連句雑俎
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著者名:寺田寅彦 

これに反して連句の場合は、言わば町から町、宿場から宿場への旅の道筋を与えられないで、ただ出発点と到着点とを指定されるだけである。その間をつなぐ道筋はいくつもあり途上の景観にもまたさまざまの異同がある。それでも、どの道筋にも共通に、たとえば富士が右手に見え近辺に茶畑が見えなければならないといったような要求が満たされなければならない。そういうわけであるから連句の場合には特に創作心理と鑑賞心理との区別を立てて考察する必要があるのである。この区別を立てて考えなければ一連の連句を充分に分析し正当に理解することはできないであろう。
 従来連句の評釈をしたものを見ても、この区別を判然と立てないためにいろいろの疑問が起こったり議論があったりする場合が多いように思われる。多くの場合に創作者の心理分析に傾いた評釈はいわゆる「うがち過ぎ」として擯斥(ひんせき)され、「さまでは言わずもがな」として敬遠されるようである。これは連句を単に鑑賞するだけの立場からはもっともなことであるが、連句というものをほんとうに研究するには不都合な態度である。のみならず自分で連句の創作に手をつけるものにとっては、この点の研究が最もたいせつなものと私には考えられるのである。そればかりか、鑑賞のみの目的でも真に奥底まで入り込んで鑑賞をほしいままにするためには、一度はこの創作心理のミステリーに触れることが必要であろうと思われるのである。われわれは「うがち過ぎ」をこわがらないで「言わずもがな」をけ飛ばして勇敢に創作心理の虎穴(こけつ)に乗り込んでみなければならない。しかしこれはなかなか容易な仕事ではない、一朝一夕に一人や二人の力でできうる見込みはない。そうかと言っていつまでも手をつけずにおくべきものでもない。たとえわれわれの微力ではこの虎穴の入り口でたおれてしまうとしたところでやむを得ないであろう。
 創作心理の上から見てすぐに問題になるのは、連想作用のことである。連句制作の機構の第一要素が連想であることは言うまでもない。しかしこの連想による甲乙二つの対象は決して簡単な論理的または事件的の連絡をもっているものではなくて、たとえば前条に述べた夢の中の二つの物のつながりのように複雑不可思議な糸によってつながっているのである。夢の中ではたとえば蝋燭(ろうそく)やあるいはまたじめじめした地下の坑道が性的の象徴となる場合がある。またこれに相当する例は芭蕉初期時代の連句には往々ある。また重いものをかついで山道を登る夢が情婦とのめんどうな交渉の影像として現われることもある。古来の連句の中でもそういう不思議な場合の例を捜せばおそらくいくらでも見つかるであろうという事は、自分自身の貧弱な体験からも想像されることである。
「灰汁桶(あくおけ)のしずくやみけりきりぎりす」「あぶらかすりて宵寝(よいね)する秋」という一連がある。これに関する評釈はおそらく今までに言い尽くされ書き尽くされているであろうと思う。しかし心理学的連想の実例を捜している一学究としてあらゆる芸術的の立場を離れて見たやぶにらみの目には、灰汁のしずくと油のしたたりとの物理的肖似がすぐに一つの問題の焦点となるであろう。また灰汁のしずくが次第にその流量を減じてとうとう出なくなってしまう、その量対時間関係が「油かすりて」欠乏する感じに照応するのである。これは鑑賞的には全くいわゆる「うがち過ぎ」た無用の詮議立(せんぎだ)てに相違ないのであるが、心理学的には見のがすことのできない問題である。従って創作心理の研究者にとっては少なくもひとまずは取り上げて精査してみなければならない問題である。「あぶらかすりて」の次に「新畳(あらだたみ)敷きならしたる月影に」の句がある。ここでも月下の新畳と視感ないし触感的な立場から見て油との連想的関係があるかないかという問題も起こし得られなくはない。これはあまり明瞭(めいりょう)でないが「かますご食えば風かおる」の次に「蛭(ひる)の口処(くちど)をかきて気味よき」の来るのなどは、感官的連想からの説明が容易である。
 二つのものの感じの共通というのでなくて、二つのものの外面的関係から呼び出される連想としては「身はぬれ紙の取り所なき」に対する「小刀の蛤刃(はまぐりば)なる細工箱」のごときがそれである。ぬれ紙が小刀を呼び出したのである。もちろん芸術的の価値は全く別問題である。
 物質から来る連想の例では「居風呂(すえふろ)の屋根」「椴(とど)と檜(ひのき)」「赤い小宮」と三つ続くようなのがある。
「干葉(ひば)のゆで汁(じる)悪くさし」「掃けば跡から檀(まゆみ)ちるなり」「じじめきの中でより出するり頬赤(ほあか)」の三句には感官的に共通な連想があるのみならず、空間的排列様式の類似から来る連想がある。「生きながら直(すぐ)に打ちこむひしこ漬(づけ)」「椋(むく)の実落ちる屋根くさるなり」なども全く同様な例である。こういう重複はもちろん歓迎されないものである。
 こういう例はあげれば際限はない。そうしてこういう例として適当なものは、連句として必ずしも上乗なものではなく、むしろあまりよくないほうが多いかもしれない。それはむしろ当然である。連想で呼び出される第一影像はただ一つの可能な付け句の暗示に過ぎないので、それだけでは決して付け句は成立しない、この第一影像を一つの階梯(かいてい)として洗練に洗練を重ねた上で付け句ができあがるべきはずである。
