映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])
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著者名:寺田寅彦 

     一 商船テナシティ

 このジュリアン・デュヴィヴィエの映画は近ごろ見たうちでは最もよいと思ったものの一つである。何よりも、フランス映画らしい、あくの抜けたさわやかさが自分の嗜好(しこう)に訴えて来る。
 汽車でアーヴルに着いてすっかり港町の気分に包まれる、あの場面のいろいろな音色をもった汽笛の音、起重機の鎖の音などの配列が実によくできていて、ほんとうに波止場(はとば)に寄せる潮のにおいをかぐような気持ちを起こさせる。発声映画の精髄をつかんだものだという気がする。これと同じようなことをドイツ人日本人がやればまずたいていは失敗するから妙である。
 二人の若者の出帆を見送ったイドウ親爺(おやじ)とテレーズとが話しながら埠頭(ふとう)を帰って来る。親爺が「これが運命というものじゃ(セ・ラ・デスティネー)」というとたんに、ぱっと二人の乗って行った船の機関室が映写されて、今まで回っていたエンジンのクランクがぴたりと止まる。これらはまねやすい小技巧ではあるがやはりちょっとおもしろい。
 バスチアンとイドウとが氷塊を小汽艇へ積み込んでいるところへテレーズがコーヒーの茶わんを持ってくる。バスチアンがいきなり女を船に引きおろしておいてモーターをスタートする。そうして全速力で走り出す。スクリーンの面で船や橋や起重機が空中に舞踊し旋回する。その前に二人の有頂天になってはしゃいでいる姿が映る。そうしたあとで、テナシティのデッキの上から「あしたは出帆だ」とどなるのをきっかけに、画面の情調が大きな角度でぐいと転回してわき上がるように離別の哀愁の霧が立ちこめる。ここの「やま」の扱いも垢(あか)が抜けているようである。あくどく扱われては到底助からぬようなところが、ちょうどうまくやれば最大の効果を上げうるところになるのである。同じような起重機の空中舞踊でもいつか見たロシア映画では頭痛とめまいを催すようなものになっていたようである。
 ルネ・クレールでもデュヴィヴィエでも配役の選択が上手(じょうず)である。いくらはやりっ子のプレジアンでも、相手がいつも同じ相手役では、結局同じ穴のまわりをぐるぐる回ることになるであろう。
 このあいだ見た蒲田(かまた)映画「その夜の女」などでも日本映画としては相当進歩したものではあろうが、しかし配役があまりに定石的で、あまりに板につき過ぎているためにかえってなんとなくステールな糠味噌(ぬかみそ)のようなにおいがして、せっかくのネオ・リアリズムの「ネオ」がきかなくなるように感ぜられた。これは日本映画の将来の改善のために根本的な問題を提供するものだと思われる。

     二 実写映画に関する希望

 せんだって「北進日本」という実写映画を見た。いろいろな点でなかなかよくできているおもしろい映画であると思われた。ただ一つはなはだしく不満に思われたのは、せっかくの実写に対する説明の言葉が妙に気取り過ぎていて、自分らのような観客にとっていちばん肝心の現実的な解説が省かれていることであった。たとえば場面が一転して、海上から見た島山の美しい景色が映写された瞬間にわれわれの頭には「どこだろう」という疑問が浮かぶ。ところがこれに対する説明の録音は気取った調子で「千島(ちしま)にも春は来ました」とそれっきりである。千島の何島のどの部分の海岸をどの方向から見たのだか、また何月何日ごろの季節だか、そういう点が全然わからないのである。同じように、トナカイの群れを養う土人の家族が映写されても、それがカラフトのおおよそどのへんに住むなんという種族の土人だかまるきりわからないから、せっかくの印象を頭の中のどの戸棚(とだな)にしまってよいか全く戸まどいをさせられる。
 材木の切り出し作業や製紙工場の光景でも、ちょっと簡単な地図でも途中に插入(そうにゅう)して具体的の位置所在を示しならびに季節をも示してくれたら、興味も効能も幾層倍するであろう。しかるに、その肝心な空間的時間的な座標軸を抜きにして、いたずらに縹渺(ひょうびょう)たる美辞(?)を連ねるだけであるからせっかくの現実映画の現実性がことごとく抜けてしまって、ただおとぎ話の夢の国の光景のようなものになってしまうだけである。
 もう少し観客を子供扱いにしないでおとな扱いにしてもらいたいという気がしたことであった。
 これと同じような不満は従来の鉄道省の宣伝映画を見ているうちにもしばしば感じたことがある。現に眼前に映写されている光景が観客の知識の戸棚のどの引き出しに入れていいかわからないで、ラベルのつかないばらばらの断片になってしまっているのである。
 同じようなことであるが、ある一場面と次の一場面との空間的関係を示すような注意が一般にあまりに閑却され過ぎている。キャメラが一町とは動いていない場合に、面画は何千里の遠方にあるか想像もできないようなひとり合点の編集ぶりは不親切である。
 むだなようでもこうした実写映画では観客の頭の中へ空間的時間的な橋をかけながら進行するように希望したいのである。

