柿の種
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著者名:寺田寅彦 


 俳諧の道は、われわれをアウトマーテンの境界から救い出す一つの、少なくも一つの道でなければならない。(昭和三年五月、渋柿)[#改ページ]

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 梨(なし)の葉に黄色い斑(ふ)ができて、毛のようなものが簇生(そうせい)する。
 自分は子供の時から、あれを見るとぞっと寒気がして、そして自分の頬からこめかみへかけて、同じような毛が生えているような気がして、思わず頬をこすらないではいられない。
 このごろ庭の楓樹(かえで)の幹に妙な寄生物がたくさん発生した。
 動物だか植物だかわからない。
 蕈(きのこ)のような笠(かさ)の下に、まっ白い絹糸のようなものの幕をたれて、小さなテントの恰好をしている。
 打っちゃっておけば、樹幹はだんだんにこのために腐蝕されそうである。
 これを発見した日の晩に、ふと思い出すと同時に、これと同じものが、自分の腕のそこやかしこにできていそうな気がして、そしてそれが実際できているありさまをかなりリアルに想像して、寝つかれなくて困った。
 人の悪事を聞いたり読んだりして、それが自分のした事であるような幻覚を起こして、恐ろしくなるのと似た作用であるかもしれない。
 そして、これは、われわれにとって、きわめてだいじな必要な感応作用であるかもしれない。(昭和三年七月、渋柿)[#改ページ]

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 始めて両国(りょうごく)の川開きというものを見た。
 河岸(かし)に急造した桟敷(さじき)の一隅(いちぐう)に席を求め、まずい弁当を食い、気の抜けたサイダーを呑(の)み、そうしてガソリン臭い川風に吹かれながら、日の暮れるのを待った。
 全く何もしないで、何も考えないで、一時間余りもポカンとして、花火のはじまるのを待っているあほうの自分を見いだすことができたのは愉快であった。
 附近ではビールと枝豆がしきりに繁昌(はんじょう)していた。
 日が暮れて、花火がはじまった。
 打ち上げ花火はたしかに芸術である。
 しかし、仕掛け花火というものは、なんというつまらないものであろう。
 特に往生ぎわの悪さ、みにくさはどうであろう。
「ざまあみろ。」
 江戸ッ子でない自分でもこう言いたくなる。
 一つ驚いた事を発見した。
 それはマクネイル・ホイッスラーという西洋人が、廣重(ひろしげ)よりも、いかなる日本人よりも、よりよく隅田川(すみだがわ)の夏の夜の夢を知っていたということである。(昭和三年九月、渋柿)[#改ページ]

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 芸術は模倣であるというプラトーンの説がすたれてから、芸術の定義が戸惑いをした。
 ある学者の説によると、芸術的制作は作者の熱望するものを表現するだけでなく、それを実行することだそうである。
 この説によって、試みに俳句を取り扱ってみると、どういうことになるであろうか。
 恋の句を作るのは恋をすることであり、野糞(のぐそ)の句を作るのは野糞をたれる事である。
 叙景の句はどういう事になるか。
 それは十七字の中に自分の欲する景色を再現するだけではいけなくて、その景色の中へ自分が飛び込んで、その中でダンスを踊らなくては、この定義に添わないことになる。
 これも一説である。
 少なくも古来の名句と、浅薄な写生句などとの間に存する一の重要な差別の一面を暗示するもののようである。
客観のコーヒー主観の新酒哉(かな)(昭和三年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 甲が空間に一線を劃する。
 乙がそれに続けて少し短い一線を画く。
 二つの線は互いにある角度を保っているので、これで一つの面が定まる。
 次に、丙がまた乙の線の末端から、一本の長い線を引く。
 これは、乙の線とある角度をしているので、乙丙の二線がまた一つの面を定める。
 しかし、この乙丙の面は、甲乙の面とは同平面ではなくて、ある角度をしている、すなわち面が旋転したのである。
 次に、丁がまた丙の線の続きを引く。
 アンド・ソー・オン。
 長、短、長短、合計三十六本の線が春夏秋冬神祇(じんぎ)釈教(しゃっきょう)恋(こい)無常(むじょう)を座標とする多次元空間に、一つの曲折線を描き出す。
 これが連句の幾何学的表示である。
 あらゆる連句の規約や、去嫌(さりきらい)は、結局この曲線の形を美しくするために必要なる幾何学的条件であると思われる。(昭和四年一月、渋柿)[#改ページ]

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 石器時代の末期に、銅の使用が始まったころには、この新しい金属材料で、いろいろの石器の形を、そっくりそのままに模造していたらしい。
 新しい素材に、より多く適切な形式を発見するということは、存外容易なことではないのである。
 また、これとは反対に、古い形式に新しい素材を取り入れて、その形式の長所を、より多く発揮させることもなかなかむずかしいものである。
 詩の内容素材と形式との関係についても、同様なことが言われる。(昭和四年三月、渋柿)[#改ページ]

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 二年ばかり西洋にいて、帰りにアメリカを通って、大きな建築などに見馴れて、日本へ帰った時に、まず横浜の停車場の小さいのに驚き、汽車の小さいのに驚き、銀座通りの家屋の低く粗末なのに驚いた。
 こんなはずではなかったという気がした。
 これはだれもよくいう事である。
 ヴァイオリンをやっていたのが、セロを初めるようになって、ふた月三月ヴァイオリンには触れないで、毎日セロばかりやっている。
 そして、久しぶりでヴァイオリンを持ってみると、第一その目方の軽いのに驚く。
 まるで団扇(うちわ)でも持つようにしか感ぜられない。
 楽器が二、三割も小さく縮まったように思われ、かん所を押える左手の指と指との間が、まるでくっついてしまうような気がする。
 そういう異様な感じは、いつとなく消えてしまって、ヴァイオリンはヴァイオリン、セロはセロとおのおのの正当な大きさの概念が確実に認識されて来るのである。
 俳句をやる人は、時には短歌や長詩も試み、歌人詩人は俳句もやってみる必要がありはしないか。(昭和四年五月、渋柿)[#改ページ]

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 一日忙しく東京じゅうを駆け回って夜ふけて帰って来る。
 寝静まった細長い小路を通って、右へ曲がって、わが家の板塀(いたべい)にたどりつき、闇夜の空に朧(おぼろ)な多角形を劃するわが家の屋根を見上げる時に、ふと妙な事を考えることがある。
 この広い日本の、この広い東京の、この片すみの、きまった位置に、自分の家という、ちゃんときまった住み家があり、そこには、自分と特別な関係にある人々が住んでいて、そこへ、今自分は、さも当然のことらしく帰って来るのである。
 しかし、これはなんという偶然なことであろう。
 この家、この家族が、はたしていつまでここに在(あ)るのだろう。
 ある日、一日留守にして、夜おそく帰って見ると、もうそこには自分の家と家族はなくなっていて、全く見知らぬ家に、見知らぬ人が、何十年も前からいるような様子で住んでいる、というような現象は起こり得ないものだろうか、起こってもちっとも不思議はないような気がする。
 そんな事を考えながら、門をくぐって内へはいると、もうわが家の存在の必然性に関する疑いは消滅するのである。(昭和四年七月、渋柿)[#改ページ]

