みさごの鮨
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著者名:泉鏡花 

 客は、これより前(さき)、ちょっと買ものに出たのであった。――実は旅の事欠けに、半紙に不自由をしたので、帳場へ通じて取寄せようか、買いに遣(や)ろうかとも思ったが、式(かた)のごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せる隙(ひま)に、自分で買って来る方が手取早(てっとりばや)い。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子も被(かぶ)らないで、黙(だんま)りで、ふいと出た。
 直き町の角の煙草屋(たばこや)も見たし、絵葉がき屋も覗(のぞ)いたが、どうもその類のものが見当らない。小半町行(ゆ)き、一町行き……山の温泉(いでゆ)の町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包(うわづつみ)の色も褪(あ)せたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。「御免なさいよ、今日は、」と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の目貫(めぬき)の町の商店でも、経験のある人だから、気短(きみじか)にそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、媚(なまめ)かしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやら勢(いきおい)がなく、弱々しく聞えたと思うと、挙動(こなし)は早く褄(つま)を軽く急いだが、裾(すそ)をはらりと、長襦袢(ながじゅばん)の艶(えん)なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向(うつむ)けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄(しお)れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、「はい、何を差上げます。」と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、紅入(べにいり)友染(ゆうぜん)の裏が浅葱(あさぎ)の袖口で、ひったり圧(おさ)えた。
 中脊で、もの柔かな女の、房(ふっさ)り結った島田が縺(もつ)れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの可哀(あわれ)で気の毒であった。が、用を言うと、「はい、」と背後(うしろ)むきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を抽出(ひきだ)して、立返る頭髪(かみ)も量(おも)そうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた山茶花(さざんか)に霜の白粉(おしろい)の溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。
 うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、宜(よろ)しい。……」
 懐中(ふところ)へ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂(たもと)に受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその花片(はなびら)に、日の片あたりが淡くさすように、目が腫(はれ)ぼったく、殊に圧えた方の瞼(まぶた)の赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急に埃(ほこり)などが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。
 トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽(あきだる)、漬もの桶(おけ)などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を敲(たた)くのと同一であった。
「――涙もこれだ。」
 と教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が僥倖(しあわせ)だ。……」
 今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「腹(おなか)が空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく引抱(ひっかか)えた黒塗(くろぬり)の飯櫃(めしびつ)を、客の膝の前へストンと置くと、一歩(ひとあし)すさったままで、突立(つった)って、熟(じっ)と顔を瞰下(みおろ)すから、この時も吃驚(びっくり)した目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのである。
 教授はあきらめて落着いて、
「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」
「あッそうだ。」
 と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くお飯(まんま)を食わせようと思うたでね。急(せ)いたわいな、旦那さん。」
 と、そのまま跳廻(はねまわ)ったかと思うと。
「北国一だ。」
 と投げるように駈(か)け出した。
 酒は手酌が習慣(くせ)だと言って、やっと御免を蒙(こうむ)ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静(しずか)に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
 話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
 
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
 と言継いで、
「彼家(あそこ)に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」
「北国一だ。あはははは。」
 と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
 また大声で、
「押惚(おっぽ)れたか。旦那さん。」
「驚かしなさんな。」
「吃驚(びっくり)しただろ、あの、別嬪(べっぴん)に。……それだよ、それが小春(こはる)さんだ。この土地の芸妓(げいしゃ)でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、活(い)きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、癇癪持(かんしゃくもち)の、嫉妬(やきもち)やきで、ほうずもねえ逆気性(のぼせしょう)でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」
「何?……」
「隠元豆、田螺(たにし)さあね。」
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいでは埒(らち)あかねえさ。脚気(かっけ)山中(やまなか)、かさ粟津(あわづ)の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体(からだ)中掻毟(かきむし)って、目が引釣(ひッつ)り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子(かね)も、店も田地までも打込(ぶちこ)んでね。一時(いっとき)は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」
 ――初女房(ういにょうぼう)、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。摺(す)った揉(も)んだの挙句が、小春さんはまた褄(つま)を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜(よ)がふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上(のぼせあが)って、痛痒(いたがゆ)い処を引掻(ひっか)いたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを蹈(ふ)んで喰噛(くいかじ)るだよ。血は上ずっても、性(しょう)は陰気で、ちり蓮華(れんげ)の長い顔が蒼(あお)しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり赫々(かッかッ)と、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、頭髪(かみのけ)さ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。」
 かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。袂(たもと)に包んだ半紙の雫(しずく)は、まさに山茶花(さざんか)の露である。
「旦那さん、何を考えていなさるだね。」

