伯爵の釵
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著者名:泉鏡花 

       一

 このもの語(がたり)の起った土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央(まんなか)に城の天守なお高く聳(そび)え、森黒く、濠(ほり)蒼(あお)く、国境の山岳は重畳(ちょうじょう)として、湖を包み、海に沿い、橋と、坂と、辻の柳、甍(いらか)の浪の町を抱(いだ)いた、北陸の都である。
 一年(ひととせ)、激しい旱魃(かんばつ)のあった真夏の事。
 ……と言うとたちまち、天に可恐(おそろ)しき入道雲湧(わ)き、地に水論の修羅の巷(ちまた)の流れたように聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰(さた)ではない。
 かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、この土地に七日間の興行して、全市の湧くがごとき人気を博した。
 極暑の、旱(ひでり)というのに、たといいかなる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――諺(ことわざ)に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥(おおだらい)に満々と水を湛(たた)え、蝋燭(ろうそく)に灯を点じたのをその中に立てて目塗(めぬり)をすると、壁を透(とお)して煙が裡(うち)へ漲(みなぎ)っても、火気を呼ばないで安全だと言う。……火をもって火を制するのだそうである。
 ここに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるがごとき演劇は、あたかもこの轍(てつ)だ、と称(とな)えて可(い)い。雲は焚(や)け、草は萎(しぼ)み、水は涸(か)れ、人は喘(あえ)ぐ時、一座の劇はさながら褥熱(じょくねつ)に対する氷のごとく、十万の市民に、一剤、清涼の気を齎(もた)らして剰余(あまり)あった。
 膚(はだ)の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、拳(こぞ)って座中の明星と称(たた)えられた村井紫玉(しぎょく)が、
「まあ……前刻(さっき)の、あの、小さな児(こ)は?」
 公園の茶店に、一人静(しずか)に憩いながら、緋塩瀬(ひしおぜ)の煙管筒(きせるづつ)の結目(むすびめ)を解掛けつつ、偶(ふ)と思った。……
 髷(まげ)も女優巻でなく、わざとつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒(あっさり)した意気造(いきづくり)。形容(しな)に合せて、煙草入(たばこいれ)も、好みで持った気組の婀娜(あだ)。
 で、見た処は芸妓(げいしゃ)の内証歩行(ないしょあるき)という風だから、まして女優の、忍びの出、と言っても可(い)い風采(ふう)。
 また実際、紫玉はこの日は忍びであった。演劇(しばい)は昨日(きのう)楽になって、座の中には、直ぐに次(つぎ)興行の隣国へ、早く先乗(さきのり)をしたのが多い。が、地方としては、これまで経歴(へめぐ)ったそこかしこより、観光に価値(あたい)する名所が夥(おびただし)い、と聞いて、中二日ばかりの休暇(やすみ)を、紫玉はこの土地に居残った。そして、旅宿に二人附添った、玉野、玉江という女弟子も連れないで、一人で密(そっ)と、……日盛(ひざかり)もこうした身には苦にならず、町中(まちなか)を見つつ漫(そぞろ)に来た。
 惟(おも)うに、太平の世の国の守(かみ)が、隠れて民間に微行するのは、政(まつりごと)を聞く時より、どんなにか得意であろう。落人(おちゅうど)のそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさえ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、その都度、ハッと隠れ忍んで、微笑(ほほえ)み微笑み通ると思え。
 深張(ふかばり)の涼傘(ひがさ)の影ながら、なお面影は透き、色香は仄(ほの)めく……心地すれば、誰(たれ)憚(はばか)るともなく自然(おのず)から俯目(ふしめ)に俯向(うつむ)く。謙譲の褄(つま)はずれは、倨傲(きょごう)の襟より品を備えて、尋常な姿容(すがたかたち)は調って、焼地に焦(い)りつく影も、水で描いたように涼しくも清爽(さわやか)であった。
 わずかに畳の縁(へり)ばかりの、日影を選んで辿(たど)るのも、人は目を□(みは)って、鯨に乗って人魚が通ると見たであろう。……素足の白いのが、すらすらと黒繻子(くろじゅす)の上を辷(すべ)れば、溝(どぶ)の流(ながれ)も清水の音信(おとずれ)。
 で、真先(まっさき)に志したのは、城の櫓(やぐら)と境を接した、三つ二つ、全国に指を屈するという、景勝の公園であった。

       二

 公園の入口に、樹林を背戸に、蓮池(はすいけ)を庭に、柳、藤、桜、山吹など、飛々(とびとび)に名に呼ばれた茶店がある。
 紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋というのであった。が、紅(あか)い襷(たすき)で、色白な娘が運んだ、煎茶(せんちゃ)と煙草盆(たばこぼん)を袖に控えて、さまで嗜(たしな)むともない、その、伊達(だて)に持った煙草入を手にした時、――
「……あれは女の児(こ)だったかしら、それとも男の児だったろうかね。」
 ――と思い出したのはそれである。――
 で、華奢造(きゃしゃづく)りの黄金(きん)煙管(ぎせる)で、余り馴(な)れない、ちと覚束(おぼつか)ない手つきして、青磁色の手つきの瀬戸火鉢を探りながら、
「……帽子を……被(かぶ)っていたとすれば、男の児だろうが、青い鉢巻だっけ。……麦藁(むぎわら)に巻いた切(きれ)だったろうか、それともリボンかしら。色は判然(はっきり)覚えているけど、……お待ちよ、――とこうだから。……」
 取って着けたような喫(の)み方だから、見ると、ものものしいまでに、打傾いて一口吸って、
「……年紀(とし)は、そうさね、七歳(ななつ)か六歳(むッつ)ぐらいな、色の白い上品な、……男の児にしてはちと綺麗過ぎるから女の児――だとリボンだね。――青いリボン。……幼稚(ちいさ)くたって緋(ひ)と限りもしないわね。では、やっぱり女の児かしら。それにしては麦藁帽子……もっともおさげに結ってれば……だけど、そこまでは気が付かない。……」
 大通りは一筋だが、道に迷うのも一興で、そこともなく、裏小路へ紛れ込んで、低い土塀から瓜(うり)、茄子(なす)の畠(はたけ)の覗(のぞ)かれる、荒れ寂れた邸町(やしきまち)を一人で通って、まるっきり人に行合(ゆきあ)わず。白熱した日盛(ひざかり)に、よくも羽が焦げないと思う、白い蝶々の、不意にスッと来て、飜々(ひらひら)と擦違うのを、吃驚(びっくり)した顔をして見送って、そして莞爾(にっこり)……したり……そうした時は象牙骨(ぞうげぼね)の扇でちょっと招いてみたり。……土塀の崩屋根(くずれやね)を仰いで血のような百日紅(さるすべり)の咲満ちた枝を、涼傘(ひがさ)の尖(さき)で擽(くす)ぐる、と堪(たま)らない。とぶるぶるゆさゆさと行(や)るのに、「御免なさい。」と言ってみたり。石垣の草蒸(くさいきれ)に、棄ててある瓜の皮が、化けて脚が生えて、むくむくと動出しそうなのに、「あれ。」と飛退(とびの)いたり。取留めのないすさびも、この女の人気なれば、話せば逸話に伝えられよう。
 低い山かと見た、樹立(こだち)の繁った高い公園の下へ出ると、坂の上り口に社(やしろ)があった。
 宮も大きく、境内も広かった。が、砂浜に鳥居を立てたようで、拝殿の裏崕(うらがけ)には鬱々(うつうつ)たるその公園の森を負いながら、広前(ひろまえ)は一面、真空(まそら)なる太陽に、礫(こいし)の影一つなく、ただ白紙(しらかみ)を敷詰めた光景(ありさま)なのが、日射(ひざし)に、やや黄(きば)んで、渺(びょう)として、どこから散ったか、百日紅の二三点。
 ……覗くと、静まり返った正面の階(きざはし)の傍(かたわら)に、紅(べに)の手綱、朱の鞍(くら)置いた、つくりものの白の神馬(しんめ)が寂寞(せきばく)として一頭(ひとつ)立つ。横に公園へ上る坂は、見透(みとお)しになっていたから、涼傘のままスッと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまま鳥居の柱に映って通る。……そこに屋根囲(やねがこい)した、大(おおい)なる石の御手洗(みたらし)があって、青き竜頭(りゅうず)から湛(たた)えた水は、且つすらすらと玉を乱して、颯(さっ)と簾(すだれ)に噴溢(ふきあふ)れる。その手水鉢(ちょうずばち)の周囲(まわり)に、ただ一人……その稚児が居たのであった。
 が、炎天、人影も絶えた折から、父母(ちちはは)の昼寝の夢を抜出した、神官の児(こ)であろうと紫玉は視(み)た。ちらちら廻りつつ、廻りつつ、あちこちする。……
 と、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまわりを廻るのが、さながら、石に刻んだ形が、噴溢れる水の影に誘われて、すらすらと動くような。……と視るうちに、稚児は伸上り、伸上っては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上っては、また空に手を伸ばす。――
 紫玉はズッと寄った。稚児はもう涼傘の陰に入ったのである。
「ちょっと……何をしているの。」
「水が欲しいの。」
 と、あどけなく言った。
 ああ、それがため足場を取っては、取替えては、手を伸ばす、が爪立っても、青い巾(きれ)を巻いた、その振分髪、まろが丈は……筒井筒(つついづつ)その半(なかば)にも届くまい。

