柿の種
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著者名:寺田寅彦 

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 数年前の早春に、神田の花屋で、ヒアシンスの球根を一つと、チューリップのを五つ六つと買って来て、中庭の小さな花壇に植え付けた。
 いずれもみごとな花が咲いた。
 ことにチューリップは勢いよく生長して、色さまざまの大きな花を着けた。
 ヒアシンスは、そのそばにむしろさびしくひとり咲いていた。
 その後別に手入れもせず、冬が来ても掘り上げるだけの世話もせずに、打ち棄ててあるが、それでも春が来ると、忘れずに芽を出して、まだ雑草も生え出ぬ黒い土の上にあざやかな緑色の焔を燃え立たせる。
 始めに勢いのよかったチューリップは、年々に萎縮(いしゅく)してしまって、今年はもうほんの申し訳のような葉を出している。
 つぼみのあるのもすくないらしい。
 これに反して、始めにただ一本であったヒアシンスは、次第に数を増し、それがみんな元気よく生い立って、サファヤで造ったような花を鈴なりに咲かせている。
 そうして小さな花壇をわが物のように占領している。
 この二つの花の盛衰はわれわれにいろいろな事を考えさせる。(大正十二年五月、渋柿)[#改ページ]

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 鰻(うなぎ)をとる方法がいろいろある。
 筌(うえ)を用いるのは、人間のほうから言って最も受動的な方法である。
 鰻のほうで押しかけて来なければものにならない。
 次には、蚯蚓(みみず)の数珠(じゅず)を束ねたので誘惑する方法がある。
 その次には、鰻のいる穴の中へ釣り針をさしこんで、鰻の鼻先に見せびらかす方法がある。
 これらはよほど主動的であるが、それでも鰻のほうで気がなければ成立しない。
 次には、鰻の穴を捜して泥(どろ)の中へ手を突っ込んでつかまえる。
 これは純粋に主動的な方法である。
 最後に鰻掻(うなぎか)きという方法がある。
 この場合のなりゆきを支配するものは「偶然」である。(大正十二年六月、渋柿)[#改ページ]

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 無地の鶯茶(うぐいすちゃ)色のネクタイを捜して歩いたがなかなか見つからない。
 東京という所も存外不便な所である。
 このごろ石油ランプを探し歩いている。
 神田や銀座はもちろん、板橋界隈(かいわい)も探したが、座敷用のランプは見つからない。
 東京という所は存外不便な所である。
 東京市民がみんな石油ランプを要求するような時期が、いつかはまためぐって来そうに思われてしかたがない。(大正十二年七月、渋柿)
(『柿の種』への追記) 大正十二年七月一日発行の「渋柿」にこれが掲載されてから、ちょうど二か月後に関東大震災が起こって、東京じゅうの電燈が役に立たなくなった。これも不思議な回りあわせであった。
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 本石町(ほんごくちょう)の金物店へはいった。
「開き戸のパタンパタン煽(あお)るのを止める、こんなふうな金具はありませんか。」
 おぼつかない手まねをしながら聞いた。
 主婦はにやにや笑いながら、「ヘイ、ございます。……煽り留めとでも申しましょうか。」
 出して来たボール箱には、なるほど、アオリドメと片仮名でちゃんと書いてあった。
 うまい名をつけたものだと感心した。
 物の名というものはやはりありがたいものである。
 おつりにもらった、穴のある白銅貨の二つが、どういうわけだか、穴に糸を通して結び合わせてあった。
 三越(みつこし)で買い物をした時に、この結び合わせた白銅を出したら、相手の小店員がにやにや笑いながら受け取った。
 この二つの白銅の結び合わせにも何か適当な名前がつけられそうなものだと思ったが、やはりなかなかうまい名前は見つからない。(大正十二年八月、渋柿)[#改ページ]

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 道ばたの崖(がけ)の青芒(あおすすき)の中に一本の楢(なら)の木が立っている。
 その幹に虫がたくさん群がっている。
 紫色の紋のある美しい蝶(ちょう)が五、六羽、蜂が二種類、金亀子(こがねむし)のような甲虫(こうちゅう)が一種、そのほかに、大きな山蟻(やまあり)や羽蟻(はあり)もいる。
 よく見ると、木の幹には、いくつとなく、小指の頭ぐらいの穴があいて、その穴の周囲の樹皮がまくれ上がりふくれ上がって、ちょうど、人間の手足にできた瘍(よう)のような恰好(かっこう)になっている。
 虫類はそれらの穴のまわりに群がっているのである。
 人間の眼には、おぞましく気味の悪いこの樹幹の吹き出物に人間の知らない強い誘惑の魅力があって、これらの数多くの昆虫をひきよせるものと見える。
 私は、この虫の世界のバッカスの饗宴を見ているうちに、何かしら名状し難い、恐ろしいような物すごいような心持ちに襲われたのであった。(大正十二年九月、渋柿)[#改ページ]

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 震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹(えんたん)色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。
 樹という樹に生え広がって行った。
 そうして、その丹色(にいろ)が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映(は)え合っていた。
 道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。
 そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返して来る新しい生命の胚芽の先駆者であった。
 三、四日たつと、焼けた芝生(しばふ)はもう青くなり、しゅろ竹や蘇鉄(そてつ)が芽を吹き、銀杏(いちょう)も細い若葉を吹き出した。
 藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。
 焦土の中に萌(も)えいずる緑はうれしかった。
 崩れ落ちた工場の廃墟(はいきょ)に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。(大正十二年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 震災後の十月十五日に酒匂川(さかわがわ)の仮橋を渡った。
 川の岸辺にも川床にも、数限りもない流木が散らばり、引っかかっていた。
 それが、大きな樹も小さな灌木(かんぼく)も、みんなきれいに樹皮をはがれて裸になって、小枝のもぎ取られた跡は房楊枝(ふさようじ)のように、またささらのようにそそけ立っていた。
 それがまた、半ば泥に埋もれて、脱(のが)れ出ようともがいているようなのや、お互いにからみ合い、もつれ合って、最期の苦悶(くもん)の姿をそのままにとどめているようなのもある。
 また、かろうじて橋杭にしがみついて、濁流に押し流されまいと戦っているようなのもある。
 上流の谿谷(けいこく)の山崩れのために、生きながら埋められたおびただしい樹木が、豪雨のために洗い流され、押し流されて、ここまで来るうちに、とうとうこんな骸骨(がいこつ)のようなものになってしまったのであろう。
 被服廠(ひふくしょう)の惨状を見ることを免れた私は、思わぬ所でこの恐ろしい「死骸の磧(かわら)」を見なければならなかったのである。(大正十二年十二月、渋柿)[#改ページ]

