妖術
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著者名:泉鏡花 

 大提灯にはたはたと翼(つばさ)の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠(こも)る廂(ひさし)から、鳩が二三羽、衝(つ)と出て飜々(ひらひら)と、早や晴れかかる銀杏(いちょう)の梢(こずえ)を矢大臣門の屋根へ飛んだ。
 胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆(ばあ)の前を、内端(うちば)な足取り、裳(もすそ)を細く、蛇目傘(じゃのめ)をやや前下りに、すらすらと撫肩(なでがた)の細いは……確(たしか)に。
 スーと傘(からかさ)をすぼめて、手洗鉢(みたらし)へ寄った時は、衣服(きもの)の色が、美しく湛(たた)えた水に映るか、とこの欄干から遥(はる)かな心に見て取られた。……折からその道筋には、件(くだん)の女ただ一人で。
 水色の手巾(ハンケチ)を、はらりと媚(なまめ)かしく口に啣(くわ)えた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊の方(かた)を見上げた。
 のめのめとそこに待っていたのが、了簡(りょうけん)の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後(うしろ)向きに横へ廻る。
 パッパッと田舎の親仁(おやじ)が、掌(てのひら)へ吸殻を転がして、煙管(きせる)にズーズーと脂(やに)の音。くく、とどこかで鳩の声。茜(あかね)の姉(あねえ)も三四人、鬱金(うこん)の婆様(ばさま)に、菜畠(なばたけ)の阿媽(かかあ)も交(まじ)って、どれも口を開けていた。
 が、あ、と押魂消(おったまげ)て、ばらりと退(の)くと、そこの横手の開戸口(ひらきどぐち)から、艶麗(あでやか)なのが、すうと出た。
 本堂へ詣(まい)ったのが、一廻りして、一帆の前に顕(あら)われたのである。
 すぼめた蛇目傘(じゃのめ)に手を隠して、
「お待ちなすって?」
 また、ほんのりと花の薫(かおり)。
「何、ちっとも。……ゆっくりお参詣(まいり)をなされば可(い)い。」
「貴下(あなた)こそ、前(さき)へいらしってお待ち下されば可(よ)うござんすのに、出張(でっぱ)りにいらしって、沫(しぶき)が冷(つめた)いではありませんか。」
 さっさと先へ行(ゆ)けではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸が据(すわ)って、
「だって雨を潜(くぐ)って、一人でびしょびしょ歩行(ある)けますか。」
「でも、その方がお好(すき)な癖に……」
 と云って、肩でわざとらしくない嬌態(しな)をしながら、片手でちょいと帯を圧(おさ)えた。ぱちん留(どめ)が少し摺(ず)って、……薄いが膨(ふっく)りとある胸を、緋鹿子(ひがのこ)の下〆(したじめ)が、八ツ口から溢(こぼ)れたように打合わせの繻子(しゅす)を覗(のぞ)く。
 その間に、きりりと挟んだ、煙管筒(きせるづつ)? ではない。象牙骨(ぞうげぼね)の女扇を挿している。
 今圧えた手は、帯が弛(ゆる)んだのではなく、その扇子(おうぎ)を、一息探く挿込んだらしかった。

