人魚の祠
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著者名:泉鏡花 URL:../../index_pages/person886

        四

「私(わたし)の目(め)か眩(くら)んだんでせうか、婦(をんな)は瞬(またゝき)をしません。五分(ふん)か一時(いつとき)と、此方(こつち)が呼吸(いき)をも詰(つ)めて見(み)ます間(あひだ)――で、餘(あま)り調(そろ)つた顏容(かほだち)といひ、果(はた)して此(これ)は白像彩塑(はくざうさいそ)で、何(ど)う云(い)ふ事(こと)か、仔細(しさい)あつて、此(こ)の廟(べう)の本尊(ほんぞん)なのであらう、と思(おも)つたのです。
 床(ゆか)の下(した)……板縁(いたえん)の裏(うら)の處(ところ)で、がさ/\がさ/\と音(おと)が發出(しだ)した……彼方(あつち)へ、此方(こつち)へ、鼠(ねずみ)が、ものでも引摺(ひきず)るやうで、床(ゆか)へ響(ひゞ)く、と其(そ)の音(おと)が、變(へん)に、恁(か)う上(うへ)に立(た)つてる私(わたし)の足(あし)の裏(うら)を擽(くすぐ)ると云(い)つた形(かたち)で、むづ痒(がゆ)くつて堪(たま)らないので、もさ/\身體(からだ)を搖(ゆす)りました。――本尊(ほんぞん)は、まだ瞬(またゝき)もしなかつた。――其(そ)の内(うち)に、右(みぎ)の音(おと)が、壁(かべ)でも攀(よ)ぢるか、這上(はひあが)つたらしく思(おも)ふと、寢臺(ねだい)の脚(あし)の片隅(かたすみ)に羽目(はめ)の破(やぶ)れた處(ところ)がある。其(そ)の透間(すきま)へ鼬(いたち)がちよろりと覗(のぞ)くやうに、茶色(ちやいろ)の偏平(ひらつた)い顏(つら)を出(だ)したと窺(うかゞ)はれるのが、もぞり、がさりと少(すこ)しづゝ入(はひ)つて、ばさ/\と出(で)る、と大(おほ)きさやがて三俵法師(さんだらぼふし)、形(かたち)も似(に)たもの、毛(け)だらけの凝團(かたまり)、足(あし)も、顏(かほ)も有(あ)るのぢやない。成程(なるほど)、鼠(ねずみ)でも中(なか)に潛(もぐ)つて居(ゐ)るのでせう。
 其奴(そいつ)が、がさ/\と寢臺(ねだい)の下(した)へ入(はひ)つて、床(ゆか)の上(うへ)をずる/\と引摺(ひきず)つたと見(み)ると、婦(をんな)が掻卷(かいまき)から二(に)の腕(うで)を白(しろ)く拔(ぬ)いて、私(わたし)の居(ゐ)る方(はう)へぐたりと投(な)げた。寢亂(ねみだ)れて乳(ちゝ)も見(み)える。其(それ)を片手(かたて)で祕(かく)したけれども、足(あし)のあたりを震(ふる)はすと、あゝ、と云(い)つて其(そ)の手(て)も兩方(りやうはう)、空(くう)を掴(つか)むと裙(すそ)を上(あ)げて、弓形(ゆみなり)に身(み)を反(そ)らして、掻卷(かいまき)を蹴(け)て、轉(ころ)がるやうに衾(ふすま)を拔(ぬ)けた。……
 私(わたし)は飛出(とびだ)した……
 壇(だん)を落(お)ちるやうに下(お)りた時(とき)、黒(くろ)い狐格子(きつねがうし)を背後(うしろ)にして、婦(をんな)は斜違(はすつかひ)に其處(そこ)に立(た)つたが、呀(あ)、足許(あしもと)に、早(は)やあの毛(け)むくぢやらの三俵法師(さんだらぼふし)だ。