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 あたりが静かになると妙な音が聞こえる。
 非常に調子の高い、ニイニイ蝉(ぜみ)の声のような連続的な音が一つ、それから、油蝉(あぶらぜみ)の声のような断続する音と、もう一つ、チッチッと一秒に二回ぐらいずつ繰り返される鋭い音と、この三つの音が重なり合って絶え間なく聞こえる。
 頸を左右にねじ向けても同じように聞こえ、耳をふさいでも同じように聞こえる。
 これは「耳の中の声」である。
 平生は、この声に対して無感覚になっているが、どうかして、これが聞こえだすと、聞くまいと思うほど、かえって高く聞こえて来る。
 この声は、何を私に物語っているのか、考えてもそれは永久にわかりそうもない。
 しかし、この声は私を不幸にする。
 もし、幾日も続けてこの声を聞いていたら、私はおしまいには気が狂ってしまって、自分で自分の両耳をえぐり取ってしまいたくなるかもしれない。
 しあわせなことには、わずらわしい生活の日課が、この悲運から私を救い出してくれる。
 同じようなことが私の「心の中の声」についても言われるようである。(昭和四年九月、渋柿)[#改ページ]

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 大震災の二日目に、火災がこの界隈(かいわい)までも及んで来る恐れがあるというので、ともかくも立ち退きの準備をしようとした。
 その時に、二匹の飼い猫を、だれがいかにして連れて行くかが問題となった。
 このごろ、ウェルズの「空中戦争」を読んだら、陸地と縁の切れたナイアガラのゴートアイランドに、ただ一人生き残った男が、敵軍の飛行機の破損したのを繕(つくろ)って、それで島を遁(に)げ出す、その時に、島に迷って饑(う)えていた一匹の猫を哀れがっていっしょに連れて行く記事がある。
 その後に、また同じ著者の「放たれた世界」を読んでいると、「原子爆弾」と称する恐るべき利器によって、オランダの海をささえる堤防が破壊され、国じゅう一面が海になる、その時、幸運にも一艘(そう)の船に乗り込んで命を助かる男がいて、それがやはり居合わせた一匹の迷い猫を連れて行く、という一くだりが、ほんの些細(ささい)な挿話として点ぜられている。
 この二つの挿話から、私は猫というものに対するこの著者の感情のすべてと、同時にまた、自然と人間に対するこの著者の情緒のすべてを完全に知り尽くすことができるような気がした。(昭和四年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 上野松坂屋(まつざかや)七階食堂の食卓に空席を捜しあてて腰を下ろした。
 向こう側に五、六歳の女の子、その右側には三十過ぎた母親、左側には六十近いおばあさんが陣取っている。
 純下町式の三つのジェネレーションを代表したような連中である。
 老人は「幕の内」、母子(おやこ)はカツレツである。
 母親が給仕にソースを取ってくれと命ずると、おばあさんが意外にも敏捷(びんしょう)に腕を延ばして、食卓のまん中にあったびんを取っておかみさんの皿の前へ立てた。
「ヤーイ、オバアちゃんのほうがよく知ってら。」
 私が刹那(せつな)に感じたと全く同じ事を、子供が元気よく言い放って、ちょこなんと澄ましている。
 母親はかえってうれしそうに
「ほんとう、ねええ。」
 そんな相槌(あいづち)を打って皿の中の整理に忙しい。
 おばあさんの顔と母親の顔とがよく似ているところから見ると、これはおかみさんが子供をつれての買い物のついでに、里の母親を誘って食堂をふれまうという場面らしい。
「お汁粉(しるこ)取りましょうか、お雑煮(ぞうに)にしましょうか。」
「もうたくさんです。」
「でも、なんか……。」
 こんな対話が行なわれる。
 こんな平凡な光景でも、時として私の心に張りつめた堅い厚い氷の上に、一掬(きく)の温湯(ゆ)を注ぐような効果があるように思われる。
 それほどに一般科学者の生活というものが、人の心をひからびさせるものなのか、それともこれはただ自分だけの現象であるのか。
 こんなことを考えながら、あの快く広い窓のガラス越しに、うららかな好晴の日光を浴びた上野の森をながめたのであった。(昭和五年一月、渋柿)[#改ページ]

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「三毛(みけ)」に交際を求めて来る男猫(おとこねこ)が数匹ある中に、額に白斑(しろぶち)のある黒猫で、からだの小さいくせに恐ろしく慓悍(ひょうかん)なのがいる。
 これが、「三毛」の子で性質温良なる雄の「ボウヤ」を、女敵(めがたき)のようにつけねらって迫害し、すでに二度も大けがをさせた。
 なんとなく斧定九郎(おのさだくろう)という感じのする猫である。
 夜の路次(ろじ)などで、この猫に出逢うと一種の凄味(すごみ)をさえ感じさせられる。
 これと反対に、すこぶる好々爺(こうこうや)な白猫がやって来る。
 大きな顔に不均整な黄斑が少しあるのが、なんとなく滑稽味(こっけいみ)を帯びて見える。
「ボウヤ」は、この「オジサン」が来ると、喜んでいっしょについてあるくのである。
 今年の立春の宵に、外から帰って来る途上、宅(うち)から二、三丁のある家の軒にうずくまっている大きな白猫がある。
 よく見ると、それはまさしくわが親愛なる「オジサン」である。
 こっちの顔を見ると、少し口を開(あ)いて、声を出さずに鳴いて見せた。
「ヤア、……やっこさん、ここらにいるんだね。」
 こっちでも声を出さずにそう言ってやった。
 そうして、ただなんとなくおかしいような、おもしろいような気持ちになって、ほど近いわが家へと急いだのであった。
淡雪や通ひ路細き猫の恋(昭和五年三月、渋柿)

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 桜の静かに散る夕、うちの二人の女の子が二重唱をうたっている。
 名高いイタリアの民謡である。遠い国にさすらいのイタリア人が、この歌を聞くときっと涙を流すという。
 今、わが家の子供らの歌うこの民謡を聞いていると、ふた昔前のイタリアの旅を思い出し、そうしてやはり何かしら淡い客愁のようなものを誘われるのである。
 ナポリの港町の夜景が心に浮かぶ。
朧夜を流すギターやサンタ・ルチア(昭和五年五月、渋柿)[#改ページ]

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 うすら寒い日の午後の小半日を、邦楽座(ほうがくざ)の二階の、人気(ひとけ)の少ない客席に腰かけて、遠い異国のはなやかな歓楽の世界の幻を見た。
 そうして、つめたいから風に吹かれて、ふるえながらわが家に帰った。
 食事をして風呂(ふろ)にはいって、肩まで湯の中に浸って、そうして湯にしめした手ぬぐいを顔に押し当てた瞬間に、つぶった眼の前に忽然(こつぜん)と昼間見た活動女優の大写しの顔が現われた、と思うとふっと消えた。
アメリカは人皆踊る牡丹(ぼたん)かな(昭和五年五月、渋柿)[#改ページ]

