柿の種
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著者名:寺田寅彦 

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 蝶や鳥の雄が非常に美しい色彩をしているのは雌の視覚を喜ばせてその注意をひくためだというような説は事実に合わないものだということがいろいろの方面から説明されているようである。自分の素人(しろうと)考えではこの現象はあるいはむしろ次のように解釈さるべきものではないかと思う。
 周囲の環境と著しく違った色彩はその動物の敵となる動物の注意をひきやすく従ってそうした敵の襲撃を受けやすいわけである。そういう攻撃を受けた場合にその危険を免れるためには感覚と運動の異常な鋭敏さを必要とするであろう。それで最も目立つ色彩をしていながら無事に敵の襲撃を免れて生き遺ることのできるような優秀な個体のみが自然淘汰の篩(ふるい)にかけられて選(よ)り残され、そうしてその特徴をだんだんに発達させて来たものではないか。
 戦争好きで、戦争に強い民族なぞの発生にいくらかこれに似た選択過程が関係しているのではないかという気がする。(昭和十年十月十六日)[#改ページ]

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 先ごろ警視庁で東京市のギャング狩りを行なったときに検挙された「街の紳士」たちの中に、杯やコップを噛み砕いてくちびるから赤い血を出して相手を縮みあがらせるというのがいた。この新聞記事を読んだとき私は子供の時分に見た「ガラスを食う山男」の見世物のことを思い出した。
 高知の本町(ほんまち)に堀詰座(ほりづめざ)という劇場があった。そこの木戸口の内側に小さな蓆囲(むしろがこ)いの小屋をこしらえて、その中にわずかな木戸銭で入り込んだせいぜい十人かそこいらの見物のためにこの超人的演技を見せていたいわゆる山男というのはまだ三十にもならないくらいの小柄な赭(あか)ら顔(がお)の男であったが、白木綿の鉢巻でまっ黒に伸びた頭髪を箒(ほうき)のように縛り上げて、よれよれの縞(しま)の着物とたっつけ袴(ばかま)に草鞋(わらじ)がけといういでたちで、それにまっかな木綿の扱帯(しごき)のようなもので襷(たすき)がけをした、実に悲しくも滑稽(こっけい)にして颯爽(さっそう)たる風□(ふうぼう)は今でも記憶に新たである。
 なんでも蛇をかじって見せたり、うさぎの毛皮の一片を食いちぎって見せたりした。それからおしまいには大きなランプのホヤのこわれたのを取り出して、どんどんじゃんじゃんという物すごい囃子(はやし)に合わせてそれを見物の前に振り回して見せたあとで、そのホヤのガラスの一片を前歯で噛み折りそれをくちびるの間に含んで前につき出し両手を広げて目をむき出し物すごいみえをきった。かけらがくちびるからひっこんだと見ると急に四股(しこ)を踏むようなおおぎょうな身振りをしながらばりばりとそのガラスを噛み砕く音を立て始めた。赭ら顔がいっそう朱を注いだように赭くなって、むき出した眼玉が今にも飛び出すかと思われた。
 噛み砕く音がだんだんに弱く細かくなって行った。やがて噛み砕いたものを呑み下したと思うと、大きな口をかっと開いて見物席の右から左へと顔をふり向けながら、口中にもはや何にも無いという証拠を見せるのであった。その時に山男の口中がほんとうに血のようにまっかであったように記憶している。
 この幼時に見た珍しい見世物の記憶が、それから三十余年後に自分が胃潰瘍(いかいよう)にかかって床についていたときに、ふいと忘却の闇から浮かび上がって来た。
 あの哀れな山男は、おそらくあれから一、二年とはたたない間に消化器の潰瘍にかかってみじめな最期を遂げたに違いない。言わば、生きるためにガラスを食って自殺を遂げたようなものである。
 街の紳士の場合もいくらかこれと似たところがあるかもしれない。(昭和十年十月十六日)



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