柿の種
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著者名:寺田寅彦 

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 上野公園の一隅(いちぐう)にある鉄筋コンクリートの建物の中で時々科学者が寄り集まって事務的な相談会を開くことがある。事務は事務だがともかくもむつかしい学問に関係した人事の相談である。寄り合う人々はみんなまじめな浮世離れのした中年以上の学者ばかりである。こういう会が朝の十時ごろから始まって昼飯時一時間の休憩があるだけで午後六時ごろまでもぶっ通しに続くことも珍しくない。
 こういうときに、会が終わってほっとした気持ちで外へ出て、そうして連れに別れて一人でぶらぶら公園を歩いていると、いつも見飽きるほど見馴れた公園の森や草木が今までかつて見たことのないように異常に美しく見え、また行き通りの人々の顔が実に楽しく喜ばしそうに見え、そうして特に女子供がたとえようもなく美しく愛らしく見えてくる。今まで堅く冷たくすっかり凍結していた自分の中の人間らしい血潮が急に雪解けのように解けて流れて全身をめぐり始めるような気がするのである。
 学者であって、しかも同時に人間であることがいかにむつかしいものかということをつくづく考えさせられるのは、そういう時である。
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 血液の化学成分は驚くべき精密さをもって恒同に保たれている。ちょっと労働でもして血液中の水素イオン濃度がわずかに一億分一だけ増すとすぐ呼吸が忙(せわ)しくなって血液中の炭酸ガスを洗滌(せんじょう)させる。
 人間の社会もこのくらい有機的になって、全系統の生理に有害なものを自働的に駆逐(くちく)するような機巧(きこう)が具わっているといいと思う。
 現在でもある程度まではすでにそうなっているかもしれない。しかしこの調節作用を阻害するような病気があまりに多く、それに対する抵抗力があまりに弱いのではないかと思われる。
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 ある日電車で新宿の通りを通過しながら街路をながめていると、両側の人道にほとんど軒並みに同じような建て札が立ち並んでいる。見るとそれには区会議員か何かの候補者の名前が書いてある。小さな張り板ぐらいの恰好の木枠に白紙を貼って、それに筆太に墨黒々と「原野九郎(はらのくろう)」とか「小菅雷三(こすげらいぞう)」とか「不破伊勢次(ふわいせじ)」とかそういった感じのする名前が書きひけらかしてある。
 その建て札に交じってまたところどころこれとよく似てはいるが少し風変わりな建て札が見える。それには「よせ鍋はま鍋」「蒲焼(かばやき)三十銭」「○○大特売大安売り」などという文句が読まれる。
 建て札が同型であるという事実の裏にはその建て札の内容にも若干の共通点があるという事を暗示するのではないかという気がした。
 どちらも「売り物」である。そうしてどちらにも用心しないと喰わせ物があるかもしれない。
 食物や商品のいかものが市民に及ぼす害毒は、腐敗した議員たちのそれに比べたらそれほどでもないであろう。
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 元素には今では原子番号数というものができて、何番の元素と言えばそれで事柄は完全に確定する。それだのに今でも科学者はやはり水素とか酸素とかテルリウムとかウラニウムとか、言わば一種の「源氏名(げんじな)」のようなものをつけて平気でそれを使っているのである。人間味をできるだけ脱却しよう、すべての記載をできるだけ数学的抽象的なものにしようという清教徒的科学者の捨てようとしてやはり捨て切れない煩悩(ぼんのう)の悲哀がこういうところにも認められるであろう。
 科学といえども人間の産んだ愛児の中の愛児である。血の気を絞り取ってしまったら乾干(ひぼ)しになって、孫を産む活力などは亡(な)くなってしまいはしないかという気がする。
 それはとにかく、元素の名前に「桐壺(きりつぼ)」「箒木(ははきぎ)」などというのをつけてひとりで喜んでいる変わった男も若干はあってもおもしろいではないかと思うことがある。しかしもしそんなのがあったらさぞや大学教授たちに怒られることであろう。
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 自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにいないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡(うしな)われるせいではないかと思われる。
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 髪を短くしている人は大概髪を延ばすと醜くなるようなたちの人だと床屋が言う。それはそういう場合もあるかもしれないが、またそうでない場合があるかもしれない。
 いつもとりすました顔をしている女は、たぶんすましたときのほうがいちばん美しく見えるような型であり、始終笑顔(えがお)を見せている女は、やはりそうしたほうがすましているより美しく見えるような型の顔であるかもしれない。少なくも当人がそう信じていることだけは慥(たし)かであろうと思われる。
 めいめいで口をきいてめいめいの意見を吐露すべき会合の席上でいつでも黙々として始めからおしまいまで口を利かない人がある。もしかするとそれは口をきくと自分の美と尊厳をそこなうことを恐れる人ではないかという気がする。またこれと反対にいわゆる一言居士(いちげんこじ)と称するのもある。これはもちろん自分の一言の真と美を信ずるからのことであろう。しかし、自分の「我」に固執する点ではどちらも似たものである。
 公人としての会議ではやはり公の問題そのものの前に自分の私を忘れるべきであろう。「顔」を気にする女の場合とはちがうと思われる。
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 猫の尻尾(しっぽ)は猫の感情の動きに応じてさまざまの位置形状運動を示す。よく観察していると、どういう場合にどんな恰好をするかということはいくらかわかって来る。しかし、尻尾のないわれわれ人間には猫の「尻尾の気持ち」を想像することは困難である。舌で舐めたり後脚(あとあし)で掻いたりする気持ちはおおよそ想像してみることができても尻尾の振りごこちや曲げごこちは夢想することもできない。従ってわれわれは猫の尻尾の行動について「批評」する資格を持ち合わせない。
 科学の研究に体験をもたない言わばただの「科学学者」の科学論には往々人間の書いた「猫の尻尾論」のようなのがあるのも誠にやむを得ない次第であろう。
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 昭和九年十月十四日、風邪(かぜ)をひいて二階で寝ていた。障子(しょうじ)のガラス越しに見える秋晴れの空を蜻蛉(とんぼ)の群れが引っ切りなしにだいたい南から北の方向に飛んで行く。よく見るとほとんど皆二匹ずつタンデム式につながったもので、孤独な飛行者はきわめてまれである。おそらく二十分ぐらいの間この群飛がつづいたので、数にしたらおそらく莫大なものであろうと思われた。ちょっと見積もっても数千という数であろうと思われる。
 この群れはどこの池沼で発生して、そうしてどこを目ざして移住するのか。目的地の方向を何で探知するか。渡り鳥の場合にでも解釈のつきにくいこれらの問題はこのいっそう智能の低い昆虫の場合にはいっそうわかりにくそうである。
 二匹ずつつながっているのが、それぞれ雌雄のひとつがいだとすると、彼らの婿(むこ)選み嫁(よめ)選みがいかにして行なわれるか。雌雄の数が同一でない場合に配偶者をもとめそこねた落伍者(らくごしゃ)の運命はどうなるか。
 こうした問題が徹底的に解かれるまでは人間の社会学にもまだどんな大穴が残され忘れられているかもしれないであろう。
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 省線電車渋谷駅の人気者であった「忠犬」の八公(はちこう)が死んだ。生前から駅前に建立(こんりゅう)されていたこの犬の銅像は手向(たむけ)の花環に埋もれていた。
 たかが犬一匹にこのお祭り騒ぎはにがにがしい事だと言ってむきになって腹を立てる人もあった。
 しかし、これがにがにがしければすべての「宗教」はやはりにがにがしく腹立たしいものでなければならない。
 ある日上野の科学博物館裏を通ったら、隣の帝国学士院の裏庭で大きな白犬の写真を撮っていた。犬がちっとも動かないでいつまでもじっとしておとなしくカメラのほうを見つめている、と思ったら、そばに立っていた人がひょいとその胴をかかえて持ち上げ、二、三歩前のほうへ位置を変えたのでそれが剥製(はくせい)だとわかった。写真師のそばに中年の婦人が一人立っていた。片手を頬にあてたままじっと犬のほうを見ていた。
 翌朝新聞を見るとこの犬の写真が出ていた。やはりそれが八公であったのである。
 この剥製の写真を撮っている光景を見たときにはやはり自分の胸の中にしまい忘れてあった「宗教」がちょっと顔を出した。(昭和十年六月十二日)[#改ページ]