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 いろいろな国語の初歩の読本には、その国々特有の色と香がきわめて濃厚に出ている。
 ナショナルリーダーを教わった時に、幼い頭に描かれた異国の風物は、英米のそれであった。
 ブハイムを手にした時には、また別の国の自然と、人と、その歴史が、新しい視野を展開した。
 ロシアの読本をのぞくと、たちまちにして自分がロシアの子供に生まれ変わり、ラテンの初歩をかじると、二千年前のローマ市民の子供になり、蝋石盤(ろうせきばん)をかかえて学校へ通うようになる。
 おとなの読み物では、決して、これほど農厚な国々に特有な雰囲気は感ぜられないような気がする。
 飜訳というものもある程度までは可能である。
 しかし、初歩の読本の与える不思議な雰囲気だけは、全然飜訳のできないものである。(昭和五年七月、渋柿)[#改ページ]

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 純白な卓布の上に、規則正しく並べられた銀器のいろいろ、切り子ガラスの花瓶に投げ込まれた紅白のカーネーション、皿の上のトマトの紅とサラドの緑、頭上に回転する扇風機の羽ばたき、高い窓を飾る涼しげなカーテン。
 そこへ、美しいウエトレスに導かれて、二人の老人がはいって来る。
 それは芭蕉翁(ばしょうおう)と歌麿(うたまろ)とである。
 芭蕉は定食でいいという、歌麿はア・ラ・カルテを主張する。
 前者は氷水、後者はクラレットを飲む。
 前者は少なく、後者は多く食う。
 前者はうれしそうに、あたりをながめて多くは無言であるが、後者はよく談じ、よく論じながら、隣の卓の西洋婦人に、鋭い観察の眼を投げる。
 隣室でジャズが始まると、歌麿の顔が急に活き活きして来る、葡萄酒のせいもあるであろう。
 芭蕉は、相変わらずニコニコしながら、一片の角砂糖をコーヒーの中に落として、じっと見つめている。
 小さな泡(あわ)がまん中へかたまって四方へ開いて消える。
 それが消えると同時に、芭蕉も、歌麿も消えてしまって、自分はただ一人、食堂のすみに取り残された自分を見いだす。(昭和五年九月、渋柿)[#改ページ]

   震生湖より


 (はがき)昨日(きのう)は、朝、急に思い立ち、秦野(はたの)の南方に、関東地震の際の山崩れのために生じた池、「震生湖(しんせいこ)」というのを見物および撮影に行った。……
山裂けて成しける池や水すまし
穂芒(ほすすき)や地震(ない)に裂けたる山の腹(昭和五年十月、渋柿)[#改ページ]

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 新宿、武蔵野館(むさしのかん)で、「トルクシブ」というソビエト映画を見た。
 中央アジアの、人煙稀薄な曠野(こうや)の果てに、剣のような嶺々が、万古の雪をいただいて連なっている。
 その荒漠(こうばく)たる虚無の中へ、ただ一筋の鉄道が、あたかも文明の触手とでもいったように、徐々に、しかし確実に延びて行くのである。
 この映画の中に、おびただしい綿羊の群れを見せたシーンがある。
 あんな広い野を歩くのにも、羊はほとんど身動きのできないほどに密集して歩いて行くのが妙である。
 まるで白泡(しらあわ)を立てた激流を見るようである。
 新宿の通りへ出て見ると、おりから三越の新築開店の翌日であったので、あの狭い人道は非常な混雑で、ちょうどさっき映画で見た羊の群れと同じようである。
 してみると、人間という動物にも、やはりどこか綿羊と共通な性質があるものと見える。
 そう考えると、自分などは、まず狸(たぬき)か狢(むじな)の類かと思って、ちょっとさびしい心持ちがした。
 そうして、再びかの荒漠たる中央アジアの砂漠の幻影が、この濃まやかな人波の上に、蜃気楼(しんきろう)のように浮かみ上がって来るのであった。(昭和五年十一月、渋柿)[#改ページ]

   女の顔


 夏目先生が洋行から帰ったときに、あちらの画廊の有名な絵の写真を見せられた。
 そうして、この中で二、三枚好きなのを取れ、と言われた。
 その中に、ギドー・レニの「マグダレナのマリア」があった。
 それからまたサー・ジョシュア・レーノルズの童女や天使などがあった。
 先生の好きな美女の顔のタイプ、といったようなものが、おぼろげに感ぜられるような気がしたのである。
 そのマグダレナのマリアをもらって、神代杉(じんだいすぎ)の安額縁に収めて、下宿の□間(びかん)に掲げてあったら、美人の写真なんかかけてけしからん、と言った友人もあった。
 千駄木(せんだぎ)時代に、よくターナーの水彩など見せられたころ、ロゼチの描く腺病質(せんびょうしつ)の美女の絵も示された記憶がある。
 ああいうタイプもきらいではなかったように思う。
 それからまたグリューズの「破瓶(われがめ)」の娘の顔も好きらしかった。
 ヴォラプチュアスだと評しておられた。
 先生の「虞美人草(ぐびじんそう)」の中に出て来るヴォラプチュアスな顔のモデルがすなわちこれであるかと思われる。
 いつか、上野の音楽会へ、先生と二人で出かけた時に、われわれのすぐ前の席に、二十三、四の婦人がいた。
 きわめて地味な服装で、頭髪も油気のない、なんの技巧もない束髪(そくはつ)であった。
 色も少し浅黒いくらいで、おまけに眼鏡(めがね)をかけていた。
 しかし後ろから斜めに見た横顔が実に美しいと思った。
 インテリジェントで、しかも優雅で温良な人柄が、全身から放散しているような気がした。
 音楽会が果てて帰路に、先生にその婦人のことを話すと、先生も注意して見ていたとみえて、あれはいい、君あれをぜひ細君にもらえ、と言われた。
 もちろんどこのだれだかわかるはずもないのである。
 その後しばらくたってのはがきに、このあいだの人にどこかで会ったという報告をよこされた。全集にある「水底の感」という変わった詩はそのころのものであったような気がする。
「趣味の遺伝」もなんだかこれに聯関したところがあるような気がするが、これも覚えちがいかもしれない。
 それはとにかく、この問題の婦人の顔がどこかレニのマリアにも、レーノルズの天使や童女にも、ロゼチの細君や妹にも少しずつ似ていたような気がするのである。
 しかし、一方ではまた、先生が好きであったと称せらるる某女史の顔は、これらとは全くタイプのちがった純日本式の顔であった。
 また「鰹節屋(かつぶしや)のおかみさん」というのも、下町式のタイプだったそうである。
 先生はある時、西洋のある作者のかいたものの話をして「往来で会う女の七十プロセントに恋するというやつがいるぜ」と言って笑われた。
 しかし、今日になって考えてみると、先生自身もやはりその男の中に、一つのプロトタイプを認められたのではなかったかという気もするのである。(昭和六年一月、渋柿)

