自由画稿
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著者名:寺田寅彦 

またある虫ではこれに似たもので濾過器(ろかき)の役目をすることもあるらしい。
 もしかわれわれ人間の胃の中にもこんな歯があってくれたら、消化不良になる心配が減るかとも思われるが、造化はそんなぜいたくを許してくれない。そんな無稽(むけい)な夢を描かなくても、科学とその応用がもっと進歩すれば、生きた歯を保存することも今より容易になり、また義歯でも今のような不完全でやっかいなものでなくてもっと本物に近い役目をつとめるようなものができるかもしれない。しかし一つちょっと困ったことには若くて有為な科学者はたぶん入れ歯の改良などには痛切な興味を感じにくいであろうし、そのような興味を感じるような年配になると肝心の研究能力が衰退しているということになりそうである。
 年をとったら歯が抜けて堅いものが食えなくなるので、それでちょうどよいように消化器のほうも年を取っているのかもしれない。そう考えるとあまり完全な義歯を造るのも考えものであるかもしれない。そうだとすると、がたがたの穴のあいた入れ歯で事を足しておくのも、かえって造化の妙用に逆らわないゆえんであるかもしれないのである。下手(へた)な片手落ちの若返り法などを試みて造化に反抗するとどこかに思わぬ無理ができて、ぽきりと生命の屋台骨が折れるようなことがありはしないか。どうもそんな気がするのである。

     十 うじの効用

 虫の中でも人間に評判のよくないものの随一はうじである。「うじ虫めら」というのは最高度の軽侮を意味するエピセットである。これは彼らが腐肉や糞堆(ふんたい)をその定住の楽土としているからであろう。形態的にははちの子やまた蚕ともそれほどひどくちがって特別に先験的に憎むべく賤(いや)しむべき素質を具備しているわけではないのである。それどころか彼らが人間から軽侮される生活そのものが実は人間にとって意外な祝福をもたらすゆえんになるのである。
 鳥やねずみや猫(ねこ)の死骸(しがい)が道ばたや縁の下にころがっているとまたたく間にうじが繁殖して腐肉の最後の一片まできれいにしゃぶり尽くして白骨と羽毛のみを残す。このような「市井の清潔係」としてのうじの功労は古くから知られていた。
 戦場で負傷した傷に手当をする余裕がなくて打っちゃらかしておくと化膿(かのう)してそれにうじが繁殖する。そのうじがきれいに膿(うみ)をなめ尽くして傷が癒(い)える。そういう場合のあることは昔からも知られていたであろうが、それが欧州大戦以後特に外科医のほうで注意され問題にされ研究されて、今日では一つの新療法として特殊な外科的結核症や真珠工病(オステオミエリチス)などというものの治療に使う人が出て来た。こうなると今度はそれに使うためのうじを飼育繁殖させる必要が起こって来るのでその方法が研究される事になる。現に昨一九三四年のナツーアウィッセンシャフテン第三十一号に、その飼育法に関する記事が掲載されていたくらいである。
 うじがきたないのではなくて人間や自然の作ったきたないものを浄化するためにうじがその全力を尽くすのである。尊重はしても軽侮すべきなんらの理由もない道理である。
 うじが成虫になってはえと改名すると急に性(たち)が悪くなるように見える。昔は五月蠅(ごがつばえ)と書いてうるさいと読み昼寝の顔をせせるいたずらものないしは臭いものへの道しるべと考えられていた。張ったばかりの天井に糞(ふん)の砂子を散らしたり、馬の眼瞼(まぶた)を舐(な)めただらして盲目にするやっかいものとも見られていた。近代になってこれが各種の伝染病菌の運搬者播布者(はんぷしゃ)としてその悪名を宣伝されるようになり、その結果がいわゆる「はえ取りデー」の出現を見るに至ったわけである。著名の学者の筆になる「はえを憎むの辞」が現代的科学的修辞に飾られてしばしばジャーナリズムをにぎわした。
 しかしはえを取り尽くすことはほとんど不可能に近いばかりでなく、これを絶滅すると同時にうじもこの世界から姿を消す、するとそこらの物陰にいろいろの蛋白質(たんぱくしつ)が腐敗していろいろの黴菌(ばいきん)を繁殖させその黴菌は回り回ってやはりどこかで人間に仇(あだ)をするかもしれない。
 自然界の平衡状態(イクイリブリアム)は試験管内の化学的平衡のような簡単なものではない。ただ一種の小動物だけでもその影響の及ぶところは測り知られぬ無辺の幅員をもっているであろう。その害の一端のみを見て直ちにその物の無用を論ずるのはあまりに浅はかな量見であるかもしれない。
 はえが黴菌をまき散らす、そうしてわれわれは知らずに年じゅう少しずつそれらの黴菌を吸い込み飲み込んでいるために、自然にそれらに対する抵抗力をわれわれのからだじゅうに養成しているのかもしれない。そのおかげで、何かの機会にはえ以外の媒介によって多量の黴菌を取り込んだときでもそれに堪えられるだけの資格が備わっているのかもしれない。換言すればはえはわれわれの五体をワクチン製造所として奉職する技師技手の亜類であるかもしれないのである。
 これはもちろん空想である。しかしもしはえを絶滅すると言うのなら、その前に自分のこの空想の誤謬(ごびゅう)を実証的に確かめた上にしてもらいたいと思うのである。
 あえてはえに限らず動植鉱物に限らず、人間の社会に存するあらゆる思想風俗習慣についてもやはり同じようなことが言われはしないか。
 たとえば野獣も盗賊もない国で安心して野天や明け放しの家で寝ると風邪(かぜ)をひいて腹をこわすかもしれない。○を押えると△があばれだす。天然の設計による平衡を乱す前にはよほどよく考えてかからないと危険なものである。

