろに馭者の毛布(ケット)を飄(ひるがえ)せり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄(ながしめ)に見遣(みや)りぬ。
「いや、それはともかくも、話説(はなし)をせんけりゃ解(わか)らん」
 馭者は懐裡(ふところ)を捜(さぐ)りて、油紙の蒲簀莨入(かますたばこい)れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発(ひら)かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃(はた)くを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
 馭者は言下(ごんか)に莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管が壅(つま)ってます」
「いいえ、結構」
 白糸は一吃(いっきつ)を試みぬ。はたしてその言(ことば)のごとく、煙管は不快(こころわろ)き脂(やに)の音のみして、煙(けむり)の通うこと縷(いとすじ)よりわずかなり。
「なるほどこれは壅(つま)ってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要(い)るのだ」
「ばかにしないねえ」
 美人は紙縷(こより)を撚(ひね)りて、煙管を通し、溝泥(どぶどろ)のごとき脂に面(おもて)を皺(しわ)めて、
「こら! 御覧な、無性(ぶしょう)だねえ。おまえさん寡夫(やもめ)かい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶(あいさつ)だ。でも、情婦(いろ)の一人や半分(はんぶん)はありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝(いっかつ)せり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯(そらうそぶ)きぬ。
「おまえさんの壮年(とし)で、独身(ひとりみ)で、情婦がないなんて、ほんとに男子(おとこ)の恥辱(はじ)だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
 馭者は傲然(ごうぜん)として、
「そんなものは要(い)らんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除(そうじ)ができたから、一服戴(いただ)こう」
 白糸はまず二服を吃(きっ)して、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「また壅(つま)ったときは、いつでも持ってお出でなさい」
 大口開(あ)いて馭者は心快(こころよ)げに笑えり。白糸は再び煙管を仮(か)りて、のどかに烟(けぶり)を吹きつつ、
「今の顛末(はなし)というのを聞かしてくださいな」
 馭者は頷(うなず)きて、立てりし態(すがた)を変えて、斜めに欄干に倚(よ)り、
「あのとき、あんな乱暴を行(や)って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜(くや)しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
 美人は眉(まゆ)を昂(あ)げて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟(りくつ)なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩(けんか)を仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便(おんびん)がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
 白糸は身に沁(し)む夜風にわれとわが身を抱(いだ)きて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
 渠は慰むる語(ことば)なきがごとき面色(おももち)なりき。馭者は冷笑(あざわら)いて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
 美人は愁然として腕を拱(こまぬ)きぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨(ぶらつ)いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁(べっとう)の口でもあるだろうと思って、探(さが)しに出て来た。今日(きょう)も朝から一日奔走(かけある)いたので、すっかり憊(くたび)れてしまって、晩方一風呂(ひとっぷろ)入(はい)ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼(すずみ)に出掛けて、ここで月を観(み)ていたうちに、いい心地(こころもち)になって睡(ね)こんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者は頭(かしら)を掉(ふ)りぬ。
 白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
 馭者は長嘆せり。
「生得(うまれ)からの馬丁でもないさ」
 美人は黙して頷(うなず)きぬ。
「愚痴(ぐち)じゃあるが、聞いてくれるか」
 わびしげなる男の顔をつくづく視(なが)めて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細(しさい)があって、幼少(ちいさい)ころに家(うち)は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺(おやじ)に亡(な)くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止(やめ)さ。それから高岡へ還(かえ)ってみると、その日から稼(かせ)ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体(からだ)だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父(おやじ)は馬の家じゃなかったけれど、大の所好(すき)で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児(こども)の時分稽古(けいこ)をして、少しは所得(おぼえ)があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計(くらし)を立てているという、まことに愧(は)ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡(りょうけん)でもない、目的も希望(のぞみ)もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
 渠は茫々(ぼうぼう)たる天を仰ぎて、しばらく悵然(ちょうぜん)たりき。その面上(おもて)にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝(た)えざる声音(こわね)にて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望(のぞみ)というのは、私たちには聞いても解(わか)りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」
 馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
 白糸は軽(かろ)く小膝(ひざ)を拊(う)ちて、
「黄金(かね)の世の中ですか」
「地獄の沙汰(さた)さえ、なあ」
 再び馭者は苦笑いせり。
 白糸は事もなげに、
「じゃあなた、お出(い)でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
 深沈なる馭者の魂も、このとき跳(おど)るばかりに動(ゆらめ)きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄(おのの)きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性(ましょう)のものを睨(ね)めたりけり。さきに半円の酒銭(さかて)を投じて、他の一銭よりも吝(お)しまざりしこの美人の胆(たん)は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に□目(とうもく)せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出(ほとばし)らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸(こり)か、変化(へんげ)か、魔性か。おそらくは※脂(えんし)[#「月+因」、35-8]の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
 馭者は美人の意(こころ)をその面(おもて)に読まんとしたりしが、能(あた)わずしてついに呻(うめ)き出だせり。
「なんだって?」
