吉原新話
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著者名:泉鏡花 

       九

「可恐(こわ)い事、ちょっと、可恐くって。」
 と例の美しい若い声が身近に聞えて、ぞっとするように袖を窄(すぼ)めた気勢(けはい)がある。
「私に附着(くッつ)いていらっしゃい。」と蘭子が傍(そば)で、香水の優しい薫(かおり)。
「いや、下らないんですよ、」
 と、慌てたように民弥は急いで断って、
「ちと薄気味でも悪いようだと、御愛嬌(ごあいきょう)になるんだけれど……何(なん)にも彼(か)にも、一向要領を得ないんです、……時にだね、三輪(みい)ちゃん。」
 とちと更(あらた)まって呼んだ時に、皆(みんな)が目を灌(そそ)ぐと、どの灯(あかり)か、仏壇に消忘れたようなのが幽(かすか)に入って、スーと民弥のその居直った姿を映す。……これは生帷(きびら)の五ツ紋に、白麻の襟を襲(かさ)ねて、袴(はかま)を着(ちゃく)でいた。――あたかもその日、繋(つな)がる縁者の葬式(とむらい)を見送って、その脚で廻ったそうで、時節柄の礼服で宵から同じ着附けが、この時際立って、一人、舞台へ出たように目に留まった。麻は冷たい、さっくりとして膚(はだ)にも着かず、肩肱(かたひじ)は凜々(りり)しく武張(ぶば)ったが、中背で痩(や)せたのが、薄ら寒そうな扮装(なり)、襟を引合わせているので物優しいのに、細面(ほそおもて)で色が白い。座中では男の中(うち)の第一(いっち)年下の二十七で、少々(わかわか)しいのも気の弱そうに見えるのが、今夜の会には打ってつけたような野辺送りの帰りと云う。
 気のせいか、沈んで、悄(しお)れて見える処へ、打撞(ぶつ)かったその冷い紋着(もんつき)で、水際の立ったのが、薄(うっす)りと一人浮出したのであるから、今その呼懸けたお三輪さえ、声に応じて、結綿(ゆいわた)の綺麗な姿が、可恐(こわ)そうな、可憐(かれん)な風情で、並んでそこへ、呼出されたように、座上の胸に描かれた。
「つかん事を聞くがね、どこかこの近所で、今夜あたりお産をしそうな人はあるまいか。」
 と妙な事を沈んで聞く。
「今夜……ですか。」とお三輪はきっぱり聞返す。
「……そうだね、今夜、と極(き)まった事も無いけれど、この頃にさ、そういう家(うち)がありやしないかい。」
「嬰児(あかんぼ)が生れる許(とこ)?」
「そうさ、」
「この近所、……そうね。」
 せっかく聞かされたものを、あれば可(い)いが、と思う容子(ようす)で、しばらくして、
「無いわ、ちっと離れていては悪くって、江戸町辺。」
「そこらにあるかい。」
 と気を入れる。
「無い事よ、――やっぱり、」とうっかりしたように澄まして言う。
「何だい、詰(つま)らない。」
 と民弥は低声(こごえ)に笑(えみ)を漏らした。
「ちょいと、階下(した)へ行って、才(さあ)ちゃんに聞いて来ましょうか。」
「…………」
「ええ、兄さん、」
 と遣(や)ったが、フト黙って、
「私、聞いて来ましょう、先生。」
「何、可(い)い、それには及ばんのだよ。……いいえ、少しね、心当りな事があるもんだから、そらね。」
 と斜(ななめ)になって、俯向(うつむ)いて幕張(まくばり)の裾(すそ)から透かした、ト酔覚(よいざめ)のように、顔の色が蒼白(あおじろ)い。
「向うに、暗く明(あかり)の点(つ)いた家(うち)が一軒あるだろう……近所は皆(みんな)閉(しま)っていて。」
「はあ、お医者様のならび、あすこは寮よ……」
「そうだ、公園近(ぢか)だね。あすこへ時々客では無い、町内の人らしいのが、引過(ひけす)ぎになってもちょいちょい出たり入ったりするから、少しその心当りの事もあるし、……何も夜中の人出入りが、お産とは極(きま)らないけれど、その事でね。もしかすると、そうではあるまいか、と思ったからさ。何だか余り合点(のみこ)み過ぎたようで妙だったね。」

       十

「それに何だか、明(あかり)も陰気だし、人の出入りも、ばたばたして……病人でもありそうな様子だったもんだから。」
 と言って、その明(あかり)を俯向(うつむ)いて見透かす、民弥の顔にまた陰気な影が映(さ)した。
「でもね、当りましたわ、先生、やっぱり病人があるのよ。それでもって、寝ないでいるの、お通夜(つや)をして……」
「お通夜?」
 と一人、縁に寄った隅の方から、声を懸けた人がある。
「あの……」
「夜伽(よとぎ)じゃないか。」と民弥が引取(ひっと)る。
「ああ、そうよ。私は昨夜(ゆうべ)も、お通夜だってそう言って、才(さあ)ちゃんに叱られました。……その夜伽なのよ。」
「病人は……女郎衆(じょうろしゅ)かい。」
「そうじゃないの。」
 とついまたものいいが蓮葉(はすは)になって、
「照吉さんです、知ってるでしょう。」
 民弥は何か曖昧(あいまい)な声をして、
「私は知らないがね、」
 けれども一座の多人数は、皆耳を欹(そばだ)てた。――彼は聞えた妓(おんな)である――中には民弥の知らないという、その訳をさえ、よく心得たものがある。その梅次と照吉とは、待宵(まつよい)と後朝(きぬぎぬ)[#ルビの「きぬぎぬ」は底本では「きねぎぬ」]、と対(つい)に廓(くるわ)で唄われた、仲の町の芸者であった。
 お三輪はサソクに心着いたか、急に声も低くなって、
「芸者です、今じゃ、あの、一番綺麗な人なんです、芸も可(い)いの。可哀相だわ、大変に塩梅(あんばい)が悪くって。それだもんですから、内は角町(すみちょう)の水菓子屋で、出ているのは清川(引手茶屋)なんですけれど、どちらも狭いし、それに、こんな処でしょう、落着いて養生も出来ないからって……ここでも大切な姉(ねえ)さんだわ。ですから皆(みんな)で心配して、海老屋でもしんせつにそう云ってね、四五日前から、寮で大事にしているんですよ。」
「そうかい、ちっとも知らなかった。」と民弥はうっかりしたように言う。
「夜伽(よとぎ)をするんじゃ、大分悪いな。」と子爵が向うから声を懸けた。
「ええ、不可(いけな)いんですって、もうむずかしいの。」
 とお三輪は口惜(くや)しそうに、打附(ぶッつ)けて言ったのである。
「何の病気かね。」
 と言う、魯智深の頭は、この時も天井で大きく動いた。
「何んですか、性(しょう)がちっとも知れないんですって。」
 民弥は待構えてでもいたように、
「お医師(いしゃ)は廓(くるわ)のなんだろう、……そう言っちゃ悪いけれど。」
「いいえ、立派な国手(せんせい)も綱曳(つなびき)でいらっしゃったんですの。でもね、ちっとも分りませんとさ。そしてね、照吉さんが、病気になった最初(はじめ)っから、なぜですか、もうちゃんと覚悟をして、清川を出て寮へ引移るのにも、手廻りのものを、きちんと片附けて、この春から記(つ)けるようにしたっちゃ、威張っていた、小遣帳(こづかいちょう)の、あの、蜜豆(みつまめ)とした処なんか、棒を引いたんですってね。才ちゃんはそう言って、話して、笑いながら、ほろほろ涙を落すのよ。
 いつ煩っても、ごまかして薬をのんだ事のない人が、その癖、あの、……今度ばかりは、掻巻(かいまき)に凭懸(よりかか)っていて、お猪口(ちょこ)を頂いて飲むんだわ。それがなお心細いんだって、皆(みんな)そう云うの。
 私も、あの、手に持って飲まして来ます。
(三輪(みい)ちゃん、さようなら。)って俯向(うつむ)くんです、……枕(まくら)にこぼれて束ね切れないの、私はね、櫛(くし)を抜いて密(そっ)と解かしたのよ……雲脂(ふけ)なんかちっとも無いの、するする綺麗ですわ、そして煩ってから余計に殖(ふ)えたようよ……髪ばかり長くなって、段々命が縮むんだわねえ。――兄さん、」
 と、話に実が入(い)るとつい忘れる。
「可哀相よ。そして、いつでもそうなの、見舞に行(ゆ)くたんびに(さようなら)……」