       三

 その御手洗の高い縁に乗っている柄杓(ひしゃく)を、取りたい、とまた稚児がそう言った。
 紫玉は思わず微笑(ほほえ)んで、
「あら、こうすれば仔細(わけ)ないよ。」
 と、半身を斜めにして、溢れかかる水の一筋を、玉の雫(しずく)に、颯(さっ)と散らして、赤く燃ゆるような唇に請(う)けた。ちょうど渇(かわ)いてもいたし、水の潔(きよ)い事を見たのは言うまでもない。
「ねえ、お前。」
 稚児が仰いで、熟(じっ)と紫玉を視(み)て、
「手を浄(きよ)める水だもの。」
 直接(じか)に吻(くち)を接(つけ)るのは不作法だ、と咎(とが)めたように聞えたのである。
 劇壇の女王(にょおう)は、気色(けしき)した。
「いやにお茶がってるよ、生意気な。」と、軽くその頭(つむり)を掌(てのひら)で叩(たた)き放しに、衝(つ)と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。――
 今思うと、手を触れた稚児の頭(つむり)も、女か、男か、不思議にその感覚が残らぬ。気は涼しかったが、暑さに、いくらか茫(ぼう)としたものかも知れない。
「娘(ねえ)さん、町から、この坂を上る処に、お宮がありますわね。」
「はい。」
「何と言う、お社です。」
「浦安神社でございますわ。」と、片手を畳に、娘は行儀正しく答えた。
「何神様が祭ってあります。」
「お父さん、お父さん。」と娘が、つい傍(そば)に、蓮池(はすいけ)に向いて、(じんべ)という膝(ひざ)ぎりの帷子(かたびら)で、眼鏡の下に内職らしい網をすいている半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、それから向直って、丁寧に辞儀をして、
「ええ、浦安様は、浦安かれとの、その御守護じゃそうにござりまして。水をばお司(つかさど)りなされます、竜神と申すことでござります。これの、太夫様にお茶を替えて上げぬかい。」
 紫玉は我知らず衣紋(えもん)が締(しま)った。……称(とな)えかたは相応(そぐ)わぬにもせよ、拙(へた)な山水画の裡(なか)の隠者めいた老人までが、確か自分を知っている。
 心着けば、正面神棚の下には、我が姿、昨夜(ゆうべ)も扮(ふん)した、劇中女主人公(ヒロイン)の王妃なる、玉の鳳凰(ほうおう)のごときが掲げてあった。
「そして、……」
 声も朗かに、且つ慎ましく、
「竜神だと、女神(おんながみ)ですか、男神(おとこがみ)ですか。」
「さ、さ。」と老人は膝を刻んで、あたかもこの問(とい)を待構えたように、
「その儀は、とかくに申しまするが、いかがか、いずれとも相分りませぬ。この公園のずッと奥に、真暗(まっくら)な巌窟(いわや)の中に、一ヶ処清水の湧(わ)く井戸がござります。古色の夥(おびただ)しい青銅の竜が蟠(わだかま)って、井桁(いげた)に蓋(ふた)をしておりまして、金網を張り、みだりに近づいてはなりませぬが、霊沢金水(れいたくこんすい)と申して、これがためにこの市の名が起りましたと申します。これが奥の院と申す事で、ええ、貴方様(あなたさま)が御意の浦安神社は、その前殿(まえどの)と申す事でござります。御参詣(おまいり)を遊ばしましたか。」
「あ、いいえ。」と言ったが、すぐまた稚児の事が胸に浮んだ。それなり一時言葉が途絶える。
 森々(しんしん)たる日中(ひなか)の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に聳(そび)ゆる。茶店の横にも、見上るばかりの槐(えんじゅ)榎(えのき)の暗い影が樅(もみ)楓(かえで)を薄く交(まじ)えて、藍緑(らんりょく)の流(ながれ)に群青(ぐんじょう)の瀬のあるごとき、たらたら上(あが)りの径(こみち)がある。滝かと思う蝉時雨(せみしぐれ)。光る雨、輝く木(こ)の葉、この炎天の下蔭は、あたかも稲妻に籠(こも)る穴に似て、もの凄(すご)いまで寂寞(ひっそり)した。
 木下闇(こしたやみ)、その横径(よこみち)の中途(なかほど)に、空屋かと思う、廂(ひさし)の朽ちた、誰も居ない店がある……

