柿の種
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著者名:寺田寅彦 

     自序


 大正九年ごろから、友人松根東洋城(まつねとうようじょう)の主宰する俳句雑誌「渋柿」の巻頭第一ページに、「無題」という題で、時々に短い即興的漫筆を載せて来た。中ごろから小宮豊隆(こみやとよたか)が仲間入りをして、大正十四、五年ごろは豊隆がもっぱらこの欄を受け持った。昭和二年からは、豊隆と自分とがひと月代わりに書くことになった。昭和六年からは「曙町(あけぼのちょう)より」という見出しで、豊隆の「仙台より」と、やはりだいたいひと月代わりに書いて来た。それがだんだんに蓄積してかなりの分量になった。
 今度、もと岩波書店でおなじみの小山二郎(おやまじろう)君が、新たに出版業をはじめるというので、この機会にこれらの短文を集めて小冊子を、同君の店から上梓(じょうし)するようにしないかとすすめられた。
 元来が、ほとんど同人雑誌のような俳句雑誌のために、きわめて気楽に気ままに書き流したものである。原稿の締め切りに迫った催促のはがきを受け取ってから、全く不用意に机の前へすわって、それから大急ぎで何か書く種を捜すというような場合も多かった。雑誌の読者に読ませるというよりは、東洋城や豊隆に読ませるつもりで書いたものに過ぎない。従って、身辺の些事(さじ)に関するたわいもないフィロソフィーレンや、われながら幼稚な、あるいはいやみな感傷などが主なる基調をなしている。言わば書信集か、あるいは日記の断片のようなものに過ぎないのである。しかし、これだけ集めてみて、そうしてそれを、そういう一つの全体として客観して見ると、その間に一人の人間を通して見た現代世相の推移の反映のようなものも見られるようである。そういう意味で読んでもらえるものならば、これを上梓するのも全く無用ではあるまいと思った次第である。
 これらの短文の中のあるものは、その後に自分の書いた「他処行(よそゆ)き」の随筆中に、少しばかりちがった着物をきて現われているのもある。しかし、重複を避けるためにこれを取り除くとすると、この集の内容の自然な推移の連鎖を勝手に中断することになって、従って一つの忠実な記録としてのこの集の意味を成さぬことになるから、やはり、そういうのもかまわず残らず採録して、実際の年月順に並べることにした。
 中には、ほんの二、三ではあるが、「無題」「曙町より」とは別の欄に載せた短文や書信がある。これも実質的には全く同じものであるから、他のものといっしょにして年月の順に挿入することにした。
 大正十三年ごろの「無題」に、ページの空白を埋めるために自画のカットを入れたのがある。その中の数葉を選んでこの集の景物とする。これも大正のジャーナリズムの世界の片すみに起こった、ささやかな一つの現象の記録というほかには意味はない。
 この書の読者への著者の願いは、なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたいという事である。(昭和八年六月、『柿の種』)[#改丁、ページの左右中央に]

   短章 その一

[#改ページ、ページの左右中央に]
棄てた一粒の柿の種
生えるも生えぬも
甘いも渋いも
畑の土のよしあし
[#改ページ]

       *

 日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。
 このガラスは、初めから曇っていることもある。
 生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。
 二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
 しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
 しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
 ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。
 それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。
 穴を見つけても通れない人もある。
 それは、あまりからだが肥(ふと)り過ぎているために……。
 しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。
 まれに、きわめてまれに、天の焔(ほのお)を取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔(と)かしてしまう人がある。(大正九年五月、渋柿)[#改ページ]

       *

 宇宙の秘密が知りたくなった、と思うと、いつのまにか自分の手は一塊の土くれをつかんでいた。そうして、ふたつの眼がじいっとそれを見つめていた。
 すると、土くれの分子の中から星雲が生まれ、その中から星と太陽とが生まれ、アミーバと三葉虫(さんようちゅう)とアダムとイヴとが生まれ、それからこの自分が生まれて来るのをまざまざと見た。
 ……そうして自分は科学者になった。
 しばらくすると、今度は、なんだか急に唄いたくなって来た。
 と思うと、知らぬ間に自分の咽喉(のど)から、ひとりでに大きな声が出て来た。
 その声が自分の耳にはいったと思うと、すぐに、自然に次の声が出て来た。
 声が声を呼び、句が句を誘うた。
 そうして、行く雲は軒ばに止まり、山と水とは音をひそめた。
 ……そうして自分は詩人になった。(大正九年八月、渋柿)[#改ページ]