 そういう階段としてはその連想がいかに突飛であってもそれはなんのさしつかえもない、最後の成果がよければよいのである。たとえば「雪の跡吹きはがしたるおぼろ月」の前句を見てふいと「蒲団(ふとん)」という心像が現われたとしても、だれがそれをとがめうるものがあろうか、まただれがその心像の由来の合理的説明を要求するであろうか。その連想の底に雪雲と蒲団との外形的連想がありあるいは「はがす」という言葉が蒲団を呼び出したとしてもそれは作者の罪ではない。ともかくもその突然な「蒲団」の心像を踏段として「蒲団丸げてものおもい居る」という句ができあがってしまえば、もはやそんな連想は必ずしも問題にしなくてよい。読者にとってはむしろ問題にしないほうがよいのであろう。そうして単に雪後の春月に対して物思う姿の余情を味わえば足りるであろう。
 連想には上記のように内容から来るもののほかにまた単なる音調から来る連想あるいは共鳴といったような現象がしばしばある。これはわれわれ連句するものの日常経験するところである。全く無意識に前句または前々句等の口調が出て来たがるので当惑することがしばしばある。これらは多くの場合直ちに訂正されるからできあがったものには痕跡(こんせき)を現わさないはずであるが、それでも時には見のがされた残滓(ざんし)らしいものが古人の連句にもしばしば見いだされる。たとえば前掲の「ふとん」の次に「不届」「はっち」と三つのFTの結合が現われている。「けんかく」の次に「こまかく」が来たりするのも必ずしも偶然とは思われない。もうすこし不明瞭(ふめいりょう)なのでは「かえるやら山陰伝う四十から」の次に「むねをからげる」があり、「だだくさ」の次に「いただく」があり、「いさぎよき」の次に「よき社」がありするのも同様である。こういう無意識の口移りは付け句には警戒されたのが三句目四句目にうっかり頭をもたげる例も少なくない。
 同様な部類に属するのは「ほかほかと……いぼいいで」に次いで「ほろほろ……こぼるる」の来るような擬音的重畳形容詞の連続する例である。これは連続する場合もあり、四五句目に現われる場合もはなはだ多い。上の例では「ほろほろ」から四句目に「だんだんに」が来る。同じ百韻中で調べてみると前のほうにある「とろとろ」はだいぶ離れているが、ずっとあとに来る「ほやほや」と「うそうそ」とは五句目に当たる。『そらまめの花』の巻の「すたすた」と「そよそよ」は四句目に当たる。『梅が香』の巻の「ところどころ」と「はらはら」も四句目である。もちろんこれには規約的な条件も支配していると思われるが、心理的にこれらの口調が互いに相吸引していることは争われない。これはおそらく統計学的にも証明し得られるであろうと思う。
 数字と数字との連想も半ば内容的であるが半ばは音調的の口移りから呼び出されるらしい。たとえば『そらまめの花』の巻には「七夕(たなばた)」の七の字があるだけで本来の「数字」は一つもないのに、『八九間』の巻には「小鳥一さけ」にすぐ続いて「十里あまり」が来る。『振り売りの』の巻にある「二十八日」から八句目に「七つさがり」があり、すぐ続いて「五十石取り」があり、ずっと離れて「四つのかね」と「三月」がある。その他『鉄砲の遠音』の巻に「なまぬる一つ」と「碁いさかい二人」と続くような例ははなはだ多い。もちろんこれに関しても何かの規約はあったかもしれないが本来は心理的の立場から説明さるべき現象である。
 以上は主として前句と後句の間の関係だけについての考察であったが、三句目四句目等に及ぼす連想の影響についても考うべき事ははなはだ多い。
 遺伝に関してアタヴィズムの現象があるように、連句の連続においてもある一句がその前句よりもいっそう前々句に似たがる傾向がある。いわゆる打ち越しに膠着(こうちゃく)し、観音開きとなって三句がトリプチコンを形成するようになりたがるものである。これはもとより当然のことである。前句の世界と前々句の世界とは部分的にオーヴァーラップしており、前句と後句ともまた部分的に重合しているのであるから単にプロバビリティーから言ってもそうなりやすいのみならず、まだその上にいっそうそうなりたがる心理がある。それは前々句と前句との付け合わせを「味わう」ことによってこの前二句の重合部が特別に後句作者の頭の中に大きくはびこってしまって、前句の世界を見ているつもりでも実はその重合部だけに目を引かれることになるからである。それでこのような打ち越しの危険を避けるためには、作者は前句によってよび起こされた観念世界の中でどれだけの部分が前の句のそれと重合しているかを認識した上で、きれいさっぱりそれだけを切り抜いて捨ててしまわなければならない。そうして残った部分の輪郭をだんだんに外側へ外側へと広げて行くうちに適当な目標が見つかるのである。
 以上述べたところからまたわれわれが連句修業の際しばしば遭遇する一つの顕著な現象を説明することができる。それは「前句が前々句に対して付き過ぎになっていると後句が非常に付けにくく、何をもって来ても打ち越しに響く」ということである。すなわち、上述の重合部が前句のほとんど全面積をおおっていて、切り捨てた残部があまりに僅少(きんしょう)になるためである。さて以上の心理から起こるアタヴィズム的傾向は連句の規約上厳重に抑制せられるから、少なくも完成した古人の連句集には原則としては現われないはずである。しかしこういう人間の本能的な傾向から起こって来る作用の効果はなかなか根強いものであって、そうそう容易に抑圧することはできないものである。それで一見したところでは毫(ごう)もこの規約に牴触(ていしょく)しない――少なくも論理的には牴触しないような立派な付け句であっても、心理的科学者の目から見ると明らかに打ち越しの深い影響を受けたと、少なくも疑われるものがあったとしてもなんの不思議はないわけである。
