吉原新話
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著者名:泉鏡花 

(今しがた、可厭(いや)な鴉(からす)が泣きましたろう……)
 いや、もうそれには及ばぬものはまた意地悪く聞える、と見える。
(照吉さんの様子を見に、お才はんが駆出して行(ゆ)きなすった、門(かど)を開放(あけはな)したまんまでさ。)
 皆(みんな)が振向いて門を見たんだ。」――

       二十

「その癖門(かど)の戸は閉(しま)っている。土間が狭いから、下駄が一杯、杖(ステッキ)、洋傘(こうもり)も一束。大勢余(あんま)り隙(ひま)だから、歩行出(あるきだ)したように、もぞりもぞりと籐表(とうおもて)の目や鼻緒なんぞ、むくむく動く。
 この人数が、二階に立籠(たてこも)る、と思うのに、そのまた静(しずか)さといったら無い。
 お組がその儀は心得た、という顔で、
(後で閉めたんでございますがね、三輪(みい)ちゃん、お才はんが粗々(そそ)かしく、はあ、)
 と私達を見て莞爾(にっこり)しながら、
(駆出して行(ゆ)きなすった、直き後でございますよ。入違いぐらいに、お年寄が一人、その隅(すみッ)こから、扁平(ひらべっ)たいような顔を出して覗(のぞ)いたんでございますよ。
 何でも、そこで、お上(かみ)さんに聞いて来た、とそう言いなすったようでしたっけ……すたすた二階へお上(あが)りでございました。)
 さ、耳の疎(うと)いというものは。
(どこの人よ、)
 とお三輪が擦寄って、急込(せきこ)んで聞く。
(どこのお婆さんですか。)
(お婆さんなの、ちょいと……)
 私たちが訊(たず)ねたい意(こころ)は、お三輪もよく知っている。闇(くら)がり坂以来、気になるそれが、爺(じじ)とも婆(ばば)とも判別(みわけ)が着かんじゃないか。
(でしょうよ、はあ、……余程(よっぽど)の年紀(とし)ですから。)
(いいえさ、年寄だってね、お爺さんもお婆さんもありますッさ。)
(それがね、それですがね三輪ちゃん。)
 と頭(かぶり)を掉(ふ)って、
(どっちだかよく分りません。背(せい)の低い、色の黄色蒼(あお)い、突張(つっぱ)った、硝子(ビイドロ)で張ったように照々(てらてら)した、艶(つや)の可(い)い、その癖、随分よぼよぼして……はあ、手拭(てぬぐい)を畳んで、べったり被(かぶ)って。)
 女たちは、お三輪と顔を見合わせた。
(それですが、どうかしましたか。)
(どうもこうもなくってよ……)とお三輪は情(なさけ)ない声を出す。
(不可(いけ)ませんでしたかねえ。私はやっぱり会にいらしった方か、と思って。)
 ……成程な、」
 と民弥は言い掛けて苦笑した。
「会へいらしったには相違は無い。
(今時分来る人があって、お組さん。もう二時半だわ。)
(ですがね、この土地ですし……ちょいと、御散歩にでもお出掛けなすったのが、帰って見えたかとも思いましたしさ……お怪(ばけ)の話をする、老人(としより)は居ないかッて、誰方(どなた)かお才はんに話しをしておいでだったし、どこか呼ばれて来たのかとも、後でね、考えた事ですよ。いえね、そんな汚い服装(なり)じゃありません。茶がかった鼠色の、何ですか無地もので、皺(しわ)のないのを着てでした。
 けれども、顔で覗いてその土間へお入んさすった時は、背後(うしろ)向きでね、草履でしょう、穿物(はきもの)を脱いだのを、突然(いきなり)懐中(ふところ)へお入れなさるから、もし、ッて留めたんですが、聞かぬ振(ふり)で、そして何です、そのまんま後びっしゃりに、ずるッかずるッかそこを通って、)
 と言われた時は、揃って畳の膝を摺(ず)らした。
(この階子段(はしごだん)の下から、向直ってのっそりのっそり、何だか不躾(ぶしつけ)らしい、きっと田舎のお婆さんだろうと思いました。いけ強情な、意地の悪い、高慢なねえ、その癖しょなしょなして、どうでしょう、可恐(おそろし)い裾長(すそなが)で、……地(じ)へ引摺るんでございましょうよ。
 裾端折(すそはしょり)を、ぐるりと揚げて、ちょいと帯の処へ挟んだんですがねえ、何ですか、大きな尻尾を捲(ま)いたような、変な、それは様子なんです。……
 おや、無面目(むめんもく)だよ、人の内へ、穿物(はきもの)を懐へ入れて、裾端折のまんま、まあ、随分なのが御連中の中に、とそう思っていたんですがね、へい、まぐれものなんでございますかい。)
 わなわな震えて聞いていたっけ、堪(たま)らなくなった、と見えてお三輪は私に縋(すが)り着いた。
 いや、お前も、可恐(おっか)ながる事は無い。……
 もう、そこまでになると、さすがにものの分った姉さんたちだ、お蘭さんもお種さんも、言合わせたように。私にも分った。言出して見ると皆同一(おんなじ)。」……