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 親がつけてくれた名が気に入らなくなって改名する人がある。姓名判断という迷信的な俗説を信じて改名するのはまた別であるが、そうでなくて改名する人にはおのずから共通な性質があるような気がする。あえて弱点というほどではないがとにかく若干の人のよさがあるような気がする。
 自分の知った人で非常に珍しい姓があった。おまけに名まで変っているのであったが、その人は快活で無頓着(むとんじゃく)な性質で自分の姓名の変なことなど意に介しないように見えた。ところがその人の子供が小学校へはいるころになって重大な問題がその名字にからんで起こって来た、と言うのは、その子が学校でみんなにその名前をからかわれ笑われるのをひどく気にして学校がいやになり気持ちがだんだんひがんで来た。そうして、そのためだかどうだか、そこまではだれにもわからないが、とにかくまもなく病死してしまった。その後その子の父は郷里へ帰って家系に関する徹底的の調査をして、何かしら適当の理由らしいものを捜し出し、それを申し立ててやっとの事で革姓の手続きを済ますことができた。
 これで思い出すのは、昔紅葉山人(こうようさんじん)の書いた何かの小品の中に、物好きな父親がその女の子におさるという名をつけた話があったように思う。妙齢(みょうれい)になってしかも人並みすぐれて美しい娘を父親が人前でおさるおさると呼び立てた、というのである。その結果がどうなったかは忘れてしまった。
 電車の運転手や車掌には実際変った姓名が多いようである。しかし、これが、異った姓名の人は車掌や運転手になる確率が多いという証拠にはならない。たとえば一方には車掌運転手の名簿、一方には帝国大学生の名簿を置いて比較統計を取ってみなければならない。しかしそうなると「変った姓」と「変っていない姓」とを分類する標準が非常にむつかしくなってちょっと手がつけにくい仕事になるであろうと思われる。
 しかし、変った姓はしかたがないとして、断然変った名の持ち主百人と、常識的にちっとも変っていないと判断される名の持ち主百人とを選び出して、その当人は問題とせず、それらの人々の父親について、その社会的地位階級、教育の程度、趣味の品別等について統計してみたら、あるいは多少の差別が認められはしないかという気がする。
 もし多少でもそうであったとしたら、父の差別が子の差別に多少でも反映していないとも限らないと考えられるのである。
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   木蓮


 白木蓮(はくもくれん)は花が咲いてしまってから葉が出る。その若葉の出はじめには実にあざやかに明るい浅緑色をしていて、それが合掌したような形で中天に向かって延びて行く。ちょうど緑の焔をあげて燃ゆる小蝋燭(ころうそく)を点(とも)しつらねたようにも見える。
 紫木蓮(しもくれん)は若葉のにぎやかなイルミネーションの中からはでな花を咲かせる。濃い暗いやや冷たい紫のつぼみが破(わ)れ開いて、中からほんのり暖かい薄紫の陽炎(かげろう)が燃え出る。そうして花の散り終わるまでにはもう大きな葉がいっぱいに密集してしまう。
 桜でも染井吉野(そめいよしの)のように花が咲いてしまってから葉の出るような種類が開花のさきがけをして、牡丹桜(ぼたんざくら)のような葉といっしょに花をもつようなのが、少しおくれて咲くところを見ると、これには何か共通な植物生理的な理由があるらしい。
 人間でもなんだか、これに似た二種類があるような気がするが、何が「花」で何が「葉」だかが自分にはまだはっきりわからない。
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   学会


 いろいろの学会にはいっている。すすんで入会したのもあり、いつのまにか入れられていたのもあり、また強いてはいらされたのもある。数にしたら二十近い会の会員になっている。
 学会にはそれぞれ例会や総会がある。それに一々出席していたらきりがないからたいてい出ないことにしている。
 どうも日本人はいろいろな会をこしらえることの好きな国民ではないかという気がする。
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   琴