     十一 毛ぎらい

 子供の時から毛虫や芋虫がきらいであった。畑で零余子(むかご)を採っていると突然大きな芋虫が目について頭から爪先(つまさき)までしびれ上がったといったような幼時の経験の印象が前後関係とは切り離されてはっきり残っているくらいである。
 芋虫などは人間に対して直接にはなんらの危害を与えるものでもなし、考えようではなかなかかわいいまた美しい小動物であるのに、どうしてこれが、この虫に対しては比較にならぬほど大きくて強い人間にこうした畏怖(いふ)に似た感情を吹き込むかがどうしてもわからない。
 何かしら人間の進化の道程をさかのぼった遠い祖先の時代の「記憶」のようなものがこの理由不明の畏怖嫌忌(けんき)と結びついているのではないかという疑いが起こし得られる。猿(さる)や鳥などが、その食料とするいろいろの昆虫(こんちゅう)の種類によって著しい好ききらいがあって、その見分けをある程度までは視覚によってつけるらしいということが知られている。それでたとえばわれらの祖先のある時代に芋虫や毛虫を食ってひどい目に会ったという経験が蓄積しそれが遺伝した結果ではないかという気もするが、そうした経験の記憶が遺伝しうるものかどうか自分は知らない。ただそんなことでも考えなければちょっと他に説明の可能性が考えられないではないかと思われる、それほどにこの嫌忌の起原が自分には神秘的に思われるのである。
 蛙(かえる)をきらいこわがる人はかなりたくさんある。それから蜘蛛(くも)や蟹(かに)をきらう人も知人のうちにある。昔からの言い伝えでは胞衣(えな)を埋めたその上の地面をいちばん最初に通った動物がきらいになるということになっている。なるほど上にあげた小動物はいずれも地面の上を爬行(はこう)する機会をもっているから、こういう俗説も起こりやすいわけであろうが、この説明は科学的には今のところ全然問題にならない。所を異にした胞衣(えな)とそのもとの主との間につながる感応の糸といったようなものは現在の科学の領域内に求め得られるはずはないからである。
 ことによると、この「嫌忌(けんき)の遺伝」は、正当の意味での遺伝として生殖細胞のクロモソームを通して子孫に伝わるのでなくして、むしろ「教育の効果」として伝わるのかもしれない。われわれのまだ物心のつかないような幼時に、母親とか子守(こも)りとかといっしょにいた時に、偶然それらの動物を目撃してそれを意識した、その同じ瞬間にその保護者なる母なり子守りなりが、ひどく恐怖の表情を示したとすると、そのときの劇動が子供を驚かせおびえさせ、その恐怖の強烈な印象経験がその動物の視像と連想的に固く結びついてしまった、と考えると一応はもっともらしく聞こえる。この仮説は非常なめんどうさえいとわなければ多くの実例について一々調査した上で当否を確かめ得られるであろうと思われる。
 それにしてもまだどうにも説明のできないと思われるのは、自分の場合における次の実例である。
 梨(なし)の葉に病気がついて黄色い斑紋(はんもん)ができて、その黄色い部分から一面に毛のようなものが簇生(ぞくせい)することがある。子供の時分からあれを見るとぞうっと総毛立って寒けを催すと同時に両方の耳の下からあごへかけた部分の皮膚がしびれるように感ずるのであった。
 それから少しきたない話ではあるが、昔田舎(いなか)の家には普通に見られた三和土製(たたきせい)円筒形の小便壺(しょうべんつぼ)の内側の壁に尿の塩分が晶出して針状に密生しているのが見られたが、あれを見るときもやはり同様に軽い悪寒(おかん)と耳の周囲の皮膚のしびれを感ずるのであった。
 梨(なし)の葉の病の場合はあるいは毛虫などとの類似から来る連想によるかもしれないが、後の針状結晶と毛虫とでは距離があまりに大き過ぎるようである。むしろありまきやうじや蚤(のみ)などのようなものが群集したところを連想するのかもしれない。そうしたものが自分の皮膚にとりついていると想像すればぞっとするのは当然かもしれない。
 こんなふうに虫やそれに類したものに対する毛ぎらいはどうやら一応の説明がこじつけられそうな気がするが、人と人との間に感じる毛ぎらいやまたいわゆるなんとなく虫が好く好かないの現象はなかなかこんな生やさしいこじつけは許さないであろう。ただもし非常な空想をたくましくすることを許されるとすれば、自分はここにも何か遺伝学的、優生学的、生理学的な説明が試み得られそうな気がする。ただ気がするだけでまだ具体的な材料を収集することができない。
 それはとにかく、年を取るに従っていろいろな毛ぎらいがだんだんにその強度を減じてくることは事実である。そうして同時に好きなものへの欲望も減少し、結局自分の中の「詩の世界」の色彩があせてくることもたしかである。
「毛ぎらい」と「詩」と「ホルモン」とは「三位一体」のようなものかもしれないのである。
(昭和十年三月、中央公論)
     十二 透明人間

 映画「透明人間」というのが封切りされたときには題材が変わっているだけに相当な好奇的人気を呼んだようである。トリック映画としてもこれはともかくも珍しく新しいもので、われわれのような素人(しろうと)の観客には実際どうして撮(と)ったものか想像ができなかった。それだけにこのトリックは成効したものと思われた。
 この映画を見ているうちに自分にはいろいろの瑣末(さまつ)な疑問がおこった。
 第一には、この「透明人間」という訳語が原名の「インヴィジブル・マン」(不可視人間)に相当していないではないかという疑いであった。
「透明」と「不可視」とは物理学的にだいぶ意味がちがう。たとえば極上等のダイアモンドや水晶はほとんど透明である。しかし決して不可視ではない。それどころか、たとえ小粒でも適当な形に加工彫琢(ちょうたく)したものは燦然(さんぜん)として遠くからでも「視(み)える」のである。これはこれらの物質がその周囲の空気と光学的密度を異にしているためにその境界面で光線を反射し屈折するからであって、たとえその物質中を通過する間に光のエネルギーが少しも吸収されず、すなわち完全に「透明」であっても立派に明白に顕著に「見える」ことには間違いなく、見えないわけにはどうしてもゆかないのである。
 反対に不透明なものでもそれが他の不透明なものの中に包まれていれば外からは「不可視」である。
 こう考えてみると「透明人間」という訳語が不適当なことだけは明白なようである。
 そこで、次に起こった問題はほんとうに不可視な人間ができうるかどうかということであった。ウェルズの原作にはたしか「不可視」になるための物理的条件がだいたい正しく解説されていたように思う。すなわち、人間の肉も骨も血もいっさいの組成物質の屈折率をほぼ空気の屈折率と同一にすれば不可視になるというのである。びん入りの動物標本などで見受けるように、小動物の肉体に特殊な液体を滲透(しんとう)させて、その液中に置けば、ある度までは透き通って見える。ウェルズはたぶんあの標本を見て、そこからヒントを得たものに相違ない。
 しかし、よく考えてみると、あらゆる普通の液体固体で空気とほぼ同じ屈折率をもったものは実在しないし、また理論上からもそうしたものは予期することができそうもない。
 かりに固体で空気と同じ屈折率を有する物質があるとして、人間の眼球がそうした物質でできているとしたらどうであろうか。その場合には目のレンズはもはや光を収斂(しゅうれん)するレンズの役目をつとめることができなくなる。網膜も透明になれば光は吸収されない。吸収されない光のエネルギーはなんらの効果をも与えることができない。換言すれば「不可視人間」は自分自身が必然に完全な盲目でなければならない。
 そればかりではない。この「不可視人間」の概念にはかなりに根本的な科学的不可能性が包まれているようである。一見どんなに荒唐無稽(むけい)に見える空想でも現在の可能性の延長として見たときに、それが不可能だという証明はできないという種類のものもずいぶんある。たとえば人間の寿命を百歳以上に延長するとか、男女の性を取り換えるとかいう種類の空想はそうにわかに否定することのできない種類に属する。しかし「不可視人間」の空想はこれとはよほど趣を異にしている。
 いったい「物体」が存在するということは、換言すれば、その物体と周囲との境界面が存在するということである。物体が認識され、物と物、物とエネルギーとの間に起こる現象が知覚されるのはやはりこの境界面があるからである。この事は、物理学で「場(フィールド)」の方程式だけでは具体的の現象が規定されず、そのほかに「境界条件」を必要とする、という事に相当する。
 それほど一般的な議論をするまでもなく、あらゆる生物の生活現象は、生物を構成するコロイドの粒子や薄膜の境界において行なわれる物理的化学的現象ときわめて密接な関係があるということは現在では周知の事実である。言い換えれば、異質異相の境界面の存在しない所には生命は存在し得られないのである。ところが、そういう境界面があるということは一方において「可視」ということと密接に結びつけられている。少しのチンダル効果さえ示さない全く不可視な固体コロイドは考えられないとすれば、「不可視人間」もまた考えられなくなる道理である。
 以上は別にウェルズの揚げ足をとるつもりでもなんでもない、ただ現在の科学のかなり根本的な事実と牴触(ていしょく)するような空想と、そうでない空想との区別だけははっきりつけておいたほうが便利であろうと思ったからしるしておくだけである。
 これは全くよけいなことであるが、「人間」の人間であるゆえんもやはりその人間と外界との「境界面」によって決定されるのではないか。境界面を示さない人間は不可視人間であり、それは結局、非人間であり無人間であるとも言われるかもしれない。善人、悪人などというものはなくて、他に対して善をする人と悪をする人だけが存在するのかもしれない。同じように「何もしないがえらい人」とか「作品はあまりないが大文豪」とか「研究は発表しないがえらい科学者」とかいうものもやはり一種の透明不可視人間かもしれないのである。