       三

「そうか――先刻(さっき)、買ものに寄った時、その芸妓(げいしゃ)は泣いていたよ。」
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気立(きだて)の優しいお妓(こ)だから、内証(ないしょ)で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の媼(ばば)も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日(いちんち)二日(ふつか)は講中(こうじゅう)で出入りがやがやしておるで、その隙(ひま)に密(そっ)と逢いに行ったでしょ。」
「お安くないのだな。」
「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」
「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」
 と客は、しめやかに言った。
「厭(いや)な事だ。」
「大層嫌うな。……その執拗(しつこ)い、嫉妬(しっと)深(ぶか)いのに、口説(くど)かれたらお前はどうする。」
「横びんた撲(は)りこくるだ。」
「これは驚いた。」
「北国一だ。山代の巴(ともえ)板額(はんがく)だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。」
「偉い!……その勢(いきおい)で、小春の味方をしておやり。」
「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」
 肩を振って、拗(す)ねたように、
「要らねえよ。――私(うち)こんなもの。……旦那さん。――旅行(たび)さきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」
 と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を視(み)て、
「旦那さん、いつ帰るかね。」
「いや、深切(しんせつ)は難有(ありがた)いが、いま来たばかりのものに、いつ出程(たつ)かは少し酷(ひど)かろう。」
「それでも、先刻(さっき)来た時に、一晩泊(どまり)だと言ったでねえかね。」
「まったくだ、明日は山中(やまなか)へ行くつもりだ。忙しい観光団さ。」
「緩(ゆっく)り居なされば可(い)いに――では、またじきに来なさいよ。」
 と、真顔で言った。
 客はその言(ことば)に感じたように、
「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」
「あれ、何でえ?……」
「お嫁に行くから。」
 したたか頭(かぶり)を掉(ふ)って、
「ううむ、行かねえ。」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」
「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」
「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿(むこ)さんにしてくれれば。……」
「するともさ。」
「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」
「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御飯(おまんま)を食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。」
「勿体(もったい)ないくらい、結構だな。」
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」
「ほんとかい。」
「それだがね、旦那さん。」
「御覧、それ、すぐに変替(へんがえ)だ。」
「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の室(ま)では遣切(やりき)れねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内証(ないしょ)でどうともするだよ。」
 客は赤黒く、口の尖(とが)った、にきびで肥(ふと)った顔を見つつ、
「姐さん、名は何と言う。」
 と笑って聞いた。
「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。
「何と言うよ。」
「措(お)きなさい、そんな事。」
 と耳朶(みみたぼ)まで真赤(まっか)にした。
「よ、ほんとに何と言うよ。」
「お光だ。」
 と、飯櫃(めしびつ)に太い両手を突張(つっぱ)って、ぴょいと尻を持立(もった)てる。遁構(にげがまえ)でいるのである。
「お光さんか、年紀(とし)は。」
「知らない。」
「まあ、幾歳(いくつ)だい。」
「顔だ。」
「何、」
「私の顔だよ、猿だてば。」
「すると、幾歳だっけな。」
「桃栗三年、三歳(みッつ)だよ、ははは。」
 と笑いながら駈出(かけだ)した。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押並んで振向いて、
「二十(はたち)だ……鼬(いたち)だ……べべべべ、べい――」

