柿の種
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著者名:寺田寅彦 

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 夜中に眼が覚めた。どこかで「デンポー、デンポー」と言っているらしい声が聞こえる。それから五分もたつとまた同じような声が聞こえる。あまり長い間をおいてしばしば繰り返されるから不思議だと思って注意していると数町さきの通りを通る自動車の「ブ、ブー」という警笛が聞こえる。さっきの「デンポー」はやはり自動車の警笛であった。笛のうちには音色がかなり人声に似たのがあると見える。
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 犬吠岬(いぬぼうざき)の茶店の主人の話だそうである。三十年来の経験で、自殺者心中者はたいてい様子でわかる。思案にくれて懊悩(おうのう)しているようなのはかえって死なない。写真でも撮らせたり、ひどく元気よくはしゃいでいるのが怪しいということである。いったい死ぬほどに意気銷沈(いきしょうちん)したものなら首くくりの縄(なわ)を懸けるさえ大儀な気がしそうである。それをわざわざ遠く出かけて、しかも三原や浅間に山登りをする元気があるのは不思議なような気がする。こういう種類の自殺者は、悲観のためではなくてみんな興奮のために死ぬるのだろうと思われる。
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 第一相互館の屋上で夜の銀座をながめていたら、突然停電で屋上はまっ闇になり、同時に銀座の両側の街燈も消えたが、街壁を飾るネオンサインはみんな平気でともっていた。しばらくして、街燈が一度にともったが、自分らのいる屋上はまだまっ暗であった。そうして楼下の町でまずぱっと明るさが増して、しばらくしてからやっと屋上が点燈した。人間の中風(ちゅうぶう)のメカニズムを想い出すのであった。
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 電話が自働式に変わると同時に所属局が「小石川(こいしかわ)」から「大塚(おおつか)」に移り、さらにまた番号がもとより三〇〇〇だけ数を増した。なんだか自分のうちが遠い所へ持って行かれたような気がする。居(きょ)は心を移すというが、心は居を移すとも言われそうである。
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 去年の秋手賀沼(てがぬま)までドライヴしたついでに大利根(おおとね)の新橋まで行ってみた。利根川の河幅はこの橋の上流の所で著しく膨大(ぼうだい)して幅二キロメートル半ほどの沼地になっている。それにただ一面に穂芒(ほすすき)が茂り連なって見渡す限り銀色の漣波(さざなみ)をたたえていた。実にのびのびと大きな景色である。橋のたもとの土手を下りて見上げると、この長さ一キロメートルのまっすぐなコンクリートの橋の下にそれと並行して下流の鉄道の鉄橋が見え、おりから通りかかった上り列車が玩具(おもちゃ)の汽車ででもあるように思われた。
 今までいっこう聞いたこともないこんな所にこんな絶景があると思うことはここに限らずしばしばある。そういう所はしかしたいてい絵にかいても絵にならず、写真をとってもしようのないようなところである。有名な名所になるための資格が欠けているのである。
 こういう所の美しさは純粋な空間の美しさである。それは空虚な空間ではなくて、人間にいちばんだいじな酸素と窒素の混合物で充填(じゅうてん)され、そうしてあらゆる膠質的(こうしつてき)浮游物で象嵌(ぞうがん)された空間の美しさである。肺臓いっぱいに自由に呼吸することのできる空気の無尽蔵の美しさなのである。
 往復ともに小菅(こすげ)の刑務所のそばを通った。刑務所の独房の中の数立方メートルに固く限られた空間を想像してみたときに、この大利根河畔の空間の美しさがいっそう強烈に味わわれるような気がするのであった。
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 昨年九月の暴風雨で東京の街路樹がだいぶいじめられた。たぶんいわゆる「塩風」であったためか、樹々の南側の葉が焦げたように黒褐色(こくかっしょく)に縮れ上がって、みじめに見すぼらしい光景を呈していた。丸(まる)の内(うち)の街路の鈴懸(すずかけ)の樹のこの惨状を実見したあとで帝劇へ行って二階の休憩室の窓からお堀(ほり)の向こう側の石崖(いしがけ)の上に並んだ黒松をながめてびっくりした。これらの松の針葉はあの塩風にもまれてもちっとも痛まないばかりかかえってこの嵐に会って塵埃(じんあい)を洗い落とされでもしたのか、ブラシでもかけたかと思うようにその濃緑の色を新鮮にして午後の太陽に照らされて輝いているように思われた。
 日本の海岸になぜ黒松が多いかというわけがはじめてはっきりわかったような気がしたのであった。
 国々にそれぞれ昔から固有なものにはやはりそれぞれにそれだけのあるべき理由があるのである。
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 昭和九年の十一月中旬には東京の丸の内のところどころの柳が青々として風になびいていた。その一方で銀杏(いちょう)はもうすっかりその黄葉をふるい落としているのであった。
 十月には武蔵野のどこかで桜が返り咲きに満開したそうである。十一月二十五日になってもまだ庭のカンナが咲き続けていた。
 植物でも季節の変調にだまされやすいのとそうでないのとあるらしい。
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 夏目先生のお弟子(でし)と見られている人がかなりおおぜいいるようである。この「お弟子」の意味がずいぶん漠然としていて自分にはよくわからない。少し厳密に分類するとこの「お弟子」の種類が相当たくさんにありそうである。古いほうでは松山の中学校で先生から英語を教わった人たちがある。その中でそれっきりもう直接には先生と交渉を失った人々もやはり弟子の一種である。またそうした人たちの中で後になって再び先生と密接な交渉をもつようになった人の中でもMN君のようにあらゆる意味で師事した人もあれば、またMB氏のように医師として接触した人もある。それからまた熊本高等学校時代に英語を教わった人々、その中で自分などのように俳句をも教わったために先生の私邸に出入することのできた果報ものもある。もしかすると逆に出入するために俳句を教わったのではないかという嫌疑(けんぎ)もなくはない。また先生の家に食客となって日常親しく先生の人に接近することのできた幸運の人たちもある。次には先生の東京時代に一高(いちこう)や大学で英語英文学を教わった広い意味での弟子たちがある。その中で先生の千駄木町(せんだぎちょう)時代にその門に出入した人たちがある。一方では英文学科以外の学生でそのころの先生の門下に参じた人もあるかと思われる。
 千駄木時代は先生の有名になり始めからだいたい有名になりきるまでの時代で、作品から言っても「猫」から「虞美人草(ぐびじんそう)」へかけての時代である。このころの先生にひきつけられて先生の膝下(しっか)に慕い寄ったお弟子にはやはりそれだけの特徴がありはしないかと思われる。短い西片町(にしかたまち)時代を経て最後の早稲田時代になると、もう文豪としての位地の確定した時代で、作品も前とはだいぶちがった調子のものになってしまっていた。この時代に新たに門下に参じた人々の中には千駄木時代の先生の要素に傾倒した人とまたこの時代の先生の新しい要素に牽引(けんいん)された人とがあって、それぞれちがった特色をもっているのではないかと想像される。しかし具体的の分類をしろと言われるとやはりむつかしい。
 それはとにかく先生の芸術なりまたその芸術の父なる先生の人に吸引されてしばしばその門に出入した人々を「お弟子」と名づけることになっているようである。しかしこの上記の定義は実ははなはだ不完全であるかと思われる。たとえば故○○君のごとく先生に傾倒して毎週ほとんど欠かさず出入りして、そうして先生の揮毫(きごう)を見守っていた人が、やはり普通の意味でお弟子と言われるかどうか疑問である。そのほかにも始終先生に接していながら先生からどれだけの精神的影響を受けたかということがわかりにくい人もあるかもしれない。反対に先生に接しないでただその作品だけから異常に強い影響を受けている人もたくさんあるかもしれない。こうなると何がお弟子で何がお弟子でないかわからなくなってしまう。
 しかし、どんな人でも先生に接して後のその人を見て、もし先生に接しなかったとした場合のその人を推察することは不可能であるから、先生の影響が無いなどとは言われないわけである。してみると結局「お弟子」の定義には証明の可能な「門戸出入」の頻度(ひんど)を標準とするのが唯一の「実証的」な根拠なのであろう。
 もし何かの訴訟事件でも起こって甲某が先生の弟子であったか、なかったかという事が問題になったとしたら――そんなことがありうるかどうかは知らないが――その時にはやはりこの「実証」以外に何物も物を言わないであろうと思う。
 お弟子の名もはかないものである。
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 震災や火災や風水害に関する科学的常識とこれに対する平生の心得といったようなものを小学校の教科書に入れるということは、日本のような国では実に必要なことである。これはほとんど「問題にならぬ」ほど明白なことであると思われるのに、これがどういうわけだかいっこうに実行されていないで時々「問題になる」ようである。
 自分の想像するところでは、結局教科書を編纂(へんさん)する機関の中に科学的な頭脳とその主動的な要素が欠除しているのではないかと思われる。もしかこの想像がいくぶんでも当たっているとしたら、はなはだ逆説的な言い分ではあるが、小学生を教える前にまず文部省を教育しなければならないのだとも言われるかもしれない。
 小学教科書の編纂にはやはり単に文科方面のみならずあらゆる主要な自然科学の各部門からの代表者を集めて資料選択の任に当たらせる必要があるかと思われる。
 多くの人の見るところでは、小学の教科書には忠良なる文化的日本人として一生知らなくてもたいしてさしつかえのないような事項が数々ある一方で、知らなくてはならないとわれわれに思われる事で書いてないことがたくさんあるようである。
 たとえば手近なところで震災火災風災に対する科学的常識とか、細かいことではたとえば揮発油取り扱いの注意とか、誤って頭を打撲したときの手当とかいうものは万人必要の知識であるが自分の知る限り少なくも十分には取り扱われていない。
 I博士の言うところを無断で借用すれば、ドリアンという臭くてうまいくだもののことなど知らなくても日本人の一分(いちぶん)は立つのである。またこうした種類の知識は心がけのある児童で後日そういう知識を必要とするような階級になるべき素質をもったものなら教科書で教わらなくても雑誌などからいくらでも覚えるであろうし、また、一生そんな知識を要しないような階級の子供ならせっかく教科書で骨折って教えてもおそらく三年たたない間にきれいに忘れてしまいそうに思われる。