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 ある日。
 汽車のいちばん最後の客車に乗って、後端の戸口から線路を見渡した時に、夕日がちょうど線路の末のほうに沈んでしまって、わずかな雲に夕映えが残っていたので、鉄軌(レール)がそれに映じて金色の蛇のように輝き、もう暗くなりかけた地面に、くっきり二条の並行線を劃(かく)していた。
 汽車の進むにつれて、おりおり線路のカーヴにかかる。
 カーヴとカーヴとの間はまっすぐな直線である。
 それが、多くは踏切の所から突然曲がり始める。
 ほとんど一様な曲率で曲がって行っては、また突然直線に移る。
 なるほど、こうするのが工事の上からは最も便利であろうと思って見ていた。
 しかし、少なくもその時の私には、この、曲線と直線との継ぎはぎの鉄路が、なんとなく不自然で、ぎごちなく、また不安な感じを与えるのであった。
 そうして、鉄道に沿うた、昔のままの街道の、いかにも自然な、美しく優雅な曲線を、またなつかしいもののように思ってながめるのであった。(大正十三年一月、渋柿)[#改ページ]

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 震災後、久しぶりで銀座を歩いてみた。
 いつのまにかバラックが軒を並べて、歳暮の店飾りをしている。
 東側の人道には、以前のようにいろいろの露店が並び、西側にはやはり、新年用の盆栽を並べた葭簀張(よしずば)りも出ている。
 歩きながら、店々に並べられた商品だけに注目して見ていると、地震前と同じ銀座のような気もする。
 往来の人を見てもそうである。
 してみると、銀座というものの「内容」は、つまりただ商品と往来の人とだけであって、ほかには何もなかったということになる。
 それとも地震前の銀座が、やはり一種のバラック街に過ぎなかったということになるのかもしれない。(大正十三年二月、渋柿)[#改ページ]

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 ルノアルの絵の好きな男がいた。
 その男がある女に恋をした。
 その女は、他人の眼からは、どうにも美人とは思われないような女であったが、どこかしら、ルノアルの描くあるタイプの女に似たところはあったのだそうである。
 俳句をやらない人には、到底解することのできない自然界や人間界の美しさがあるであろうと思うが、このことと、このルノアルの女の話とは少し関係があるように思われる。(大正十三年三月、渋柿)

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 夢の世界の可能性は、現実の世界の可能性の延長である。
 どれほどに有りうべからざる事と思われるような夢中の事象でも、よくよく考えてみると、それはただ至極(しごく)平凡な可能性をほんの少しばかり変形しただけのものである。
 してみると、事によると、夢の中で可能なあらゆる事が、人間百万年の未来には、みんな現実の可能性の中にはいって来るかもしれない。
 もしそうだとすると、その百万年後の人たちの見る夢はどんなものであるか。
 それは現在のわれわれの想像を超越したものであるに相違ない。(大正十三年四月、渋柿)[#改ページ]

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 日本は地震国だと言って悲観する人もある。
 しかし、いわゆる地震国でない国にも、まれにはなかなかの大地震の起こることはある。
 そうして、日本ではとても見られないような大仕掛けの大地震が起こることもある。
 一九〇六年のサンフランシスコ地震の時に生じた断層線の長さは四百五十キロメートルに達した。
 一九二〇年のシナ甘粛省(かんしゅくしょう)の地震には十万人の死者を生じた。
 考えてみると、日本のような国では、少しずつ、なしくずしに小仕掛けの地震を連発しているが、現在までのところで安全のように思われている他の国では、存外三千年に一度か、五千年に一度か、想像もできないような大地震が一度に襲って来て、一国が全滅するような事が起こりはしないか。
 これを過去の実例に徴するためには、人間の歴史はあまりに短い。
 その三千年目か、五千年目は明日(あす)にも来るかもしれない。
 その時には、その国の人々は、地震国日本をうらやむかもしれない。(大正十三年五月、渋柿)[#改ページ]

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 晩春の曇り日に、永代橋(えいたいばし)を東へ渡った。
 橋のたもとに、電車の監督と思われる服装の、四十恰好の男が立っていた。
 右の手には、そこらから拾って来たらしい細長い板片(いたぎれ)を持って、それを左右に打ちふりながら、橋のほうから来る電車に合図のような事をしていた。
 左の手を見ると、一疋の生きた蟹(かに)の甲らの両脇を指先でつまんでいる。
 その手の先を一尺ほどもからだから離して、さもだいじそうにつまんでいる。
 そうして、なんとなくにこやかにうれしそうな顔をしているのであった。
 この男の家には、六つか七つぐらいの男の子がいそうな気がした。
 その家はここからそんなに遠くない所にありそうな気がした。(大正十三年六月、渋柿)

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 三、四年前に、近所の花屋で、小さな鉄線かずらを買って来て、隣家との境の石垣の根に植えておいた。
 そのまわりに年々生い茂る款冬(かんとう)などに負かされるのか、いっこうに大きくもならず、一度も花をつけたことは無かった。
 去年の秋の大地震に石垣が崩れ落ちて、そのあたりの草木は無残におしつぶされた。
 しかし、不思議につぶされないで助かった鉄線かずらに今度初めて花が咲いた。
 それもたった二輪だけ、款冬の葉陰に隠れて咲いているのを見つけた。
 地べたにはっているつるを起こして、篠竹(しのだけ)を三本石垣に立て掛けたのにそれをからませてやったら、それから幾日もたたないうちに、おもしろいように元気よくつるを延ばし始めた。
 少し離れた所に紅うつぎが一本ある。
 去年は目ざましい咲き方をして見せたのに、石垣にたたきつぶされて、やっと命だけは取り止めたが、花はただの一輪も咲かなかった。(大正十三年七月、渋柿)[#改ページ]

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 大道で手品をやっているところを、そのうしろの家の二階から見下ろしていると、あんまり品玉がよく見え過ぎて、ばからしくて見ていられないそうである。
 感心して見物している人たちのほうが不思議に見えるそうである。
 それもそのはずである。
 手品というものが、本来、背後から見下ろす人のためにできた芸当ではないのだから。(大正十三年八月、渋柿)[#改ページ]

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「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする」
と、今年十二になる女の子がいう。
 こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思う。
 しかしまた、こういう種類の子供には、どこか病弱なところがあるのではないかという気がする。(大正十三年八月、渋柿)[#改ページ]

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 白山下(はくさんした)へ来ると、道ばたで馬が倒れていた。
 馬方が、バケツに水をくんで来ては、馬の頭から腹から浴びせかけていた。
 頸(くび)のまわりには大きな氷塊が二つ三つころがっていた。
 毎年盛夏のころにはしばしば出くわす光景である。
 こうまでならないうちに、こうなってからの手当の十分の一でもしてやればよいのにと思うことである。
 曙町(あけぼのちょう)の、とある横町をはいると、やはり道ばたに荷馬車が一台とまっていた。
 大きな葉桜の枝が道路の片側いっぱいに影を拡げている下に、馬は涼しそうに休息していた。
 馬にでも地獄と極楽はあるのである。(大正十三年九月、渋柿)[#改ページ]