 白(しろ)い踵(くびす)を揚(あ)げました、階段(かいだん)を辷(すべ)り下(お)りる、と、後(あと)から、ころ/\と轉(ころ)げて附着(くツつ)く。さあ、それからは、宛然(さながら)人魂(ひとだま)の憑(つき)ものがしたやうに、毛(け)が赫(かつ)と赤(あか)く成(な)つて、草(くさ)の中(なか)を彼方(あつち)へ、此方(こつち)へ、たゞ、伊達卷(だてまき)で身(み)についたばかりのしどけない媚(なまめ)かしい寢着(ねまき)の婦(をんな)を追□(おひまは)す。婦(をんな)はあとびつしやりをする、脊筋(せすぢ)を捩(よぢ)らす。三俵法師(さんだらぼふし)は、裳(もすそ)にまつはる、踵(かゝと)を嘗(な)める、刎上(はねあが)る、身震(みぶるひ)する。
 やがて、沼(ぬま)の縁(ふち)へ追迫(おひせま)られる、と足(あし)の甲(かふ)へ這上(はひあが)る三俵法師(さんだらぼふし)に、わな/\身悶(みもだえ)する白(しろ)い足(あし)が、あの、釣竿(つりざを)を持(も)つた三人(にん)の手(て)のやうに、ちら/\と宙(ちう)に浮(う)いたが、するりと音(おと)して、帶(おび)が辷(すべ)ると、衣(き)ものが脱(ぬ)げて草(くさ)に落(お)ちた。
「沈(しづ)んだ船(ふね)――」と、思(おも)はず私(わたし)が聲(こゑ)を掛(か)けた。隙(ひま)も無(な)しに、陰氣(いんき)な水音(みづおと)が、だぶん、と響(ひゞ)いた……
 しかし、綺麗(きれい)に泳(およ)いで行(ゆ)く。美(うつくし)い肉(にく)の脊筋(せすぢ)を掛(か)けて左右(さいう)へ開(ひら)く水(みづ)の姿(すがた)は、輕(かる)い羅(うすもの)を捌(さば)くやうです。其(そ)の膚(はだ)の白(しろ)い事(こと)、あの合歡花(ねむのはな)をぼかした色(いろ)なのは、豫(かね)て此(こ)の時(とき)のために用意(ようい)されたのかと思(おも)ふほどでした。
 動止(うごきや)んだ赤茶(あかちや)けた三俵法師(さんだらぼふし)が、私(わたし)の目(め)の前(まへ)に、惰力(だりよく)で、毛筋(けすぢ)を、ざわ/\とざわつかせて、うツぷうツぷ喘(あへ)いで居(ゐ)る。
 見(み)ると驚(おどろ)いた。ものは棕櫚(しゆろ)の毛(け)を引束(ひツつか)ねたに相違(さうゐ)はありません。が、人(ひと)が寄(よ)る途端(とたん)に、ぱちぱち豆(まめ)を燒(や)く音(おと)がして、ばら/\と飛着(とびつ)いた、棕櫚(しゆろ)の赤(あか)いのは、幾千萬(いくせんまん)とも數(かず)の知(し)れない蚤(のみ)の集團(かたまり)であつたのです。
 早(は)や、兩脚(りやうあし)が、むづ/\、脊筋(せすぢ)がぴち/\、頸首(えりくび)へぴちんと來(く)る、私(わたし)は七顛八倒(しつてんはつたう)して身體(からだ)を振(ふ)つて振飛(ふりと)ばした。
 唯(と)、何(なん)と、其(そ)の棕櫚(しゆろ)の毛(け)の蚤(のみ)の巣(す)の處(ところ)に、一人(ひとり)、頭(づ)の小(ちひ)さい、眦(めじり)と頬(ほゝ)の垂下(たれさが)つた、青膨(あをぶく)れの、土袋(どぶつ)で、肥張(でつぷり)な五十(ごじふ)恰好(かつかう)の、頤鬚(あごひげ)を生(はや)した、漢(をとこ)が立(た)つて居(ゐ)るぢやありませんか。何(なに)ものとも知(し)れない。越中褌(ゑつちうふんどし)と云(い)ふ……あいつ一(ひと)つで、眞裸(まつぱだか)で汚(きたな)い尻(けつ)です。