     十三 政治と科学

 日本では政事を「まつりごと」と言う。政治と祭祀(さいし)とが密接に結合していたからである。これはおそらく世界共通の現象で、現在でも未開国ではその片影を認めることができるようである。祭祀その他宗教的儀式と連関していろいろの巫術(ふじゅつ)魔術といったようなものも民族の統治者の主権のもとに行なわれてそれが政治の重要な項目の一つになっていたように思われる。
 そうした祭祀(さいし)や魔術の目的はいろいろであったろうが、その一つの目的はわれわれ人間の力でどうにもならない、広い意味での「自然」の力を何かしら超自然の力を借りて制御し自由にしたいという欲望の実現ということにあったようである。たとえば、五穀の豊饒(ほうじょう)を祈り、風水害の免除をいのり、疫病の流行のすみやかに消熄(しょうそく)することを乞(こ)いのみまつったのである。かくして民族の安寧と幸福を保全することが為政者の最も重要な仕事の少なくも一部分であったのである。
 この重要な仕事に連関して天文や気象に関する学問の胚芽(はいが)のようなものが古い昔にすでに現われはじめ、また巫呪(ふしゅう)占筮(せんぜい)の魔術からもいろいろな自然科学の先祖のようなものが生まれたというのは周知のことである。このように「自然」を相手の仕事から自然の研究が始まり、それがついに自然科学にまで発達するということは全く当然な過程であると言わなければならない。
 そうだとすると、昔の主権者為政者のもとに祭官、巫術(ふじゅつ)師らの行なった仕事の一部は今日では彼らの後裔(こうえい)の科学者の手によって行なわれておるべきはずである。そうして、ある見方で見れば実際それがそうなっているのである。たとえば五穀の収穫や沿海の漁獲や採鉱冶金(やきん)の業に関しては農林省管下にそれぞれの試験場や調査所などがあって「科学的政道」の一端を行なっており、疫病流行に関しては伝染病研究所や衛生試験所やその他いろいろの施設があり、風水(ふうすい)旱害(かんがい)に関しても気象台や関係諸機関が存在しているようである。これらの政府の諸機関は、少なくもその究極の目的においては、昔の祭官や巫術者のそれと共通なものをもっていることは事実である。
 昔の為政者の仕事のうちで今日の見地から見て科学的と考えられるものは上記のごとき宗教的色彩あるもののほかにもいろいろあった。たとえば、天智(てんじ)天皇のみ代だけについて見ても「是(この)歳(とし)水(みず)碓(うす)を造り而(て)冶(かね)※(わかす)[#「金+截」、134-1]」とか「始(はじめ)て漏剋(ろうこく)を用う」とか貯水池を築いて「水城(みずき)」と名づけたとか、「指南車」「水□(みずばかり)」のような器械の献上を受けたり、「燃ゆる土、燃ゆる水」の標本の進達があったりしたようなことが、このみ代の政治とどんな交渉があったか無かったか、それはわからないが、ともかくも、当時の為政者の注意を引いた出来事であったには相違ない。おそらく古代では国君ならびにその輔佐(ほさ)の任に当たる大官たちみずからこれらの科学的な事がらにも深い思慮を費やしたのではないかと想像される。
 しかるに時代の進展とともに事情がよほど変わって来た。政治法律経済といったようなものがいつのまにか科学やその応用としての工業産業と離れて分化するような傾向をとって来た。科学的な知識などは一つも持ち合わせなくても大政治家大法律家になれるし、大臣局長にも代議士にもなりうるという時代が到来した。科学的な仕事は技師技手に任せておけばよいというようなことになったのである。そうしてそれらの技術官は一国の政治の本筋に対して主動的に参与することはほとんどなくて、多くの場合には技術にうとく理解のない政治家的ないし政治屋的為政者の命令のもとに単に受動的にはたらく「機関」としての存在を享楽しているだけである、と言ってもあまりはなはだしい過言とは思われない状態である。このような状態は○○などにおいて特に顕著なようである。
 科学に関する理解のはなはだ薄い上長官からかなり無理な注文が出ても、技師技手は、それはできないなどということはできない地位におかれている。それでできないものをでかそうとすれば何かしら無理をするとかごまかすとかするよりほかに道はない、といったような場合も往々あるようである。また一方下級の技術官たちの間では実に明白に有効重要と思われる積極的あるいは消極的方策があっても、その見やすい事が、取捨の全権を握っている上長官に透徹するまでにはしばしば容易ならぬ抵抗に打ち勝つことが必要である。ことにその間に庶務とか会計とかいう「純粋な役人」の系列が介在している場合はなおさら科学的方策の上下疎通が困難になる道理である。
 具体的に言うことができないのは遺憾であるが、自分の知っている多数の実例において、科学者の目から見れば実に話にもならぬほど明白な事がらが最高級な為政者にどうしても通ぜずわからないために国家が非常な損をしまた危険を冒していると思われるふしが決して少なくないのである。中にはよくよく考えてみると国家国民の将来のために実に心配で枕(まくら)を高くして眠られないようなことさえあるのである。
 このような状態を誘致したおもな原因は、政治というものと科学というものとがなんら直接の関係もないものだ、という誤った仮定にあるのではなかろうかと思われる。昔の政事に祭り事が必要であったと同様に文化国の政治には科学が奥底まで滲透(しんとう)し密接にない交ぜになっていなければ到底国運の正当な進展は望まれず、国防の安全は保たれないであろうと思われる。
 これは日本と関係のないよその話ではあるが、自分の知るところでは一九一〇年ごろのカイゼル・ウィルヘルム第二世は事あるごとに各方面の専門学術に熟達したいわゆるゲハイムラート・プロフェッソルを呼びつけて、水入らずのさし向かいでいろいろの科学知識を提供させて何かの重要計画の参考としていたようである。カイゼルは当時の雄図の遂行にできうるだけ多くの科学を利用しようとしたのではないかと想像される。その結果から得た自信がカイザーをあの欧州大戦に導いたのかもしれないという気がする。それはとにかく、ドイツではすでにそのころから政治と科学とが没交渉ではなかったと言ってもよい。
 よくは知らないが現在のソビエト・ロシアの国是にも科学的産業興振策がかなり重要な因子として認められているらしい。たとえば飛行機だけ見てもなかなかばかにならない進歩を遂げているようである。おそらくロシアでは日本などとちがって科学がかなりまで直接政治に容喙(ようかい)する権利を許されているのではないかと想像される。
 日本では科学は今ごろ「奨励」されているようである。驚くべき時代錯誤ではないかと思う。世界では奨励時代はとうの昔に過ぎ去ってしまっているのではないか。他国では科学がとうの昔に政治の肉となり血となって活動しているのに、日本では科学が温室の蘭(らん)かなんぞのように珍重され鑑賞されているのでは全く心細い次第であろう。
 その国の最高の科学が「主動的に」その全能力をあげて国政の枢機に参与し国防の計画に貢献するのが当然ではないかと思われるのに、事は全くこれに反するように思われるのである。科学は全く受動的に非科学の奴僕(ぬぼく)となっているためにその能力を発揮することができず、そのために無能視されてしかられてばかりいるのではないかという気もする。いったい二十世紀の文明国と名乗る国がらからすれば、内閣に一人や二人のしかるべき科学大臣がいてもよさそうであり、国防最高幹部にすぐれた科学者参謀の三四人がいても悪いことはなさそうに思えるのであるが、これも畢竟(ひっきょう)は世の中を知らぬ老学究の机上の空想に過ぎないのかもしれない。