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   曙町より(一)


 先夜はごちそうありがとう。
 あの時、床の間に小手鞠(こでまり)の花が活かっていたが、今日ある知人の細君が来て、おみやげに同じ小でまりとカーネーションをもらった。
 そうして、新築地劇団の「レ・ミゼラブル」の切符をすすめられ、ともかくも預かったものの、あまり気がすすまないので、このほうは失礼して邦楽座の映画を見に行った。
 グレタ・ガルボ主演の「接吻(せっぷん)」というのを見たが、編輯(へんしゅう)のうまいと思うところが数箇所あった。
 たとえば、惨劇の始まろうとする始めだけ見せ、ドアーの外へカメラと観客を追い出した後に、締まった扉だけを暫時(ざんじ)見せる。
 次には電話器だけが大写しに出る。
 それが、どうしたのかと思うほど長く写し出される。
 これはヒロインの□躇(ちゅうちょ)の心理を表わすものであろう。
 実際に扉の中で起こったはずの惨劇の結果――横たわる死骸――は、後巻で証拠物件を並べた陳列棚の中の現場写真で、ほんのちらと見せるだけである。
 もっとも、こんなふうな簡単に説明できるような細工にはほんとうのうまみはないので、この映画の監督のジャック・フェイダーの芸術は、むしろ、こんなふうには到底説明する事のできないような微細なところにあるようである。
 クローズアップのガルボの顔のいろいろの表情を交互に映出するしかたなどでもかなりうまい。
 言わばそこにほんとうの「表情の俳諧」があるように思う。
 一度御覧いかがや。ついでながらこのガルボという女はどこか小でまりの花の趣もあると思うがこの点もいかがや。
 新劇「レ・ミゼラブル」は、見ないけれども、おそらくたった一口で言えるようなスローガンを頑強にべたべたと打ち出したものかと思う。
 少なくとも、これにはおそらくどこにも「俳諧」は見いだす事ができないだろう、と想像される。(昭和六年二月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(二)


 先日は失礼。
 鉄筋コンクリートの三階から、復興の東京を見下ろしての連句三昧(れんくざんまい)は、変わった経験であった。
 ソクラテスが、籠(かご)にはいって吊り下がりながら、天界の事を考えた話を思い出した。
 日が暮れた窓から、下町の照明をながめていたら、高架電車の灯(ひ)が町の灯の間を縫うて飛ぶのが、妙な幻想を起こさせた。
 自分がただ一人さびしい星の世界のまん中にでもいるような気がした。
 今朝も庭の椿(つばき)が一輪落ちていた。
 調べてみると、一度うつ向きに落ちたのが反転して仰向きになったことが花粉の痕跡からわかる。
 測定をして手帳に書きつけた。
 このあいだ、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわけを、だれか研究した人があるか、と聞いてみたが、たぶんないだろうということであった。
 花が樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。
 学問というものはどうも窮屈なものである。
 落ちた花の花粉が落ちない花の受胎に参与する事もありはしないか。
「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿哉」という先生の句が、実景であったか空想であったか、というような議論にいくぶん参考になる結果が、そのうちに得られるだろうと思っている。
 明日は金曜だからまた連句を進行させよう。(昭和六年五月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(三)


 君の、空中飛行、水中潜行の夢の話は、その中にむせっぽいほどに濃艶(のうえん)なる雰囲気を包有している。
 これに対する、僕のさびしいミゼラブルな夢の一つを御紹介する。
 それは「さまよえるユダヤ人」にもふさわしかるべき種類の夢である。
 大学構内、耐震家屋のそばを通っていると、枯れ樹の枝に妙な花が咲いていて散りかかる。
 見ると、その花弁の一つ一つが羽蟻のような虫である。
 そうして、それが人にふりかかると、それがみんな虱(しらみ)になって取り付くのである。
 そこへT工学士が来た。彼は今この虱のことについて学位論文を書いているというのである。
 そのうちにも、この「虱の花」はパッパッと飛んで来て、僕のからだに付くのである。
 あとで考えてみると、その二、三日前に地震研究所である人とこのT工学士についての話をしたことがある。
 またやはり二、三日前の新聞で、見合いの時に頭から虱が出たので縁談の破れた女の話を読んだことがあった。
 しかし枯れ木の花が虱に変わる、ということがどこから来たかなかなか思いつかれない。
 それはとにかく、この夢の雰囲気と、君の夢の雰囲気との対照がおもしろいと思うのでお知らせすることにする。(昭和六年七月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(四)


 二日の日曜の午後に築地(つきじ)の左翼劇場を見に行った。
 だいぶ暑い日であった。
 間違えて、労働者切符の売り場へ行ったら「職場(しょくば)」のかたですか、と聞かれたが、なんのことかわからないで、ぼんやりしながら、九十銭耳をそろえて並べたら、「どうかすみませんがあちらでお求めを願います」とたいへんに親切丁寧に教えてくれた。
 資本主義の帝劇(ていげき)や歌舞伎座(かぶきざ)のいばった切符嬢とはたいした相違でうれしかった。
 入場してまず眼についたのは、カーテンの下のほうに「松屋」という縫い取りの文字で、これが少し不思議に思われた。
 観客はたいてい若い人が多く、旧式ないわゆる小市民の家庭のお嬢さんらしい女学生も、下町ふうな江戸前のおとなしい娘さんたちもいるのが特に目についた。
 中年の、もっともらしいおばさんたちもぽつぽつ見えた。
 男の中には、学生も多いが、中にはどうも刑事かと思うようなのもいた。
 みんな平気で上着を脱いでいるのは、これもなんとなく愉快であった。
 いわゆるナッパ服を着て、頭を光らせ、もみ上げを剃(そ)り上げた、眼の鋭い若者が二人来て隣に腰かけた。
 それがニチャニチャと止(やす)みなしにチューインガムを噛んでいる。
 アメリカ式チューインガムを尊崇することと、ロシア式イデオロギーを噛んで喜ぶこととは、全く縁のないことでもないかと思われた。
 それから三、四列前の腰掛けに、中年のインテリ奥様とでも言われそうなのが二人、それはまた二人おそろいでキャラメルらしいもの――噛み方でわかる――を噛んでいるのが、ちょっとおもしろい対照をなしていた。
 イデオロギーに砂糖がはいっているのである。
 芝居(?)「恐山鉱山(おそれやまこうざん)」を少し見てから降参して出てしまった。
 恐ろしいものである。
 今度会った時に話しましょう。(昭和六年九月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(五)