       四

 鎖(とざ)してはないものの、奥に人が居て住むかさえ疑わしい。それとも日が暮れると、白い首でも出てちとは客が寄ろうも知れぬ。店一杯に雛壇(ひなだん)のような台を置いて、いとど薄暗いのに、三方を黒布で張廻した、壇の附元(つけもと)に、流星(ながれぼし)の髑髏(しやれこうべ)、乾(ひから)びた蛾(ひとりむし)に似たものを、点々並べたのは的(まと)である。地方の盛場には時々見掛ける、吹矢の機関(からくり)とは一目視(み)て紫玉にも分った。
 実(まこと)は――吹矢も、化ものと名のついたので、幽霊の廂合(ひあわい)の幕から倒(さかさま)にぶら下がり、見越入道(みこしにゅうどう)は誂(あつら)えた穴からヌッと出る。雪女は拵(こしら)えの黒塀に薄(うっす)り立ち、産女鳥(うぶめどり)は石地蔵と並んでしょんぼり彳(たたず)む。一ツ目小僧の豆腐買は、流灌頂(ながれかんちょう)の野川の縁(へり)を、大笠(おおがさ)を俯向(うつむ)けて、跣足(はだし)でちょこちょこと巧みに歩行(ある)くなど、仕掛ものになっている。……いかがわしいが、生霊(いきりょう)と札の立った就中(なかんずく)小さな的に吹当てると、床板ががらりと転覆(ひっくりかえ)って、大松蕈(おおまつたけ)を抱いた緋(ひ)の褌(ふんどし)のおかめが、とんぼ返りをして莞爾(にっこり)と飛出す、途端に、四方へ引張(ひっぱ)った綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉(いちどき)にがんがらん、どんどと鳴って、それで市(いち)が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたい歩行(ある)く波張(なみばり)が切々(きれぎれ)に、藪畳(やぶだたみ)は打倒(ぶったお)れ、飾(かざり)の石地蔵は仰向けに反って、視た処、ものあわれなまで寂れていた。
 ――その軒の土間に、背後(うしろ)むきに蹲(しゃが)んだ僧形(そうぎょう)のものがある。坊主であろう。墨染の麻の法衣(ころも)の破(や)れ破れな形(なり)で、鬱金(うこん)ももう鼠に汚れた布に――すぐ、分ったが、――三味線を一挺(ちょう)、盲目(めくら)の琵琶(びわ)背負(じょい)に背負(しょ)っている、漂泊(さすら)う門附(かどづけ)の類(たぐい)であろう。
 何をか働く。人目を避けて、蹲(うずくま)って、虱(しらみ)を捻(ひね)るか、瘡(かさ)を掻(か)くか、弁当を使うとも、掃溜(はきだめ)を探した干魚(ほしうお)の骨を舐(しゃぶ)るに過ぎまい。乞食のように薄汚い。
 紫玉は敗竄(はいざん)した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息(ためいき)を漏らした。且つあわれみ、且つ可忌(いまわ)しがったのである。
 灰吹(はいふき)に薄い唾(つば)した。
 この世盛りの、思い上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も滴(したた)るがごとき影に、框(かまち)も自然(おのず)から浮いて高い処に、色も濡々(ぬれぬれ)と水際立つ、紫陽花(あじさい)の花の姿を撓(たわ)わに置きつつ、翡翠(ひすい)、紅玉(ルビイ)、真珠など、指環(ゆびわ)を三つ四つ嵌(は)めた白い指をツト挙げて、鬢(びん)の後毛(おくれげ)を掻いたついでに、白金(プラチナ)の高彫(たかぼり)の、翼に金剛石(ダイヤ)を鏤(ちりば)め、目には血膸玉(スルウドストン)、嘴(くちばし)と爪に緑宝玉(エメラルド)の象嵌(ぞうがん)した、白く輝く鸚鵡(おうむ)の釵(かんざし)――何某(なにがし)の伯爵が心を籠めた贈(おくり)ものとて、人は知って、(伯爵)と称(とな)うるその釵を抜いて、脚を返して、喫掛(のみか)けた火皿の脂(やに)を浚(さら)った。……伊達(だて)の煙管(きせる)は、煙を吸うより、手すさみの科(しぐさ)が多い慣習(ならい)である。
 三味線背負った乞食坊主が、引掻(ひっか)くようにもぞもぞと肩を揺(ゆす)ると、一眼ひたと盲(し)いた、眇(めっかち)の青ぶくれの面(かお)を向けて、こう、引傾(ひっかたが)って、熟(じっ)と紫玉のその状(さま)を視ると、肩を抽(ぬ)いた杖(つえ)の尖(さき)が、一度胸へ引込(ひっこ)んで、前屈(まえかが)みに、よたりと立った。
 杖を径(こみち)に突立て突立て、辿々(たどたど)しく下闇(したやみ)を蠢(うごめ)いて下りて、城の方(かた)へ去るかと思えば、のろく後退(あとじさり)をしながら、茶店に向って、吻(ほっ)と、立直って一息吐(つ)く。
 紫玉の眉の顰(ひそ)む時、五間ばかり軒を離れた、そこで早や、此方(こなた)へぐったりと叩頭(おじぎ)をする。
 知らない振(ふり)して、目をそらして、紫玉が釵に俯向(うつむ)いた。が、濃い睫毛(まつげ)の重くなるまで、坊主の影は近(ちかづ)いたのである。
「太夫様。」
 ハッと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前(めさき)の土間に、両膝を折っていた。
「…………」
「お願でござります。……お慈悲じゃ、お慈悲、お慈悲。」
 仮初(かりそめ)に置いた涼傘(ひがさ)が、襤褸(ぼろ)法衣(ごろも)の袖に触れそうなので、密(そっ)と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘(おやこ)に目を遣(や)った。
 立って声を掛けて追おうともせず、父も娘も静(しずか)に視ている。

       五

 しばらくすると、この旱(ひでり)に水は涸(か)れたが、碧緑(へきりょく)の葉の深く繁れる中なる、緋葉(もみじ)の滝と云うのに対して、紫玉は蓮池(はすいけ)の汀(みぎわ)を歩行(ある)いていた。ここに別に滝の四阿(あずまや)と称うるのがあって、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、枝折戸(しおりど)を鎖(とざ)さぬのである。
 で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事になる。紫玉はあの、吹矢の径(みち)から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を投遣(なげや)りに翳(かざ)しながら、袖を柔かに、手首をやや硬くして、あすこで抜いた白金(プラチナ)の鸚鵡(おうむ)の釵(かんざし)、その翼をちょっと抓(つま)んで、きらりとぶら下げているのであるが。
 仔細(しさい)は希有(けう)な、……
 坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。施与(ほどこし)には違いなけれど、変な事には「お禁厭(まじない)をして遣わされい。虫歯が疚(うず)いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い状(さま)に掌(てのひら)で抱えて、首を引傾(ひっかたむ)けた同じ方の一眼が白くどろんとして潰(つぶ)れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚い液(しる)が垂れそうな塩梅(あんばい)。「お慈悲じゃ。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの苦悩(くるしみ)はございますまいぞ、お情(なさけ)じゃ、禁厭(まじの)うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。――その紫玉が手にした白金(プラチナ)の釵を、歯のうろへ挿入(さしいれ)て欲しいのだと言う。
「太夫様お手ずから。……竜と蛞蝓(なめくじ)ほど違いましても、生(しょう)あるうちは私(わし)じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明(おひかり)に照らされますだけでも、この疚痛(いたみ)は忘られましょう。」と、はッはッと息を吐(つ)く。……
 既に、何人(なんぴと)であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言われたのでは、そのいわゆる禁厭の断り悪(にく)さは、金銭の無心をされたのと同じ事――但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸そうとすると、「ああ、いや、太夫様、お手ずから。……貴女様(あなたさま)の膚(はだ)の移香(うつりが)、脈の響(ひびき)をお釵から伝え受けたいのでござります。貴方様の御血脈(おけちみゃく)、それが禁厭になりますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は止(や)む事を得ず、手に持添えつつ、釵の脚を挿入れた。
 喘(あえ)ぐわ、舐(しゃぶ)るわ!鼻息がむッと掛(かか)る。堪(たま)らず袖を巻いて唇を蔽(おお)いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、雪白(せっぱく)なる鵞鳥(がちょう)の七宝の瓔珞(ようらく)を掛けた風情なのを、無性髯(ぶしょうひげ)で、チュッパと啜込(すすりこ)むように、坊主は犬蹲(いぬつくばい)になって、頤(あご)でうけて、どろりと嘗(な)め込む。
 と、紫玉の手には、ずぶずぶと響いて、腐れた瓜を突刺す気味合(きみあい)。
 指環は緑紅の結晶したる玉のごとき虹(にじ)である。眩(まぶ)しかったろう。坊主は開いた目も閉じて、□(ぼう)とした顔色(がんしょく)で、しっきりもなしに、だらだらと涎(よだれ)を垂らす。「ああ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――
 不思議な光景(ようす)は、美しき女が、針の尖(さき)で怪しき魔を操る、舞台における、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘とその父は、感に堪えた観客(かんかく)のごとく、呼吸(いき)を殺して固唾(かたず)を飲んだ。
 ……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋(ぬきえもん)。で、両掌(りょうて)を仰向け、低く紫玉の雪の爪先(つまさき)を頂く真似して、「かように穢(むさ)いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触(めざわ)り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻(ね)じるように杖で立って、
「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて腑(ふ)が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を跨(また)いで、蹌踉(よろけ)状(ざま)に振向いて、「あの、そのお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を視(み)る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。恐縮(おそれ)や。……えひひ。」とニヤリとして、
「ちゃっとお拭(ふ)きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた懐紙(ふところがみ)を、余儀なくちょっと逡巡(ためら)った。
 同時に、あらぬ方(かた)に蒼(つ)と面(おもて)を背けた。