 学生時代には本郷へんの屋敷町を歩いているとあちらこちらの垣根の中や植え込みの奥から琴の音がもれ聞こえて、文金高島田(ぶんきんたかしまだ)でなくば桃割れ銀杏返(いちょうがえ)しの美人を想像させたものであるが、昨今そういう山の手の住宅区域を歩いてみても琴の音を聞くことはほとんど皆無と言ってもいいくらいである。そのかわりにピアノの音のする家が多くなったが弾いている曲はたいてい初歩の練習曲ばかりである。まっ黒な腕と足を露出したおかっぱのお嬢さんでない弾き手を連想するのは骨が折れるようである。
 たまにいい琴の音がすると思ってよく聞くとそれはラジオである。
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   漫画


 新聞の日曜附録の一ページに大掃除を題材にした漫画がいろいろ出ている中に岡本一平(おかもといっぺい)氏のがある。おかっぱ洋装の孫娘がお祖母(ばあ)さんとバタ入れとにほこりがかからないようにと大きな鶏籠のようなものをすっぽりかぶせておいたのをおかあさんが見つけて驚いて籠を引き起こしている図である。おばあさんはおとなしくバタ入れといっしょに小さくなって籠の下に収まって何かむしゃむしゃ食べている。孫娘のほうは平気にほがらかにあちらを向いてはたきをふるっているのである。
 ほかにも数々の漫画があるが、どうもただ表面だけふざけていて中味の何もないのが多いようである。一平氏のには、多くの場合にそうであるように、おかしみの底に人情味が流れていて噛みしめるとあわれがにじみ出す。この漫画なども、現代の家庭における老祖母と主婦と孫娘との三角関係を心理的に描写し尽くして余すところがないような気がする。その真実性の中からおかしみも美しさもあわれも生まれてくるのであろう。
 ただ一枚の漫画でもこういうのを朝食時に見ると、その日一日ぐらいは自分の心情の上に何かしらよい効果を残すように思われる。
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   笑い声


 初夏のある日友人と京橋近くの七階楼上で昼飯を食った。すがすがしい好晴の日で食卓から見下ろす銀座方面のながめははればれと明るくいきいきと美しいものであった。一隅の別室からにぎやかな爆笑が間歇的(かんけつてき)に聞こえて来る。その笑声から判断すると、どうしても女学校の生徒の集会らしい。食卓を囲む制服を着たおさげやおかっぱの一団を想像させた。
 席を立って帰りがけに開け放したその別室をのぞいて見ると、意外にもそれは「制服の処女」たちではなくて、みんなもう三十前後の立派な奥さんたちの集会であった。
 奥さんたちの笑い方と女学生の笑い方とはたしかに区別があるはずである。それだのに別室で聞いた笑声はどうしても十五、六、七、八の女生徒の集団にのみ聞かれる笑声であった。
 やはりどこかの女学校の第何回卒業同窓会であろうと思われた。同窓の顔が寄り合った機会に彼女たちの十余年昔の笑いが復活したのではないかと思われて、なんとなくほほえましい気持ちのしたのはあながち青葉時の好晴の天気のせいでもなかったようである。
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   講演の口調


 ラジオなどで聞くえらい官吏(かんり)などの講演の口調は一般に妙に親しみのないしかつめらしい切り口上が多くてその内容も一応は立派であるがどうも聴衆の胸にいきなり飛び込んで来るようなものが少ない。
 ある会議の席上である長官がある報告をするのを聞いていたとき、ふと前述の講演のタイプを想い出した。
 長官はその属僚の調べ上げてこしらえた報告書を自分のものにして報告しなければならない。それで文句はわかってもその内容は実はあんまり身にしみていないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生まれるのではないかという気がした。
 これに反して、文士でも芸術家ないし芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁(とつべん)雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底のほうに何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
 学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
 空腹はなかなか隠せないものらしい。
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   不審紙


 子供の時分に漢籍など読むとき、よく意味のわからない箇所にしるしをつけておくために「不審紙(ふしんがみ)」というものを貼り付けて、あとで先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞(しおり)とした。
 短冊形(たんざくがた)に切った朱唐紙(とうし)の小片の一端から前歯で約数平方ミリメートルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたのを、右の拇指の爪(つめ)の上端に近い部分に移し取っておいて、今度はその爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤(のみ)をつぶすような工合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。この小紙片がすなわち不審紙である。不審の箇所をマークする紙片の意味である。噛み切る時に赤い紙の表を上にして噛み切り、それをそのまま舌に移し次に爪に移して貼り付けるとちょうど赤い表が本のページで上に向くのである。朱唐紙は色が裏へ抜けていなかったから裏は赤くなかったのである。
 そのころでもすでに粗製のうその朱唐紙があって、そういうのは色素が唾液(だえき)で溶かされて書物の紙をよごすので、子供心にもごまかしの不正商品に対して小さな憤懣(ふんまん)を感じるということの入用をしたわけである。
 不審が氷解すればそこの不審紙を爪のさきで軽く引っ掻いてはがしてしまう。本物の朱唐紙だとちっともあとが残らない。
 中学時代にはもう不審紙などは使わなかった。そのかわりに鉛筆や紫鉛筆でやたらにアンダーラインをしたり、?や!を書き並べて、書物をきたなくするのが自慢であるかのような新習俗に追蹤(ついしょう)してずいぶん勉強して多くの書物を汚損したことであった。
 それはとにかく、日本紙に大きな文字を木版刷りにした書物のページに、点々と真紅の不審紙を貼り付けたものの視像を今でもありありと想い出すことができるが、その追憶の幻像を透して、実にいろいろな旧日本の思想や文化の万華鏡がのぞかれるような気がするのである。
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   学会警察