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 向日葵(ひまわり)の苗を、試みにいろんな所に植えてみた。日当たりのいい塵塚(ちりづか)のそばに植えたのは、六尺以上に伸びて、みごとな盆大の花をたくさんに着けた。
 しかし、やせ地に植えて、水もやらずに打ち捨てておいたのは、丈(たけ)が一尺にも届かず、枝が一本も出なかった。
 それでも、申し訳のように、茎の頂上に、一銭銅貨大の花をただ一輪だけ咲かせた。
 この両方の花を比較してみても、到底同種類の植物の花とは思われないのである。
 植物にでも運不運はある。
 それにしても、人間には、はたしてこれほどまでにひどくちがった環境に、それぞれ適応して生存を保ちうる能力があるかどうか疑わしい。(大正十三年十月、渋柿)[#改ページ]

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 雑草をむしりながら、よくよく見ていると、稲に似たのや、麦に似たのや、また粟(あわ)に似たのや、いろいろの穀物に似たのがいくつも見つかる。
 おそらくそれらの五穀と同じ先祖から出た同族であろうと想像される。
 それが、自然の環境の影響や、偶然の変移や、その後の培養の結果で、現在のような分化を来たしたものであろう。
 これらの雑草に、十分の肥料を与えて、だんだんに培養して行ったら、永い年月の間には、それらの子孫の内から、あるいは現在の五穀にまさる良いものが生まれるという可能性がありはしないか。
 人間の種族についてもあるいは同じことが言われはしないか。(大正十三年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 第一流の新聞あるいは雑誌に連載されていた続きものが、いつのまにか出なくなる。
 完結したのだか、しなかったのだか、はっきりした記憶もなしに忘れてしまう。
 しばらく経てから、偶然の機会に、それの続きが、第二流か三流の新聞雑誌に連載されていることを発見する。ちょっと、久しぶりで旧知にめぐり会ったような気がする。
 なつかしくもあれば、またなんとなくさびしくもある。(大正十三年十二月、渋柿)[#改ページ]

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 古典的物理学の自然観はすべての現象を広義における物質とその運動との二つの観念によって表現するものである。
 しかし、物質をはなれて運動はなく、運動を離れて物質は存在しないのである。
 自分の近ごろ学んだ芭蕉(ばしょう)のいわゆる「不易流行」の説には、おのずからこれに相通ずるものがある。(昭和二年五月、渋柿)[#改ページ]

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 俳諧(はいかい)で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。
 数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。
 虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。
 二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
 これは単なる言葉の上のアナロジーではあるが、連句はやはり異なる個性のおのおののXY、すなわちX1Y1X2Y2X3Y3……によって組み立てられた多次元の世界であるとも言われる。
 それは、三次元の世界に住するわれらの思惟(しい)を超越した複雑な世界である。
「独吟」というものの成効(せいこう)し難いゆえんはこれで理解されるように思う。
 また「連句」の妙趣がわれわれの「言葉」で現わされ難いゆえんもここにある。(昭和二年五月、渋柿)[#改ページ]

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 ラジオの放送のおかげで、始めて安来節(やすぎぶし)や八木節(やぎぶし)などというものを聞く機会を得た。
 にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。
 自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯(ひ)を聯想(れんそう)する。
 しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。
 謡(うた)う人の姿を見ないで、拡声器の中から響く声だけを聞く事によって、そういう感じがかえって切実になるようである。
 われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを抛棄(ほうき)して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。(昭和二年七月、渋柿)[#改ページ]

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「聊斎志異(りょうさいしい)」の中には、到るところに狐の化けたと称する女性が現われて来る。しかし、多くの場合に、それはみずから狐であると告白するだけで、ついに狐の姿を現わさずにすむのが多い。
 ただその行為のどこかに超自然的な点があっても、それは智恵のたけた美女に打ち込んでいる愚かな善良な男の目を通して、そう見えたのだ、と解釈してしまえば、おのずから理解される場合がはなはだ多い。
 それにもかかわらず、この書に現われたシナ民族には、立派にいわゆる「狐」なる超自然的なものが存在していて、おそらく今もなお存在しているにちがいない。
 これはある意味でうらやむべき事でなければならない。
 少なくも、そうでなかったとしたら、この書物の中の美しいものは大半消えてしまうのである。(昭和二年九月、渋柿)[#改ページ]

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 糸瓜(へちま)をつくってみた。
 延びる盛りには一日に一尺ぐらいは延びる。
 ひげのようなつるを出してつかまり所を捜している。
 つるが何かに触れるとすぐに曲がり始め、五分とたたないうちに百八十度ぐらい回転する。
 確かに捲きついたと思うと、あとから全体が螺旋形(らせんけい)に縮れて、適当な弾性をもって緊張するのである。
 一本のひげがまた小さな糸瓜の胴中にからみついた。
 大砲の砲身を針金で捲くあの方法の力学を考えながら、どうなるかと思って毎日見ていた。
 いつのまにかつるが負けてはち切れてしまったが、つるのからんだ痕跡だけは、いつまでもちゃんと消えずに残っている。
 棚の上にひっかかって、曲玉(まがたま)のように曲がったのをおろしてぶら下げてやったら、だんだん延びてまっすぐになって来た。
 しかしほかのに比べるとやっぱりいつまでも少し曲がっている。
  ある宵(よい)の即景
名月や糸瓜の腹の片光り(昭和二年十一月、渋柿)

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 子猫がふざけているときに、子供や妻などが、そいつの口さきに指をもって行くと、きっと噛(か)みつく、ひっかく。自分が指を持って行くと舌で嘗(な)め回す。すぐ入れちがいに他の者が指をやると、やはり噛みつく。
 どうも、親しみの深いものには噛みついて、親しみの薄い相手には舐(な)めるだけにしておくらしい。(昭和三年一月、渋柿)[#改ページ]

三毛の墓


三毛(みけ)のお墓に花が散る
こんこんこごめの花が散る
小窓に鳥影小鳥影
「小鳥の夢でも見ているか」

三毛のお墓に雪がふる
こんこん小窓に雪がふる
炬燵蒲団(こたつぶとん)の紅(くれない)も
「三毛がいないでさびしいな」(昭和三年二月、渋柿)

