柿の種
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著者名:寺田寅彦 

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 左の足が痛むのでびっこをひいて歩いていたら、その効果で今度は腹と腰とのつがい目の所の筋肉が痛んで立ったりすわったりするたびにそれが飛び上がるほど痛むのであった。立っているか寝ていればなんの事はない。しかしちょっとでも咳(せき)をするとそれがひどく痛み所にひびく。
 いろいろな動作でちっともそこにひびかぬ動作とひびく動作がある。それでこの特別な筋が平生いかなる動作にいかなる程度に動員されているかということが実によくわかった。健康な場合には到底わからないことである。物の効用は、それが失われてみて始めてよくわかるという一例である。
 すわったり腰かけたりして、物を書こうとするとやはりこの筋肉が引きつって痛む。
 物を書くのには頭と眼と手だけでいいと思っていたのは誤りであった。書くという仕事にはやっぱり「腹」や「腰」も入用なのである。意外な「発見」であった。
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 からだの自由に動かせない病気で十日も寝ているとむやみにかんしゃくが起こっておもしろい。今朝は呼び鈴のコードを手近に置くべきのをだれかが遠くに押しのけてあったので大声でオーイオーイと呼んだが階下にいる五人のだれにも聞こえない。臥床(ふしど)の脇に置いてあるステッキでやけに障子や敷居をたたいて呼んでもまだ聞こえない。障子と敷居をいいかげん疵(きず)だらけにしたころに、細君が上がって来た。
「お隣に大工さんが来て仕事しているのだと思った」そうである。
 子供の時分に親戚(しんせき)や知人の家に中気(ちゅうき)でからだの不随な老人がいて、よくかんしゃくをおこしているのを見た。家族はもうすっかり馴れっ子になってほどよくあしらっているだけである。それがまたいっそう老人の不満をつのらせるらしかった。
 今度の病気で昔の中風老人たちを想い出して、この天下に普遍な家庭小悲喜劇の心理分析を試みる機会を得た。
 亡友K君が眼病で手術をして一時失明したことがあった。かんしゃくが起こりはしないかと聞いたら、それどころか反対に一生懸命細君にもその他の家族にも従順にしてきげんをそこねないようにしているという。どうしてかと聞くと、もしや今家族に見放されたらたいへんだという気がして、自然にそうなるのだということであった。
 自分の場合のかんしゃくは結局、病気がたいした事でないという潜在的な自覚から、いくらやんちゃを言っても家族が大丈夫遁(に)げ出さないという自負心を獲得しているせいかもしれない。
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 明治時代の青年における「星」「すみれ」の流行と近代ボーイにおけるマルキシズムのそれとはその原動力となる情熱の感傷的な点ではほとんど大差ないもののような気がする。ただ理論で裏づけられたヒステリック感傷は治療がいっそうめんどうなようである。
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 イタリアとエチオピアとの葛藤が永びいて、ほとんど毎日のようにムッソリニの顔が新聞に出る。毎日見ているとその顔がだんだんにナポレオンの顔に似てくる。実際どこかよく似ているのである。
 伊軍の飛行機を輸送船に積み込むというので翼を取りはずした機体を埠頭(ふとう)に並べてある光景の写真が新聞に出ていた。その機体の形が蝗(いなご)そっくりである。見れば見るほどよく似てくる。
 黙示録のいなごが現世に現われたのである。
 形の似たものにはやはり性能にもどこか似たところがあるようである。
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 エチオピア事件でほとんど毎日毎夕の新聞に伊国首相や、エ国皇帝、それから国際聯盟の英仏代表イーデン、ラバールの肖像が出る。
 日本の内閣に何か重大な事件でもあると岡田首相や陸相海相の顔が毎日のように新聞の紙面の相当な面積を占めて出現する。
 ちょっとわれわれには了解のできにくい現象である。新聞の読者というものは恐ろしく健忘性なものであると仮定するか、あるいはまた新聞購読者の大多数は、ほんの気まぐれに、十日に一度二十日(はつか)に一度ぐらいその日の新聞を買って見るだけである、ということでも前提に置いて考えてみなければ全くわけのわからない「煩雑」であり「浪費」である。