 英国の物理学者Dとオーストリアの物理学者Bとが日本へ遊びに来て大学や理化学研究所で講演をしたがいずれも満員以上の盛況だったそうである。
 Dは数年前にも一度来朝したが、その後ノーベル賞をもらって世界第一流の学者としての折り紙をつけられた。Bはこれに比べれば今のところ第二流の仲間である。それが偶然にDといっしょに日本へ来たので、同時に肩を並べて歩き、同じ演壇で講演をした。B一人で来たら講演会が催されたかどうかというようなことが学界ゴシップの話題になった。
 Dを大学の某研究所に案内していろいろな業績を見せた。前に来たときはかなりいろいろの事に興味を示したそうであるが、今度はいっこうにそっけなくて何を見せても冷淡な態度しか見せなかった、とにかくそういうふうにその研究所の人たちには感ぜられたそうである。
 以上の事実はいろいろな意味で記録しておく価値があると思われる。
 ずっと前にアインシュタインが来朝したときのことをいろいろ思い出す中に一つあまり従来記録されていないと思うきわめて興味ある現象がある。
 アインシュタインが大学内を歩いているときにはいつでも、その後ろに学界の長老たちが影のように附き添って歩いていた。集会の席でも護衛兵のように引き添って立ったりすわったりしていた。珍客を遇する礼として当然のことと思われた。自分らのような弱輩のものがこの碩学(せきがく)に近づいて何か話でもしようと思うと、その護衛のかたがたの中には急に眼を見張りあるいは眉(まゆ)を顰(ひそ)めてその近よるものが何を言い出すかといったような緊張と不安の表情を正直に露出する人もあった。それでたいていの気の弱いものは近寄りたくても近寄れないで遠方からながめるだけであった。なるほど弱輩なものが突拍子もないまずい質問をしたりしては失礼にもなるしまた日本の学界の恥辱(ちじょく)になるという心配もあることであろうと思われたことであった。
 それから後は、もう西洋から有名な学者が来てもあまり近よらないことにした。第一言語が不随意で思ったことの三分一も言えず先方のいうこともどれだけわかったかわからないかさえわからないからわざわざ危険を冒して近よることもないと思ったのである。ただ遠方からその風采(ふうさい)や態度をながめることの興味で満足していた。
 それでも、どうかすると自分の研究室へ外来の学者を案内して来られることがある。その案内者が親しい同僚だけであればなんでもないが、しかしその中に学界の監察官のようなかたが一人でもいて来客の肩の後ろで厳粛な顔をしていられると自分の口は自然に膠着(こうちゃく)してしまって物が言えなくなる。
 こうした監察官も日本の名誉のために必要かもしれない。
 とにかく以上の事実は記録に値する。これは自分だけの体験した事実ではなくてかなり多数の同学者が多少ちがった程度と形式とで体験した事実だからである。(昭和十年六月)[#改ページ]

   死刑囚


 友人の生理学者が見せてくれた組織学(ヒストロギー)の教科書の中にいろいろな人体の部分の顕微鏡写真がたくさん掲載されている。その図の下にある説明を読んで行くと「ある若き死刑囚の○○」といったようなのがかなり多数にある。
 虎(とら)や豹(ひょう)は死してその毛皮をとどめる。そうして人間の生活になにがしかの貢献をすると同時に自己がかつてこの世に生存していたという実証を残す。
 この世に活かしておけないという理由で処刑された人間の身体の一局部のきわめて微細な顕微鏡標本は生理学や医学の教科書に採録されて世界の学徒を教育する。
 くだらない人間や、あるいはきわめていけない人間の書いたものでも後世を益することはある。たとえそれがどんなうそでも詐(いつわ)りでも、それでもやはり人間のうそや詐りの「組織」を研究するものの研究資料としての標本になりうる。ただしそれが「詐らざるうそ」「腹から出たうそ」でないと困るかもしれない。
 とは言うものの、「佯(いつわ)りのうそ」でも結局それがほんとうに活きていた人間の所産である限り、やはりそれはそれとしての標本として役立つかもしれない。
 全く役に立たない人間になる、ということほどむつかしい事はないかもしれない。(昭和十年七月三日)[#改ページ]

   ノルマンディー


 今度フランスで造った世界一の巨船ノルマンディーに関する記事がたくさんの美しい挿画(さしえ)や通俗的な図解で飾られてリリュストラシオンに載せられている。七万九千トン十六万馬力、船の全長三百十三メートル。食堂、社交室、喫煙室の壮大はもちろん、劇場、教会堂、水泳プールから保安警察のようなものまで具備している。全く掛け値なしに海上のビルディングである。
 数週前の同じ雑誌には大西洋横断旅客飛行機リュートナン・ドゥ・ヴェーソー・パリ号のことが出ていた。重量三七トン、動力五千三百馬力で、三四トンの荷物を積み、毎時一七五キロメートルないし二二〇キロメートルの速度で大西洋を無着陸で飛ぼうというのである。
 フランスに現在「世界一熱病」の流行していることがうかがわれる。
 日本もいろいろな精神的なことでは世界一を自信しているようであるが、科学とその応用方面でどれだけの自信があるか疑わしい。多くの方面ではむしろ反対に一生懸命「世界一」になることを忌避(きひ)しているのではないかと思われるふしがある。日本人の出した独創的な破天荒なイデーは国内では爆発物以上に危険視される。しかし同じ考えが西洋人によって実現され成効するのを見ると、はじめてやっと安心して、そろそろその成果の模倣をはじめる。「外国のに劣らぬものができた」というのが最高の誇りである。しかしそれができたころには外国ではもう次の世界一が半分できかかっている。(昭和十年七月十三日)[#改ページ]