       *

 根津権現(ねづごんげん)の境内のある旗亭(きてい)で大学生が数人会していた。
 夜がふけて、あたりが静かになったころに、どこかでふくろうの鳴くのが聞こえた。
「ふくろうが鳴くね」
と一人が言った。
 するともう一人が
「なに、ありゃあふくろうじゃない、すっぽんだろう」
と言った。
 彼の顔のどこにも戯れの影は見えなかった。
 しばらく顔を見合わせていた仲間の一人が
「だって、君、すっぽんが鳴くのかい」
と聞くと
「でもなんだか鳴きそうな顔をしているじゃないか」
と答えた。
 皆が声を放って笑ったが、その男だけは笑わなかった。
 彼はそう信じているのであった。
 その席に居合わせた学生の一人から、この話を聞かされた時には、自分も大いに笑ったのではあったが、あとでまたよくよく考えてみると、どうもその時にはやはりすっぽんが鳴いたのだろうと思われる。
 ……過去と未来を通じて、すっぽんがふくろうのように鳴くことはないという事が科学的に立証されたとしても、少なくも、その日のその晩の根津権現境内では、たしかにすっぽんが鳴いたのである。(大正九年九月、渋柿)[#改ページ]

       *

 霊山の岩の中に閉じ込められて、無数の宝石が光り輝いていた。
 試みにその中のただ一つを掘り出してこの世の空気にさらすと、たちまちに色も光も消え褪(あ)せた一片の土塊(つちくれ)に変わってしまった。
 同時に、霊山の岩の中に秘められたすべての宝石も、そのことごとくが皆ただの土塊に変わってしまった。
 私の頭の中には、数限りもない美しい絵が秘蔵されていた。
 私は試みに絵筆を取って、その中の一つを画布の上に写してみた。
 ……気のついた時はもう間に合わなかった。
 ……同時に頭の中のすべての美しい絵もみんな無残に塗り汚されてしまった。
 そうして私はただのつまらない一画工になってしまった。(大正九年十月、渋柿)[#改ページ]

       *

 ロンドンの動物園へインドから一匹の傘蛇(コブラ)が届いた。
 蛇には壁蝨(だに)が一面に取りついていた。
 健全な蛇にはこの虫があまりつかないものである。
 こんなことが先ごろの週刊タイムスに出ていた。
「この事実にはいろいろのモラールがある」
とAが言った。
「さらに多くの詩がある」
とBが答えた。(大正九年十月、渋柿)[#改ページ]

       *

 夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。
 その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。
 その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。
 ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページへ来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。
 やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。
 そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。
 あらゆる「同情」の中の至純なものである。(大正九年十一月、渋柿)[#改ページ]

       *

 脚(あし)を切断してしまった人が、時々、なくなっている足の先のかゆみや痛みを感じることがあるそうである。
 総入れ歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずきうずくように感じることもあるそうである。
 こういう話を聞きながら、私はふと、出家遁世(とんせい)の人の心を想いみた。
 生命のある限り、世を捨てるということは、とてもできそうに思われない。(大正九年十一月、渋柿)[#改ページ]

       *

「庭の植え込みの中などで、しゃがんで草をむしっていると、不思議な性的の衝動を感じることがある」
と一人が言う。
「そう言えば、私はひとりで荒磯の岩陰などにいて、潮の香をかいでいる時に、やはりそういう気のすることがあるようだ」
ともう一人が言った。
 この対話を聞いた時に、私はなんだか非常に恐ろしい事実に逢著(ほうちゃく)したような気がした。
 自然界と人間との間の関係には、まだわれわれの夢にも知らないようなものが、いくらでもあるのではないか。(大正九年十二月、渋柿)[#改ページ]

       *

 気象学者が cirrus と名づける雲がある。
 白い羽毛のようなのや、刷毛(はけ)で引いたようなのがある。
 通例巻雲(けんうん)と訳されている。
 私の子供はそんなことは無視してしまって、勝手にスウスウ雲と命名してしまった。(大正九年十二月、渋柿)[#改ページ]