 婦(をんな)は沼(ぬま)の洲(す)へ泳(およ)ぎ着(つ)いて、卯(う)の花(はな)の茂(しげり)にかくれました。
 が、其(そ)の姿(すがた)が、水(みづ)に流(なが)れて、柳(やなぎ)を翠(みどり)の姿見(すがたみ)にして、ぽつと映(うつ)つたやうに、人(ひと)の影(かげ)らしいものが、水(みづ)の向(むか)うに、岸(きし)の其(そ)の柳(やなぎ)の根(ね)に薄墨色(うすずみいろ)に立(た)つて居(ゐ)る……或(あるひ)は又(また)……此處(こゝ)の土袋(どぶつ)と同一(おなじ)やうな男(をとこ)が、其處(そこ)へも出(で)て來(き)て、白身(はくしん)の婦人(をんな)を見(み)て居(ゐ)るのかも知(し)れません。
 私(わたし)も其(そ)の一人(ひとり)でせうね……
(や、待(ま)てい。)
 青膨(あをぶく)れが、痰(たん)の搦(から)んだ、ぶやけた聲(こゑ)して、早(は)や行掛(ゆきかゝ)つた私(わたし)を留(と)めた……
(見(み)て貰(もれ)えたいものがあるで、最(も)う直(ぢき)ぢやぞ。)と、首(くび)をぐたりと遣(や)りながら、横柄(わうへい)に言(い)ふ。……何(なん)と、其(そ)の兩足(りやうあし)から、下腹(したばら)へ掛(か)けて、棕櫚(しゆろ)の毛(け)の蚤(のみ)が、うよ/\ぞろ/\……赤蟻(あかあり)の列(れつ)を造(つく)つてる……私(わたし)は立窘(たちすく)みました。
 ひら/\、と夕空(ゆふぞら)の雲(くも)を泳(およ)ぐやうに柳(やなぎ)の根(ね)から舞上(まひあが)つた、あゝ、其(それ)は五位鷺(ごゐさぎ)です。中島(なかじま)の上(うへ)へ舞上(まひあが)つた、と見(み)ると輪(わ)を掛(か)けて颯(さつ)と落(おと)した。
(ひい。)と引(ひ)く婦(をんな)の聲(こゑ)。鷺(さぎ)は舞上(まひあが)りました。翼(つばさ)の風(かぜ)に、卯(う)の花(はな)のさら/\と亂(みだ)るゝのが、婦(をんな)が手足(てあし)を畝(うね)らして、身(み)を□(もが)くに宛然(さながら)である。
 今(いま)考(かんが)へると、それが矢張(やつぱ)り、あの先刻(さつき)の樹(き)だつたかも知(し)れません。同(おな)じ薫(かをり)が風(かぜ)のやうに吹亂(ふきみだ)れた花(はな)の中(なか)へ、雪(ゆき)の姿(すがた)が素直(まつすぐ)に立(た)つた。が、滑(なめら)かな胸(むね)の衝(つ)と張(は)る乳(ちゝ)の下(した)に、星(ほし)の血(ち)なるが如(ごと)き一雫(ひとしづく)の鮮紅(からくれなゐ)。絲(いと)を亂(みだ)して、卯(う)の花(はな)が眞赤(まつか)に散(ち)る、と其(そ)の淡紅(うすべに)の波(なみ)の中(なか)へ、白(しろ)く眞倒(まつさかさま)に成(な)つて沼(ぬま)に沈(しづ)んだ。汀(みぎは)を廣(ひろ)くするらしい寂(しづ)かな水(みづ)の輪(わ)が浮(う)いて、血汐(ちしほ)の綿(わた)がすら/\と碧(みどり)を曳(ひ)いて漾(たゞよ)ひ流(なが)れる……
(あれを見(み)い、血(ち)の形(かたち)が字(じ)ぢやらうが、何(なん)と讀(よ)むかい。)