       四

 ここに、第九師団衛戍(えいじゅ)病院の白い分院がある。――薬師寺、万松園(まんしょうえん)、春日山(かすがやま)などと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。
 病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
 この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう温泉(いでゆ)の町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広い畷(なわて)になる。桂谷(かつらだに)と言うのへ通ずる街道である。病院の背後を劃(しき)って、蜿々(うねうね)と続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目の前(さき)に近いから、遠い山も、嶮(けわ)しい嶺(みね)も遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲を刷(は)いたおっとりとした青空で、やや斜(ななめ)な陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。
 その近山(ちかやま)の裾(すそ)は半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、下(くだ)りめになって、陽の一杯に当る枯草の路(みち)が、ちょろちょろとついて、その径(こみち)と、畷の交叉点(こうさてん)がゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。見霽(みはらし)の野山の中に一つある。一方が広々とした刈田(かりた)との境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちた杭(くい)ばかり一本、せめて案山子(かかし)にでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、長閑(のどか)な欠伸(あくび)でも出そうに、その杭に凭(もた)れている。藁(わら)が散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたり盛(さかん)に植える、杓子菜(しゃくしな)と云って、株の白い処が似ているから、蓮華菜(れんげな)とも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気が暖(あたたか)だから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。
 畑の裾は、町裏の、ごみごみした町家(まちや)、農家が入乱れて、樹立(こだち)がくれに、小流(こながれ)を包んで、ずっと遠く続いたのは、山中道(みち)で、そこは雲の加減で、陽が薄赤く颯(さっ)と射(さ)す。
 色も空も一淀(ひとよど)みする、この日溜(ひだま)りの三角畑の上ばかり、雲の瀬に紅(べに)の葉が柵(しがら)むように、夥多(おびただ)しく赤蜻蛉(あかとんぼ)が群れていた。――出会ったり、別れたり、上下(うえした)にスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びも闌(たけなわ)に、恍惚(うっとり)したらしく、夢を□□(さまよ)うように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、漾(ただよ)いつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。
 日南(ひなた)の虹(にじ)の姫たちである。
 風情に見愡(みと)れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に繞(めぐ)らしつつ彳(たたず)んでいるのであった。
 四辺(あたり)の長閑(のど)かさ。しかし静(しずか)な事は――昼飯を済(すま)せてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩行(あるき)でぶらりと出て、温泉(いでゆ)の廓(くるわ)を一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、媚(なまめ)かしい、紅(べに)がら格子(ごうし)を五六軒見たあとは、細流(せせらぎ)が流れて、薬師山を一方に、呉羽神社(くれはじんじゃ)の大鳥居前を過ぎたあたりから、往来(ゆきか)う人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒店(さかみせ)の杉葉の下(もと)に、茶と黒と、鞠(まり)の伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳を噛(か)んだり、ちょいと鼻づらを引(ひっ)かき合ったり。……これを見ると、羨(うらや)ましいか、桶(おけ)の蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗(こいぬ)は出て来ても、村の閑寂間(しじま)か、棒切(ぼうきれ)持った小児(こども)も居ない。
 で、ここへ来た時……前途(むこう)山の下から、頬被(ほおかぶ)りした脊の高い草鞋(わらじ)ばきの親仁(おやじ)が、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一升罎(いっしょうびん)をぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香を芬(ぷん)とさせて、蛇の茣蓙(ござ)と称(とな)うる、裏白の葉を堆(うずたか)く装(も)った大籠(おおかご)を背負(しょ)ったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろ形(つき)も、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得た誇(ほこり)を示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、鯰(なまず)のような、小鮒(こぶな)のような、頭の大(おおき)な茸(たけ)がびちびち跳ねていそうなのが、温泉(いでゆ)の町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
 客は、陽(ひなた)の赤蜻蛉に見愡(みと)れた瞳を、ふと、畑際(はたぎわ)の尾花に映すと、蔭の片袖が悚然(ぞっ)とした。一度、しかとしめて拱(こまぬ)いた腕を解(ほど)いて、やや震える手さきを、小鬢(こびん)に密(そっ)と触れると、喟然(きぜん)として面(おもて)を暗うしたのであった。
 日南(ひなた)に霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛(しらが)が見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅(まっか)なのが忘れたようにスッと下りて、尾花の下(もと)に、杭の尖(さき)に留(とま)った。……一度伏せた羽を、衝(つ)と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此方(こなた)へ振動かした。
 小狗の戯(たわむれ)にも可懐(なつかし)んだ。幼心(おさなごころ)に返ったのである。
 教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒(まっくろ)な厚い大(おおき)な外套(がいとう)の、背腰を屁びりに屈(かが)めて、及腰(およびごし)に右の片手を伸(のば)しつつ、密(そっ)と狙(ねら)って寄った。が、どうしてどうして、小児(こども)のように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南無三宝(なむさんぽう)、赤蜻蛉は颯(さっ)と外(そ)れた。
 はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
 花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
 向うに狗児(いぬころ)の形(かげ)も、早や見えぬ。四辺(あたり)に誰も居ないのを、一息の下(もと)に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟(とっさ)に渋面を造って、身を捻(ね)じるように振向くと……
 この三角畑の裾の樹立(こだち)から、広野(ひろの)の中に、もう一条(ひとすじ)、畷(なわて)と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道(あぜみち)があるのが屏風のごとく連(つらな)った、長く、丈(せい)の高い掛稲(かけいね)のずらりと続いたのに蔽(おお)われて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈(か)けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟(あわ)の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