 試みに審美的のめがねをかなぐりすてて、一つの心理的なからくりの中の歯車や弾条(ばね)を点検するような無風流な科学者の態度で古人の連句をのぞいてみたらどうであろうか。まず前にも例示した『灰汁桶(あくおけ)』の巻を開いて見る。芭蕉の「あぶらかすりて」の次の次に去来の「ならべてうれし十の盃(さかずき)」が来るのである。ここで、いったい去来という人の頭の中に、ありとあらゆる天地万有のうちから、物もあろうに特に選ばれてこの「盃」というものの心像がどうしてまさにここに浮かび上がったかと考えてみなければならない。前句は新畳(あらだたみ)を敷いた座敷である、それを通して前々句を見るとそこには行燈(あんどん)があり、その中から油皿(あぶらざら)の心像がありありと目に見える。その皿が畳の上におりて来る、見ているうちにその油皿が盃に変わって来る。次に一つの盃がばらばらと分殖してそこに十個の皿がずらりと並列する。それに月光がさして忽然(こつぜん)と清談の会席が眼前に現われる。こういったような心像変換の現象は少なくもわれわれの夢の中には往々起こる現象であっておそらく何人も経験するところであろう。しかし、私は当時の去来の頭の中にここに私の書いたこのとおりの心理過程が進行したのであろうと臆測(おくそく)するわけでは決してない。またこういう見方をする事がこの付け句の「鑑賞」の上に有利だというのでも毛頭ないのである。前にも断わったとおり「鑑賞の心理」と「創作の心理」とを少なくもいったんはっきり区別した上で、後者の分析的研究をするための一つの方法を例示するという目的以外には何物もないのである。それかと言ってこれはまた決して私の机上でこね上げた全くの空想ではないのであって、私自身が平常連句制作当時自分の頭の中に進行する過程を内省することによって常に経験するところの現象から類推して行った一つの「思考実験」であるので、これはおそらく連句の制作に体験ある多くの人によって充分正当なる意味において理解してもらえることであろうと思う。
 こういうふうの見方からすると、これと同様な実例ははなはだ多くて枚挙にいとまないくらいである。同じ巻でも「子(ね)の日」と「春駒(はるこま)」、「だびら雪」と「摩耶(まや)の高根に雲」、「迎いせわしき」と「風呂(ふろ)」、「すさまじき女」と「夕月夜岡(おか)の萱根(かやね)の御廟(ごびょう)」、等々々についてもそれぞれ同様な夢の推移径路に関すると同様の試験的分析を施すことは容易である。
 こういうふうの意味でのアタヴィズムはむしろあるところまでは避くべからざることであるのはもちろん、連句の進行上少しも規約的に不都合なことはないのみならず、ある場合にはむしろテンポの調節上からも必要な場合があるかもしれない。しかし少なくも私の見たところで、こういう関係になっていない実例もまたはなはだ多いのである。たとえばやはり同じ『灰汁桶(あくおけ)』の巻で、芭蕉の「蛭(ひる)の口処(くちど)をかきて気味よき」や「金鍔(きんつば)」や「加茂の社」のごときはなかなか容易に発見されるような歯車の連鎖を前々句に対して示さない。また『鳶(とび)の羽』の巻でも芭蕉の「まいら戸」の句「午(ひる)の貝」の句のごとき、なんでもないような句であるが完全にこのアタヴィズムの痕跡(こんせき)を示さない。これに対して史邦(ふみくに)の「墨絵」は前々句の師匠の「まいら戸」の遺伝を濃厚に受けており、同人の「おもい切ったる死にぐるい」がやはり前々句の去来の「いまや別れの刀さし出す」の純然たる申し子であるがごときはなかなか興味ある事実である。
 まだ充分数量的に調べたわけでないから確実なことは言われないのであるが、どうも芭蕉はやはり他の人に比して特別にこのアタヴィズムの痕跡を示した例が少ないように思われる。だれか時間の自由をもつ人が統計的にこの点を調べてみたらおもしろい結果を得られはしないかと想像するのである。
 それはとにかく、だいたいの進行の上からいうと、この種のアタヴィズムでも原則としては避けたほうがよいではないかと思われる。しかしこれはいかにすれば避け得られるか。これは理論上からは必ずしもそう困難なことではなく、前述のような分析を行なった上で、その疑いのあるものは淘汰(とうた)して他に転ずるかあるいはまた前に述べたこともあるとおり、かくして不合格になったものを仮想的第二次前句と見立ててこれに対する付け句を求め、それでもいけなければこれに対する第三次の付け句を求め、漸次かくのごとくして打ち越しの遺伝を脱却すればよいわけであろう。しかし自由にこのような進化を遂げうるためには作者の頭がかなり広大な領土を所有している上にその頭の働きが自由に可撓性(フレキシブル)であって自分自身の考えの死骸(しがい)の上を踏み越え踏み越え進行しうるだけの能力をもっているということが必要条件である。芭蕉のごときはそれがかなりよくできる人であったことは以上の乏しい例証からもうかがわれる。芭蕉の辞世と称せられる「夢は枯れ野をかけ回(めぐ)る」という言葉が私にはなんとなくここに述べた理論の光のもとにまた特別な意味をもって響いて来るのである。彼はこのように夢を駆逐することに喜びと同時に大いなる悲しみをいだいて死んで行ったであろう。
