海異記
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著者名:泉鏡花 

       十二

「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」
 とうら寂しげな夕間暮(ゆうまぐれ)、生干(なまび)の紅絹(もみ)も黒ずんで、四辺(あたり)はものの磯(いそ)の風。
 奴(やっこ)は、旧(もと)来た黍(きび)がらの痩(や)せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径(こみち)を見返り、
「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈(がすとう)でも点(つ)けるだよ、兄哥(あにや)もそれだから稼ぐんだ。」
「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀(かわい)そうだから、号外屋でも何んでもいい、他(ほか)の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可(い)いかい、解(わか)ったの、三ちゃん。」
 と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉(からす)も頷(うなず)き顔。
「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈(か)けまわるだ、帰ったら一番、爺様(じいさま)と相談すべいか、だって、お銭(あし)にゃならねえとよ。」
 と奴(やっこ)は悄乎(しょ)げて指を噛(か)む。
「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然(いきなり)そんな事をいっちゃ不可(いけな)いよ、まあ、話だわね。」
 と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板(はりいた)をそっと撫(な)で、
「慾張ったから乾き切らない。」
「何、姉(あね)さんが泣くからだ、」
 と唐突(だしぬけ)にいわれたので、急に胸がせまったらしい。
「ああ、」
 と片袖(かたそで)を目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。
「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」
 三之助はまた笑い、
「海から魚が釣りに来ただよ。」
「あれ、厭(いや)、驚(おど)かしちゃ……」
 お浜がむずかって、蚊帳(かや)が動く。
「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚(おど)かすもんだから、」
 と片頬(かたほ)に莞爾(にっこり)、ちょいと睨(にら)んで、
「あいよ、あいよ、」
「やあ、目を覚(さま)したら密(そっ)と見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先刻(さっき)から辛抱してただ。」と、かごとがましく身を曲(くね)る。
「お逢(あ)いなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」
 と女房は暗い納戸で、母衣蚊帳(ほろがや)の前で身動(みじろ)ぎした。
「おっと、」
 奴(やっこ)は縁に飛びついたが、
「ああ、跣足(はだし)だ姉(あね)さん。」
 と脛(すね)をもじもじ。
「可(いい)よ、お上りよ。」
「だって、姉(あね)さんは綺麗(きれい)ずきだからな。」
「構わないよ、ねえ、」
 といって、抱き上げた児(こ)に頬摺(ほおずり)しつつ、横に見向いた顔が白い。
「やあ、もう笑ってら、今泣いた烏(からす)が、」
 と縁端(えんはし)に遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、
「ほんとに騒々しい烏だ。」
 と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽(たけ)の堂を流れて出た、一団の雲の正中(ただなか)に、颯(さっ)と揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。
「三ちゃん、」
「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧(おさ)えべい。」
「まあ、遊んでおいでよ。」
 と女房は、胸の雪を、児(こ)に暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。

       十三

「ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお貰(もら)い、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお父(とっ)さんがお帰りだね。」
 と顔に顔、児(こ)にいいながら縁へ出て来た。
 おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外――号外――とうら寂しい。
「おや、もういってしまったんだよ。」
 女房は顔を上げて、
「小児(こども)だねえ」
 と独りでいったが、檐(のき)の下なる戸外(おもて)を透かすと、薄黒いのが立っている。
「何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、此奴(こいつ)、」
 と小児(こども)に打(ぶ)たせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退(すさ)った。
 檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧(もうろう)として頭(つむり)の円い、袖の平たい、入道であった。
 女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。
 時に身じろぎをしたと覚(おぼ)しく、彳(たたず)んだ僧の姿は、張板(はりいた)の横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に護(まも)られた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に塞(ふさ)いで立った。背高き形が、傍(わき)へ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一条(ひとすじ)海の空に残っていた。良人(おっと)が乗った稲葉丸は、その下あたりを幽(かすか)な横雲。
 それに透(すか)すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠(や)せたか、肥えたか知らぬけれども、窪(くぼ)んだ目の赤味を帯びたのと、尖(とが)って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海方(うみて)へ続いて、且つその背のあたりが連(しき)りに息を吐(つ)くと見えて、戦(わなな)いているのである。
 心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁(あさ)るべく海から顕(あら)われたとは、余り目(ま)のあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。
 けれども、厭(いや)な、気味の悪い乞食坊主(こじきぼうず)が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥(たんす)の傍(そば)なる暗い隅へ、横ざまに片膝(かたひざ)つくと、忙(せわ)しく、しかし、殆(ほと)んど無意識に、鳥目(ちょうもく)を。
 早く去(い)ってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、此方(こなた)に控えながら、
「はい、」
 という、それでも声は優しい女。
 薄黒い入道は目を留めて、その挙動(ふるまい)を見るともなしに、此方(こなた)の起居(たちい)を知ったらしく、今、報謝をしようと嬰児(あかご)を片手に、掌(て)を差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに頭(つむり)を下に垂れたまま、緩(ゆる)く二ツばかり頭(かぶり)を掉(ふ)ったが、さも横柄(おうへい)に見えたのである。
 また泣き出したを揺(ゆす)りながら、女房は手持無沙汰(てもちぶさた)に清(すず)しい目を□(みは)ったが、
「何ですね、何が欲(ほし)いんですね。」
 となお物貰(ものもら)いという念は失(う)せぬ。
 ややあって、鼠(ねずみ)の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。
 指すとともに、ハッという息を吐(つ)く。
 渠(かれ)飢えたり矣。
「三ちゃん、お起きよ。」
 ああ居てくれれば可(よ)かった、と奴(やっこ)の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。