       六

 紫玉は待兼ねたように懐紙(かいし)を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径(こみち)へ行(ゆ)きましたか、坊主は、と訊(き)いた。父も娘も、へい、と言って、大方そうだろうと言う。――もう影もなかったのである。父娘(おやこ)はただ、紫玉の挙動(ふるまい)にのみ気を奪(と)られていたろう。……この辺を歩行(ある)く門附みたいなもの、とまた訊けば、父親がついぞ見掛けた事はない。娘が跣足(はだし)でいました、と言ったので、旅から紛込んだものか、それも分らぬ。
 と、言ううちにも、紫玉はちょいちょい眉を顰(ひそ)めた。抜いて持った釵(かんざし)、鬢(びん)摺(ず)れに髪に返そうとすると、や、するごとに、手の撓(しな)うにさえ、得も言われない、異な、変な、悪臭い、堪(たま)らない、臭気(におい)がしたのであるから。
 城は公園を出る方で、そこにも影がないとすると、吹矢の道を上ったに相違ない。で、後へ続くには堪えられぬ。
 そこで滝の道を訊(き)いて――ここへ来た。――
 泉殿(せんでん)に擬(なぞら)えた、飛々(とびとび)の亭(ちん)のいずれかに、邯鄲(かんたん)の石の手水鉢(ちょうずばち)、名品、と教えられたが、水の音より蝉の声。で、勝手に通抜けの出来る茶屋は、昼寝の半ばらしい。どの座敷も寂寞(ひっそり)して人気勢(ひとけはい)もなかった。
 御歯黒(おはぐろ)蜻蛉(とんぼ)が、鉄漿(かね)つけた女房(にょうぼ)の、微(かすか)な夢の影らしく、ひらひらと一つ、葉ばかりの燕子花(かきつばた)を伝って飛ぶのが、このあたりの御殿女中の逍遥(しょうよう)した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思わせる。
 すべて旧藩侯の庭園だ、と言うにつけても、贈主(おくりぬし)なる貴公子の面影さえ浮ぶ、伯爵の鸚鵡(おうむ)を何としょう。
 霊廟(れいびょう)の土の瘧(おこり)を落し、秘符の威徳の鬼を追うよう、たちどころに坊主の虫歯を癒(いや)したはさることながら、路々(みちみち)も悪臭(わるぐさ)さの消えないばかりか、口中の臭気は、次第に持つ手を伝(つたわ)って、袖にも移りそうに思われる。
 紫玉は、樹の下に涼傘(ひがさ)を畳んで、滝を斜めに視(み)つつ、池の縁(へり)に低くいた。
 滝は、旱(ひでり)にしかく骨なりといえども、巌(いわお)には苔蒸(こけむ)し、壺は森を被(かつ)いで蒼(あお)い。しかも巌(いわ)がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の凄(すさま)じく響くのは、大樋(おおどい)を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内濠(うちぼり)に灌(そそ)ぐと聞く、戦国の余残(なごり)だそうである。
 紫玉は釵を洗った。……艶(えん)なる女優の心を得た池の面(おも)は、萌黄(もえぎ)の薄絹のごとく波を伸べつつ拭(ぬぐ)って、清めるばかりに見えたのに、取って黒髪に挿そうとすると、ちっと離したくらいでは、耳の辺(はた)へも寄せられぬ。鼻を衝(つ)いて、ツンと臭い。
「あ、」と声を立てたほどである。
 雫(しずく)を切ると、雫まで芬(ぷん)と臭(にお)う。たとえば貴重なる香水の薫(かおり)の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果(はて)は指環の緑碧紅黄(りょくへきこうこう)の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸(いき)れ掛(かか)るように思われたので。……
「ええ。」
 紫玉はスッと立って、手のはずみで一振(ふり)振った。
「ぬしにおなりよ。」
 白金(プラチナ)の羽の散る状(さま)に、ちらちらと映ると、釵は滝壺に真蒼(まっさお)な水に沈んで行(ゆ)く。……あわれ、呪(のろ)われたる仙禽(せんきん)よ。卿(おんみ)は熱帯の鬱林(うつりん)に放たれずして、山地の碧潭(へきたん)に謫(たく)されたのである。……トこの奇異なる珍客を迎うるか、不可思議の獲(え)ものに競うか、静(しずか)なる池の面(も)に、眠れる魚(うお)のごとく縦横に横(よこた)わった、樹の枝々の影は、尾鰭(おひれ)を跳ねて、幾千ともなく、一時(いちどき)に皆揺動いた。
 これに悚然(ぞっ)とした状(さま)に、一度すぼめた袖を、はらはらと翼のごとく搏(たた)いたのは、紫玉が、可厭(いとわ)しき移香(うつりが)を払うとともに、高貴なる鸚鵡(おうむ)を思い切った、安からぬ胸の波動で、なお且つ飜々(はらはら)とふるいながら、衝(つ)と飛退(とびの)くように、滝の下行く桟道の橋に退(の)いた。
 石の反橋(そりばし)である。巌(いわ)と石の、いずれにも累(かさな)れる牡丹(ぼたん)の花のごときを、左右に築き上げた、銘を石橋(しゃっきょう)と言う、反橋の石の真中(まんなか)に立って、吻(ほ)と一息した紫玉は、この時、すらりと、脊も心も高かった。