     三 誤解されたトーキー

 トーキーは物を言う映画だからと言っても、何もむやみに物を言わせる必要はない。このことはトーキーが発明されてから後にまもなく発見された平凡な真理である。しかし、このことがまだ今日でも発声映画製作者に充分には理解されていないのではないかと思われることがしばしばある。
 アメリカ映画でも、言葉のよくわからぬわれわれにはどうもあまりしゃべり過ぎてうるさく感ぜられることが多いが、これはやむを得ないかもしれない。とにかくジミー・デュラントを聞いていると頭が痛くなるだけでちっともおかしくないが、あまりしゃべらないフィールズやローレル、ハーディのほうは楽しめる。
「雁来紅(かりそめのくちべに)」という奇妙な映画で、台湾(たいわん)の物産会社の東京支店の支配人が、上京した社長をこれから迎えるというので事務室で事務成績報告の予行演習をやるところがある。自分の椅子(いす)に社長をすわらせたつもりにして、その前に帳簿を並べて説明とお世辞の予習をする。それが大きな声で滔々(とうとう)と弁じ立てるのでちっともおかしくなくて不愉快である。これが、もしか黙ってああしたしぐさだけをやっているのであったら見ている観客には相当におかしかったかもしれないのである。音がほしければ窓外のチンドン屋のはやしでも聞かせたほうがまだましであろう。それからたとえばまた「直八子供旅(なおはちこどもたび)」では比較的むだな饒舌(じょうぜつ)が少ないようであるが、ひとり旅に出た子供のあとを追い駆ける男が、途中で子供の歩幅とおとなのそれとの比較をして、その目の子勘定の結果から自分の行き過ぎに気がついて引き返すという場面がある。「子供の足でこれだけ、おとなの足でこれだけ」と、何も言わなくてもいいひとり言を大きな声で言うので困ってしまう。あれはやはり無言で、そうしてもっと暗示的で誇張されない挙動で効果を出さなくてはならないと思われる。引っ返すこの男と、あとから出発した直八と、中間を歩いている子供とが途中で会合することを暗示しただけで幕をおろすという暗示的な手法をとった一方で、こんな露骨なお芝居を見せるのは矛盾である。
 ついでながら、歩幅と同時に歩調を勘定に入れなければ何時間で追いつくかという勘定はできないはずであるが、あの映画に出るあの役者にその勘定ができるかしらと思うとちょっとおかしくなる。

     四 映画批評について

 このごろはそれほどでもないがひところはソビエト映画だとなんでもかでもほめちぎり、そうでない映画は全部めちゃくちゃにけなしつけるというふうの批評家があった。しかしそういう批評をいくら読んでみても一方の映画のどういう点がどういうわけで、どういうふうによく、他方のがどうしていけないかという具体的分析的の事はちっともわからないのであった。こういうふうに純粋に主観的なものは普通の意味で批評とは名づけにくいような気がする。
 批評はやはりある程度までは客観的分析的であってほしい。そうしてやはりいいところと悪いところと両方を具体的に指摘してほしい。こういう点では、下町の素人(しろうと)の芝居好きの劇評のほうがかえって前述のごとき著名なインテリゲンチアの映画批評家の主観的概念的評論よりもはるかに啓発的なことがありうるようである。
 こんな不満をいだいていたのであったが、近ごろは立派な有益な批評を書いて見せる批評家が輩出したようである。
 以前は何か一つよい映画が出ると、その映画の批評については自分の見解だけが正しくて他の人の批評は皆間違っているかのようにたいそうなけんまくで他の批評家の批評をけなしつけ、こきおろすというふうの人もあったものである。これは、たとえて言わば、花見に行って、この花のわかるのはおれ一人だと言って群集をののしるようなものでおかしい。今はそんな人もないであろうが、しかしよく考えてみると、こうした気分は実を言うとあらゆる芸術批評家の腹の底のどこかにややもすると巣をくいたがる寄生虫のようなものである。そうして、どういうわけか、これは特に映画批評人という人たちのとかくするとかかりやすい病気のように思われる。これは、映画がまだ芸術として若い芸術であるという事が一つ、それから映画の成立にいろいろなテクニカルな要項が付帯しているために、それに関する知識の程度によって批評家の種類と段階の差別が多様になるという事がもう一つの原因になるのではないかという気がするのである。
 批評する対象の時間的恒久性という点から見ても実にいろいろな種類の批評がある。たとえば、音楽の演奏会の批評などは、その時に聞かなかった聴衆にはナンセンスである。生け花展覧会の批評などもややこれに類している。映画の批評となると、まさかそれほどでもないかもしれないが、大多数の映画の大衆観客にとっての生命はひと月とはもたない。セルロイドフィルムの保存期間が延長されない限りいくら長くても数十年を越えることはむつかしい。こういう短命なものを批評するのと、彫刻や油絵のような長持ちのするものを批評するのとでは、批評の骨の折れ方もちがうわけである。一週間映写されたきりでおそらくまず二度とは見られる気づかいのないような映画を批評するのなら、何を言っておいてもあとに証拠が残らないからいいが、金銅の大仏などについてうっかりでたらめな批評でも書いておいて、そうして運悪くこの批評が反古(ほご)にならずに百年の後になって、もしや物好きな閑人(ひまじん)のためにどこかの図書館の棚(たな)のちりの奥から掘り出されでもすると実にたいへんな恥を百年の後にさらすことになるのである。
 百年後に読む人にもおもしろくて有益なような映画評をかくということはなかなか容易な仕事ではないのである。
 こんなことを考えていると映画の批評などを書くということが世にもはかないつまらない仕事のように思われて来る。しかしまた考え直してみると自分などの毎日のすべての仕事が結局みんな同じようなはかないものになってしまうのである。
 しかし、こういうことを自覚した上で批評するのと、自覚しないで批評するのとではやはり事がらに少しの相違がありはしないか。この点についても世の映画批評家の教えを受けたいと思っている次第である。(昭和十年二月、セルパン)
     五 人間で描いた花模様