 この頭の働きの領土の広さと自由な滑脱性とに関して芭蕉と対蹠的(アンチポーダル)の位置にいたのはおそらく凡兆のごとき人であったろう。試みにやはり『灰汁桶(あくおけ)』の巻について点検すると、なるほど前句「摩耶(まや)」の雲に薫風を持って来た上に「かますご」を導入したのは結構であるが、彼の頭にはおそらくこの「夕飯(ゆうめし)のかますご」が膠着(こうちゃく)していてそれから六句目の自分の当番になって「宵々(よいよい)」の「あつ風呂(ぶろ)」が出現した感がある。また同じ「夕飯」がまだまだ根を引いて「木曾(きそ)の酢茎(すぐき)」に再現しているかの疑いがある。また後に自分の「田の青やぎていさぎよき」の心像が膠着してそれが六句目の自句「しょろしょろ水に藺(い)のそよぐらん」に頭をもたげている。しかしこれは決して凡兆という人の特異の天分を無視してこの人をこれだけの点から非難する意では毛頭ないのである。この人の句がうまく適度に混入しているために一巻に特殊な色彩の律動を示していることは疑いもないことであるが、ただもし凡兆型の人物ばかりが四人集まって連句を作ったとしたらその成績はどんなものであるかと想像してみれば、おのずから前述の所論を支持することになるであろうと思われるのである。
 以上は単に便宜上主として『灰汁桶』だけについて例証したのであるが、読者にしてもし同様の見地に立って他の巻々を点検するだけの労を惜しまれないならば、私のここに述べた未熟な所論の中に多少の真の片影のあることを認めてもらえるであろうと信ずる。
 連句制作における興味ある心理的現象は以上にとどまらない。次にはさらに別の方面について所見をのべて読者の叱正(しっせい)を待つこととする。
 いわゆる連想のうちには、その互いに連想さるべき二つの対象の間に本質的に必然な関係のあるものも多数にある。たとえば、硯(すずり)と墨とか坊主と袈裟(けさ)とか坊主と章魚(たこ)とかいうように並用共存の習慣あるいは形状性能の類似等から来るものもあり、あるいは貧と富、紅と緑のような対照反立の関係から来るものもある。しかしこれらはかなりまですべての人間に共通普遍なもので、従ってすべての人に理解さるべき客観性をもっているのである。しかるにまた一方ではそういう普遍性を全くもたない個人的に特有な連想によって連結された観念の群あるいは複合(コンプレッキス)とでも称すべきものがある。これは多くはその一人一人の生涯(しょうがい)特に年少時代において体験した非常に強烈な印象に帰因するものであって、特に性的な関係のものが多いという話である。そういう原因は今ここでは別問題として、われわれが連句を制作するに当たって潜在的に重要な役目をつとめる観念群のうちには普遍的でなくて全く個人的なものが時々出現し、そうしてそれが一度現われだすと習慣性を帯びて来て、何度となく同じ一巻の中にさえも現われ、また特にその後に作る他の巻の中に再現したがるものである。
 この種の観念群の中には、普遍性はないまでも個人個人にはともかくも事件的の連関の記憶が現存していて、それを説明しさえすれば他人も納得するような種類のものも多いが、しかしまた中には自分自身に考えてもどうしても二つのものの間の連鎖が考えられないようなものがないでもない。たとえば、私が鮓(すし)を食うときにその箸(はし)にかび臭いにおいがあると、きっと屋形船に乗って高知(こうち)の浦戸湾(うらとわん)に浮かんでいる自分を連想する。もちろんこれは昔そういう場所でそういう箸(はし)で鮓(すし)を食った事があるには相違ないが、何ゆえにそういう一見些細(ささい)なことがそれほど強い印象を何十年後の今日までもとどめているのであるか、これには現在の自分には到底意識されない理由があるに相違ないのである。その理由は別問題としてこういう私の頭の中だけにある観念群は連句制作の場合にはかなり重要な役目をつとめることができる。たとえば「屋形船」を題材とした前句に付け合わせようというような場合が起こったとする。その時私はすぐに「鮓」を思い出してそれを足場にした付け句を案じるであろう。そうしてその時同時に頭に浮かんだ「箸」の心像をそこで抑圧しておくと、それがその後の付け句の場合にひょっくり浮かび上がって来て何かの材料になることもありうるであろう。
 こういう事は古人の立派な連句にもありはしないかと思って、手近な、そうしてなるべく手数のかからないような範囲内で少しばかり当たってみた。しかしちょうど今言ったような場合の好適例はまだ見いださないのであるが、そのかわりに個々の作者についていろいろな観念群とでも名づくべきものの明白に見えるものを発見することはできた。
 たとえば岩波文庫の芭蕉連句集の(五一)と(五二)の中から濁子(じょくし)という人の句ばかり抜き書きしてみると、「鵜船(うぶね)の垢(あか)をかゆる渋鮎(しぶあゆ)」というのがあってそこに「鳥」と「魚」の結合がある。ところが同じ巻の終わりに近く、同人が「このしろを釣(つ)る」という句を出してその次の自分の番に「水鶏(くいな)の起こす寝ざめ」を持ち出している。これだけならば不思議はないのであるが、次の巻のいちばん初めのその人の句が「卵産む鶏(とり)」であって、その次が「干鰯俵(ほしかだわら)のなまぐさき」である。この二つの歌仙は同年にできてはいるようであるが、この二つのものの中間にいかなる連中と何回いかなる連句を作っているかそれは私には全くわからない。しかし私の書き抜いた長短わずかに二十三句の中にこういう「魚鳥」複合といったようなものが三度までも現われているのは決して偶然とは思われない。たとえば利牛(りぎゅう)の句十八の中に鳥類は二度現われるが魚類は一つも現われないのである。