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 腰の屈伸の不自由な病気にかかった。寝ているか、立っているのはいいがすわったり腰かけたりしているのがどうもぐあいが悪い。特に腰を低く下ろすような椅子(いす)がいけない。
 珍しい秋晴れの日に縁側へ出て庭をながめながら物を考えたりするのにぐあいのいいような腰の高い椅子があるといいと思う。しかし近ごろは昔あったような高い籐椅子(とういす)はもうめったに見当たらない。みんな安楽椅子のような扁平(へんぺい)なのばかりである。
 これはやはり「流行」の現象であろうと思われる。しかし扁平な低い椅子がはやるという現象には何かしらその背後にある時代的な心理の反映が見られる。
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 左の足が痛むのでびっこをひいて歩いていたら、その効果で今度は腹と腰とのつがい目の所の筋肉が痛んで立ったりすわったりするたびにそれが飛び上がるほど痛むのであった。立っているか寝ていればなんの事はない。しかしちょっとでも咳(せき)をするとそれがひどく痛み所にひびく。
 いろいろな動作でちっともそこにひびかぬ動作とひびく動作がある。それでこの特別な筋が平生いかなる動作にいかなる程度に動員されているかということが実によくわかった。健康な場合には到底わからないことである。物の効用は、それが失われてみて始めてよくわかるという一例である。
 すわったり腰かけたりして、物を書こうとするとやはりこの筋肉が引きつって痛む。
 物を書くのには頭と眼と手だけでいいと思っていたのは誤りであった。書くという仕事にはやっぱり「腹」や「腰」も入用なのである。意外な「発見」であった。
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 からだの自由に動かせない病気で十日も寝ているとむやみにかんしゃくが起こっておもしろい。今朝は呼び鈴のコードを手近に置くべきのをだれかが遠くに押しのけてあったので大声でオーイオーイと呼んだが階下にいる五人のだれにも聞こえない。臥床(ふしど)の脇に置いてあるステッキでやけに障子や敷居をたたいて呼んでもまだ聞こえない。障子と敷居をいいかげん疵(きず)だらけにしたころに、細君が上がって来た。
「お隣に大工さんが来て仕事しているのだと思った」そうである。
 子供の時分に親戚(しんせき)や知人の家に中気(ちゅうき)でからだの不随な老人がいて、よくかんしゃくをおこしているのを見た。家族はもうすっかり馴れっ子になってほどよくあしらっているだけである。それがまたいっそう老人の不満をつのらせるらしかった。
 今度の病気で昔の中風老人たちを想い出して、この天下に普遍な家庭小悲喜劇の心理分析を試みる機会を得た。
 亡友K君が眼病で手術をして一時失明したことがあった。かんしゃくが起こりはしないかと聞いたら、それどころか反対に一生懸命細君にもその他の家族にも従順にしてきげんをそこねないようにしているという。どうしてかと聞くと、もしや今家族に見放されたらたいへんだという気がして、自然にそうなるのだということであった。
 自分の場合のかんしゃくは結局、病気がたいした事でないという潜在的な自覚から、いくらやんちゃを言っても家族が大丈夫遁(に)げ出さないという自負心を獲得しているせいかもしれない。
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 明治時代の青年における「星」「すみれ」の流行と近代ボーイにおけるマルキシズムのそれとはその原動力となる情熱の感傷的な点ではほとんど大差ないもののような気がする。ただ理論で裏づけられたヒステリック感傷は治療がいっそうめんどうなようである。
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 イタリアとエチオピアとの葛藤が永びいて、ほとんど毎日のようにムッソリニの顔が新聞に出る。毎日見ているとその顔がだんだんにナポレオンの顔に似てくる。実際どこかよく似ているのである。
 伊軍の飛行機を輸送船に積み込むというので翼を取りはずした機体を埠頭(ふとう)に並べてある光景の写真が新聞に出ていた。その機体の形が蝗(いなご)そっくりである。見れば見るほどよく似てくる。
 黙示録のいなごが現世に現われたのである。
 形の似たものにはやはり性能にもどこか似たところがあるようである。
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 エチオピア事件でほとんど毎日毎夕の新聞に伊国首相や、エ国皇帝、それから国際聯盟の英仏代表イーデン、ラバールの肖像が出る。
 日本の内閣に何か重大な事件でもあると岡田首相や陸相海相の顔が毎日のように新聞の紙面の相当な面積を占めて出現する。
 ちょっとわれわれには了解のできにくい現象である。新聞の読者というものは恐ろしく健忘性なものであると仮定するか、あるいはまた新聞購読者の大多数は、ほんの気まぐれに、十日に一度二十日(はつか)に一度ぐらいその日の新聞を買って見るだけである、ということでも前提に置いて考えてみなければ全くわけのわからない「煩雑」であり「浪費」である。
 もっともこうしないと「その日その日主義」とも訳されるジャーナリズムの「気分」が出ないのかもしれない。
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 秋晴れの午後二階の病床で読書していたら、突然北側の中敷窓から何かが飛び込んで来て、何かにぶつかってぱたりと落ちる音がした。郵便物でも外から投げ込んだような音であったが、二階の窓に下から郵便をほうり込む人もないわけだから小鳥でも飛び込んだかしらと思ったが、からだの痛みで起き上がるのが困難だから確かめもせずにやがて忘れてしまっていた。しばらくしてから娘が二階へ上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い上げて持って来たのを見ると一羽の鶯(うぐいす)の死骸である。かわいい小さなからだを筒形に強直させて死んでいる。北窓から飛び込んで南側の庭へ抜けるつもりでガラス障子にくちばしを突き当てて脳震盪(のうしんとう)を起こして即死したのである。「まだ暖かいわ」と言いながら愛撫(あいぶ)していたがどうにもならなかった。
 鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。ガラス戸というものができてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かった。
 人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。失敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人である。
 三原山火口へ投身する人の大部分がそうである。またナポレオンもウィルヘルム第二世もそうであった。
 この「ガラス」の見えない人たちの独裁下に踊る国家はあぶなくて見ていられない。
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 隣家に犬がいる。戸外へは出さないらしいので姿は一度も見たことがない。夜中にほえている声から判断すると相当体躯(たいく)の大きな堂々たる犬らしい。ところが、この犬が時々不思議な鳴き方をする。人間が何か泣きごとでもいっているかと思うような声を出すかと思うと、首でも締めて殺されかかっているのかと思うような悲鳴を上げる。そうかと思うとかんしゃくが起こってくやしがってきゅうきゅういっているような奇妙な声を出す。だんだん気をつけてみるとそういう不思議な鳴き方をするのは、ほとんどきまって豆腐屋のラッパが遠くから聞こえてだんだん近よって来るときか、またはたぶん豆腐屋であろうかチリンチリンと鈴を鳴らしながら前を通るときであるらしい。どういうわけか知らないが、そのラッパや鈴の音を聞くと、堪えがたい恐怖か憤懣がこの犬の脳神経中枢をいらだたせるものと思われる。
 生理学のほうで「条件反射」という現象がある。この犬の場合はあるいはその一例かもわからない。まだ小さい時分に何かしら同じような音響のする場所でたびたびひどい目に遇った経験の記憶が、この動物の脳髄に焼き付けられたように印象されているのかもわからない。
 それともまた、この犬は何か耳の病気があって、ある一定の高さの音がとくに鋭く病的にその聴覚を刺戟するのかもしれない。これはただ犬の話であるが、われわれ人間でもよく考えてみるとこれとよく似た現象がいくらでもあるらしい。そこらの花盛りを見て心が浮き立ったり、秋の月を見て物を思わされたりするのもその一例であるが、これらは国民全体に共通な教育による「条件反射」のようなものである。しかしもっと特殊な例としては、芋虫を見るとからだがすくんでしまう人や、蜘蛛(くも)がはい出すと顔色を変えるようなのもある。中学時代の同窓で少し強い風の吹く日にはこわくて一歩も外へ出られないのがあったが、その男はまもなく病死してしまった。やはりどこか「弱い」ところがあったのかもしれない。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 友人の科学者で陶器を作るのを道楽にしている男がある。自分の邸内に窯(かま)を造って専門の職人を雇い込んで本式にやっている。御当人はもちろんであるが、その細君もまたおかあさんもそれぞれ熱心なアマチュア芸術家である。このあいだその友人が大きなふろしき包みをかかえて飛び込んで来た。新聞紙で包んだものを取り出すのを見ると、この家庭芸術家三人の作品のたぶん代表的なものであろう、分厚で長方形のシガレットケース――これは科学者の作、それから半月形の灰皿――これは美しい令夫人の作、それから手どくで白釉(はくゆう)に碧緑(へきりょく)の色を流した花瓶――これは母堂の作である。
 今病床の脇の小卓の上にこの三つの陶器がのせてあるのをつくづくながめていると、この三つの作品のそれぞれの個性がだんだんにはっきり眼についてくる。角箱には鼻っ張りの強い負けぎらいの気性とオリジナルで鋭いしかもデリケートな才能の動きが地味な褐色の釉薬の底から浮き出しているといったようなところがある。
 灰皿のほうは肉の薄味、線の丸さ、波形の縁(へり)のうねり、その他どう見ても優しいそうして濃まやかな感じの持ち主の手になったものとしか思われない。
 花瓶のほうをよく見ていると手づくねの筒形の胴の表面の彎曲(わんきょく)、釉薬の自然な斑模様(まだらもよう)、そういったもののきわめて複雑な変化の中に、いかにも世の中の苦労という苦労を舐め尽くして来たかのような、しかもいかにも女らしい一種の心ばえのようなものがありありと読みとられるようである。
 これではうっかり団子も丸められない。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 辻待ちの円タク、たとえば曙町まで五十銭で行かないかというと、返事をしないでいきなりそっぽを向いてしまうのがある。いやな顔をしてきわめてゆっくりかぶりを振るのもある。それからまたにこにこと愛嬌笑いをしてもう十銭やってくださいといいながらドアに手をかけてインヴァイトするのがある。
 前者はペシミストであり、後者はオプチミストであるともいわれる。しかしまた全くその反対だともいわれる。
 いつか上野駅の向かい側のある路地の自動車停留場で、いちばん先頭の車の運転手に例のとおり曙町まで五十銭で行かないかといったら、あまり人相のよくないその男は「イカネエ」と強い意味をその横にひん曲げた口許に表示したかと思うと、いきなりエンジンをスタートして走り出した。そうして獲物をねらう鷹のような鋭い目を集注しているその視線の行く手を追跡してみると、すぐにその焦点がはっきりされた。今上野駅から出て来たらしい東北出と思われる母娘(おやこ)連れがめいめいに大きなふろしき包みをかかえて、今や車道を横切ろうとしてあたりを見回しているところであった。
 この場合は悲劇的であるかもしれないが、またひどく喜劇的であるかもしれない。そんな事を考えながらスーツケースを右手にぶらさげてぶらぶらと山下のほうへより多く合理的な運転手を物色しながら歩いて行った事であった。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 隣に栗の樹が一本ある。二十年前にここへ移って来たころには、まだいくらも隣の家の棟(むね)を越えないくらいの高さであった。それが年々に眼に見えるように伸び茂って、夏はこんもりした木蔭を作り、いっぱいに咲いた花がこちらの庭に散りこぼれ、やがて腐れて甘ずっぱいような香(におい)をみなぎらせた。秋が来ると笑(え)みこぼれた栗の実がこちらの庭へも落ちるのを、当時まだ小さかった子供らが喜んで拾いながら大声で騒いでいたら、やがてお隣からお盆にのせてたくさんな栗の実を持たせてよこした。家内じゅうは顔を見合わせてきまりの悪い思いをしたことであった。
 この栗の樹が近年になってなんとなく老衰の兆(きざし)を見せてきた。夏の繁りもなんとなくまばらで、栗の実の落ちる数も眼立って少なくなって来た。
 次第に悪くなる東京の空気のせいであるのか、それともこの樹の本来の寿命によるものか、どうだか自分にはわからない。
 とにかく栗の樹などというものは人間よりは長生きするものとばかり思っていたが、一概にそうでもなさそうである。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