 近ごろ見た映画「泥酔夢(でいすいむ)」(Dames)というのは、話の筋もアメリカ式のふざけたもので主題歌などもわれわれ日本人には別におもしろいとも思われないが、しかしこの映画の劇中劇として插入(そうにゅう)されたレヴューの場面にいろいろ変わった趣向があってちょっとおもしろく見られる。
 たとえば劇場のシーンの中で、舞台の幕があくと街頭の光景が現われる、その町の家並みを舞台のセットかと思っているとそれがほんとうの町になっている。こういう趣向は別に新しくもなくまたなんでもないことのようであるが、しかしやはり映画のスクリーンの世界にのみ可能な一種不思議な夢幻郷である。観客はその夢幻郷の蝴蝶(こちょう)になって観客席の空間を飛翔(ひしょう)してどことも知らぬ街路の上に浮かび出るのである。
 せんたく屋の場面では物干し場の綱につるしたせんたく物のシャツやパジャマが女を相手に踊るという趣向がある。少しふざけ過ぎたようであまり愉快なものではないが、しかし、これなども映画で見ればこそ、それほどの悪趣味には感ぜられないで、一種のファンタスティックな気分をよび起こされることもできなくはない。
 しかしなんといってもこの映画でいちばんおもしろいのは、いろいろな幻影のレヴューである。観客はカメラとなって自由自在に空中を飛行しながら生きた美しい人間で作られたそうして千変万化する万華鏡模様を高空から見おろしたり、あるいは黒びろうどに白銀で縫い箔(はく)したような生きたギリシア人形模様を壁面にながめたりする。それが実に呼吸(いき)をつく間もない短時間に交互錯綜(さくそう)してスクリーンの上に現滅するのである。
 昨年見た「流行の王様」という映画にも黒白の駝鳥(だちょう)の羽団扇(はうちわ)を持った踊り子が花弁の形に並んだのを高空から撮影したのがあり、同じような趣向は他にもいくらもあったようであるが、今度の映画ではさらにいろいろの新趣向を提供して観客の興味を新たにしようと努力した跡がうかがわれる。たとえば大写しのヒロインの目の瞳孔(どうこう)の深い深い奥底からヒロイン自身が風船のように浮かび上がって出て来たり、踊り子の集団のまん中から一人ずつ空中に抜け出しては、それが弾丸のように観客のほうへけし飛んで来るようなトリックでも、芸術的価値は別問題として映画の世界における未来の可能性の多様さ広大さを暗示するものとして注意してもよいものではないかと思われる。
 ドイツのフィッシンガーの作った「踊る線条」という「問題の映画」がある。この映画では光の線条が映写幕上で音楽に合わせて踊りをおどる。これと、前述のようなレヴュー映画の場合に生きた人間で作った行列の線の運動し集散するのとを比較して見ると、本質的に全く共通なものがある。ただ相違の点は、一方ではそれ自身には全く無意味な光った線が踊り子の役をつとめているのに、他方では一人一人に生きた個性をもった人間の踊り子が画面ではほとんどその個性を没却して単に無意味な線条を形成している、というだけである。
 それだのに、純粋な線条の踊りは一般観客にはさっぱり評価されないようである一方でレヴューのほうは大衆の喝采(かっさい)を博するのが通例であるらしい。ここに映画製作者の前に提出された一つの大きな問題があると思われる。
 あまりに抽象的で特殊な少数の観客だけにしか評価されないようなものは結局映画館と撮影所とを閉鎖の運命に導く役目しか勤めない。しかし、また一方、大衆にわかりやすい常套手段(じょうとうしゅだん)をいつまでも繰り返しているのでは飽きやすい世間からやがて見捨てられるという心配に断えず脅かされなければならない。その困難を切り抜けるためには何かしら絶え間なく新しい可能性を捜し出してはそれをスクリーンの上に生かすくふうをしなければならない。幸いなことには、映画という新しいメジウムの世界には前人未到の領域がまだいくらでも取り残されている見込みがある。そうした処女地を探険するのが今の映画製作者のねらいどころであり、いわば懸賞の対象でなければならない。それでたとえばアメリカ映画における前述のレヴューの線条的あるいは花模様的な取り扱い方なども、そうした懸賞問題への一つの答案として見ることもできる。そうして、それに対して「踊る線条」のような抽象映画は一つの暗示として有用な意義をもちうるわけである。少なくもこういう見地からこれらの二種の映画をながめてそれぞれの存在理由を認めることもできそうである。
 新しい考えの生まれるためには何かしら暗示が必要である。暗示の種は通例日常われわれの面前にころがっている。しかし、それを見つけるにはやはり見つけるだけの目が必要であることはいうまでもない。
 日本には西洋とちがった環境があり、日本人には日本人の特有な目があるのであるからもし日本の映画製作者がほんとうの日本人としての自分自身の目を開いてわれわれの環境を物色したら、西洋人には到底考えつかないような新しいアイディアがいくらも浮かびそうなものだと思われるがそうした実例が日本映画のおびただしい作品の中にいっこうに見られないのは残念な事である。それでたとえば昔、広重(ひろしげ)や歌麿(うたまろ)が日本の風土と人間を描写したような独創的な見地から日本人とその生活にふさわしい映画の新天地を開拓し創造するような映画製作者の生まれるまでにはいったいまだどのくらいの歳月を待たなければならないか、今のところ全く未知数であるように見える。そこへ行くと、どうもアメリカの映画人のほうがよほど進んでいるといわれても弁明のしようがないようである。これは自分が平常はなはだ遺憾に思っている次第である、日本がアメリカに負けているのは必ずしも飛行機だけではないのである。このひけ目を取り返すには次のジェネレーションの自覚に期待するよりほかに全く望みはないように見える。
(昭和十年二月、高知新聞)
     六 麦秋

