妖術
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著者名:泉鏡花 

 で、大金(だいきん)へ入った時は、舟崎は大胆に、自分が傘(からかさ)を持っていた。
 けれども、後で気が着くと、真打(しんうち)の女太夫に、恭(うやうや)しくもさしかけた長柄の形で、舟崎の図は宜しくない。
 通されたのが小座敷(こざしき)で、前刻(さっき)言ったその四畳半。廊下を横へ通口(かよいぐち)[#ルビの「かよいぐち」は底本では「かよひぐち」]がちょっと隠れて、気の着かぬ処に一室(ひとま)ある……
 数寄(すき)に出来て、天井は低かった。畳の青さ。床柱にも名があろう……壁に掛けた籠(かご)に豌豆(えんどう)のふっくりと咲いた真白(まっしろ)な花、蔓(つる)を短かく投込みに活(い)けたのが、窓明りに明(あかる)く灯を点(とも)したように見えて、桃の花より一層ほんのりと部屋も暖い。
 用を聞いて、円髷(まげ)に結(い)った女中が、しとやかに扉(ひらき)を閉めて去(い)ったあとで、舟崎は途中も汗ばんで来たのが、またこう籠(こも)ったので、火鉢を前に控えながら、羽織を脱いだ。
 それを取って、すらりと扱(しご)いて、綺麗に畳む。
「これは憚(はばか)り、いいえ、それには。」
「まあ、好きにおさせなさいまし。」
 と壁の隅へ、自分の傍(わき)へ、小膝(こひざ)を浮かして、さらりと遣(や)って、片手で手巾(ハンケチ)を捌(さば)きながら、
「ほんとうにちと暖か過ぎますわね。」
「私は、逆上(のぼせ)るからなお堪(たま)りません。」
「陽気のせいですね。」
「いや、お前さんのためさ。」
「そんな事をおっしゃると、もっと傍(そば)へ。」
 と火鉢をぐい、と圧(お)して来て、
「そのかわり働いて、ちっと開けて差上げましょう。」
 と弱々と斜(ななめ)にひねった、着流しの帯のお太鼓の結目(むすびめ)より低い処に、ちょうど、背後(うしろ)の壁を仕切って、細い潜(くぐ)り窓の障子がある。
 カタリ、と引くと、直ぐに囲いの庭で、敷松葉を払ったあとらしい、蕗(ふき)の葉が芽(めぐ)んだように、飛石が五六枚。
 柳の枝折戸(しおりど)、四ツ目垣。
 トその垣根へ乗越して、今フト差覗(さしのぞ)いた女の鼻筋の通った横顔を斜違(はすっか)いに、月影に映す梅の楚(ずわえ)のごとく、大(おおい)なる船の舳(へさき)がぬっと見える。
「まあ、可(い)いこと!」
 と嬉しそうに、なぜか仇気(あどけ)ない笑顔になった。