 史邦(ふみくに)の句三十八ばかりを書き抜いてすぐ気のついたことは「雨月」複合の多いことである。「月細く小雨にぬるる石地蔵」「酒しぼるしずくながらに月暮れて」「塩浜にふりつづきたる宵(よい)の月」「月暮れて雨の降りやむ星明かり」以上いずれも雨の月であるが、もう一つおまけに「傘(からかさ)をひろげもあえずにわか雨」というのがある。ここでは月の代わりに傘が出ている。それからこれは一見しただけではあまり明白ではないが、「寒そうに薬の下をふき立てて」「土たく家のくさききるもの」「よりもそわれぬ中は生かべ」「すり鉢(ばち)にうえて色つく唐がらし」少し逆もどりして別の巻「溝(どぶ)汲(く)むかざの隣いぶせき」の五句のごときも、事によると一種の土臭いにおいを中心として凝集した観念群を想像させる。
 岱水(たいすい)について調べてみる。五十句拾った中で食物飲料関係のものが十一句、すなわち全体の二十二プロセントを占めている。こういうのを前記の観念群と同一視してよいか悪いかは少し疑わしいがともかくもおもしろい例である。史邦(ふみくに)の場合には「薬」も入れて飲食物と見るべきものが三十八分の三、即ち八プロセント弱である。これくらいならば普通であるかもしれないが、岱水の場合は少し多すぎるように思われる。それからまた岱水では「醤(もろみ)のかびをかき分けて」というのと、巻はちがうが「月もわびしき醤油(しょうゆう)の粕(かす)」というのがある。この二度目の月と醤油(しょうゆ)との会合ははなはだ解決困難であるが、前の巻の初めに、史邦の「帷子(かたびら)」の発句と芭蕉の脇(わき)「籾(もみ)一升を稲のこぎ賃」との次に岱水が付けた「蓼(たで)の穂に醤(もろみ)のかびをかき分けて」を付けているところを見ると、岱水の頭には何かしら醤油のようなものと帷子との中間にまたがる観念群があるのではないかと疑わせる。もちろんこれも一つの臆測(おくそく)である。
 やはり岱水で「二階はしごのうすき裏板」の次に「手細工に雑箸(ぞうばし)ふときかんなくず」があり、しばらく後に「引き割りし土佐(とさ)材木のかたおもい」がある、これらも一つの群と見られる。また「梅の枝おろしかねたる暮れの月」と「かれし柳を今におしみて」の二つもこの二つで一群をなし、なおまた前の三つの一群と合しそうな気もする。
 最後に涼葉(りょうよう)十七句を調べてみた。「牛」が二頭いる。「草鞋(わらじ)」と「蓆(むしろ)」と「藁(わら)」、それから少しちがった意味としても「籠(かご)」と「駕(かご)」がある。それから「文」、「日記」の「紙」、それから「□(きぬ)」と「縞(しま)」がある。これらのものは、少なくも私には一つの観念群を形成しうるものである。これが全体十七句の五割以上を占領しているのは、よもや全くの偶然とは言われまい。
 ここで以上にあげた作家のために一言弁じておかなければならないことは、これらの後世に伝わった僅少(きんしょう)な句だけを見て、これからこれらの作家の頭の幅員を論じてはならないことである。涼葉(りょうよう)にしたところが何もいつまでもこの、私がかりに texture complex とでも名づけるものばかりの周囲をぐるぐる回ってばかりいたわけではないであろう。
 以上のような方法を芭蕉や蕪村(ぶそん)に及ぼして分析と統計とを試みてみたらあるいはおもしろい結果が得られはしないかと思うのであるが、自分で今それを遂行するだけの余裕のないことを遺憾とする。もし渋柿(しぶかき)同人中でこれを試みようという篤志家を見いだすことができれば大幸である。以上はただそういう方面の研究をする場合に役に立ちそうだと思われる方法の暗示に過ぎないのである。
 こういうふうに、連句というものの文学的芸術的価値ということを全然念頭から駆逐してしまって統計的心理的に分析を試みることによって連句の芸術的価値に寸毫(すんごう)も損失をきたすような恐れのないことは別に喋々(ちょうちょう)する必要はないであろうと思われる。繰り返して言ったように創作の心理と鑑賞の心理は別だからである。しかし全く別々で縁がないかと言うとそう簡単でもない。それは意識の限界以上で別々になっているだけで、その下ではやはり連絡していると思われるからである。この点についてはさらに深く考究してみたいと思っている。ともかくも一度こういうふうに創作心理を分析した上で連句の鑑賞に心を転じてみると、おのずからそうする以前とはいくらかちがった心持ちをもって同じ作品を見直すことができはしないか。そうして付け合わせの玩味(がんみ)に際してしいて普遍的論理的につじつまを合わせようとするような徒労を避け、そのかわりに正真な連句進行の旋律を認識し享楽することができはしないかと思うのである。
 専門の心理学者ことに精神分析学者の目で連句の世界を見渡せばまだまだおもしろい問題や材料は数限りもなく得られるであろうと想像される。そういう方面の学者でこの日本独特の芸術の分析的研究に手を着ける人が一人でもできれば喜ばしいことである。
(昭和六年八―十月、渋柿)
     六 月花の定座の意義

 連句の進行の途上ところどころに月や花のいわゆる定座(じょうざ)が設定されていて、これらが一里塚(いちりづか)のごとく、あるいは澪標(みおつくし)のごとく、あるいは関所のごとく、また緑門のごとく樹立している。これは連句というものの形式的要素の中でもかなり重要なものであって、全体の構造上の締めくくりをつける留釘(リベット)のような役目をつとめているようである。いつごろからだれらが規定したものか、そういう由緒(ゆいしょ)来歴については自分はまだなんらの知識をも持たないのであるが、ただ自分で連句の制作に当面している場合にこれらの定座に逢着(ほうちゃく)するごとに経験するいろいろな体験の内省からこれら定座の意義に関するいくらかの分析を試みることはできるので、その考察の一端を述べてみたいと思うのである。