       七

 明眸(めいぼう)の左右に樹立(こだち)が分れて、一条(ひとすじ)の大道、炎天の下(もと)に展(ひら)けつつ、日盛(ひざかり)の町の大路が望まれて、煉瓦造(れんがづくり)の避雷針、古い白壁(しらかべ)、寺の塔など睫(まつげ)を擽(こそぐ)る中に、行交う人は点々と蝙蝠(こうもり)のごとく、電車は光りながら山椒魚(さんしょううお)の這(は)うのに似ている。
 忘れもしない、限界のその突当りが、昨夜(ゆうべ)まで、我あればこそ、電燭(でんしょく)のさながら水晶宮のごとく輝いた劇場であった。
 ああ、一翳(いちえい)の雲もないのに、緑紫紅(くれない)の旗の影が、ぱっと空を蔽(おお)うまで、花やかに目に飜った、と見ると颯(さっ)と近づいて、眉に近い樹々の枝に色鳥の種々(いろいろ)の影に映った。
 蓋(けだ)し劇場に向って、高く翳(かざ)した手の指環の、玉の矜(ほこり)の幻影(まぼろし)である。
 紫玉は、瞳を返して、華奢(きゃしゃ)な指を、俯向(うつむ)いて視(み)つつ莞爾(にっこり)した。
 そして、すらすらと石橋を前方(むこう)へ渡った。それから、森を通る、姿は翠(みどり)に青ずむまで、静(しずか)に落着いて見えたけれど、二ツ三ツ重(かさな)った不意の出来事に、心の騒いだのは争われない。……涼傘(ひがさ)を置忘れたもの。……
 森を高く抜けると、三国見霽(みはら)しの一面の広場になる。赫(かっ)と射る日に、手廂(てびさし)してこう視(なが)むれば、松、桜、梅いろいろ樹の状(さま)、枝の振(ふり)の、各自(おのおの)名ある神仙の形を映すのみ。幸いに可忌(いまわし)い坊主の影は、公園の一木(ぼく)一草をも妨げず。また……人の往来(ゆきか)うさえほとんどない。
 一処(ひとところ)、大池があって、朱塗の船の、漣(さざなみ)に、浮いた汀(みぎわ)に、盛装した妙齢(としごろ)の派手な女が、番(つがい)の鴛鴦(おしどり)の宿るように目に留った。
 真白な顔が、揃ってこっちを向いたと思うと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠さーん。」
 一人がもう、空気草履の、媚(なまめ)かしい褄捌(つまさば)きで駆けて来る。目鼻は玉江。……もう一人は玉野であった。
 紫玉は故郷へ帰った気がした。
「不思議な処で、と言いたいわね。見ぶつかい。」
「ええ、観光団。」
「何を悪戯(いたずら)をしているの、お前さんたち。」
 と連立って寄る、汀に居た玉野の手には、船首(みよし)へ掛けつつ棹(さお)があった。
 舷(ふなばた)は藍(あい)、萌黄(もえぎ)の翼で、頭(かしら)にも尾にも紅(べに)を塗った、鷁首(げきしゅ)の船の屋形造。玩具(おもちゃ)のようだが四五人は乗れるであろう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
 聞けば、向う岸の、むら萩に庵(いおり)の見える、船主(ふなぬし)の料理屋にはもう交渉済で、二人は慰みに、これから漕出(こぎだ)そうとする処だった。……お前さんに漕げるかい、と覚束(おぼつか)なさに念を押すと、浅くて棹が届くのだから仔細(しさい)ない。ただ、一ケ所底の知れない深水(ふかみず)の穴がある。竜(たつ)の口と称(とな)えて、ここから下の滝の伏樋(ふせどい)に通ずるよし言伝える、……危くはないけれど、そこだけは除(よ)けたが可(よ)かろう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出して仕誼(ことわり)を言いに行ったのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、あすこですわ。」と玉野が指(ゆびさ)す、大池を艮(うしとら)の方(かた)へ寄る処に、板を浮かせて、小さな御幣(ごへい)が立っていた。真中(まんなか)の築洲(つきず)に鶴ケ島というのが見えて、祠(ほこら)に竜神を祠(まつ)ると聞く。……鷁首の船は、その島へ志すのであるから、滝の口は近寄らないで済むのであったが。
「乗ろうかね。」
 と紫玉はもう褄(つま)を巻くように、爪尖(つまさき)を揃えながら、
「でも何だか。」
「あら、なぜですえ。」
「御幣まで立って警戒をした処があっちゃあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「いいえ、あの御幣は、そんなおどかしじゃありませんの。不断は何にもないんだそうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言って立てたんだそうですの、この旱(ひでり)ですから。」

       八

 岸をトンと盪(お)すと、屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思うほど、玉野は思ったより巧(たくみ)に棹(さお)をさす。大池は静(しずか)である。舷(ふなばた)の朱欄干に、指を組んで、頬杖(ほおづえ)ついた、紫玉の胡粉(ごふん)のような肱(ひじ)の下に、萌黄に藍を交えた鳥の翼の揺るるのが、そこにばかり美しい波の立つ風情に見えつつ、船はするすると滑って、鶴ケ島をさして滑(なめら)かに浮いて行(ゆ)く。
 さまでの距離はないが、月夜には柳が煙るぐらいな間(ま)で、島へは棹の数百ばかりはあろう。
 玉野は上手(あじ)を遣(や)る。
 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静(しずか)な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、日射(ひざし)もそこばかりはものの朦朧(もうろう)として淀(よど)むあたりに、――微(そよ)との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直(まっすぐ)に立っていた白い御幣が、スースーと少しずつ位置を転(か)えて、夢のように一寸二寸ずつ動きはじめた。
 凝(じっ)と、……視(み)るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落着いて弧を描きつつ、その円い線の合する処で、またスースーと、一寸二寸ずつ動出すのが、何となく池を広く大きく押拡げて、船は遠く、御幣ははるかに、不思議に、段々汀(みぎわ)を隔るのが心細いようで、気も浮(うっ)かりと、紫玉は、便(たより)少ない心持(ここち)がした。
「大丈夫かい、あすこは渦を巻いているようだがね。」
 欄干に頬杖したまま、紫玉は御幣を凝視(みつ)めながら言った。
「詰(つま)りませんわ、少し渦でも巻かなけりゃ、余(あんま)り静で、橋の上を這っているようですもの、」
 とお転婆(てんば)の玉江が洒落(しゃれ)でもないらしく、
「玉野さん、船をあっちへ遣ってみないか?……」
 紫玉が圧(おさ)えて、
「不可(いけな)いよ。」
「いいえ、何ともありゃしませんわ。それだし、もしか、船に故障があったら、おーいと呼ぶか、手を敲(たた)けば、すぐに誰か出て来るからって、女中がそう言っていたんですから。」とまた玉江が言う。
 成程、島を越した向う岸の萩の根に、一人乗るほどの小船が見える。中洲の島で、納涼(すずみ)ながら酒宴をする時、母屋(おもや)から料理を運ぶ通船(かよいぶね)である。
 玉野さえ興に乗ったらしく、
「お嬢様、船を少し廻しますわ。」
「だって、こんな池で助船(たすけぶね)でも呼んでみたが可(い)い、飛んだお笑い草で末代までの恥辱じゃあないか、あれお止(よ)しよ。」
 と言うのに、――逆について船がぐいと廻りかけると、ざぶりと波が立った。その響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木(うき)ほどになっていたのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面(おも)にぴたりとついたと思うと、罔竜(あまりょう)の頭(かしら)、絵(えが)ける鬼火(ひとだま)のごとき一条(ひとすじ)の脈が、竜の口からむくりと湧(わ)いて、水を一文字に、射て疾(と)く、船に近づくと斉(ひと)しく、波はざッと鳴った。
 女優の船頭は棹を落した。
 あれあれ、その波頭(なみがしら)がたちまち船底を噛(か)むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一煽(あお)り、その形に煽るや否や、人の立つごとく、空へ大(おおい)なる魚(うお)が飛んだ。
 瞬間、島の青柳(あおやぎ)に銀の影が、パッと映(さ)して、魚は紫立ったる鱗(うろこ)を、冴(さ)えた金色(こんじき)に輝やかしつつ颯(さっ)と刎(は)ねたのが、飜然(ひらり)と宙を躍って、船の中へどうと落ちた。その時、水がドブンと鳴った。
 舳(みよし)と艫(とも)へ、二人はアッと飛退(とびの)いた。紫玉は欄干に縋(すが)って身を転(か)わす。
 落ちつつ胴の間(ま)で、一刎(ひとはね)、刎ねると、そのはずみに、船も動いた。――見事な魚である。
「お嬢様!」
「鯉(こい)、鯉、あら、鯉だ。[#底本では「。」なし]」
 と玉江が夢中で手を敲いた。
 この大(おおい)なる鯉が、尾鰭(おひれ)を曳(ひ)いた、波の引返(ひっかえ)すのが棄てた棹を攫(さら)った。棹はひとりでに底知れずの方へツラツラと流れて行(ゆ)く。