       *

 親類のTが八つになる男の子を連れて年始に来た。
 古い昔の教導団出身の彼は、中学校の体操教師で、男の子ばかり九人養っている。
 宅(うち)へ行って見ると、畳も建具も、実に手のつけ所のないほどに破れ損じているのである。
 挨拶がすんで、屠蘇(とそ)が出て、しばらく話しているうちに、その子はつかつかと縁側へ立って行った、と思うといきなりそこの柱へ抱きついて、見る間に頂上までよじ上ってしまった。
 Tがあわててしかると、するするとすべり落ちて、Tの横の座蒲団(ざぶとん)の上にきちんとすわって、袴(はかま)のひざを合わせた上へ、だいぶひびの切れた両手を正しくついて、そうして知らん顔をしているのであった。
 しきりに言い訳をするTを気の毒とは思いながらも、私は愉快な、心からの笑い声が咽喉からせり上げて来るのを防ぎかねた。
 貧しくてもにぎやかな家庭で、八人の兄弟の間に自由にほがらかに活溌に育って来たこの子の身の上を、これとは反対に実に静かでさびしかった自分の幼時の生活に思い比べて、少しうらやましいような気もするのであった。(大正十年一月、渋柿)[#改ページ]

       *

 人殺しをした人々の魂が、毎年きまったある月のある日の夜中に墓の中から呼び出される。
 そうして、めいめいの昔の犯罪の現場を見舞わせられる。
 行きがけには、だれも彼も
「正当だ。おれのしたことは正当だ」
とつぶやきながら出かけて行く。
 ……しかし、帰りには、みんな
「悪かった。悪かった」
とつぶやきながら、めいめいの墓場へ帰って行くそうである。
 私は、……人殺しだけはしないことにきめようと思う。(大正十年二月、渋柿)[#改ページ]

       *

 彼はある日歯医者へ行って、奥歯を一本抜いてもらった。
 舌の先でさわってみると、そこにできた空虚な空間が、自分の口腔(こうこう)全体に対して異常に大きく、不合理にだだっ広いもののように思われた。
 ……それが、ひどく彼に人間の肉体のはかなさ、たよりなさを感じさせた。
 またある時、かたちんばの下駄(げた)をはいてわずかに三町ばかり歩いた。すると、自分の腰から下が、どうも自分のものでないような、なんとも言われない情けない心持ちになってしまった。
 それから、……
 そんな事から彼は、おしまいには、とうとう坊主になってしまった。(大正十年二月、渋柿)[#改ページ]

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 生来の盲人は眼の用を知らない。
 始めから眼がないのだから。
 眼明きは眼の用を知らない。
 生まれた時から眼をもっているのだから。(大正十年三月、渋柿)[#改ページ]

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 アルバート・ケンプという男が、百十時間ぶっ通しにピアノを弾き続けて、それで世界のレコードを取ったという記事が新聞に出ていた。
 驚くべき非音楽的な耳もあるものだと思う。(大正十年三月、渋柿)[#改ページ]

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 眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
 しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
 なぜだろう。(大正十年三月、渋柿)[#改ページ]

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 虱(しらみ)をはわせると北へ向く、ということが言い伝えられている。
 まだ実験したことはない。
 もし、多くの場合にこれが事実であるとすれば、それはこの動物の背光性 negative phototropism によって説明されるであろう。
 多くの人間の住所(すまい)では一般に南側が明るく、北側が暗いからである。
 この説明が仮に正しいとしても、この事実の不思議さは少しも減りはしない。
 不思議さが少しばかり根元へ喰い込むだけである。
 すべての科学的説明というものについても同じことが言われるとすれば、……
 未来の宗教や芸術はやはり科学の神殿の中に安置されなければならないような気がする。(大正十年四月、渋柿)[#改ページ]

       *

 鳥や魚のように、自分の眼が頭の両側についていて、右の眼で見る景色と、左の眼で見る景色と別々にまるでちがっていたら、この世界がどんなに見えるか、そうしてわれわれの世界観人生観がどうなるか。……
 いくら骨を折って考えてみても、こればかりは想像がつかない。
 鳥や魚になってしまわなければこれはわからない。(大正十年四月、渋柿)[#改ページ]