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 S. H. Wainwright という学者が、和歌や俳句の美を紹介した論文の中に引用されている俳句の英訳を、俳句の事を何も知らない日本の英学者のつもりになって、もう一遍日本語にしかもなるべく英語に忠実に飜訳してみると、こんな事になる。
「いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川(もがみがわ)に」
「大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島(さどがしま)へ横切って延び拡がる」
 このごろ、よんどころない必要から、リグヴェーダの中の一章句と称するもののドイツ訳を、ちょうどこんな調子で邦語に飜訳しなければならなかった。
 そうして実ははなはだ心もとない思いをしていた。
 今、右の俳句の英訳の再飜訳という一つの「実験」をやった結果を見て、滑稽(こっけい)を感じると同時に、いくらか肩の軽くなるのを覚えた。(昭和三年三月、渋柿)[#改ページ]

   最上川象潟(きさかた)以後


 (はがき)今日(きょう)越後(えちご)の新津(にいつ)を立ち、阿賀野川(あがのがわ)の渓谷を上りて会津(あいづ)を経、猪苗代(いなわしろ)湖畔(こはん)の霜枯れを圧する磐梯山(ばんだいさん)のすさまじき雪の姿を仰ぎつつ郡山(こおりやま)へ。
 それより奥羽線(おううせん)に乗り替え上野に向かう。
 先刻西那須野(にしなすの)を過ぎて昨年の塩原(しおばら)行きを想い出すままにこのはがきをしたため候(そうろう)。
 まことに、旅は大正昭和の今日、汽車自動車の便あればあるままに憂(う)くつらくさびしく、五十一歳の懐子(ふところご)には、まことによい浮世の手習いかと思えばまたおかしくもある。
 さるにても、山川の美しさは、春や秋のは言わばデパートメントの売り出しの陳列棚にもたとえつべく、今や晩冬の雪ようやく解けて、黄紫(おうし)赤褐(せきかつ)にいぶしをかけし天然の肌の美しさは、かえって王宮のゴブランにまさる。
 枯れ芝の中に花さく蕗(ふき)の薹(とう)を見いでて、何となしに物の哀れを感じ侍(はべ)る。
自動車のほこり浴びても蕗の薹(昭和三年四月、渋柿)[#改ページ]

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 公園劇場で「サーカス」という芝居を見た。
 曲馬の小屋の木戸口の光景を見せる場面がある。
 木戸口の横に、電気人形(アウトマーテン)に扮した役者が立っていて、人形の身振りをするのが真に迫るので、観客の喝采(かっさい)を博していた。
 くるりと回れ右をして、シルクハットを脱いで、またかぶって、左を向いて、眼玉を左右に動かしておいて、さて口をぱくぱくと動かし、それからまたくるりと右へ回って同じ挙動を繰り返すのである。
 生きた人間の運動と器械人形の運動との相違を、かなり本質的につかんでいるのは、さすがに役者である。
 たとえば手の運動につれて、帽子がある位置に来て、その重心が支点の直上に来るころ、不安定平衡の位置を通るときに、ぐらぐらと動揺したりする、そういう細かいところの急所をちゃんと心得ている。
 もちろんこの役者は物理学者ではないし、自働人形の器械構造も知らないであろうが、しかし彼の観察の眼は科学者の眼でなければならない。
 人形の運動はすべて分析的である。総合的ではない。
 たいていの人間は一種のアウトマーテンである。
 あらゆる尊敬すべききまじめなひからびた職業者はそうである。
 そうでないものは、英雄と超人と、そうして浮気な道楽者の太平の逸民とである。
 俳諧の道は、われわれをアウトマーテンの境界から救い出す一つの、少なくも一つの道でなければならない。(昭和三年五月、渋柿)[#改ページ]

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 梨(なし)の葉に黄色い斑(ふ)ができて、毛のようなものが簇生(そうせい)する。
 自分は子供の時から、あれを見るとぞっと寒気がして、そして自分の頬からこめかみへかけて、同じような毛が生えているような気がして、思わず頬をこすらないではいられない。
 このごろ庭の楓樹(かえで)の幹に妙な寄生物がたくさん発生した。
 動物だか植物だかわからない。
 蕈(きのこ)のような笠(かさ)の下に、まっ白い絹糸のようなものの幕をたれて、小さなテントの恰好をしている。
 打っちゃっておけば、樹幹はだんだんにこのために腐蝕されそうである。
 これを発見した日の晩に、ふと思い出すと同時に、これと同じものが、自分の腕のそこやかしこにできていそうな気がして、そしてそれが実際できているありさまをかなりリアルに想像して、寝つかれなくて困った。
 人の悪事を聞いたり読んだりして、それが自分のした事であるような幻覚を起こして、恐ろしくなるのと似た作用であるかもしれない。
 そして、これは、われわれにとって、きわめてだいじな必要な感応作用であるかもしれない。(昭和三年七月、渋柿)[#改ページ]

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 始めて両国(りょうごく)の川開きというものを見た。
 河岸(かし)に急造した桟敷(さじき)の一隅(いちぐう)に席を求め、まずい弁当を食い、気の抜けたサイダーを呑(の)み、そうしてガソリン臭い川風に吹かれながら、日の暮れるのを待った。
 全く何もしないで、何も考えないで、一時間余りもポカンとして、花火のはじまるのを待っているあほうの自分を見いだすことができたのは愉快であった。
 附近ではビールと枝豆がしきりに繁昌(はんじょう)していた。
 日が暮れて、花火がはじまった。
 打ち上げ花火はたしかに芸術である。
 しかし、仕掛け花火というものは、なんというつまらないものであろう。
 特に往生ぎわの悪さ、みにくさはどうであろう。
「ざまあみろ。」
 江戸ッ子でない自分でもこう言いたくなる。
 一つ驚いた事を発見した。
 それはマクネイル・ホイッスラーという西洋人が、廣重(ひろしげ)よりも、いかなる日本人よりも、よりよく隅田川(すみだがわ)の夏の夜の夢を知っていたということである。(昭和三年九月、渋柿)[#改ページ]

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 芸術は模倣であるというプラトーンの説がすたれてから、芸術の定義が戸惑いをした。
 ある学者の説によると、芸術的制作は作者の熱望するものを表現するだけでなく、それを実行することだそうである。
 この説によって、試みに俳句を取り扱ってみると、どういうことになるであろうか。
 恋の句を作るのは恋をすることであり、野糞(のぐそ)の句を作るのは野糞をたれる事である。
 叙景の句はどういう事になるか。
 それは十七字の中に自分の欲する景色を再現するだけではいけなくて、その景色の中へ自分が飛び込んで、その中でダンスを踊らなくては、この定義に添わないことになる。
 これも一説である。
 少なくも古来の名句と、浅薄な写生句などとの間に存する一の重要な差別の一面を暗示するもののようである。
客観のコーヒー主観の新酒哉(かな)(昭和三年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 甲が空間に一線を劃する。
 乙がそれに続けて少し短い一線を画く。
 二つの線は互いにある角度を保っているので、これで一つの面が定まる。
 次に、丙がまた乙の線の末端から、一本の長い線を引く。
 これは、乙の線とある角度をしているので、乙丙の二線がまた一つの面を定める。
 しかし、この乙丙の面は、甲乙の面とは同平面ではなくて、ある角度をしている、すなわち面が旋転したのである。
 次に、丁がまた丙の線の続きを引く。
 アンド・ソー・オン。
 長、短、長短、合計三十六本の線が春夏秋冬神祇(じんぎ)釈教(しゃっきょう)恋(こい)無常(むじょう)を座標とする多次元空間に、一つの曲折線を描き出す。
 これが連句の幾何学的表示である。
 あらゆる連句の規約や、去嫌(さりきらい)は、結局この曲線の形を美しくするために必要なる幾何学的条件であると思われる。(昭和四年一月、渋柿)[#改ページ]