       九

「……太夫様……太夫様。」
 偶(ふ)と紫玉は、宵闇(よいやみ)の森の下道(したみち)で真暗(まっくら)な大樹巨木の梢(こずえ)を仰いだ。……思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。
「ちょっと燈(あかり)を、……」
 玉野がぶら下げた料理屋の提灯(ちょうちん)を留めさせて、さし交(かわ)す枝を透かしつつ、――何事と問う玉江に、
「誰だか呼んだように思うんだがねえ。」
 と言う……お師匠さんが、樹の上を視(み)ているから、
「まあ、そんな処(ところ)から。」
「そうだねえ。」
 紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳をそらす時、髷(まげ)に手を遣(や)って、釵に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡(おうむ)である。
「これが呼んだのかしら。」
 と微酔(ほろよい)の目元を花やかに莞爾(にっこり)すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭(いや)ですよ。」
 と仰山に二人が怯(おび)えた。女弟子の驚いたのなぞは構わないが、読者を怯(おびやか)しては不可(いけな)い。滝壷へ投沈めた同じ白金(プラチナ)の釵が、その日のうちに再び紫玉の黒髪に戻った仔細(しさい)を言おう。
 池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手を拍(う)つ、立騒ぐ声が響いて、最初は女中が小船で来た。……島へ渡した細綱を手繰って、立ちながら操るのだが、馴(な)れたもので、あとを二押三押、屋形船が来ると、由を聞き、魚(うお)を視(み)て、「まあ、」と目を□(みは)ったきり、慌(あわただ)しく引返した。が、間(ま)もあらせず、今度は印半纏(しるしばんてん)を被(き)た若いものに船を操(と)らせて、亭主らしい年配(としごろ)な法体(ほったい)したのが漕(こ)ぎつけて、「これはこれは太夫様。」亭主も逸早(いちはや)くそれを知っていて、恭(うやうや)しく挨拶をした。浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織を引(ひっ)かけていたが、さて、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目は掛(かか)りましょう。」とて、……及び腰に覗(のぞ)いて魂消(たまげ)ている若衆(わかいしゅ)に目配せで頷(うなずか)せて、「かような大魚、しかも出世魚と申す鯉魚(りぎょ)の、お船へ飛込みましたというは、類稀(たぐいまれ)な不思議な祥瑞(しょうずい)。おめでとう存じまする、皆、太夫様の御人徳。続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。烏滸(おこ)がましゅうござりますが、従って手前どもも、太夫様の福分、徳分、未曾有(みぞう)の御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、かような心嬉しい事はござりませぬ。なおかくの通りの旱魃(かんばつ)、市内はもとより近郷隣国、ただ炎の中に悶(もだ)えまする時、希有(けう)の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣(きんじゅう)草木(そうもく)に到るまでも、雨に蘇生(よみがえ)りまする前表かとも存じまする。三宝の利益(りやく)、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝いに、この鯉魚(こい)を肴(さかな)に、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げとう存じまする。まず風情はなくとも、あの島影にお船を繋(つな)ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しましょう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着(もんつき)の法然頭(ほうねんあたま)は、もう屋形船の方へ腰を据えた。
 若衆に取寄せさせた、調度を控えて、島の柳に纜(もや)った頃は、そうでもない、汀(みぎわ)の人立(ひとだち)を遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、等閑(なおざり)にはいたしますまい。略儀ながら不束(ふつつか)な田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直って真魚箸(まなばし)を構えた。
 ――釵は鯉の腹を光って出た。――竜宮へ往来した釵の玉の鸚鵡(おうむ)である。
「太夫様――太夫様。」
 ものを言おうも知れない。――
 とばかりで、二声聞いたように思っただけで、何の気勢(けはい)もしない。
 風も囁(ささや)かず、公園の暗夜(やみよ)は寂しかった。
「太夫様。」
「太夫様。」
 うっかり釵を、またおさえて、
「可厭(いや)だ、今度はお前さんたちかい。」