 もっともこうしないと「その日その日主義」とも訳されるジャーナリズムの「気分」が出ないのかもしれない。
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 秋晴れの午後二階の病床で読書していたら、突然北側の中敷窓から何かが飛び込んで来て、何かにぶつかってぱたりと落ちる音がした。郵便物でも外から投げ込んだような音であったが、二階の窓に下から郵便をほうり込む人もないわけだから小鳥でも飛び込んだかしらと思ったが、からだの痛みで起き上がるのが困難だから確かめもせずにやがて忘れてしまっていた。しばらくしてから娘が二階へ上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い上げて持って来たのを見ると一羽の鶯(うぐいす)の死骸である。かわいい小さなからだを筒形に強直させて死んでいる。北窓から飛び込んで南側の庭へ抜けるつもりでガラス障子にくちばしを突き当てて脳震盪(のうしんとう)を起こして即死したのである。「まだ暖かいわ」と言いながら愛撫(あいぶ)していたがどうにもならなかった。
 鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。ガラス戸というものができてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かった。
 人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。失敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人である。
 三原山火口へ投身する人の大部分がそうである。またナポレオンもウィルヘルム第二世もそうであった。
 この「ガラス」の見えない人たちの独裁下に踊る国家はあぶなくて見ていられない。
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 隣家に犬がいる。戸外へは出さないらしいので姿は一度も見たことがない。夜中にほえている声から判断すると相当体躯(たいく)の大きな堂々たる犬らしい。ところが、この犬が時々不思議な鳴き方をする。人間が何か泣きごとでもいっているかと思うような声を出すかと思うと、首でも締めて殺されかかっているのかと思うような悲鳴を上げる。そうかと思うとかんしゃくが起こってくやしがってきゅうきゅういっているような奇妙な声を出す。だんだん気をつけてみるとそういう不思議な鳴き方をするのは、ほとんどきまって豆腐屋のラッパが遠くから聞こえてだんだん近よって来るときか、またはたぶん豆腐屋であろうかチリンチリンと鈴を鳴らしながら前を通るときであるらしい。どういうわけか知らないが、そのラッパや鈴の音を聞くと、堪えがたい恐怖か憤懣がこの犬の脳神経中枢をいらだたせるものと思われる。
 生理学のほうで「条件反射」という現象がある。この犬の場合はあるいはその一例かもわからない。まだ小さい時分に何かしら同じような音響のする場所でたびたびひどい目に遇った経験の記憶が、この動物の脳髄に焼き付けられたように印象されているのかもわからない。
 それともまた、この犬は何か耳の病気があって、ある一定の高さの音がとくに鋭く病的にその聴覚を刺戟するのかもしれない。これはただ犬の話であるが、われわれ人間でもよく考えてみるとこれとよく似た現象がいくらでもあるらしい。そこらの花盛りを見て心が浮き立ったり、秋の月を見て物を思わされたりするのもその一例であるが、これらは国民全体に共通な教育による「条件反射」のようなものである。しかしもっと特殊な例としては、芋虫を見るとからだがすくんでしまう人や、蜘蛛(くも)がはい出すと顔色を変えるようなのもある。中学時代の同窓で少し強い風の吹く日にはこわくて一歩も外へ出られないのがあったが、その男はまもなく病死してしまった。やはりどこか「弱い」ところがあったのかもしれない。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 友人の科学者で陶器を作るのを道楽にしている男がある。自分の邸内に窯(かま)を造って専門の職人を雇い込んで本式にやっている。御当人はもちろんであるが、その細君もまたおかあさんもそれぞれ熱心なアマチュア芸術家である。このあいだその友人が大きなふろしき包みをかかえて飛び込んで来た。新聞紙で包んだものを取り出すのを見ると、この家庭芸術家三人の作品のたぶん代表的なものであろう、分厚で長方形のシガレットケース――これは科学者の作、それから半月形の灰皿――これは美しい令夫人の作、それから手どくで白釉(はくゆう)に碧緑(へきりょく)の色を流した花瓶――これは母堂の作である。