       十一

「それはもう、きれいに断念(あきら)めたものなの、……そしてね、幾日(いくか)の何時頃に死ぬんだって――言うんですとさ、――それが延びたから今日はきっと、あれだって、また幾日の何時頃だって、どうしてでしょう。死ぬのを待っているようなの。
 ですからね、照吉さんのは、気病(きやみ)だって。それから大事の人の生命(いのち)に代って身代(みがわり)に死ぬんですって。」
「身代り、」と聞返した時、どのかまた明(あかり)の加減で、民弥の帷子(かたびら)が薄く映った。且つそれよりも、お三輪の手絡(てがら)が、くっきりと燃ゆるように、声も強い色に出て、
「ええ、」
 と言う、目も□(みは)られた気勢(けはい)である。
「この方が怪談じゃ、」と魯智深が寂しい声。堀子爵が居直って、
「誰の身代りだな、情人(いいひと)のか。」
「あら、情人(いいひと)なら兄さんですわ、」
 と臆(おく)せず……人見知(ひとみしり)をしない調子で、
「そうじゃないの、照吉さんのは弟さんの身代りになったんですって。――弟さんはね、先生、自分でも隠してだし、照吉さんも成りたけ誰にも知らさないようにしているんだけれど、こんな処の人のようじゃないの。
 学校へ通って、学問をしてね、よく出来るのよ。そして、今じゃ、あの京都の大学へ行っているんです。卒業すれば立派な先生になるんだわ、ねえ。先生。
 姉さんもそればっかり楽(たのし)みにして、地道に稼いじゃ、お金子(かね)を送っているんでしょう。……ええ、あの、」
 と心得たように、しかも他愛の無さそうに、
「水菓子屋の方は、あれは照吉さんの母(おっか)さんがはじめた店を、その母(おっか)さんが亡くなって、姉弟(きょうだい)二人ぼっちになって、しようが無いもんですから、上州の方の遠い親類の人に来てもらって、それが世話をするんですけれど、どうせ、あれだわ。田舎を打棄(うっちゃ)って、こんな処へ来て暮そうって人なんだから、人は好(い)いけれども商売は立行(たちゆ)かないで、照吉さんには、あの、重荷に小附(こづけ)とかですってさ。ですから、お金子でも何でも、皆(みんな)姉さんがして、それでも楽(たのし)みにしているんでしょう。
 そうした処が、この二三年、その弟さんが、大変に弱くなったの。困るわねえ。――試験が済めばもう卒業するのに、一昨年(おととし)も去年もそうなのよ、今年もやっぱり。続いて三年病気をしたの。それもあの、随分大煩いですわ、いつでも、どっと寝るんでしょう。
 去年の時はもう危ないって、電報が来たもんですから、姉さんが無理をして京都へ行ったわ。
 二年続けて、彼地(あっち)で煩らったもんですから、今年の春休みには、是非お帰んなさいって、姉さんも云ってあげるし、自分でも京都の寒さが不可(いけな)いんだって、久しぶりで帰ったんです。
 水菓子屋の奥に居たもんですから、内へも来たわ。若旦那(わかだんな)って才ちゃんが言うのよ。お父(とっ)さんはね、お侍が浪人をしたのですって、――石橋際に居て、寺子屋をして、御新造(ごしん)さんの方は、裁縫(おしごと)を教えたんですっさ、才ちゃんなんかの若い時分、お弟子よ。
 あとで、私立の小学校になって、内の梅次さんも、子供の内は上ってたんですさ。お母(っか)さんの方は、私だって知ってるわ。品の可(い)い、背(せい)のすらりとした人よ。水菓子屋の御新造(ごしん)さんって、皆(みんな)がそう言ったの。
 ですもの、照吉さんは芸者だけれど、弟さんは若旦那だわね。
 また煩いついたのよ、困るわねえ。
 そして長いの、どっと床に就いてさ。皆(みんな)、お気の毒だって、やっぱり今の、あの海老屋の寮で養生をして、同(おんな)じ部屋だわ。まわり縁の突当りの、丸窓の付いた、池に向いた六畳よ。
 照吉さんも家業があるでしょう、だもんですから、ちょいとの隙(ひま)も、夜(よ)の目も寝ないで、附(つき)っ切りに看病して、それでもちっとも快(よ)くならずに、段々塩梅(あんばい)が悪くなって、花が散る頃だったわ、お医者様もね、もうね。」
 と言う、ちっと切なそうな息づかい。

       十二

 お三輪は疲れて、そして遣瀬(やるせ)なさそうな声をして、
「才(さあ)ちゃんを呼んで来ましょうか、私は上手に話せませんもの。」と言う、覚束(おぼつか)ない娘の口から語る、照吉の身の上は、一層夜露に身に染みたのであった。
「可(い)いよ、三輪(みい)ちゃんで沢山だ。お話し、お話し、」と雑貨店主、沢岡が激ました。
「ええ、もうちっとだわ。――あの……それでお医者様が手放したもんですから、照吉さんが一七日(いちしちにち)塩断(しおだち)して……最初(はじめッ)からですもの、断つものも外に無いの。そして願掛けをしたんですって。どこかねえ、谷中(やなか)の方です。遠くまで、朝ねえ、まだ夜の明けない内に通ったのよ。そのお庇(かげ)で……きっとそのお庇だわ。今日にも明日にも、といった弟さんが、すっかり治ってね。夏のはじめに、でもまだ綿入を着たなりで、京都へ立って行ったんです。
 塩断をしたりなんかして、夜も寝なかった看病疲れが出たんだって、皆(みんな)そう言ったの。すぐ後で、姉さんが病みついたんでしょう。そして、その今のような大病になったんでしょう。
 ですがね、つい二三日前、照吉さんが、誰にも言わない事だけれどって、そう云って、内の才ちゃんに話したんですって。――あの、そのね、谷中へ願掛けをした、満願、七日(なぬか)目よ、……一七日(いちしちにち)なんですもの。いつもお参りをして帰りがけに、しらしらと夜の明ける時間なのが、その朝は、まだ真暗(まっくら)だったんですとさ。御堂を拝んで帰ろうとすると、上の見上げるような杉の大木の茂った中から、スーと音がして、ばったり足許へ落ちて来たものがあるの。常燈明の細い灯(あかり)で、ちょいと見ると、鳥なんですって、死んだのだわねえ、もう水を浴びたように悚然(ぞっ)として、何の鳥だかよくも見なかったけれど、謎々よ、……解くと、弟は助からないって事になる……その時は落胆(がっかり)して、苔(こけ)の生えた石燈籠(いしどうろう)につかまって、しばらく泣きましたって、姉さんがね、……それでも、一念が届いて弟が助かったんですから……思い置く事はありません、――とさ。
 ああ、きっとそれじゃ、……その時治らない弟さんの身代りに、自分がお約束をしたんだろう。それだから、ああやって覚悟をして死んで行(ゆ)くのを待っておいでだ。事によったら、月日なんかも、その時極(き)めて頼んだのかも分らない、可哀相だ、つて才ちゃんも泣いていました。
 そしてね、今度の世は、妹に生れて来て甘えよう、私は甘えるものが無い。弟は可羨(うらやま)しい、あんな大きななりをして、私に甘ったれますもの。でも、それが可愛くって殺されない。前(さき)へ死ぬ方がまだ増(まし)だ、あの子は男だから堪(こら)えるでしょう、……後へ残っちゃ、私は婦(おんな)で我慢が出来ないって言ったんですとさ。……ちょいとどうしましょう。私、涙が出てよ。……
 どうかして治らないものでしょうか。誰方(どなた)か、この中に、お医者様の豪(えら)い方はいらっしゃらなくって、ええ、皆さん。」
 一座寂然(ひっそり)した。
「まあ、」
「ねえ……」
 と、蘭子と種子が言交わす。
「弱ったな、……それは、」とちょいと間を置いてから、子爵が呟(つぶや)いたばかりであった。
「時に、」
 と幹事が口を開いて、
「佐川さん、」
「は、」
 と顔を上げたが、民弥はなぜかすくむようになって、身体(からだ)を堅く俯向(うつむ)いてそれまで居た。
「お話しの続きです。――貴下(あなた)がその今日途中でその、何か、どうかなすったという……それから起ったんですな、三輪ちゃんの今の話は。」
「そうでしたね。」とぼやりと答える。
「その……近所のお産のありそうな処は無いかって、何か、そういったような事から。」
「ええ、」
 とただ、腕を拱(こまぬ)く。
「どういう事で、それは、まず……」
「一向、詰(つま)らない、何、別に、」と可恐(おそろ)しく謙遜(けんそん)する。
 人々は促した。――