 僕はこのごろ、ガラス枚を、鋼鉄の球で衝撃して、割れ目をこしらえて、その割れ方を調べている。
 はなはだばかげたことのようであるが、やってみるとなかなかおもしろいものである。
 ごく軽くたたいて、肉眼でやっと見えるくらいの疵(きず)をつけて、それを顕微鏡でのぞいて見ると、球の当たった点のまわりに、円形の割れ目が、ガラスの表面にできて、そこから内部へ末拡がりに、円錐形(えんすいけい)のひびが入っているが、そのひび破(わ)れに、無数の線条が現われ、実にきれいなものである。
 おもしろいことには、その円錐形のひびわれを、毎日のように顕徴鏡でのぞいて見ていると、それがだんだんに大きなものに思われて来て、今では、ちょっとした小山のような感じがする。
 そうしてその山の高さを測ったり、斜面の尾根や谿谷を数えたりしていると、それがますます大きなものに見えて来るのである。
 実際のこの山の高さは一分(ぶ)の三十分(ぶん)の一よりも小さなものに過ぎない。
 この調べが進めば、僕は、ひびを見ただけで、直径幾ミリの球が、いくらの速度で衝突したかを言いあてることができるであろうと思う。
 それを当てたらなんの役に立つかと聞かれると少し困るが、しかし、この話が、何か君の俳諧哲学の参考にならば幸いである。
 今まで、まだやっと二、三百枚のガラス板しかこわしていないが、少なくも二、三千枚ぐらいはこわしてみなければなるまいと思っている。
粟(あわ)一粒秋三界を蔵しけり(昭和六年十一月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(六)


 小宮(こみや)君は葡萄一株拾ったそうだが、僕は小鳥を一羽拾った。
 このあいだかなり寒かった朝、日の当たった縁側に一羽のカナリヤが来て、丸くふくれ上がって、縁の端の敷居につかまっていた。
 人を見ても逃げもせず、かえって向こうから近寄って来た。
 どこかにしまってあるはずの鳥籠を探しているうちに、見えなくなったと思ったら、納戸(なんど)の中へはいり込んでいた。
 籠に入れてから、さっそく粟を買って来て、それを餌函(えばこ)に入れてやろうとしていると、もう籠の中からそれを見つけてしきりに啼き立て、早くくれとでもいうように見えた。
 菜っ葉をやると、さもうまそうについばんでは、くちばしを止まり木にこすりつけた。
 日向(ひなた)につるしてやると朗らかに鳴きだしたが、声を聞いてみると立派なローラーである。
 猫の「ボウヤ」が十月に死んでから、妙にさびしくなった家が、これでまた急ににぎやかになったような気がして、それからは、毎朝新しい菜っ葉をやっては、玉をころがすような朗らかなワーブリングを聞くのが楽しみであった。
 ところが、今朝家人がえさを取り替える際に、ちょっとの不注意で、せっかくのこの楽しみを再び空に遁(にが)してしまった。
 惜しいというよりはかわいそうな気がした。
 夕方家へ帰って見ると、見馴れぬ子猫が一匹いる。
 死んだ「ボウヤ」にそっくりの白い猫である。
 今朝、どこからか迷って来たのが、もうすっかりなついてしまって、落ち着いているのだそうである。
 それを聞いた時に、ちょっと不思議な気がした。
 どうも以前に一度、やはり小鳥が死ぬか逃げるかした同じ日に、子猫が迷い込んで来たことがあったような記憶がある。それと同じ出来事が、今日再び繰り返して起こったような気がするのである。
 しかし、どうもはっきりしたことが思い出せない。
 あるいはよくあるそういう種類の錯覚かもしれない。
 拾ったと思ったら無くする、無くしたと思ったらもう拾っている。
 おもしろいと思えばおもしろく、はかないと言えばはかなくもある。
 この猫をひざへのせて夕刊を読んでいたら号外が来て、後継内閣組織の大命が政友会総裁に降(くだ)ったとある。犬養(いぬかい)さんは総理大臣を拾ったのである。
 遁(に)げたカナリヤもだれかに拾われなければ餓え死ぬか凍え死ぬだろうと思う。(昭和七年一月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(七)


 毎朝通る路次に小さなせいぜい二室(へや)ぐらいの家がある。主人は三十五、六ぐらいの男だが時間のきまった勤めをもつ人とも見えず、たとえば画家とか彫刻家とでもいったような人であるらしい。それは表札が家不相応にしゃれた篆刻(てんこく)で雅号らしい名を彫り付けてあるからである。六、七年ほど前からポインター種の犬を飼っている。ほんの小さな小犬であったのが今では堂々としてしかもかわいい良い犬である。僕の記憶ではこの小犬とほぼ前後して細君らしい婦人がこの家に現われて、門口で張り物をしたり、格子戸(こうしど)の内のカナリアにえさをやったり、□子窓(れんじまど)の下の草花に水をやったりしていた。犬の大きくなるにつれてこの細君がだんだんに肥満して二、三年前にはどうしても病気としか思われない異常の肥(ふと)り方を見せていたが、そのころからふっつりその姿が見えなくなって、そのかわりに薄汚い七十近いばあさんが門口でカナリアや草花の世話をしていた。どうも細君が大病かあるいは亡(な)くなったのではないかと思われたのであるが、犬のジョンだけは相変わらずいつものどかな勇ましい姿をして顔なじみの僕の通るのを見迎え見送るのであった。去年の夏この家からは数町を距(へだ)てたある停留所で電車を待っていた時に、向かい側の寄席(よせ)のある路次から、ひょっくり出て来た恐ろしくふとった女があると思って見ると、それが紛れもないジョンの旧主婦であった。
 去年の暮れ近いころからジョンの家の門口でまた若い婦人が時々張り物をしたりバケツをさげたりしているのを見かけるようになった。今度は前よりはもっとほっそりしたインテリジェントな顔をした婦人であった。ジョンジョンと言って呼ばれると犬は喜んで横飛びに飛んで行って彼女の前垂(まえだれ)に飛びついていたのである。ところが、つい二、三日前に通りかかった時に門口で張り物をしている婦人を見ると、年齢や脊恰好は同じだが、顔はこのあいだじゅう見たのとどうしても別人のように思われた。なんだか少し僕にはわけがわからなくなって来た。しかしわが親愛なるジョン公だけは、相変わらずそんなことには無関心のように堂々とのどかなあくびをして二月の春光をいっぱいに吸い込んでいるのであった。
 人間はまったくおせっかいである。(昭和七年三月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(八)


 二女の女学校卒業記念写真帳と、三女のそれとを較べて見ていると、甲の女学校の生徒の顔には、おのずから共通なあるものがあり、乙の女学校には、また乙の女学校特有のあるものがあるような気がして来る。
 不思議なようでもあり、また当然だという気もする。
 日本人と朝鮮人との顔の特徴にしてもやはり同様にして発達したものであろう。
 ただ、女学校では、わずか五年の間の環境の影響で、すでにこれだけの効果が現われる。
 恐ろしいものである。
 レストーランで昼食をしていると、隣の食卓へお上(のぼ)りさんらしい七、八人の一行が陣取った。
 いずれも同年輩で、同じようないがぐりあたまが、これはまた申し合わせたように同じ程度にはげているのである。
ある学科関係の学者の集合では、かなり年寄りも多いのに一人も禿頭(とくとう)がいない。
 また別の学会へ行くと若い人まで禿頭が多い。
 これも不思議である。(昭和七年五月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(九)