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 大正九年の七月に、カイゼル・ウィルヘルムの第六王子ヨアヒムが自殺をした。
 ピストルの弾(たま)が右肺を貫き、心臓をかすっていた。
 一度自覚を回復したが、とうとう助からなかった。
 妃(きさき)との離婚問題もあったが、その前から精神に異状があったそうである。
 王子の採った自殺の方法が科学的にはなはだ幼稚なものだと思われた。
 なんだかドイツらしくないという気がした。
 しかし、……心臓をねらうかわりに、脳を撃つか、あるいは適切な薬品を選んだ場合を想像してみると、王子に対するわれわれの感情にはだいぶんの違いがある。
 やっぱり心臓を選ばなければならなかったであろう。(大正十年五月、渋柿)[#改ページ]

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「ダンテはいつまでも大詩人として尊敬されるだろう。……だれも読む人がないから」
と、意地の悪いヴォルテーアが言った。
 ゴーホやゴーガンもいつまでも崇拝されるだろう。……
 だれにも彼らの絵がわかるはずはないからである。(大正十年五月、渋柿)[#改ページ]

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「あらゆる結婚の儀式の中で、最も神聖で、最もサブライムなものは、未開民族の間に今日でもまだ行なわれている掠奪(りゃくだつ)結婚のそれである。……
 近年まで、この風習が日本の片すみに残っていたが、惜しいことに、もうどこにも影をとどめなくなったらしい。
 そうして、近ごろ都会で行なわれるような、最も不純で、最も堕落したいろいろの様式ができあがった。」
 こう言ってP君が野蛮主義を謳歌(おうか)するのである。(大正十年六月、渋柿)[#改ページ]

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 足尾(あしお)の坑夫のおかみさんたちが、古河(ふるかわ)男爵夫人に面会を求めるために上京した。
「男爵の奥様でも私たちでもやっぱり同じ女だ」といったような意味のことを揚言したそうである。
 僕はこの新聞を読んだ時に、そのおかみさんたちの顔がありあり見えるような気がした。
 そうして腹が立った。……
 いくらデモクラシーが世界に瀰漫(びまん)しても、ルビーと煉瓦(れんが)の欠けらとが一つになるか、と、どなりたくなった。……
 ヴィナスのアリストクラシーは永遠のものである。
 こう言ってQ君が一人で腹を立てている。(大正十年六月、渋柿)[#改ページ]

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 油画をかいてみる。
 正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。
 全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とはちがうように描かなければいけないということになる。
 印象派の起こったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。
 思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。(大正十年七月、渋柿)[#改ページ]

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 寝入りぎわの夢現(ゆめうつつ)の境に、眼の前に長い梯子(はしご)のようなものが現われる。
 梯子の下に自分がいて、これから登ろうとして見上げているのか、それとも、梯子の上にいて、これから降りようとしているのか、どう考えてもわからない。(大正十年七月、渋柿)[#改ページ]

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 嵐(あらし)の夜が明けかかった。
 雨戸を細目にあけて外をのぞいて見ると、塀(へい)は倒れ、軒ばの瓦(かわら)ははがれ、あらゆる木も草もことごとく自然の姿を乱されていた。
 大きな銀杏(いちょう)のこずえが、巨人の手を振るようになびき、吹きちぎられた葉が礫(こいし)のようにけし飛んでいた。
 見ているうちに、奇妙な笑いが腹の底から込み上げて来た。
 そうして声をあげてげらげら笑った。
 その瞬間に私は、天と地とが大声をあげて、私といっしょに笑ったような気がした。(大正十年八月、渋柿)[#改ページ]

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 猫(ねこ)が居眠りをするということを、つい近ごろ発見した。
 その様子が人間の居眠りのさまに実によく似ている。
 人間はいくら年を取っても、やはり時々は何かしら発見をする機会はあるものと見える。
 これだけは心強いことである。(大正十年八月、渋柿)[#改ページ]

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「三から五ひくといくつになる」と聞いてみると、小学一年生は「零になる」と答える。
 中学生がそばで笑っている。
 3−5=−2[#「3−5=−2」は横組み]という「規約」の上に組み立てられた数学がすなわち代数学である。
 しかし3−5=0[#「3−5=0」は横組み]という約束から出発した数学も可能かもしれない。
 しかしそれは代数ではない。
 物事は約束から始まる。
 俳句の約束を無視した短詩形はいくらでも可能である。
 のみならず、それは立派な詩でもありうる。
 しかし、それは、もう決して俳句ではない。(大正十年九月、渋柿)[#改ページ]