 児童教育より前にやはりおとなであるところの教育者ならびに教育の事をつかさどる為政者を教育するのが肝要かもしれない。
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 学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をするととかく講義がむつかしくなりやすい。これにはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。
 若い学者が研究論文を書くと、とかくひとり合点で説明を省略し過ぎて、人がよむとわかりにくいものにしてしまう場合が多い。これもいろいろの理由があるが、一つには自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の水準を高く見積もり過ぎるためもあるらしい。
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 昭和九年の秋英人スコットの乗った飛行機が英国と濠州(ごうしゅう)メルボルンとの間をたった七十一時間で飛び渡った。
 その目ざましい成効の報知がわが国に伝わった晩にちょうど日本の東京のJOAKで文士の航空に関する座談会というのが放送された。それは先日新聞社の催しで数名の知名の文士を北半日本のリレー飛行に搭乗(とうじょう)させた、そのときの感想を話し合わさせるという趣向なのである。
 いずれも生まれて初めて飛行機に乗って珍しく感じたことを談(かた)り合ってそれを全国の聴取者に聞かせるのである。
 世界地図をあけてスコットの飛んだ距離と、これらの日本の文士の一人ずつが飛んだ距離とを比べてみたときに、なんとなく多少の皮肉な感じを起こさないわけには行かなかった。
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 上野公園の一隅(いちぐう)にある鉄筋コンクリートの建物の中で時々科学者が寄り集まって事務的な相談会を開くことがある。事務は事務だがともかくもむつかしい学問に関係した人事の相談である。寄り合う人々はみんなまじめな浮世離れのした中年以上の学者ばかりである。こういう会が朝の十時ごろから始まって昼飯時一時間の休憩があるだけで午後六時ごろまでもぶっ通しに続くことも珍しくない。
 こういうときに、会が終わってほっとした気持ちで外へ出て、そうして連れに別れて一人でぶらぶら公園を歩いていると、いつも見飽きるほど見馴れた公園の森や草木が今までかつて見たことのないように異常に美しく見え、また行き通りの人々の顔が実に楽しく喜ばしそうに見え、そうして特に女子供がたとえようもなく美しく愛らしく見えてくる。今まで堅く冷たくすっかり凍結していた自分の中の人間らしい血潮が急に雪解けのように解けて流れて全身をめぐり始めるような気がするのである。
 学者であって、しかも同時に人間であることがいかにむつかしいものかということをつくづく考えさせられるのは、そういう時である。
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 血液の化学成分は驚くべき精密さをもって恒同に保たれている。ちょっと労働でもして血液中の水素イオン濃度がわずかに一億分一だけ増すとすぐ呼吸が忙(せわ)しくなって血液中の炭酸ガスを洗滌(せんじょう)させる。
 人間の社会もこのくらい有機的になって、全系統の生理に有害なものを自働的に駆逐(くちく)するような機巧(きこう)が具わっているといいと思う。
 現在でもある程度まではすでにそうなっているかもしれない。しかしこの調節作用を阻害するような病気があまりに多く、それに対する抵抗力があまりに弱いのではないかと思われる。
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 ある日電車で新宿の通りを通過しながら街路をながめていると、両側の人道にほとんど軒並みに同じような建て札が立ち並んでいる。見るとそれには区会議員か何かの候補者の名前が書いてある。小さな張り板ぐらいの恰好の木枠に白紙を貼って、それに筆太に墨黒々と「原野九郎(はらのくろう)」とか「小菅雷三(こすげらいぞう)」とか「不破伊勢次(ふわいせじ)」とかそういった感じのする名前が書きひけらかしてある。
 その建て札に交じってまたところどころこれとよく似てはいるが少し風変わりな建て札が見える。それには「よせ鍋はま鍋」「蒲焼(かばやき)三十銭」「○○大特売大安売り」などという文句が読まれる。
 建て札が同型であるという事実の裏にはその建て札の内容にも若干の共通点があるという事を暗示するのではないかという気がした。
 どちらも「売り物」である。そうしてどちらにも用心しないと喰わせ物があるかもしれない。
 食物や商品のいかものが市民に及ぼす害毒は、腐敗した議員たちのそれに比べたらそれほどでもないであろう。
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 元素には今では原子番号数というものができて、何番の元素と言えばそれで事柄は完全に確定する。それだのに今でも科学者はやはり水素とか酸素とかテルリウムとかウラニウムとか、言わば一種の「源氏名(げんじな)」のようなものをつけて平気でそれを使っているのである。人間味をできるだけ脱却しよう、すべての記載をできるだけ数学的抽象的なものにしようという清教徒的科学者の捨てようとしてやはり捨て切れない煩悩(ぼんのう)の悲哀がこういうところにも認められるであろう。
 科学といえども人間の産んだ愛児の中の愛児である。血の気を絞り取ってしまったら乾干(ひぼ)しになって、孫を産む活力などは亡(な)くなってしまいはしないかという気がする。
 それはとにかく、元素の名前に「桐壺(きりつぼ)」「箒木(ははきぎ)」などというのをつけてひとりで喜んでいる変わった男も若干はあってもおもしろいではないかと思うことがある。しかしもしそんなのがあったらさぞや大学教授たちに怒られることであろう。
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 自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにいないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡(うしな)われるせいではないかと思われる。
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 髪を短くしている人は大概髪を延ばすと醜くなるようなたちの人だと床屋が言う。それはそういう場合もあるかもしれないが、またそうでない場合があるかもしれない。
 いつもとりすました顔をしている女は、たぶんすましたときのほうがいちばん美しく見えるような型であり、始終笑顔(えがお)を見せている女は、やはりそうしたほうがすましているより美しく見えるような型の顔であるかもしれない。少なくも当人がそう信じていることだけは慥(たし)かであろうと思われる。
 めいめいで口をきいてめいめいの意見を吐露すべき会合の席上でいつでも黙々として始めからおしまいまで口を利かない人がある。もしかするとそれは口をきくと自分の美と尊厳をそこなうことを恐れる人ではないかという気がする。またこれと反対にいわゆる一言居士(いちげんこじ)と称するのもある。これはもちろん自分の一言の真と美を信ずるからのことであろう。しかし、自分の「我」に固執する点ではどちらも似たものである。
 公人としての会議ではやはり公の問題そのものの前に自分の私を忘れるべきであろう。「顔」を気にする女の場合とはちがうと思われる。
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 猫の尻尾(しっぽ)は猫の感情の動きに応じてさまざまの位置形状運動を示す。よく観察していると、どういう場合にどんな恰好をするかということはいくらかわかって来る。しかし、尻尾のないわれわれ人間には猫の「尻尾の気持ち」を想像することは困難である。舌で舐めたり後脚(あとあし)で掻いたりする気持ちはおおよそ想像してみることができても尻尾の振りごこちや曲げごこちは夢想することもできない。従ってわれわれは猫の尻尾の行動について「批評」する資格を持ち合わせない。
 科学の研究に体験をもたない言わばただの「科学学者」の科学論には往々人間の書いた「猫の尻尾論」のようなのがあるのも誠にやむを得ない次第であろう。
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 昭和九年十月十四日、風邪(かぜ)をひいて二階で寝ていた。障子(しょうじ)のガラス越しに見える秋晴れの空を蜻蛉(とんぼ)の群れが引っ切りなしにだいたい南から北の方向に飛んで行く。よく見るとほとんど皆二匹ずつタンデム式につながったもので、孤独な飛行者はきわめてまれである。おそらく二十分ぐらいの間この群飛がつづいたので、数にしたらおそらく莫大なものであろうと思われた。ちょっと見積もっても数千という数であろうと思われる。
 この群れはどこの池沼で発生して、そうしてどこを目ざして移住するのか。目的地の方向を何で探知するか。渡り鳥の場合にでも解釈のつきにくいこれらの問題はこのいっそう智能の低い昆虫の場合にはいっそうわかりにくそうである。
 二匹ずつつながっているのが、それぞれ雌雄のひとつがいだとすると、彼らの婿(むこ)選み嫁(よめ)選みがいかにして行なわれるか。雌雄の数が同一でない場合に配偶者をもとめそこねた落伍者(らくごしゃ)の運命はどうなるか。
 こうした問題が徹底的に解かれるまでは人間の社会学にもまだどんな大穴が残され忘れられているかもしれないであろう。
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 省線電車渋谷駅の人気者であった「忠犬」の八公(はちこう)が死んだ。生前から駅前に建立(こんりゅう)されていたこの犬の銅像は手向(たむけ)の花環に埋もれていた。
 たかが犬一匹にこのお祭り騒ぎはにがにがしい事だと言ってむきになって腹を立てる人もあった。
 しかし、これがにがにがしければすべての「宗教」はやはりにがにがしく腹立たしいものでなければならない。
 ある日上野の科学博物館裏を通ったら、隣の帝国学士院の裏庭で大きな白犬の写真を撮っていた。犬がちっとも動かないでいつまでもじっとしておとなしくカメラのほうを見つめている、と思ったら、そばに立っていた人がひょいとその胴をかかえて持ち上げ、二、三歩前のほうへ位置を変えたのでそれが剥製(はくせい)だとわかった。写真師のそばに中年の婦人が一人立っていた。片手を頬にあてたままじっと犬のほうを見ていた。
 翌朝新聞を見るとこの犬の写真が出ていた。やはりそれが八公であったのである。
 この剥製の写真を撮っている光景を見たときにはやはり自分の胸の中にしまい忘れてあった「宗教」がちょっと顔を出した。(昭和十年六月十二日)[#改ページ]