 白木屋(しろきや)七階食堂で、天ぷらの昼飯を食っていた。
 隣の席に、七十余りのおばあさんが、これは皿の中のビーフカツレツらしいものを、両手に一つずつ持った箸(はし)の先で、しきりにつっついているが、なかなか思うようにちぎれない。
 肉がかたくて、歯のない口では噛めないらしい。
 通りがかりの女給を呼んで何か言っている。
 そうして、箸で僕の膳(ぜん)の上の天ぷらを指ざし、また自分の皿の上の肉を指ざし、そうして皿をたたきながら何かしら不平を言っているようである。
 女給は困った顔をして、もじもじしている。
 僕はすっかり気の毒になって、よっぽど自分の皿の上の一尾の海老(えび)を取ってこの老人の皿の上に献じたいという力強い衝動を感じたが、さてどうもいよいよとなると、周囲の人に気兼ねして、つい実行の勇気を出しかねた。
 やがて老人は長い杖(つえ)をついて立ち上がったが、腰は海老のように曲がっていた。
 僕はその時なんとなく亡き祖母や母のことを思い出すと同時に、食堂の広い窓から流れ込む明るい初夏の空の光の中に、一抹(いちまつ)の透明な感傷のただようのを感じた。
 食卓の島々の中をくぐって遠ざかる老人の後ろ姿をながめていたら、「樹(き)静かならんとすれど風やまず……」という、あの小学読本で教わった対句がふいと想い出された。
参らせん親は在(おわ)さぬ新茶哉(昭和七年七月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十)


 プラタヌスの樹蔭で電車を待っていると、蕎麦(そば)の出前を持った若い娘が、電柱に寄せかけてあった自転車を車道へ引き出した。
 右の手は出前の盆を高くさし上げたまま、左の手をハンドルにかけ、左の足をペダルに掛けて、つっと車を乗り出すと同時にからだを宙に浮かせ、右脚を軽く上げてサドルに腰をかけようとしたが、軽い風が水色模様の浴衣(ゆかた)の裾(すそ)を吹いて、その端が危うくサドルに引っかかりそうになった。
 まっ白な脛(はぎ)がちらりと見えた。
 女は少しも騒がないで、巧みに車のつりあいを取りながら、静かに右脚をもう一遍地面に下ろした。
 そうして、二度目には、ひらりと軽く乗り移ると同時に、車輪は静かにすべるように動きだした。
 そうして、電車線路を横切って遠ざかって行った。
 ちょっと歌麿の絵を現代化した光景であった。
 朱塗りの出前の荷と、浴衣の水色模様は、この木版画を生かすであろうと思った。
 これとは関係のないことであるが、「風流」という言葉の字音が free, frei, franc などと相通ずるのはおもしろいと思う。
 実際、風流とは心の自由を意味すると思われるからである。(昭和七年九月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十一)


「墨流し」の現象を、分子物理学的の方面から、少しばかり調べてみていたら、だんだんいろいろのおもしろいことがわかって来た。
 それで、墨の製法を詳しく知りたくなって、製造元を詮議(せんぎ)してみると、日本の墨の製造所は、ほとんど全部奈良にあることがわかった。
 一方で、鐘に釁(ちぬ)るというシナの故事に、何か物理的の意味はないかという考えから、実験をしてみたいと思って、半鐘の製造所を詮議すると、それがやはり奈良県だということがわかった。
 こんなことがわかったころに、ちょうど君は奈良ホテルに泊まって鹿の声を聞いていたのである。
 今年今月は不思議に奈良に縁のある月であった。
 奈良へ出かけなければならないことになるかもしれない。(昭和七年十二月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十二)


 今日神田の三省堂(さんせいどう)へ立ち寄って、ひやかしているうちに、「性的犯罪考」という本が見当たったので、気まぐれの好奇心から一本を求めた。
 それから、暇つぶしに、あの脊の高い書架の長城の城壁の前をぶらぶら歩いているうちに、「随筆」と札のかかった区劃の前に出た。
 脊の低い、丸顔の、かわいい高等学校の生徒が一人、古風な薩摩絣(さつまがすり)の羽織に、同じ絣の着物を着たのが、ひょいと右手を伸ばしたと思って、その指先の行くえを追跡すると、それが一直線に安倍(あべ)君著「山中雑記」の頭の上に到達した。
 おやと思っているうちに、手早く書架からそれを引っこ抜いてから、しばらく内容を点検していたが、やがて、それをそっと元の穴へ返した、と思うと、今度は、すぐ左隣の「藪柑子集(やぶこうじしゅう)」を抽き出して、これもしばらくページをめくっていたが、やがてまた元の空隙(くうげき)へ押しこんだ。
 そうして、次にはそれから少しはなれて、十四、五冊くらいおいた左のほうへと移って行った。
 正月の休みに郷里帰省中であったのが、親父(おやじ)からいくらかもらって、ややふところを暖かくして出京したばかりらしいから、どちらか一冊ぐらいは買うかな、と思って見ていたが、とうとう失敬して行き過ぎてしまった。
 もっとも、あるいはそれからまたもう一遍立ち帰ったかどうか、そこまでは見届けないからわからない。
 それはどうでもいいが、とにかく安倍君というものと、自分というものとが、このかわいい学生の謙譲なる購買力の前で、立派な商売敵(しょうばいがたき)となって対立していた瞬間の光景に、偶然にもめぐり合わせたのであった。
 それよりも、もしあの学生が「藪柑子集」を読んだとしたら、その内容から自然に想像するであろうと思われる若い昔の藪柑子君の面影と、今ここで、水ばなをすすりながら「性的犯罪考」などをあさっている年取った現在の自分の姿との対照を考えると、はなはだ滑稽でもあり、また少しさびしくもあった。
哲学も科学も寒き嚔(くさめ)哉(昭和八年二月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十三)


 デパートなどで、時たま、若い年ごろの娘の装身具を見て歩くことがある。コートとか帯とか束髪用の櫛(くし)とか、そういうものを見るときに、なんだか不思議なさびしさを感じることがある。自分の二人の娘は当人たちの好みで洋服だけしか着ない。髪も断髪であるから、こういう装身具に用はないのである。
 しかし、それなら、もしも娘たちが和服も時々は着て、そうして髪も時々は島田にでも結うのであったら、父なる自分ははたしてこれらの装身具をどれだけ喜んで買ってやることができるであろうか。こう考えてみると、さらにいっそうさびしい想いがするのである。(昭和八年四月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十四)