       二十一

「茶番さ。」
「まあ!」
「誰か趣向をしたんだね、……もっとも、昨夜(ゆうべ)の会は、最初から百物語に、白装束や打散(ぶっち)らし髪(がみ)で人を怯(おど)かすのは大人気無い、素(す)にしよう。――それで、電燈(でんき)だって消さないつもりでいたんだから。
 けれども、その、しないという約束の裏を行(ゆ)くのも趣向だろう。集った中にや、随分娑婆気(しゃばっけ)なのも少くない。きっと誰かが言合わせて、人を頼んだか、それとも自から化けたか、暗い中から密(そっ)と摺抜(すりぬ)ける事は出来たんだ。……夜は更けたし、潮時を見計らって、……確(たしか)にそれに相違無い。
 トそういう自分が、事に因ると、茶番の合棒(あいぼう)、発頭人(ほっとうにん)と思われているかも知れん。先刻(さっき)入ったという怪しい婆々(ばばあ)が、今現に二階に居て、傍(はた)でもその姿を見たものがあるとすれば……似たようなものの事を私が話したんだから。
(誰かの悪戯(いたずら)です。)
(きっとそう、)
 と婦人(おんな)だちも納得した。たちまち雲霧が晴れたように、心持もさっぱりしたろう、急に眠気(ねむけ)が除(と)れたような気がした、勇気は一倍。
 怪(け)しからん。鳥の羽に怯(おびや)かされた、と一の谷に遁込(にげこ)んだが、緋(ひ)の袴(はかま)まじりに鵯越(ひよどりご)えを逆寄(さかよ)せに盛返す……となると、お才さんはまだ帰らなかった。お三輪も、恐(こわ)いには二階が恐い、が、そのまま耳の疎(うと)いのと差対(さしむか)いじゃなお遣切(やりき)れなかったか、また袂(たもと)が重くなって、附着(くッつ)いて上(あが)ります。
 それでも、やっぱり、物干の窓の前は、私はじめ悚然(ぞっ)としたっけ。
 ばたばたと忙(せわ)しそうに皆(みんな)坐った、旧(もと)の処へ。
 で、思い思いではあるけれども、各自(めいめい)暗がりの中を、こう、……不気味も、好事(ものずき)も、負けない気も交(まじ)って、その婆々(ばばあ)だか、爺々(じじい)だか、稀有(けぶ)な奴(やつ)は、と透かした。が居ない……」
 梅次が、確めるように調子を圧(おさ)えて、
「居ないの、」
「まあ、お待ち、」
 と腕を組んで、胡坐(あぐら)を直して、伸上って一呼吸(ひといき)した。
「そこで、連中は、と見ると、いやもう散々の為体(ていたらく)。時間が時間だから、ぐったり疲切って、向うの縁側へ摺出(ずりだ)して、欄干(てすり)に臂(ひじ)を懸けて、夜風に当っているのなどは、まだ確(たしか)な分で。突臥(つっぷ)したんだの、俯向(うつむ)いたんだの、壁で頭を冷してるのもあれば、煙管(きせる)で額へ突支棒(つっかいぼう)をして、畳へ□(の)めったようなのもある。……夜汽車が更けて美濃(みの)と近江(おうみ)の国境(くにざかい)、寝覚(ねざめ)の里とでもいう処を、ぐらぐら揺(ゆす)って行(ゆ)くようで、例の、大きな腹だの、痩(や)せた肩だの、帯だの、胸だの、ばらばらになったのが遠灯(とおあかり)で、むらむらと一面に浮いて漾(ただよ)う。
(佐川さん、)
 と囁(ささや)くように、……幹事だけに、まだしっかりしていた沢岡でね。やっぱり私の隣りに坐ったのが、
(妙なものをお目に懸けます。)
(え、)
 それ、婆々か、と思うとそうじゃ無い。
(縁側の真中(まんなか)の――あの柱に、凭懸(よりかか)ったのは太田(西洋画家)さんですがね、横顔を御覧なさい、頬がげっそりして面長(おもなが)で、心持、目許(めもと)、ね、第一、髪が房々と真黒(まっくろ)に、生際(はえぎわ)が濃く……灯(あかり)の映る加減でしょう……どう見ても婦人(おんな)でしょう。婦人(おんな)も、産後か、病上(やみあが)りてった、あの、凄(すご)い蒼白(あおじろ)さは、どうです。
 もう一人、)
 と私の脇の下へ、頭を突込(つっこ)むようにして、附着(くッつ)いて、低く透かして、
(あれ、ね、床の間の柱に、仰向けに凭(もた)れた方は水島(劇評家)さんです。フト口を開(あ)きか何か、寝顔はという躾(たしなみ)で、額から顔へ、ぺらりと真白(まっしろ)は手巾(ハンケチ)を懸けなすった……目鼻も口も何にも無い、のっぺらぽう……え、百物語に魔が魅(さ)すって聞いたが、こんな事を言うんですぜ。)
 ところが、そんなので無いのが、いつか魅(さ)し掛けているので気になる……」