       十三

「――気が射(さ)したから、私は話すまい、と思った。けれども、行懸(ゆきがか)り[#ルビの「ゆきがか」は底本では「ゆきかが」]で、揉消(もみけ)すわけにも行かなかったもんだから、そこで何だ。途中で見たものの事を饒舌(しゃべ)ったが、」
 と民弥は、西片町(にしかたまち)のその住居(すまい)で、安価(やす)い竈(かまど)を背負(しょ)って立つ、所帯の相棒、すなわち梅次に仔細(しさい)を語る。……会のあった明晩(あくるばん)で、夏の日を、日が暮れてからやっと帰ったが、時候あたりで、一日寝ていたとも思われる。顔色も悪く、気も沈んで、太(いた)く疲れているらしかった。
 寒気がするとて、茶の間の火鉢に対向(さしむか)いで、
「はじめはそんな席へ持出すのに、余り栄(は)えな過ぎると思ったが、――先刻(さっき)から言った通り――三輪坊(みいぼう)がしたお照さんのその話を聞いてからは、自分だけかも知れないが、何とも言われないほど胸が鬱(ふさ)いだよ。第一、三輪坊が、どんなにか、可恐(こわ)がるだろう、と思ってね。
 場所が谷中だと言うんだろう、……私の出会ったのもやっぱりそこさ。――闇(くら)がり坂(ざか)を通った時だよ。」
「はあ、」と言って、梅次は、団扇(うちわ)を下に、胸をすっと手を支(つ)いた。が、黒繻子(くろじゅす)[#ルビの「くろじゅす」は底本では「くろじゅず」]の引掛(ひっか)け結びの帯のさがりを斜(ななめ)に辷(すべ)る、指の白さも、団扇の色の水浅葱(みずあさぎ)も、酒気(さけけ)の無い、寂しい茶の間に涼し過ぎた。
 民弥は寛(くつろ)ぎもしないで、端然(ちゃん)としながら、
「昨日(きのう)は、お葬式(とむらい)が後(おく)れてね、すっかり焼香の済んだのが、六時ちっと廻った時分。後で挨拶をしたり、……茶屋へ引揚げて施主たちに分れると、もう七時じゃないか。
 会は夜あかしなんだけれど、ゆっくり話そうって、幹事からの通知は七時遅からず。私にも何かの都合で、一足早く。承知した、と約束がしてある。……
 久しぶりのお天気だし、涼(すずし)いし、紋着(もんつき)で散歩もおかしなものだけれども、ちょうど可(い)い。廓(なか)まで歩行(ある)いて、と家(うち)を出る時には思ったんだが、時間が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車(くるま)をそう言ってね。
 乗ってさ。出る、ともう、そこらで梟(ふくろう)の声がする。寂寥(しん)とした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込(けこみ)が真赤(まっか)で、晃々(きらきら)輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。――切立(きった)てたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」
「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被(おっかぶ)さった処でしょう。――近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭(いや)な処だわね、そこでどうかなすったんですか。」
「そうさ、よく路傍(みちばた)の草の中に、揃えて駒下駄(こまげた)が脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘(こうもり)がぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込(ずりこ)むってね。手巾(ハンケチ)が一枚落ちていても悚然(ぞっ)とする、と皆(みんな)が言う処だよ。
 昼でも暗いのだから、暮合(くれあい)も同(おんな)じさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、極(きま)って腕車(くるま)から下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。
 下りるとね、車夫(わかいし)はたった今乗せたばかりの処だろう、空車(からぐるま)の気前を見せて、一(ひと)つ駆(が)けで、顱巻(はちまき)の上へ梶棒(かじぼう)を突上げる勢(いきおい)で、真暗(まっくら)な坂へストンと摺込(すべりこ)んだと思うと、むっくり線路の真中(まんなか)を躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、仄(ほんの)り明(あかる)い、白っぽい番小屋の、蒼(あお)い灯(ひ)を衝(つッ)と切って、根岸の宵の、蛍のような水々(みずみず)した灯(あかり)の中へ消込(きえこ)んだ。
 蝙蝠(こうもり)のように飛ぶんだもの、離れ業と云って可(い)い速さなんだから、一人でしばらく突立(つった)って見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。
 足許だけぼんやり見える、黄昏(たそがれ)の木(こ)の下闇(したやみ)を下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々(せいせい)する。
 以前と違って、それから行(ゆ)く、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんに貰(もら)った仲の町の江戸絵を、葛籠(つづら)から出して頬杖(ほおづえ)を支(つ)いて見るようなもんだと思って。」

