妖術
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著者名:泉鏡花 

「年は婆さん、お名は娘、住所(ところ)は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」
 と訊(き)いた。
 後に舟崎が語って言うよう――
 いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜(くやし)いといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢(としごろ)の娘に向って、お商売? はちと思切った。
 しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣(さつ)がある。
 その時、ちと更(あらた)まるようにして答えたのが、
「私は、手品をいたします。」
 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席(よせ)でも一向入(い)りのない処から、座敷を勤めさして頂く。
「ちょいと嬰児(あか)さんにおなり遊ばせ。」
 思懸(おもいが)けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。
「お笑い遊ばしちゃ、厭(いや)ですよ。」と云う。
「これは拝見!」と大袈裟(おおげさ)に開き直って、その実は嘘だ、と思った。
 すると、軽く膝を支(つ)いて、蒲団(ふとん)をずらして、すらりと向うへ、……扉(ひらき)の前。――此方(こなた)に劣らず杯(さかずき)は重ねたのに、衣(きぬ)の薫(かおり)も冷(ひや)りとした。
 扇子を抜いて、畳に支(つ)いて、頭(つむり)を下げたが、がっくり、と低頭(うなだ)れたように悄(しお)れて見えた。
「世渡りのためとは申しながら……前(さき)へ御祝儀を頂いたり、」
 と口籠(くちごも)って、
「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。
 いや、そこどころか。
 あの、籠(かご)の白い花を忘れまい。
 すっと抜くと、掌(てのひら)に捧げて出て、そのまま、□子窓(れんじまど)の障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一舳(そう)、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃(しき)って浮く。
 空は晴れて、霞(かすみ)が渡って、黄金のような半輪の月が、薄(うっす)りと、淡い紫の羅(うすもの)の樹立(こだち)の影を、星を鏤(ちりば)めた大松明(おおたいまつ)のごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波(なごり)は敷妙(しきたえ)の銀の波。
 ト瞻(みつ)めながら、
「は、」と声が懸(かか)る、袖を絞って、袂(たもと)を肩へ、脇明(わきあけ)白き花一片(ひとひら)、手を辷(すべ)ったか、と思うと、非(あら)ず、緑の蔓(つる)に葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。
 ただ一攫(ひとつま)みなりけるが、船の中に落つると斉(ひと)しく、礫(つぶて)打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽(は)のごとく舳(へさき)にまで咲きこぼれる。
 その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透(すみとお)る水に映って、ちらちらと揺(ゆら)めいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大(おおき)さ、やがて扇ばかりな真白(まっしろ)な一羽の胡蝶(こちょう)、ふわふわと船の上に顕(あら)われて、つかず、離れず、豌豆(えんどう)の花に舞う。
 やがて蝶が番(つがい)になった。
 内は寂然(ひっそり)とした。
 芸者の姿は枝折戸(しおりど)を伸上った。池を取廻(とりま)わした廊下には、欄干越(てすりごし)に、燈籠(とうろう)の数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。
 蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴(ともえ)に乱れ、卍(まんじ)と飛交う。
 時にそよがした扇子を留めて、池を背後(うしろ)に肱掛窓(ひじかけまど)に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱(ひじ)をついて、呆気(あっけ)に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背(そむ)いて、胸越しに半面を蔽(おお)うて差俯向(さしうつむ)く時、すらりと投げた裳(もすそ)を引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄(つま)を寄せたのである。

 フト現(うつつ)から覚めた時、女の姿は早やなかった。
 女中に聞くと、
「お車で、たった今……」
明治四十四(一九一一)年二月



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