       二十二

「そうすると、趣向をしたのはこの人では無いらしい、企謀(もくろ)んだものなら一番懸けに、婆々(ばばあ)を見着けそうなものだから。
(ねえ、こっちにもう一つ異体(いてい)なのは、注連(しめ)でも張りそうな裸のお腹、……)
(何じゃね、)と直きに傍(そば)だったので、琴の師匠は聞着けたが、
(いいえ、こちらの事で。)幹事が笑うと、欠伸(あくび)まじりで、それなり、うとうと。
(まあ、これは一番正体が知れていますが、それでも唐突(だしぬけ)に見ると吃驚(びっくり)しますぜ。で、やっぱりそれ、燭台(しょくだい)の傍(わき)の柱に附着(くッつ)いて胡坐(あぐら)でさ。妙に人相形体(ぎょうてい)の変ったのが、三つとも、柱の処ですからね。私も今しがた敷居際の、仕切の壁の角を、摺出(ずりだ)した処ですよ。
 どうです、心得ているから可(い)いようなものの、それでいながら変に凄(すご)い。気の弱い方が、転寝(うたたね)からふっと覚際(さめぎわ)に、ひょっと一目見たら、吃驚(びっくり)しますぜ。
 魔物もやっぱり、蛇や蜘蛛(くも)なんぞのように、鴨居(かもい)から柱を伝って入って来ると見えますな。)
(可厭(いや)ですね。)
 婦人は二人、颯(さっ)と衣紋(えもん)を捌(さば)いて、□子窓(れんじまど)の前を離れた、そこにも柱があったから。
 そして、お蘭さんが、
(ああ、また……開(あ)いていますね。)
 と言うんだ。……階下(した)から二階へ帰掛けに、何の茶番が! で、私がぴったり閉めた筈(はず)。その時は勿論、婆々も爺々も見えなかった、――その物干の窓が、今の間に、すかり、とこう、切放したように、黒雲立って開(あ)いている。
 お種さんが、
(憚(はばか)り様、どうかそこをお閉め下さいまし。)
 こう言って声を懸けた。――誰か次の室(ま)の、その窓際に坐っているのが見えたんだろう。
 お聞き……そうすると……壁腰、――幹事の沢岡が気にして摺退(すりの)いたという、敷居外の柱の根の処で、
(な、)
 と云う声だ! 私は氷を浴びたように悚然(ぞっ)とした。
(閉(しめ)い言うて、云わしゃれても、な、埒(らち)明(あ)かん。閉めれば、その跡から開けるで、やいの。)
 聞くと、筋も身を引釣(ひッつ)った、私は。日暮に谷中の坂で聞いた、と同じじゃないか。もっとも、年寄りは誰某(だれそれ)と人を極(き)めないと、どの声も似てはいるが。
 それに、言い方が、いかにも邪慳(じゃけん)に、意地悪く聞えたせいか、幹事が、対手(あいて)は知らず、ちょっと詰(なじ)るように、
(誰が明けます。)
(誰や知らん。)
(はあ、閉める障子を明ける人がありますか。)
(棺の蓋(ふた)は一度じゃが、な、障子は幾度(いくたび)でも開けられる、閉(た)てられるがいの。)
(可(い)いから、閉めて下さい、夜が更けて冷えるんですから、)と幹事も不機嫌な調子で言う。
(惜(お)きましょ。透通いて見えん事は無けれどもよ……障子越は目に雲霧じゃ、覗(のぞ)くにはっきりとよう見えんがいの。)
(誰か、物干から覗くんですかね。)
(彼(かれ)にも誰(たれ)にも、大勢、な、)
(大勢、……誰です、誰です。)
 と、幹事もはじめて、こう逆に捻向(ねじむ)いて背後(うしろ)を見た。
(誰や言うてもな、殿、殿たちには分らぬ、やいの、形も影も、暗い、暗い、暗い、見えぬぞ、殿。)
(明るくしよう、)
 と幹事も何か急込(せきこ)んで、
(三輪(みい)ちゃん、電燈(でんき)を、電燈(でんき)を、)
 と云ったが、どうして、あの娘(こ)が動き得ますか。私の膝に、可哀相に、襟を冷たくして突臥(つっぷ)したッきり。
「措(お)きませ、措きませい。無駄な事よ、殿、地獄の火でも呼ばぬ事には、明るくしてかて、殿たちの目に、何が見えよう。……見えたら異事(こと)じゃぞよ、異事じゃぞよ、の。見えぬで僥倖(しあわせ)いの、……一目見たら、やあ、殿、殿たちどうなろうと思わさる。やあ、)
 と口を、ふわふわと開けるかして、声が茫(ぼう)とする。」