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 石器時代の末期に、銅の使用が始まったころには、この新しい金属材料で、いろいろの石器の形を、そっくりそのままに模造していたらしい。
 新しい素材に、より多く適切な形式を発見するということは、存外容易なことではないのである。
 また、これとは反対に、古い形式に新しい素材を取り入れて、その形式の長所を、より多く発揮させることもなかなかむずかしいものである。
 詩の内容素材と形式との関係についても、同様なことが言われる。(昭和四年三月、渋柿)[#改ページ]

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 二年ばかり西洋にいて、帰りにアメリカを通って、大きな建築などに見馴れて、日本へ帰った時に、まず横浜の停車場の小さいのに驚き、汽車の小さいのに驚き、銀座通りの家屋の低く粗末なのに驚いた。
 こんなはずではなかったという気がした。
 これはだれもよくいう事である。
 ヴァイオリンをやっていたのが、セロを初めるようになって、ふた月三月ヴァイオリンには触れないで、毎日セロばかりやっている。
 そして、久しぶりでヴァイオリンを持ってみると、第一その目方の軽いのに驚く。
 まるで団扇(うちわ)でも持つようにしか感ぜられない。
 楽器が二、三割も小さく縮まったように思われ、かん所を押える左手の指と指との間が、まるでくっついてしまうような気がする。
 そういう異様な感じは、いつとなく消えてしまって、ヴァイオリンはヴァイオリン、セロはセロとおのおのの正当な大きさの概念が確実に認識されて来るのである。
 俳句をやる人は、時には短歌や長詩も試み、歌人詩人は俳句もやってみる必要がありはしないか。(昭和四年五月、渋柿)[#改ページ]

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 一日忙しく東京じゅうを駆け回って夜ふけて帰って来る。
 寝静まった細長い小路を通って、右へ曲がって、わが家の板塀(いたべい)にたどりつき、闇夜の空に朧(おぼろ)な多角形を劃するわが家の屋根を見上げる時に、ふと妙な事を考えることがある。
 この広い日本の、この広い東京の、この片すみの、きまった位置に、自分の家という、ちゃんときまった住み家があり、そこには、自分と特別な関係にある人々が住んでいて、そこへ、今自分は、さも当然のことらしく帰って来るのである。
 しかし、これはなんという偶然なことであろう。
 この家、この家族が、はたしていつまでここに在(あ)るのだろう。
 ある日、一日留守にして、夜おそく帰って見ると、もうそこには自分の家と家族はなくなっていて、全く見知らぬ家に、見知らぬ人が、何十年も前からいるような様子で住んでいる、というような現象は起こり得ないものだろうか、起こってもちっとも不思議はないような気がする。
 そんな事を考えながら、門をくぐって内へはいると、もうわが家の存在の必然性に関する疑いは消滅するのである。(昭和四年七月、渋柿)[#改ページ]

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 あたりが静かになると妙な音が聞こえる。
 非常に調子の高い、ニイニイ蝉(ぜみ)の声のような連続的な音が一つ、それから、油蝉(あぶらぜみ)の声のような断続する音と、もう一つ、チッチッと一秒に二回ぐらいずつ繰り返される鋭い音と、この三つの音が重なり合って絶え間なく聞こえる。
 頸を左右にねじ向けても同じように聞こえ、耳をふさいでも同じように聞こえる。
 これは「耳の中の声」である。
 平生は、この声に対して無感覚になっているが、どうかして、これが聞こえだすと、聞くまいと思うほど、かえって高く聞こえて来る。
 この声は、何を私に物語っているのか、考えてもそれは永久にわかりそうもない。
 しかし、この声は私を不幸にする。
 もし、幾日も続けてこの声を聞いていたら、私はおしまいには気が狂ってしまって、自分で自分の両耳をえぐり取ってしまいたくなるかもしれない。
 しあわせなことには、わずらわしい生活の日課が、この悲運から私を救い出してくれる。
 同じようなことが私の「心の中の声」についても言われるようである。(昭和四年九月、渋柿)[#改ページ]

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 大震災の二日目に、火災がこの界隈(かいわい)までも及んで来る恐れがあるというので、ともかくも立ち退きの準備をしようとした。
 その時に、二匹の飼い猫を、だれがいかにして連れて行くかが問題となった。
 このごろ、ウェルズの「空中戦争」を読んだら、陸地と縁の切れたナイアガラのゴートアイランドに、ただ一人生き残った男が、敵軍の飛行機の破損したのを繕(つくろ)って、それで島を遁(に)げ出す、その時に、島に迷って饑(う)えていた一匹の猫を哀れがっていっしょに連れて行く記事がある。
 その後に、また同じ著者の「放たれた世界」を読んでいると、「原子爆弾」と称する恐るべき利器によって、オランダの海をささえる堤防が破壊され、国じゅう一面が海になる、その時、幸運にも一艘(そう)の船に乗り込んで命を助かる男がいて、それがやはり居合わせた一匹の迷い猫を連れて行く、という一くだりが、ほんの些細(ささい)な挿話として点ぜられている。
 この二つの挿話から、私は猫というものに対するこの著者の感情のすべてと、同時にまた、自然と人間に対するこの著者の情緒のすべてを完全に知り尽くすことができるような気がした。(昭和四年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 上野松坂屋(まつざかや)七階食堂の食卓に空席を捜しあてて腰を下ろした。
 向こう側に五、六歳の女の子、その右側には三十過ぎた母親、左側には六十近いおばあさんが陣取っている。
 純下町式の三つのジェネレーションを代表したような連中である。
 老人は「幕の内」、母子(おやこ)はカツレツである。
 母親が給仕にソースを取ってくれと命ずると、おばあさんが意外にも敏捷(びんしょう)に腕を延ばして、食卓のまん中にあったびんを取っておかみさんの皿の前へ立てた。
「ヤーイ、オバアちゃんのほうがよく知ってら。」
 私が刹那(せつな)に感じたと全く同じ事を、子供が元気よく言い放って、ちょこなんと澄ましている。
 母親はかえってうれしそうに
「ほんとう、ねええ。」
 そんな相槌(あいづち)を打って皿の中の整理に忙しい。
 おばあさんの顔と母親の顔とがよく似ているところから見ると、これはおかみさんが子供をつれての買い物のついでに、里の母親を誘って食堂をふれまうという場面らしい。
「お汁粉(しるこ)取りましょうか、お雑煮(ぞうに)にしましょうか。」
「もうたくさんです。」
「でも、なんか……。」
 こんな対話が行なわれる。
 こんな平凡な光景でも、時として私の心に張りつめた堅い厚い氷の上に、一掬(きく)の温湯(ゆ)を注ぐような効果があるように思われる。
 それほどに一般科学者の生活というものが、人の心をひからびさせるものなのか、それともこれはただ自分だけの現象であるのか。
 こんなことを考えながら、あの快く広い窓のガラス越しに、うららかな好晴の日光を浴びた上野の森をながめたのであった。(昭和五年一月、渋柿)[#改ページ]

