蛇くひ
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:泉鏡花 URL:../../index_pages/person886

 西(にし)は神通川(じんつうがは)の堤防(ていばう)を以(もつ)て劃(かぎり)とし、東(ひがし)は町盡(まちはづれ)の樹林(じゆりん)境(さかひ)を爲(な)し、南(みなみ)は海(うみ)に到(いた)りて盡(つ)き、北(きた)は立山(りふざん)の麓(ふもと)に終(をは)る。此間(このあひだ)十里(り)見通(みとほ)しの原野(げんや)にして、山水(さんすゐ)の佳景(かけい)いふべからず。其(その)川(かは)幅(はゞ)最(もつと)も廣(ひろ)く、町(まち)に最(もつと)も近(ちか)く、野(の)の稍(やゝ)狹(せま)き處(ところ)を郷(がう)屋敷田畝(やしきたんぼ)と稱(とな)へて、雲雀(ひばり)の巣獵(すあさり)、野草(のぐさ)摘(つみ)に妙(めう)なり。
 此處(こゝ)往時(むかし)北越(ほくゑつ)名代(なだい)の健兒(けんじ)、佐々(さつさ)成政(なりまさ)の別業(べつげふ)の舊跡(あと)にして、今(いま)も殘(のこ)れる築山(つきやま)は小富士(こふじ)と呼(よ)びぬ。
 傍(かたへ)に一本(ぽん)、榎(えのき)を植(う)ゆ、年經(としふ)る大樹(たいじゆ)鬱蒼(うつさう)と繁茂(しげ)りて、晝(ひる)も梟(ふくろふ)の威(ゐ)を扶(たす)けて鴉(からす)に塒(ねぐら)を貸(か)さず、夜陰(やいん)人(ひと)靜(しづ)まりて一陣(いちぢん)の風(かぜ)枝(えだ)を拂(はら)へば、愁然(しうぜん)たる聲(こゑ)ありておうおうと唸(うめ)くが如(ごと)し。
 されば爰(こゝ)に忌(い)むべく恐(おそ)るべきを(おう)に譬(たと)へて、假(かり)に(應(おう))といへる一種(いつしゆ)異樣(いやう)の乞食(こつじき)ありて、郷(がう)屋敷田畝(やしきたんぼ)を徘徊(はいくわい)す。驚破(すは)「應(おう)」來(きた)れりと叫(さけ)ぶ時(とき)は、幼童(えうどう)婦女子(ふぢよし)は遁隱(にげかく)れ、孩兒(がいじ)も怖(おそ)れて夜泣(よなき)を止(とゞ)む。
「應(おう)」は普通(ふつう)の乞食(こつじき)と齊(ひと)しく、見(み)る影(かげ)もなき貧民(ひんみん)なり。頭髮(とうはつ)は婦人(をんな)のごとく長(なが)く伸(の)びたるを結(むす)ばず、肩(かた)より垂(た)れて踵(かゝと)に到(いた)る。跣足(せんそく)にて行歩(かうほ)甚(はなは)だ健(けん)なり。容顏(ようがん)隱險(いんけん)の氣(き)を帶(お)び、耳(みゝ)敏(さと)く、氣(き)鋭(するど)し。各自(おの/\)一條(でう)の杖(つゑ)を携(たづさ)へ、續々(ぞく/\)市街(しがい)に入込(いりこ)みて、軒毎(のきごと)に食(しよく)を求(もと)め、與(あた)へざれば敢(あへ)て去(さ)らず。
 初(はじ)めは人皆(ひとみな)懊惱(うるさゝ)に堪(た)へずして、渠等(かれら)を罵(のゝし)り懲(こ)らせしに、爭(あらそ)はずして一旦(いつたん)は去(さ)れども、翌日(よくじつ)驚(おどろ)く可(べ)き報怨(しかへし)を蒙(かうむ)りてより後(のち)は、見(み)す/\米錢(べいせん)を奪(うば)はれけり。
 渠等(かれら)は己(おのれ)を拒(こば)みたる者(もの)の店前(みせさき)に集(あつま)り、或(あるひ)は戸口(とぐち)に立並(たちなら)び、御繁昌(ごはんじやう)の旦那(だんな)吝(けち)にして食(しよく)を與(あた)へず、餓(う)ゑて食(くら)ふものの何(なに)なるかを見(み)よ、と叫(さけ)びて、袂(たもと)を深(さ)ぐれば畝々(うね/\)と這出(はひい)づる蛇(くちなは)を掴(つか)みて、引斷(ひきちぎ)りては舌鼓(したうち)して咀嚼(そしやく)し、疊(たゝみ)とも言(い)はず、敷居(しきゐ)ともいはず、吐出(はきいだ)しては舐(ねぶ)る態(さま)は、ちらと見(み)るだに嘔吐(おうど)を催(もよほ)し、心弱(こゝろよわ)き婦女子(ふぢよし)は後三日(のちみつか)の食(しよく)を廢(はい)して、病(やまひ)を得(え)ざるは寡(すく)なし。
