星あかり
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著者名:泉鏡花 

 碧水金砂(へきすいきんさ)、昼の趣(おもむき)とは違って、霊山(りょうぜん)ヶ崎(さき)の突端(とっぱな)と小坪(こつぼ)の浜でおしまわした遠浅(とおあさ)は、暗黒の色を帯び、伊豆の七島も見ゆるという蒼海原(あおうなばら)は、ささ濁(にごり)に濁(にご)って、果(はて)なくおっかぶさったように堆(うずだか)い水面は、おなじ色に空に連(つらな)って居る。浪打際(なみうちぎわ)は綿(わた)をば束(つか)ねたような白い波、波頭(なみがしら)に泡(あわ)を立てて、どうと寄(よ)せては、ざっと、おうように、重々(おもおも)しゅう、飜(ひるがえ)ると、ひたひたと押寄せるが如くに来る。これは、一秒に砂一粒(りゅう)、幾億万年の後(のち)には、この大陸を浸(ひた)し尽そうとする処の水で、いまも、瞬間の後(のち)も、咄嗟(とっさ)のさきも、正(まさ)に然(しか)なすべく働いて居るのであるが、自分は余り大陸の一端が浪のために喰欠(くいか)かれることの疾(はや)いのを、心細く感ずるばかりであった。
 妙長寺に寄宿してから三十日ばかりになるが、先に来た時分とは浜が著(いちじる)しく縮まって居る。町を離れてから浪打際(なみうちぎわ)まで、凡(およ)そ二百歩もあった筈なのが、白砂(しらすな)に足を踏掛(ふみか)けたと思うと、早(は)や爪先(つまさき)が冷(つめた)く浪のさきに触れたので、昼間は鉄の鍋(なべ)で煮上げたような砂が、皆ずぶずぶに濡(ぬ)れて、冷(ひやっ)こく、宛然(さながら)網の下を、水が潜(くぐ)って寄せ来るよう、砂地に立ってても身体(からだ)が揺(ゆら)ぎそうに思われて、不安心でならぬから、浪が襲うとすたすたと後(あと)へ退(の)き、浪が返るとすたすたと前へ進んで、砂の上に唯一人やがて星一つない下に、果のない蒼海(あおうみ)の浪に、あわれ果敢(はかな)い、弱い、力のない、身体単個(ひとつ)弄(もてあそ)ばれて、刎返(はねかえ)されて居るのだ、と心着(こころづ)いて悚然(ぞっ)とした。
 時に大浪が、一(ひと)あて推寄(おしよ)せたのに足を打たれて、気も上(うわ)ずって蹌踉(よろ)けかかった。手が、砂地に引上(ひきあ)げてある難破船の、纔(わず)かにその形を留(とど)めて居る、三十石積(こくづみ)と見覚えのある、その舷(ふなばた)にかかって、五寸釘をヒヤヒヤと掴(つか)んで、また身震(みぶるい)をした。下駄はさっきから砂地を駆(か)ける内に、いつの間にか脱いでしまって、跣足(はだし)である。
 何故(なぜ)かは知らぬが、この船にでも乗って助かろうと、片手を舷に添えて、あわただしく擦上(すりあが)ろうとする、足が砂を離れて空(くう)にかかり、胸が前屈(まえかが)みになって、がっくり俯向(うつむ)いた目に、船底に銀のような水が溜(たま)って居るのを見た。
 思わずあッといって失望した時、轟々(ごうごう)轟(ごう)という波の音。山を覆(くつがえ)したように大畝(おおうねり)が来たとばかりで、――跣足(はだし)で一文字(いちもんじ)に引返(ひきかえ)したが、吐息(といき)もならず――寺の門を入ると、其処(そこ)まで隙間(すきま)もなく追縋(おいすが)った、灰汁(あく)を覆(かえ)したような海は、自分の背(せなか)から放れて去(い)った。
 引き息で飛着(とびつ)いた、本堂の戸を、力まかせにがたひしと開ける、屋根の上で、ガラガラという響(ひびき)、瓦(かわら)が残らず飛上(とびあが)って、舞立(まいた)って、乱合(みだれあ)って、打破(うちやぶ)れた音がしたので、はッと思うと、目が眩(くら)んで、耳が聞えなくなった。が、うッかりした、疲(つか)れ果(は)てた、倒(たお)れそうな自分の体は、……夢中で、色の褪(あ)せた、天井の低い、皺(しわ)だらけな蚊帳(かや)の片隅(かたすみ)を掴(つか)んで、暗くなった灯(ひ)の影に、透(す)かして蚊帳の裡(うち)を覗(のぞ)いた。
 医学生は肌脱(はだぬぎ)で、うつむけに寝て、踏返(ふみかえ)した夜具(やぐ)の上へ、両足を投懸(なげか)けて眠って居る。
 ト枕を並べ、仰向(あおむけ)になり、胸の上に片手を力なく、片手を投出し、足をのばして、口を結んだ顔は、灯の片影(かたかげ)になって、一人すやすやと寝て居るのを、……一目見ると、それは自分であったので、天窓(あたま)から氷を浴びたように筋(すじ)がしまった。
 ひたと冷(つめた)い汗になって、眼を□(みひら)き、殺されるのであろうと思いながら、すかして蚊帳の外を見たが、墓原をさまよって、乱橋から由井ヶ浜をうろついて死にそうになって帰って来た自分の姿は、立って、蚊帳に縋(すが)っては居なかった。
 もののけはいを、夜毎(よごと)の心持(こころもち)で考えると、まだ三時には間(ま)があったので、最(も)う最うあたまがおもいから、そのまま黙って、母上の御名(おんな)を念じた。――人は恁(こ)ういうことから気が違うのであろう。




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