鷭狩
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:泉鏡花 

 扉(ドア)から雪次郎が密(そっ)と覗くと、中段の処で、肱(ひじ)を硬直に、帯の下の腰を圧(おさ)えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢(けはい)がしたか、ふいに真青(まっさお)な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
 隣室には、しばらく賤(いやし)げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。――遅いなあ。」
 二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
 と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
「首途(かどで)に、くそ忌々(いまいま)しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留(や)めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」

       六

「貴方(あなた)、ちょっと……お話がございます。」

 ――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻(さっき)お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「撃(ぶ)つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面(おもて)がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳(ひ)いて動いた。船である。
 睡眠(ねむり)は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿(いのちなが)かれ、鷭よ。
 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
 お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が硬(こわ)ばったのである。

「貴方、ちょっと……お話がございます。」
 お澄が静(しずか)にそう言うと、からからと釣(つり)を手繰って、露台の硝子戸(がらすど)に、青い幕を深く蔽(おお)うた。
 閨(ねや)の障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
 雪は□(どう)となって手を支(つ)いた。
「私は懺悔(ざんげ)をする、皆嘘だ。――画工(えかき)は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄(やけ)まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌(いはい)に面目のあるような男じゃない。――その大革鞄(おおかばん)も借(かり)ものです。樊□(はんかい)の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画(か)いたのは事実です。女郎屋(じょろや)の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結(い)わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕(こ)がせて、湖の鷭を狙撃(ねらいうち)に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等(やつら)の口うつしに言うらしい、その三頭も癪(しゃく)に障った。なにしろ、私の画(え)が突刎(つっぱ)ねられたように口惜(くやし)かった。嫉妬(ねたみ)だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪(こら)えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」
「貴方。」
 とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊(あざみ)です。路傍(みちばた)の塵(ちり)なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」
「その、その、その事だよ……実は。」
「いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品(ひとしな)。」
「ただ一品。」
「貴方の小指を切って下さい。」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし。」
 少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
「親が、両親(ふたおや)があるんだよ。」
「私にもございますわ。」
 と凜(りん)と言った。
 拳(こぶし)を握って、屹(きっ)と見て、
「お澄さん、剃刀(かみそり)を持っているか。」
「はい。」
「いや、――食切(くいき)ってくれ、その皓歯(しらは)で。……潔くあなたに上げます。」
 やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児(おさなご)が乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛(いたみ)は鋭かった。
 渠(かれ)は大夜具を頭から引被(ひっかぶ)った。
「看病をいたしますよ。」
 お澄は、胸白く、下じめの他(ほか)に血が浸(にじ)む。……繻子(しゅす)の帯がするすると鳴った。
大正十二(一九二三)年一月



ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:26 KB

担当:undef