七宝の柱
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著者名:泉鏡花 

 ふと、高縁(たかえん)の雨落(あまおち)に、同じ花が二、三輪咲いているように見えた。
 扉がギイ、キリキリと……僧の姿は、うらに隠れつつ、見えずに開く。
 ぽかんと立ったのが極(きまり)が悪い。
 ああ、もう彼処(あすこ)から透見(すきみ)をなすった。
 とそう思うほど、真白(ましろ)き面影、天女の姿は、すぐ其処(そこ)に見えさせ給う。
 私は恥じて俯向(うつむ)いた。
「そのままでお宜(よろ)しい。」
 壇は、下駄(げた)のままでと彼(か)の僧が言うのである。
 なかなか。
 足袋(たび)の、そんなに汚れていないのが、まだしもであった。
 蜀紅(しょくこう)の錦(にしき)と言う、天蓋(てんがい)も広くかかって、真黒(まくろ)き御髪(みぐし)の宝釵(ほうさい)の玉一つをも遮(さえぎ)らない、御面影(おんおもかげ)の妙(たえ)なること、御目(おんまな)ざしの美しさ、……申さんは恐多(おそれおお)い。ただ、西の方(かた)遥(はるか)に、山城国(やましろのくに)、浄瑠璃寺(じょうるりでら)、吉祥天(きっしょうてん)のお写真に似させ給う。白理(はくり)、優婉(ゆうえん)、明麗(めいれい)なる、お十八、九ばかりの、略(ほぼ)人(ひと)だけの坐像である。
 ト手をついて対したが、見上ぐる瞳に、御頬(おんほお)のあたり、幽(かすか)に、いまにも莞爾(かんじ)と遊ばしそうで、まざまざとは拝めない。
 私は、端坐して、いにしえの、通夜(つや)と言う事の意味を確(たしか)に知った。
 このままに二時(ふたとき)いたら、微妙な、御声(おこえ)が、あの、お口許(くちもと)の微笑(ほほえみ)から。――
 さて壇を退(しりぞ)きざまに、僧のとざす扉につれて、かしこくもおんなごりさえ惜(おし)まれまいらすようで、涙ぐましくまた額(がく)を仰いだ。御堂そのまま、私は碧瑠璃(へきるり)の牡丹花(ぼたんか)の裡(うち)に入って、また牡丹花の裡から出たようであった。
 花の影が、大(おおき)な蝶(ちょう)のように草に映(さ)した。
 月ある、明(あきらか)なる時、花の朧(おぼろ)なる夕(ゆうべ)、天女が、この縁側(えんがわ)に、ちょっと端居(はしい)の腰を掛けていたまうと、経蔵から、侍士(じし)、童子(どうじ)、払子(ほっす)、錫杖(しゃくじょう)を左右に、赤い獅子に騎(き)して、文珠師利(もんじゅしり)が、悠然と、草をのりながら、
「今晩は――姫君、いかが。」
 などと、お話がありそうである。
 と、麓(ふもと)の牛が白象(びゃくぞう)にかわって、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が、あの山吹のあたりを御散歩。
 まったく、一山(いっさん)の仏たち、大(おおき)な石地蔵(いしじぞう)も凄(すご)いように活きていらるる。
 下向(げこう)の時、あらためて、見霽(みはらし)の四阿(あずまや)に立った。
 伊勢、亀井(かめい)、片岡(かたおか)、鷲尾(わしのお)、四天王の松は、畑中(はたなか)、畝(あぜ)の四処(よところ)に、雲を鎧(よろ)い、□糸(ゆるぎいと)の風を浴びつつ、或(ある)ものは粛々(しゅくしゅく)として衣河(ころもがわ)に枝を聳(そびや)かし、或(ある)ものは恋々(れんれん)として、高館(たかだち)に梢(こずえ)を伏せたのが、彫像の如くに視(なが)めらるる。
 その高館(たかだち)の址(あと)をば静(しずか)にめぐって、北上川の水は、はるばる、瀬もなく、音もなく、雲の涯(はて)さえ見えず、ただ(はるばる)と言うように流るるのである。
 