       十

――水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺(せいてんじく)の白鷺池(はくろち)、
じんじょうきょゆうにすみわたる、
昆明池(こんめいち)の水の色、
行末(ゆくすえ)久しく清(す)むとかや。
「お待ち。」
 紫玉は耳を澄(すま)した。道の露芝、曲水の汀にして、さらさらと音する流(ながれ)の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、微(かすか)に唄う声がする。
「――坊さんではないかしら……」
 紫玉は胸が轟(とどろ)いた。
 あの漂泊(さすらい)の芸人は、鯉魚の神秘を視(み)た紫玉の身には、もはや、うみ汁のごとく、唾(つば)、涎(よだれ)の臭い乞食坊主のみではなかったのである。
「……あの、三味線は、」
 夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、掻消(かきき)えるように音が留(や)んで、ひたひたと小石を潜(くぐ)って響く水は、忍ぶ跫音(あしおと)のように聞える。
 紫玉は立留まった。
 再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、
――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿ことごとしや、何処(いずこ)にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳(ひととせ)百日の旱(ひでり)の候いけるに、賀茂川(かもがわ)、桂川(かつらがわ)、水瀬(みなせ)切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、――
 聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。
――有験(うげん)の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経(にんのうきょう)を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受(じげんのうじゅ)たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請(しょう)じ、仁王経を講ぜられしかども、その験(しるし)もなかりけり。また或(ある)人申しけるは、容顔美麗なる白拍子(しらびょうし)を、百人めして、――
「御坊様。」
 今は疑うべき心も失(う)せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を透(すか)して、声する方(かた)に、縋(すが)るように寄ると思うと、
「燈(ひ)を消せ。」
 と、蕭(さ)びたが力ある声して言った。
「提灯(ちょうちん)を……」
「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度消損(けしそこ)ねて、慌(あわただ)しげに吹消した。玉野の手は震えていた。
――百人の白拍子をして舞わせられしに、九十九人舞いたりしに、その験もなかりけり。静(しずか)一人舞いたりとても、竜神示現(じげん)あるべきか。内侍所(ないしどころ)に召されて、禄(ろく)おもきものにて候にと申したりければ、とても人数(ひとかず)なれば、ただ舞わせよと仰せ下されければ、静が舞いたりけるに、しんむしょうの曲という白拍子を、――
 燈(ひ)を消すと、あたりがかえって朦朧(もうろう)と、薄く鼠色に仄(ほの)めく向うに、石の反橋(そりばし)の欄干に、僧形(そうぎょう)の墨の法衣(ころも)、灰色になって、蹲(うずくま)るか、と視れば欄干に胡坐(あぐら)掻(か)いて唄う。
 橋は心覚えのある石橋の巌組(いわぐみ)である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くどうどうと鳴って、風のごとくに響くが、掠(かす)れるほどの糸の音(ね)も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と俯向(うつむ)けて唄うので、頸(うなじ)を抽(ぬ)いた転軫(てんじん)に掛(かか)る手つきは、鬼が角を弾(はじ)くと言わば厳(いか)めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。
――なから舞いたりしに、御輿(みこし)の岳(たけ)、愛宕山(あたごやま)の方(かた)より黒雲にわかに出来(いでき)て、洛中(らくちゅう)にかかると見えければ、――
 と唄う。……紫玉は腰を折って地に低く居て、弟子は、その背後(うしろ)に蹲(しゃが)んだ。
――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、さてこそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を給(たまわ)りけると、承り候。――
 時に唄を留(や)めて黙った。
「太夫様。」
 余り尋常な、ものいいだったが、
「は、」と、呼吸(いき)をひいて答えた紫玉の、身動(みじろ)ぎに、帯がキと擦れて鳴ったほど、深く身に響いて聞いたのである。
「癩坊主(かったいぼうず)が、ねだり言を肯(うけご)うて、千金の釵を棄てられた。その心操(こころばえ)に感じて、些細(ささい)ながら、礼心に密(そ)と内証の事を申す。貴女(あなた)、雨乞をなさるが可(よ)い。――天の時、地の利、人の和、まさしく時節じゃ。――ここの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……袴(はかま)、練衣(ねりぎぬ)、烏帽子(えぼし)、狩衣(かりぎぬ)、白拍子(しらびょうし)の姿が可(よ)かろう。衆人めぐり見る中へ、その姿をあの島の柳の上へ高く顕(あらわ)し、大空へ向って拝をされい。祭文(さいもん)にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を遣(や)り、雷(らい)を放ち、雨を漲(みなぎ)らすは、明午を過ぎて申(さる)の上刻に分豪(ふんごう)も相違ない。国境の山、赤く、黄に、峰岳(みねたけ)を重ねて爛(ただ)れた奥に、白蓮の花、玉の掌(たなそこ)ほどに白く聳(そび)えたのは、四時(しじ)に雪を頂いて幾万年の白山(はくさん)じゃ。貴女、時を計って、その鸚鵡(おうむ)の釵を抜いて、山の其方(そなた)に向って翳(かざ)すを合図に、雲は竜のごとく湧(わ)いて出よう。――なおその上に、可(よ)いか、名を挙げられい。……」
――賢人(かしこびと)の釣を垂れしは、
厳陵瀬(げんりょうらい)の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の筧(かけひ)の水とかや。――……

       十一

 翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。煉瓦(れんが)を羽蟻(はあり)で包んだような凄(すさま)じい群集である。
 かりに、鎌倉殿としておこう。この……県に成上(なりあがり)の豪族、色好みの男爵で、面構(つらがまえ)も風采(ふうつき)も巨頭公(あたまでっかち)によう似たのが、劇(しばい)興行のはじめから他に手を貸さないで紫玉を贔屓(ひいき)した、既に昨夜(ゆうべ)もある処で一所になる約束があった。その間(ま)の時間を、紫玉は微行したのである。が、思いも掛けない出来事のために、大分の隙入(ひまいり)をしたものの、船に飛んだ鯉は、そのよしを言づけて初穂というのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ使(つかい)を走らせたほどなのであった。――
 車の通ずる処までは、もう自動車が来て待っていて、やがて、相会すると、ある時間までは附添って差支えない女弟子の口から、真先(まっさき)に予言者の不思議が漏れた。
 一議に及ばぬ。
 その夜(よ)のうちに、池の島へ足代(あじろ)を組んで、朝は早や法壇が調った。無論、略式である。
 県社の神官に、故実の詳しいのがあって、神燈を調え、供饌(ぐせん)を捧げた。
 島には鎌倉殿の定紋(じょうもん)ついた帷幕(まんまく)を引繞(ひきめぐ)らして、威儀を正した夥多(あまた)の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからここに控えたのである。
 あの、底知れずの水に浮いた御幣は、やがて壇に登るべき立女形(たておやま)に対して目触(めざわ)りだ、と逸早く取退(とりの)けさせ、樹立(こだち)さしいでて蔭ある水に、例の鷁首(げきしゅ)の船を泛(うか)べて、半ば紫の幕を絞った裡(うち)には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位の人々が、杯を置いて籠(こも)った。――雨乞に参ずるのに、杯をめぐらすという故実は聞かぬが、しかし事実である。
 伶人(れいじん)の奏楽一順して、ヒュウと簫(しょう)の音(ね)の虚空に響く時、柳の葉にちらちらと緋(ひ)の袴(はかま)がかかった。
 群集は波を揉(も)んで動揺(なだれ)を打った。
 あれに真白(まっしろ)な足が、と疑う、緋の袴は一段、階(きざはし)に劃(しき)られて、二条(ふたすじ)の紅(べに)の霞を曳(ひ)きつつ、上紫に下萌黄(もえぎ)なる、蝶鳥の刺繍(ぬい)の狩衣(かりぎぬ)は、緑に透き、葉に靡(なび)いて、柳の中を、するすると、容顔美麗なる白拍子。紫玉は、色ある月の風情して、一千の花の燈(ともし)の影、百を数うる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
 花火の中から、天女が斜(ななめ)に流れて出ても、群集はこの時くらい驚異の念は起すまい。
 烏帽子もともにこの装束は、織ものの模範、美術の表品(ひょうほん)、源平時代の参考として、かつて博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いずれ什物(じゅうもつ)であった。
 さて、遺憾ながら、この晴の舞台において、紫玉のために記すべき振事(ふりごと)は更にない。渠(かれ)は学校出の女優である。
 が、姿は天より天降(あまくだ)った妙(たえ)に艶(えん)なる乙女のごとく、国を囲める、その赤く黄に爛(ただ)れたる峰岳(みねたけ)を貫いて、高く柳の間に懸(かか)った。
 紫玉は恭(うやうや)しく三たび虚空(なかぞら)を拝した。
 時に、宮奴(みややっこ)の装(よそおい)した白丁(はくちょう)の下男が一人、露店の飴屋(あめや)が張りそうな、渋の大傘(おおからかさ)を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に顕(あらわ)れた。――これは怪(け)しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害(そこな)って、どうやら華魁(おいらん)の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだった。が、何、降るものと極(きま)れば、雨具の用意をするのは賢い。……加うるに、紫玉が被(かつ)いだ装束は、貴重なる宝物(ほうもつ)であるから、驚破(すわ)と言わばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であった。
 ――さればこそ、このくらい、注意の役に立ったのはあるまい。――
 あわれ、身のおき処がなくなって、紫玉の裾(すそ)が法壇に崩れた時、「状(ざま)を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」――わッと群集の騒いだ時、……堪(たま)らぬ、と飛上って、紫玉を圧(おさ)えて、生命(いのち)を取留めたのもこの下男で、同時に狩衣を剥(は)ぎ、緋の袴の紐を引解(ひきほど)いたのも――鎌倉殿のためには敏捷(びんしょう)な、忠義な奴(やつ)で――この下男である。
 雨はもとより、風どころか、余(あまり)の人出に、大池には蜻蛉(とんぼ)も飛ばなかった。