       二十三

「幹事が屹(きっ)として、
(誰です、お前さんは、)
 と聞いた。この時、睡(ねむ)っていない人が一人でもあるとすれば、これは、私はじめ待構えた問(とい)だった。
(私(わし)か、私か、……殿、)
 と聞返して、
(同じ仲間のものじゃが、やいの。)
(夥間(なかま)? 私たちの?)
(誰がや、……誰がや、)
 と嘲(あざけ)るように二度言って、
(殿たちの。私(わし)が言うは近間に居る、大勢の、の、その夥間じゃ、という事いの。)
(何かね、廓(くるわ)の人かね。)
(されば、松の森、杉の林、山懐(やまふところ)の廓のものじゃ。)
(どこから来ました。)
(今日は谷中の下闇(したやみ)から、)
(佐川さん、)
 と少し声高に、幹事が私を呼ぶじゃないか。
 私は黙っていたんだ。
 しばらくして、
(何をしに……)
(「とりあげ」をしょうために、な、殿、「とりあげ」に来たぞ、やいの。)
(嬰児(あかんぼ)を産ませるのか。)
(今、無い、ちょうど間に合うて「とりあげ」る小児(こども)は無い。)
(そんな、誂(あつら)えた[#「誂えた」は底本では「誹えた」]ようなお産があるものか、お前さん、頼まれて来たんじゃ無いのかね。)
(さればのう、頼まれても来たれど、な、催促にももう来たがいの。来たれどもの、仔細(しさい)あってまだ「とりあげ」られぬ。)
(むむ、まだ産れないのか。)
(何がいの、まだ、死にさらさぬ。)
(死……死なぬとは?)
(京への、京へ、遠くへ行ている、弟和郎(わろ)に、一目(ひとめ)未練が残るげな。)
 幹事はハタと口をつぐんだ。
(そこでじゃがや、姉(あね)めが乳の下の鳩落(みずおち)な、蝮指(まむしゆび)の蒼(あお)い爪で、ぎりぎりと錐(きり)を揉(も)んで、白い手足をもがもがと、黒髪を煽(あお)って悶(もだ)えるのを見て、鳥ならば活(い)きながら、羽毛(けば)を□(むし)った処よの。さて、それだけで帰りがけじゃい、の、殿、その帰るさに、これへ寄った。)
(そこに居るのは誰だ。)
 と向うの縁側の処から、子爵が声を懸けた。……私たちは、フト千騎の味方を得たように思う。
 ト此方(こなた)で澄まして、
(誰でも無いがの。)
(いや、誰でも構わん。が、洒落(しゃれ)も串戯(じょうだん)も可加減(いいかげん)にした方が可(い)いと思う。こう言うと大人気ないが、婦人も居てだ。土地っ児(こ)の娘も聞いてる……一座をすれば我々の連中だ。悪戯(いたずら)も可(い)いが、余り言う事が残酷過ぎる。……外の事じゃない。
 弟を愛して、――それが出来得る事でも出来ない事でも、その身代りに死ぬと云って覚悟をしている大病人。現に、夜伽(よとぎ)をして、あの通り、灯(あかり)がそこに見えるじゃないか。
 それこそ、何にも知らぬ事だ。ちっとも差支えは無いようなものの、あわれなその婦(おんな)を、直ぐ向うに苦しませておいて、呑気(のんき)そうに、夜通しのこの会さえ、何だか心ないような気がして、私なんぞは鬱(ふさ)いでいるんだ。
 仕様もあろうのに、その病人を材料(たね)にして、約束の生命(いのち)を「とりあげ」に来たが、一目弟を見たがるから猶予をした、胸に爪を立てて苦しませたとはどうだ。
 聞いちゃおられん、余(あんま)り残酷で。可加減(いいかげん)にしておきなさい。誰だか。)
 と凜々(りんりん)と云う。
 聞きも果てずに、
(酷(むご)いとは、酷いとは何じゃ、の、何がや、向うの縁側のその殿、酷いとはいの、やいの、酷いとはいの。)
 と畳掛けるように、しかも平気な様子。――向うの縁側のその殿――とは言種(いいぐさ)がどうだい。」

