記録狂時代
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著者名:寺田寅彦 

 タイピストの一九二九年のレコードは一分に九十六語でこれはフランスの某タイプ嬢の所有となっている。これなども神経のはたらきの可能性に関するものである。
 ロスアンゼルスのアゼリン嬢は三十六秒間に八平方メートルの面積をきれいに掃除(そうじ)したというレコードを取った。こういうのは「掃除した」か「しない」かの審査がむずかしそうである。掃除は早いが畳がいたんだり障子唐紙(からかみ)へ穴をあけるのでは少なくも日本の女中の登用試験では落第であろう。
 八十歳の老人でできるだけ長時間ダンスを続ける、という競技の優勝者ブーキンス君は六時間と十一分というレコードを取った。もっと若い仲間でのレコード七十九時間と三十分というのはウィーンのウィリー・ガガヴチューク君の手に帰した。三昼夜と七時間半も踊りつづける間に、睡眠はもちろん不可能であるが、食事や用便はどういうふうにしたものか聞きたいものである。
 これに似たのでは八十二時間ピアノをひき通したというのがある。この男の商売が屠牛業(とぎゅうぎょう)であるのがおもしろい。しかしこれにはずっと以前に百十時間というレコードがあったはずだから、何かコンディションが違っていることと思われる。この話は井原西鶴(いはらさいかく)の俳諧大矢数(はいかいおおやかず)の興行を思いださせる。
 これらの根気くらべのような競技は、およそ無意味なようでもあるが、しかし人間の気力体力の可能限度に関する考査上のデータにはなりうるであろう。場合によってはある一人のこういう耐久力のいかんによって一軍あるいは一国の運命が決するようなことがないとも限らない。
 最も変わったレコードとしては、アメリカのコーラスガールで、接吻(せっぷん)の際における心臓鼓動数の増加が毎分十五という数字を得ているのがある。次点者は十三という数で惜敗したそうである。しかし事前におけるノルマルの鼓動数が書いてないから増加のパーセントはわからない。少しばかげてはいるが、とにかくも人間のテンペラメントを数字で代表させようという傾向を示すものとして興味があるであろう。
 これらの例で明らかであるように、いわゆるレコードはすべて数字によって記録されるものである。場合によっては数の大きいほどいいこともありまた場合によっては少ないほどすぐれていることもあるが、とにかく一線の上に連続的に配列された数量の尺度によって優劣をきめるのである。こうしなければ優劣は単義的に決定しない。従ってレコードは設定されず、設定されないレコードは「破る」こともできない、破れないレコードはいわゆるレコードではないのである。たとえば帽子の代わりにキャベツをかぶって銀座(ぎんざ)を散歩した男があるとすれば、これは確かにオリジナルな意匠としての記録に価する。しかしこのレコードは決して破られない。なんとならば、再びキャベツを用いたのでは、キャベツを用いたという質的レコードは破れないし、それかといってたとえばももんがあをかぶって新宿(しんじゅく)の通りを歩いてみても追いつかない。キャベツとももんがあ、銀座と新宿との優劣はいくら議論しても決定する見込みがないからである。そこへ行くと数字の差違は実に明確である。十五が十三より二つだけ多いことにはどうにも異議の申し立てようがないからである。
 しかしまた、数字のレコードで優勝したとしても、その人が、その数字の代表する量の大小以外の点でもすぐれているという証拠には決してならない。これは明白なことであるが、しかし、往々忘れられ勝ちな事実である。帽子のサイズのレコード保有者は必ずしも足袋(たび)の文数のレコードをもっていると限らない。百メートル競走の勝利者は千メートルでびりにならないとも限らない。気球に乗って一万メートルの高さにのぼって目をまわしておりて来たというだけの人と、九千メートルまでのぼってそうして精細な観測を遂げて来た人とでは科学的の功績から採点すればどちらが優勝者であるか、これは問題にもならない。
 レコードは上述のごとく、いわば一つの線状尺度の比較できめるだけのものである。それで、もしも、物や人の価値をきめる属性の数がただ一つならば、このような線の尺度が一つあれば間に合う。しかし、空間の中に静止する一点の位置を決定するだけでも三つの数字が必要である。百個の点の集団なら三百の数字が入用になる。物理的体系の「自由度(デグリー・オブ・フリーダム)」の増加とともにその状態を指定するに必要な尺度の読み取りの数もいくらでも増加する。近ごろよく「学問の自由」というようなことが議論されるようであるが、この自由なるものの自由度がいまだ数字できめられない限り、精密科学的には全く無意味な言葉である。百年議論してもこの自由の限界は数字では決められそうもない。
 これに反してここに紹介した各種の珍奇なレコードは、ともかくもそれぞれ一つの「自由度」に対する数量的レコードへのおぼつかない試みの第一歩として、それぞれに固有ななんらかの文化的な意味をもつものだと思われるのである。
 三原山(みはらやま)の投身自殺でも火口の深さが千何百尺と数字が決まれば、やはり火口投身者の中での墜落高度のレコードを作ることになるかもしれない。しかし単に墜落高度というだけのレコードならば飛行機搭乗者(とうじょうしゃ)のほうにもっと大きい数字がありそうである。
 レコードでもあまりありがたくないのがある。国辱的レコードというものもいろいろあるのである。二十余年前にワシントン府の青葉の町を遊覧自動車で乗り回したことがあった。とある赤煉瓦(あかれんが)の恐ろしく殺風景な建物の前に来たとき、案内者が「世界第一の煉瓦建築(けんちく)であります」と説明した。いかなる点が第一だかわからなかったが、とにかくアメリカは「俳諧(はいかい)のない国」だと思ったのであった。このアメリカ魂は、摩天楼のレコードを作ると同時にギャング犯罪のレコードをも造りだすであろう。
 何一つレコードを持たないような円満具足の理想国はどこかにないものかと考えることもある。
(昭和八年六月、東京朝日新聞)



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