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 親がつけてくれた名が気に入らなくなって改名する人がある。姓名判断という迷信的な俗説を信じて改名するのはまた別であるが、そうでなくて改名する人にはおのずから共通な性質があるような気がする。あえて弱点というほどではないがとにかく若干の人のよさがあるような気がする。
 自分の知った人で非常に珍しい姓があった。おまけに名まで変っているのであったが、その人は快活で無頓着(むとんじゃく)な性質で自分の姓名の変なことなど意に介しないように見えた。ところがその人の子供が小学校へはいるころになって重大な問題がその名字にからんで起こって来た、と言うのは、その子が学校でみんなにその名前をからかわれ笑われるのをひどく気にして学校がいやになり気持ちがだんだんひがんで来た。そうして、そのためだかどうだか、そこまではだれにもわからないが、とにかくまもなく病死してしまった。その後その子の父は郷里へ帰って家系に関する徹底的の調査をして、何かしら適当の理由らしいものを捜し出し、それを申し立ててやっとの事で革姓の手続きを済ますことができた。
 これで思い出すのは、昔紅葉山人(こうようさんじん)の書いた何かの小品の中に、物好きな父親がその女の子におさるという名をつけた話があったように思う。妙齢(みょうれい)になってしかも人並みすぐれて美しい娘を父親が人前でおさるおさると呼び立てた、というのである。その結果がどうなったかは忘れてしまった。
 電車の運転手や車掌には実際変った姓名が多いようである。しかし、これが、異った姓名の人は車掌や運転手になる確率が多いという証拠にはならない。たとえば一方には車掌運転手の名簿、一方には帝国大学生の名簿を置いて比較統計を取ってみなければならない。しかしそうなると「変った姓」と「変っていない姓」とを分類する標準が非常にむつかしくなってちょっと手がつけにくい仕事になるであろうと思われる。
 しかし、変った姓はしかたがないとして、断然変った名の持ち主百人と、常識的にちっとも変っていないと判断される名の持ち主百人とを選び出して、その当人は問題とせず、それらの人々の父親について、その社会的地位階級、教育の程度、趣味の品別等について統計してみたら、あるいは多少の差別が認められはしないかという気がする。
 もし多少でもそうであったとしたら、父の差別が子の差別に多少でも反映していないとも限らないと考えられるのである。
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   木蓮