       二十四

「子爵が屹(きっ)となって、坐り直った様(よう)だっけ。
(知らんか、残酷という事を、知らなけりゃ聞かせようじゃないか、前へ出ないか、おい、こっちへ入らんか。)
(行(ゆ)こうのう、殿、その傍(そば)へ参ろうじゃがの、そこに汚穢(むさ)いものがあろうがや。早やそれが、汚穢うて汚穢うてならぬ。……退(の)けてくされませ、殿、)と言うんだ。
(汚(むさ)いもの、何がある。)
(小丼に入れた、青梅の紫蘇巻(しそまき)じゃ。や、香もならぬ、ふっふっ。ええ、胸悪やの、先刻(さっき)にから。……早く退(ど)けしゃらぬと、私(わし)も嘔吐(もど)そう、嘔吐そう、殿。)
 茶うけに出ていた甘露梅の事だ。何か、女児(おんなご)も十二三でなければ手に掛けないという、その清浄(しょうじょう)な梅漬を、汚穢くてならぬ、嘔吐すと云う。
(吐きたければ吐け、何だ。)
(二寸の蚯蚓(みみず)、三寸の蛇、ぞろぞろと嘔吐すが怪(け)しゅうないか。)
 余り言種(いいぐさ)が自棄(やけ)だから、
(蛇や蚯蚓は構わんが、そこらで食って来た饂飩(うどん)なんか吐かれては恐縮だ。悪い酒を呷(あお)ったろう。佐川さん、そこらにあったら片附けておやんなさい。)
 私は密(そっ)と押遣(おしや)って、お三輪と一所に婦人だちを背後(うしろ)へ庇(かば)って、座を開く、と幹事も退(の)いて、私に並んで楯(たて)になる。
 次の間かけて、敷居の片隅、大きな畳の穴が開いた。そこを……もくもく、鼠に茶色がかった朦朧(もうろう)とした形が、フッ、と出て、浮いて、通った。――
 どうやら、臀(しり)から前(さき)へ、背後(うしろ)向きに入るらしい。
 ト前へ被(かぶ)さった筈(はず)だけれども、琴の師匠の裸の腹はやっぱり見えた。縁側の柱の元へ、音もなく、子爵に並んだ、と見ると、……気のせいだろう、物干の窓は、ワヤワヤと気勢(けはい)立って、奴(やつ)が今居るあたりまで、ものの推込(おしこ)んだ様子がある。なぜか、向うの、その三階の蚊帳が、空へずッと高くなったように思う。
 ちょうど、子爵とその婆(ばばあ)との間に挟まる、柱に凭(もた)れた横顔が婦人(おんな)に見える西洋画家は、フイと立って、真暗(まっくら)な座敷の隅へ姿を消した。真個(しん)に寐入っていたのでは無かったらしい。
(残酷というのはね、仮にもしろ、そんな、優しい、可憐(いじらし)い、――弟のために身代りになるというような、若い人の生命(いのち)を「とりあげ」に来たなどという事なんだ。世の中には、随分、娑婆塞(しゃばふさ)げな、死損(しにぞこな)いな、)
 と子爵も間近に、よくその婆々(ばばあ)を認めたろう、……当てるように、そう言って、
(邪魔な生命(いのち)もあるもんだ。そんな奴(やつ)の胸に爪を立てる方がまだしもだな。)
(その様な生命(いのち)はの、殿、殿たちの方で言うげな、……病(やみ)ほうけた牛、痩(や)せさらぼえた馬で、私等(わしら)がにも役にも立たぬ。……あわれな、というはの、膏(あぶら)の乗った肉じゃ、いとしいというはの、薫(かおり)の良(い)い血じゃぞや。な、殿。――此方衆(こなたしゅ)、鳥を殺さしゃるに、親子の恩愛を思わっしゃるか。獣を殺しますに、兄弟の、身代りの見境(みさかい)があるかいの。魚(うお)も虫も同様(おなじ)での。親があるやら、一粒種やら、可愛いの、いとしいの、分隔てをめされますかの。
 弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛を□(むし)る、腹を抜く、背を刮(ひら)く……串刺(くしざし)じゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎(ほのお)で焼く、活(い)きながら鱠(なます)にも刻むげなの、やあ、殿。……餓(ひも)じくばまだしもよ、栄耀(えよう)ぐいの味醂蒸(みりんむし)じゃ。
 馴(な)れれば、ものよ、何がそれを、酷(ひど)いとも、いとしいとも、不便(ふびん)なとも思わず。――一ツでも繋(つな)げる生命(いのち)を、二羽も三頭(みッつ)も、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。
 誰もそれを咎(とが)めはせまい。咎めたとて聞えまい、私(わし)も言わぬ、私もそれを酷(むご)いと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便(ふびん)もいとしいも知らねばこそいの。――何と、殿、酷(むご)い事を知らぬものは、何と殿、殿たちにも結構に、重宝にあろうが、やいの、のう、殿。)
(何とでも言え、対手(あいて)にもならん。それでも何か、そういうものは人間か。)
 と吐出すように子爵が言った。」