       五

 紫の矢絣(やがすり)に箱迫(はこせこ)の銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜(やみざくら)とか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅(うすくれない)のちらちらする凄(すご)い好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘(こんじゃのめ)も肖(そぐ)わない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇子(おうぎ)は余りお儀式過ぎる。……踊の稽古(けいこ)の帰途(かえり)なら、相応したのがあろうものを、初手(しょて)から素性のおかしいのが、これで愈々(いよいよ)不思議になった。
 が、それもその筈(はず)、あとで身上(みじょう)を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品(むすめてじな)、と云うのであった。
 思い懸けず、余(あんま)り変ってはいたけれども、当人の女の名告(なの)るものを、怪しいの、疑わしいの、嘘言(うそ)だ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方(こなた)から推着(おしつ)けに、あれそれとも極(き)められないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆の頷(うなず)いたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御堂(みどう)の裏、田圃(たんぼ)の大金(だいきん)の、とある数寄屋造(すきやづく)り[#「数寄屋造り」は底本では「敷寄屋造り」]の四畳半に、膳(ぜん)を並べて差向った折からで。……
 もっとも事のそこへ運んだまでに、いささか気になる道行(みちゆき)の途中がある。
 一帆は既に、御堂の上で、その女に、大形の紙幣(さつ)を一枚、紙入から抜取られていたのであった。
 やっぱり練磨の手術(てわざ)であろう。
 その時、扇子を手で圧(おさ)えて、貴下(あなた)は一人で歩行(ある)く方が、
「……お好(すき)な癖に……」
 とそう云うから、一帆は肩を揺(ゆす)って、
「こうなっちやもう構やしません。是非相合傘にして頂く。」と威(おど)すように云って笑った。
「まあ、駄々(だだ)ッ児(こ)のようだわね。」
 と莞爾(にっこり)して、
「貴方(あなた)、」と少し改まる。
「え。」
「あの、少々お持合わせがござんすか。」
 と澄まして言う。一帆はいささか覚悟はしていた。
「ああ。」
 とわざと鷹揚(おうよう)に、
「幾干(いくら)ばかり。」
「十枚。」
 と胸を素直(まっすぐ)にした、が、またその姿も佳(よ)かった。
「ちょいと、買物がしたいんですから。」
「お持ちなさい。」
 この時、一帆は背後(うしろ)に立った田舎ものの方を振向いた。皆(みんな)、きょろりきょろりと視(なが)めた。
 女は、帯にも突込(つっこ)まず、一枚掌(たなそこ)に入れたまま、黙って、一帆に擦違(すれちが)って、角の擬宝珠(ぎぼしゅ)を廻って、本堂正面の階段の方へ見えなくなる。
 大方、仲見世へ引返したのであろう、買物をするといえば。
 さて何をするか、手間の取れる事一通りでない。
 煙草(たばこ)ももう吸い飽きて、拱(こまぬ)いてもだらしなく、ぐったりと解ける腕組みを仕直し仕直し、がっくりと仰向(あおむ)いて、唇をペろぺろと舌で嘗(な)める親仁(おやじ)も、蹲(しゃが)んだり立ったりして、色気のない大欠伸(おおあくび)を、ああとする茜(あかね)の新姐(しんぞ)も、まんざら雨宿りばかりとは見えなかった。が、綺麗(きれい)な姉様(あねさま)を待飽倦(まちあぐ)んだそうで、どやどやと横手の壇を下(お)り懸けて、
「お待遠(まちどお)だんべいや。」
 と、親仁がもっともらしい顔色(かおつき)して、ニヤリともしないで吐(ほざ)くと、女どもは哄(どっ)と笑って、線香の煙の黒い、吹上げの沫(しぶき)の白い、誰彼(たそが)れのような中へ、びしょびしょと入って行(ゆ)く。
 吃驚(びっくり)して、這奴等(しやつら)、田舎ものの風をする掏賊(すり)か、ポン引(ひき)か、と思った。軽くなった懐中(ふところ)につけても、当節は油断がならぬ。
 その時分まで、同じ処にぼんやりと立って待ったのである。