       七

「池があるんだわね。」
 と手を支(つ)いて、壁に着いたなりで細(ほっそ)りした頤(おとがい)を横にするまで下から覗(のぞ)いた、が、そこからは窮屈で水は見えず、忽然(こつぜん)として舳(へさき)ばかり顕(あら)われたのが、いっそ風情であった。
 カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾模様(すそもよう)の後姿で、すらりとした芸者が通った。
 向うの座敷に、わやわやと人声あり。
 枝折戸(しおりど)の外を、柳の下を、がさがさと箒(ほうき)を当てる、印半纏(しるしばんてん)の円い背(せなか)が、蹲(うずく)まって、はじめから見えていた。
 それには差構いなく覗いた女が、芸者の姿に、密(そっ)と、直ぐに障子を閉めた。
 向直った顔が、斜めに白い、その豌豆(えんどう)の花に面した時、眉を開いて、熟(じっ)と視(み)た。が、瞳を返して、右手(めて)に高い肱掛窓(ひじかけまど)の、障子の閉ったままなのを屹(きっ)と見遣(みや)った。
 咄嗟(とっさ)の間の艶麗(あでやか)な顔の働きは、たとえば口紅を衝(つ)と白粉(おしろい)に流して稲妻を描いたごとく、媚(なまめ)かしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡翠(ひすい)に化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。
 一帆は思わず坐り直した。
 処へ、女中が膳(ぜん)を運んだ。
「お一ツ。」
「天気は?」 
「可(いい)塩梅(あんばい)に霽(あが)りました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。」
「いいえ、結構。」
「もし、貴女(あなた)。」
 女が、もの馴(な)れた状(さま)で猪口(ちょく)を受けたのは驚かなかったが、一ツ受けると、
「何うぞ、置いて去(い)らしって可(よ)うござんす。」と女中を起(た)たせたのは意外である。
 一帆はしばらくして陶然(とうぜん)とした。
「更(あらた)めて、一杯(ひとつ)、お知己(ちかづき)に差上げましょう。」
「極(きまり)が悪うござんすね。」
「何の。そうしたお前さんか。」
 と膝をぐったり、と頭(こうべ)を振って、
「失礼ですが、お住所(ところ)は?」
「は、提灯(ちょうちん)よ。」
 と目許(めもと)の微笑(ほほえみ)。丁(ちょう)と、手にした猪口を落すように置くと、手巾(ハンケチ)ではっと口を押えて、自分でも可笑(おかし)かったか、くすくす笑う。
「町名、町名、結構。」
 一帆は町名と聞違えた。
「いいえ、提灯なの。」
「へい、提灯町。」
 と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。
 また笑って、
「そうじゃありません。私の家(うち)は提灯なんです。」
「どこの? 提灯?」
「観音様の階段の上の、あの、大(おおき)な提灯の中が私の家(うち)です。」
「ええ。」と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。
「お名は。」
「私? 名ですか。娘……」
「娘子(むすめこ)さん。――成程違いない、で、お年紀(とし)は?」
「年は、婆さん。」
「年は婆さん、お名は娘、住所(ところ)は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」
 と訊(き)いた。
 後に舟崎が語って言うよう――
 いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜(くやし)いといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢(としごろ)の娘に向って、お商売? はちと思切った。
 しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣(さつ)がある。
 その時、ちと更(あらた)まるようにして答えたのが、
「私は、手品をいたします。」
 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席(よせ)でも一向入(い)りのない処から、座敷を勤めさして頂く。
「ちょいと嬰児(あか)さんにおなり遊ばせ。」
 思懸(おもいが)けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。
「お笑い遊ばしちゃ、厭(いや)ですよ。」と云う。
「これは拝見!」と大袈裟(おおげさ)に開き直って、その実は嘘だ、と思った。
 すると、軽く膝を支(つ)いて、蒲団(ふとん)をずらして、すらりと向うへ、……扉(ひらき)の前。――此方(こなた)に劣らず杯(さかずき)は重ねたのに、衣(きぬ)の薫(かおり)も冷(ひや)りとした。
 扇子を抜いて、畳に支(つ)いて、頭(つむり)を下げたが、がっくり、と低頭(うなだ)れたように悄(しお)れて見えた。
「世渡りのためとは申しながら……前(さき)へ御祝儀を頂いたり、」
 と口籠(くちごも)って、
「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。
 いや、そこどころか。
 あの、籠(かご)の白い花を忘れまい。
 すっと抜くと、掌(てのひら)に捧げて出て、そのまま、□子窓(れんじまど)の障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一舳(そう)、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃(しき)って浮く。
 空は晴れて、霞(かすみ)が渡って、黄金のような半輪の月が、薄(うっす)りと、淡い紫の羅(うすもの)の樹立(こだち)の影を、星を鏤(ちりば)めた大松明(おおたいまつ)のごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波(なごり)は敷妙(しきたえ)の銀の波。
 ト瞻(みつ)めながら、
「は、」と声が懸(かか)る、袖を絞って、袂(たもと)を肩へ、脇明(わきあけ)白き花一片(ひとひら)、手を辷(すべ)ったか、と思うと、非(あら)ず、緑の蔓(つる)に葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。
 ただ一攫(ひとつま)みなりけるが、船の中に落つると斉(ひと)しく、礫(つぶて)打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽(は)のごとく舳(へさき)にまで咲きこぼれる。
 その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透(すみとお)る水に映って、ちらちらと揺(ゆら)めいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大(おおき)さ、やがて扇ばかりな真白(まっしろ)な一羽の胡蝶(こちょう)、ふわふわと船の上に顕(あら)われて、つかず、離れず、豌豆(えんどう)の花に舞う。
 やがて蝶が番(つがい)になった。
 内は寂然(ひっそり)とした。
 芸者の姿は枝折戸(しおりど)を伸上った。池を取廻(とりま)わした廊下には、欄干越(てすりごし)に、燈籠(とうろう)の数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。
 蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴(ともえ)に乱れ、卍(まんじ)と飛交う。
 時にそよがした扇子を留めて、池を背後(うしろ)に肱掛窓(ひじかけまど)に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱(ひじ)をついて、呆気(あっけ)に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背(そむ)いて、胸越しに半面を蔽(おお)うて差俯向(さしうつむ)く時、すらりと投げた裳(もすそ)を引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄(つま)を寄せたのである。

 フト現(うつつ)から覚めた時、女の姿は早やなかった。
 女中に聞くと、
「お車で、たった今……」
明治四十四(一九一一)年二月



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