科学と文学
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著者名:寺田寅彦 

 ジャーナリズムとはその語の示すとおり、その日その日の目的のために原稿を書いて、その時々の新聞雑誌の記事を作ることである。それ自身に別段悪い意味はないはずであるが、この定義の中にはすでにいろいろな危険を包んでいる。浅薄、軽率、不正確、無責任というようなものがおのずから付きまといやすい。それからまた読者の一時的の興味のために、すべての永久的なものが犠牲にされやすい。それからまた題材が時の流行に支配されるために、取材の範囲がせばめられ、同時にその題材と他の全体との関係が見失われやすい。
 そういうジャーナリズムの弊に陥ったような通俗科学記事のみならず、科学的論文と銘打ったものさえ決して少なくはないのである。多くの通俗雑誌や学会の記事の中でもそういうものを拾い出せとならば拾い出すことははなはだ容易であると思われる。
 しかし一方でまた、たとえ日刊新聞や月刊大衆雑誌に掲載されたとしても、そういう弊に陥ることなくして、永久的な読み物としての価値を有するものもまた決して不可能ではないのである。たとえば前にあげたわが国の諸学者の随筆の中の多くのものがそれである。そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。つまり新聞雑誌には書かない最も悪いジャーナリストもあれば、新聞雑誌に書いてもジャーナリズムの弊には完全に免疫された人もありうるのである。この事に関する誤解が往々正常なる科学の普及を妨害しているように見える。これは惜しむべきことである。

     文章と科学

「甲某の論文は内容はいいが文章が下手(へた)で晦渋(かいじゅう)でよくわからない」というような批評を耳にすることがしばしばある。はたしてそういうことが実際にありうるかどうか自分にははなはだ疑わしい。実際多くの場合にすぐれた科学者の論文は文章としてもまた立派なものであるように見える。文章の明徹なためには頭脳の明徹なことが必須条件(ひっすじょうけん)である。頭脳が透明であるのに母国語で書いた文章が晦渋をきわめているという場合は、よほどな特例であろうと思われるのである。
 反対に「乙某の論文は内容は平凡でも文章がうまいからおもしろい」という場合がある。これも自分には疑わしい。平凡陳套(ちんとう)な事実をいかに修辞法の精鋭を尽くして書いてみても、それが少なくもちゃんとした科学者の読者に「おもしろい」というはずがないのである。そういう種類のものにはやはり必ず何かしら独創的な内察があり暗示があり、新しい見地と把握(はあく)のしかたがあり、要するになんらかの「生産能」を包有しているある物がなければならないのである。
 中学生時代に作文を作らされたころは、文章というものが内容を離れて存在するものと思っていた。それで懸命にいわゆる美文を暗唱したりしたが、そういう錯覚は年とともに消滅してしまった。修辞法は器械の減摩油のような役目はするが、器械がなくては仕事はできないのである。世阿弥(ぜあみ)の能楽に関する著書など、いわゆる文章としてはずいぶん奇妙なものであるが、しかしまた実に天下一品の名文だと思うのである。
 それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。
 若い学生などからよく、どうしたら文章がうまくなれるか、という質問を受けることがある。そういう場合に、自分はいつも以上のような答えをするのである。何度繰り返して読んでみても、何を言うつもりなのかほとんどわからないような論文中の一節があれば、それは実はやはり書いた人にもよくわかっていない、条理混雑した欠陥の所在を標示するのが通例である。これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。
 この所説もはなはだ半面的な管見をやや誇張したようなきらいはあろうが、おのずから多少の真を含むかと思うのである。

     結語

 科学と文学という題のもとに考察さるべき項目はなお多数であろうが、まずこのへんで擱筆(かくひつ)して余は他の機会に譲ることとする。
 緒論で断わってあるとおり、以上の所説は、特殊な歴史と環境とをもった一私人の一私見に過ぎないのであって、おそらく普遍性の少ない僻説(へきせつ)であろうと思われる。しかし、そういう僻説を少しも修飾することなしにそのままに記録するということが、かえって賢明なる本講座の読者にとってはまた特殊の興味があるかと思うので、なんら他を顧慮することなくして、年来の所見をきわめて露骨に、しかも無秩序に羅列(られつ)したまでである。従って往々はなはだしく手前勝手な我田引水と思われそうな所説のあることは、自分でも認められ、そうしてはなはだ苦々(にがにが)しくも、おこがましくも感ずるのであるが、それをあえて修飾することなくそのままに投げ出して一つの「実験ノート」として読者の俎上(そじょう)に供する次第である。
(昭和八年九月、世界文学講座)



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