 今病床の脇の小卓の上にこの三つの陶器がのせてあるのをつくづくながめていると、この三つの作品のそれぞれの個性がだんだんにはっきり眼についてくる。角箱には鼻っ張りの強い負けぎらいの気性とオリジナルで鋭いしかもデリケートな才能の動きが地味な褐色の釉薬の底から浮き出しているといったようなところがある。
 灰皿のほうは肉の薄味、線の丸さ、波形の縁(へり)のうねり、その他どう見ても優しいそうして濃まやかな感じの持ち主の手になったものとしか思われない。
 花瓶のほうをよく見ていると手づくねの筒形の胴の表面の彎曲(わんきょく)、釉薬の自然な斑模様(まだらもよう)、そういったもののきわめて複雑な変化の中に、いかにも世の中の苦労という苦労を舐め尽くして来たかのような、しかもいかにも女らしい一種の心ばえのようなものがありありと読みとられるようである。
 これではうっかり団子も丸められない。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 辻待ちの円タク、たとえば曙町まで五十銭で行かないかというと、返事をしないでいきなりそっぽを向いてしまうのがある。いやな顔をしてきわめてゆっくりかぶりを振るのもある。それからまたにこにこと愛嬌笑いをしてもう十銭やってくださいといいながらドアに手をかけてインヴァイトするのがある。
 前者はペシミストであり、後者はオプチミストであるともいわれる。しかしまた全くその反対だともいわれる。
 いつか上野駅の向かい側のある路地の自動車停留場で、いちばん先頭の車の運転手に例のとおり曙町まで五十銭で行かないかといったら、あまり人相のよくないその男は「イカネエ」と強い意味をその横にひん曲げた口許に表示したかと思うと、いきなりエンジンをスタートして走り出した。そうして獲物をねらう鷹のような鋭い目を集注しているその視線の行く手を追跡してみると、すぐにその焦点がはっきりされた。今上野駅から出て来たらしい東北出と思われる母娘(おやこ)連れがめいめいに大きなふろしき包みをかかえて、今や車道を横切ろうとしてあたりを見回しているところであった。
 この場合は悲劇的であるかもしれないが、またひどく喜劇的であるかもしれない。そんな事を考えながらスーツケースを右手にぶらさげてぶらぶらと山下のほうへより多く合理的な運転手を物色しながら歩いて行った事であった。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 隣に栗の樹が一本ある。二十年前にここへ移って来たころには、まだいくらも隣の家の棟(むね)を越えないくらいの高さであった。それが年々に眼に見えるように伸び茂って、夏はこんもりした木蔭を作り、いっぱいに咲いた花がこちらの庭に散りこぼれ、やがて腐れて甘ずっぱいような香(におい)をみなぎらせた。秋が来ると笑(え)みこぼれた栗の実がこちらの庭へも落ちるのを、当時まだ小さかった子供らが喜んで拾いながら大声で騒いでいたら、やがてお隣からお盆にのせてたくさんな栗の実を持たせてよこした。家内じゅうは顔を見合わせてきまりの悪い思いをしたことであった。
 この栗の樹が近年になってなんとなく老衰の兆(きざし)を見せてきた。夏の繁りもなんとなくまばらで、栗の実の落ちる数も眼立って少なくなって来た。
 次第に悪くなる東京の空気のせいであるのか、それともこの樹の本来の寿命によるものか、どうだか自分にはわからない。
 とにかく栗の樹などというものは人間よりは長生きするものとばかり思っていたが、一概にそうでもなさそうである。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

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 住み家を新築したら細君が死んだという例が自分の知っている狭い範囲でも三つはある。立派な邸宅を新築してまもなく主人が死んでその家の始末に困っているという例を近ごろ二つ聞いた。
 しかし家を立ててだれも死ななかった例は相当たくさんにあるであろうから、厳密な統計的研究をした上でなければ「家を建てると人が死ぬ」というような漠然とした言明は全然無意味である。
 しかしまた考えてみると、家を建てると人が死ぬということも、解釈のしようによっては全然無意味だともいわれない。