 と見向いた時、畦の嫁菜を褄(つま)にして、その掛稲の此方(こなた)に、目も遥(はるか)な野原刈田を背にして間(あわい)が離れて確(しか)とは見えぬが、薄藍(うすあい)の浅葱(あさぎ)の襟して、髪の艶(つやや)かな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
 おや、顔に何かついている?……すべりを扱(しご)いて、思わず撫(な)でると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に唾(つば)と見えたろう。
 金切声で、「ほほほほほほ。」
 十歩ばかり先に立って、一人男の連(つれ)が居た。縞(しま)がらは分らないが、くすんだ装(なり)で、青磁色の中折帽(なかおれぼう)を前のめりにした小造(こづくり)な、痩(や)せた、形の粘々(ねばねば)とした男であった。これが、その晴やかな大笑(おおわらい)の笑声に驚いたように立留って、廂(ひさし)睨(にら)みに、女を見ている。
 何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑(おかし)いのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人(としより)にも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖(どてら)で出歩行(である)く。勢(いきおい)なのは浴衣一枚、裸体(はだか)も見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣の糊(のり)が硬々(こわごわ)と突張(つっぱ)って、広袖の膚(はだ)につかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も真黒(まっくろ)に、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐が憑(つ)いたようで、褌(ふんどし)をぶら下げて裸で陸(おか)に立ったより、わかい女には可笑(おか)しかろう……
 いや、蜻蛉釣(とんぼつり)だ。
 ああ、それだ。
 小鬢(こびん)に霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑を洩(もら)すと、その顔がまた合った。
「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、堪(たま)らぬといった体(てい)に、裾をぱッぱッと、もとの方(かた)へ、五歩(いつあし)六歩(むあし)駈戻(かけもど)って、捻(ね)じたように胸を折って、
「おほほほほ。」
 胸を反(そら)して、仰向(あおむ)けに、
「あはははは。」
 たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに叩頭(おじぎ)をする姿で、うつむいて、
「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」
 やがて、朱鷺色(ときいろ)の手巾(ハンケチ)で口を蔽うて、肩で呼吸(いき)して、向直って、ツンと澄(すま)して横顔で歩行(ある)こうとした。が、何と、自(おのず)から目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。
「おほほほほ、あははは、あははははは。」
 八口(やつくち)を洩(も)る紅(くれない)に、腕の白さのちらめくのを、振って揉(も)んで身悶(みもだえ)する。
 きょろんと立った連(つれ)の男が、一歩(ひとあし)返して、圧(おさ)えるごとくに、握拳(にぎりこぶし)をぬっと突出すと、今度はその顔を屈(かが)み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
 教授も堪(こら)えず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。
「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、脾腹(ひばら)を腕で圧えたが追着(おッつ)かない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」
 そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花が擽(くすぐ)る! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。島田髷(しまだ)も、切れ、はらはらとなって、
「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」
 と、手をふるはずみに、鳴子縄(なるこなわ)に、くいつくばかり、ひしと縋(すが)ると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。
「あはははははは。おほほほほほ。」
 勃然(むっ)とした体(てい)で、島田の上で、握拳の両手を、一度打擲(ちょうちゃく)をするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝を摺(ず)らし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身を蜿(うね)らせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするが疾(はや)いか。
「きゃあ――」と笑って、衝(つ)と駈(か)けざまに、男のあとを掛稲の背後(うしろ)へ隠れた。
 その掛稲は、一杯の陽の光と、溢(あふ)れるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なお堪(こら)えず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣切(やりき)れなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇を紅(あか)く、
「おほほほほほほほ、あはははははは。」
「白痴奴(だらめ)、汝(おどれ)!」
 ねつい、怒(いか)った声が響くと同時に、ハッとして、旧(もと)の路へ遁(に)げ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、躱(かわ)そうとしたのが、真横にばったり。
 伸(の)しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。
 顔も、髪も、土(どろ)まみれに、真白(まっしろ)な手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。
 瞬くばかりの間である。
「何をする、何をする。」
 たかが山家(やまが)の恋である。男女の痴話の傍杖(そばづえ)より、今は、高き天(そら)、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、
「何をする、何をするんだ。」
 草の径(みち)ももどかしい。畦(あぜ)ともいわず、刈田と言わず、真直(まっすぐ)に突切(つっき)って、颯(さっ)と寄った。
 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁(に)げた。
「おお。」
「あ、あれ、先刻(さっき)の旦那さん。」
 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套を被(かぶ)って、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」
 と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白(まっさお)な顔をして、涙の目でなお笑った。
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
 妙齢(としごろ)だ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然(ぶぜん)としつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も紅(くれない)の乱れた婦(おんな)の、半ば起きた肩を抱いた。
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方(あなた)の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」
「いや、我ながら、思えば可笑(おか)しい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。連(つれ)の男は何という乱暴だ。」
「ええ、家(うち)ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中(しんじゅう)の相談をしに来た処だものですから、あはははは。」
 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」