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「三毛(みけ)」に交際を求めて来る男猫(おとこねこ)が数匹ある中に、額に白斑(しろぶち)のある黒猫で、からだの小さいくせに恐ろしく慓悍(ひょうかん)なのがいる。
 これが、「三毛」の子で性質温良なる雄の「ボウヤ」を、女敵(めがたき)のようにつけねらって迫害し、すでに二度も大けがをさせた。
 なんとなく斧定九郎(おのさだくろう)という感じのする猫である。
 夜の路次(ろじ)などで、この猫に出逢うと一種の凄味(すごみ)をさえ感じさせられる。
 これと反対に、すこぶる好々爺(こうこうや)な白猫がやって来る。
 大きな顔に不均整な黄斑が少しあるのが、なんとなく滑稽味(こっけいみ)を帯びて見える。
「ボウヤ」は、この「オジサン」が来ると、喜んでいっしょについてあるくのである。
 今年の立春の宵に、外から帰って来る途上、宅(うち)から二、三丁のある家の軒にうずくまっている大きな白猫がある。
 よく見ると、それはまさしくわが親愛なる「オジサン」である。
 こっちの顔を見ると、少し口を開(あ)いて、声を出さずに鳴いて見せた。
「ヤア、……やっこさん、ここらにいるんだね。」
 こっちでも声を出さずにそう言ってやった。
 そうして、ただなんとなくおかしいような、おもしろいような気持ちになって、ほど近いわが家へと急いだのであった。
淡雪や通ひ路細き猫の恋(昭和五年三月、渋柿)

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 桜の静かに散る夕、うちの二人の女の子が二重唱をうたっている。
 名高いイタリアの民謡である。遠い国にさすらいのイタリア人が、この歌を聞くときっと涙を流すという。
 今、わが家の子供らの歌うこの民謡を聞いていると、ふた昔前のイタリアの旅を思い出し、そうしてやはり何かしら淡い客愁のようなものを誘われるのである。
 ナポリの港町の夜景が心に浮かぶ。
朧夜を流すギターやサンタ・ルチア(昭和五年五月、渋柿)[#改ページ]

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 うすら寒い日の午後の小半日を、邦楽座(ほうがくざ)の二階の、人気(ひとけ)の少ない客席に腰かけて、遠い異国のはなやかな歓楽の世界の幻を見た。
 そうして、つめたいから風に吹かれて、ふるえながらわが家に帰った。
 食事をして風呂(ふろ)にはいって、肩まで湯の中に浸って、そうして湯にしめした手ぬぐいを顔に押し当てた瞬間に、つぶった眼の前に忽然(こつぜん)と昼間見た活動女優の大写しの顔が現われた、と思うとふっと消えた。
アメリカは人皆踊る牡丹(ぼたん)かな(昭和五年五月、渋柿)[#改ページ]

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 いろいろな国語の初歩の読本には、その国々特有の色と香がきわめて濃厚に出ている。
 ナショナルリーダーを教わった時に、幼い頭に描かれた異国の風物は、英米のそれであった。
 ブハイムを手にした時には、また別の国の自然と、人と、その歴史が、新しい視野を展開した。
 ロシアの読本をのぞくと、たちまちにして自分がロシアの子供に生まれ変わり、ラテンの初歩をかじると、二千年前のローマ市民の子供になり、蝋石盤(ろうせきばん)をかかえて学校へ通うようになる。
 おとなの読み物では、決して、これほど農厚な国々に特有な雰囲気は感ぜられないような気がする。
 飜訳というものもある程度までは可能である。
 しかし、初歩の読本の与える不思議な雰囲気だけは、全然飜訳のできないものである。(昭和五年七月、渋柿)[#改ページ]

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 純白な卓布の上に、規則正しく並べられた銀器のいろいろ、切り子ガラスの花瓶に投げ込まれた紅白のカーネーション、皿の上のトマトの紅とサラドの緑、頭上に回転する扇風機の羽ばたき、高い窓を飾る涼しげなカーテン。
 そこへ、美しいウエトレスに導かれて、二人の老人がはいって来る。
 それは芭蕉翁(ばしょうおう)と歌麿(うたまろ)とである。
 芭蕉は定食でいいという、歌麿はア・ラ・カルテを主張する。
 前者は氷水、後者はクラレットを飲む。
 前者は少なく、後者は多く食う。
 前者はうれしそうに、あたりをながめて多くは無言であるが、後者はよく談じ、よく論じながら、隣の卓の西洋婦人に、鋭い観察の眼を投げる。
 隣室でジャズが始まると、歌麿の顔が急に活き活きして来る、葡萄酒のせいもあるであろう。
 芭蕉は、相変わらずニコニコしながら、一片の角砂糖をコーヒーの中に落として、じっと見つめている。
 小さな泡(あわ)がまん中へかたまって四方へ開いて消える。
 それが消えると同時に、芭蕉も、歌麿も消えてしまって、自分はただ一人、食堂のすみに取り残された自分を見いだす。(昭和五年九月、渋柿)[#改ページ]

   震生湖より


 (はがき)昨日(きのう)は、朝、急に思い立ち、秦野(はたの)の南方に、関東地震の際の山崩れのために生じた池、「震生湖(しんせいこ)」というのを見物および撮影に行った。……
山裂けて成しける池や水すまし
穂芒(ほすすき)や地震(ない)に裂けたる山の腹(昭和五年十月、渋柿)[#改ページ]