 だいぶ評判の映画であったらしいが、自分にはそれほどおもしろくなかった。それは畢竟(ひっきょう)、この映画には自分の求めるような「詩」が乏しいせいであって、そういうものをはじめから意図しないらしい作者の罪ではないようである。自分の目にはいわば一つの共産労働部落といったようなものに関する「思考実験」の報告とでもいったようなものが全編の中に織り込まれているように思われる。それでそういう事に特に興味のある人たちにはその点がおもしろいのかもしれないが主として詩と俳諧(はいかい)とを求めるような観客にとっては、何かしらある問題を押し売りされるような気持ちがつきまとって困るようである。
 二マイルも離れた川から水路を掘り通して旱魃地(かんばつち)に灌漑(かんがい)するという大奮闘の光景がこの映画のクライマックスになっているが、このへんの加速度的な編集ぶりはさすがにうまいと思われる。
 ただわれわれ科学の畑のものが見ると、二マイルもの遠方から水路を導くのに一応の測量設計もしないでよくも匆急(そうきゅう)の素人仕事(しろうとしごと)で一ぺんにうまく成効したものだという気がした。また「麦秋」という訳名であるが、旱魃で水をほしがっているあの画面の植物は自分にはどうも黍(きび)か唐黍(とうきび)かとしか思われなかった。
 主人公の「野性的好男子」もわれらのような旧時代のものにはどうもあまり好感の持てないタイプである。しかし、とにかくこうした映画で日常教育されている日本現代の青年男女の趣味好尚(こうしょう)は次第に変遷して行って結局われわれの想像できないような方向に推移するに相違ない。考えてみると映画製作者というものは恐ろしい「魔法の杖(つえ)」の持ち主である。

     七 ロスチャイルド

 この映画はなにしろ取り扱っている物語の背景の大きさというハンディキャップを持っている。その上に主役となる老優の渋くてこなれた演技で急所急所を引きしめて行くから、おそらくあらゆる階級の人が見て相当楽しめる映画であろうと思われる。しかしユダヤ人というものの概念のはなはだ希薄な日本人には、おそらくこの映画の本来のねらいどころは感ぜられないであろうし、あるいはかえってそのおかげで日本人にはいやみや臭味を感ずることなしにこの映画のいいところだけを享楽することができるかもしれない。
 主人公の老富豪が取引所の柱の陰に立って乾坤一擲(けんこんいってき)の大賭博(だいとばく)を進行させている最中に、従僕相手に五十銭玉一つのかけをするくだりがある。そのかけにも老主人が勝ってそうしてすまして相手の銭をさらって、さて悠々(ゆうゆう)と強敵と手詰めの談判に出かけるところにはちょっとした「俳諧(はいかい)」があるように思われた。
 最後に、勲功によって授爵される場面で、尊貴の膝下(しっか)にひざまずいて引き下がって来てから、老妻に、「どうも少しひざまずき方が間違ったようだよ」と耳語しながら、二人でふいと笑いだすところがある。あすこにもやはり一種の俳味があり、そうしていかにも老夫婦らしいさびた情味があってわれわれのような年寄りの観客にはなんとなくおもしろい。
 しかし映画芸術という立場から見るとむしろ平凡なものかもしれないと思われた。