       五

「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」
「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが慾(よく)ばかりでだましたのでみた処で……こっちは芸妓(げいしゃ)だ。罪も報(むくい)もあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な極道(ごくどう)とか、遊蕩(ゆうとう)とかで行留りになった男の、名は体(てい)のいい心中だが、死んで行(ゆ)く道連れにされて堪(たま)るものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で俄盲目(にわかめくら)の爺(とっ)さんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。」――

 掛稲(かけいね)、嫁菜の、畦(あぜ)に倒れて、この五尺の松に縋(すが)って立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐに頷(うなず)かれよう。芸妓(げいしゃ)である。そのまま伴って来るのに、何の仔細(しさい)もなかったこともまた断るに及ぶまい。
 なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、静(しずか)な日南(ひなた)の隙を計って、岐路(えだみち)をあれからすぐ、桂谷へ行くと、浄行寺(じょうぎょうじ)と云う門徒宗が男の寺。……そこで宵の間(ま)に死ぬつもりで、対手(あいて)の袂(たもと)には、商(あきない)ものの、(何とか入らず)と、懐中には小刀(ナイフ)さえ用意していたと言うのである。
 上前(うわまえ)の摺下(ずりさが)る……腰帯の弛(ゆる)んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ退(さが)ってついて来る小春の姿は、道行(みちゆき)から遁(に)げたとよりは、山奥の人身御供(ひとみごくう)から助出(たすけだ)されたもののようであった。
 左山中道(みち)、右桂谷道、と道程標(みちしるべ)の立った追分(おいわけ)へ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、頤(あご)の尖(とが)った、痩(や)せこけた爺(じい)さんの、菅(すげ)の一もんじ笠を真直(まっすぐ)に首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破脚絆(やぶれぎゃはん)、草鞋穿(わらじばき)で、とぼとぼと竹の杖(つえ)に曳(ひ)かれて来たのがあった。
 この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず横添(よこぞい)に導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるような大(おおき)な鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男の児(こ)で。これも風呂敷包を中結(なかゆわ)えして西行背負(さいぎょうじょい)に背負っていたが、道中(みちなか)へ、弱々と出て来たので、横に引張合(ひっぱりあ)った杖が、一方通せん坊になって、道程標(みちしるべ)の辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、細流(せせらぎ)は、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれから賑(にぎや)かだけれど、俄めくらと見えて、突立(つった)った足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、巾着(きんちゃく)ほどな小児(こども)に杖を曳かれて辿(たど)る状(さま)。いま生命(いのち)びろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏(たそが)れた。
 駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、桃割(ももわれ)ぬれた結立(ゆいたて)で、緋鹿子(ひがのこ)の角絞(つのしぼ)り。簪(かんざし)をまだささず、黒繻子(くろじゅす)の襟の白粉垢(おしろいあか)の冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、……前垂(まえだれ)と帯の間へ、古風に手拭(てぬぐい)を細(こまか)く挟んだ雛妓(おしゃく)が、殊勝にも、お参詣(まいり)の戻(もどり)らしい……急足(いそぎあし)に、つつッと出た。が、盲目(めくら)の爺(とっ)さんとすれ違って前へ出たと思うと、空から抱留められたように、ひたりと立留って振向いた。
「や、姉ちゃん。」――と小児(こども)が飛着く。
 見る見るうちに、雛妓の、水晶のような□(みは)った目は、一杯の涙である。
 小春は密(そっ)と寄添うた。
「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……」
 西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、
「姉ちゃん、大すきな豆の餅(あんも)を持って来た。」
 ものも言い得ず、姉さんは、弟のその頭(つむり)を撫(な)でると、仰いで笠の裡(うち)を熟(じっ)と視(み)た。その笠を被(かぶ)って立てる状(さま)は、かかる苦界にある娘に、あわれな、みじめな、見すぼらしい俄盲目には見えないで、しなびた地蔵菩薩(じぞうぼさつ)のようであった。
 親仁(おやじ)は抱しめもしたそうに、手探りに出した手を、火傷(やけど)したかと慌てて引いて、その手を片手おがみに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩頭(おじぎ)をして、
「御免下され、御免下され。」
 と言った。

「正念寺様におまいりをして、それから木賃へ行(ゆ)くそうです。いま参りましたのは、あの妓(こ)がちょっと……やかたへ連れて行きましたの。」
 突当(つきあたり)らしいが、横町を、その三人が曲りしなに、小春が行きすがりに、雛妓(おしゃく)と囁(ささや)いて「のちにえ。」と言って別れに、さて教授にそう言った。
 ――来た途中の俄盲目は、これである――
 やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授が懇(ねんごろ)に説いたのであった。

「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」
「死んで堪(たま)るものか、死ぬ方が間違ってるんだ。」
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言(ことば)ばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか厭(いや)だと言います。お庇(かげ)さまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その苦(くるし)みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」
「おほほ。」
「ああ、ほんとに笑ったな――もう可(よ)し、決して死ぬんじゃないよ。」
「たとい間違っておりましても、貴方のお言(ことば)ばかりで活(い)きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女(ばいた)だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。」
「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」
「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落胆(がっかり)して、力が抜けて。何ですか、余り身体(からだ)にたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。」
 と、膝に密(そっ)と手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。艶(つや)濃(こ)き髪の薫(かおり)より、眉がほんのりと香(にお)いそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど真暗(まっくら)である。