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 新宿、武蔵野館(むさしのかん)で、「トルクシブ」というソビエト映画を見た。
 中央アジアの、人煙稀薄な曠野(こうや)の果てに、剣のような嶺々が、万古の雪をいただいて連なっている。
 その荒漠(こうばく)たる虚無の中へ、ただ一筋の鉄道が、あたかも文明の触手とでもいったように、徐々に、しかし確実に延びて行くのである。
 この映画の中に、おびただしい綿羊の群れを見せたシーンがある。
 あんな広い野を歩くのにも、羊はほとんど身動きのできないほどに密集して歩いて行くのが妙である。
 まるで白泡(しらあわ)を立てた激流を見るようである。
 新宿の通りへ出て見ると、おりから三越の新築開店の翌日であったので、あの狭い人道は非常な混雑で、ちょうどさっき映画で見た羊の群れと同じようである。
 してみると、人間という動物にも、やはりどこか綿羊と共通な性質があるものと見える。
 そう考えると、自分などは、まず狸(たぬき)か狢(むじな)の類かと思って、ちょっとさびしい心持ちがした。
 そうして、再びかの荒漠たる中央アジアの砂漠の幻影が、この濃まやかな人波の上に、蜃気楼(しんきろう)のように浮かみ上がって来るのであった。(昭和五年十一月、渋柿)[#改ページ]

   女の顔


 夏目先生が洋行から帰ったときに、あちらの画廊の有名な絵の写真を見せられた。
 そうして、この中で二、三枚好きなのを取れ、と言われた。
 その中に、ギドー・レニの「マグダレナのマリア」があった。
 それからまたサー・ジョシュア・レーノルズの童女や天使などがあった。
 先生の好きな美女の顔のタイプ、といったようなものが、おぼろげに感ぜられるような気がしたのである。
 そのマグダレナのマリアをもらって、神代杉(じんだいすぎ)の安額縁に収めて、下宿の□間(びかん)に掲げてあったら、美人の写真なんかかけてけしからん、と言った友人もあった。
 千駄木(せんだぎ)時代に、よくターナーの水彩など見せられたころ、ロゼチの描く腺病質(せんびょうしつ)の美女の絵も示された記憶がある。
 ああいうタイプもきらいではなかったように思う。
 それからまたグリューズの「破瓶(われがめ)」の娘の顔も好きらしかった。
 ヴォラプチュアスだと評しておられた。
 先生の「虞美人草(ぐびじんそう)」の中に出て来るヴォラプチュアスな顔のモデルがすなわちこれであるかと思われる。
 いつか、上野の音楽会へ、先生と二人で出かけた時に、われわれのすぐ前の席に、二十三、四の婦人がいた。
 きわめて地味な服装で、頭髪も油気のない、なんの技巧もない束髪(そくはつ)であった。
 色も少し浅黒いくらいで、おまけに眼鏡(めがね)をかけていた。
 しかし後ろから斜めに見た横顔が実に美しいと思った。
 インテリジェントで、しかも優雅で温良な人柄が、全身から放散しているような気がした。
 音楽会が果てて帰路に、先生にその婦人のことを話すと、先生も注意して見ていたとみえて、あれはいい、君あれをぜひ細君にもらえ、と言われた。
 もちろんどこのだれだかわかるはずもないのである。
 その後しばらくたってのはがきに、このあいだの人にどこかで会ったという報告をよこされた。全集にある「水底の感」という変わった詩はそのころのものであったような気がする。
「趣味の遺伝」もなんだかこれに聯関したところがあるような気がするが、これも覚えちがいかもしれない。
 それはとにかく、この問題の婦人の顔がどこかレニのマリアにも、レーノルズの天使や童女にも、ロゼチの細君や妹にも少しずつ似ていたような気がするのである。
 しかし、一方ではまた、先生が好きであったと称せらるる某女史の顔は、これらとは全くタイプのちがった純日本式の顔であった。
 また「鰹節屋(かつぶしや)のおかみさん」というのも、下町式のタイプだったそうである。
 先生はある時、西洋のある作者のかいたものの話をして「往来で会う女の七十プロセントに恋するというやつがいるぜ」と言って笑われた。
 しかし、今日になって考えてみると、先生自身もやはりその男の中に、一つのプロトタイプを認められたのではなかったかという気もするのである。(昭和六年一月、渋柿)

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   曙町より(一)


 先夜はごちそうありがとう。
 あの時、床の間に小手鞠(こでまり)の花が活かっていたが、今日ある知人の細君が来て、おみやげに同じ小でまりとカーネーションをもらった。
 そうして、新築地劇団の「レ・ミゼラブル」の切符をすすめられ、ともかくも預かったものの、あまり気がすすまないので、このほうは失礼して邦楽座の映画を見に行った。
 グレタ・ガルボ主演の「接吻(せっぷん)」というのを見たが、編輯(へんしゅう)のうまいと思うところが数箇所あった。
 たとえば、惨劇の始まろうとする始めだけ見せ、ドアーの外へカメラと観客を追い出した後に、締まった扉だけを暫時(ざんじ)見せる。
 次には電話器だけが大写しに出る。
 それが、どうしたのかと思うほど長く写し出される。
 これはヒロインの□躇(ちゅうちょ)の心理を表わすものであろう。
 実際に扉の中で起こったはずの惨劇の結果――横たわる死骸――は、後巻で証拠物件を並べた陳列棚の中の現場写真で、ほんのちらと見せるだけである。
 もっとも、こんなふうな簡単に説明できるような細工にはほんとうのうまみはないので、この映画の監督のジャック・フェイダーの芸術は、むしろ、こんなふうには到底説明する事のできないような微細なところにあるようである。
 クローズアップのガルボの顔のいろいろの表情を交互に映出するしかたなどでもかなりうまい。
 言わばそこにほんとうの「表情の俳諧」があるように思う。
 一度御覧いかがや。ついでながらこのガルボという女はどこか小でまりの花の趣もあると思うがこの点もいかがや。
 新劇「レ・ミゼラブル」は、見ないけれども、おそらくたった一口で言えるようなスローガンを頑強にべたべたと打ち出したものかと思う。
 少なくとも、これにはおそらくどこにも「俳諧」は見いだす事ができないだろう、と想像される。(昭和六年二月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(二)


 先日は失礼。
 鉄筋コンクリートの三階から、復興の東京を見下ろしての連句三昧(れんくざんまい)は、変わった経験であった。
 ソクラテスが、籠(かご)にはいって吊り下がりながら、天界の事を考えた話を思い出した。
 日が暮れた窓から、下町の照明をながめていたら、高架電車の灯(ひ)が町の灯の間を縫うて飛ぶのが、妙な幻想を起こさせた。
 自分がただ一人さびしい星の世界のまん中にでもいるような気がした。
 今朝も庭の椿(つばき)が一輪落ちていた。
 調べてみると、一度うつ向きに落ちたのが反転して仰向きになったことが花粉の痕跡からわかる。
 測定をして手帳に書きつけた。
 このあいだ、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわけを、だれか研究した人があるか、と聞いてみたが、たぶんないだろうということであった。
 花が樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。
 学問というものはどうも窮屈なものである。
 落ちた花の花粉が落ちない花の受胎に参与する事もありはしないか。
「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿哉」という先生の句が、実景であったか空想であったか、というような議論にいくぶん参考になる結果が、そのうちに得られるだろうと思っている。
 明日は金曜だからまた連句を進行させよう。(昭和六年五月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(三)