     十四 おはぐろ

 自分たちの子供の時分には既婚の婦人はみんな鉄漿(おはぐろ)で歯を染めていた。祖母も母も姉も伯母(おば)もみんな口をあいて笑うと赤いくちびるの奥に黒耀石(こくようせき)を刻んだように漆黒な歯並みが現われた。そうしてまたみんな申し合わせたように眉毛(まゆげ)をきれいに剃(そ)り落としてそのあとに藍色(あいいろ)の影がただよっていた。まだ二十歳にも足らないような女で眉を落とし歯を染めているのも決して珍しくはなかった。そうしてそれが子供の自分の目にも不思議になまめかしく映じたようである。
 今でもおはぐろのにおいを如実に思い出すことができる。いやなにおいであったがしかしまた実になつかしい追憶を伴なったにおいである。
 台所の土間の板縁の下に大きな素焼きの土瓶(どびん)のようなものが置いてあった。ふたをあけて見ると腐ったような水の底に鉄釘(てつくぎ)の曲がったのや折れたのやそのほかいろいろの鉄くずがいっぱいはいっていて、それが、水酸化鉄であろうか、ふわふわした黄赤色の泥(どろ)のようなものにおおわれていた。水面をすかして見ると青白い真珠色の皮膜を張ってその膜には氷裂状にひびがはいっているのであった。晩秋の夜ふけなどには、いつもちょうどこの土瓶のへんでこおろぎが声を張り上げて鳴いていたような気がする。
 このきたない土瓶からきたない水を湯飲みか何かにくみ出して、それにどっぷりおはぐろ筆を浸す。そうしてその筆の穂を五倍子箱(ふしばこ)の中の五倍子(ふし)の粉の中に突っ込んで粉を充分に含ませておいて口中に運ぶ、そうして筆の穂先を右へ左へ毎秒一往復ぐらいの週期で動かしながらまんべんなく歯列の前面を摩擦するのである。何分間ぐらいつづけていたかはっきりした記憶はないがかなり根気よくやっていたようである。妙にぐしゃぐしゃという音をたてて口の中を泡(あわ)だらけにして、そうしてあの板塀(いたべい)や下見などに塗る渋のような臭気を部屋(へや)じゅうに発散しながら、こうした涅歯術(でっしじゅつ)を行なっている女の姿は決して美しいものではなかったが、それにもかかわらず、そういう、今日ではもう見られない昔の家庭の習俗の思い出には言い知れぬなつかしさが付随している。この「おはぐろの追憶」には行燈(あんどん)や糸車の幻影がいつでも伴なっており、また必ず夜寒のえんまこおろぎの声が伴奏になっているから妙である。
 おはぐろ筆というものも近ごろはめったに見られなくなった過去の夢の国の一景物である。白い柔らかい鶏の羽毛を拇指(おやゆび)の頭ぐらいの大きさに束ねてそれに細い篠竹(しのだけ)の軸をつけたもので、軸の両端にちょっとした漆の輪がかいてあったような気がする。七夕祭(たなばたまつ)りの祭壇に麻や口紅の小皿(こざら)といっしょにこのおはぐろ筆を添えて織女にささげたという記憶もある。こういうものを供えて星を祭った昔の女の心根には今の若い婦人たちの胸の中のどこを捜してもないような情緒の動きがあったのではないかという気もするのである。
 今の娘たちから見ると、眉(まゆ)を落とし歯を涅(そ)めた昔の女の顔は化け物のように見えるかもしれない。しかし、逆にまた、今の近代嬢の髪を切りつめ眉毛を描き立て、コティーの色おしろいを顔に塗り、キューテックの染料で爪(つめ)を染め、きつね一匹をまるごと首に巻きつけ、大蛇(だいじゃ)の皮の靴(くつ)を爪立(つまだ)ってはき歩く姿を昔の女の眼前に出現させたらどうであったか。やはり相当立派な化け物としか思われなかったであろう。
 去年の夏数寄屋橋(すきやばし)の電車停留場安全地帯に一人の西洋婦人が派手な大柄の更紗(さらさ)の服をすそ短かに着て日傘(ひがさ)をさしているのを見た。近づいて見ると素足に草履(ぞうり)をはいている。そうして足の指の爪(つめ)を毒々しいまっかな色に染めているのであった。なんとも言われぬ恐ろしい気持ちがした。何かしら獣か爬虫(はちゅう)のうちによく似た感じのものがあるのを思い出そうとして思い出せなかった。
 近ごろあるレストランで友人と食事をしていたら隣の食卓にインドの上流婦人らしい客が二人いて、二人ともその額の中央に紅の斑点(はんてん)を印していた。同じ紅色でも前記の素足の爪紅(つまべに)に比べるとこのほうは美しく典雅に見られた。近年日本の紅がインドへ輸出されるのでどうしたわけかと思って調べてみると婦人の額に塗るためだそうだという話をせんだって友人から聞いていたが、実例をまのあたりに見るのははじめてである。
 いつか見た「バンジャ」という映画で、南洋土人の結婚式に、犠牲の鶏を殺してその血をちょっぴり鉢(はち)にたらし、そうして、その血を新夫婦が額に塗りまた胸に塗る場面があった。今度インド婦人の額の紅斑を見たときになんとなくそれを思い出して、何か両者の間に因縁があるのではないかという気がした。それからまた、「血」という字は「皿(さら)」の上に血液「ノ」を盛った形を示すという説を思い出し、「ノ」がどうして血の象徴になりうるかという意味が「バンジャ」の映画の皿の中の一抹(いちまつ)の血を見てはじめてわかったような気もするのであった。
 それはとにかく、額に紅を塗ったり、歯を染めたり眉(まゆ)を落としたりするのは、入れ墨をしたり、わざわざ傷あとを作ったりあるいは耳たぶを引き延ばし、またくちびるを鳥のくちばしのように突出させたりする奇妙な習俗と程度こそ違え本質的には共通な原理に支配された現象のような気がする。ちょっと考えると「美しく見せよう」という動機から化粧が起こったかと思われるが実はそうでないらしい。むしろ天然自然の肉体そのままの姿を人に見せてはいけない、そうすると何かしら不都合なことが起こるという考えがその根底にあるのではないかと疑われる。つまり一種のタブーからだんだんにこうした珍奇な習俗が発達したのではないかという気がするのである。これについてはたぶんその方面の学者たちの学説がいろいろあることと思われる。
 いずれにしても、こんなふうに「化ける」ための化粧をするのはおそらく人間以外の動物にはめったにない事であろうと思われる。人間は火を使用する動物なりという定義とほぼ同等に化粧する動物なりという定義もできるかもしれない。そうだとすると、男も鉄漿黒々(かねくろぐろ)とつけていた日本の昔は今よりももっと人間のこの特権を充分に発揮していたことになるかもしれない。