 ――私(わたし)が息(いき)を切(き)つて、頭(かぶり)を掉(ふ)ると、
(分(わか)らんかい、白痴(たはけ)めが。)と、ドンと胸(むね)を突(つ)いて、突倒(つきたふ)す。重(おも)い力(ちから)は、磐石(ばんじやく)であつた。
(又(また)……遣直(やりなほ)しぢや。)と呟(つぶや)きながら、其(そ)の蚤(のみ)の巣(す)をぶら下(さ)げると、私(わたし)が茫然(ばうぜん)とした間(あひだ)に、のそのそ、と越中褌(ゑつちうふんどし)の灸(きう)のあとの有(あ)る尻(しり)を見(み)せて、そして、やがて、及腰(およびごし)の祠(ほこら)の狐格子(きつねがうし)を覗(のぞ)くのが見(み)えた。
(奧(おく)さんや、奧(おく)さんや――蚤(のみ)が、蚤(のみ)が――)
 と腹(はら)をだぶ/\、身悶(みもだ)えをしつゝ、後退(あとじさ)りに成(な)つた。唯(と)、どしん、と尻餅(しりもち)をついた。が、其(そ)の頭(あたま)へ、棕櫚(しゆろ)の毛(け)をずぼりと被(かぶ)る、と梟(ふくろふ)が化(ば)けたやうな形(かたち)に成(な)つて、其(そ)のまゝ、べた/\と草(くさ)を這(は)つて、縁(えん)の下(した)へ這込(はひこ)んだ。――
 蝙蝠傘(かうもりがさ)を杖(つゑ)にして、私(わたし)がひよろ/\として立去(たちさ)る時(とき)、沼(ぬま)は暗(くら)うございました。そして生(なま)ぬるい雨(あめ)が降出(ふりだ)した……
(奧(おく)さんや、奧(おく)さんや。)
 と云(い)つたが、其(そ)の土袋(どぶつ)の細君(さいくん)ださうです。土地(とち)の豪農(がうのう)何某(なにがし)が、内證(ないしよう)の逼迫(ひつぱく)した華族(くわぞく)の令孃(れいぢやう)を金子(かね)にかへて娶(めと)つたと言(い)ひます。御殿(ごてん)づくりでかしづいた、が、其(そ)の姫君(ひめぎみ)は可恐(おそろし)い蚤(のみ)嫌(ぎら)ひで、唯(たゞ)一匹(ぴき)にも、夜(よる)も晝(ひる)も悲鳴(ひめい)を上(あ)げる。其(そ)の悲(かな)しさに、別室(べつしつ)の閨(ねや)を造(つく)つて防(ふせ)いだけれども、防(ふせ)ぎ切(き)れない。で、果(はて)は亭主(ていしゆ)が、蚤(のみ)を除(よ)けるための蚤(のみ)の巣(す)に成(な)つて、棕櫚(しゆろ)の毛(け)を全身(ぜんしん)に纏(まと)つて、素裸(すつぱだか)で、寢室(しんしつ)の縁(えん)の下(した)へ潛(もぐ)り潛(もぐ)り、一夏(ひとなつ)のうちに狂死(くるひじに)をした。――
(まだ、迷(まよ)つて居(ゐ)さつしやるかなう、二人(ふたり)とも――旅(たび)の人(ひと)がの、あの忘(わす)れ沼(ぬま)では、同(おな)じ事(こと)を度々(たび/\)見(み)ます。)
 旅籠屋(はたごや)での談話(はなし)であつた。」
 工學士(こうがくし)は附(つ)けたして、
「……祠(ほこら)の其(そ)の縁(えん)の下(した)を見(み)ましたがね、……御存(ごぞん)じですか……異類(いるゐ)異形(いぎやう)な石(いし)がね。」
 日(ひ)を經(へ)て工學士(こうがくし)から音信(おとづれ)して、あれは、乳香(にうかう)の樹(き)であらうと言(い)ふ。




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