       十四

「坂の中途で――左側の、」
 と長火鉢の猫板を圧(おさ)えて言う。
「樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓(みみず)でも団(かたま)ったように見えた、そこにね。」
「ええ」
 と梅次は眉を顰(ひそ)めた。
「大丈夫、蛇の話じゃ無い。」とこれは元気よく云って、湯呑(ゆのみ)で一口。
「人が居たのさ。ぼんやりと小さく蹲(しゃが)んで、ト目に着くと可厭(いや)な臭気(におい)がする、……地(つち)へ打坐(ぶっすわ)ってでもいるかぐらい、ぐしゃぐしゃと挫(ひしゃ)げたように揉潰(もみつぶ)した形で、暗いから判然(はっきり)せん。
 が、別に気にも留めないで、ずっとその傍(わき)を通抜けようとして、ものの三足(みあし)ばかり下りた処だった。
(な、な、)と言う。
 雪駄直(せったなお)しだか、唖(おうし)だか、何だか分らない。……聞えたばかり。無論、私を呼んだと思わないから、構わず行(ゆ)こうとすると、
(なあ、)と、今度はちっとぼやけたが、大きな声で、そして、
(袴(はかま)着た殿い、な、)と呼懸ける、確かに私を呼んだんだ。どこの山家(やまが)のものか知らんが、変な声で、妙なものいいさ。「袴着た、」と言うのか、「墓場来た、」と言うのか、どっちにしても「殿」は気障(きざ)だ。
 が、確(たしか)に呼留めたに相違無いから、
(俺(おれ)か。)
(それよ、)……と、気になる横柄な返事をして、もやもやと背伸びをして立った……らしい、頭(つむり)を擡(もた)げたのか、腰を起(た)てたのか、上下(うえした)同(おんな)じほどに胴中(どうなか)の見えたのは、いずれ大分の年紀(とし)らしい。
 爺(じじい)か、婆(ばばあ)か、ちょっと見には分らなかったが、手拭(てぬぐい)だろう、頭にこう仇白(あだじろ)いやつを畳んで載せた。それが顔に見えて、面(つら)は俯向(うつむ)けにしながら、杖(つえ)を支(つ)いた影は映らぬ。
(殿、な、何処(いずく)へな。)
 と、こうなんだ。
 私は黙って視(なが)めたっけ。
 じっと身動きもしないで、返事を待っているようだからね、
(吉原へ。)
 と綺麗に言ったが、さあ、以前なら、きっとそうは言わなかったろう。その空がさっぱりと晴々した心持だから、誰に憚(はばか)る処も無い。おつけ晴れたのが、不思議に嬉しくもあり、また……幼い了簡(りょうけん)だけれども、何か、自分でも立派に思った。
(真北じゃな、ああ、)
 とびくりと頷(うなず)いて、
(火の車で行(ゆ)かさるか。)[#「)」は底本では「」」]
 馬鹿にしている、……此奴(こいつ)は高利貸か、烏金(からすがね)を貸す爺婆(じじばば)だろうと思ったよ。」
 と民弥は寂(さみ)しそうなが莞爾(にっこり)した。
 梅次がちっと仰向(あおむ)くまで、真顔で聞いて、
「まったくだわねえ。」
「いや、」
 民弥は、思出したように、室(へや)の内(なか)を□(みまわ)しながら、
「烏金……と言えば、その爺婆は、荒縄で引括(ひっくく)って、烏の死んだのをぶら下げていたのよ。」
 梅次は胸を突かれたように、
「へい、」と云って、また、浅葱(あさぎ)のその団扇(うちわ)の上へ、白い指。
「堪(たま)らない。幾日(いくか)経(た)ったんだか、べろべろに毛が剥(は)げて、羽がぶらぶらとやっと繋(つなが)って、地(じ)へ摺(す)れて下ってさ、頭なんざ爛(ただ)れたようにべとべとしている、その臭気(におい)だよ。何とも言えず変に悪臭いのは、――奴(やつ)の身体(からだ)では無い。服装(みなり)も汚くはないんだね、折目の附いたと言いたいが、それよりか、皺(しわ)の無いと言った方が適(い)い、坊さんか、尼のような、無地の、ぬべりとしたのでいた。
 まあ、それは後での事。
(何の車?……)と聞返した。
(森の暗さを、真赤(まっか)なものが、めいらめいら搦(から)んで、車が飛んだでやいの。恐ろしやな、活(い)きながら鬼が曳(ひ)くさを見るかいや。のう殿。私(わし)は、これい、地板(じびた)へ倒りょうとしたがいの。……うふッ、)と腮(あご)の震えたように、せせら笑ったようだっけ、――ははあ……」

       十五

「今の腕車(くるま)に、私が乗っていたのを知って、車夫(わかいし)が空(から)で駆下りた時、足の爪を轢(ひ)かれたとか何とか、因縁を着けて、端銭(はした)を強請(ゆす)るんであろうと思った。
 しかし言種(いいぐさ)が変だから、
(何の車?)ともう一度……わざと聞返しながら振返ると、
(火の車、)
 と頭から、押冠(おっかぶ)せるように、いやに横柄に言って、もさりと歩行(ある)いて寄る。
 なぜか、その人を咒(のろ)ったような挙動(しぐさ)が、無体に癪(しゃく)に障ったろう。
(何の車?)と苛々(いらいら)としてこちらも引返した。
(火の車。)
 じりじりとまた寄った。
(何の車?)
(火の車、)
(火の車がどうした。)
 とちょうど寄合わせた時、少し口惜(くやし)いようにも思って、突懸(つっかか)って言った、が、胸を圧(おさ)えた。可厭(いや)なその臭気(におい)ったら無いもの。
(私(わし)に貸さい、の、あのや、燃え搦(から)まった車で、逢魔(おうま)ヶ時に、真北へさして、くるくる舞いして行(ゆ)かさるは、少(わか)い身に可(よ)うないがいや、の、殿、……私(わし)に貸さい。車借りて飛ばしたい、えらく今日は足がなえたや、やれ、の、草臥(くたび)れたいの、やれやれ、)
 と言って、握拳(にぎりこぶし)で腰をたたくのが、突着けて、ちょうど私の胸の処……というものは、あの、急な狭い坂を、奴(やつ)は上の方に居るんだろう。その上、よく見ると、尻をこっちへ、向うむきに屈(かが)んで、何か言っている。
 癩(かったい)に棒打(ぼううち)、喧嘩(けんか)にもならんではないか。
(どこへ行(ゆ)くんだい、そして、)ッて聞いて見た。
(同じ処への、)
(吉原か。)
(さればい、それへ。)
 とこう言う。
(何しに行(ゆ)くんだね。)
(取揚げに行(ゆ)く事よ。)
 ああ、産婆か。道理で、と私は思った。今時そんなのは無いかも知れんが、昔の産婆(ばあ)さんにはこんな風なのが、よくあった。何だか、薄気味の悪いような、横柄で、傲慢(ごうまん)で、人を舐(な)めて、一切心得た様子をする、檀那寺(だんなでら)の坊主、巫女(いちこ)などと同じ様子で、頼む人から一目置かれた、また本人二目も三目も置かせる気。昨日(きのう)のその時なんか、九目(せいもく)という応接(あしらい)です。
 なぜか、根性曲りの、邪慳(じゃけん)な残酷なもののように、……絵を見てもそうだろう。産婦が屏風(びょうぶ)の裡(うち)で、生死(いきしに)の境、恍惚(うっとり)と弱果てた傍(わき)に、襷(たすき)がけの裾端折(すそはしょり)か何かで、ぐなりとした嬰児(あかんぼ)を引掴(ひッつか)んで、盥(たらい)の上へぶら下げた処などは、腹を断割(たちわ)ったと言わないばかり、意地くねの悪い姑(しゅうとめ)の人相を、一人で引受けた、という風なものだっけ。
 吉原へ行(ゆ)くと云う、彼処等(あすこいら)じゃ、成程頼みそうな昔の産婆だ、とその時、そう思ったから、……後で蔦屋(つたや)の二階で、皆(みんな)に話をする時も、フッとお三輪に、(どこかお産はあるか)って聞いたんだ。
 もうそう信じていた。
 でも、何だか、肝(かん)が起(た)って、じりじりしてね、おかしく自分でも自棄(やけ)になって、
(貸してやろう、乗っといで。)
(柔順(すなお)なものじゃ、や、よう肯(き)かしゃれたの……おおおお。)と云って臀(しり)を動かす。
 変なものをね、その腰へ当てた手にぶら下げているじゃないか。――烏の死骸(しがい)だ。
(何にする、そんなもの。)
(禁厭(まじない)にする大事なものいの、これが荷物じゃ、火の車に乗せますが、やあ、殿。)
(堪(たま)らない! 臭くって、)
 と手巾(ハンケチ)へ唾を吐いて、
(車賃は払っておくよ。)
 で、フイと分れたが、さあ、踏切を越すと、今の車はどこへ行ったか、そこに待っている筈(はず)のが、まるで分らない。似たやつどころか、また近所に、一台も腕車(くるま)が無かった。……
 変じゃないか。」