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 住み家を新築したら細君が死んだという例が自分の知っている狭い範囲でも三つはある。立派な邸宅を新築してまもなく主人が死んでその家の始末に困っているという例を近ごろ二つ聞いた。
 しかし家を立ててだれも死ななかった例は相当たくさんにあるであろうから、厳密な統計的研究をした上でなければ「家を建てると人が死ぬ」というような漠然とした言明は全然無意味である。
 しかしまた考えてみると、家を建てると人が死ぬということも、解釈のしようによっては全然無意味だともいわれない。
 今まで借家住居(ずまい)をしていた人が、自分の住宅を新築でもしようということは、その家庭の物質的のみならず精神的生活の眼立った時期を劃する一つの目標である。今までは生活の不如意に堪えながら側目(わきめ)もふらずに努力の一路を進んで来たのが、いくらかの成効に恵まれて少し心がゆるんでくる。そういう時期にこの住宅の新築という出来事が起こるという場合がしばしばある。そういう時にもしもその家の主婦が元来弱い人であり、どのみちそう長きをすることのできない人であったと仮定する。そうするとその主婦の今まで張り詰めていた心がやっとゆるむころには、その健康はもはや臨界点近くまでむしばまれていて、気のゆるむと同時に一時に発した疲れのために朽ち木のように倒れる。そういう場合もかなりありうるわけである。
 また従来すでに一通りの成効の道を進んで来た人が、いよいよ隠退でもして老後を楽しむために新しい邸宅でも構えようというような場合にも、やはり同じような事がいわれようかと思う。
 植物が花を咲かせ実を結ぶ時はやがて枯死する時である。それとこれとは少しわけは違うがどこか似たところもないではない。
 いつまでも花を咲かせないで適当に貧乏しながら適当に働く。平凡なようであるが長生きの道はやはりこれ以外にはないようである。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