       六

 実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩行(ある)き馴(な)れたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷も辛(かろう)じて黒白(あいろ)の分るくらいであった。金屏風(きんびょうぶ)とむきあった、客の脱すてを掛けた衣桁(いこう)の下(もと)に、何をしていたか、つぐんでいて、道陸神(どうろくじん)のような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に「北国一。」と浴(あび)せ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行ったのは、あのお光であったが。
 直(すぐ)に小春が、客の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今度註文をうけに出たのは、以前の、歯を染めた寂しい婦(おんな)で、しょんぼりと起居(たちい)をするのが、何だか、産女鳥(うぶめ)のように見えたほど、――時間はさまでにもなかったが、わけてこの座敷は陰気だった。
 頼もしいほど、陽気に賑(にぎや)かなのは、廂(ひさし)はずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。
 船の舳(みよし)の出たように、もう一座敷重(かさな)って、そこにも三味線(さみせん)の音がしたが、時々哄(どっ)と笑う声は、天狗(てんぐ)が谺(こだま)を返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。
 小春の藍(あい)の淡い襟、冷い島田が、幾度(いくたび)も、縁を覗(のぞ)いて、ともに燈(ともし)を待ちもした。
 この縁の突当りに、上敷(うわしき)を板に敷込んだ、後架(こうか)があって、機械口の水も爽(さわやか)だったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の手水(ちょうず)も出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、真鍮(しんちゅう)の水さしを持って来て言うのには、手水は発動機で汲上(くみあ)げている処、発電池に故障があって、電燈もそのために後(おく)れると、帳場で言っているそうで。そこで中縁(なかえん)の土間の大(おおき)な石の手水鉢、ただし落葉が二三枚、不思議に燈籠に火を点(とも)したように見えて、からからに乾いて水はない。そこへ誘って、つき膝で、艶(えん)になまめかしく颯(さっ)と流してくれて、
「あれ、はんけちを田圃道(たんぼみち)で落して来て、……」
「それも死神の風呂敷だったよ。」
「可恐(こわ)いわ、旦那さん。」

 その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢の端(はた)に据(すわ)っているのが幽(かすか)に見える。夕暮の鷺(さぎ)が長い嘴(くちばし)で留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木菟(みみずく)のようになって、とっぷりと暮れて真暗(まっくら)だった。

「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」
「ああれ、旦那さん。」
 と、厠(かわや)の板戸を、内から細目に、小春の姿が消えそうに、
「私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。」
「そうか。」
 と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、
「こっちへお出で、かけてやろう。さ。」
「は。」
「可(い)いか、十分に……」
「あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。」
 懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと燭台(しょくだい)の火が、その高楼(たかどの)の欄干(てすり)を流れた。
「罰の当ったはこの方だ。――しかし、婦人(おんな)の手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。お庇(かげ)で白髪が皆消えて、真黒(まっくろ)になったろう。」
 まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。
「この手水鉢は、実盛(さねもり)の首洗(くびあらい)の池も同じだね。」
「ええ、縁起でもない、旦那さん。」
「ま、姦通(まおとこ)め。ううむ、おどれ等。」
「北国一だ。……危(あぶね)えよ。」
 殺した声と、呻(うめ)く声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、向(むこう)二階で喝采(やんや)、ともろ声に喚(わめ)いたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟蒻(こんにゃく)のようにぶるぶると震えて点(つ)いた。

       七

 小春の身を、背に庇(かば)って立った教授が、見ると、繻子(しゅす)の黒足袋の鼻緒ずれに破れた奴(やつ)を、ばたばたと空に撥(は)ねる、治兵衛坊主を真俯向(まうつむ)けに、押伏せて、お光が赤蕪(あかかぶ)のような膝をはだけて、のしかかっているのである。
「危い――刃ものを持ってるぞ。」
 絨毯(じゅうたん)を縫いながら、治兵衛の手の大小刀(おおナイフ)が、しかし赤黒い電燈に、錆蜈蚣(さびむかで)のように蠢(うごめ)くのを、事ともしないで、
「何が、犬にも牙(きば)がありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ嫉妬野郎(やきもちやろう)だ。大(でけ)い声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう撲(は)りこくってやろうかね。」
「ああ、静(しずか)に――乱暴をしちゃ不可(いけな)い。」
 教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐椅子(とういす)に掛けた。
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、汝(おどれ)から先に……当前(あたりまえ)じゃい。うむ、放せ、口惜(くやし)いわい。」
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓(げいしゃ)を呼んで遊んだが、それがどうした。」
「汝(おどれ)、俺の店まで、呼出しに、汝、逢曳(あいびき)にうせおって、姦通(まおとこ)め。」
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金子(かね)に世の中が行詰(ゆきづま)って、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附絡(つけまと)うのは卑劣じゃあないか。――投出す生命(いのち)に女の連(つれ)を拵(こさ)えようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、蚤(のみ)が一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝冷(ねびえ)をするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生命(いのち)を持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継足(つぎたし)をしてやるが可(い)い。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清潔(きれい)だよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻蛉(とんぼ)釣る形の可笑(おかし)さに、道端へ笑い倒れる妙齢(としごろ)の気の若さ……今もだ……うっかり手水(ちょうず)に行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」
「ううむ、ううむ。」と呻(うな)った。
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田螺(たにし)の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、活(いか)すもあるものか。――静(しずか)にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命(いのち)の養生をするが可(い)い。」
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
「姐(ねえ)さん、放しておやり。」
「危(あぶね)え、旦那さん。」
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ圧(おさ)えていない。婦人(おんな)が起(た)ってそこへ縋(すが)れば、話は別だ。桂清水(かつらしみず)とか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが可(い)い。婦人(おんな)は、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」
 また電燈が、滅びるように、呼吸(いき)をひいて、すっと消えた。
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を潜(くぐ)って、小(ちっ)こい、庭境(にわざかい)の隣家(となり)の塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を摺(ず)って、窓を這(は)って、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」
 小春は花のいきするように、ただ教授の背後(うしろ)から、帯に縋って、さめざめと泣いていた。