 今まで借家住居(ずまい)をしていた人が、自分の住宅を新築でもしようということは、その家庭の物質的のみならず精神的生活の眼立った時期を劃する一つの目標である。今までは生活の不如意に堪えながら側目(わきめ)もふらずに努力の一路を進んで来たのが、いくらかの成効に恵まれて少し心がゆるんでくる。そういう時期にこの住宅の新築という出来事が起こるという場合がしばしばある。そういう時にもしもその家の主婦が元来弱い人であり、どのみちそう長きをすることのできない人であったと仮定する。そうするとその主婦の今まで張り詰めていた心がやっとゆるむころには、その健康はもはや臨界点近くまでむしばまれていて、気のゆるむと同時に一時に発した疲れのために朽ち木のように倒れる。そういう場合もかなりありうるわけである。
 また従来すでに一通りの成効の道を進んで来た人が、いよいよ隠退でもして老後を楽しむために新しい邸宅でも構えようというような場合にも、やはり同じような事がいわれようかと思う。
 植物が花を咲かせ実を結ぶ時はやがて枯死する時である。それとこれとは少しわけは違うがどこか似たところもないではない。
 いつまでも花を咲かせないで適当に貧乏しながら適当に働く。平凡なようであるが長生きの道はやはりこれ以外にはないようである。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

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 夜中にからだじゅうの痛む病気に罹(かか)って一晩じゅう安眠ができない。この広い世界のすべての存在が消えてしまって自分のからだの痛みだけが宇宙を占有し大千世界に瀰漫(びまん)しているような気がしている。夜が明けて繰りあけられた雨戸から空の光が流れ込む。ガラス障子越しに庭の楓(かえで)や檜(ひのき)のこずえが見え、隣の大きな栗の樹の散り残った葉が朝風にゆれていて、その向こういっぱいに秋晴れの空が広がっている。
 そういう時にどうしたわけかわからないが、別に悲しくもなんともないのに涙が眼の中にいっぱいに押し出してくる。
 学生時代に、アヘン喫煙者が中毒からくる恐ろしい悪夢のために悩まされていたのが、突然その夢がさめて現実にかえって、片方にいる人間の顔を見た時に、涙が止め度もなく流れたというくだりを読んだ記憶がある。
 悲しいときの涙、うれしいときの涙、その他いろいろな涙のほかにこうしたような不思議な涙がまだほかにもいろいろありそうな気がする。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

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 銀座のオリンピックで食事をしていたら、同じ食卓の向かい側に腰を掛けて何か食っていた中年の男が新たにパンを注文した。柔らかい六角のパンを持って来た女給に「これでない堅いやつを持って来い」といって、手まねでその形をして見せた。「フレンチロールですかコッペーですか。」「ああ、そのコッペーだ。」「焼いて持って参りましょうか。」「いや焼かないで持って来い。」やがてそのコッペーを皿に入れて持って来たら「ああやっぱり焼いて持って来てくれ」といってその皿をつきだした。
 こうした型の男はおそらくなんでもまめによく仕事をしまた世話のできる人であろう。おそらく嫁や養子の世話から相手の人のネクタイの世話までやく人かもしれない。しかし、「俳諧」のほうにはどうも不向きらしい。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ある若い男の話である、青函連絡船(せいかんれんらくせん)のデッキの上で、飛びかわす海猫(うみねこ)の群れを見ていたら、その内の一羽が空中を飛行しながら片方の足でちょいちょいと頭の耳のへんを掻いていたというのである。どうも信じられない話だがといってみたが、とにかく掻いていたのだからしかたがないという。
 この話をその後いろいろの人に話してみたが、大概の人はこれを聞いて快い微笑をもらすようである。
 なぜだかわからない。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 人体生理学や組織学の教科書の中に載せてあるいろいろな顕微鏡写真の標本には、しばしば死刑囚の身体のいろいろな部分から取ったものがある。
 この点だけから見ると、一生何一つ世間のために貢献することなしに終わる紳士淑女たちよりも、こういう死刑囚のほうがはるかに大きな功績を世界人類の知識の上に遺(のこ)したことになるともいわれるのである。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 大きな百貨店へ行けば大概の品はいつでも調(ととの)えられるものと思っていたが、実際はなかなかそうでないという事を経験してきた。むしろ望みどおりの品のあったためしは少ないくらいである。