       十六

 しばらくして、
「お三輪が話した、照吉が、京都の大学へ行ってる弟の願懸けに行って、堂の前で気落(きおち)した、……どこだか知らないが、谷中の辺で、杉の樹の高い処から鳥が落ちて死んだ、というのを聞いた時、……何の鳥とも、照吉は、それまでは見なかったんだそうだけれども、私は何だよ……
 思わず、心が、先刻(さっき)の暗がり坂の中途へ行って、そのおかしな婆々(ばばあ)が、荒縄でぶら提げていた、腐った烏の事を思ったんだ。照吉のも、同じ烏じゃ無かろうかと……それに、可なり大きな鳥だというし……いいや!」
 梅次のその顔色(かおつき)を見て、民弥は圧(おさ)えるように、
「まさか、そんな事はあるまいが、ただそこへ考えが打撞(ぶつか)っただけなんだよ。……
 だから、さあ、可厭(いや)な気持だから、もう話さないでおきたかったんだけれども、話しかけた事じゃあるし、どうして、中途から弁舌で筋を引替えようという、器用なんじゃ無い。まじまじ遣(や)った……もっとも荒ッぽく……それでも、烏の死骸を持っていたッて、そう云うと、皆(みんな)が妙に気にしたよ。
 お三輪は、何も照吉のが烏だとも何とも、自分で言ったのじゃ無いから、別にそこまでは気を廻さなかったと見えて、暗号(あいず)に袖を引張らなかった。もうね、可愛いんだ、――ああ、可恐(こわ)い、と思うと、極(きま)ったように、私の袂(たもと)を引張(ひっぱっ)たっけ、しっかりと持って――左の、ここん処に坐(すわ)っていて、」
 と猫板の下になる、膝のあたりを熟(じっ)と視(み)た。……
「煙管(きせる)?」
「ああ、」
「上げましょう。……」
 と、トンと払(はた)いて、
「あい。……どうしたんです、それから、可厭(いや)ね、何だか私は、」と袖を合わせる。
「するとだ……まだその踏切を越えて腕車(くるま)を捜したッてまでにも行(ゆ)かず……其奴(そいつ)の風采(ふうつき)なんぞ悉(くわ)しく乗出して聞くのがあるから、私は薄暗がりの中だ。判然とはしないけれど、朧気(おぼろげ)に、まあ、見ただけをね、喋舌(しゃべ)ってる中(うち)に、その……何だ。
 向う角の女郎屋(じょろや)の三階の隅に、真暗(まっくら)な空へ、切って嵌(は)めて、裾(すそ)をぼかしたように部屋へ蚊帳(かや)を釣って、寂然(しん)と寝ているのが、野原の辻堂に紙帳(しちょう)でも掛けた風で、恐しくさびれたものだ、と言ったっけ。
 その何だよ。……
 蚊帳の前へ。」
「ちょいと、」と梅次は、痙攣(ひッつ)るばかり目を□(みは)って膝をずらした。
「大丈夫、大丈夫、」
 と民弥はまたわずかに笑(えみ)を含みつつ、
「仲の町越しに、こちらの二階から見えるんだから、丈が……そうさ、人にして二尺ばかり、一寸法師ッか無いけれど、何、普通で、離れているから小さいんだろう。……婆さんが一人。
 大きな蜘蛛(くも)が下りたように、行燈(あんどう)の前へ、もそりと出て、蚊帳の前をスーと通る。……擦れ擦れに見えたけれども、縁側を歩行(ある)いたろう。が、宙を行(ゆ)くようだ。それも、黒雲の中にある、青田のへりでも伝うッて形でね。
 京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後(うしろ)になったらしい。
 遣手(やりて)です、風が、大引前(おおびけまえ)を見廻ったろう。
 それが見えると、鉄棒(かなぼう)が遠くを廻った。……カラカラ、……カンカン、何だか妙だね、あの、どうか言うんだっけ。」
「チャン、カン、チャンカン……ですか。」と民弥の顔を瞻(みつ)めながら、軽く火箸(ひばし)を動かしたが、鉄瓶にカタンと当った。
「あ、」
 と言って、はっと息して、
「ああ、吃驚(びっくり)した。」
「ト今度は、その音に、ずッと引着けられて、廓中(くるわじゅう)の暗い処、暗い処へ、連れて歩行(ある)くか、と思うばかり。」

       十七

「話してる私も黙れば、聞いている人たちも、ぴったり静まる……
 と遣手(やりて)らしい三階の婆々(ばばあ)の影が、蚊帳の前を真暗(まっくら)な空の高い処で見えなくなる、――とやがてだ。
 二三度続け様に、水道尻居まわりの屋根近(やねぢか)な、低い処で、鴉(からす)が啼(な)いた。夜烏も大引けの暗夜(やみ)だろう、可厭(いや)な声といったら。
 すたすたとけたたましい出入りの跫音(あしおと)、四ツ五ツ入乱れて、駆出す……馳込(はしりこ)むといったように、しかも、なすりつけたように、滅入(めい)って、寮の門(かど)が慌(あわただ)しい。
 私の袂(たもと)を、じっと引張って、
(あれ、照吉姉(ねえ)さんが亡くなるんじゃなくッて)ッて、少し震えながらお三輪が言うと、
(引潮時だねちょうど……)と溜息(ためいき)をしたは、油絵の額縁を拵(こしら)える職人風の鉄拐(てっか)な人で、中での年寄だった。
 婦人(おんな)の一人が、
(姉さん、姉さん、)
 と、お三輪を、ちょうどその時だった、呼んだのが、なぜか、気が移って、今息を引取ろうという……照吉の枕許に着いていて言うような、こう堅くなった沈んだ声だった。
(ははい、)
 とこれも幽(かすか)にね。
 浜谷ッて人だ、その婦人は、お蘭さんというのが、
(内にお婆さんはおいでですか。)
 と聞くじゃないか。」
「まあ、」と梅次は呼吸(いき)を引く。
 民弥は静(しずか)に煙管(きせる)を置いて、
「お才さんだって、年じゃあるが、まだどうして、姉(あね)えで通る、……婆さんという見当では無い。皆(みんな)、それに、それだと顔は知っている。
 女中がわりに送迎(おくりむかえ)をしている、前(ぜん)に、それ、柳橋の芸者だったという、……耳の遠い、ぼんやりした、何とか云う。」
「お組さん、」
「粋(いき)な年増(としま)だ、可哀相に。もう病気であんなになってはいるが……だって白髪(しらが)の役じゃ無い。
(いいえ、お婆さんは居ませんの。)
(そう……)
 と婦人が言ったっけ。附着(くッつ)くようにして、床の間の傍正面(わきしょうめん)にね、丸窓を背負(しょ)って坐っていた、二人、背後(うしろ)が突抜けに階子段(はしごだん)の大きな穴だ。
 その二人、もう一人のが明座ッてやっぱり婦人で、今のを聞くと、二言ばかり、二人で密々(ひそひそ)と言ったが否や、手を引張合(ひっぱりあ)った様子で、……もっとも暗くってよくは分らないが。そしてスーと立って、私の背後(うしろ)へ、足袋の白いのが颯(さっ)と通って、香水の薫(かおり)が消えるように、次の四畳を早足でもって、トントンと階下(した)へ下りた。
 また、皆(みんな)、黙ったっけ。もっとも誰が何をして、どこに居るんだか、暗いから分らない。
 しばらく、袂(たもと)の重かったのは、お三輪がしっかり持ってるらしい。
 急に上(あが)って来ないだろう。
(階下(した)じゃ起きているかい。)
(起きてるわ、あの、だけど、才(さあ)ちゃんは照吉さんの許(とこ)へちょっと行ってるかも知れなくってよ。)
(何は、何だっけ。)
(お組さん、……ええ、火鉢の許(とこ)に居てよ。でも、もうあの通りでしょう、坐眠(いねむり)をしているかも分らないわ。)
(三輪ちゃんか、ちょっと見てあげてくれないか、はばかりが分らないのかも知れないぜ。)と一人気を着けた。
(ええ、)
 てッたが、もう可恐(こわ)くッて一人では立てません。
 もう一ツ、袂が重くなって、
(一所に……兄さん、)
 と耳の許(とこ)へ口をつける……頬辺(ほっぺた)が冷(ひや)りとするわね、鬢(びん)の毛で。それだけ内証(ないしょ)のつもりだろうが、あの娘(こ)だもの、皆(みんな)、聞えるよ。
(ちょいと、失礼。)
(奥方に言いつけますぜ。)と誰か笑った、が、それも陰気さ。」