 前に連句の付け合わせの心理的機巧を述べたときに詳説しておいたように、前句と付け句とは二つの個性の部分的重合によって連結されたものであって、連句の全体はそういうものの連鎖の一系列を形成している。従ってその連鎖のつながり方を規定するものは作者各自の個性のアンサンブルである。ところがそういう集団の組織は時と場合により多種多様であるから、もしそこになんらか外側から人工的に加えられた制限がないとしたら、その結果はどこへどうそれて行くか見きわめがつかないものになってしまうであろう。そういうものもまた一つの自由な詩形として成立しうるかもしれないが、しかしそれでは、それ自身としての存在を有するきまった足場の上に立つところの、従って一つのきまった名によって呼ばるべき詩形は成立し得ない。気ままにピアノの鍵盤(けんばん)をたたきまわっても一つの音楽であるかもしれないがソナタにはならないと同様である。そういう意味における統制的要素としての定座が勤めるいろいろの役割のうちで特に注目すべき点は、やはり前述のごとき個性の放恣(ほうし)なる狂奔を制御するために個性を超越した外界から投げかける縛繩(ばくじょう)のようなものであるかと思われる。個性だけでは知らず知らずの間に落ち込みやすい苟安自適(こうあんじてき)の泥沼(どろぬま)から引きずり出して、再び目をこすって新しい目で世界を見直し、そうして新しい甦生(そせい)の道へ駒(こま)の頭を向け直させるような指導者としての役目をつとめるのがまさにこの定座であるように思われるのである。
 もっとも連句におけるいっさいの他の規約、たとえば季題や去(さ)り嫌(きら)いの定めなどもある程度まではやはり前述のごとき統制的の役目をつとめることはもちろんであるが、しかしこれらの制限と月花の定座の制限とでは言わば次元的(ディメンショナル)に大きな差別がある。前者の拘束範囲が一つの面であるとすれば、後者はその面内にただ一つの線を画するような感じがある。もしこういう拘束がなかったとすると各自の個性はその最も安易な出入り口にのみ目を向けるであろうが、定座の掟(おきて)によってそれらのわがままの戸口をふさがれてしまうので、そこでどうにかそこから抜け出しうべく許されたただ一筋の困難な活路をたどるほかはないことになる。しかしそこをくぐることによって、もしそうでなかったら決して生涯(しょうがい)見ることのなかったはずの珍しく新しい国を遍歴する第一歩を踏み出すことができるのである。もっともこのようなことは何も連句に限らず他の百般の事がらに通有ないわゆる「転機」の妙用に過ぎないので、われわれ人間の生涯の行路についても似よったことが言われるであろうが、そういう範疇(はんちゅう)の適切なる一例として見らるるという点に興味があるであろう。またそう見ることによって定座の意義が明瞭(めいりょう)となり、また制作に当たっての一つの指針を得ることができるであろうかと思われる。
 そういう役目を月と花との二つに負わせた事にも興味がある。これは一つには古来の伝統による雪月花の組み合わせにもよる事であろうが、しかし月花の定座に雪を加えてはたしかに多すぎてかえって統率が乱れる。しかしいずれか一つではまたあまりに単調になる。だいたいにおいて春の花のほがらかさと、秋の月の清らかさとを正と負、陽と陰の両極として対立させたものであるに相違ない。音楽で言わば長音階と短音階との対立を連想させるものもある。もちろん定座には必ず同季の句が別に二句以上結合して三協和音のごとき一群をなすのであって、結局は春秋季題の插入(そうにゅう)位置(いち)を規定する、その代表者として花と月とが選ばれているとも言われる。そうしてこの二つのものが他の季題に比べて最も広い連想範囲をもちうるために代表者に選ばれたことも事実であろう。しかし自分のおもしろいと思うのは、この定座の月と花とが往々具体的な自然現象としてではなくむしろ非常に抽象的な正と負の概念としてこの定座の位置に君臨している観があるということである。もちろんそうでない場合もまたはなはだ多いようであるがだいたいにおいては自然にそうなるべきはずのものではないかと思われ、そういう意識をもって作句してもしかるべきではないかと思うのである。しかしこれについては、古来の作例について具体的に系統的な調べをした上でなければ確定的な議論はできないので、ここにはただ一つの研究題目として提出するにとどめておく。
 定座の配置のしかたもまたはなはだ興味あるものである。表六句の中に月が置かれているのはこの一ページのうわずるのを押える鎮静剤のようなきき目をもっている。裏十二の中に月と花が一つずつあってこの一楽章に複雑な美しさを与える一方ではまたあまりに放恣(ほうし)な運動をしないような規律を制定している。月が七句目のへんに来ているのは、表の月に照応してもう一度同じテーマを繰り返すことによって表の気分を継承した形である。そうして名残(なごり)の表に移らんとする二句前に花が現われて、それがまさにきたらんとするほがらかな活躍を予想させるようにも思われる。さて、いよいよ名残(なごり)十二句のスケルツォの一楽章においては奔放自在なる跳躍を可能ならしむるため、最後から一つ前の十一句目までは定座のような邪魔な目付け役は一つも置かないことにしてある。しかしこの十一句目に至ってそこで始めて次にきたるべき沈静への導音(ライトトーン)ででもあるかのように月の座が出現する。そうしてその後につづく秋季結びが裏へその余韻を送るのである。かくしていよいよ最後の花の座が、あたかも静寂な暮れ方の空をいろどる夕ばえのごとき明るくはなやかなさびしさをもって全巻のカデンツァをかなでることになっているのである。
