天守物語
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著者名:泉鏡花 

――待て、泣くな泣くな。――
工人、近江之丞桃六(おうみのじょうとうろく)、六十(むそ)じばかりの柔和なる老人。頭巾(ずきん)、裁着(たッつけ)、火打袋を腰に、扇を使うて顕(あらわ)る。
桃六 美しい人たち泣くな。(つかつかと寄って獅子の頭(かしら)を撫(な)で)まず、目をあけて進ぜよう。火打袋より一挺(ちょう)の鑿(のみ)を抜き、双の獅子の眼(まなこ)に当(あ)つ。
――夫人、図書とともに、あっと云う――
桃六 どうだ、の、それ、見えよう。はははは、ちゃんと開(あ)いた。嬉しそうに開いた。おお、もう笑うか。誰(た)がよ誰がよ、あっはっはっ。夫人 お爺様(じいさん)。図書 御老人、あなたは。桃六 されば、誰かの櫛(くし)に牡丹(ぼたん)も刻めば、この獅子頭も彫った、近江之丞桃六と云う、丹波(たんば)の国の楊枝削(ようじけずり)よ。夫人 まあ、(図書と身を寄せたる姿を心づぐ)こんな姿を、恥かしい。図書も、ともに母衣(ほろ)を被(かつ)ぎて姿を蔽(おお)う。
桃六 むむ、見える、恥しそうに見える、極(きま)りの悪そうに見える、がやっぱり嬉しそうに見える、はっはっはっはっ。睦(むつま)じいな、若いもの。(石を切って、ほくちをのぞませ、煙管(きせる)を横銜(よこぐわ)えに煙草(たばこ)を、すぱすぱ)気苦労の挙句は休め、安らかに一寝入(ねいり)さっせえ。そのうちに、もそっと、その上にも清(すずし)い目にして進ぜよう。鑿(のみ)を試む。月影さす。
そりゃ光がさす、月の光あれ、眼玉。(鑿を試み、小耳を傾け、鬨(とき)のごとく叫ぶ天守下の声を聞く)
世は戦(いくさ)でも、胡蝶(ちょう)が舞う、撫子(なでしこ)も桔梗(ききょう)も咲くぞ。――馬鹿めが。(呵々(からから)と笑う)ここに獅子がいる。お祭礼(まつり)だと思って騒げ。(鑿を当てつつ)槍、刀、弓矢、鉄砲、城の奴等(やつら)。
――幕――大正六(一九一七)年九月



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