伯爵の釵
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著者名:泉鏡花 

 ここに残るは、名なればそれを誇(ほこり)として、指にも髪にも飾らなかった、紫の玉ただ一つ。――紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗(さしのぞ)いて、千尋(ちひろ)の淵(ふち)の水底(みなそこ)に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢(こずえ)の白鷺(しらさぎ)の影さえ宿る、櫓(やぐら)と、窓と、楼(たかどの)と、美しい住家(すみか)を視(み)た。
「ぬしにもなって、この、この田舎のものども。」
 縋る波に力あり、しかと引いて水を掴(つか)んで、池に倒(さかさま)に身を投じた。爪尖(つまさき)の沈むのが、釵の鸚鵡(おうむ)の白く羽うつがごとく、月光に微(かすか)に光った。

「御坊様、貴方は?」
「ああ、山国の門附(かどづけ)芸人、誇れば、魔法つかいと言いたいが、いかな、さまでの事もない。昨日(きのう)から御目に掛けた、あれは手品じゃ。」
 坊主は、欄干に擬(まが)う苔蒸(こけむ)した井桁(いげた)に、破法衣(やれごろも)の腰を掛けて、活(い)けるがごとく爛々として眼(まなこ)の輝く青銅の竜の蟠(わだかま)れる、角(つの)の枝に、肱(ひじ)を安らかに笑みつつ言った。
「私に、何のお怨(うら)みで?……」
 と息せくと、眇(めっかち)の、ふやけた目珠(めだま)ぐるみ、片頬を掌(たなそこ)でさし蔽(おお)うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆえに、恥入るか、もの嫉(ねた)みをして、前芸をちょっと遣(や)った。……さて時に承わるが太夫、貴女(あなた)はそれだけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言わば、すぐに優伎(わざおぎ)の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
 紫玉は巌(いわや)に俯向(うつむ)いた。
「それで通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品はどうじゃろう。」
「ええ、」
 と仰いで顔を視(み)た時、紫玉はゾッと身に沁(し)みた、腐れた坊主に不思議な恋を知ったのである。
「貴方なら、貴方なら――なぜ、さすろうておいで遊ばす。」
 坊主は両手で顔を圧(おさ)えた。
「面目ない、われら、ここに、高い貴い処に恋人がおわしてな、雲霧を隔てても、その御足許(おあしもと)は動かれぬ。や!」
 と、慌(あわただ)しく身を退(しさ)ると、呆(あき)れ顔してハッと手を拡げて立った。
 髪黒く、色雪のごとく、厳(いつく)しく正しく艶(えん)に気高き貴女(きじょ)の、繕わぬ姿したのが、すらりと入った。月を頸(うなじ)に掛けつと見えたは、真白(まっしろ)な涼傘(ひがさ)であった。
 膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる手尖(てさき)を軽く、彼が肩に置いて、
「私を打(ぶ)ったね。――雨と水の世話をしに出ていた時、……」
 装(よそおい)は違った、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の手水鉢(ちょうずばち)の稚児に、寸分のかわりはない。
「姫様、貴女(あなた)は。」
 と坊主が言った。
「白山へ帰る。」

 ああ、その剣ケ峰の雪の池には、竜女の姫神おわします。
「お馬。」
 と坊主が呼ぶと、スッと畳んで、貴女(きじょ)が地に落した涼傘は、身震(みぶるい)をしてむくと起きた。手まさぐりたまえる緋の総(ふさ)は、たちまち紅(くれない)の手綱に捌(さば)けて、朱の鞍(くら)置いた白の神馬(しんめ)。
 ずっと騎(め)すのを、轡頭(くつわづな)を曳(ひ)いて、トトトト――と坊主が出たが、
「纏頭(しゅうぎ)をするぞ。それ、錦(にしき)を着て行(ゆ)け。」
 かなぐり脱いだ法衣(ころも)を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添い、紺碧(こんぺき)なる巌(いわお)の聳(そばだ)つ崕(がけ)を、翡翠(ひすい)の階子(はしご)を乗るように、貴女(きじょ)は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫(びょうぼう)たる広野(ひろの)の中をタタタタと蹄(ひづめ)の音響(ひびき)。
 蹄を流れて雲が漲(みなぎ)る。……
 身を投じた紫玉の助かっていたのは、霊沢金水(れいたくこんすい)の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と称(とな)うる練兵場。
 紫玉が、ただ沈んだ水底(みなそこ)と思ったのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であった。――
 雨を得た市民が、白身に破法衣(やれごろも)した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰(かつごう)の光景(ようす)が見せたい。
大正九(一九二〇)年一月



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