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 東京へんでは、七月ごろから、もうそろそろ秋の「実質」が顔を出し始める。
 しかし、それがために、かえって、いよいよ秋の「季節」が到来した時の、秋らしい感じは弱められるような気もする。
 たまには、前触れなしの秋が来たらおもしろいかもしれない。(大正十年九月、渋柿)

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 一に一を加えて二になる。
 これは算術である。
 しかし、ヴェクトルの数学では、1に1を加える場合に、その和として、0から2までの間の任意な値を得ることができる。
 美術展覧会の審査には審査員の採点数を加算して採否を決めたりする。
 あれは算術のほかに数学はないと思っている人たちのすることとしか思われない。(大正十年十月、渋柿)[#改ページ]

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 新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと思うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある。(大正十年十月、渋柿)[#改ページ]

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 昔、ロンドン塔でライオンを飼っていた。
 十四世紀ごろの記録によると、ライオンの一日の食料その他の費用が六ペンスであった。
 そうして囚人一人前の費用はというと、その六分の一の一ペニーであったそうである。
 今の上野動物園のライオンと、深川の細民との比較がどうなっているか知りたいものである。(大正十年十月、渋柿)[#改ページ]

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 コスモスという草は、一度植えると、それから後数年間は、毎年ひとりで生えて来る。
 今年も三、四本出た。
 延び延びて、私の脊丈(せた)けほどに延びたが、いっこうにまだ花が出そうにも見えない。
 今朝行って見ると、枝の尖端(せんたん)に蟻(あり)が二、三疋(びき)ずつついていて、何かしら仕事をしている。
 よく見ると、なんだか、つぼみらしいものが少し見えるようである。
 コスモスの高さは蟻の身長の数百倍である。
 人間に対する数千尺に当たるわけである。
 どうして蟻がこの高い高い茎の頂上につぼみのできたことをかぎつけるかが不思議である。(大正十年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 白い萩(はぎ)がいいという人と、赤い萩がいいという人とが、熱心に永い時間議論をしていた。
 これは、実際私が、そばで聞いていたから、確かな事実である。(大正十年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 田端(たばた)の停車場から出て、線路を横ぎる陸橋のほうへと下りて行く坂道がある。
 そこの道ばたに、小さなふろしきを一枚しいて、その上にがま口を五つ六つ並べ、そのそばにしゃがんで、何かしきりにしゃべっている男があった。
 往来人はおりからまれで、たまに通りかかる人も、だれ一人、この商人を見向いて見ようとはしなかった。
 それでも、この男は、あたかも自分の前に少なくも五、六人の顧客を控えてでもいるような意気込みでしゃべっていた。
 北西の風は道路の砂塵(さじん)をこの簡単な「店」の上にまともに吹きつけていた。
 この男の心持ちを想像しようとしてみたができなかった。
 しかし、めったに人の評価してくれない、あるいは見てもくれない文章をかいたり絵をかいたりするのも、考えてみれば、やはりこの道路商人のひとり言と同じようなものである。(大正十年十二月、渋柿)[#改ページ]

       *

 宿屋や料理屋などの広告に、その庭園や泉石の風景をペンキ絵で描いた建て札のようなものが、よく田舎(いなか)の道ばたなどに立ててある。
 たとえば、その池などが、ちょっとした湖水ぐらいはありそうに描かれているが、実際はほんの金魚池ぐらいのものであったりする。
 ああいう絵をかく絵かきは、しかし、ある意味でえらいと思う。
 天然を超越して、しかもまたとにかく新しい現実を創造するのだから。(大正十年十二月、渋柿)[#改ページ]