       二十五

「ト其奴(そいつ)が薄笑いをしたようで、
(何じゃ、や、人間らしく無いと言うか。誰が人間になろうと云うた。殿たち、人間がさほど豪(えら)いか、へ、へ、へ、)
 とさげすんで、
(この世のなかはの、人間ばかりのもので無い。私等(わしら)が国はの、――殿、殿たちが、目の及ばぬ処、耳に聞えぬ処、心の通わぬ処、――広大な国じゃぞの。
 殿たちの空を飛ぶ鳥は、私等(わしら)が足の下を這廻(はいまわ)る、水底(みなそこ)の魚(うお)が天翔(あまか)ける。……烏帽子(えぼし)を被(かぶ)った鼠、素袍(すおう)を着た猿、帳面つける狐も居る、竈(かまど)を炊く犬も居(お)る、鼬(いたち)が米(こめ)舂(つ)く、蚯蚓(みみず)が歌う、蛇が踊る、……や、面白い世界じゃというて、殿たちがものとは較べられぬ。
 何――不自由とは思わねども、ただのう、殿たち、人間が無いに因って、時々来ては攫(さら)えて行(ゆ)く……老若男女(ろうにゃくなんにょ)の区別は無い。釣針にかかった勝負じゃ、緑の髪も、白髪(しらが)も、顔はいろいろの木偶(でく)の坊。孫等(まごども)に人形の土産じゃがの、や、殿。殿たち人間の人形は、私等が国の玩弄物(おもちゃ)じゃがの。
 身代りになる美(よ)い婦(おんな)なぞは、白衣(びゃくえ)を着せて雛(ひな)にしょう。芋殻(いもがら)の柱で突立(つった)たせて、やの、数珠(じゅず)の玉を胸に掛けさせ、)
 いや、もう聞くに堪えん。
(まあ、面を取れ、真面目(まじめ)に話す。)と子爵が憤ったように言う。
(面、)
(面だ。)
 面だ、面だ、と囁(ささや)く声が、そこここに、ひそひそ聞えた。眠らずにいた連中には、残らず面に見えたらしい。
 成程、そう言えば、端近へ出てから、例の灯(あかり)の映る、その扁平(ひらった)い、むくんだ、が瓜核(うりざね)といった顔は、蒼黄色(あおきいろ)に、すべすべと、皺(しわ)が無く、艶(つや)があって、皮一重(ひとえ)曇った硝子(ビイドロ)のように透通って、目が穴に、窪んで、掘って、眉が無い。そして、唇の色が黒い。気が着くと、ものを云う時も、奴(やつ)、薄笑(うすわらい)をする時も、さながら彫刻(ほりつ)けたもののようで静(じっ)としたッきり、口も頬もビクとも動かぬ。眉……眉はぬっぺりとして跡も無い、そして、手拭(てぬぐい)を畳んだらしいものを、額下りに、べたん、と頭へ載せているんだ。
(いや、いや、)
 と目鼻の動かぬ首を振って、
(除(と)るまい、除らぬは慈悲じゃ。この中には、な、画(え)を描(か)き彫刻(ほりもの)をする人もある、その美しいものは、私等(わしら)が国から、遠く指(ゆびさ)す花盛(はなざかり)じゃ、散らすは惜しいに因って、わざと除らぬぞ!……何が、気の弱い此方(こなた)たちが、こうして人間の面を被(かぶ)っておればこそ、の、私(わし)が顔を暴露(むきだ)いたら、さて、一堪(ひとたま)りものう、髯(ひげ)が生えた玩弄物(おもちゃ)に化(な)ろうが。)
(灯(あかり)を点(つ)けよう、何しろ。)
 と、幹事が今は蹌踉(よろ)けながら手探りで立とうとする。子爵が留めて、
(お待ちなさい。串戯(じょうだん)も嵩(こう)じると、抜差しが出来なくなる。誰か知らんが、悪戯(いたずら)がちと過ぎます。面は内証で取るが可(い)い、今の内ならちっとも分らん、電燈(でんき)を点(つ)けてからは消え憎(にく)くなるだろう。)
 子爵はどこまでも茶番だ、と信ずるらしい。
 ……後で聞くと、中には、対方(あいて)を拵(こしら)えて応答(うけこたえ)をする、子爵その人が、悪戯をしているんだ、と思ったのもあったんだ。
(明るさ、暗さの差別は無いが、の、の、殿、私(わし)がしょう事、それをせねば、日が出ましても消えはせぬが。)
(可(よし)、何をしに来たんだ、ここへ。……まあ、仮にそっちが言う通りのものだとすると。)
(されば、さればの、殿。……)
 とまた落着いたように、ぐたりと胸を折った、蹲(うずくま)った形が挫(ひしゃ)げて見えて、
(身代りが、――その儀(こと)で、やいの、の、殿、まだ「とりあげ」が出来ぬに因って、一つな、このあたりで、間に合わせに、奪(と)ろう!……さて、どれにしょうぞ、と思うて見入って、視(なが)め廻(まわ)いていたがやいの、のう、殿。)
 皆(みんな)、――黙った。
(殿、ふと気紛(きまぐ)れて出て、思懸(おもいがけ)のう懇(ねんごろ)申した験(しるし)じゃ、の、殿、望ましいは婦人(おなご)どもじゃ、何と上□(じょうろう)を奪ろうかの。)
 婦人(おんな)たちのその時の様子は、察して可(よ)かろう。」