       八

 ここの湯の廓(くるわ)は柳がいい。分けて今宵は月夜である。五株、六株、七株、すらすらと立ち長く靡(なび)いて、しっとりと、見附(みつけ)を繞(めぐ)って向合う湯宿が、皆この葉越(はごし)に窺(うかが)われる。どれも赤い柱、白い壁が、十五間(けん)間口、十間間口、八間間口、大きな(舎)という字をさながらに、湯煙(ゆけむり)の薄い胡粉(ごふん)でぼかして、月影に浮いていて、甍(いらか)の露も紫に凝るばかり、中空に冴(さ)えた月ながら、気の暖かさに朧(おぼろ)である。そして裏に立つ山に湧(わ)き、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈の蒼(あお)い砂子(すなご)を鏤(ちりば)めた景色は、広重(ひろしげ)がピラミッドの夢を描いたようである。
 柳のもとには、二つ三つ用心水(みず)の、石で亀甲(きっこう)に囲った水溜(みずたまり)の池がある。が、涸(か)れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月が覗(のぞ)く。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年は暖(あたたか)さに枝垂(しだ)れた黒髪はなお濃(こまや)かで、中にも真中(まんなか)に、月光を浴びて漆のように高く立った火の見階子(ばしご)に、袖を掛けた柳の一本(ひともと)は瑠璃天井(るりてんじょう)の階子段に、遊女の凭(もた)れた風情がある。
 このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行(あるき)の人通り。見附正面の総湯の門には、浅葱(あさぎ)に、紺に、茶の旗が、納手拭(おさめてぬぐい)のように立って、湯の中は祭礼(まつり)かと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒前(のきさき)には、駄菓子店(みせ)、甘酒の店、飴(あめ)の湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、湯女(ゆな)も掛ける。髯(ひげ)が啜(すす)る甘酒に、歌の心は見えないが、白い手にむく柿の皮は、染めたささ蟹(がに)の糸である。
 みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。
 人の出入り一盛り。仕出しの提灯(ちょうちん)二つ三つ。紅(あか)いは、おでん、白いは、蕎麦(そば)。横路地を衝(つい)と出て、やや門(かど)とざす湯宿の軒を伝う頃、一しきり静(しずか)になった。が、十夜をあての夜興行の小芝居もどりにまた冴える。女房、娘、若衆(わかいしゅ)たち、とある横町の土塀の小路(こみち)から、ぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための見物がえりの、四五十人の一行が、白い装(よそおい)でよぎったが、霜の使者(つかい)が通るようで、宵過ぎのうそ寒さの再び春に返ったのも、更に寂然(せきぜん)としたのであった。
 月夜鴉(つきよがらす)が低く飛んで、水を潜(くぐ)るように、柳から柳へ流れた。
「うざくらし、厭(いや)な――お兄(あん)さん……」
 芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、潜戸(くぐりど)を細目に背にした門口(かどぐち)に、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒く佇(たたず)んだ、影のような婦(おんな)がある。と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、熟(じっ)とすかして――そう言った。
「お門(かど)が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。
 紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家(となり)の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着(くッつ)いた。
 何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引(ひっ)かぶった若い衆(しゅ)が、溝を伝うて、二人、三人、胡乱々々(うろうろ)する。
 この時であった。
 夜(よ)も既に、十一時すぎ、子(ね)の刻か。――柳を中に真向いなる、門(かど)も鎖(とざ)し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛(とまか)けた大船のごとく静まって、梟(ふくろ)が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷(すべ)ると、帳場が見えて、勝手は明(あかる)い――そこへ、真黒(まっくろ)な外套(がいとう)があらわれた。
 背後(うしろ)について、長襦袢(ながじゅばん)するすると、伊達巻(だてまき)ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔(ぼら)と、比目魚(ひらめ)のあるのを、うっかり跨(また)いで、怯(おび)えたような脛(はぎ)白く、莞爾(にっこり)とした女が見える。
「くそったれめ。」
 見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに細(ほっそ)りと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田を揺(ふ)って、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。
 これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく鱗(うろこ)を立てて、逆(さかさま)に尖(とが)って燃えた。
 途端に小春の姿はかくれた。
 あとの大戸を、金の額ぶちのように背負(しょ)って、揚々として大得意の体(てい)で、紅閨(こうけい)のあとを一散歩、贅(ぜい)を遣(や)る黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を覗(のぞ)き、火の見を仰いで、移香(うつりが)を惜気(おしげ)なく、酔(えい)ざましに、月の景色を見る状(さま)の、その行く処には、返咲(かえりざき)の、桜が咲き、柑子(こうじ)も色づく。……他(よそ)の旅館の庭の前、垣根などをぶらつきつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台に鍋(なべ)をかけようとする、夜(よ)なしの饂飩屋(うどんや)の前に来た。
 獺橋(かわうそばし)の婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。
 犬ほどの蜥蜴(とかげ)が、修羅を燃(もや)して、煙のように颯(さっ)と襲った。
「おどれめ。」
 と呻(うめ)くが疾(はや)いか、治兵衛坊主が、その外套の背後(うしろ)から、ナイフを鋭く、つかをせめてグサと刺した。
「うーむ。」と言うと、ドンと倒れる。
 獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。串戯(じょうだん)だと思ったろう。
「北国一だ――」
 と高く叫ぶと、その外套の袖が煽(あお)って、紅(あか)い裾が、はらはらと乱れたのである。