       *

 暮れの押し詰まった銀座の街を、子供を連れてぶらぶら歩いていた。
 新年用の盆栽を並べた露店が、何軒となくつづいている。
 貝細工のような福寿草よりも、せせこましい枝ぶりをした鉢(はち)の梅よりも、私は、藁(わら)で束ねた藪柑子(やぶこうじ)の輝く色彩をまたなく美しいものと思った。
 まんじゅうをふかして売っている露店がある。
 蒸籠(せいろ)から出したばかりのまんじゅうからは、暖かそうな蒸気がゆるやかな渦(うず)を巻いて立ちのぼっている。
 私は、そのまんじゅうをつまんで、両の掌(てのひら)でぎゅっと握りしめてみたかった。
 そして子供らといっしょにそれを味わってみたいと思った。
 まんじゅうの前に動いた私の心の惰性は、ついその隣の紙風船屋へ私を導いて、そこで私に大きな風船玉を二つ買わせた。
 まんじゅうを食う事と、紙風船をもてあそぶ事との道徳的価値の差違いかんといったような事を考えながら、また子供の手をひいて暮れの銀座の街をぶらぶらとあてもなく歩いて行った。(大正十一年二月、渋柿)[#改ページ]

       *

 祖父がなくなった時に、そのただ一人の女の子として取り残された私の母は、わずかに十二歳であった。
 家を継ぐべき養子として、当時十八歳の父が迎えられる事になったが、江戸詰めの藩公の許可を得るために往復二か月を要した。
 それから五十日の喪に服した後、さらに江戸まで申請して、いよいよ家督相続がきまるまでにまた二か月かかった。
 一月二十七日に祖父が死んで、七月四日に家督が落ち着いたのだそうである。
 喪中は座敷に簾(すだれ)をたれて白日をさえぎり、高声に話しする事も、木綿車(もめんぐるま)を回すことさえも警(いまし)められた。
 すべてが落着した時に、庭は荒野のように草が茂っていて、始末に困ったそうである。(大正十一年四月、渋柿)[#改ページ]

       *

 安政時代の土佐の高知での話である。
 刃傷(にんじょう)事件に座して、親族立ち会いの上で詰め腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。
 居合わせた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老媼(ろうおう)の口に注ぎ込んだ。
 老媼は、その鉄瓶の底をなで回した掌で、自分の顔をやたらとなで回したために、顔じゅう一面にまっ黒い斑点ができた。
 居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情のもとにも、やはりそれを見て笑ったそうである。(大正十一年四月、渋柿)[#改ページ]

       *

 子猫が勢いに乗じて高い樹のそらに上ったが、おりることができなくなって困っている。
 親猫が樹の根元へすわってこずえを見上げては鳴いている。
 人がそばへ行くと、親猫は人の顔を見ては訴えるように鳴く。
 あたかも助けを求めるもののようである。
 こういう状態が二十分もつづいたかと思う。
 その間に親猫は一、二度途中まで登って行ったが、どうすることもできなくて、おめおめとまたおりて来るのであった。
 子猫はとうとう降り始めたが、脚をすべらせて、山吹(やまぶき)の茂みの中へおち込んだ。
 それを抱き上げて連れて来ると、親猫はいそいそとあとからついて来る。
 そうして、縁側におろされた子猫をいきなり嘗(な)め始める。
 子猫は、すぐに乳房にしゃぶりついて、音高くのどを鳴らしはじめる。
 親猫もクルークルーと恩愛にむせぶように咽喉を鳴らしながら、いつまでもいつまでも根気よく嘗め回し、嘗めころがすのである。
 単にこれだけの猫のふるまいを見ていても、猫のすることはすべて純粋な本能的衝動によるもので、人間のすることはみんな霊性のはたらきだという説は到底信じられなくなる。(大正十一年六月、渋柿)

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 平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。
 すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張(しちょう)と上昇気流を利用するだけで上空を翔(か)けり歩く研究を始めた。
 最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回った男がある。
 飛んだ距離は二里近くであった。
 詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。(大正十一年八月、渋柿)[#改ページ]

       *

 シヤトルの勧工場(かんこうば)でいろいろのみやげ物を買ったついでに、草花の種を少しばかり求めた。
 そのときに、そこの売り子が
「これはあなたにあげましょう。私この花がすきですから」
と言って、おまけに添えてくれたのが、珍しくもない鳳仙花(ほうせんか)の種であった。
 帰って来てまいたこれらのいろいろの種のうちの多くのものは、てんで発芽もしなかったし、また生えたのでもたいていろくな花はつけず、一年きりで影も形もなく消えてしまった。
 しかし、かの売り子がおまけにくれた鳳仙花だけは、実にみごとに生長して、そうして鳳仙花とは思われないほどに大きく美しく花を着けた。
 そうしてその花の種は、今でもなお、年々に裏庭の夏から秋へかけてのながめをにぎわすことになっている。
 この一些事(さじ)の中にも、霊魂不滅の問題が隠れているのではないかという気がする。(大正十一年十一月、渋柿)[#改ページ]