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 夜中にからだじゅうの痛む病気に罹(かか)って一晩じゅう安眠ができない。この広い世界のすべての存在が消えてしまって自分のからだの痛みだけが宇宙を占有し大千世界に瀰漫(びまん)しているような気がしている。夜が明けて繰りあけられた雨戸から空の光が流れ込む。ガラス障子越しに庭の楓(かえで)や檜(ひのき)のこずえが見え、隣の大きな栗の樹の散り残った葉が朝風にゆれていて、その向こういっぱいに秋晴れの空が広がっている。
 そういう時にどうしたわけかわからないが、別に悲しくもなんともないのに涙が眼の中にいっぱいに押し出してくる。
 学生時代に、アヘン喫煙者が中毒からくる恐ろしい悪夢のために悩まされていたのが、突然その夢がさめて現実にかえって、片方にいる人間の顔を見た時に、涙が止め度もなく流れたというくだりを読んだ記憶がある。
 悲しいときの涙、うれしいときの涙、その他いろいろな涙のほかにこうしたような不思議な涙がまだほかにもいろいろありそうな気がする。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

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 銀座のオリンピックで食事をしていたら、同じ食卓の向かい側に腰を掛けて何か食っていた中年の男が新たにパンを注文した。柔らかい六角のパンを持って来た女給に「これでない堅いやつを持って来い」といって、手まねでその形をして見せた。「フレンチロールですかコッペーですか。」「ああ、そのコッペーだ。」「焼いて持って参りましょうか。」「いや焼かないで持って来い。」やがてそのコッペーを皿に入れて持って来たら「ああやっぱり焼いて持って来てくれ」といってその皿をつきだした。
 こうした型の男はおそらくなんでもまめによく仕事をしまた世話のできる人であろう。おそらく嫁や養子の世話から相手の人のネクタイの世話までやく人かもしれない。しかし、「俳諧」のほうにはどうも不向きらしい。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ある若い男の話である、青函連絡船(せいかんれんらくせん)のデッキの上で、飛びかわす海猫(うみねこ)の群れを見ていたら、その内の一羽が空中を飛行しながら片方の足でちょいちょいと頭の耳のへんを掻いていたというのである。どうも信じられない話だがといってみたが、とにかく掻いていたのだからしかたがないという。
 この話をその後いろいろの人に話してみたが、大概の人はこれを聞いて快い微笑をもらすようである。
 なぜだかわからない。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 人体生理学や組織学の教科書の中に載せてあるいろいろな顕微鏡写真の標本には、しばしば死刑囚の身体のいろいろな部分から取ったものがある。
 この点だけから見ると、一生何一つ世間のために貢献することなしに終わる紳士淑女たちよりも、こういう死刑囚のほうがはるかに大きな功績を世界人類の知識の上に遺(のこ)したことになるともいわれるのである。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 大きな百貨店へ行けば大概の品はいつでも調(ととの)えられるものと思っていたが、実際はなかなかそうでないという事を経験してきた。むしろ望みどおりの品のあったためしは少ないくらいである。
 十月の初旬病床で暖かい日に蒲団の代わりにかけようと思って旅行用の夏の膝掛けを買いにやった。そうしたら、来年の夏まで待たなければ店には出ないといった。それから、夜中に肩の冷えるのを防ぐために鳥の羽根入りの肩蒲団を探しにやったら、もう一月くらいすれば出ますといったそうである。時候に合わない品だから無理もないが、しかし百貨店という所はやっぱり存外不便な所である。
 もっとも、今ごろ本屋でスコットの「湖上の美人」やアーヴィングの「スケッチブック」やニーチェの「ツァラツーストラ」でも探すとしたらすぐに手に入るかどうか心もとないような気がする。マルクス、エンゲルスが同様な羽目になる時がいつかは来るかもしれないという気もするのである。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ある日電車の中で、有機化学の本を読んでいると、突然「琉球(りゅうきゅう)泡盛酒(あわもり)」という文字が頭の中に現われたが、読んでいる本のページをいくら探してもそんな文字は見つからなかった。よく考えてみると、たぶん途中で電車の窓から外をながめたときにどこかの店先の看板にでもそういう文字が眼についた、それを不思議な錯覚で書物の中へ「投げ込んだ」ものらしい。ちょうどその時に読んでいた所がいろいろなアルコールの種類を記述したページであったためにそういう心像の位置転換が容易にできたものと思われる。
 人間の頭脳のたよりなさはこの一例からでもおおよそ想像がつく。何時(いつ)幾日(いくか)にどこでこういう事に出会ったとか、何という書物の中にどういう事があったとか、そういう直接体験の正直な証言の中に、現在の例と同じような過程で途方もないところから紛れ込んだ異物が少しもはいっていないという断定は、神様でないかぎりだれにもできそうにない。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ベルギー皇帝がただ一人で自動車を運転していて山の中の崖から墜落して崩御された。そのいたましい変事の記憶がまだ世人の記憶に新しいのに、今度はまた新しい皇帝が皇后とスイッツルの湖畔をドライブしていたとき、不慮の事故を起こして、そのために若く美しいアストリード皇后陛下はその場で崩御され皇帝も負傷され、ただうしろの座席に乗っかっていた運転手だけが不思議にかすり傷一つ負わなかった。
 皇帝が前の座席の左側にすわってハンドルを握り、皇后はその右側にすわって一枚の地図を拡げ何か皇帝にお尋ねになると、皇帝は右を向いてその地図をのぞき込まれた、その瞬間に車の右の前輪が道の片側を仕切るコンクリートの低い土手の切れ目にひっかかった。そのはずみで土手を飛び越えて道の右側の斜面に走り込んだ車はその右の横腹を立ち樹にぶっつけて、ぐいと右に方向を転じ、その際に皇后は運悪く頭を立ち樹にぶっつけて即座に絶命すると同時に草原の上に投げ出された。車はさらに進んで第二の立ち樹にその左の横腹をぶっつけて傷ついた皇帝を投げ出した。そうしてずるずると斜面をころがりながら湖水のみぎわの葦(あし)の中へ飛び込んではじめてその致命的な狂奔を停止した。うしろにすわっていた運転手は咄嗟(とっさ)の出来事に茫然(ぼうぜん)としてどうすることもできなかった。道路をそれて樹にぶつかるまでの時間は一秒の十分の一にも足りない勘定になるので、まったく考えるよりも速い出来事だったに相違ない。そうして運転手が眼前の出来事を意識した瞬間にはもうすべてが終わっていたわけである。
 これが昔の日本であったら、この二代続きの遭難はきっと何かしらもっともらしい迷信でつづられた因縁話の種を作ったかもしれない。
 しかし因縁が全然無いこともない。それは先代の皇帝も今の皇帝も自分でハンドルを握って墜落の危険の絶無ではないような道路を走らせることに興味を持たれたという事がたしかに一つの必然な因縁でつながれているのである。すなわち一つの公算的な因果の現われだともいわれるであろう。(昭和十年十月十五日)[#改ページ]