       六

 早く下りよ、と段はそこに階(きざはし)を明けて斜めに待つ。自分に恥じて、もうその上は待っていられないまでになった。
 端へ出るのさえ、後を慕って、紙幣(さつ)に引摺(ひきず)られるような負惜(まけおし)みの外聞があるので、角の処へも出ないでいた。なぜか、がっかりして、気が抜けて、その横手から下りて、路(みち)を廻るのも億劫(おっくう)でならぬので、はじめて、ふらふらと前へ出て、元の本堂前の廻廊を廻って、欄干について、前刻(さっき)来がけとは勢(いきおい)が、からりとかわって、中折(なかおれ)の鍔(つば)も深く、面(おもて)を伏せて、そこを伝う風も、我ながら辿々(たどたど)しかった。
 トあの大提灯を、釣鐘が目前(めのまえ)へぶら下ったように、ぎょっとして、はっと正面へ魅(つま)まれた顔を上げると、右の横手の、広前(ひろまえ)の、片隅に綺麗に取って、時ならぬ錦木(にしきぎ)が一本(ひともと)、そこへ植わった風情に、四辺(あたり)に人もなく一人立って、傘(からかさ)を半開き、真白(まっしろ)な横顔を見せて、生際(はえぎわ)を濃く、美しく目迎えて莞爾(にっこり)した。
「沢山(たんと)、待たせてさ。」と馴々(なれなれ)しく云うのが、遅くなった意味には取れず、逆(さかさま)に怨(うら)んで聞える。
 言葉戦い合(かな)うまじ、と大手を拡げてむずと寄って、
「どこにしましょう。」
「どちらへでも、貴下(あなた)のお宜(よろ)しい処が可(よ)うござんす。」
「じゃ、行く処へいらっしゃい。」
「どうぞ。」
 ともう、相合傘の支度らしい、片袖を胸に当てる、柄よりも姿が細(ほっそ)りする。
 丈がすらりと高島田で、並ぶと蛇目傘(じゃのめ)の下に対(つい)。
 で、大金(だいきん)へ入った時は、舟崎は大胆に、自分が傘(からかさ)を持っていた。
 けれども、後で気が着くと、真打(しんうち)の女太夫に、恭(うやうや)しくもさしかけた長柄の形で、舟崎の図は宜しくない。
 通されたのが小座敷(こざしき)で、前刻(さっき)言ったその四畳半。廊下を横へ通口(かよいぐち)[#ルビの「かよいぐち」は底本では「かよひぐち」]がちょっと隠れて、気の着かぬ処に一室(ひとま)ある……
 数寄(すき)に出来て、天井は低かった。畳の青さ。床柱にも名があろう……壁に掛けた籠(かご)に豌豆(えんどう)のふっくりと咲いた真白(まっしろ)な花、蔓(つる)を短かく投込みに活(い)けたのが、窓明りに明(あかる)く灯を点(とも)したように見えて、桃の花より一層ほんのりと部屋も暖い。
 用を聞いて、円髷(まげ)に結(い)った女中が、しとやかに扉(ひらき)を閉めて去(い)ったあとで、舟崎は途中も汗ばんで来たのが、またこう籠(こも)ったので、火鉢を前に控えながら、羽織を脱いだ。
 それを取って、すらりと扱(しご)いて、綺麗に畳む。
「これは憚(はばか)り、いいえ、それには。」
「まあ、好きにおさせなさいまし。」
 と壁の隅へ、自分の傍(わき)へ、小膝(こひざ)を浮かして、さらりと遣(や)って、片手で手巾(ハンケチ)を捌(さば)きながら、
「ほんとうにちと暖か過ぎますわね。」
「私は、逆上(のぼせ)るからなお堪(たま)りません。」
「陽気のせいですね。」
「いや、お前さんのためさ。」
「そんな事をおっしゃると、もっと傍(そば)へ。」
 と火鉢をぐい、と圧(お)して来て、
「そのかわり働いて、ちっと開けて差上げましょう。」
 と弱々と斜(ななめ)にひねった、着流しの帯のお太鼓の結目(むすびめ)より低い処に、ちょうど、背後(うしろ)の壁を仕切って、細い潜(くぐ)り窓の障子がある。
 カタリ、と引くと、直ぐに囲いの庭で、敷松葉を払ったあとらしい、蕗(ふき)の葉が芽(めぐ)んだように、飛石が五六枚。
 柳の枝折戸(しおりど)、四ツ目垣。
 トその垣根へ乗越して、今フト差覗(さしのぞ)いた女の鼻筋の通った横顔を斜違(はすっか)いに、月影に映す梅の楚(ずわえ)のごとく、大(おおい)なる船の舳(へさき)がぬっと見える。
「まあ、可(い)いこと!」
 と嬉しそうに、なぜか仇気(あどけ)ない笑顔になった。