 美人も希有(けう)なる面色(おももち)にて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚に唾(つば)するがごとく独語(ひとりご)ちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番(ひとつ)私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなに慮(かんが)えることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁(ゆかり)もないものに……」
「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければ報(かえ)さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩(おんがえし)ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父(おじ)さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉(つかま)えて、やたらにお金を貢(みつ)いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生(ごしょう)だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要(い)るものじゃない。私はおまえさんの希望(のぞみ)というのが□(かな)いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩(おんがえし)さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物(ひと)になれると想(おも)うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
 その音(おん)柔媚(じゅうび)なれども言々風霜を挟(さしはさ)みて、凛(りん)たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
 渠は襟(きん)を正して、うやうやしく白糸の前に頭(かしら)を下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
 美人は喜色満面に溢(あふ)るるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語(ことば)を遣(つか)われると、私は気が逼(つま)るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々(りり)しくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ窮(こま)ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
 馭者は夢みる心地(ここち)しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面(おもて)に露(あら)わして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩(おんがえし)には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望(のぞみ)はありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が□(かな)いさえすれば……」
「それはいかん! 自分の所望(のぞみ)を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩(おんがえし)になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
 かく言いつつ美人は微笑(ほほえ)みぬ。
「いや、理屈(りくつ)を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩(おんがえし)といえば、乞食(こじき)も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞(もら)った報恩(おんがえし)になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
 とみには返す語(ことば)もなくて、白糸は頭(かしら)を低(た)れたりしが、やがて馭者の面(おもて)を見るがごとく見ざるがごとく□(うかが)いつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はやや容(かたち)を正せり。
「ちっと羞(は)ずかしいことさ」
「なんなりとも」
「諾(き)いてくださるか。いずれおまえさんの身に適(かな)ったことじゃあるけれども」
「一応聴(き)いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
 白糸は鬢(びん)の乱(おく)れを掻(か)き上げて、いくぶんの赧羞(はずか)しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶(まも)りつつ、固唾(かたず)を嚥(の)みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠(くちご)もりたりしが、直ちに心を定めたる気色(けしき)にて、
「処女(きむすめ)のように羞(は)ずかしがることもない、いい婆(ばばあ)のくせにさ。私の所望(のぞみ)というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君(おかみさん)にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯(しょうがい)親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」
 馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。
「よろしい。けっしてもう他人ではない」
 涼しき眼(め)と凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅□(ほうはく)は、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。
「私は高岡の片原町(かたはらまち)で、村越欣弥(むらこしきんや)という者だ」
「私は水島友といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
 白糸ははたと語(ことば)に塞(つま)りぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。
「お宅はちっと窮(こま)ったねえ」
「だって、家(うち)のないものがあるものか」
「それがないのだからさ」
 天下に家なきは何者ぞ。乞食(こつじき)の徒といえども、なおかつ雨露を凌(しの)ぐべき蔭(かげ)に眠らずや。世上の例(ならい)をもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿(たまのこし)に乗るべきなり。しかるを渠は無宿(やどなし)と言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如(し)かず、と馭者は思えり。
「それじゃどこにいるのだ」
「あすこさ」と美人は磧(かわら)の小屋を指させり。
 馭者はそなたを望みて、
「あすことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑(えみ)を含みぬ。
「ははあ、見世物小屋とは異(かわ)っている」
 馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸(か)けざりき、寡(すく)なくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌(く)みておのれを嘲(あざけ)りぬ。
「あんまり異(かわ)りすぎてるわね」
「見世物の三味線(しゃみせん)でも弾(ひ)いているのかい」
「これでも太夫元(たゆうもと)さ。太夫だけになお悪いかもしれない」
 馭者は軽侮(けいぶ)の色をも露(あら)わさず、
「はあ、太夫! なんの太夫?」
「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目(きまり)が悪いからさ」
 馭者はますますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
 かく言いつつ珍しげに女の面(おもて)を□(のぞ)きぬ。白糸はさっと赧(あから)む顔を背(そむ)けつつ、
「ああもうたくさん、堪忍(かに)しておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
 白糸は渠の語(ことば)を手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情(ふぜい)にて、欣弥は頷(うなず)けり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
 つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞(つ)きたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳(いくつ)になるのだ」
