雪霊記事
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著者名:泉鏡花 

「蔦屋(つたや)さんのお孃(ぢやう)さんに、お目(め)にかゝりたくて參(まゐ)りました。」
「米(よね)は私(わたし)でございます。」
 と顏(かほ)を上(あ)げて、清(すゞ)しい目(め)で熟(じつ)と視(み)ました。
 私(わたし)の額(ひたひ)は汗(あせ)ばんだ。――あのいつか額(ひたひ)に置(お)かれた、手(て)の影(かげ)ばかり白(しろ)く映(うつ)る。
「まあ、關(せき)さん。――おとなにお成(な)りなさいました……」
 此(これ)ですもの、可懷(なつかし)さはどんなでせう。
 しかし、こゝで私(わたし)は初戀(はつこひ)、片(かた)おもひ、戀(こひ)の愚癡(ぐち)を言(い)ふのではありません。
 ……此(こ)の凄(すご)い吹雪(ふゞき)の夜(よ)、不思議(ふしぎ)な事(こと)に出(で)あひました、其(そ)のお話(はなし)をするのであります。

        四

 その時(とき)は、四疊半(かこひ)ではありません。が、爐(ろ)を切(き)つた茶(ちや)の室(ま)に通(とほ)されました。
 時(とき)に、先客(せんきやく)が一人(ひとり)ありまして爐(ろ)の右(みぎ)に居(ゐ)ました。氣高(けだか)いばかり品(ひん)のいゝ年(とし)とつた尼(あま)さんです。失禮(しつれい)ながら、此(こ)の先客(せんきやく)は邪魔(じやま)でした。それがために、いとゞ拙(つたな)い口(くち)の、千(せん)の一(ひと)つも、何(なん)にも、ものが言(い)はれなかつたのであります。
「貴女(あなた)は煙草(たばこ)をあがりますか。」
 私(わたし)はお米(よね)さんが、其(そ)の筒袖(こひぐち)の優(やさ)しい手(て)で、煙管(きせる)を持(も)つのを視(み)て然(さ)う言(い)ひました。
 お米(よね)さんは、控(ひか)へて一寸(ちよつと)俯向(うつむ)きました。
「何事(なにごと)もわすれ草(ぐさ)と申(まを)しますな。」
 と尼(あま)さんが、能(のう)の面(めん)がものを言(い)ふやうに言(い)ひました。
「關(せき)さんは、今年(ことし)三十五にお成(な)りですか。」
 とお米(よね)さんが先(さき)へ數(かぞ)へて、私(わたし)の年(とし)を訊(たづ)ねました。
「三碧(さんぺき)なう。」
 と尼(あま)さんが言(い)ひました。
「貴女(あなた)は?」
「私(わたし)は一(ひと)つ上(うへ)……」
「四緑(しろく)なう。」
 と尼(あま)さんが又(また)言(い)ひました。
 ――略(りやく)して申(まを)すのですが、其處(そこ)へ案内(あんない)もなく、づか/\と入(はひ)つて來(き)て、立状(たちざま)に一寸(ちよつと)私(わたし)を尻目(しりめ)にかけて、爐(ろ)の左(ひだり)の座(ざ)についた一人(にん)があります――山伏(やまぶし)か、隱者(いんじや)か、と思(おも)ふ風采(ふうさい)で、ものの鷹揚(おうやう)な、惡(わる)く言(い)へば傲慢(がうまん)な、下手(へた)が畫(ゑ)に描(か)いた、奧州(あうしう)めぐりの水戸(みと)の黄門(くわうもん)と言(い)つた、鼻(はな)の隆(たか)い、髯(ひげ)の白(しろ)い、早(は)や七十ばかりの老人(らうじん)でした。
「此(これ)は關(せき)さんか。」
 と、いきなり言(い)ひます。私(わたし)は吃驚(びつくり)しました。
 お米(よね)さんが、しなよく頷(うなづ)きますと、
「左樣(さやう)か。」
 と言(い)つて、此(これ)から滔々(たふ/\)と辯(べん)じ出(だ)した。其(そ)の辯(べん)ずるのが都會(とくわい)に於(お)ける私(わたし)ども、なかま、なかまと申(まを)して私(わたし)などは、ものの數(かず)でもないのですが、立派(りつぱ)な、畫(ゑ)の畫伯方(せんせいがた)の名(な)を呼(よ)んで、片端(かたつぱし)から、奴(やつ)がと苦(にが)り、彼(あれ)め、と蔑(さげす)み、小僧(こぞう)、と呵々(から/\)と笑(わら)ひます。
 私(わたし)は五六尺(しやく)飛退(とびさが)つて叩頭(おじぎ)をしました。
「汽車(きしや)の時間(じかん)がございますから。」
 お米(よね)さんが、送(おく)つて出(で)ました。花菜(はなな)の中(なか)を半(なかば)の時(とき)、私(わたし)は香(か)に咽(むせ)んで、涙(なみだ)ぐんだ聲(こゑ)して、
「お寂(さび)しくおいでなさいませう。」
 と精一杯(せいいつぱい)に言(い)つたのです。
「いゝえ、兄(あに)が一緒(いつしよ)ですから……でも大雪(おほゆき)の夜(よ)なぞは、町(まち)から道(みち)が絶(た)えますと、こゝに私(わたし)一人(ひとり)きりで、五日(いつか)も六日(むいか)も暮(くら)しますよ。」
 とほろりとしました。
「其(そ)のかはり夏(なつ)は涼(すゞ)しうございます。避暑(ひしよ)に行(い)らつしやい……お宿(やど)をしますよ。……其(そ)の時分(じぶん)には、降(ふ)るやうに螢(ほたる)が飛(と)んで、此(こ)の水(みづ)には菖蒲(あやめ)が咲(さ)きます。」