       二十六

「奴(やつ)は勝ほこった体(てい)で、毛筋も動かぬその硝子面(ビイドロめん)を、穴蔵の底に光る朽木のように、仇艶(あだつや)を放って□(みまわ)しながら、
(な、けれども、殿、殿たちは上□(じょうろう)を庇(かば)わしゃろうで、懇(ねんごろ)申した効(かい)に、たってとはよう言わぬ。選まっしゃれ、選んで指さっしゃれ、それを奪(と)ろう。……奪ろう。……それを奪ろう! やいの、殿。)
 と捲(まく)し掛けて、
(ここには見えぬ、なれども、殿たちの妻、子、親、縁者、奴婢(しもべはした)、指さっしゃれば、たちどころに奪って見しょう。)
 と言語道断な事を。
 とはたはたと廂(ひさし)の幕が揺動いて、そのなぐれが、向う三階の蚊帳(かや)を煽(あお)った、その時、雨を持った風が颯(さっ)と吹いた。
(また……我を、と名告(なの)らっしゃれ……殿、殿ならば殿を奪(と)ろう。)
(勝手にしろ、馬鹿な。)
 と唾吐くように、忌々(いまいま)しそうに打棄(うっちゃ)って、子爵は、くるりと戸外(おもて)を向いた。
(随意(まま)にしょうでは気迷うぞいの、はて?……)
 とその面はつけたりで、畳込んだ腹の底で声が出る。
(さて……どれもどれも好ましい。やあ、天井、屋の棟にのさばる和郎等(わろら)! どれが望みじゃ。やいの、)
 と心持仰向くと、不意に何と……がらがら、どど、がッと鼠か鼬(いたち)だろう、蛇も交(まじ)るか、凄(すさま)じく次の室(ま)を駆けて荒廻ると、ばらばらばらばらと合せ目を透いて埃(ほこり)が落ちる。
(うむ、や、和郎等(わろども)。埃を浴びせた、その埃のかかったものが欲(ほし)いと言うかの――望みかいの。)
 ばたばた、はらはらと、さあ、情(なさけ)ない、口惜(くやし)いが、袖や袂(たもと)を払(はた)いた音。
(やれ羽(は)打つ、へへへ、小鳥のように羽掻(はがい)を煽(あお)つ、雑魚(ざこ)のように刎(は)ねる、へへ。……さて、騒ぐまい、今がはそで無い。そうでは無いげじゃ。どの玩弄物(おもちゃ)欲しい、と私(わし)が問うたでの、前(さき)へ悦喜の雀躍(こおどり)じゃ、……這奴等(しゃつら)、騒ぐまい、まだ早い。殿たち名告(なの)らずば、やがて、選(え)ろう、選取(よりど)りに私が選(よ)って奪(と)ろう!)
(勝手にして、早く退座をなさい、余りといえば怪(け)しからん。無礼だ、引取れ。)
 と子爵が喝した、叱ったんだ。
(催促をせずと可(よ)うござる。)
 と澄まし返って、いかにも年寄くさく口の裡(うち)で言った、と思うと、
(やあ、)
 と不意に調子を上げた。ものを呼びつけたようだっけ。幽(かすか)に一つ、カアと聞えて、またたく間に、水道尻から三ツのその灯(あかり)の上へかけて、棟近い処で、二三羽、四五羽、烏が啼(な)いた、可厭(いや)な声だ。
(カアカアカア――)
 と婆々(ばばあ)が遣(や)ったが、嘴(くちばし)も尖(とが)ったか、と思う、その黒い唇から、正真(しょうじん)の烏の声を出して、
(カアカア来しゃれえ! 火の車で。)
 と喚(わめ)く、トタンに、吉原八町、寂(しん)として、廓(くるわ)の、地(じ)の、真中(まんなか)の底から、ただ一ツ、カラカラと湧上(わきあが)ったような車の音。陰々と響いて、――あけ方早帰りの客かも知れぬ――空へ舞上ったように思うと、凄(すご)い音がして、ばッさりと何か物干の上へ落ちた。
(何だ!)
 と言うと、猛然として、ずんと立って、堪えられぬ……で、地響(じひびき)で、琴の師匠がずかずかと行って、物干を覗(のぞ)いたっけ。
 裸脱(はだぬ)ぎの背に汗を垂々(たらたら)と流したのが、灯(ともし)で幽(かすか)に、首を暗夜(やみ)へ突込(つっこ)むようにして、
(おお、稲妻が天王寺の森を走る、……何じゃ、これは、烏の死骸をどうするんじゃい。)と引掴(ひッつか)んで来て、しかも癪(しゃく)に障った様子で、婆々(ばばあ)の前へ敲(たた)きつけた。
 あ、弱った。……
 その臭気といったらない。
 皆(みんな)、ただ呼吸(いき)を詰めた。
 婆々が、ずらずらとその蛆(うじ)の出そうな烏の死骸を、膝の前へ、蒼(あお)い頤(おとがい)の下へ引附けた。」