     八 ベンガルの槍騎兵

 変わった熱帯の背景とおおぜいの騎兵を使った大がかりな映画である。物語の筋はむしろ簡単であるが、途中に插入(そうにゅう)されたいろいろのエピソードで「映画的内容」がかなり豊富にされているのに気がつく。たとえば兵営の浴室と隣の休憩室との間におけるカメラの往復によって映出される三人の士官の罪のない仲のいいいさかいなどでも、話の筋にはたいした直接の関係がないようであるが、これがあるので、後にこの三人が敵の牢屋(ろうや)に入れられてからのクライマックスがちゃんと生きて来るように思われる。事件的には縁がない代わりに心理的の伏線になるのである。拷問の後にほうり込まれた牢獄(ろうごく)の中で眼前に迫る生死の境に臨んでいながらばかげた油虫の競走をやらせたりするのでも決してむだな插話(そうわ)でなくて、この活劇を生かす上においてきわめて重要な「俳諧(はいかい)」であると思われる。最後のトニカを響かせる準備の導音のような意味もあるらしい。
 配役の選択がうまい。鈍重なスコッチとスマートなロンドン子と神経質なお坊っちゃんとの対照が三人の俳優で適当に代表されている。対話のユーモアやアイロニーが充分にわからないのは残念であるが、わかるところだけでもずいぶんおもしろい。新入りの二人を出迎えに行った先輩のスコッチが一人をつかまえて「お前がストーンか」と聞くと「おれはフォーサイスだ」と答える。「それじゃあれがストーンだ」というと、「驚くべき推理の力だな」と冷やかす。
 牢屋でフォーサイスが敵将につかみかかって従者に打ちのめされる。敵将が「勇気には知恵が伴なわなければだめだよ」といって得意になる。敵将が去って後に仲間が「ばかやろう」とののしるのには答えないで黙って握りこぶしをあけて見せる。つかみかかったときの騒ぎにまぎれて弾薬をすり取っていたのである。敵将のいった言葉がここで皮肉に生きて来て観客を喜ばせるのである。

     九 アラン

「ベンガルの槍騎兵(そうきへい)」などとは全く格のちがった映画である。娯楽として見るにはあまりにリアルな自然そのものの迫力が強すぎるような気がする。神経の弱いものには軽い脳貧血を起こさせるほどである。こんな土の見えない岩ばかりの地面をひと月もつづけて見ていたらだれでも少し気が変になりはしないかという気がした。
 うば鮫(ざめ)を捕獲する一巻でも同じような場面がずいぶん繰り返し長く映写されるので、ある意味では少し退屈である。しかしこの退屈は下手(へた)な芝居映画の退屈などとは全く類を異にした退屈であって、それは画中の人生と自然そのものの退屈から来る圧迫感である。詳しくいえば、大西洋の海面の恒久の退屈さでありアラン島民の生活の永遠の退屈さである。退屈というのが悪ければ深刻な憂鬱(ゆううつ)である。それを観客に体験させる。
 始めから終わりまで繰り返さるる怒濤(どとう)の実写も実に印象の強く深い見ものである。波の音もなかなかよく撮(と)れていて、いつまでも耳に残るような気がした。場外へ出たときに聞いた電車の音がひどく耳立ってきこえた。
 こうした映画を見るのは、自分でアランの島へ行って少なくも二三日ぐらい滞在したとほぼ同じような効果があるのではないかという気もした。
 アランの島民たちと、現にこの映画を見ている都人士とで、人生というものの概念がどれくらいちがうであろうか、というようなことも考えさせられた。
 とにかくこうした映画は別にどうといって説明することのむつかしい、しかしわれわれの生涯(しょうがい)にとって存外非常に重大な効果をもつようなある物を授けてくれるような気がする。
 どこかロシア映画を思わせるような編集ぶりとカメラの角度が見られる。ラストシーンの人物の構成など特にそう思われた。「麦秋」などは題材がロシアふうであるのに映画は全然ヤンキーふうであるが、「アラン」にはそうしたアメリカふうがどこにも見えないように思われる。
(昭和十年四月、帝国大学新聞)
     十 ナナ

 ゾラの「ナナ」から「暗示を受けて」作った映画だと断わってあるから、そのつもりで見るべきであろう。いちばん初めに高所から見たパリの市街が現われ前景から一羽のからすが飛び出す。次に墓場が出る。墓穴のそばに突きさした鋤(すき)の柄(え)にからすが止まると墓掘りが憎さげにそれを追う。そこへ僧侶(そうりょ)に連れられてたった三人のさびしい葬式の一行が来る。このところにあまり新しくはないがちょっとした俳句の趣がある。
 アンナ・ステンのナナが酒場でうるさく付きまとう酔っぱらいの青年士官を泉水に突き落とす場面にもやはり一種の俳諧(はいかい)がある。劇場での初演の歌の歌い方と顔の表情とに序破急があってちゃんとまとまっている。そのほかにはたいしておもしろいと思うところもなかったが、ただなんとなしに十九世紀の中ごろの西洋はこんなだったかと思わせるようなものがあって、その時代の雰囲気(ふんいき)のようなものだけが漠然(ばくぜん)とした印象となって頭に残っている。ナナの二人の友だちの服装やアンドレの家の食卓の光景などがそうした感じを助けたようである。
 この映画の監督はドロシー・アーズナーとあるから女であろうと思われる。どこかやっぱり女の作った映画らしい柔らかみが全体に行き渡っているような気がする。最後の場面で自殺したナナが二人の男の手を握って二人の顔を見比べながら涙の中からうれしそうに笑って死んで行くところなどもやはりどうしても女らしいインタープレテーションだと思われておもしろかった。