       十八

「暗い階子(はしご)をすっと抜ける、と階下(した)は電燈(でんき)だ、お三輪は颯(さっ)と美しい。
 見ると、どうです……二階から下して来て、足の踏場も無かった、食物、道具なんか、掃いたように綺麗に片附いて、門(かど)を閉めた。節穴へ明(あかり)が漏れて、古いから森のよう、下した蔀(しとみ)を背後(うしろ)にして、上框(あがりがまち)の、あの……客受けの六畳の真中処(まんなかどころ)へ、二人、お太鼓の帯で行儀よく、まるで色紙へ乗ったようでね、ける、かな、と端然(きちん)と坐ってると、お組が、精々気を利かしたつもりか何かで、お茶台に載っかって、ちゃんとお茶がその前へ二つ並んでいます……
 お才さんは見えなかった。
 ところが、お組があれだろう。男なら、骨(こつ)でなり、勘でなり、そこは跋(ばつ)も合わせようが、何の事は無い、松葉ヶ谷(やつ)の尼寺へ、振袖の若衆(わかしゅ)が二人、という、てんで見当の着かないお客に、不意に二階から下りて坐られたんだから、ヤ、妙な顔で、きょとんとして。……
 次の茶の室(ま)から、敷居際まで、擦出(ずりだ)して、煙草盆(たばこぼん)にね、一つ火を入れたのを前に置いて、御丁寧に、もう一つ火入(ひいれ)に火を入れている処じゃ無いか。
 座蒲団(ざぶとん)は夏冬とも残らず二階、長火鉢の前の、そいつは出せず失礼と、……煙草盆を揃えて出した上へ、団扇(うちわ)を二本の、もうちっとそのままにしておいたら、お年玉の手拭(てぬぐい)の残ったのを、上包みのまま持って出て、別々に差出そうという様子でいる。
 さあ、お三輪の顔を見ると、嬉しそうに双方を見較べて、吻(ほっ)と一呼吸(ひといき)を吐(つ)いた様子。
(才ちゃんは、)
 とお三輪が、調子高に、直ぐに聞くと、前(さき)へ二つばかりゆっくりと、頷(うなず)き頷き、
(姉さんは、ちょいと照吉さんの様子を見に……あの、三輪ちゃん。)
 と戸棚へ目を遣(や)って、手で円いものをちらりと拵(こしら)えたのは、菓子鉢へ何か? の暗号(あいず)。」
 ああ、病気に、あわれ、耳も、声も、江戸の張(はり)さえ抜けた状(さま)は、糊(のり)を売るよりいじらしい。
「お三輪が、笑止そうに、
(はばかりへおいでなすったのよ。)
 お組は黙って頭(かぶり)を振るのさ。いいえ、と言うんだ。そうすると、成程二人は、最初(はじめッ)からそこへ坐り込んだものらしい。
(こちらへいらっしゃいな。)とその一人が、お三輪を見て可懐(なつか)しそうに声を懸ける。
(佐川さん、)
 と太(ひど)く疲れたらしく、弱々とその一人が、もっとも夜更しのせいもあろう、髪もぱらつく、顔色も沈んでいる。
(どうしたんです。)と、ちょうど可(い)い、その煙草盆を一つ引攫(ひっさら)って、二人の前へ行って、中腰に、敷島を一本。さあ、こうなると、多勢の中から抜出(ぬけだ)したので、常よりは気が置けない。
(頭痛でもなさるんですか、お心持が悪かったら、蔭へ枕を出させましょうか。)
(いいえ、別に……)
(御無理をなすっちゃ不可(いけ)ません。何だかお顔の色が悪い。)
(そうですかね。)とお蘭さんが、片頬(かたほ)を殺(そ)ぐように手を当てる。
(ねえ、貴方(あなた)、お話しましょう。)
(でも……)
(ですがね、)
 とちらちらと目くばせが閃(ひら)めく、――言おうか、言うまいかッて素振(そぶり)だろう。
 聞かずにはおかれない。
(何です、何です、)
 と肩を真中(まんなか)へ挟むようにして、私が寄る、と何か内証(ないしょ)の事とでも思ったろう、ぼけていても、そこは育ちだ。お組が、あの娘(こ)に目で知らせて、二人とも半分閉めた障子の蔭へ。ト長火鉢のさしの向いに、結綿(ゆいわた)と円髷(まげ)が、ぽっと映って、火箸が、よろよろとして、鉄瓶がぽっかり大きい。
 お種さんが小さな声で、
(今、二階からいらっしゃりがけに、物干の処で、)
 とすこし身を窘(すく)めて、一層低く、
(何か御覧なさりはしませんか。)
 私は悚然(ぞっ)とした。」