 以上のごとく考えて来るとこの一見任意的であるかのごとき定座の定数やその位置がなかなか任意ではなくて容易には変更を許さないような必然性をもっているように思われて来るのである。それでこの規定はもちろん絶対ユニークなものではないまでも種々な可能なものの中から選ばるべき最良なるものの一つであることだけは確実であろうと思われる。
 以上ははなはだ未熟な分析の試みであったが、このような見方を一つの作業仮説として実際の古人の連句中の代表的なものに応用してみることは、連句の研究上に一つの新断面を劈開(へきかい)するだけの効果はありはしないかと思われる。ここで実例について詳説することのできないのを遺憾とするが、読者のうちでもし上記の暗示を採用されていっそう具体的に詳細な研究を試みらるるかたがあれば大幸である。
 なお、ここでは定座の標準位置のみについて論じたのであるが、実例についてこの定位からの偏差が実際いかなる範囲にいかなる様式で行なわれているかを研究してみるのもまた興味あり有益なる仕事であろうと思われる。また一方ではこの定座の発生進化に関する歴史的研究もはなはだ必要であるが、これについてはその方面の学者たちの示教を仰ぐほかはないのである。そうして単なる文献考証だけではなくして、そういう進化径路の有機的な系統に関する分析的な研究が遂げられる日の来るのを期待したく思うのである。
(昭和六年十一月渋柿)
     七 短歌の連作と連句

 近ごろ岩波文庫の「左千夫歌論抄(さちおかろんしょう)」の巻頭にある「連作論」を読んで少なからざる興味を感じたのであるが、同時に連作短歌と連句との比較研究という一つの新しい題目が頭に浮かんで来るのであった。ところが、自分はまだ短歌連作というものについてはきわめて浅薄な知識しか持ち合わせていないから研究などというほどのまとまったことは到底できないであろうが、しかし取りあえず自分の感じたことだけを後日の参考としてここにしるしておくのも必ずしも無用のわざではあるまいと考える。
 右の「連作論」においていわゆる連作の最始のものとして引用されている子規(しき)の十首、庭前の松に雨が降りかかるを見て作ったものを点検してみると、「松の葉」という言葉が六回、「松葉」が一つ、「葉」が七、「露」が九、「雨」が三、「玉」が六、「こぼれ」という三字が五回、「落ち」「落つ」が合わせて三、「おく」が七、「枝」が四回繰り返されている。これをかなの数にして合計すると百十字で、全体三百十字の三分の一を超過している。それでこの十首より成る一群の内容は「松の葉に雨の露が玉のごとくにおいて、それがこぼれ落ちる」というだけのことを繰り返し繰り返し諷詠(ふうえい)したものであって、連作としてはおそらく最も単純な形式に属するものであろうと思われる。そうして、たとえば「松の葉」の現われる位置がほとんど初五字かその次の七字の中かにきまっており、「露」はだいたい一首の中ごろの位置に現われ、「玉」は多く一首の終わりに近く現われている。それでこれはたとえて言わば簡単な唱歌の同じ旋律を繰り返し繰り返し歌うようなものであって、同じものが繰り返さるることによって生ずる一種の味はなくはないであろうが、しかしこういうものばかりが続いてはおそらく倦怠(けんたい)を招くに相違ない。
 次に「連作論」に引用された「病牀即事(びょうしょうそくじ)」を詠じた十首は、もう少し複雑になっている。「月」は毎句にあり、「ガラス戸」が六、「鳥かごの屋根」と「森」と「ランプ」が各二あるが、そのほかにもいろいろの景物が点綴(てんてつ)され、ほととぎすや白雲や汽車やブリキや紙や杉木立(すぎこだ)ちやそういうものの実感が少しずつ印象され、また動作や感覚の上でもだいぶ変化が見えている。また毎句にある「月」でも一首の頭からおわりまでいろいろの位置に分配されているのに気がつく。この場合では、一つの場所の光景をいろいろな角度に見たスケッチを総合したような形式になっている。
 その次に引用された十首は春秋の草花に対して自分の病の悲しみを詠じたものであるが、これには異種の植物名が八つとほかに「秋草花」という言葉が現われ、「春」の字が三、「秋」が二、そうして十首のおのおのにいろいろな形で病者の感慨が詠(よ)み込まれている。これは共通な感じを糸にしていろいろの景物を貫ぬいた念珠のような形式である。
 以上は連作というものの初期の作例であるが、その後の発達の歴史がどうであったか自分はまだそれについて充分に調べてみるだけの余裕がない。しかし座右にある最近の「アララギ」や「潮音(ちょうおん)」その他を手当たり次第に見ていると、中にはほとんど前記の第一例に近いものも、第二例に近いものも、また第三例に近いものもあるが、また中には形式においてずっと変わった特徴の見られるものも少なくはない。たとえば、身近い人の臨終を題としたもので病中の状況から最期の光景、葬列、墓参というふうに事件を進行的に順々に詠(よ)んで行ってあるが、その中に一見それらの事件とは直接なんら論理的に必然な交渉はないような景物を詠んだ歌をいわゆるモンタージュ的に插入(そうにゅう)したものがある。またこれとは逆にある一つの光景を子規の第一例もしくは第二例のように取り扱っているうちに、その光景とは一見直接には関係しない純主観の一首を漢詩の転句とでもいったふうにモンタージュとして嵌入(かんにゅう)したのもある。