「この奥に義経公(よしつねこう)。」
 車夫(くるまや)の言葉に、私は一度俥(くるま)を下りた。
 帰途は――今度は高館を左に仰いで、津軽青森まで、遠く続くという、まばらに寂しい松並木の、旧街道を通ったのである。
 松並木の心細さ。
 途中で、都らしい女に逢ったら、私はもう一度車を飛下(とびお)りて、手も背(せな)もかしたであろう。――判官(ほうがん)にあこがるる、静(しずか)の霊を、幻に感じた。
「あれは、鮭(さけ)かい。」
 すれ違って一人、溌剌(はつらつ)[#「剌」は底本では「刺」]たる大魚(おおうお)を提(さ)げて駈通(かけとお)ったものがある。
「鱒(ます)だ、――北上川で取れるでがすよ。」
 ああ、あの川を、はるばると――私は、はじめて一条(ひとすじ)長く細く水の糸を曳(ひ)いて、魚(うお)の背(せ)とともに動く状(さま)を目に宿したのである。
「あれは、はあ、駅長様の許(とこ)へ行(ゆ)くだかな。昨日(きのう)も一尾(いっぴき)上(あが)りました。その鱒は停車場(ていしゃば)前の小河屋(おがわや)で買ったでがすよ。」
「料理屋かね。」
「旅籠屋(はたごや)だ。新築でがしてな、まんずこの辺では彼店(あすこ)だね。まだ、旦那、昨日はその上に、はい鯉(こい)を一尾(いっぴき)買入れたでなあ。」
「其処(そこ)へ、つけておくれ、昼食(ちゅうじき)に……」
 ――この旅籠屋は深切(しんせつ)であった。
「鱒がありますね。」
 と心得たもので、
「照焼(てりやき)にして下さい。それから酒は罎詰(びんづめ)のがあったらもらいたい、なりたけいいのを。」
 束髪(そくはつ)に結(ゆ)った、丸ぽちゃなのが、
「はいはい。」
 と柔順(すなお)だっけ。
 小用(こよう)をたして帰ると、もの陰から、目を円(まる)くして、一大事そうに、
「あの、旦那様。」
「何だい。」
「照焼にせいという、お誂(あつらえ)ですがなあ。」
「ああ。」
「川鱒(かわます)は、塩をつけて焼いた方がおいしいで、そうしては不可(いけ)ないですかな。」
「ああ、結構だよ。」
 やがて、膳に、その塩焼と、別に誂えた玉子焼、青菜のひたし。椀がついて、蓋を取ると鯉汁(こいこく)である。ああ、昨日のだ。これはしかし、活きたのを料(りょう)られると困ると思って、わざと註文はしなかったものである。
 口を溢(こぼ)れそうに、なみなみと二合のお銚子(ちょうし)。
 いい心持(こころもち)の処(ところ)へ、またお銚子が出た。
 喜多八(きたはち)の懐中、これにきたなくもうしろを見せて、
「こいつは余計だっけ。」
「でも、あの、四合罎(しごうびん)一本、よそから取って上げましたので、なあ。」
 私は膝を拍(う)って、感謝した。
「よし、よし、有難(ありがと)う。」
 香(こう)のものがついて、御飯をわざわざ炊(た)いてくれた。
 これで、勘定が――道中記には肝心な処だ――二円八十銭……二人(ににん)分です。
「帳場の、おかみさんに礼を言って下さい。」
 やがて停車場(ステエション)へ出ながら視(み)ると、旅店(はたごや)の裏がすぐ水田(みずた)で、隣(となり)との地境(じざかい)、行抜(ゆきぬ)けの処に、花壇があって、牡丹が咲いた。竹の垣も結(ゆ)わないが、遊んでいた小児(こども)たちも、いたずらはしないと見える。
 ほかにも、商屋(あきないや)に、茶店に、一軒ずつ、庭あり、背戸(せど)あれば牡丹がある。往来(ゆきき)の途中も、皆そうであった。かつ溝川(みぞがわ)にも、井戸端にも、傾いた軒、崩れた壁の小家(こいえ)にさえ、大抵(たいてい)皆、菖蒲(あやめ)、杜若(かきつばた)を植えていた。
 弁財天の御心(みこころ)が、自(おのずか)ら土地にあらわれるのであろう。
 忽(たちま)ち、風暗く、柳が靡(なび)いた。
 停車場(ステエション)へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は雪を散らしそうに寒くなった。一千年のいにしえの古戦場の威力である。天には雲と雲と戦った。




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