 三越新館に熱帯魚の展覧会があった。水を入れたガラス函(ばこ)がいくつも並んでいる。底に少しばかり砂を入れていろいろ藻(も)が植えてある。よく見ると小さな魚がその藻草の林間を逍遥(しょうよう)している。瑪瑙(めのう)で作ったような三分(ぶ)ぐらいの魚もある。碧瑠璃(へきるり)で刻んだようなのもいる。紫水晶でこしらえたようなのもある。それらの小さな魚を注意して仔細(しさい)に観察していると魚がとりどりに大きく見えて来る。同時にその容器のガラス函の中の空間が大きくなって来て、深い海底の光景が展開される。見ている自分が小さくなってしまって潜水衣を着て水底にもぐっているような気がして来る。
 天使魚(エンゼルフィッシュ)という長い鰭(ひれ)をつけた美しい魚がある、これは他の魚に比べて大きいので容器が狭すぎて窮屈そうで気の毒である。囚(とら)われた天使は悲しそうにじっとして動かない。
 水槽(すいそう)に鼻をさしつけてのぞいている人間の顔を魚が見たらどんなに見えるであろう。さだめて恐ろしく醜怪な化け物のように見える事であろう。見物人の中には美人もいた。人間の美人の顔が魚の眼にはどう見えるかが問題である。(昭和八年六月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十五)


 僕のふきげんな顔は君にも有名である。
 三越の隣の刃物屋の店先に紙製の人形が、いつ見ても皮砥(かわと)で剃刀(かみそり)をといでいる。いつ見ても、さもきげんがよさそうに若い血色のいい顔を輝かして往来の人々に公平に愛嬌(あいきょう)を放散している。朝から晩まで、夏でも冬でも、雨が降っても風が吹いても、いつでもさもさもきげんがよさそうに、せっせと皮砥をかけている。うらやましいような気もする。しかし僕は人形ではない。生きているのだからしかたがない。ゆるしてくれたまえ。
 このごろは毎朝床の中で近所のラジオ体操を聞く。一、二、三、四、五、六の掛け声のうちで「ゴー」だけが特別に高く、長く飛びぬけて聞こえる。この「ゴー」の掛け声が妙に気になる。妙に気恥ずかしくて背中がくすぐったくなるような声である。「ゴッ」と短く打ち切ってもらいたい。
 僕も毎朝ラジオ体操がやれるようなほがらかな気分になれれば、そうしたら、きっといつもきげんのいい顔をお目にかけることができるかもしれない。(昭和八年八月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十六)


 八月十五日に浅間山(あさまやま)観測所の落成式があった。その時に、開所後は入場券を売って公衆の観覧を許すという話が出て、五銭の入場券が五百枚売れたら切符売りの月給ぐらいはできそうだというような取りざたをした。十九日に再び安倍君や子供を連れて見物に行ったら、なるほど観測所の玄関にちゃんと切符売りの婦人が控えていた。帰京してから研究所の食堂でその話をしたら、その切符売りの婦人こそは浅間火口に投身しようとしたのを、峯(みね)の茶屋(ちゃや)の主人が助けて思い止まらせ、そうして臨時の切符係に採用したのだということであった。やはり東京のカフェーかバーにいた女だそうでそれからまもなく帰京したとのことである。そんな事とは知らないから別に注意して見なかったが、とにかくも三十恰好の女で、そう言えばどこか都会人らしい印象があったようには思うが顔は思い出せない。
 この科学的なインスチチュートのメンバーとして、そういうロマンチックな婦人がたとえ数日の間でも働いていたということは、浅間山という特異な自然現象と関聯してはじめて生じうる特異な人事現象でなければならない。
 入場券は半月ほどの間に千七百枚とか売れたそうである。
 浅間の火口に投身した人の数は今年の夏も相当にあった。しかし三原山(みはらやま)のは新聞に出るが、浅間のは出ない。ジャーナリズムというものを説明する場合の一つのよい引用例になると思う。(昭和八年十月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十七)


 せんだって「煙草(たばこ)に関する展覧会」というのが、三越の四階に開催された。いろいろおもしろいものが陳列されている中に、伊藤博文公夫人が公の愛用のシガーのバンドをたくさんに集めて、それを六枚折り(?)の屏風(びょうぶ)に貼り込んだのがある。古切手を貼った面とこのバンドを貼った面とが交互になっている。
 こういうたんねんな仕事に興味をもつ夫人をもっていたということが、あの伊藤公の生涯にやはりそれだけの影響を及ぼしたのかもしれないと思った。

 明治節の朝、朝香宮(あさかのみや)妃殿下の薨去(こうきょ)が報ぜられた。風が寒かったが日は暖かであった。上野から省線で横浜へ行って山下町(やましたちょう)の海岸のプロムナードで「汽船のいる風景」をながめた。このへんのいろいろなビルディングにいろいろな外国の国旗が上がっている。その中で、とある建物に上がっている米国の国旗だけが半旗として掲げられている。これが他の国旗ならなんとも思わないであろうが、米国旗であるだけにそれが妙にいろいろな複雑な意味のあるように思われてしかたがなかった。(昭和八年十二月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十八)


 このごろ朝が寒いので床の中で寝たままメリヤスのズボン下をはき、それから、すでに夜じゅう着たきりのシャツの上にもう一枚のシャツを、これも寝たままで着ることを発明して実行している。
 今朝はよほど頭が悪かったと見えて、手さぐりで見当をつけておいたにかかわらず突っ込んだ右の脚はまちがいなくズボン下の左脚にはいっていた。それからシャツを頭から引っかぶってみるとどうもぐあいが変である。左の腕は寝衣(ねまき)を脱いでいるが右の腕のほうはまだ袖(そで)の中にはいっていたのである。
 出勤前に洋服に着換えるとき、チョッキのボタンを上から順にかけて行くとおしまいのボタンには相手が見つからなかった。
 そんなことでよくお役目がつとまるとある人が感心する。自分も感心する。
 しかし、こののろまのおかげで三十年の学窓生活をつづけて来た。ものぐさのおかげで大臣にも富豪にも泥坊(どろぼう)にも乞食(こじき)にもならずにすんだのかもしれない。
 自分は冬じゅうは半分肺炎に罹(かか)りかけている。ちょっとどうかすれば肺炎になりそうである。たった一晩泥坊かせぎに出たらただそれだけでまいってしまうであろうと思う。泥坊のできる泥坊の健康がうらやましく、大臣になって刑務所へはいるほどの精力がうらやましく、富豪になって首を釣るほどの活力がうらやましい。(昭和九年二月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(十九)


 映画「カンチェンジュンガ」を見た。芝居気の交じらないきまじめな実写の編輯は気持ちのいいものである。
 インドの山中の山家が日本のによく似ているのをおもしろくもなつかしく思った。それから、目的の山に近づく前に一度深い谷へ降りて行く光景の映写されるのもおもしろかった。
 人間の世界を離れた高山に思いがけなく一寸法師の夫婦が子供を一人養っているのを発見して撮影している。これを見たとき「人生の意義」などというものが文明国の人間などになかなかそう簡単にわかるものではないという気がした。
 数十頭のヤク牛が重い荷を負わされて雪解けの谿流を徒渉(としょう)するのを見ていたら妙に悲しくなって来た。牛もクリーも探検隊の人々自身もなんのためにこの辛酸(しんさん)を嘗めているかは知らないのである。
 まっ自な雪原を横切る隊列の遠望写真を見たときは、人間も虫もこんな大自然の前にはあまり同等なものと思われた。雪崩(なだれ)の実写は驚嘆すべき見ものであるが山の神様の手からただひとつまみの雪がこぼれただけである。
 大きな雲の塊(かたまり)が登山者に迫って来るのを見ていたら、その雲が何かものを言っているような気がして来た。その言っていることがはっきりわかったような気がしたが、しかし、それはやはり人間の言葉ではどうしても言い現わせないものであった。
 ぜひ一遍見て来たまえ。そうしてこの「雲の言葉」を句にしてくれたまえ。(昭和九年四月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(二十)