「おまえさん何歳(いくつ)になるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆(ばばあ)だね」
「何歳(いくつ)さ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳(はたち)ぐらいかと想(おも)った」
「何か奢(おご)りましょうよ」
 白糸は帯の間より白縮緬(ちりめん)の袱紗(ふくさ)包みを取り出だせり。解(ひら)けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「これに三十円あります。まあこれだけ進(あ)げておきますから、家(うち)の処置(かた)をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
「家(うち)の処置といって、別に金円(かね)の要(い)るようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
「全額(みんな)もらったらおまえさんが窮(こま)るだろう」
「私はまた明日(あす)入(はい)る口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
 欣弥は受け取りたる紙幣を軽(かろ)く戴(いただ)きて懐(ふところ)にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥(いちべつ)して、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
 渠は愚弄(ぐろう)の態度を示して、両箇(ふたり)のかたわらに立ち住(ど)まりぬ。白糸はわずかに顧眄(みかえ)りて、棄(す)つるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」
「なんだね、人をばかにして。一人(いちにん)乗りに同乗(あいのり)ができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
 おもしろ半分に□(まつわ)るを、白糸は鼻の端(さき)に遇(あしら)いて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。他(ひと)のことよりは、早く還(かえ)って、内君(うちの)でも悦(よろこ)ばしておやんな」
 さすがに車夫もこの姉御の与(くみ)しやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
 渠は直ちに踵(きびす)を回(めぐ)らして、鼻唄(はなうた)まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫(くるまや)!」とにわかに呼び住(と)めたり。
 車夫(しゃふ)は頭(かしら)を振り向けて、
「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木(ふしき)まで行くか」
 渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
 伏木はけだし上都(じょうと)の道、越後直江津(えちごなおえつ)まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐに発(た)とうと思う」
「これから□」と白糸はさすがに心(むね)を轟(とどろ)かせり。
 欣弥は頷きたりし頭(かしら)をそのまま低(た)れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳(ひとみ)を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
 一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若い衆(しゅ)さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
 渠が紙入れを捜(さぐ)るとき、欣弥はあわただしく、
「車夫(くるまや)、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
 五銭の白銅を把(と)りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間(なか)に分け入りて、
「少し都合があるのだから、これから遣(や)ってくれ」
 渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚(さと)りて、潔く未練を棄(す)てぬ。
「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」
 このとき両箇(ふたり)の眼(まなこ)は期せずして合えり。
「そうしてお母(かあ)さんには?」
「道で寄って暇乞(いとまご)いをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯(ふざけ)でないよ」
 欣弥はすでに車上にありて、
「車夫(くるまや)、どうだろう。二人乗ったら毀(こわ)れるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。姉(ねえ)さんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
 欣弥は手招けば、白糸は微笑(ほおえ)む。その肩を車夫はとんと拊(う)ちて、
「とうとう異(おつ)な寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
 月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。

       四

 滝の白糸は越後の国新潟(にいがた)の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間業(わざ)を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶(かな)わざるなきがゆえに、四方の金主(きんす)は渠(かれ)を争いて、ついに例(ためし)なき莫大(ばくだい)の給金を払うに到(いた)れり。
 渠は親もあらず、同胞(はらから)もあらず、情夫(つきもの)とてもあらざれば、一切(いっさい)の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放(かったつごうほう)の気は、この余裕あるがためにますます膨張(ぼうちょう)して、十金(じっきん)を獲(う)れば二十金(にじっきん)を散ずべき勢いをもって、得るままに撒(ま)き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難(かた)きを渠は知らざりしゆえなり。
 渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越(ほうえつ)して鉄拐(てっか)となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。
 渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳(いくとせ)をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸(はし)を控えて渠が饋餉(きしょう)を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。
 従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫(ひし)ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩(ね)じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有(たも)ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年(みとせ)の長きに亙(わた)れり。
 あるいは富山(とやま)に赴(い)き、高岡に買われ、はた大聖寺(だいしょうじ)福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭(いと)わず八方に稼(かせ)ぎ廻(まわ)りて、幸いにいずくも外(はず)さざりければ、あるいは血をも濺(そそ)がざるべからざる至重(しちょう)の責任も、その収入によりて難なく果たされき。
 されども見世物の類(たぐい)は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸(ようや)く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪(せつ)世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居(ちっきょ)せざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采(やんや)は全く暑中にありて、冬季は坐食す。
 よし渠は糊口(ここう)に窮せざるも、月々十数円の工面(くめん)は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖(そで)を振りける? 魚は木に縁(よ)りて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。