       七

「池があるんだわね。」
 と手を支(つ)いて、壁に着いたなりで細(ほっそ)りした頤(おとがい)を横にするまで下から覗(のぞ)いた、が、そこからは窮屈で水は見えず、忽然(こつぜん)として舳(へさき)ばかり顕(あら)われたのが、いっそ風情であった。
 カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾模様(すそもよう)の後姿で、すらりとした芸者が通った。
 向うの座敷に、わやわやと人声あり。
 枝折戸(しおりど)の外を、柳の下を、がさがさと箒(ほうき)を当てる、印半纏(しるしばんてん)の円い背(せなか)が、蹲(うずく)まって、はじめから見えていた。
 それには差構いなく覗いた女が、芸者の姿に、密(そっ)と、直ぐに障子を閉めた。
 向直った顔が、斜めに白い、その豌豆(えんどう)の花に面した時、眉を開いて、熟(じっ)と視(み)た。が、瞳を返して、右手(めて)に高い肱掛窓(ひじかけまど)の、障子の閉ったままなのを屹(きっ)と見遣(みや)った。
 咄嗟(とっさ)の間の艶麗(あでやか)な顔の働きは、たとえば口紅を衝(つ)と白粉(おしろい)に流して稲妻を描いたごとく、媚(なまめ)かしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡翠(ひすい)に化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。
 一帆は思わず坐り直した。
 処へ、女中が膳(ぜん)を運んだ。
「お一ツ。」
「天気は?」 
「可(いい)塩梅(あんばい)に霽(あが)りました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。」
「いいえ、結構。」
「もし、貴女(あなた)。」
 女が、もの馴(な)れた状(さま)で猪口(ちょく)を受けたのは驚かなかったが、一ツ受けると、
「何うぞ、置いて去(い)らしって可(よ)うござんす。」と女中を起(た)たせたのは意外である。
 一帆はしばらくして陶然(とうぜん)とした。
「更(あらた)めて、一杯(ひとつ)、お知己(ちかづき)に差上げましょう。」
「極(きまり)が悪うござんすね。」
「何の。そうしたお前さんか。」
 と膝をぐったり、と頭(こうべ)を振って、
「失礼ですが、お住所(ところ)は?」
「は、提灯(ちょうちん)よ。」
 と目許(めもと)の微笑(ほほえみ)。丁(ちょう)と、手にした猪口を落すように置くと、手巾(ハンケチ)ではっと口を押えて、自分でも可笑(おかし)かったか、くすくす笑う。
「町名、町名、結構。」
 一帆は町名と聞違えた。
「いいえ、提灯なの。」
「へい、提灯町。」
 と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。
 また笑って、
「そうじゃありません。私の家(うち)は提灯なんです。」
「どこの? 提灯?」
「観音様の階段の上の、あの、大(おおき)な提灯の中が私の家(うち)です。」
「ええ。」と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。
「お名は。」
「私? 名ですか。娘……」
「娘子(むすめこ)さん。――成程違いない、で、お年紀(とし)は?」
「年は、婆さん。」
「年は婆さん、お名は娘、住所(ところ)は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」
 と訊(き)いた。
 後に舟崎が語って言うよう――
 いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜(くやし)いといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢(としごろ)の娘に向って、お商売? はちと思切った。
 しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣(さつ)がある。
 その時、ちと更(あらた)まるようにして答えたのが、
「私は、手品をいたします。」
 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席(よせ)でも一向入(い)りのない処から、座敷を勤めさして頂く。
「ちょいと嬰児(あか)さんにおなり遊ばせ。」
 思懸(おもいが)けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。
「お笑い遊ばしちゃ、厭(いや)ですよ。」と云う。
「これは拝見!」と大袈裟(おおげさ)に開き直って、その実は嘘だ、と思った。
 すると、軽く膝を支(つ)いて、蒲団(ふとん)をずらして、すらりと向うへ、……扉(ひらき)の前。――此方(こなた)に劣らず杯(さかずき)は重ねたのに、衣(きぬ)の薫(かおり)も冷(ひや)りとした。
 扇子を抜いて、畳に支(つ)いて、頭(つむり)を下げたが、がっくり、と低頭(うなだ)れたように悄(しお)れて見えた。
「世渡りのためとは申しながら……前(さき)へ御祝儀を頂いたり、」
 と口籠(くちごも)って、
「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。
 いや、そこどころか。
 あの、籠(かご)の白い花を忘れまい。
 すっと抜くと、掌(てのひら)に捧げて出て、そのまま、□子窓(れんじまど)の障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一舳(そう)、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃(しき)って浮く。
 空は晴れて、霞(かすみ)が渡って、黄金のような半輪の月が、薄(うっす)りと、淡い紫の羅(うすもの)の樹立(こだち)の影を、星を鏤(ちりば)めた大松明(おおたいまつ)のごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波(なごり)は敷妙(しきたえ)の銀の波。
 ト瞻(みつ)めながら、
「は、」と声が懸(かか)る、袖を絞って、袂(たもと)を肩へ、脇明(わきあけ)白き花一片(ひとひら)、手を辷(すべ)ったか、と思うと、非(あら)ず、緑の蔓(つる)に葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。
 ただ一攫(ひとつま)みなりけるが、船の中に落つると斉(ひと)しく、礫(つぶて)打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽(は)のごとく舳(へさき)にまで咲きこぼれる。
 その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透(すみとお)る水に映って、ちらちらと揺(ゆら)めいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大(おおき)さ、やがて扇ばかりな真白(まっしろ)な一羽の胡蝶(こちょう)、ふわふわと船の上に顕(あら)われて、つかず、離れず、豌豆(えんどう)の花に舞う。
 やがて蝶が番(つがい)になった。
 内は寂然(ひっそり)とした。
 芸者の姿は枝折戸(しおりど)を伸上った。池を取廻(とりま)わした廊下には、欄干越(てすりごし)に、燈籠(とうろう)の数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。
 蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴(ともえ)に乱れ、卍(まんじ)と飛交う。
 時にそよがした扇子を留めて、池を背後(うしろ)に肱掛窓(ひじかけまど)に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱(ひじ)をついて、呆気(あっけ)に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背(そむ)いて、胸越しに半面を蔽(おお)うて差俯向(さしうつむ)く時、すらりと投げた裳(もすそ)を引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄(つま)を寄せたのである。

 フト現(うつつ)から覚めた時、女の姿は早やなかった。
 女中に聞くと、
「お車で、たった今……」
明治四十四(一九一一)年二月



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