       二十七

「で、頭(ず)を下げて、熟(じっ)と見ながら、
(蠅(はえ)よ、蠅よ、蒼蠅(あおばえ)よ。一つ腸(はらわた)の中を出(で)され、ボーンと。――やあ、殿、上□(じょうろう)たち、私(わし)がの、今ここを引取るついでに、蒼蠅を一ツ申そう。ボーンと飛んで、額、頸首(えりくび)、背(せなか)、手足、殿たちの身体(からだ)にボーンと留まる、それを所望じゃ。物干へ抜いて、大空へ奪(と)って帰ろう。名告(なの)らしゃれ。蠅がたからば名告らしゃれ。名告らぬと卑怯(ひきょう)なぞ。人間は卑怯なものと思うぞよ。笑うぞよ……可(よ)いか、蒼蠅を忘れまい。
 蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ、ボーンと出され、おじゃった! おお!)
 一座残らず、残念ながら動揺(どよ)めいた。
 トふわりと起(た)ったが、その烏の死骸をぶら下げ、言おうようの無い悪臭を放って、一寸、二寸、一尺ずつ、ずるずると引いた裾(すそ)が、長く畳を摺(す)ったと思うと、はらりと触ったかして、燭台(しょくだい)が、ばったり倒れた。
 その時、捻向(ねじむ)いて、くなくなと首を垂れると、摺(ず)った後褄(うしろづま)を、あの真黒(まっくろ)な嘴(くちばし)で、ぐい、と啣(くわ)えて上げた、と思え。……鳥のような、獣のような異体(いてい)な黄色い脚を、ぬい、と端折(はしょ)った、傍若無人で。
(ボーン、ボーン、ボーン、)と云うのが、ねばねばと、重っくるしく、納豆の糸を引くように、そして、点々(ぽちぽち)と切れて、蒼蠅の羽音やら、奴(やつ)の声やら分らぬ。
 そのまま、ふわりとして、飜然(ひらり)と上(あが)った。物干の暗黒(やみ)へ影も隠れる。
(あれ。)
 と真前(まっさき)に言ったはお三輪で。
(わ、)とまた言った人がある。
 さあ、膝で摺(ず)る、足で退(の)く、ばたばたと二階の口まで駆出したが、
(ええ)と引返(ひっかえ)したは誰だっけ。……蠅が背後(うしろ)から縋(すが)ったらしい。
 物干から、
(やあ、小鳥のように羽打つ、雑魚(ざこ)のように刎(は)ねる。はて、笑止じゃの。名告(なの)れ、名告らぬか、さても卑怯な。やいの、殿たち。上□たち。へへへ、人間ども。ボーン、ボーン、ボーン、あれ、それそれ転ぶわ、□(の)めるわ、這(は)うわ。とまったか、たかったか。誰じゃ、名告れ、名告らぬか、名告れ。……ボーン、)
 と云う時、稲妻が閃(ひら)めいて、遠い山を見るように天王寺の森が映った。
 皆ただ、蠅の音がただ、雷(はたたがみ)のように人々の耳に響いた。
 ただ一縮みになった時、
(ほう、)
 と心着いたように、物干のその声が、
(京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りの婦(おんな)を奪ろう!……も一つ他(ほか)にもある。両の袂(たもと)で持重(もちおも)ろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上□たち、此方衆(こなたしゅ)にはただ遊うだじゃいの。道すがら懇(ねんごろ)申した戯(たわむれ)じゃ。安堵(あんど)さっしゃれ、蠅は掌(たなそこ)へ、ハタと掴(つか)んだ。
 さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)
 ばっと屋上(やのうえ)を飛ぶ音がした。
 フッと見ると、夜が白(しら)んで、浅葱(あさぎ)になった向うの蚊帳(かや)へ、大きな影がさしたっけ。けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯(しごき)も蹴出(けだ)しも、だらだらと血だらけの婦(おんな)の姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈(あんどう)が真赤(まっか)になって、蒼い細い顔が、黒髪(かみ)を被(かぶ)りながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。
 ト車軸を流す雨になる。
 電燈が点(つ)いたが、もうその色は白かった。
 婆々(ばばあ)の言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。――
 戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠(とうろう)のように、三階で立騒いだ。
 照吉は……」
 と民弥は言って、愁然(しゅうぜん)とすると、梅次も察して、ほろりと泣く。
「ああ、その弟ばかりじゃない、皆(みんな)の身代りになってくれたように思う。」
明治四十四(一九一一)年三月



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