     十五 視角

 はじめて飛行機に乗った経験を話している人が、空中から見た列車の長さがたったこれだけのひものようにしか見えなかったと言ってさし出した両手の間に約一尺ぐらいの長さを画して見せた。これは機上から見た列車の全長の「視角」がほぼ腕の長さに等しい距離において一尺の長さが有する視角に等しいという意味と思われる。それで列車の実際の長さがわかっていれば、その時の飛行機の高度が算出される勘定である。しかし、多くの人はこういう場合に単に汽車が一尺ぐらいに見えたとか橋がマッチぐらいだったとか言う。これは科学的にはほとんど無意味な言葉である。それにもかかわらずそういう無意味な言い現わし方をする人は相当な教養のある人にも少なくないようである。「盆大の月」とか、「たらいほどなおてんとう様」とかいうのも学問的にはナンセンスである。盆やたらいの距離を指定しなければ客観的には意味を成さない。言う人のつもりでは月や太陽を勝手なある距離に引き寄せて考えているのだが、その無意味な主観的な仮定は他人には通じない。
 人玉を見たという人にその光り物の大きさを聞いてみても視角でいくらぐらいという人はきわめてまれである。風船玉ぐらいだったとか、電球の大きさだったとかいうのが普通である。言う人の心持ちではやはりだいたいその目的物の距離を無意識に仮定しているのである。
 月や太陽が三十メートルさきの隣家の屋根にのっかっている品物であったらそれはたしかに盆大である。しかし実際は二億二千八百万キロメートルの距離にある直径百四十万キロメートルの火の玉である。
 ヘルムホルツは薄暮に眼前を横ぎった羽虫を見て遠くの空をかける大鵬(たいほう)と思い誤ったという経験をしるしており、また幼時遠方の寺院の塔の回廊に働いている職人を見たときに、あの人形を取ってくれと言っておかあさんにせがんだことがあると言っている。
 いつか上野(うえの)の松坂屋(まつざかや)の七階の食堂の北側の窓のそばに席を占めて山下(やました)の公園前停留場をながめていた。窓に張った投身者よけの金網のたった一つの六角の目の中にこの安全地帯が完全に収まっていた。そこに若い婦人が人待つふぜいで立っていると、やがて大学生らしいのが来ていっしょになった。このランデヴーのほほえましい一場面も、この金網のたった一つの目の中で進行した。
 これといくらか似たことは自分自身や身近いものの些細(ささい)な不幸が日本全体の不幸のように思われ、自分の頭痛で地球が割れはしまいかと思うことである。たとえばまた自分の専攻のテーマに関する瑣末(さまつ)な発見が学界を震駭(しんがい)させる大業績に思われたりする。しかし、人が見ればこれらの「須弥山(しゅみせん)」は一粒の芥子粒(けしつぶ)で隠蔽(いんぺい)される。これも言わば精神的視角の問題である。この見やすい道理を小学校でも中学校でもどこでも教わらない人が多数いるような気がする。
 自分は高等学校の時先生からたいへんにいいことを教わった。それは、太陽や月の直径の視角が約半度であること、それから腕をいっぱいに前方へ伸ばして指を直角に曲げ視線に垂直にすると、指一本の幅が視角にして約二度であるということであった。それでこの親譲りの簡易測角器械さえあれば、距離のわかったものの大きさ、大きさのわかった物の距離のおおよその見当だけは目の子勘定ですぐにつけられる。これも万人が知っていて損にならないことであるが、木を見ることを教えて森を見ることは教えない今の学校教育では、こんな「概略な見当」を正しくつけるようなことはどこでも教えないらしい。高価な精密な器械がなければ一尺と百尺との区別さえもわからないかのように思い込ませるのが今の教育の方針ではないかと思われることもある。これも考えものである。
 視角の概念とその用途は小学校でも楽に教えこまれる。これを教えておくと世の中に無用なけんかの種が一つ二つは減るであろうと思われるのである。
(昭和十年四月、中央公論)
     十六 歌舞伎座見物