     十一 電話新選組

 一種の探偵映画(たんていえいが)である。こうしたアメリカ映画では何かしら新しい趣向をして観客のどぎもを抜こうという意図が見られる。この映画では電話局の故障修繕工夫が主人公になっている。それが友だちと二人で悪漢の銀行破りの現場に虜(とりこ)になって後ろ手に縛られていながら、巧みにナイフを使って火災報知器の導線を短絡(ショート)させて消防隊を呼び寄せるが、火の手が見えないのでせっかく来た消防が引き上げてしまう。それでもう一ぺん同じように警報を発しておいて、すきを見て燭火(しょくか)を引っくりかえして火事を起こしたはいいが自分がそのために焼死しそうになるといったような場面もある。また大地震で家がつぶれ、道路が裂けて水道が噴出したり、切断した電線が盛んにショートしてスパークするという見ていて非常に危険な光景を映し出して、その中で電話工夫を活躍させている。それからまた犯人と目星をつけた女の居所を捜すのに電話番号簿を片端からしらみつぶしに呼び出しをかける場面などもやはり一つの思いつきである。
 こうした趣向の新しさを競う結果は時にいろいろな無理を生じる。たとえば大地震で大混乱を生じている同じ町の警察のあたりでは何事もなかったらしいようなおかしい現象を生じている。
 それでも事件の展開が簡単でなくて、一つの山から次の山へと移って行く道筋が容易には観客の予測を許さない、というだけのはたらきのあるのは、近ごろのこうしたアメリカ映画に普通である。はじめからおしまいの見すかされているような映画ばかり作る日本映画作者の参考になるであろうと思われる。
(昭和十年四月、渋柿)
     十二 映画錯覚の二例

 塚本閤治(つかもとこうじ)氏撮影の小型映画を見た時の話である。たしか富士吉田町(ふじよしだまち)の火祭りの光景を写したものの中に祭礼の太鼓をたたく場面がある。そのとき、もちろん無声映画であるのにかかわらず、不思議なことには、画面に写し出された太鼓のばちの打撃に応じて太鼓の音がはっきり耳に聞こえるような気がした。よく注意してみると、窓の外の街上を走る電車の騒音の中に含まれているどんどんというような音を自分の耳が抽出し拾い上げて、それを眼前の視像の中に都合よく投げ込んでいたものらしい。
 同様に笛を吹く場面でもかすかに笛の音らしいものが聞かれた。これは映写機のモーターの唸音(ハミング)の中から格好な楽音だけをわれわれの耳に特有な抽出作用によって選び出し、そうして視覚から来る連想の誘引に応じてスクリーンの上に投射したものらしい。
 最近にはまた上記のものとは種類のちがった珍しい錯覚を経験した。それはこうである。ベルクナー主演の「女の心」(原名アリアーネ)の一場面で食卓の上にすみれの花を満載した容器が置いてある、それをアリアーネが鼻をおっつけて香をかいだりいじり回したりするのであるが、はじめは自分にはそれがなんだかよくわからなくて、葡萄(ぶどう)でも盛ったくだもの鉢(ばち)かと思っていた。そのうちに女がまたこれをいじりながらひとり言のように言ったその言葉ではじめてそれがすみれだとわかった。おかしいことには「ファイルシェン」という言葉が耳にはいってこの花の視像をそれと認識すると同時に、一抹(いちまつ)の紫色がかった雰囲気(ふんいき)がこの盛り花の灰色の団塊の中に揺曳(ようえい)するような気がした。驚いて目をみはってよく見直してもやっぱりこの紫色のかげろいは消失しない。どうしても客観的な色彩としか思われないのであった。
 この二つの錯覚の場合は映画の写像の、客観的には不安全な写実能力が、いかに多く観客の頭の中に誘発される連想の補足作用によって助長されているかを示す実例として注意さるべきものかと思われるのである。

     十三 「世界の終わり」と「模倣の人生」

 同時に上映されたこの二つの映画の対照が自分には興味があった。
 キリストの磔刑(たくけい)を演出する受難劇の場面で始まるこのフランス映画には、おしまいまで全編を通じて一種不思議な陰惨で重くるしい悪夢のような雰囲気(ふんいき)が立ち込めている。これはもちろんこの映画の題材にふさわしいように製作者の意図によって故意にかもし出されたのかもしれないが、しかし一面から見るとこの陰惨な雰囲気はフランス人の国民性そのものの中に蔵されているグルーミーでペンシィヴな要素が自然に誘い出されてここに浮き出しているのではないかという気もする。
 自分は、実地を踏んで見るまでは、パリという都をただなんとなしに明るく陽気な所のように想像し、フランス人をのどかに朗らかな民族とばかり思っていたのに、ドイツからフランスへ移って見聞するうちに、この予想がことごとく裏切られた。パリの町はすすけてきたなく土地の人間にはいったいになんとなく陰気でほろにがい気分がただよっているように感ぜられたのであった。ところが、今このガンスの作品を見て昔日のこの感じを新たにするような気がした。主役をつとめるノバリーク兄弟とその敵役(かたきやく)ショーンブルクの相貌(そうぼう)もこの一種特別な感じを強めるもののように思われた。しかもそれらの顔のクローズアップのむしろ頻繁(ひんぱん)な繰り返しはいよいよその暗い印象を強めるのであった。
 彗星(すいせい)の表現はあまりにも真実性の乏しい子供だましのトリックのように思われたが、大吹雪(おおふぶき)や火山の噴煙やのいろいろな実写フィルムをさまざまに編集して、ともかくも世界滅亡のカタクリズムを表現しようと試みた努力の中にはさすがにこの作者の老巧さの片影を認めることもできないことはないようである。
 このフランス映画がなんとなく陰気でどこかじじむさい感じがするのに引きかえて一方のアメリカ映画「模倣の人生」はいかにも明るく新鮮である。この目立った差別には、写真レンズやフィルムの光学的化学的な技術の差から来るものもないとは言われないが、しかしなんといっても国民性の相違から来る根本的なものがすべてを支配し決定しているとしか思われない。このアメリカ映画の話の筋は決してそう明るいものではなくむしろその奥底にはかなりに悲惨な現実の問題を提供しているはずのものであるのに、映画として観客に与える感覚は主として明るくさわやかに新鮮な視像の系列としてのそれである。薄ぎたないかび臭い場面などはどこにも見られないで、言わば白いエナメルとニッケルの光沢とが全編の基調をなしているようである。どうもこういうのが近ごろのアメリカ映画の一つの定型であるらしい。たとえば「白衣の騎士」などもやはり同じ定型に属するものと見ることができはしないかと思う。この型の映画は見たあとで物語の筋などは霧のように消えてしまうが、ただ筋とはたいした関係もないような若干の場面の視覚的印象だけがかなり鮮明に残留するようである。ことによると、こうした種類のものがかえって「いわゆる抽象映画」などよりももっと抽象的な、そうして純粋に映画的な映画であるのかもしれないというふうに思われて来るのである。