       十四

 強盗(ごうとう)に出逢(であ)ったような、居もせぬ奴(やっこ)を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸(どうき)は一倍高うなる。
 女房は連(しき)りに心急(こころせ)いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃(めしびつ)を引寄せて、及腰(およびごし)に手桶(ておけ)から水を結び、効々(かいがい)しゅう、嬰児(ちのみ)を腕(かいな)に抱いたまま、手許も上(うわ)の空で覚束(おぼつか)なく、三ツばかり握飯(にぎりめし)。
 潮風で漆の乾(から)びた、板昆布(いたこぶ)を折ったような、折敷(おしき)にのせて、カタリと櫃を押遣(おしや)って、立てていた踵(かかと)を下へ、直ぐに出て来た。
「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」
 今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻(さっき)口を指したまま、鱗(うろこ)でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮(はずみ)か、冴(さえ)か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹(かに)を潰(つぶ)した渋柿に似てころりと飛んだ。
 僧はハアと息が長い。
 余(あまり)の事に熟(じっ)と視(み)て、我を忘れた女房、
「何をするんですよ。」
 一足退(の)きつつ、
「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」
 と屹(きっ)といったが、腹立つ下に心弱く、
「御坊(おぼう)さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。
 それでは御膳(おぜん)にしてあげましょうか。
 そうしましょうかね。
 それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児(こども)に世話が焼けますのに、入相(いりあい)で忙(せわ)しいもんですから。……あの、茄子(なす)のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」
 薄暗がりに頷(うなず)いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、
「じゃ、そうしましょう/\。お前さん、何にもありませんよ。」
 勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固(かたま)って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。
 これにギョッとして立淀(たちよど)んだけれども、さるにても婦人(おんな)一人。
 ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間(ま)ももどかしく、良人(おっと)の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜(くやし)かったけれども、目を瞑(ねむ)って、やがて嬰児(ちのみ)を襟に包んだ胸を膨(ふく)らかに、膳を据えた。
「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可(いけ)ません、ようござんすか。」
 と茶碗に堆(うずたか)く装(も)ったのである。
 その時、間(ま)の四隅を籠(こ)めて、真中処(まんなかどころ)に、のッしりと大胡坐(おおあぐら)でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆(くつがえ)った。
「あれえ、」
 と驚いて女房は腰を浮かして遁(に)げさまに、裾(すそ)を乱して、ハタと手を支(つ)き、
「何ですねえ。」
 僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中(うち)にも袖で庇(かば)った、女房の胸をじりりとさしつつ、
(児(こ)を呉(く)れい。)
 と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。
 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋(とりすが)って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷(つめた)くなっていた。
 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁(すなど)る海の幸よ。
 その夜はやがて、砂白く、崖(がけ)蒼(あお)き、玲瓏(れいろう)たる江見の月に、奴(やっこ)が号外、悲しげに浦を駈(か)け廻って、蒼海(わたつみ)の浪ぞ荒かりける。
明治三十九年(一九〇六)年一月



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