 夜汽車(よぎしや)の火(ひ)の粉(こ)が、木(き)の芽峠(めたうげ)を螢(ほたる)に飛(と)んで、窓(まど)には其(そ)の菖蒲(あやめ)が咲(さ)いたのです――夢(ゆめ)のやうです。………あの老尼(らうに)は、お米(よね)さんの守護神(まもりがみ)――はてな、老人(らうじん)は、――知事(ちじ)の怨靈(をんりやう)ではなかつたか。
 そんな事(こと)まで思(おも)ひました。
 圓髷(まるまげ)に結(ゆ)つて、筒袖(こひぐち)を着(き)た人(ひと)を、しかし、其(その)二人(ふたり)は却(かへ)つて、お米(よね)さんを祕密(ひみつ)の霞(かすみ)に包(つゝ)みました。
 三十路(みそぢ)を越(こ)えても、窶(やつ)れても、今(いま)も其(その)美(うつく)しさ。片田舍(かたゐなか)の虎杖(いたどり)になぞ世(よ)にある人(ひと)とは思(おも)はれません。
 ために、音信(おとづれ)を怠(おこた)りました。夢(ゆめ)に所(ところ)がきをするやうですから。……とは言(い)へ、一(ひと)つは、日(ひ)に増(ま)し、不思議(ふしぎ)に色(いろ)の濃(こ)く成(な)る爐(ろ)の右左(みぎひだり)の人(ひと)を憚(はゞか)つたのであります。
 音信(おとづれ)して、恩人(おんじん)に禮(れい)をいたすのに仔細(しさい)はない筈(はず)。雖然(けれども)、下世話(げせわ)にさへ言(い)ひます。慈悲(じひ)すれば、何(なん)とかする。……で、恩人(おんじん)と言(い)ふ、其(そ)の恩(おん)に乘(じやう)じ、情(なさけ)に附入(つけい)るやうな、賤(いや)しい、淺(あさ)ましい、卑劣(ひれつ)な、下司(げす)な、無禮(ぶれい)な思(おも)ひが、何(ど)うしても心(こゝろ)を離(はな)れないものですから、ひとり、自(みづか)ら憚(はゞか)られたのでありました。
 私(わたし)は今(いま)、其處(そこ)へ――