       十九

「が、わざと自若(じじゃく)として、
(何を、どんなものです。)って聞返したけれど、……今の一言で大抵分った、婆々(ばばあ)が居た、と言うんだろう。」
「可厭(いや)、」と梅次は色を変えた。
「大丈夫、まあ、お聞き、……というものは――内にお婆さんは居ませんか――ッて先刻(さっき)お三輪に聞いたから。……
 はたして、そうだ。
(何ですか、お婆さんらしい年寄が、貴下(あなた)、物干から覗(のぞ)いていますよ。)
 とまた一倍滅入った声して、お蘭さんが言うのを、お種さんが取繕うように、
(気のせいかも知れません、多分そうでしょうよ……)
(いいえ、確(たしか)なの、佐川さん、それでね、ただ顔を出して覗くんじゃありません。梟(ふくろう)見たように、膝を立てて、蹲(しゃが)んでいて、窓の敷居の上まで、物干の板から密(そっ)と出たり、入ったり、)
(ああ、可厭(いや)だ。)
 と言って、揃って二人、ぶるぶると掃消(はらいけ)すように袖を振るんだ。
 その人たちより、私の方が堪(たま)りません。で無くってさえ、蚊帳(かや)の前を伝わった形が、昼間の闇(くら)がり坂のに肖(に)ていて堪(たま)らない処だもの、……烏は啼(な)く……とすぐにあの、寮の門(かど)で騒いだろう。
 気にしたら、どうして、突然(いきなり)ポンプでも打撒(ぶちま)けたいくらいな処だ。
(いつから?……)
(つい今しがたから。)
(全体前(ぜん)にから、あの物干の窓が気になってしようがなかったんですよ。……時々、電車のですかね、電(いなびかり)ですか、薄い蒼(あお)いのが、真暗(まっくら)な空へ、ぼっと映(さ)しますとね、黄色くなって、大きな森が出て、そして、五重の塔の突尖(とっさき)が見えるんですよ……上野でしょうか、天竺(てんじく)でしょうか、何にしても余程遠くで、方角が分りませんほど、私たちが見て凄(すご)かったんです。
 その窓に居るんですもの。)
(もっとお言いなさいよ。)
(何です。)
(可厭(いや)だ、私は、)
(もっととは?)
(貴女(あなた)おっしゃいよ、)
 と譲合った。トお種さんが、障(となり)のお三輪にも秘(かく)したそうに、
(頭にね、何ですか、手拭(てぬぐい)のようなものを、扁(ひらっ)たく畳んで載せているものなんです。貴下(あなた)がお話しの通りなの、……佐川さん。)
 私は口が利けなかった。――無暗(むやみ)とね、火入(ひいれ)へ巻莨(まきたばこ)をこすり着けた。
 お三輪の影が、火鉢を越して、震えながら、結綿(ゆいわた)が円髷(まげ)に附着(くッつ)いて、耳の傍(はた)で、
(お組さん、どこのか、お婆さんは、内へ入って来なくッて?)
(お婆さん……)
 とぼやけた声。
(大きな声をおしでないよ。)
 と焦(じれ)ったそうにたしなめると、大きく合点(がってん)々々しながら、
(来ましたよ。)
 ときょとんとして、仰向いて、鉄瓶を撫(な)でて澄まして言うんだ。」
「来たの、」
 と梅次が蘇生(よみがえ)った顔になる。
「三人が入乱れて、その方へ膝を向けた。
 御注進の意気込みで、お三輪も、はらりとこっちへ立って、とんと坐って、せいせい言って、
(来たんですって。ちょいと、どこの人。)
 と、でも、やっぱり、内証で言った。
 胸から半分、障子の外へ、お組が、皆(みんな)が、油へ水をさすような澄ました細面(ほそおもて)の顔を出して、
(ええ、一人お見えになりましてすよ。)
(いつさ?)
(今しがた、可厭(いや)な鴉(からす)が泣きましたろう……)
 いや、もうそれには及ばぬものはまた意地悪く聞える、と見える。
(照吉さんの様子を見に、お才はんが駆出して行(ゆ)きなすった、門(かど)を開放(あけはな)したまんまでさ。)
 皆(みんな)が振向いて門を見たんだ。」――

       二十

「その癖門(かど)の戸は閉(しま)っている。土間が狭いから、下駄が一杯、杖(ステッキ)、洋傘(こうもり)も一束。大勢余(あんま)り隙(ひま)だから、歩行出(あるきだ)したように、もぞりもぞりと籐表(とうおもて)の目や鼻緒なんぞ、むくむく動く。
 この人数が、二階に立籠(たてこも)る、と思うのに、そのまた静(しずか)さといったら無い。
 お組がその儀は心得た、という顔で、
(後で閉めたんでございますがね、三輪(みい)ちゃん、お才はんが粗々(そそ)かしく、はあ、)
 と私達を見て莞爾(にっこり)しながら、
(駆出して行(ゆ)きなすった、直き後でございますよ。入違いぐらいに、お年寄が一人、その隅(すみッ)こから、扁平(ひらべっ)たいような顔を出して覗(のぞ)いたんでございますよ。
 何でも、そこで、お上(かみ)さんに聞いて来た、とそう言いなすったようでしたっけ……すたすた二階へお上(あが)りでございました。)
 さ、耳の疎(うと)いというものは。
(どこの人よ、)
 とお三輪が擦寄って、急込(せきこ)んで聞く。
(どこのお婆さんですか。)
(お婆さんなの、ちょいと……)
 私たちが訊(たず)ねたい意(こころ)は、お三輪もよく知っている。闇(くら)がり坂以来、気になるそれが、爺(じじ)とも婆(ばば)とも判別(みわけ)が着かんじゃないか。
(でしょうよ、はあ、……余程(よっぽど)の年紀(とし)ですから。)
(いいえさ、年寄だってね、お爺さんもお婆さんもありますッさ。)
(それがね、それですがね三輪ちゃん。)
 と頭(かぶり)を掉(ふ)って、
(どっちだかよく分りません。背(せい)の低い、色の黄色蒼(あお)い、突張(つっぱ)った、硝子(ビイドロ)で張ったように照々(てらてら)した、艶(つや)の可(い)い、その癖、随分よぼよぼして……はあ、手拭(てぬぐい)を畳んで、べったり被(かぶ)って。)
 女たちは、お三輪と顔を見合わせた。
(それですが、どうかしましたか。)
(どうもこうもなくってよ……)とお三輪は情(なさけ)ない声を出す。
(不可(いけ)ませんでしたかねえ。私はやっぱり会にいらしった方か、と思って。)
 ……成程な、」
 と民弥は言い掛けて苦笑した。
「会へいらしったには相違は無い。
(今時分来る人があって、お組さん。もう二時半だわ。)
(ですがね、この土地ですし……ちょいと、御散歩にでもお出掛けなすったのが、帰って見えたかとも思いましたしさ……お怪(ばけ)の話をする、老人(としより)は居ないかッて、誰方(どなた)かお才はんに話しをしておいでだったし、どこか呼ばれて来たのかとも、後でね、考えた事ですよ。いえね、そんな汚い服装(なり)じゃありません。茶がかった鼠色の、何ですか無地もので、皺(しわ)のないのを着てでした。
 けれども、顔で覗いてその土間へお入んさすった時は、背後(うしろ)向きでね、草履でしょう、穿物(はきもの)を脱いだのを、突然(いきなり)懐中(ふところ)へお入れなさるから、もし、ッて留めたんですが、聞かぬ振(ふり)で、そして何です、そのまんま後びっしゃりに、ずるッかずるッかそこを通って、)
 と言われた時は、揃って畳の膝を摺(ず)らした。
(この階子段(はしごだん)の下から、向直ってのっそりのっそり、何だか不躾(ぶしつけ)らしい、きっと田舎のお婆さんだろうと思いました。いけ強情な、意地の悪い、高慢なねえ、その癖しょなしょなして、どうでしょう、可恐(おそろし)い裾長(すそなが)で、……地(じ)へ引摺るんでございましょうよ。
 裾端折(すそはしょり)を、ぐるりと揚げて、ちょいと帯の処へ挟んだんですがねえ、何ですか、大きな尻尾を捲(ま)いたような、変な、それは様子なんです。……
 おや、無面目(むめんもく)だよ、人の内へ、穿物(はきもの)を懐へ入れて、裾端折のまんま、まあ、随分なのが御連中の中に、とそう思っていたんですがね、へい、まぐれものなんでございますかい。)
 わなわな震えて聞いていたっけ、堪(たま)らなくなった、と見えてお三輪は私に縋(すが)り着いた。
 いや、お前も、可恐(おっか)ながる事は無い。……
 もう、そこまでになると、さすがにものの分った姉さんたちだ、お蘭さんもお種さんも、言合わせたように。私にも分った。言出して見ると皆同一(おんなじ)。」……