     十四 「黒鯨亭」

 エミール・ヤニングス主演のこの映画は、はじめからおしまいまで、この主役者の濃厚な個性でおおい尽くされた地色の上に適当な色合いを見計らった脇役(わきやく)の模様を置いた壁掛けのようなものである。もっとも同じくヤニングスのものであっても相手役にディートリヒとかアンナ・ステンとかがいる場合は必ずしもそうはならないようであるが、この現在の場合における助演者はこのように主演者と対立して二重奏を演ずるためにはあまりに影が薄いようである。
 そのかわりにまたこの映画は「ヤニングスの芝居」を見ようと思う観客にとっては、最も多くの満足を与えるようにできているのかもしれない。たとえば家出して船乗りになった一人むすこからの最初の手紙が届いたときに、友だちの手前わざとふくれっ面(つら)をして見せたり、居間へ引っ込んでからあわててその手紙を読もうとしてめがねを落として割ったりする場面の彼一流の細かい芸は、臭みもあるかもしれないがやはりこの人らしい妙味はあるであろう。こういう点で細かいくふうをするのがどこか六代目菊五郎(きくごろう)の凝り方と似たところがありはしないか。もっとも日本人菊五郎(きくごろう)はくふうを隠すことに骨を折りドイツ人ヤニングスはくふうを見せる事をつとめているという相違はあるかもしれない。
 心理的にはかなりおかしいと思われるところでも芸の細かさでたいした矛盾を感じさせないで筋を通して行くといったようなところが一二か所あったようである。
 この映画と比較してみると、前条に引き合いに出した「模倣の人生」のほうではいわゆる主演者はあっても「黒鯨亭(こくげいてい)」のごとき意味での独裁的主役は無い、むしろいろいろな個性の配合そのもののほうに観客のおもなる興味がつながれているように思われる。それでたとえば軽い意味の助演者としてのスパークスなどという役者でも決してただのむだな点景人物ではなくて、言わば個性シンフォニーの中の重要な一楽器としての役目を充分に果たしているようである。これに反してヤニングスの場合は彼の「独唱」にただ若干の家庭楽器の伴奏をつけたかのような感じがしないでもない。そういう伴奏としてはしかしそれぞれの助演者もそれ相当の効果を見せてはいるようである。
(昭和十年五月、映画評論)
     十五 乙女心三人姉妹

 川端康成(かわばたやすなり)の原著は読んだことはないが、この映画の話の筋はきわめて単純なもので、ちょっとした刃傷事件(にんじょうじけん)もあるが、そういう部分はむしろはなはだ不出来でありまた話の結末もいっこう収まりがついていない。しかしこの映画を一種の純粋な情調映画と見なし「俳諧的(はいかいてき)映画」の方向への第一歩の試みとして評価するとすれば相当に見どころのある映画だと思われる。観音の境内や第六区の路地や松屋(まつや)の屋上や隅田河畔(すみだかはん)のプロムナードや一銭蒸汽の甲板やそうした背景の前に数人の浅草娘(あさくさむすめ)を点出して淡くはかない夢のような情調をただよわせようという企図だとすれば、ある程度までは成効しているようである。ただもう一息という肝心のところをいつでも中途半端で通り抜けてしまうのが物足りなく思われる。たとえば最後の場面でお染(そめ)が姉夫婦を見送ってから急に傷の痛みを感じてベンチに腰をかけるとき三味線がばたりと倒れるその音だけを聞かせるが、ただそれだけである。ああいう俳諧の「挙句(あげく)」のようなところをもう一呼吸引きしめてもらいたいと思うのである。その挙句のシナリオはいろいろくふうがあるであろう。たとえばごく甘口の行き方をすれば、弦の切れて巻き上がった三味線をちょっと映した次に、上野(うえの)の森のこずえのおぼろ月でも出しそれに夜がらすの声でも入れておいて、もう一ぺん妹とその情人の停車場へ急ぐ自動車を出すとかなんとか方法はないものかと思う。
 主役三人姉妹も上出来のようである。苦労にやつれた姉娘とほがらかでわがままな末のモダーン娘との中に立つ姉妹思いのお染の役がオリジナルな表情の持ち主で引き立っている。そうして端役(はやく)に出る無表情でばかのような三人の門付(かどづ)け娘が非常に重大な「さびしおり」の効果をあげているようである。
 男役のほうはどうもみんな芝居臭さが過ぎて「俳諧(はいかい)」をこわしているような気がする。どうして、もう少し自然に物事ができないものかと思うのはこの映画ばかりではない。いったいに日本の近代映画の俳優では平均して女優のほうがこういう点で頭がよくて男のほうが劣っているように思われる。女のほうは頭のいいようなのが映画を志す、男の頭のいいのは他の方面にいくらも道があってみんなそのほうへ行ってしまう、といったようなこともいくらかあるのではないかという気がする。ただし男のほうにも自分の知っているだけでも四五人くらいは相当頭のいいのがいるようであるが、平均の上で多少そうした傾向がありはしないか。
 安アパートの夜の雨の場面にももう少しの俳諧がほしいような気がした。
 前途有望なこの映画の監督にぜひひと通りの俳諧修行をすすめたいような気がしているのである。