 凡(およ)そ幾百戸(いくひやくこ)の富家(ふか)、豪商(がうしやう)、一度(ど)づゝ、此(この)復讐(しかへし)に遭(あ)はざるはなかりし。渠等(かれら)の無頼(ぶらい)なる幾度(いくたび)も此(この)擧動(きよどう)を繰返(くりかへ)すに憚(はゞか)る者(もの)ならねど、衆(ひと)は其(その)乞(こ)ふが隨意(まゝ)に若干(じやくかん)の物品(もの)を投(とう)じて、其(その)惡戲(あくぎ)を演(えん)ぜざらむことを謝(しや)するを以(も)て、蛇食(へびくひ)の藝(げい)は暫時(ざんじ)休憩(きうけい)を呟(つぶや)きぬ。
 渠等(かれら)米錢(べいせん)を惠(めぐ)まるゝ時(とき)は、「お月樣(つきさま)幾(いく)つ」と一齊(いつせい)に叫(さけ)び連(つ)れ、後(あと)をも見(み)ずして走(はし)り去(さ)るなり。ただ貧家(ひんか)を訪(と)ふことなし。去(さ)りながら外面(おもて)に窮乏(きうばふ)を粧(よそほ)ひ、嚢中(なうちう)却(かへつ)て温(あたゝか)なる連中(れんぢう)には、頭(あたま)から此(この)一藝(いちげい)を演(えん)じて、其家(そこ)の女房(にようばう)娘等(むすめら)が色(いろ)を變(へん)ずるにあらざれば、決(けつ)して止(や)むることなし。法(はふ)はいまだ一個人(いつこじん)の食物(しよくもつ)に干渉(かんせふ)せざる以上(いじやう)は、警吏(けいり)も施(ほどこ)すべき手段(しゆだん)なきを如何(いかん)せむ。
 蝗(いなご)、蛭(ひる)、蛙(かへる)、蜥蜴(とかげ)の如(ごど)きは、最(もつと)も喜(よろこ)びて食(しよく)する物(もの)とす。語(ご)を寄(よ)す(應(おう))よ、願(ねが)はくはせめて糞汁(ふんじふ)を啜(すゝ)ることを休(や)めよ。もし之(これ)を味噌汁(みそしる)と洒落(しやれ)て用(もち)ゐらるゝに至(いた)らば、十萬石(まんごく)の稻(いね)は恐(おそ)らく立處(たちどころ)に枯(か)れむ。
 最(もつと)も饗膳(きやうぜん)なりとて珍重(ちんちよう)するは、長蟲(ながむし)の茹初(ゆでたて)なり。蛇(くちなは)[#ルビの「くちなは」は底本では「くちはな」]の料理(れうり)鹽梅(あんばい)を潛(ひそ)かに見(み)たる人(ひと)の語(かた)りけるは、(應(おう))が常住(じやうぢう)の居所(ゐどころ)なる、屋根(やね)なき褥(しとね)なき郷(がう)屋敷田畝(やしきたんぼ)の眞中(まんなか)に、銅(あかゞね)にて鑄(い)たる鼎(かなへ)(に類(るゐ)す)を裾(す)ゑ、先(ま)づ河水(かはみづ)を汲(く)み入(い)るゝこと八分目(はちぶんめ)餘(よ)、用意(ようい)了(をは)れば直(たゞ)ちに走(はし)りて、一本榎(いつぽんえのき)の洞(うろ)より數十條(すうじふでう)の蛇(くちなは)を捕(とら)へ來(きた)り、投込(なげこ)むと同時(どうじ)に目(め)の緻密(こまか)なる笊(ざる)を蓋(おほ)ひ、上(うへ)には犇(ひし)と大石(たいせき)を置(お)き、枯草(こさう)を燻(ふす)べて、下(した)より爆※(ぱツ/\)[#「火+發」、110-5]と火(ひ)を焚(た)けば、長蟲(ながむし)は苦悶(くもん)に堪(た)へず蜒轉□(のたうちまは)り、遁(のが)れ出(い)でんと吐(は)き出(いだ)す纖舌(せんぜつ)炎(ほのほ)より紅(あか)く、笊(ざる)の目(め)より突出(つきいだ)す頭(かしら)を握(にぎ)り持(も)ちてぐツと引(ひ)けば、脊骨(せぼね)は頭(かしら)に附(つ)きたるまゝ、外(そと)へ拔出(ぬけい)づるを棄(す)てて、屍(しかばね)傍(かたへ)に堆(うづたか)く、湯(ゆ)の中(なか)に煮(に)えたる肉(にく)をむしや――むしや喰(く)らへる樣(さま)は、身(み)の毛(け)も戰悚(よだ)つばかりなりと。