       十二

 時を見、程を計って、紫玉は始め、実は法壇に立って、数万の群集を足許(あしもと)に低き波のごとく見下(みおろ)しつつ、昨日(きのう)通った坂にさえ蟻の伝うに似て押覆(おしかえ)す人数(にんず)を望みつつ、徐(おもむろ)に雪の頤(あぎと)に結んだ紫の纓(ひも)を解いて、結目(むすびめ)を胸に、烏帽子を背に掛けた。
 それから伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、……黒髪の颯(さっ)と捌(さば)けたのが烏帽子の金に裏透いて、さながら金屏風(きんびょうぶ)に名誉の絵師の、松風を墨で流したようで、雲も竜もそこから湧くか、と視(なが)められた。――これだけは工夫した女優の所作で、手には白金(プラチナ)が匕首(あいくち)のごとく輝いて、凄艶(せいえん)比類なき風情であった。
 さてその鸚鵡(おうむ)を空に翳(かざ)した。
 紫玉の□(みは)った瞳(め)には、確(たしか)に天際の僻辺(へきへん)に、美女の掌(て)に似た、白山は、白く清く映ったのである。
 毛筋ほどの雲も見えぬ。
 雨乞の雨は、いずれも後刻の事にして、そのまま壇を降(くだ)ったらば無事だったろう。ところが、遠雷の音でも聞かすか、暗転にならなければ、舞台に馴(な)れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前(まのあたり)鯉魚(りぎょ)の神異を見た、怪しき僧の暗示と讖言(しんげん)を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖のように白山の眉に飜るであろうと信じて、しばしを待つ間(ま)を、法壇を二廻り三廻り緋の袴して輪に歩行(ある)いた。が、これは鎮守の神巫(みこ)に似て、しかもなんば、という足どりで、少なからず威厳を損じた。
 群集の思わんほども憚(はばか)られて、腋(わき)の下に衝(つ)と冷き汗を覚えたのこそ、天人の五衰(ごすい)のはじめとも言おう。
 気をかえて屹(きっ)となって、もの忘れした後見(こうけん)に烈(はげ)しくきっかけを渡す状(さま)に、紫玉は虚空に向って伯爵の鸚鵡を投げた。が、あの玩具(おもちゃ)の竹蜻蛉のように、晃々(きらきら)と高く舞った。
「大神楽(だいかぐら)!」
 と喚(わめ)いたのが第一番の半畳で。
 一人口火を切ったから堪らない。練馬大根と言う、おかめと喚く。雲の内侍(ないじ)と呼ぶ、雨しょぼを踊れ、と怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂うごとく、聞くも堪えない讒謗罵詈(ざんぼうばり)は雷(いかずち)のごとく哄(どっ)と沸く。
 鎌倉殿は、船中において嚇怒(かくど)した。愛寵(あいちょう)せる女優のために群集の無礼を憤ったのかと思うと、――そうではない。この、好色の豪族は、疾(はや)く雨乞の験(しるし)なしと見て取ると、日の昨(さく)の、短夜もはや半ばなりし紗(しゃ)の蚊帳(かや)の裡(うち)を想い出した。……
 雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。
「漕(こ)げ。」
 紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。
 一度、駆下りようとした紫玉の緋裳(ひもすそ)は、この船の激しく襲ったために、一度引留められたものである。
「…………」
 と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁(はくちょう)に豆烏帽子で傘(からかさ)を担いだ宮奴(みややっこ)は、島のなる幕の下を這(は)って、ヌイと面(つら)を出した。
 すぐに此奴(こいつ)が法壇へ飛上った、その疾(はや)さ。
 紫玉がもはや、と思い切って池に飛ぼうとする処を、圧(おさ)えて、そして剥(は)いだ。
 女の身としてあらりょうか。
 あの、雪を束(つか)ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あわれな状(さま)は、月を祭る供物に似て、非ず、旱魃(かんばつ)の鬼一口の犠牲(にえ)である。
 ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわっと泣いた。
 赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のずまで引めくったのが、苦り切ったる顔して、つかつかと、階(きざはし)を踏んで上った、金方(きんかた)か何ぞであろう、芝居もので。
 肩をむずと取ると、
「何だ、状(ざま)は。小町や静(しずか)じゃあるめえし、増長しやがるからだ。」
 手の裏かえす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかかる氷のような練絹(ねりぎぬ)の、紫玉のふくよかな胸を、酒焼(さかやけ)の胸に引掴(ひッつか)み、毛脛(けずね)に挟んで、
「立たねえかい。」

       十三

「口惜(くや)しい!」
 紫玉は舷(ふなばた)に縋(すが)って身を震わす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮(すいれん)のごとく漾(ただよ)いつつ。
「口惜しいねえ。」
 車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行(あゆ)みもならず、――金方(きんかた)の計らいで、――万松亭(ばんしょうてい)という汀(みぎわ)なる料理店に、とにかく引籠(ひっこも)る事にした。紫玉はただ引被(ひっかつ)いで打伏した。が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行かくては面白かるまいと、やけ酒を煽(あお)っていたが、酔倒れて、それは寝た。
 料理店の、あの亭主は、心優(やさし)いもので、起居(たちい)にいたわりつ、慰めつ、で、これも注意はしたらしいが、深更のしかも夏の夜(よ)の戸鎖(とざし)浅ければ、伊達巻(だてまき)の跣足(はだし)で忍んで出る隙(すき)は多かった。
 生命(いのち)の惜(おし)からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船(かよいぶね)は、胸の悩みに、身もだえするままに揺動(ゆりうご)いて、萎(しお)れつつ、乱れつつ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかえて、皓々(こうこう)として雫(しずく)する月の露吸う力もない。
「ええ、口惜しい。」
 乱れがみを□(むし)りつつ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間(ま)に痩(や)せた指は細くなって、右の手の四つの指環は明星に擬(なぞら)えた金剛石(ダイヤモンド)のをはじめ、紅玉(ルビイ)も、緑宝玉(エメラルド)も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅(うすくれない)に、浅緑に皆水に落ちた。
 どうでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜(たつ)の口は、水の輪に舞う処である。

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