 二月の歌舞伎座(かぶきざ)を家族連れで見物した。三日前に座席をとったのであるが、二階の二等席はもうだいたい売り切れていて、右のほうのいちばんはしっこにやっと三人分だけ空席が残っていた。当日となって行って見ると、そのわれわれの座席の前に補助椅子(ほじょいす)の観客がいっぱい並んで、その中には平気で帽子をかぶって見物している四十格好の無分別男がいたりしたので、自分の席からは舞台の右半がたいてい見えず、肝心の水谷八重子(みずたにやえこ)の月の顔(かん)ばせもしばしばその前方の心なき帽子の雲に掩蔽(えんぺい)されるのであった。劇場建築の設計者が補助椅子というものの存在を忘れていたらしい。
 一番目「嘆きの天使」はかつてスタンバーク監督ディートリヒ主演の映画を見ていたので、それとこれとを比較して見るという興味があった。さて「高等中学」の教室に現われた教授ウンラートはと見ると、遠方から見たいったいの風貌(ふうぼう)がエミール・ヤニングスの扮(ふん)した映画のウンラートにずいぶんよく似ているので、よくもまねたものだと多少感心した。しかし、同時に登場したドイツ学生の動作が自分の目にはどうしてこうもスチューピッドにできるかと思うほどスチューピッドに見えた。動物学の書物にナマケモノという動物があるが、あれがおおぜいのたうち回っているのだというような不思議な印象を受けただけであった。毎日こういう生徒を相手にしているのでは、ウンラートでなくても、どこか他に転向の新天地が求めたくなるであろうという気がするのであった。
 映画では、はじめにウンラートの下宿における慰めなき荒涼無味の生活の描写があり、おまけにかわいがって飼っていた小鳥の死によって、この人の唯一の情緒生活のきずなの無残に断たれるという場面が一種の伏線となっているので、それでこそ後にポーラの楽屋のかもし出す雰囲気(ふんいき)の魅力が生きて働いてくるように思われるが、この芝居には、そういったようなデリケートな細工などは一切抜きにして全く荒削りの嘆きの天使ができあがっているようである。同じようなわけで、後に教授が道化役になって雄鶏(おんどり)の鳴き声をするのでも、映画のほうではちゃんとしたそれだけの因縁が明らかにされている。それは、ポーラとの結婚を祝する座員ばかりの水入らずの宴会の席で、ポーラがふざけて雌鶏(めんどり)のまねをして寄り添うので上きげんの教授もつり込まれて柄にない隠し芸のコケコーコーを鳴いてのける。その有頂天の場面が前にあるので、後に故郷の旧知の観客の前で無理やりに血を吐く思いで叫ばされるあのコケコーコーの悲劇が悲劇として生きてくるのではないかと思う。しかしこの芝居にはそんな因縁は全然省略されているから、鶏のまねが全く唐突で、悪どい不快な滑稽味(こっけいみ)のほうが先に立つ。
 映画と芝居は元来別物であるから、映画のまねは芝居ではできない。そのかわりまた芝居でなくてはできないこともある。それをすればおもしろいであろうが、この芝居では映画のいいところを大略もぎ取ってしまって、それに代わるいいものを入れるのを忘れているように思われた。そうしてせっかく新たに入れたものにはどうも蛇足(だそく)が多いようである。たとえば、最後の幕で、教授が昔なつかしい教壇の闇(やみ)に立ってのあのことさらな独白などは全くないほうがいい。また映画ではここでびっこの小使いが現われ、それがびっこをひくので手にさげた燭火(しょくか)のスポットライトが壁面に高く低く踊りながら進行してそれがなんとなく一種の鬼気を添えるのだが、この芝居では、そのびっこを免職させてそれを第二幕の酒場の亭主(ていしゅ)に左遷している。そうしてそこではびっこがなんの役にも立たないむしろ目ざわりなうるさい木靴(サボ)の騒音発声器になっているだけである。
 終末の幕切れに教授の死を弔う学生の「アーメン」にいたっては、蛇足にサボをはかせたようなものではないかと思われた。
 大学教授連盟とかいう自分にはあまり耳慣れない名前の団体から、このような芝居は教育界の神聖を汚すものだと言って厳重な抗議があったので、それに義理を立てるためにこのアーメンを付加したのだといううわさがある。これも後世の参考と興味のために記録に値する出来事であろう。
 ウンラートが気が狂ったのを見て八重子(やえこ)のポーラが妙な述懐のようなことを述べるせりふがあるが、あれはいかにも、ああした売女の役をふられた八重子自身が贔屓(ひいき)の観客へ対しての弁明のように響いて、あの芝居にそぐわないような気がした。ポーラはやはり浮き草のようなポーラであるところにこの劇の女主人公としての意義があり、そこに悲劇があり、ほんとうの哀れがあるのではないか。八重子(やえこ)はここで黙って百パーセントの売女としてのポーラになりきることによってこの悲劇を完成すべきではないかという気がしたのであった。
 不平ばかり言ったようで作者にはすまないが、どうもこんなふうに感じたことは事実でいたし方がない。
 二番目「新世帯案内」では見物がよく笑った。笑わせておいてちょっとしんみりさせる趣向である。これが近ごろのこうした喜劇の一つの定型として重宝がられるらしい。しかしたまには笑いっ放しに笑わせてしまうのもあってはどうかと思われた。食事時間前の前菜にはなおさらである。
 三番目「仇討輪廻(あだうちりんね)」では、多血質、胆汁質(たんじゅうしつ)、神経質とでも言うか、とにかく性格のちがう三人兄弟の対仇討観らしいものが見られる。これなどももうひと息どうにかすると相当おもしろく見られそうな気がしたが、現在のままではどうにもただあわただしく筋書を読んでいるような気がするだけであまりにあっけないような気がしたのは残念であった。どうと言って話にはできないが見るとたまらなくおもしろいという芝居もあるが、この芝居はそれとはちがった種類に属するもののようである。
 最後の「女一代」では八重子が娘になり三十女になり四十女になって見せる。そうして実によく見物を泣かせるのである。そういう目的で作られたこの四幕物は、そういうものとしての目的を九分通りまでは達していると思われた。とにかく「嘆きの天使」を見ているときのようにあぶなっかしい感じはちっともなくて楽に見られる。それだけに何か物足りない。
 この芝居を見てから数日後に友だちといっしょに飯を食いながらこの歌舞伎座(かぶきざ)見物の話をして、どうもどの芝居もみんな、もうひと息というところまで行っていながら肝心の最後のひと息が足りないような気がするという不平をもらしたら、T君は、畢竟(ひっきょう)いい脚本がないからだろうと言った。実際ほんとうにいい脚本なら芸術批評家を満足させると同時にまた大衆にも受けないはずはないであろうと思われる。そう言えば日本の映画でもやはりたいていもうひと息というところでぴったり止まっているように思われる。みんな仏作って魂が入れてないように見える。
 そう言えばまた、日本の工業などでもやはり九十九パーセントまでは外国の最高水準に近づいていて、あとの一パーセントだけが爪立(つまだ)ってみても少し届かないといったようなものが多いような気がする。
 エヴェレスト登攀(とうはん)でもそうであるが、最後の一歩というのが実はそれまでの千万歩よりも幾層倍むつかしいという場合が何事によらずしばしばある。そう考えて来るといささか心細い日本の現代である。あきらめのよすぎる国民性によるのであろうか。そう思うとウンラート教授のような物事を突き詰めて行くところまで行ってしまう人間も頼もしいような気がする。少なくもそういう人間を産み出しうる国民性はうらやむべきであるかもしれない。
 歌舞伎座の一夕の観覧記がつい不平のノートのようになってしまったようであるが、それならちっともおもしろくなかったのかと聞かれればやはりおもしろかったと答えるのである。実をいうと午後四時から十時までぶっ通しに一粒えりの立派な芸術ばかりを見せられるのであったら、自分など到底見に行くだけの気力が足りそうもないような気がする。毎日の仕事に疲れた頭をどうにかもみほごして気持ちの転換を促し快いあくびの一つも誘い出すための一夕の保養としてはこの上もないプログラムの構成であると思われる。むしろ無意味に笑ったり、泣いたりすることの「生理的効果」のほうが実は大衆観客のみならず演劇会社幹部の人たちの無意識の主要目的であるのかもしれない。そうだとすると、こうした芝居に見当違いの芸術批評などを試みるのは実に愚なことである。
 それで、よく考えてみると、少なくも自分の近ごろの芝居見物は、実はそうした生理的効果を主要な目的としているようである。その点では按摩(あんま)をとったりズーシュを浴びたりするのと全く同等ではないかと思われて来るのである。
 ことによると、こうした芝居の観客の九十パーセントぐらいまでは、自分では意識していなくとも実はやはりそうした精神的マッサージの生理的効果を目あてにして出かけるのではないかという疑いも起こし得られる。