(應(おう))とは殘忍(ざんにん)なる乞丐(きつかい)の聚合(しうがふ)せる一團體(いちだんたい)の名(な)なることは、此一(このいち)を推(お)しても知(し)る可(べ)きのみ。生(い)ける犬(いぬ)を屠(ほふ)りて鮮血(せんけつ)を啜(すゝ)ること、美(うつく)しく咲(さ)ける花(はな)を蹂躙(じうりん)すること、玲瓏(れいろう)たる月(つき)に向(むか)うて馬糞(ばふん)を擲(なげう)つことの如(ごと)きは、言(い)はずして知(し)るベきのみ。
 然(しか)れども此(こ)の白晝(はくちう)横行(わうぎやう)の惡魔(あくま)は、四時(しじ)恆(つね)に在(あ)る者(もの)にはあらず。或(あるひ)は週(しう)を隔(へだ)てて歸(かへ)り、或(あるひ)は月(つき)をおきて來(きた)る。其(その)去(さ)る時(とき)來(きた)る時(とき)、進退(しんたい)常(つね)に頗(すこぶ)る奇(き)なり。
 一人(にん)榎(えのき)の下(もと)に立(た)ちて、「お月樣(つきさま)幾(いく)つ」と叫(さけ)ぶ時(とき)は、幾多(いくた)の(應(おう))等(ら)同音(どうおん)に「お十三(じふさん)七(なゝ)つ」と和(わ)して、飛禽(ひきん)の翅(つばさ)か、走獸(そうじう)の脚(あし)か、一躍(いちやく)疾走(しつそう)して忽(たちま)ち見(み)えず。彼(かの)堆(うづたか)く積(つ)める蛇(くちなは)の屍(しかばね)も、彼等(かれら)將(まさ)に去(さ)らむとするに際(さい)しては、穴(あな)を穿(うが)ちて盡(こと/″\)く埋(うづ)むるなり。さても清風(せいふう)吹(ふ)きて不淨(ふじやう)を掃(はら)へば、山野(さんや)一點(いつてん)の妖氛(えうふん)をも止(とゞ)めず。或時(あるとき)は日(ひ)の出(い)づる立山(りふざん)の方(かた)より、或時(あるとき)は神通川(じんつうがは)を日沒(につぼつ)の海(うみ)より溯(さかのぼ)り、榎(えのき)の木蔭(こかげ)に會合(くわいがふ)して、お月樣(つきさま)と呼(よ)び、お十三(じふさん)と和(わ)し、パラリと散(ち)つて三々五々(さん/\ごゞ)、彼(かの)杖(つゑ)の響(ひゞ)く處(ところ)妖氛(えうふん)人(ひと)を襲(おそ)ひ、變幻(へんげん)出沒(しゆつぼつ)極(きはま)りなし。
 されば郷(がう)屋敷田畝(やしきたんぼ)は市民(しみん)のために天工(てんこう)の公園(こうゑん)なれども、隱然(いんぜん)(應(おう))が支配(しはい)する所(ところ)となりて、猶(なほ)餅(もち)に黴菌(かび)あるごとく、薔薇(しやうび)に刺(とげ)あるごとく、渠等(かれら)が居(きよ)を恣(ほしいまゝ)にする間(あひだ)は、一人(にん)も此(この)惜(をし)むべき共樂(きようらく)の園(その)に赴(おもむ)く者(もの)なし。其(その)去(さ)つて暫時(ざんじ)來(きた)らざる間(あひだ)を窺(うかゞ)うて、老若(らうにやく)爭(あらそ)うて散策(さんさく)野遊(やいう)を試(こゝろ)む。
 さりながら應(おう)が影(かげ)をも止(とゞ)めざる時(とき)だに、厭(いと)ふべき蛇喰(へびくひ)を思(おも)ひ出(いだ)さしめて、折角(せつかく)の愉快(ゆくわい)も打消(うちけ)され、掃愁(さうしう)の酒(さけ)も醒(さ)むるは、各自(かくじ)が伴(ともな)ひ行(ゆ)く幼(をさな)き者(もの)の唱歌(しやうか)なり。
 草(くさ)を摘(つ)みつつ歌(うた)ふを聞(き)けば、
拾乎(ひらを)、拾乎(ひらを)、豆(まめ)拾乎(ひらを)、
  鬼(おに)の來(こ)ぬ間(ま)に豆(まめ)拾乎(ひらを)。
 古老(こらう)は眉(まゆ)を顰(ひそ)め、壯者(さうしや)は腕(うで)を扼(やく)し、嗚呼(あゝ)、兒等(こら)不祥(ふしやう)なり。輟(や)めよ、輟(や)めよ、何(なん)ぞ君(きみ)が代(よ)を細石(さゞれいし)に壽(ことぶ)かざる!