 白木蓮(はくもくれん)は花が咲いてしまってから葉が出る。その若葉の出はじめには実にあざやかに明るい浅緑色をしていて、それが合掌したような形で中天に向かって延びて行く。ちょうど緑の焔をあげて燃ゆる小蝋燭(ころうそく)を点(とも)しつらねたようにも見える。
 紫木蓮(しもくれん)は若葉のにぎやかなイルミネーションの中からはでな花を咲かせる。濃い暗いやや冷たい紫のつぼみが破(わ)れ開いて、中からほんのり暖かい薄紫の陽炎(かげろう)が燃え出る。そうして花の散り終わるまでにはもう大きな葉がいっぱいに密集してしまう。
 桜でも染井吉野(そめいよしの)のように花が咲いてしまってから葉の出るような種類が開花のさきがけをして、牡丹桜(ぼたんざくら)のような葉といっしょに花をもつようなのが、少しおくれて咲くところを見ると、これには何か共通な植物生理的な理由があるらしい。
 人間でもなんだか、これに似た二種類があるような気がするが、何が「花」で何が「葉」だかが自分にはまだはっきりわからない。
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   学会


 いろいろの学会にはいっている。すすんで入会したのもあり、いつのまにか入れられていたのもあり、また強いてはいらされたのもある。数にしたら二十近い会の会員になっている。
 学会にはそれぞれ例会や総会がある。それに一々出席していたらきりがないからたいてい出ないことにしている。
 どうも日本人はいろいろな会をこしらえることの好きな国民ではないかという気がする。
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   琴


 学生時代には本郷へんの屋敷町を歩いているとあちらこちらの垣根の中や植え込みの奥から琴の音がもれ聞こえて、文金高島田(ぶんきんたかしまだ)でなくば桃割れ銀杏返(いちょうがえ)しの美人を想像させたものであるが、昨今そういう山の手の住宅区域を歩いてみても琴の音を聞くことはほとんど皆無と言ってもいいくらいである。そのかわりにピアノの音のする家が多くなったが弾いている曲はたいてい初歩の練習曲ばかりである。まっ黒な腕と足を露出したおかっぱのお嬢さんでない弾き手を連想するのは骨が折れるようである。
 たまにいい琴の音がすると思ってよく聞くとそれはラジオである。
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   漫画


 新聞の日曜附録の一ページに大掃除を題材にした漫画がいろいろ出ている中に岡本一平(おかもといっぺい)氏のがある。おかっぱ洋装の孫娘がお祖母(ばあ)さんとバタ入れとにほこりがかからないようにと大きな鶏籠のようなものをすっぽりかぶせておいたのをおかあさんが見つけて驚いて籠を引き起こしている図である。おばあさんはおとなしくバタ入れといっしょに小さくなって籠の下に収まって何かむしゃむしゃ食べている。孫娘のほうは平気にほがらかにあちらを向いてはたきをふるっているのである。
 ほかにも数々の漫画があるが、どうもただ表面だけふざけていて中味の何もないのが多いようである。一平氏のには、多くの場合にそうであるように、おかしみの底に人情味が流れていて噛みしめるとあわれがにじみ出す。この漫画なども、現代の家庭における老祖母と主婦と孫娘との三角関係を心理的に描写し尽くして余すところがないような気がする。その真実性の中からおかしみも美しさもあわれも生まれてくるのであろう。
 ただ一枚の漫画でもこういうのを朝食時に見ると、その日一日ぐらいは自分の心情の上に何かしらよい効果を残すように思われる。
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   笑い声


 初夏のある日友人と京橋近くの七階楼上で昼飯を食った。すがすがしい好晴の日で食卓から見下ろす銀座方面のながめははればれと明るくいきいきと美しいものであった。一隅の別室からにぎやかな爆笑が間歇的(かんけつてき)に聞こえて来る。その笑声から判断すると、どうしても女学校の生徒の集会らしい。食卓を囲む制服を着たおさげやおかっぱの一団を想像させた。
 席を立って帰りがけに開け放したその別室をのぞいて見ると、意外にもそれは「制服の処女」たちではなくて、みんなもう三十前後の立派な奥さんたちの集会であった。
 奥さんたちの笑い方と女学生の笑い方とはたしかに区別があるはずである。それだのに別室で聞いた笑声はどうしても十五、六、七、八の女生徒の集団にのみ聞かれる笑声であった。
 やはりどこかの女学校の第何回卒業同窓会であろうと思われた。同窓の顔が寄り合った機会に彼女たちの十余年昔の笑いが復活したのではないかと思われて、なんとなくほほえましい気持ちのしたのはあながち青葉時の好晴の天気のせいでもなかったようである。
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   講演の口調