 有名なエノケンをはじめて映画で見た。これまで写真を見ただけで、どうしても実物の芝居を見る気がしなかったが、映画で見ると予想したほどに不愉快ではなく、やはりときどきは笑わされてしまった。
 彼にはやはりどこかに「強い」ところがあると見える。それが少なくも彼としての「成効」の原因であろう。とにかく見物が大丈夫笑ってくれるという自信をもっているらしい。
 自信のないことを自覚している演芸ほど見ていて苦しいものはない。しかし、そうかと言って、自信するだけの客観的内容のないただ主観的なだけの自信をふり回す芸も困ることはもちろんである。
 至芸となると、演技者の自信が演技者を抜け出して観客の中へ乗り移ってしまう。エノケンもそれまでにはだいぶ距離がある。
 二村(ふたむら)は両立する存在ではなくて従属し補充するだけの役目をしているようである。(昭和九年六月、渋柿)[#改ページ]

   星野温泉より


 一年ぶりに星野温泉に来て去年と同じ家に落ち付いてみると、去年の夏と今年の夏との間に一年もたったという気がどうしてもしない。ほんの一週間ぐらい東京へ帰ってまた出て来たような気がする。もっともこれは、去年帰るときに子供らをのこして帰り、今年は先に子供らをよこしてあったので往き帰りの引っ越し騒ぎに関与しなかったからでもあるらしい。
 しかし、なんだか、東京にいる間は「星野の自分」が眠っていてその間は「東京の自分」が活動しており、星野へ来るとはじめて「星野の自分」が眼を覚まして活動しだしたといったような気もする。
 軽微なる二重人格症の症状とも言われるかもしれない。しかし、たとえばいろいろな月給生活者でも、勤め先における自分の生活と家庭における生活とはやはりある程度までは別の世界であり、その二つの世界ではやはりそれぞれ二つの別の自分があるのでははいかという気もする。(昭和九年八月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(二十一)


 昭和九年八月十五日は浅間山火山観測所の創立記念日で、東京の大学地震研究所員数名が峯の茶屋の観測所に集合して附近の見学をした。翌十六日は一行の中の、石本(いしもと)所長と松沢(まつざわ)山口(やまぐち)両氏ならびに観測所主任の水上(みなかみ)氏と四人が浅間に登山したが、自分と坪井(つぼい)氏とは登らなかった。石本松沢山口三氏はその日二時十五分沓掛(くつかけ)発の列車で帰京し坪井氏は三時五十三分で立ち、自分だけ星野温泉に居残った。
 翌日の東京朝日新聞長野版を見ると、石本坪井両氏と寺田が登山し三人とも二時十五分の汽車で帰京したことになっていた。
 その後、九月五日にまた星野温泉へ行って七日に帰京したのであるが、九月十三日の某新聞消息欄を見ると、吉村冬彦が軽井沢から帰京したことになっている。
 これらの記事は事実の報道としてはみんな途方もないうそである。しかしこれをジャーナリズムの中にある「俳諧」と思って見れば別にたいした不都合はないかもしれない。うその中の真実が真実の真実よりもより多く真実なのかもしれないからである。(昭和九年十月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(二十二)


 越後のある小都会の未知の人から色紙(しきし)だったか絹地だったか送って来て、何かその人の家のあるめでたい機会を記念するために張り交ぜを作るから何か揮毫(きごう)して送れ、という注文を受けたことがあった。ただし、急ぐからおよそ何日ごろまでに届くように、という細かい克明な注意まで書き添えてあった。
 そのままにして忘れていたらやがて催促状が来て、もし「いやならいやでよろしく」それなら送った品を返送せよというのであった。それでびっくりしてさっそく返送の手続きをとったことであった。
 それから数年たった近ごろ、また同じ人からはがき大の色紙を二、三枚よこして、これに何か書いてよこせ、「大切に保存するから」と言って来た。
 ちょっと日本人ばなれがしている。アメリカのウォール街あたりの人のように実にきびきびと物事をビジネス的に処理する人らしく思われる。
 ただ、こういう気質の人のもつ世界と自分らの考えている俳句の世界とがどういうふうにつながり、どういうぐあいに重なり合っているかという事がちょっと不思議に思われたのであった。
 今度は催促されないように折り返し色紙を返送した。(昭和九年十二月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(二十三)


 安倍能成(あべよししげ)君が「京城(けいじょう)より」の中で「人柱(ひとばしら)」ということが西洋にもあったかどうかという疑問を出したことがあった。近ごろルキウス・アンネウス・フロルスの「ローマ史摘要」を見ていたら、ロムルスがその新都市に胸壁を築いたとき、彼と双生児のレームスが「こんなけちな壁なんかなんにもならない」と言ってひととびに飛び越して見せた。そのために結局レームスは殺されたのであるが、しかしロムルスの命令によって殺されたかどうかは不明だとある。そうして「いずれにしてもレームスは最初の犠牲(ヴィクティマ)であって、しかして彼の血をもって新市の堡塁を浄化した」とある。
 この話は人柱とは少しちがうが、しかしどこかしらだいぶ似たところがある。
 豚や牛のように人間を殺して生贄(いけにえ)とすることは西洋には昔はよくあったらしいが、それが神をあがめ慰めるだけでなく、それによって何か難事を遂げさせてもらうための先払いの報酬のような意味で神々にささげる事もあったとすれば、結局は人柱と同じことになるのではないかと思う。
 同じ書物にまた次のような話もある。
 あまり評判のよくないほうで有名なローマの最後の王様タルキヌスがほうぼうで攻め落とした敵の市街からの奪掠物で寺院を建てた。そのときに敷地の土台を掘り返していたら人間の頭蓋骨が一つ出て来た。しかし人々はこれこそこの場所が世界の主都となる瑞兆(ずいちょう)であるということを信じて疑わなかったとある。われわれの現在の考え方だと、これはなんだかむしろ薄気味の悪い凶兆のように思われるのに、当時のローマ人がこれを主都のかための土台石のように感じたのだとすると、その考え方の中にはどこかやはり「人柱」の習俗の根柢(こんてい)に横たわる思想とおのずから相通ずるものがあるような気がする。
 以上偶然読書中に見つけたから安倍君の驥尾(きび)に付して備忘のために誌(しる)しておくことにした。(昭和十年三月、渋柿)[#改ページ]

   曙町より(二十四)


 ある大きな映画劇場の入場料を五十銭均一にしたら急に入場者が増加して結局総収入が増すことになったといううわさがある。事実はどうだか知らない。しかし、「五十銭均一」という言葉には何かしら現代の一般民衆に親しみと気楽さを吹き込むあるものがあるのではないかという気がする。
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