     十七 なぜ泣くか

 芝居を見ていると近所の座席にいる婦人たちの多数が実によく泣く、それから男も泣く、泣きそうもないようなたくましい大男でかえって女よりもみごとによく泣くのもいる。
 これらの観客はたぶんこうして泣きたいために忙しい中を繰り合わせ、乏しい小使い銭を都合して入場しているものと思われる。こうして芝居を見ながら泣くということは、それほどに望ましい本能的生理的欲求であるらしい。
 人間はなぜ泣くか、泣くとは何を意味するか。「悲しいから泣く」という普通の解釈はまるでうそではないまでも決してほんとうではないようである。
「泣く」ということは涙を流して顔面の筋にある特定の収縮を起こすことであると仮定し、そうした動作に伴なう感情を「悲しい」と名づけるとすると、「泣く」と「悲しい」との間の因果関係はむしろ普通に言うのと逆になるかもしれない。
「悲しいから」と言うのを「悲しむべき事情が身辺に迫ったから」という意味に解釈する、たとえば自身に最も親しい者が非業の死をとげたからというふうに理解すると、それはたしかに泣くことの一つの条件にはなるが、それだけでは泣くための必要条件は決してそろわないのである。たとえば、ある書物に引用された実例によると、ある医者は、街上でひかれた十歳になるわが子の瀕死(ひんし)の状態を見ても涙一滴こぼさず、応急の手当に全力を注いだ。数時間後に絶命した後にもまだ涙は見せなかった。しばらくして後にその子の母から、その日の朝その子供のしたあるかわいい行動について聞かされたときに始めて流涕(りゅうてい)したそうである。これと似た経験はおそらく多数の人がもち合わせていることと思われる。
 テニスンの詩「プリンセス」に「戦士の亡骸(なきがら)が運び込まれたのを見ても彼女は気絶もせず泣きもしなかったので、侍女たちは、これでは公主の命が危ういと言った、その時九十歳の老乳母(ろううば)が戦士の子を連れて来てそっと彼女のひざに抱きのせた、すると、夏の夕立のように涙が降って来た」というくだりがある。
 以下はある男の告白である。
「自分が若くて妻をうしなったときも、ちっとも涙なんか出なかった。ただ非常に緊張したような気持ちであった。親戚(しんせき)の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸(いがい)を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭(どまんじゅう)の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていたときに、今まで吹き荒れていた風が突然ないだかのように世の中が静寂になりそうして異常に美しくなったような気がした。山の木立ちも墓地から見おろされるふもとの田園もおりから夕暮れの空の光に照らされて、いつも見慣れた景色がかつて見たことのない異様な美しさに輝くような気がした。そうしてそのような空の光の下に無心の母なき子を抱いてうつ向いている自分自身の姿をはっきり客観した、その瞬間に思いもかけず熱い涙がわくように流れ出した。」
 フランス映画「居酒屋」でも淪落(りんらく)の女が親切な男に救われて一│皿(さら)の粥(かゆ)をすすって眠った後にはじめて長い間かれていた涙を流す場面がある。「勧進帳」で弁慶(べんけい)が泣くのでも絶体絶命の危機を脱したあとである。
 こんな実例から見ると、こうした種類の涙は異常な不快な緊張が持続した後にそれがようやく弛緩(しかん)し始める際に流れ出すものらしい。
 うれし泣きでも同様である。たいてい死んだであろうと思われていたむすこが無事に帰ったとか、それほどでなくとも、心配していた子供の入学試験がうまく通ったというのでもやはり緊張のゆるむ瞬間に涙が出るのである。
 頑固親爺(がんこおやじ)が不幸むすこを折檻(せっかん)するときでも、こらえこらえた怒りを動作に移してなぐりつける瞬間に不覚の涙をぽろぽろとこぼすのである。これにはもちろん子を哀れみまた自分を哀れむ複雑な心理が伴なってはいるが、しかしともかくもそうした直接行動によって憤怒(ふんぬ)の緊張は緩和され、そうして自己を客観することのできるだけに余裕のある状態に移って行くのである。そうしてかわいいわが子を折檻(せっかん)しなければならないわが身の悲運を客観するときにはじめて泣くことができるらしい。
 芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)の小品に次のような例がある。
 山道のトロッコにうっかり乗った子供が遠くまではこばれた後に車から降ろされただ一人取り残されて急に心細くなり、夢中になって家路をさしていっさんに駆け出す。泣きだしそうにはなるが一生懸命だから思うようには泣けない、ただ鼻をくうくう鳴らすだけであった。やっとわが家に飛び込むと同時にわっと泣きだして止め度もなく泣きつづけるのである。
 小さな子が道でころんですねや手のひらをすりむいても、人が見ていないと容易には泣かない、だれかが見つけていたわるとはじめて泣きだす、それが母親などだと泣き方がいっそうはげしい。
 おとなでもいろいろなふしあわせを主観して苦しんでいる間はなかなか泣けないが、不幸な自分を客観し哀れむ態度がとれるようになって初めて泣くことが許されるようである。
 こういうふうに考えてくると流涕(りゅうてい)して泣くという動作には常に最も不快不安な緊張の絶頂からの解放という、消極的ではあるがとにかく一種の快感が伴なっていて、それが一道の暗流のように感情の底層を流れているように思われる。
 うれしい事は、うれしくないことの続いたあとに来てはじめてうれしさを充分に発揮する。このように、遂げられなかった欲望がやっと遂げられたときの狂喜と、底なしの絶望の闇(やみ)に一道の希望の微光がさしはじめた瞬間の慟哭(どうこく)とは一見無関係のようではあるが、実は一つの階段の上層と下層とに配列されるべきものではないかと思われる。
 この流涕の快感は多くの場合に純粋に味わうことが困難である。その泣くことの原因は普通自分の利害と直接に結びついているのであるから、最大緊張の弛緩(しかん)から来る涙の中から、もうすぐに現在の悲境に処する対策の分別が頭をもたげて来るから、せっかく出かけた涙とそれに伴なう快感とはすぐに牽制(けんせい)されてしまわなければならない。
 そういう牽制を受ける心配なしに、泣くことの快感だけを存分に味わうための最も便利な方法がすなわち芝居、特にいわゆる大甘物の通俗劇を見物することである。劇中の人物に自己を投射しあるいは主人公を自分に投入することによって、その劇中人物が実際の場合に経験するであろうところの緊張とそれに次いで来るように設計された弛緩とを如実に体験すると同等の効果を満喫して涙を流しはなをすする、と同時に泣くことの快感に浸るのである。しかもこの場合劇中人物のあらゆる事件│葛藤(かっとう)は観客自身の利害と感情的にはとにかく事実的になんの交渉もないのであるから、涙の中から顔を出して来るような将来への不安も心配も何もないのである。換言すれば、泣くことの快感を最も純粋なる形において享楽するのである。
 この享楽をいっそう純粋ならしめるためには芝居の筋などはむしろなるべく簡単なほうがいいらしい。深刻なモラールやフィロソフィーなどの薬味がきき過ぎて、大いに考えさせられたりひどく感心させられたりするようだと、大脳皮質のよけいな部分の活動に牽制されて、泣くことの純粋さがそこなわれることになる。そうした芸術的に高等な芝居が、生理的享楽のために泣きに行く観客に評判のわるいのはきわめて当然なことであろうと思う。
 原因は少しもわからなくてもさもおかしそうに笑っている人を見れば自分も笑いたくなると同様に、上手(じょうず)な俳優が身も世もあられぬといったような悲しみの涙をしぼって見せれば、元来泣くように準備のととのっている観客の涙腺(るいせん)は猶予(ゆうよ)なく過剰分泌を開始するのであって、言わば相撲(すもう)を見ていると知らず知らず握りこぶしを堅くするのとよく似た現象であろうと想像される。その上に少しばかり泣くために有効な心理的な機構が付加されていれば効果はそれだけで充分であって、前後を通じての筋の論理的のつながりなどはたいした問題にはならないのである。こういう見方からすれば、芸術的な高級演劇がさっぱり商売にならないで芸術などは相手にしない演劇会社社長の打つ甘い新派劇などが満員をつづけるのが不思議でなくなるようである。
 話は変わるが、日本では昔から「ものの哀れ」ということがいろいろな芸術の指導原理か骨髄かあるいは少なくも薬味ないしビタミンのごときものであると考えられていた。西洋でもラスキンなどは「一抹(いちまつ)の悲哀を含まないものに真の美はあり得ない」と言ったそうである。これから考えても悲哀ということ自身は決していとわしい恐るべきことではなくてかえって多くの人間の自然に本能的に欲求するものであることが推測される。ただ悲哀に随伴する現実的利害関係が迷惑なのである。
 悲しくない泣き方もいろいろある。あんまりおかしくて笑いこけても涙が出るが、笑うのと泣くのは元来紙一重だからこれは当然である。しかし感情的でない泣き方もいろいろあるのであって、その一特例としては、疲れたときにあくびをすると涙が出る。あくびをするときのわれわれの顔は手ばなしで泣きわめく時の顔とかなりまでよく似ている。うそと思う人は鏡を見ながら比較してみればわかる。このあくびというのがやはり緊張から弛緩(しかん)へ移るときに起こる生理的現象であって、とにかく顔面をゆがめ、声は出さなくても呼気を長くつき出し、そうしてぽろぽろ涙をこぼすのである。そうしてさんざんあくびをしたあとのさっぱりした気持ちも大いに泣いたあとのすがすがしいここちとどこか似ているようである。それだから、上手(じょうず)の芝居を見て泣くのも、下手(へた)の芝居を見てあくびをするのも生理的にはただ少しのちがいかもしれないと思われる。
 目に煙がはいったときや、わさびのきき過ぎたすしを食ったときにこぼす涙などは上記のものとは少し趣を異にするようである。それからまた、胃の洗滌(せんじょう)をすると言って長いゴム管を咽喉(のど)から無理に押し込まれたとき、鼻汁(はなじる)といっしょにたわいなくこぼれる涙に至っては真に沙汰(さた)の限りである。
 しかしこんな純生理的な涙でも、また悲しくて出る涙でも、あれが出ないと、何かしらひどくいけない悪効果がわれわれのからだの全機構のどこかに現われる恐れがある、それをあのように涙をこぼすことによって救助し緩和するような仕掛けになっているのではないかという疑いが起こる。言わば高圧釜(こうあつがま)の安全弁のように適当な瞬間に涙腺(るいせん)の分泌物を噴出して何かの危険を防止するのではないか、そうでないとどうも涙の科学的意義がのみ込めない。
 ある通俗な書物によると、甲状腺の活動が旺盛(おうせい)な時期には性的刺激に対する感度が高まると同時にあらゆる情緒的な刺激にも敏感になり、つまり泣きやすくもなるそうである。青春の男女のよく泣くのはそのためかと思われる。しかし非常に年を取ったばあさんなどがごちそうを食うときに鼻汁ばかりか涙まで流すのはあれはどういうのだかいささか神秘的である。
 人間以外の動物で「泣く」のがあるかどうか。日本では馬が泣く話がある。ダーウィンは象その他若干の獣が泣くと主張したがその説は確認されてはいないそうである。ともかくも明白に正真正銘に「泣き」また「笑う」のはだいたいにおいて人間の特権であるらしいから、われわれはこの特権を最も有効に使用するように注意したいものである。しかしまたこれが人間の仕事のうちでいちばんむつかしいことのようにも思われる。