 ところが最近に寄贈を受けた「アララギ」の十一月号を開いて見ると、斎藤茂吉(さいとうもきち)氏の「大沢禅寺(だいたくぜんじ)」と題した五首の歌がある。これを一つの連作と見なして点検してみると、これは著しく他と異なった特徴をもっていることに気がつく。その五首というのは次のとおりである。

木原よりふく風のおとのきこえくるここの臥所(ふしど)に蚤(のみ)ひとついず
罪をもつ人もひそみておりしとううつしみのことはなべてかなしき
この寺も火に燃えはてしときありき山の木立ちの燃えのまにまに
おのずから年ふりてある山寺は昼をかわほりくろく飛ぶみゆ
いま搗(つ)きしもちいを見むと煤(すす)たりしいろりのふちに身をかがめつつ

 この五首の短歌連結のぐあいを見ると、これは以上に述べて来た子規の例やまた近ごろの他の例に比べて著しく動的であり進行的であり旋律的であり、しかもその進行のしかたが、われわれの目で見ると著しく連句の進行し方と似たところがあるように思われるのである。ことに、たとえば初めの二首のごとき試みにこれを長句短句に分解してそれらをさらにある連句中の一部分として考えてみても実に立派な一連をなしているように思われる。この特徴はすでに同じ作者の昔の「赤光(しゃっこう)」集中の一首一首の歌にも見られるだれにも気のつく特徴と密接に連関しているものではないかと考えられるのである。
 以上の匆卒(そうそつ)なる瞥見(べっけん)によっても、いわゆる短歌の連作と見らるべきものの中には非常に多様な型式が実存し、極端に単純な輪唱ふうのものから、非常に複雑で進行のテンポの急なものまでいろいろの段階のあることだけはうかがわれると思うのである。
 左千夫(さちお)氏が連作の趣味を形容して「植え込み的趣味」と言っているのはなかなかおもしろいと思われる。実際多くの連作は一つの植え込みをいろいろな角度から飽かずいつまでもながめているような趣があって、この点ではどうしても静的であり絵画的である。しかし近来の連作と見らるるものの中には事件の進行を時間的に順次に描いて行く点で、たとえば活動映画的とでもいうべきものもある。そうして最後にあげた一例になると、もはや事件の報告的進行ではなくて、印象や感覚の旋律的な進行になっていて、そうしてまさにこの点で従来自分の述べて来た連句の旋律的進行とかなりまで共通な要素を備えているように思われるのである。
 こういうふうに考えて来ると短歌連作と称するものの世界と連句の世界とは必ずしも一見そう思われるように全然かけ離れたものではなくて、ある一つの大きな全体の二つの部分であってその両者の間をつなぐべき橋梁(きょうりょう)の存在が可能であるということが想像されて来るのである。
「連作論」中に、左千夫(さちお)の問いに答えて子規が「俳句は総合的で複雑なものだから連作の必要がないが、短歌は連続的で単純なものであるから連作ができる」というような意味のことを言ったとある。これも後に述べるように解釈次第では一面の真をうがっていると思われるが、ただこの問答の中で子規があたかも連句というものの存在を全然忘却あるいは無視しているように見えるのが不思議である。(もっともこの問答の記事は左千夫氏が聞いたのを覚え書きにしたので多少の誤りがあるかもしれぬと断わってある)。しかしわれわれ初心の者が連句を作る際に往々一句の長句あるいは短句の内にあまりたくさんの材料を詰め込むためにかえって連句の体を失し、その結果付け句を困難ならしめることがあるのは、畢竟(ひっきょう)俳句と連句との区別を忘れるためであると感じることがしばしばある。こういう自分の体験と思い合わせて考えてみるとこの子規の言ったという言葉にも味わうべき点があるようにも思われて来るのである。実際俳句を並べただけでは決して連句はできないのである。そうかと言ってまた短歌連作の多数のものは連句とあまりに距離が大きい。しかし短歌連作をいろいろと開拓して行くうちにはあるいは一方ではおのずからいわゆる連歌の領域に接近し、したがってまた自然に連句とも形式ならびに内容において次第に接近して行くという事も充分可能である。他方ではまた、少なくも現在では連句とは全く別物と思われる連作の型式から進化して行って、そうして現在の歌仙などとはかなりちがった別種の連句形式が生ずるという可能性も想像されなくはない。われわれ連句を研究するものの興味は実に主としてこの点にかかるのである。それでわれわれにとっては、こういう目をもっている短歌連作の進化の歴史を追跡することも決して無用ではあるまいと思われるのである。
 以上は一時の思いつきのようなものに過ぎないのであるが、一つの研究題目を提出するような意味で、思ったままをここにしるしてあえて読者の教えをこうことにした。もしさらに短歌の研究者の側から見たこの問題に対する意見を聞くことができれば教えられるところが少なくないであろうと思うのである。
(昭和六年十二月、渋柿)
 以上に続いてまだいろいろ書くつもりであったのが都合で一時中止したままになっている。他日機会があったらもう少し補充してまとめたいと思っているが、本書所載の他の論文にしばしば引き合いに出ている関係上参照の便宜のためにこのままここに採録した次第である。




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