 君の、空中飛行、水中潜行の夢の話は、その中にむせっぽいほどに濃艶(のうえん)なる雰囲気を包有している。
 これに対する、僕のさびしいミゼラブルな夢の一つを御紹介する。
 それは「さまよえるユダヤ人」にもふさわしかるべき種類の夢である。
 大学構内、耐震家屋のそばを通っていると、枯れ樹の枝に妙な花が咲いていて散りかかる。
 見ると、その花弁の一つ一つが羽蟻のような虫である。
 そうして、それが人にふりかかると、それがみんな虱(しらみ)になって取り付くのである。
 そこへT工学士が来た。彼は今この虱のことについて学位論文を書いているというのである。
 そのうちにも、この「虱の花」はパッパッと飛んで来て、僕のからだに付くのである。
 あとで考えてみると、その二、三日前に地震研究所である人とこのT工学士についての話をしたことがある。
 またやはり二、三日前の新聞で、見合いの時に頭から虱が出たので縁談の破れた女の話を読んだことがあった。
 しかし枯れ木の花が虱に変わる、ということがどこから来たかなかなか思いつかれない。
 それはとにかく、この夢の雰囲気と、君の夢の雰囲気との対照がおもしろいと思うのでお知らせすることにする。(昭和六年七月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(四)


 二日の日曜の午後に築地(つきじ)の左翼劇場を見に行った。
 だいぶ暑い日であった。
 間違えて、労働者切符の売り場へ行ったら「職場(しょくば)」のかたですか、と聞かれたが、なんのことかわからないで、ぼんやりしながら、九十銭耳をそろえて並べたら、「どうかすみませんがあちらでお求めを願います」とたいへんに親切丁寧に教えてくれた。
 資本主義の帝劇(ていげき)や歌舞伎座(かぶきざ)のいばった切符嬢とはたいした相違でうれしかった。
 入場してまず眼についたのは、カーテンの下のほうに「松屋」という縫い取りの文字で、これが少し不思議に思われた。
 観客はたいてい若い人が多く、旧式ないわゆる小市民の家庭のお嬢さんらしい女学生も、下町ふうな江戸前のおとなしい娘さんたちもいるのが特に目についた。
 中年の、もっともらしいおばさんたちもぽつぽつ見えた。
 男の中には、学生も多いが、中にはどうも刑事かと思うようなのもいた。
 みんな平気で上着を脱いでいるのは、これもなんとなく愉快であった。
 いわゆるナッパ服を着て、頭を光らせ、もみ上げを剃(そ)り上げた、眼の鋭い若者が二人来て隣に腰かけた。
 それがニチャニチャと止(やす)みなしにチューインガムを噛んでいる。
 アメリカ式チューインガムを尊崇することと、ロシア式イデオロギーを噛んで喜ぶこととは、全く縁のないことでもないかと思われた。
 それから三、四列前の腰掛けに、中年のインテリ奥様とでも言われそうなのが二人、それはまた二人おそろいでキャラメルらしいもの――噛み方でわかる――を噛んでいるのが、ちょっとおもしろい対照をなしていた。
 イデオロギーに砂糖がはいっているのである。
 芝居(?)「恐山鉱山(おそれやまこうざん)」を少し見てから降参して出てしまった。
 恐ろしいものである。
 今度会った時に話しましょう。(昭和六年九月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(五)


 僕はこのごろ、ガラス枚を、鋼鉄の球で衝撃して、割れ目をこしらえて、その割れ方を調べている。
 はなはだばかげたことのようであるが、やってみるとなかなかおもしろいものである。
 ごく軽くたたいて、肉眼でやっと見えるくらいの疵(きず)をつけて、それを顕微鏡でのぞいて見ると、球の当たった点のまわりに、円形の割れ目が、ガラスの表面にできて、そこから内部へ末拡がりに、円錐形(えんすいけい)のひびが入っているが、そのひび破(わ)れに、無数の線条が現われ、実にきれいなものである。
 おもしろいことには、その円錐形のひびわれを、毎日のように顕徴鏡でのぞいて見ていると、それがだんだんに大きなものに思われて来て、今では、ちょっとした小山のような感じがする。
 そうしてその山の高さを測ったり、斜面の尾根や谿谷を数えたりしていると、それがますます大きなものに見えて来るのである。
 実際のこの山の高さは一分(ぶ)の三十分(ぶん)の一よりも小さなものに過ぎない。
 この調べが進めば、僕は、ひびを見ただけで、直径幾ミリの球が、いくらの速度で衝突したかを言いあてることができるであろうと思う。
 それを当てたらなんの役に立つかと聞かれると少し困るが、しかし、この話が、何か君の俳諧哲学の参考にならば幸いである。
 今まで、まだやっと二、三百枚のガラス板しかこわしていないが、少なくも二、三千枚ぐらいはこわしてみなければなるまいと思っている。
粟(あわ)一粒秋三界を蔵しけり(昭和六年十一月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(六)


 小宮(こみや)君は葡萄一株拾ったそうだが、僕は小鳥を一羽拾った。
 このあいだかなり寒かった朝、日の当たった縁側に一羽のカナリヤが来て、丸くふくれ上がって、縁の端の敷居につかまっていた。
 人を見ても逃げもせず、かえって向こうから近寄って来た。
 どこかにしまってあるはずの鳥籠を探しているうちに、見えなくなったと思ったら、納戸(なんど)の中へはいり込んでいた。
 籠に入れてから、さっそく粟を買って来て、それを餌函(えばこ)に入れてやろうとしていると、もう籠の中からそれを見つけてしきりに啼き立て、早くくれとでもいうように見えた。
 菜っ葉をやると、さもうまそうについばんでは、くちばしを止まり木にこすりつけた。
 日向(ひなた)につるしてやると朗らかに鳴きだしたが、声を聞いてみると立派なローラーである。
 猫の「ボウヤ」が十月に死んでから、妙にさびしくなった家が、これでまた急ににぎやかになったような気がして、それからは、毎朝新しい菜っ葉をやっては、玉をころがすような朗らかなワーブリングを聞くのが楽しみであった。
 ところが、今朝家人がえさを取り替える際に、ちょっとの不注意で、せっかくのこの楽しみを再び空に遁(にが)してしまった。
 惜しいというよりはかわいそうな気がした。
 夕方家へ帰って見ると、見馴れぬ子猫が一匹いる。
 死んだ「ボウヤ」にそっくりの白い猫である。

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