     十八 「笑う」と「泣く」と

 十余年前に「笑い」と題する随筆を書いたことがあって、その中で、緊張から弛緩(しかん)に移る際に発生する笑いの現象について若干の素人(しろうと)考えを述べたのであった。今度前項で「泣く」現象の発生条件としてやはり緊張から弛緩への過渡をあげたのであるから、これだけだと笑うも泣くも一つのもののように思われる。実際子供やヒステリックな婦人などの場合では、泣いているかと思うと笑っていて、どちらだかわからない場合が多いし、また正常なおとなでも歓楽きわまって哀情を生じたり、愁嘆の場合に存外つまらぬ事で笑いだすような一見不思議な現象がしばしば見らるるのではあるが、しかしとにかく泣くと笑うのでは何かしらはっきりした区別のあることは明白である。それならこの二つがその発生条件に関してどれだけちがうかということが問題になる。ほんとうのことは自分などにはわからないが、ただ現在での自分の素人考えによると、最初の緊張状態の質的の差別によって泣くと笑うとの分岐点が決定されるように思われる。
 きわめて大ざっぱに考えてみると、当初の緊張が主として理知的でありあるいは道徳的である場合には笑いを招致しやすく、これに反して緊張が情緒的または本能的である場合に泣くほうに推移しやすいのではないかと思われる。
 大山鳴動して一鼠(いっそ)が飛び出したといったようなときの笑いは理知的であり、校長先生の時ならぬくしゃめが生徒の間に呼び起こす笑いなどには道徳的の色彩がある。喜怒愛憎の高潮に伴なう涙は理知や道徳などとは関係の薄い情緒的のものであるが、哀別離苦の焦心の涙にはよほど本能的なものがあって、純粋な肉体の苦痛によるものとかなりまで相通ずるものがありそうに思われる。
 いずれにしても、笑う前と泣く前とでは緊張のために特殊の活動を生ずる脳の部分が少しばかり位置を異にしているのではないかと思われるが、しかしその活動の化学的物理的性質はほぼ同種類のものらしく想像される。それで、その活動に次いで起こる生理的な表情も本質的にはかなりによく似た笑いと泣きの形式をとって現われるのではないか。
 こんな空想がいろいろ起こし得られるが、しかし、笑っているときと泣いているときとで大脳皮質その他の中枢における化学成分やイオン濃度の変化などを実験する事は困難であろうし、さればと言って泣きも笑いもしないねこや犬で試験するわけにも行かない。
 それはとにかく、自分が泣いているとき、また笑いこけているとき、少しばかり気をかえて泣くこと笑うことの生理的意義を考えてみるのも全くむだなことではないかもしれないと思うので、物好きな読者にまれにはそうした実験を試みることをすすめたいと思う。
(昭和十年五月、中央公論)



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