 ラジオなどで聞くえらい官吏(かんり)などの講演の口調は一般に妙に親しみのないしかつめらしい切り口上が多くてその内容も一応は立派であるがどうも聴衆の胸にいきなり飛び込んで来るようなものが少ない。
 ある会議の席上である長官がある報告をするのを聞いていたとき、ふと前述の講演のタイプを想い出した。
 長官はその属僚の調べ上げてこしらえた報告書を自分のものにして報告しなければならない。それで文句はわかってもその内容は実はあんまり身にしみていないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生まれるのではないかという気がした。
 これに反して、文士でも芸術家ないし芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁(とつべん)雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底のほうに何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
 学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
 空腹はなかなか隠せないものらしい。
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   不審紙


 子供の時分に漢籍など読むとき、よく意味のわからない箇所にしるしをつけておくために「不審紙(ふしんがみ)」というものを貼り付けて、あとで先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞(しおり)とした。
 短冊形(たんざくがた)に切った朱唐紙(とうし)の小片の一端から前歯で約数平方ミリメートルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたのを、右の拇指の爪(つめ)の上端に近い部分に移し取っておいて、今度はその爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤(のみ)をつぶすような工合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。この小紙片がすなわち不審紙である。不審の箇所をマークする紙片の意味である。噛み切る時に赤い紙の表を上にして噛み切り、それをそのまま舌に移し次に爪に移して貼り付けるとちょうど赤い表が本のページで上に向くのである。朱唐紙は色が裏へ抜けていなかったから裏は赤くなかったのである。
 そのころでもすでに粗製のうその朱唐紙があって、そういうのは色素が唾液(だえき)で溶かされて書物の紙をよごすので、子供心にもごまかしの不正商品に対して小さな憤懣(ふんまん)を感じるということの入用をしたわけである。
 不審が氷解すればそこの不審紙を爪のさきで軽く引っ掻いてはがしてしまう。本物の朱唐紙だとちっともあとが残らない。
 中学時代にはもう不審紙などは使わなかった。そのかわりに鉛筆や紫鉛筆でやたらにアンダーラインをしたり、?や!を書き並べて、書物をきたなくするのが自慢であるかのような新習俗に追蹤(ついしょう)してずいぶん勉強して多くの書物を汚損したことであった。
 それはとにかく、日本紙に大きな文字を木版刷りにした書物のページに、点々と真紅の不審紙を貼り付けたものの視像を今でもありありと想い出すことができるが、その追憶の幻像を透して、実にいろいろな旧日本の思想や文化の万華鏡がのぞかれるような気がするのである。
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   学会警察


 英国の物理学者Dとオーストリアの物理学者Bとが日本へ遊びに来て大学や理化学研究所で講演をしたがいずれも満員以上の盛況だったそうである。
 Dは数年前にも一度来朝したが、その後ノーベル賞をもらって世界第一流の学者としての折り紙をつけられた。Bはこれに比べれば今のところ第二流の仲間である。それが偶然にDといっしょに日本へ来たので、同時に肩を並べて歩き、同じ演壇で講演をした。B一人で来たら講演会が催されたかどうかというようなことが学界ゴシップの話題になった。
 Dを大学の某研究所に案内していろいろな業績を見せた。前に来たときはかなりいろいろの事に興味を示したそうであるが、今度はいっこうにそっけなくて何を見せても冷淡な態度しか見せなかった、とにかくそういうふうにその研究所の人たちには感ぜられたそうである。
 以上の事実はいろいろな意味で記録しておく価値があると思われる。
 ずっと前にアインシュタインが来朝したときのことをいろいろ思い出す中に一つあまり従来記録されていないと思うきわめて興味ある現象がある。
 アインシュタインが大学内を歩いているときにはいつでも、その後ろに学界の長老たちが影のように附き添って歩いていた。集会の席でも護衛兵のように引き添って立ったりすわったりしていた。珍客を遇する礼として当然のことと思われた。自分らのような弱輩のものがこの碩学(せきがく)に近づいて何か話でもしようと思うと、その護衛のかたがたの中には急に眼を見張りあるいは眉(まゆ)を顰(ひそ)めてその近よるものが何を言い出すかといったような緊張と不安の表情を正直に露出する人もあった。それでたいていの気の弱いものは近寄りたくても近寄れないで遠方からながめるだけであった。なるほど弱輩なものが突拍子もないまずい質問をしたりしては失礼にもなるしまた日本の学界の恥辱(ちじょく)になるという心配もあることであろうと思われたことであった。
 それから後は、もう西洋から有名な学者が来てもあまり近よらないことにした。第一言語が不随意で思ったことの三分一も言えず先方のいうこともどれだけわかったかわからないかさえわからないからわざわざ危険を冒して近よることもないと思ったのである。ただ遠方からその風采(ふうさい)や態度をながめることの興味で満足していた。
 それでも、どうかすると自分の研究室へ外来の学者を案内して来られることがある。その案内者が親しい同僚だけであればなんでもないが、しかしその中に学界の監察官のようなかたが一人でもいて来客の肩の後ろで厳粛な顔をしていられると自分の口は自然に膠着(こうちゃく)してしまって物が言えなくなる。
 こうした監察官も日本の名誉のために必要かもしれない。
 とにかく以上の事実は記録に値する。これは自分だけの体験した事実ではなくてかなり多数の同学者が多少ちがった程度と形式とで体験した事実だからである。(昭和十年六月)[#改ページ]

   死刑囚


 友人の生理学者が見せてくれた組織学(ヒストロギー)の教科書の中にいろいろな人体の部分の顕微鏡写真がたくさん掲載されている。その図の下にある説明を読んで行くと「ある若き死刑囚の○○」といったようなのがかなり多数にある。
 虎(とら)や豹(ひょう)は死してその毛皮をとどめる。そうして人間の生活になにがしかの貢献をすると同時に自己がかつてこの世に生存していたという実証を残す。
 この世に活かしておけないという理由で処刑された人間の身体の一局部のきわめて微細な顕微鏡標本は生理学や医学の教科書に採録されて世界の学徒を教育する。
 くだらない人間や、あるいはきわめていけない人間の書いたものでも後世を益することはある。たとえそれがどんなうそでも詐(いつわ)りでも、それでもやはり人間のうそや詐りの「組織」を研究するものの研究資料としての標本になりうる。ただしそれが「詐らざるうそ」「腹から出たうそ」でないと困るかもしれない。
 とは言うものの、「佯(いつわ)りのうそ」でも結局それがほんとうに活きていた人間の所産である限り、やはりそれはそれとしての標本として役立つかもしれない。
 全く役に立たない人間になる、ということほどむつかしい事はないかもしれない。(昭和十年七月三日)[#改ページ]

