追憶の医師達
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★暇つぶし何某★

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著者名:寺田寅彦 

 子供の時分に世話になった医師が幾人かあった。それがもうみんなとうの昔に故人になったしまって、それらの記念すべき諸国手(こくしゅ)の面影も今ではもう朧気(おぼろげ)な追憶の霧の中に消えかかっている。
 小学時代にかかりつけの家庭医は岡村先生という当時でももう相当な老人であった。頭髪は昔の徳川時代の医者のような総髪を、絵にある由井正雪(ゆいしょうせつ)のようにオールバックに後方へなで下ろしていた。いつも黒紋付に、歩くときゅうきゅう音のする仙台平(せんだいひら)の袴姿であったが、この人は人の家の玄関を案内を乞わずに黙っていきなりつかつか這入(はい)って来るというちょっと変った習慣の持主であった。
 いつか熱が出て床(とこ)に就いて、誰も居ない部屋にただ一人で寝ていたとき、何かしら独り言を云っていた。ふと気が付いて見るといつの間に這入って来たか枕元に端然とこの岡村先生が坐っていたので、吃驚(びっくり)してしまって、そうして今の独語を聞かれたのではないかと思って、ひどく恥ずかしい思いをした。しかし何を言っていたかは今少しも覚えていない。ただ恥ずかしかった事だけはっきり想い出すのである。もちろん云っていた事柄が恥ずかしかった訳ではなくて独語を云っていた事が恥ずかしかったのである。
 五、六歳の頃好きな赤飯を喰い過ぎて腹をこわした結果「脳膜□衝(のうまくきんしょう)」という病気になって一時は生命を気遣(きづか)われたが、この岡村先生のおかげで治ったそうである。たぶん今云う疫痢(えきり)であったろうと思われる。死ぬか、馬鹿になるか、と思われたそうであるが、幸いに死なずにすんでその代り少し馬鹿になったために、力に合わぬ物理学などに志して生涯恥をかくようになったのかもしれない。とにかく命を助かったのはこの岡村先生のおかげである。
 岡村先生が亡くなって後は小松という医者の厄介になった。老先生と若先生と二人で患家を引受けていたが、老先生の方はでっぷりした上品な白髪のお茶人で、父の茶の湯の友達であった。たしか謡曲や仕舞(しまい)も上手であったかと思う。若先生も典型的な温雅の紳士で、いつも優長な黒紋付姿を抱車(かかえぐるま)の上に横たえていた。うちの女中などの尊敬の対象であったようである。その若先生が折々自分の我儘(わがまま)な願いに応じて「化学的手品」の薬品を調合してくれたりした。無色の液体を二種混合するとたちまち赤や黄に変り、次に第三の液を加えるとまた無色になると云ったようなのを幾種類か用意してもらって、近所の友達を集めては得意になって化学的デモンストラチオンをやって見せたのであった。いつかこの若先生のところで顕微鏡を見せてもらって色々のプレパラートをのぞいているうちに一つの不思議な重大なアポカリプスを見せられた。後で考えてみたらそれは人間のスペルマトゾーンの一集団であったのである。それからまた珪藻(けいそう)のプレパラートを見せられ、これの視像の鮮明さで顕微鏡の良否が分かると教えられた。その後二十年たってドイツのエナでツァイスの工場を見学したとき、紫外線顕微鏡でこの同じ珪藻の見事な像を蛍光板の上に示されたとき、この幼い記憶が突然甦って来るのを感じたのであった。
 十二、三歳の頃ひどくからだが弱くて両親に心配をかけた。そのためにその頃郷里でただ一人の東京帝国大学卒業医学士であったところの楠先生の御厄介になることになった。この先生はたいていいつも少し茶色がかった背広の洋服に金縁眼鏡で、そうしてまだ若いのに森有礼(ありのり)かリンカーンのような髯(ひげ)を生やしていたような気がする。とにかくそれまでにかかった他の御医者様の概念とはよほどちがった近代的な西洋人風な感じのする国手であった。
 父が話し好きであったからたいていの医師は来るとゆっくり腰を据えて話し込んでしまうのであったが、この楠先生もよくお愛想に出した葡萄酒の杯を銜(ふく)んだりして、耳新しい医学上の新学説などを聞かせてくれたような記憶がある。この人の話した色々の話の中で今でも覚えているのは、外科手術に対して臆病な人や剛胆な人の実例の話である。あるちょっとした腫物(はれもの)を切開しただけで脳貧血を起して卒倒し半日も起きられなかった大兵肥満の豪傑が一方の代表者で、これに対する反対に気の強い方の例として挙げられたのは六十余歳の老婆であった。舌癌(ぜつがん)で舌の右だか左だかの半分を剪断(せんだん)するというので、麻酔をかけようとしたら、そんなものは要らないと云ってどうしても聞かない。それで麻酔なしでこの出血のはなはだしし手術を遂行したが、おしまいまでいっこうに平気で苦痛の顔色を示さなかった。その後数ヶ月たって後にまた残りの半分の舌がいけなくなった。今度は麻酔をかけようかと云ったら、やはり承知しないのでまた素面(しらふ)で手術を受けてとうとう完全な舌切婆さんになったということであった。その後がどうなったかは聞かなかったような気がする。
 その頃、自分の家ではあまりかからなかったが、親類で始終頼んでいた横山先生という面白い医者があった。畸人(きじん)という通称があったが、しかし難儀な病気の診断が上手だと云う評判であった。ある時山奥のまた山奥から出て来た病人でどの医者にも診断のつかない不思議な難病の携帯者があった。横山先生のところへ連れて行くと、先生は一目見ただけで、これはじきに直る、毎日上白米を何合ずつ焚いて喰わせろと云った。その処方通りにしたら数日にしてこの厄介な奇病もけろりと全快した、というのである。この患者は生れてその日までまだ米の飯というものを喰ったことがなかったという話であった。
 小松の若先生でも楠先生でも、もし無事だったらまだ生きておられてもいい年輩であったが、二人とも壮年で亡くなられた。そうして大人になるまで生きるかどうかと気遣われた自分が、これらの先生方のおかげでどうにか生き延びて、そうしてこれらの人達よりも永生きをしているわけである。(昭和十年一月『実験治療』)



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