などと小言(こごと)をおつしやるけれど、拾(ひろ)はにやならぬ、いんまの間(ま)。
 斯(か)くの如(ごと)く言消(いひけ)して更(さら)に又(また)、
拾乎(ひらを)、拾乎(ひらを)、豆(まめ)拾乎(ひらを)、
     鬼(おに)の來(こ)ぬ間(ま)に豆(まめ)拾乎(ひらを)。
 と唱(とな)へ出(いだ)す節(ふし)は泣(な)くがごとく、怨(うら)むがごとく、いつも(應(おう))の來(きた)りて市街(しがい)を横行(わうかう)するに從(したが)うて、件(くだん)の童謠(どうえう)東西(とうざい)に湧(わ)き、南北(なんぼく)に和(わ)し、言語(ごんご)に斷(た)えたる不快(ふくわい)嫌惡(けんを)の情(じやう)を喚起(よびおこ)して、市人(いちびと)の耳(みゝ)を掩(おほ)はざるなし。
 童謠(どうえう)は(應(おう))が始(はじ)めて來(きた)りし稍(やゝ)以前(いぜん)より、何處(いづこ)より傳(つた)へたりとも知(し)らず流行(りうかう)せるものにして、爾來(じらい)父母※兄(ふぼしけい)[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、112-8]が誑(だま)しつ、賺(すか)しつ制(せい)すれども、頑(ぐわん)として少(すこ)しも肯(き)かざりき。
 都人士(とじんし)もし此事(このこと)を疑(うたが)はば、請(こ)ふ直(たゞ)ちに來(きた)れ。上野(うへの)の汽車(きしや)最後(さいご)の停車場(ステエシヨン)に達(たつ)すれば、碓氷峠(うすひたうげ)の馬車(ばしや)に搖(ゆ)られ、再(ふたゝ)び汽車(きしや)にて直江津(なほえつ)に達(たつ)し、海路(かいろ)一文字(いちもんじ)に伏木(ふしき)に至(いた)れば、腕車(わんしや)十錢(せん)富山(とやま)に赴(おもむ)き、四十物町(あへものちやう)を通(とほ)り拔(ぬ)けて、町盡(まちはづれ)の杜(もり)を潛(くゞ)らば、洋々(やう/\)たる大河(たいが)と共(とも)に漠々(ばく/\)たる原野(げんや)を見(み)む。其處(そこ)に長髮(ちやうはつ)敝衣(へいい)の怪物(くわいぶつ)を見(み)とめなば、寸時(すんじ)も早(はや)く踵(くびす)を囘(かへ)されよ。もし幸(さいはひ)に市民(しみん)に逢(あ)はば、進(すゝ)んで低聲(ていせい)に(應(おう))は?と聞(き)け、彼(かれ)の變(へん)ずる顏色(がんしよく)は口(くち)より先(さき)に答(こたへ)をなさむ。
 無意(むい)無心(むしん)なる幼童(えうどう)は天使(てんし)なりとかや。げにもさきに童謠(どうえう)ありてより(應(おう))の來(きた)るに一月(ひとつき)を措(お)かざりし。然(しか)るに今(いま)は此歌(このうた)稀々(まれ/\)になりて、更(さら)にまた奇異(きい)なる謠(うた)は、
屋敷田畝(やしきたんぼ)に光(ひか)る物(もの)ア何(なん)ぢや、
  蟲(むし)か、螢(ほたる)か、螢(ほたる)の蟲(むし)か、
 蟲(むし)でないのぢや、目(め)の玉(たま)ぢや。
 頃日(けいじつ)至(いた)る處(ところ)の辻(つじ)にこの聲(こゑ)を聞(き)かざるなし。
 目(め)の玉(たま)、目(め)の玉(たま)! 赫奕(かくやく)たる此(こ)の明星(みやうじやう)の持主(もちぬし)なる、(應(おう))の巨魁(きよくわい)が出現(しゆつげん)の機(き)熟(じゆく)して、天公(てんこう)其(そ)の使者(ししや)の口(くち)を藉(か)りて、豫(あらかじ)め引(いん)をなすものならむか。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:12 KB

担当:FIRTREE