       九

 ――「小春さん、先刻(さっき)の、あの可愛い雛妓(おしゃく)と、盲目(めくら)の爺(とっ)さんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、皆(みんな)で湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするが可(い)い。
 治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ境界(きょうがい)にある夥間(なかま)だ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、小児(こども)を弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるが可(よ)い。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも可(よ)かろう。あの盲(めし)いた人、あの、いたいけな児(こ)、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間違(まちがい)がないとも限らぬ。その後難(こうなん)の憂慮(うれい)のないように、治兵衛の気を萎(なや)し、心を鎮めさせるのに何よりである。
 私は直ぐに立って、山中へ行く。
 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に埃(ほこり)が立つ。構わないにしても気が散ろう。
 泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく楽(たのし)み、よくお遊び。」――
 あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、更(あらた)めて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発程(た)ったのは、同じ夜(よ)の、実は、八時頃であった。
 勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても穏(おだやか)でない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、袂(たもと)を振切る。……
 
 お光が中くらいな鞄(かばん)を提げて、肩をいからすように、大跨(おおまた)に歩行(ある)いて、電車の出発点まで真直(まっす)ぐに送って来た。
 道は近い、またすぐに出る処であった。
「旦那さん、蚤(のみ)にくわれても、女(あま)ッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」
 停車場(じょう)の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭(うなず)いた。
「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品(ひとしな)下んせね。鼻紙でも、手巾(ハンケチ)でも、よ。」
 教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
 このおもみに、トンと圧(お)されたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯(じょうだん)だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺(ひきず)るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。
 発車した。

 ――お光は、夜(よ)の隙(ひま)のあいてから、これを着て、嬉しがって戸外(おもて)へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、
「北国一。」
 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾(あつぶすま)、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦言(むつごと)のように語り合う、小春と、雛妓(おしゃく)、爺さん、小児(こども)たちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――
 黒い外套を来た湯女(ゆな)が、総湯の前で、殺された、刺された風説(うわさ)は、山中、片山津、粟津、大聖寺(だいしょうじ)まで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。
 けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを刎(は)ねて起きた。
 寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、
「旦那さん、――お光さんが貴方(あなた)の、お身代り。……私はおくれました。」
 と言って、小春がおもはゆげに泣いて縋(すが)った。
「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」
「旦那さんか、旦那さんか。」
 と突拍子な高調子で、譫言(うわごと)のように言ったが、
「ようこそなあ――こんなものに……面(つら)も、からだも、山猿に火熨斗(ひのし)を掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかり皆(みんな)が賞(ほ)めた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。」
 立会った医師が二人まで、目を瞬(しばたた)いて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。
「頂戴しました。――貰ったぞ。」
「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」
「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」
 と、ありなしの縁(えん)に曳かれて、雛妓の小(こ)とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲目(めくら)の爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、
「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」
「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」
「おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀(あみだ)様。おありがたや親鸞(しんらん)様も、おありがたや蓮如(れんにょ)様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。」
「そんなものは見とうない。」
 と、ツト杖を向うへ刎(は)ねた。
「私は死んでも、旦那さんの傍(そば)に居て、旦那さんの顔を見るんだよ。」
「勿体ないぞ。」
 と口のうちで呟(つぶや)いて、爺(おやじ)が、黒い幽霊のように首を伸(のば)して、杖に縋って伸上って、見えぬ目を上(うわ)ねむりに見据えたが、

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