       二十一

「茶番さ。」
「まあ!」
「誰か趣向をしたんだね、……もっとも、昨夜(ゆうべ)の会は、最初から百物語に、白装束や打散(ぶっち)らし髪(がみ)で人を怯(おど)かすのは大人気無い、素(す)にしよう。――それで、電燈(でんき)だって消さないつもりでいたんだから。
 けれども、その、しないという約束の裏を行(ゆ)くのも趣向だろう。集った中にや、随分娑婆気(しゃばっけ)なのも少くない。きっと誰かが言合わせて、人を頼んだか、それとも自から化けたか、暗い中から密(そっ)と摺抜(すりぬ)ける事は出来たんだ。……夜は更けたし、潮時を見計らって、……確(たしか)にそれに相違無い。
 トそういう自分が、事に因ると、茶番の合棒(あいぼう)、発頭人(ほっとうにん)と思われているかも知れん。先刻(さっき)入ったという怪しい婆々(ばばあ)が、今現に二階に居て、傍(はた)でもその姿を見たものがあるとすれば……似たようなものの事を私が話したんだから。
(誰かの悪戯(いたずら)です。)
(きっとそう、)
 と婦人(おんな)だちも納得した。たちまち雲霧が晴れたように、心持もさっぱりしたろう、急に眠気(ねむけ)が除(と)れたような気がした、勇気は一倍。
 怪(け)しからん。鳥の羽に怯(おびや)かされた、と一の谷に遁込(にげこ)んだが、緋(ひ)の袴(はかま)まじりに鵯越(ひよどりご)えを逆寄(さかよ)せに盛返す……となると、お才さんはまだ帰らなかった。お三輪も、恐(こわ)いには二階が恐い、が、そのまま耳の疎(うと)いのと差対(さしむか)いじゃなお遣切(やりき)れなかったか、また袂(たもと)が重くなって、附着(くッつ)いて上(あが)ります。
 それでも、やっぱり、物干の窓の前は、私はじめ悚然(ぞっ)としたっけ。
 ばたばたと忙(せわ)しそうに皆(みんな)坐った、旧(もと)の処へ。
 で、思い思いではあるけれども、各自(めいめい)暗がりの中を、こう、……不気味も、好事(ものずき)も、負けない気も交(まじ)って、その婆々(ばばあ)だか、爺々(じじい)だか、稀有(けぶ)な奴(やつ)は、と透かした。が居ない……」
 梅次が、確めるように調子を圧(おさ)えて、
「居ないの、」
「まあ、お待ち、」
 と腕を組んで、胡坐(あぐら)を直して、伸上って一呼吸(ひといき)した。
「そこで、連中は、と見ると、いやもう散々の為体(ていたらく)。時間が時間だから、ぐったり疲切って、向うの縁側へ摺出(ずりだ)して、欄干(てすり)に臂(ひじ)を懸けて、夜風に当っているのなどは、まだ確(たしか)な分で。突臥(つっぷ)したんだの、俯向(うつむ)いたんだの、壁で頭を冷してるのもあれば、煙管(きせる)で額へ突支棒(つっかいぼう)をして、畳へ□(の)めったようなのもある。……夜汽車が更けて美濃(みの)と近江(おうみ)の国境(くにざかい)、寝覚(ねざめ)の里とでもいう処を、ぐらぐら揺(ゆす)って行(ゆ)くようで、例の、大きな腹だの、痩(や)せた肩だの、帯だの、胸だの、ばらばらになったのが遠灯(とおあかり)で、むらむらと一面に浮いて漾(ただよ)う。
(佐川さん、)
 と囁(ささや)くように、……幹事だけに、まだしっかりしていた沢岡でね。やっぱり私の隣りに坐ったのが、
(妙なものをお目に懸けます。)
(え、)
 それ、婆々か、と思うとそうじゃ無い。
(縁側の真中(まんなか)の――あの柱に、凭懸(よりかか)ったのは太田(西洋画家)さんですがね、横顔を御覧なさい、頬がげっそりして面長(おもなが)で、心持、目許(めもと)、ね、第一、髪が房々と真黒(まっくろ)に、生際(はえぎわ)が濃く……灯(あかり)の映る加減でしょう……どう見ても婦人(おんな)でしょう。婦人(おんな)も、産後か、病上(やみあが)りてった、あの、凄(すご)い蒼白(あおじろ)さは、どうです。
 もう一人、)
 と私の脇の下へ、頭を突込(つっこ)むようにして、附着(くッつ)いて、低く透かして、
(あれ、ね、床の間の柱に、仰向けに凭(もた)れた方は水島(劇評家)さんです。フト口を開(あ)きか何か、寝顔はという躾(たしなみ)で、額から顔へ、ぺらりと真白(まっしろ)は手巾(ハンケチ)を懸けなすった……目鼻も口も何にも無い、のっぺらぽう……え、百物語に魔が魅(さ)すって聞いたが、こんな事を言うんですぜ。)
 ところが、そんなので無いのが、いつか魅(さ)し掛けているので気になる……」

       二十二

「そうすると、趣向をしたのはこの人では無いらしい、企謀(もくろ)んだものなら一番懸けに、婆々(ばばあ)を見着けそうなものだから。
(ねえ、こっちにもう一つ異体(いてい)なのは、注連(しめ)でも張りそうな裸のお腹、……)
(何じゃね、)と直きに傍(そば)だったので、琴の師匠は聞着けたが、
(いいえ、こちらの事で。)幹事が笑うと、欠伸(あくび)まじりで、それなり、うとうと。
(まあ、これは一番正体が知れていますが、それでも唐突(だしぬけ)に見ると吃驚(びっくり)しますぜ。で、やっぱりそれ、燭台(しょくだい)の傍(わき)の柱に附着(くッつ)いて胡坐(あぐら)でさ。妙に人相形体(ぎょうてい)の変ったのが、三つとも、柱の処ですからね。私も今しがた敷居際の、仕切の壁の角を、摺出(ずりだ)した処ですよ。
 どうです、心得ているから可(い)いようなものの、それでいながら変に凄(すご)い。気の弱い方が、転寝(うたたね)からふっと覚際(さめぎわ)に、ひょっと一目見たら、吃驚(びっくり)しますぜ。
 魔物もやっぱり、蛇や蜘蛛(くも)なんぞのように、鴨居(かもい)から柱を伝って入って来ると見えますな。)
(可厭(いや)ですね。)
 婦人は二人、颯(さっ)と衣紋(えもん)を捌(さば)いて、□子窓(れんじまど)の前を離れた、そこにも柱があったから。
 そして、お蘭さんが、
(ああ、また……開(あ)いていますね。)
 と言うんだ。……階下(した)から二階へ帰掛けに、何の茶番が! で、私がぴったり閉めた筈(はず)。その時は勿論、婆々も爺々も見えなかった、――その物干の窓が、今の間に、すかり、とこう、切放したように、黒雲立って開(あ)いている。
 お種さんが、
(憚(はばか)り様、どうかそこをお閉め下さいまし。)
 こう言って声を懸けた。――誰か次の室(ま)の、その窓際に坐っているのが見えたんだろう。
 お聞き……そうすると……壁腰、――幹事の沢岡が気にして摺退(すりの)いたという、敷居外の柱の根の処で、
(な、)
 と云う声だ! 私は氷を浴びたように悚然(ぞっ)とした。
(閉(しめ)い言うて、云わしゃれても、な、埒(らち)明(あ)かん。閉めれば、その跡から開けるで、やいの。)
 聞くと、筋も身を引釣(ひッつ)った、私は。日暮に谷中の坂で聞いた、と同じじゃないか。もっとも、年寄りは誰某(だれそれ)と人を極(き)めないと、どの声も似てはいるが。
 それに、言い方が、いかにも邪慳(じゃけん)に、意地悪く聞えたせいか、幹事が、対手(あいて)は知らず、ちょっと詰(なじ)るように、
(誰が明けます。)
(誰や知らん。)
(はあ、閉める障子を明ける人がありますか。)
(棺の蓋(ふた)は一度じゃが、な、障子は幾度(いくたび)でも開けられる、閉(た)てられるがいの。)

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