        五

「あゝ、彼處(あすこ)が鎭守(ちんじゆ)だ――」
 吹雪(ふゞき)の中(なか)の、雪道(ゆきみち)に、白(しろ)く續(つゞ)いた其(そ)の宮(みや)を、さながら峰(みね)に築(きづ)いたやうに、高(たか)く朦朧(もうろう)と仰(あふ)ぎました。
「さあ、一息(ひといき)。」
 が、其(そ)の息(いき)が吐(つ)けません。
 眞俯向(まうつむ)けに行(ゆ)く重(おも)い風(かぜ)の中(なか)を、背後(うしろ)からスツと輕(かる)く襲(おそ)つて、裾(すそ)、頭(かしら)をどツと可恐(おそろし)いものが引包(ひきつゝ)むと思(おも)ふと、ハツとひき息(いき)に成(な)る時(とき)、さつと拔(ぬ)けて、目(め)の前(まへ)へ眞白(まつしろ)な大(おほき)な輪(わ)の影(かげ)が顯(あらは)れます。とくる/\と□(まは)るのです。□(まは)りながら輪(わ)を卷(ま)いて、卷(ま)き/\卷込(まきこ)めると見(み)ると、忽(たちま)ち凄(すさま)じい渦(うづ)に成(な)つて、ひゆうと鳴(な)りながら、舞上(まひあが)つて飛(と)んで行(ゆ)く。……行(ゆ)くと否(いな)や、續(つゞ)いて背後(うしろ)から卷(ま)いて來(き)ます。それが次第(しだい)に激(はげ)しく成(な)つて、六(む)ツ四(よ)ツ數(かぞ)へて七(なゝ)ツ八(や)ツ、身體(からだ)の前後(ぜんご)に列(れつ)を作(つく)つて、卷(ま)いては飛(と)び、卷(ま)いては飛(と)びます。巖(いは)にも山(やま)にも碎(くだ)けないで、皆(みな)北海(ほくかい)の荒波(あらなみ)の上(うへ)へ馳(はし)るのです。――最(も)う此(こ)の渦(うづ)がこんなに捲(ま)くやうに成(な)りましては堪(た)へられません。此(こ)の渦(うづ)の湧立(わきた)つ處(ところ)は、其(そ)の跡(あと)が穴(あな)に成(な)つて、其處(そこ)から雪(ゆき)の柱(はしら)、雪(ゆき)の人(ひと)、雪女(ゆきをんな)、雪坊主(ゆきばうず)、怪(あや)しい形(かたち)がぼツと立(た)ちます。立(た)つて倒(たふ)れるのが、其(その)まゝ雪(ゆき)の丘(をか)のやうに成(な)る……其(それ)が、右(みぎ)に成(な)り、左(ひだり)に成(な)り、横(よこ)に積(つも)り、縱(たて)に敷(し)きます。其(そ)の行(ゆ)く處(ところ)、飛(と)ぶ處(ところ)へ、人(ひと)のからだを持(も)つて行(い)つて、仰向(あをむ)けにも、俯向(うつむか)せにもたゝきつけるのです。
 ――雪難之碑(せつなんのひ)。――峰(みね)の尖(とが)つたやうな、其處(そこ)の大木(たいぼく)の杉(すぎ)の梢(こずゑ)を、睫毛(まつげ)にのせて倒(たふ)れました。私(わたし)は雪(ゆき)に埋(うも)れて行(ゆ)く………身動(みうご)きも出來(でき)ません。くひしばつても、閉(と)ぢても、目口(めくち)に浸(し)む粉雪(こゆき)を、しかし紫陽花(あぢさゐ)の青(あを)い花片(はなびら)を吸(す)ふやうに思(おも)ひました。
 ――「菖蒲(あやめ)が咲(さ)きます。」――
 螢(ほたる)が飛(と)ぶ。
 私(わたし)はお米(よね)さんの、清(きよ)く暖(あたゝか)き膚(はだ)を思(おも)ひながら、雪(ゆき)にむせんで叫(さけ)びました。
「魔(ま)が妨(さまた)げる、天狗(てんぐ)の業(わざ)だ――あの、尼(あま)さんか、怪(あや)しい隱士(いんし)か。」




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