 その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方塞(ふさ)がりて、融通の道も絶えなむとせり。
 翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技(わざ)とをもって、希有(けう)の人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主附(つ)きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調(ととの)いき。
 白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰(あま)してけり。これをもってせば欣弥母子(おやこ)が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰(ひそ)みたりし愁眉(しゅうび)を開けり。
 されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
 渠の希望(のぞみ)はすでに手の達(とど)くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支(ささ)うるを得ば足れり。無頓着(むとんじゃく)なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為(な)さざりき。その約に負(そむ)かざらんことを虞(おそ)るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専(もっぱら)なりき。
 かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を□(お)わりたりしは、一時に垂(なんな)んとするころなりき。白昼(ひるま)を欺くばかりなりし公園内の万燈(まんどう)は全く消えて、雨催(あまもよい)の天(そら)に月はあれども、四面□※(おうぼつ)[#「さんずい+孛」、49-15]として煙(けぶり)の布(し)くがごとく、淡墨(うすずみ)を流せる森のかなたに、たちまち跫音(あしおと)の響きて、がやがやと罵(ののし)る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹(あと)に残りて語合(かたら)う女あり。
「ちょいと、お隣の長松(ちょうまつ)さんや、明日(あした)はどこへ行きなさる?」
 年増(としま)の抱(いだ)ける猿(さる)の頭を撫(な)でて、かく訊(たず)ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首(ろくろくび)の因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
 年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公(ちょんこ)のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
 渠は抱(いだ)きし猿を放ち遣(や)りぬ。
 折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被(ほおかぶ)りせる男の顔は赤く顕(あら)われぬ。黒き影法師も両三箇(ふたつみつ)そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視(すかしみ)て、
「おや、出刃打ちの連中があすこに憩(やす)んでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後(うしろ)に声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
 旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住(ど)まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、姉(ねえ)さん」
「参りましょうかね」
 両箇(ふたり)の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇(だいじゃ)を籠(かご)に入れて荷(にな)う者と、馬に跨(またが)りて行く曲馬芝居の座頭(ざがしら)とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹(らくえき)として森蔭(もりかげ)に列を成せるその状(さま)は、げに百鬼夜行一幅の活図(かっと)なり。
 ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃(しんすい)として月色ますます昏(くら)く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、□谺(こだま)に響き、水に鳴りて、魂消(たまぎ)る一声(ひとこえ)、
「あれえ!」

       五

 水は沈濁して油のごとき霞(かすみ)が池(いけ)の汀(みぎわ)に、生死も分かず仆(たお)れたる婦人あり。四肢(し)を弛(ゆる)めて地(つち)に領伏(ひれふ)し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕(まくら)を返して、がっくりと頭(かしら)を俛(た)れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起(あ)がりて、□(よろめ)く体(たい)をかたわらなる露根松(ねあがりまつ)に辛(から)くも支(ささ)えたり。
 その浴衣(ゆかた)は所々引き裂け、帯は半ば解(ほど)けて脛(はぎ)を露(あら)わし、高島田は面影を留(とど)めぬまでに打ち頽(くず)れたり。こはこれ、盗難に遇(あ)えりし滝の白糸が姿なり。
 渠はこの夜の演芸を□(お)わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫(まどろ)みたりき。一座の連中は早くも荷物を取纏(まと)めて、いざ引き払わんと、太夫(たゆう)の夢を喚(よ)びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現(うつつ)に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常(へいぜい)を識(し)りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
 程(ほど)経て白糸は目覚(めざ)ましぬ。この空小屋(あきごや)のうちに仮寝(うたたね)せし渠の懐(ふところ)には、欣弥が半年の学資を蔵(おさ)めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静(しずか)なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴(おもむ)かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍(おど)り出ずる人数(にんず)あり。
 みなこれ屈竟(くっきょう)の大男(おおおのこ)、いずれも手拭(てぬぐ)いに面(おもて)を覆(つつ)みたるが五人ばかり、手に手に研(と)ぎ澄ましたる出刃庖丁(でばぼうちょう)を提(ひさ)げて、白糸を追っ取り巻きぬ。
 心剛(こころたしか)なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇(たたず)めり。狼藉者(ろうぜきもの)の一個(ひとり)は濁声(だみごえ)を潜めて、
「おう、姉(ねえ)さん、懐中(ふところ)のものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
 かく言いつつ他の一個(ひとり)はその庖丁を白糸の前に閃(ひらめ)かせば、四挺(ちょう)の出刃もいっせいに晃(きらめ)きて、女の眼(め)を脅かせり。
 白糸はすでにその身は釜中(ふちゅう)の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁(のが)るること難(かた)し。
 渠はその平生(へいぜい)においてかつ百金を吝(お)しまざるなり。されども今夜懐(ふところ)にせる百金は、尋常一様の千万金に直(あたい)するものにして、渠が半身の精血とも謂(い)っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲(う)るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達(かったつ)の女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
 白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣(くちびる)は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。
「これは与(や)られないよ」
「与(く)れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
「遣(や)っつけろ、遣っつけろ!」
 その声を聞くとひとしく、白糸は背後(うしろ)より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫(ひし)ぐるばかりの翼緊(はがいじ)めに遭(あ)えり。
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