   ノルマンディー


 今度フランスで造った世界一の巨船ノルマンディーに関する記事がたくさんの美しい挿画(さしえ)や通俗的な図解で飾られてリリュストラシオンに載せられている。七万九千トン十六万馬力、船の全長三百十三メートル。食堂、社交室、喫煙室の壮大はもちろん、劇場、教会堂、水泳プールから保安警察のようなものまで具備している。全く掛け値なしに海上のビルディングである。
 数週前の同じ雑誌には大西洋横断旅客飛行機リュートナン・ドゥ・ヴェーソー・パリ号のことが出ていた。重量三七トン、動力五千三百馬力で、三四トンの荷物を積み、毎時一七五キロメートルないし二二〇キロメートルの速度で大西洋を無着陸で飛ぼうというのである。
 フランスに現在「世界一熱病」の流行していることがうかがわれる。
 日本もいろいろな精神的なことでは世界一を自信しているようであるが、科学とその応用方面でどれだけの自信があるか疑わしい。多くの方面ではむしろ反対に一生懸命「世界一」になることを忌避(きひ)しているのではないかと思われるふしがある。日本人の出した独創的な破天荒なイデーは国内では爆発物以上に危険視される。しかし同じ考えが西洋人によって実現され成効するのを見ると、はじめてやっと安心して、そろそろその成果の模倣をはじめる。「外国のに劣らぬものができた」というのが最高の誇りである。しかしそれができたころには外国ではもう次の世界一が半分できかかっている。(昭和十年七月十三日)[#改ページ]

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 腰の屈伸の不自由な病気にかかった。寝ているか、立っているのはいいがすわったり腰かけたりしているのがどうもぐあいが悪い。特に腰を低く下ろすような椅子(いす)がいけない。
 珍しい秋晴れの日に縁側へ出て庭をながめながら物を考えたりするのにぐあいのいいような腰の高い椅子があるといいと思う。しかし近ごろは昔あったような高い籐椅子(とういす)はもうめったに見当たらない。みんな安楽椅子のような扁平(へんぺい)なのばかりである。
 これはやはり「流行」の現象であろうと思われる。しかし扁平な低い椅子がはやるという現象には何かしらその背後にある時代的な心理の反映が見られる。
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 左の足が痛むのでびっこをひいて歩いていたら、その効果で今度は腹と腰とのつがい目の所の筋肉が痛んで立ったりすわったりするたびにそれが飛び上がるほど痛むのであった。立っているか寝ていればなんの事はない。しかしちょっとでも咳(せき)をするとそれがひどく痛み所にひびく。
 いろいろな動作でちっともそこにひびかぬ動作とひびく動作がある。それでこの特別な筋が平生いかなる動作にいかなる程度に動員されているかということが実によくわかった。健康な場合には到底わからないことである。物の効用は、それが失われてみて始めてよくわかるという一例である。
 すわったり腰かけたりして、物を書こうとするとやはりこの筋肉が引きつって痛む。
 物を書くのには頭と眼と手だけでいいと思っていたのは誤りであった。書くという仕事にはやっぱり「腹」や「腰」も入用なのである。意外な「発見」であった。
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 からだの自由に動かせない病気で十日も寝ているとむやみにかんしゃくが起こっておもしろい。今朝は呼び鈴のコードを手近に置くべきのをだれかが遠くに押しのけてあったので大声でオーイオーイと呼んだが階下にいる五人のだれにも聞こえない。臥床(ふしど)の脇に置いてあるステッキでやけに障子や敷居をたたいて呼んでもまだ聞こえない。障子と敷居をいいかげん疵(きず)だらけにしたころに、細君が上がって来た。
「お隣に大工さんが来て仕事しているのだと思った」そうである。
 子供の時分に親戚(しんせき)や知人の家に中気(ちゅうき)でからだの不随な老人がいて、よくかんしゃくをおこしているのを見た。家族はもうすっかり馴れっ子になってほどよくあしらっているだけである。それがまたいっそう老人の不満をつのらせるらしかった。
 今度の病気で昔の中風老人たちを想い出して、この天下に普遍な家庭小悲喜劇の心理分析を試みる機会を得た。
 亡友K君が眼病で手術をして一時失明したことがあった。かんしゃくが起こりはしないかと聞いたら、それどころか反対に一生懸命細君にもその他の家族にも従順にしてきげんをそこねないようにしているという。どうしてかと聞くと、もしや今家族に見放されたらたいへんだという気がして、自然にそうなるのだということであった。
 自分の場合のかんしゃくは結局、病気がたいした事でないという潜在的な自覚から、いくらやんちゃを言っても家族が大丈夫遁(に)げ出さないという自負心を獲得しているせいかもしれない。
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 明治時代の青年における「星」「すみれ」の流行と近代ボーイにおけるマルキシズムのそれとはその原動力となる情熱の感傷的な点ではほとんど大差ないもののような気がする。ただ理論で裏づけられたヒステリック感傷は治療がいっそうめんどうなようである。
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 イタリアとエチオピアとの葛藤が永びいて、ほとんど毎日のようにムッソリニの顔が新聞に出る。毎日見ているとその顔がだんだんにナポレオンの顔に似てくる。実際どこかよく似ているのである。
 伊軍の飛行機を輸送船に積み込むというので翼を取りはずした機体を埠頭(ふとう)に並べてある光景の写真が新聞に出ていた。その機体の形が蝗(いなご)そっくりである。見れば見るほどよく似てくる。
 黙示録のいなごが現世に現われたのである。
 形の似たものにはやはり性能にもどこか似たところがあるようである。
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 エチオピア事件でほとんど毎日毎夕の新聞に伊国首相や、エ国皇帝、それから国際聯盟の英仏代表イーデン、ラバールの肖像が出る。
 日本の内閣に何か重大な事件でもあると岡田首相や陸相海相の顔が毎日のように新聞の紙面の相当な面積を占めて出現する。
 ちょっとわれわれには了解のできにくい現象である。新聞の読者というものは恐ろしく健忘性なものであると仮定するか、あるいはまた新聞購読者の大多数は、ほんの気まぐれに、十日に一度二十日(はつか)に一度ぐらいその日の新聞を買って見るだけである、ということでも前提に置いて考えてみなければ全くわけのわからない「煩雑」であり「浪費」である。
 もっともこうしないと「その日その日主義」とも訳されるジャーナリズムの「気分」が出ないのかもしれない。
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 秋晴れの午後二階の病床で読書していたら、突然北側の中敷窓から何かが飛び込んで来て、何かにぶつかってぱたりと落ちる音がした。郵便物でも外から投げ込んだような音であったが、二階の窓に下から郵便をほうり込む人もないわけだから小鳥でも飛び込んだかしらと思ったが、からだの痛みで起き上がるのが困難だから確かめもせずにやがて忘れてしまっていた。しばらくしてから娘が二階へ上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い上げて持って来たのを見ると一羽の鶯(うぐいす)の死骸である。かわいい小さなからだを筒形に強直させて死んでいる。北窓から飛び込んで南側の庭へ抜けるつもりでガラス障子にくちばしを突き当てて脳震盪(のうしんとう)を起こして即死したのである。「まだ暖かいわ」と言いながら愛撫(あいぶ)していたがどうにもならなかった。
 鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。ガラス戸というものができてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かった。
 人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。失敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人である。
 三原山火口へ投身する人の大部分がそうである。またナポレオンもウィルヘルム第二世もそうであった。
 この「ガラス」の見えない人たちの独裁下に踊る国家はあぶなくて見ていられない。
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 隣家に犬がいる。戸外へは出さないらしいので姿は一度も見たことがない。夜中にほえている声から判断すると相当体躯(たいく)の大きな堂々たる犬らしい。ところが、この犬が時々不思議な鳴き方をする。人間が何か泣きごとでもいっているかと思うような声を出すかと思うと、首でも締めて殺されかかっているのかと思うような悲鳴を上げる。そうかと思うとかんしゃくが起こってくやしがってきゅうきゅういっているような奇妙な声を出す。だんだん気をつけてみるとそういう不思議な鳴き方をするのは、ほとんどきまって豆腐屋のラッパが遠くから聞こえてだんだん近よって来るときか、またはたぶん豆腐屋であろうかチリンチリンと鈴を鳴らしながら前を通るときであるらしい。どういうわけか知らないが、そのラッパや鈴の音を聞くと、堪えがたい恐怖か憤懣がこの犬の脳神経中枢をいらだたせるものと思われる。
 生理学のほうで「条件反射」という現象がある。この犬の場合はあるいはその一例かもわからない。まだ小さい時分に何かしら同じような音響のする場所でたびたびひどい目に遇った経験の記憶が、この動物の脳髄に焼き付けられたように印象されているのかもわからない。
 それともまた、この犬は何か耳の病気があって、ある一定の高さの音がとくに鋭く病的にその聴覚を刺戟するのかもしれない。これはただ犬の話であるが、われわれ人間でもよく考えてみるとこれとよく似た現象がいくらでもあるらしい。そこらの花盛りを見て心が浮き立ったり、秋の月を見て物を思わされたりするのもその一例であるが、これらは国民全体に共通な教育による「条件反射」のようなものである。しかしもっと特殊な例としては、芋虫を見るとからだがすくんでしまう人や、蜘蛛(くも)がはい出すと顔色を変えるようなのもある。中学時代の同窓で少し強い風の吹く日にはこわくて一歩も外へ出られないのがあったが、その男はまもなく病死してしまった。やはりどこか「弱い」ところがあったのかもしれない。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 友人の科学者で陶器を作るのを道楽にしている男がある。自分の邸内に窯(かま)を造って専門の職人を雇い込んで本式にやっている。御当人はもちろんであるが、その細君もまたおかあさんもそれぞれ熱心なアマチュア芸術家である。このあいだその友人が大きなふろしき包みをかかえて飛び込んで来た。新聞紙で包んだものを取り出すのを見ると、この家庭芸術家三人の作品のたぶん代表的なものであろう、分厚で長方形のシガレットケース――これは科学者の作、それから半月形の灰皿――これは美しい令夫人の作、それから手どくで白釉(はくゆう)に碧緑(へきりょく)の色を流した花瓶――これは母堂の作である。
 今病床の脇の小卓の上にこの三つの陶器がのせてあるのをつくづくながめていると、この三つの作品のそれぞれの個性がだんだんにはっきり眼についてくる。角箱には鼻っ張りの強い負けぎらいの気性とオリジナルで鋭いしかもデリケートな才能の動きが地味な褐色の釉薬の底から浮き出しているといったようなところがある。
 灰皿のほうは肉の薄味、線の丸さ、波形の縁(へり)のうねり、その他どう見ても優しいそうして濃まやかな感じの持ち主の手になったものとしか思われない。
 花瓶のほうをよく見ていると手づくねの筒形の胴の表面の彎曲(わんきょく)、釉薬の自然な斑模様(まだらもよう)、そういったもののきわめて複雑な変化の中に、いかにも世の中の苦労という苦労を舐め尽くして来たかのような、しかもいかにも女らしい一種の心ばえのようなものがありありと読みとられるようである。
 これではうっかり団子も丸められない。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