     十六 外人部隊

 たいへんに前評判のあった映画であるが自分にはそれほどでなかった。言葉のよくわからないせいもあろうがいったいに前のスターンバークの「モロッコ」などに比べて歯切れが悪くてアクセントの弱い作品のように思われる。見ていて呼吸のつまるような瞬間が乏しく、全体になんとなくものうい霧のようなもののかかった感じがする。
 役者では主役のピエールよりも脇役(わきやく)のニコラというロシア人がわざとらしくないいかにもその人らしいところがよかった。イルマという女の知恵のない肉塊のような暗い感じ、マダム・ブランシュの神巫(シビル)のような妖気(ようき)などもこの映画の色彩を多様にはしている。
 いちばん深刻だと思われた場面は、最大速度で回る電扇と、摂氏四十度を示した寒暖計を映出したあとで、ブランシュの酒場の中の死んだような暑苦しい空気がかなりリアルに映写される。女主人公が穴蔵へ引っ込んだあとへイルマが蠅取(はえと)り紙を取り換えに来る、それをながめていたおやじの、暑さでうだった頭の中に獣性が目ざめて来る。かすかな体臭のようなものが画面にただよう。すると、おやじはのそのそ立ち上がり、「氷を持って来い」といいすてて二階へ上がる。
 その前の場面にもこの主人がマダムに氷を持って来いといって二階へ引っ込む場面がある。そのときマダムは「フン」といったような顔をして、まるで歯牙(しが)にかけないで、マニキュアを続けているのである。この場面が、あとの「氷をもって来い」でフラッシュバックされて観客の頭の中に浮かぶ。
 この「氷を持って来い」が結局大事件の元になっておやじはピエールに二階から突き落とされて死ぬ事になるのである。
 この摂氏四十度の暑さと蠅取(はえと)り紙の場面には相当深刻な真実の暗示があるが、深刻なためにかえって検閲の剪刀(せんとう)を免れたと見える。
 兵隊が帰って来た晩の街頭の人肉市場の光景もかなりに露骨であるが、どこか少しこしらえものらしいところもある。
 フロランスという女に最初に失望する場面と後にも一度失望する場面との対照がもう少しどうにかならないかという気がする。しかし最後に絶望して女の邸宅を出て白日の街頭へ出るあたりの感じにはちょっとした俳諧が感ぜられなくはない。まっ白な土と家屋に照りつける熱帯の太陽の絶望的なすさまじさがこの場合にふさわしい雰囲気(ふんいき)をかもしているようである。

     十七 男の世界

 生粋(きっすい)のアメリカ映画である。今までに見たいろいろの同種の映画のいろいろの部分が寄せ集められてできあがっているという感じである。しかしただ、ポウェルという男とゲーブルという男との接触から生じるいかにもきびきびした歯切れのいい意気といったようなものが全編を引きしめていて観客を退屈させない。
 拳闘場(けんとうじょう)の鉄梯子道(てつばしごみち)の岐路でこの二人が出会っての対話の場面と、最後に監獄の鉄檻(てつおり)の中で死刑直前に同じ二人が話をする場面との照応にはちょっとしたおもしろみがある。
 ゲーブルの役の博徒(ばくと)の親分が二人も人を殺すのにそれが観客にはそれほどに悪逆無道の行為とは思われないような仕組みになっている。二度目の殺人など、洗面場で手を洗ってその手をふくハンケチの中からピストルの弾(たま)を乱発させるという卑怯千万(ひきょうせんばん)な行為であるにかかわらず、観客の頭にはあらかじめ被殺害者に対する憎悪(ぞうお)という魔薬が注射されているから、かえって一種の痛快な感じをいだかせ、この殺人があたかも道徳的に賛美すべきものであるような錯覚を起こさせピストルの音によって一種の快いスリルを味わわせる。映画というものは実際恐ろしい魔術だと思われる。
(昭和十年六月、渋柿)



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