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 聯合艦隊が芝浦(しばうら)に集合して、昼は多勢の水兵が帝都の街頭に時ならぬユニフォームの花を咲かせ、夜は品川湾の空に光芒(こうぼう)の剣の舞を舞わせた。
 この日病床で寝ていたらたくさんの飛行機が西の空から東へかけてちょうど蜻蛉(とんぼ)の群れのように、しかも物すごいうなり声を立てて飛んで行くのが縁側の障子のガラス越しにあざやかに見えた。
 このページェントが非常時の東京市民にわが海軍の偉容を示して、心強さと頼もしさを吹き込むという効果を持ったであろうという事には少しの疑いはない。
 しかし物は考えようである。私はこの百余台の飛行機の示威運動を病床からながめながら、もしかわが聯合艦隊の航空兵器の主力がたったこれだけのしかもあまり世界的に自慢のできない飛行機で代表されているのだとしたら、なんという心細いことであろうという気がした。そうして外国映画や絵入り雑誌の挿し絵で見る欧米列強の飛行隊の壮観を思い浮かべ、一方ではまたわが国の海軍飛行機のあまりにも頻繁(ひんぱん)な墜落事故の記録を胸算用でかぞえながら、なんとなく暗い気持ちにいざなわれるのであった。
 これはおそらくその日の病苦のせいであったかもしれない。(昭和十年十月十五日)[#改ページ]

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 蝶や鳥の雄が非常に美しい色彩をしているのは雌の視覚を喜ばせてその注意をひくためだというような説は事実に合わないものだということがいろいろの方面から説明されているようである。自分の素人(しろうと)考えではこの現象はあるいはむしろ次のように解釈さるべきものではないかと思う。
 周囲の環境と著しく違った色彩はその動物の敵となる動物の注意をひきやすく従ってそうした敵の襲撃を受けやすいわけである。そういう攻撃を受けた場合にその危険を免れるためには感覚と運動の異常な鋭敏さを必要とするであろう。それで最も目立つ色彩をしていながら無事に敵の襲撃を免れて生き遺ることのできるような優秀な個体のみが自然淘汰の篩(ふるい)にかけられて選(よ)り残され、そうしてその特徴をだんだんに発達させて来たものではないか。
 戦争好きで、戦争に強い民族なぞの発生にいくらかこれに似た選択過程が関係しているのではないかという気がする。(昭和十年十月十六日)[#改ページ]

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 先ごろ警視庁で東京市のギャング狩りを行なったときに検挙された「街の紳士」たちの中に、杯やコップを噛み砕いてくちびるから赤い血を出して相手を縮みあがらせるというのがいた。この新聞記事を読んだとき私は子供の時分に見た「ガラスを食う山男」の見世物のことを思い出した。
 高知の本町(ほんまち)に堀詰座(ほりづめざ)という劇場があった。そこの木戸口の内側に小さな蓆囲(むしろがこ)いの小屋をこしらえて、その中にわずかな木戸銭で入り込んだせいぜい十人かそこいらの見物のためにこの超人的演技を見せていたいわゆる山男というのはまだ三十にもならないくらいの小柄な赭(あか)ら顔(がお)の男であったが、白木綿の鉢巻でまっ黒に伸びた頭髪を箒(ほうき)のように縛り上げて、よれよれの縞(しま)の着物とたっつけ袴(ばかま)に草鞋(わらじ)がけといういでたちで、それにまっかな木綿の扱帯(しごき)のようなもので襷(たすき)がけをした、実に悲しくも滑稽(こっけい)にして颯爽(さっそう)たる風□(ふうぼう)は今でも記憶に新たである。
 なんでも蛇をかじって見せたり、うさぎの毛皮の一片を食いちぎって見せたりした。それからおしまいには大きなランプのホヤのこわれたのを取り出して、どんどんじゃんじゃんという物すごい囃子(はやし)に合わせてそれを見物の前に振り回して見せたあとで、そのホヤのガラスの一片を前歯で噛み折りそれをくちびるの間に含んで前につき出し両手を広げて目をむき出し物すごいみえをきった。かけらがくちびるからひっこんだと見ると急に四股(しこ)を踏むようなおおぎょうな身振りをしながらばりばりとそのガラスを噛み砕く音を立て始めた。赭ら顔がいっそう朱を注いだように赭くなって、むき出した眼玉が今にも飛び出すかと思われた。
 噛み砕く音がだんだんに弱く細かくなって行った。やがて噛み砕いたものを呑み下したと思うと、大きな口をかっと開いて見物席の右から左へと顔をふり向けながら、口中にもはや何にも無いという証拠を見せるのであった。その時に山男の口中がほんとうに血のようにまっかであったように記憶している。
 この幼時に見た珍しい見世物の記憶が、それから三十余年後に自分が胃潰瘍(いかいよう)にかかって床についていたときに、ふいと忘却の闇から浮かび上がって来た。
 あの哀れな山男は、おそらくあれから一、二年とはたたない間に消化器の潰瘍にかかってみじめな最期を遂げたに違いない。言わば、生きるためにガラスを食って自殺を遂げたようなものである。
 街の紳士の場合もいくらかこれと似たところがあるかもしれない。(昭和十年十月十六日)



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