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 辻待ちの円タク、たとえば曙町まで五十銭で行かないかというと、返事をしないでいきなりそっぽを向いてしまうのがある。いやな顔をしてきわめてゆっくりかぶりを振るのもある。それからまたにこにこと愛嬌笑いをしてもう十銭やってくださいといいながらドアに手をかけてインヴァイトするのがある。
 前者はペシミストであり、後者はオプチミストであるともいわれる。しかしまた全くその反対だともいわれる。
 いつか上野駅の向かい側のある路地の自動車停留場で、いちばん先頭の車の運転手に例のとおり曙町まで五十銭で行かないかといったら、あまり人相のよくないその男は「イカネエ」と強い意味をその横にひん曲げた口許に表示したかと思うと、いきなりエンジンをスタートして走り出した。そうして獲物をねらう鷹のような鋭い目を集注しているその視線の行く手を追跡してみると、すぐにその焦点がはっきりされた。今上野駅から出て来たらしい東北出と思われる母娘(おやこ)連れがめいめいに大きなふろしき包みをかかえて、今や車道を横切ろうとしてあたりを見回しているところであった。
 この場合は悲劇的であるかもしれないが、またひどく喜劇的であるかもしれない。そんな事を考えながらスーツケースを右手にぶらさげてぶらぶらと山下のほうへより多く合理的な運転手を物色しながら歩いて行った事であった。(昭和十年十月十日)[#改ページ]

       *

 隣に栗の樹が一本ある。二十年前にここへ移って来たころには、まだいくらも隣の家の棟(むね)を越えないくらいの高さであった。それが年々に眼に見えるように伸び茂って、夏はこんもりした木蔭を作り、いっぱいに咲いた花がこちらの庭に散りこぼれ、やがて腐れて甘ずっぱいような香(におい)をみなぎらせた。秋が来ると笑(え)みこぼれた栗の実がこちらの庭へも落ちるのを、当時まだ小さかった子供らが喜んで拾いながら大声で騒いでいたら、やがてお隣からお盆にのせてたくさんな栗の実を持たせてよこした。家内じゅうは顔を見合わせてきまりの悪い思いをしたことであった。
 この栗の樹が近年になってなんとなく老衰の兆(きざし)を見せてきた。夏の繁りもなんとなくまばらで、栗の実の落ちる数も眼立って少なくなって来た。
 次第に悪くなる東京の空気のせいであるのか、それともこの樹の本来の寿命によるものか、どうだか自分にはわからない。
 とにかく栗の樹などというものは人間よりは長生きするものとばかり思っていたが、一概にそうでもなさそうである。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