 十月の初旬病床で暖かい日に蒲団の代わりにかけようと思って旅行用の夏の膝掛けを買いにやった。そうしたら、来年の夏まで待たなければ店には出ないといった。それから、夜中に肩の冷えるのを防ぐために鳥の羽根入りの肩蒲団を探しにやったら、もう一月くらいすれば出ますといったそうである。時候に合わない品だから無理もないが、しかし百貨店という所はやっぱり存外不便な所である。
 もっとも、今ごろ本屋でスコットの「湖上の美人」やアーヴィングの「スケッチブック」やニーチェの「ツァラツーストラ」でも探すとしたらすぐに手に入るかどうか心もとないような気がする。マルクス、エンゲルスが同様な羽目になる時がいつかは来るかもしれないという気もするのである。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ある日電車の中で、有機化学の本を読んでいると、突然「琉球(りゅうきゅう)泡盛酒(あわもり)」という文字が頭の中に現われたが、読んでいる本のページをいくら探してもそんな文字は見つからなかった。よく考えてみると、たぶん途中で電車の窓から外をながめたときにどこかの店先の看板にでもそういう文字が眼についた、それを不思議な錯覚で書物の中へ「投げ込んだ」ものらしい。ちょうどその時に読んでいた所がいろいろなアルコールの種類を記述したページであったためにそういう心像の位置転換が容易にできたものと思われる。
 人間の頭脳のたよりなさはこの一例からでもおおよそ想像がつく。何時(いつ)幾日(いくか)にどこでこういう事に出会ったとか、何という書物の中にどういう事があったとか、そういう直接体験の正直な証言の中に、現在の例と同じような過程で途方もないところから紛れ込んだ異物が少しもはいっていないという断定は、神様でないかぎりだれにもできそうにない。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ベルギー皇帝がただ一人で自動車を運転していて山の中の崖から墜落して崩御された。そのいたましい変事の記憶がまだ世人の記憶に新しいのに、今度はまた新しい皇帝が皇后とスイッツルの湖畔をドライブしていたとき、不慮の事故を起こして、そのために若く美しいアストリード皇后陛下はその場で崩御され皇帝も負傷され、ただうしろの座席に乗っかっていた運転手だけが不思議にかすり傷一つ負わなかった。
 皇帝が前の座席の左側にすわってハンドルを握り、皇后はその右側にすわって一枚の地図を拡げ何か皇帝にお尋ねになると、皇帝は右を向いてその地図をのぞき込まれた、その瞬間に車の右の前輪が道の片側を仕切るコンクリートの低い土手の切れ目にひっかかった。そのはずみで土手を飛び越えて道の右側の斜面に走り込んだ車はその右の横腹を立ち樹にぶっつけて、ぐいと右に方向を転じ、その際に皇后は運悪く頭を立ち樹にぶっつけて即座に絶命すると同時に草原の上に投げ出された。車はさらに進んで第二の立ち樹にその左の横腹をぶっつけて傷ついた皇帝を投げ出した。そうしてずるずると斜面をころがりながら湖水のみぎわの葦(あし)の中へ飛び込んではじめてその致命的な狂奔を停止した。うしろにすわっていた運転手は咄嗟(とっさ)の出来事に茫然(ぼうぜん)としてどうすることもできなかった。道路をそれて樹にぶつかるまでの時間は一秒の十分の一にも足りない勘定になるので、まったく考えるよりも速い出来事だったに相違ない。そうして運転手が眼前の出来事を意識した瞬間にはもうすべてが終わっていたわけである。
 これが昔の日本であったら、この二代続きの遭難はきっと何かしらもっともらしい迷信でつづられた因縁話の種を作ったかもしれない。
 しかし因縁が全然無いこともない。それは先代の皇帝も今の皇帝も自分でハンドルを握って墜落の危険の絶無ではないような道路を走らせることに興味を持たれたという事がたしかに一つの必然な因縁でつながれているのである。すなわち一つの公算的な因果の現われだともいわれるであろう。(昭和十年十月十五日)[#改ページ]

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 聯合艦隊が芝浦(しばうら)に集合して、昼は多勢の水兵が帝都の街頭に時ならぬユニフォームの花を咲かせ、夜は品川湾の空に光芒(こうぼう)の剣の舞を舞わせた。
 この日病床で寝ていたらたくさんの飛行機が西の空から東へかけてちょうど蜻蛉(とんぼ)の群れのように、しかも物すごいうなり声を立てて飛んで行くのが縁側の障子のガラス越しにあざやかに見えた。
 このページェントが非常時の東京市民にわが海軍の偉容を示して、心強さと頼もしさを吹き込むという効果を持ったであろうという事には少しの疑いはない。
 しかし物は考えようである。私はこの百余台の飛行機の示威運動を病床からながめながら、もしかわが聯合艦隊の航空兵器の主力がたったこれだけのしかもあまり世界的に自慢のできない飛行機で代表されているのだとしたら、なんという心細いことであろうという気がした。そうして外国映画や絵入り雑誌の挿し絵で見る欧米列強の飛行隊の壮観を思い浮かべ、一方ではまたわが国の海軍飛行機のあまりにも頻繁(ひんぱん)な墜落事故の記録を胸算用でかぞえながら、なんとなく暗い気持ちにいざなわれるのであった。
 これはおそらくその日の病苦のせいであったかもしれない。(昭和十年十月十五日)[#改ページ]

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 蝶や鳥の雄が非常に美しい色彩をしているのは雌の視覚を喜ばせてその注意をひくためだというような説は事実に合わないものだということがいろいろの方面から説明されているようである。自分の素人(しろうと)考えではこの現象はあるいはむしろ次のように解釈さるべきものではないかと思う。
 周囲の環境と著しく違った色彩はその動物の敵となる動物の注意をひきやすく従ってそうした敵の襲撃を受けやすいわけである。そういう攻撃を受けた場合にその危険を免れるためには感覚と運動の異常な鋭敏さを必要とするであろう。それで最も目立つ色彩をしていながら無事に敵の襲撃を免れて生き遺ることのできるような優秀な個体のみが自然淘汰の篩(ふるい)にかけられて選(よ)り残され、そうしてその特徴をだんだんに発達させて来たものではないか。
 戦争好きで、戦争に強い民族なぞの発生にいくらかこれに似た選択過程が関係しているのではないかという気がする。(昭和十年十月十六日)[#改ページ]

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 先ごろ警視庁で東京市のギャング狩りを行なったときに検挙された「街の紳士」たちの中に、杯やコップを噛み砕いてくちびるから赤い血を出して相手を縮みあがらせるというのがいた。この新聞記事を読んだとき私は子供の時分に見た「ガラスを食う山男」の見世物のことを思い出した。
 高知の本町(ほんまち)に堀詰座(ほりづめざ)という劇場があった。そこの木戸口の内側に小さな蓆囲(むしろがこ)いの小屋をこしらえて、その中にわずかな木戸銭で入り込んだせいぜい十人かそこいらの見物のためにこの超人的演技を見せていたいわゆる山男というのはまだ三十にもならないくらいの小柄な赭(あか)ら顔(がお)の男であったが、白木綿の鉢巻でまっ黒に伸びた頭髪を箒(ほうき)のように縛り上げて、よれよれの縞(しま)の着物とたっつけ袴(ばかま)に草鞋(わらじ)がけといういでたちで、それにまっかな木綿の扱帯(しごき)のようなもので襷(たすき)がけをした、実に悲しくも滑稽(こっけい)にして颯爽(さっそう)たる風□(ふうぼう)は今でも記憶に新たである。
 なんでも蛇をかじって見せたり、うさぎの毛皮の一片を食いちぎって見せたりした。それからおしまいには大きなランプのホヤのこわれたのを取り出して、どんどんじゃんじゃんという物すごい囃子(はやし)に合わせてそれを見物の前に振り回して見せたあとで、そのホヤのガラスの一片を前歯で噛み折りそれをくちびるの間に含んで前につき出し両手を広げて目をむき出し物すごいみえをきった。かけらがくちびるからひっこんだと見ると急に四股(しこ)を踏むようなおおぎょうな身振りをしながらばりばりとそのガラスを噛み砕く音を立て始めた。赭ら顔がいっそう朱を注いだように赭くなって、むき出した眼玉が今にも飛び出すかと思われた。
 噛み砕く音がだんだんに弱く細かくなって行った。やがて噛み砕いたものを呑み下したと思うと、大きな口をかっと開いて見物席の右から左へと顔をふり向けながら、口中にもはや何にも無いという証拠を見せるのであった。その時に山男の口中がほんとうに血のようにまっかであったように記憶している。
 この幼時に見た珍しい見世物の記憶が、それから三十余年後に自分が胃潰瘍(いかいよう)にかかって床についていたときに、ふいと忘却の闇から浮かび上がって来た。
 あの哀れな山男は、おそらくあれから一、二年とはたたない間に消化器の潰瘍にかかってみじめな最期を遂げたに違いない。言わば、生きるためにガラスを食って自殺を遂げたようなものである。
 街の紳士の場合もいくらかこれと似たところがあるかもしれない。(昭和十年十月十六日)



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