       *

 住み家を新築したら細君が死んだという例が自分の知っている狭い範囲でも三つはある。立派な邸宅を新築してまもなく主人が死んでその家の始末に困っているという例を近ごろ二つ聞いた。
 しかし家を立ててだれも死ななかった例は相当たくさんにあるであろうから、厳密な統計的研究をした上でなければ「家を建てると人が死ぬ」というような漠然とした言明は全然無意味である。
 しかしまた考えてみると、家を建てると人が死ぬということも、解釈のしようによっては全然無意味だともいわれない。
 今まで借家住居(ずまい)をしていた人が、自分の住宅を新築でもしようということは、その家庭の物質的のみならず精神的生活の眼立った時期を劃する一つの目標である。今までは生活の不如意に堪えながら側目(わきめ)もふらずに努力の一路を進んで来たのが、いくらかの成効に恵まれて少し心がゆるんでくる。そういう時期にこの住宅の新築という出来事が起こるという場合がしばしばある。そういう時にもしもその家の主婦が元来弱い人であり、どのみちそう長きをすることのできない人であったと仮定する。そうするとその主婦の今まで張り詰めていた心がやっとゆるむころには、その健康はもはや臨界点近くまでむしばまれていて、気のゆるむと同時に一時に発した疲れのために朽ち木のように倒れる。そういう場合もかなりありうるわけである。
 また従来すでに一通りの成効の道を進んで来た人が、いよいよ隠退でもして老後を楽しむために新しい邸宅でも構えようというような場合にも、やはり同じような事がいわれようかと思う。
 植物が花を咲かせ実を結ぶ時はやがて枯死する時である。それとこれとは少しわけは違うがどこか似たところもないではない。
 いつまでも花を咲かせないで適当に貧乏しながら適当に働く。平凡なようであるが長生きの道はやはりこれ以外にはないようである。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

       *

 夜中にからだじゅうの痛む病気に罹(かか)って一晩じゅう安眠ができない。この広い世界のすべての存在が消えてしまって自分のからだの痛みだけが宇宙を占有し大千世界に瀰漫(びまん)しているような気がしている。夜が明けて繰りあけられた雨戸から空の光が流れ込む。ガラス障子越しに庭の楓(かえで)や檜(ひのき)のこずえが見え、隣の大きな栗の樹の散り残った葉が朝風にゆれていて、その向こういっぱいに秋晴れの空が広がっている。
 そういう時にどうしたわけかわからないが、別に悲しくもなんともないのに涙が眼の中にいっぱいに押し出してくる。
 学生時代に、アヘン喫煙者が中毒からくる恐ろしい悪夢のために悩まされていたのが、突然その夢がさめて現実にかえって、片方にいる人間の顔を見た時に、涙が止め度もなく流れたというくだりを読んだ記憶がある。
 悲しいときの涙、うれしいときの涙、その他いろいろな涙のほかにこうしたような不思議な涙がまだほかにもいろいろありそうな気がする。(昭和十年十月十一日)[#改ページ]

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 銀座のオリンピックで食事をしていたら、同じ食卓の向かい側に腰を掛けて何か食っていた中年の男が新たにパンを注文した。柔らかい六角のパンを持って来た女給に「これでない堅いやつを持って来い」といって、手まねでその形をして見せた。「フレンチロールですかコッペーですか。」「ああ、そのコッペーだ。」「焼いて持って参りましょうか。」「いや焼かないで持って来い。」やがてそのコッペーを皿に入れて持って来たら「ああやっぱり焼いて持って来てくれ」といってその皿をつきだした。
 こうした型の男はおそらくなんでもまめによく仕事をしまた世話のできる人であろう。おそらく嫁や養子の世話から相手の人のネクタイの世話までやく人かもしれない。しかし、「俳諧」のほうにはどうも不向きらしい。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ある若い男の話である、青函連絡船(せいかんれんらくせん)のデッキの上で、飛びかわす海猫(うみねこ)の群れを見ていたら、その内の一羽が空中を飛行しながら片方の足でちょいちょいと頭の耳のへんを掻いていたというのである。どうも信じられない話だがといってみたが、とにかく掻いていたのだからしかたがないという。
 この話をその後いろいろの人に話してみたが、大概の人はこれを聞いて快い微笑をもらすようである。
 なぜだかわからない。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 人体生理学や組織学の教科書の中に載せてあるいろいろな顕微鏡写真の標本には、しばしば死刑囚の身体のいろいろな部分から取ったものがある。
 この点だけから見ると、一生何一つ世間のために貢献することなしに終わる紳士淑女たちよりも、こういう死刑囚のほうがはるかに大きな功績を世界人類の知識の上に遺(のこ)したことになるともいわれるのである。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 大きな百貨店へ行けば大概の品はいつでも調(ととの)えられるものと思っていたが、実際はなかなかそうでないという事を経験してきた。むしろ望みどおりの品のあったためしは少ないくらいである。
 十月の初旬病床で暖かい日に蒲団の代わりにかけようと思って旅行用の夏の膝掛けを買いにやった。そうしたら、来年の夏まで待たなければ店には出ないといった。それから、夜中に肩の冷えるのを防ぐために鳥の羽根入りの肩蒲団を探しにやったら、もう一月くらいすれば出ますといったそうである。時候に合わない品だから無理もないが、しかし百貨店という所はやっぱり存外不便な所である。
 もっとも、今ごろ本屋でスコットの「湖上の美人」やアーヴィングの「スケッチブック」やニーチェの「ツァラツーストラ」でも探すとしたらすぐに手に入るかどうか心もとないような気がする。マルクス、エンゲルスが同様な羽目になる時がいつかは来るかもしれないという気もするのである。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ある日電車の中で、有機化学の本を読んでいると、突然「琉球(りゅうきゅう)泡盛酒(あわもり)」という文字が頭の中に現われたが、読んでいる本のページをいくら探してもそんな文字は見つからなかった。よく考えてみると、たぶん途中で電車の窓から外をながめたときにどこかの店先の看板にでもそういう文字が眼についた、それを不思議な錯覚で書物の中へ「投げ込んだ」ものらしい。ちょうどその時に読んでいた所がいろいろなアルコールの種類を記述したページであったためにそういう心像の位置転換が容易にできたものと思われる。
 人間の頭脳のたよりなさはこの一例からでもおおよそ想像がつく。何時(いつ)幾日(いくか)にどこでこういう事に出会ったとか、何という書物の中にどういう事があったとか、そういう直接体験の正直な証言の中に、現在の例と同じような過程で途方もないところから紛れ込んだ異物が少しもはいっていないという断定は、神様でないかぎりだれにもできそうにない。(昭和十年十月十四日)[#改ページ]

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 ベルギー皇帝がただ一人で自動車を運転していて山の中の崖から墜落して崩御された。
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