       *

 切符をもらったので、久しぶりに上野音楽学校の演奏会を聞きに行った。
 あそこの聴衆席にすわって音楽を聞いていると、いつでも学生時代の夢を思い出すと同時にまた夏目先生を想い出すのである。
 オーケストラの太鼓を打つ人は、どうも見たところあまり勤めばえのする派手な役割とは思われない。
 何事にも光栄の冠を望む若い人にやらせるには、少し気の毒なような役である。
 しかし、あれは実際はやはり非常にだいじな役目であるに相違ない。
 そう思うと太鼓の人に対するある好感をいだかせられる。
 ロシニのスタバト・マーテルを聞きながら、こんなことも考えた。
 ほんとうのキリスト教はもうとうの昔に亡(ほろ)びてしまって、ただ幽(かす)かな余響のようなものが、わずかに、こういう音楽の中に生き残っているのではないか。(大正十二年一月、渋柿)[#改ページ]

       *

 大学の構内を歩いていた。
 病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
 近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄(ぶどう)ぐらいの大きさの疣(いぼ)が一面に簇生(そうせい)していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。
 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
 そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。
 そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。(大正十二年三月、渋柿)[#改ページ]

       *

 数年前の早春に、神田の花屋で、ヒアシンスの球根を一つと、チューリップのを五つ六つと買って来て、中庭の小さな花壇に植え付けた。
 いずれもみごとな花が咲いた。
 ことにチューリップは勢いよく生長して、色さまざまの大きな花を着けた。
 ヒアシンスは、そのそばにむしろさびしくひとり咲いていた。
 その後別に手入れもせず、冬が来ても掘り上げるだけの世話もせずに、打ち棄ててあるが、それでも春が来ると、忘れずに芽を出して、まだ雑草も生え出ぬ黒い土の上にあざやかな緑色の焔を燃え立たせる。
 始めに勢いのよかったチューリップは、年々に萎縮(いしゅく)してしまって、今年はもうほんの申し訳のような葉を出している。
 つぼみのあるのもすくないらしい。
 これに反して、始めにただ一本であったヒアシンスは、次第に数を増し、それがみんな元気よく生い立って、サファヤで造ったような花を鈴なりに咲かせている。
 そうして小さな花壇をわが物のように占領している。
 この二つの花の盛衰はわれわれにいろいろな事を考えさせる。(大正十二年五月、渋柿)[#改ページ]

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 鰻(うなぎ)をとる方法がいろいろある。
 筌(うえ)を用いるのは、人間のほうから言って最も受動的な方法である。
 鰻のほうで押しかけて来なければものにならない。
 次には、蚯蚓(みみず)の数珠(じゅず)を束ねたので誘惑する方法がある。
 その次には、鰻のいる穴の中へ釣り針をさしこんで、鰻の鼻先に見せびらかす方法がある。
 これらはよほど主動的であるが、それでも鰻のほうで気がなければ成立しない。
 次には、鰻の穴を捜して泥(どろ)の中へ手を突っ込んでつかまえる。
 これは純粋に主動的な方法である。
 最後に鰻掻(うなぎか)きという方法がある。
 この場合のなりゆきを支配するものは「偶然」である。(大正十二年六月、渋柿)[#改ページ]

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 無地の鶯茶(うぐいすちゃ)色のネクタイを捜して歩いたがなかなか見つからない。
 東京という所も存外不便な所である。
 このごろ石油ランプを探し歩いている。
 神田や銀座はもちろん、板橋界隈(かいわい)も探したが、座敷用のランプは見つからない。
 東京という所は存外不便な所である。
 東京市民がみんな石油ランプを要求するような時期が、いつかはまためぐって来そうに思われてしかたがない。(大正十二年七月、渋柿)
(『柿の種』への追記) 大正十二年七月一日発行の「渋柿」にこれが掲載されてから、ちょうど二か月後に関東大震災が起こって、東京じゅうの電燈が役に立たなくなった。これも不思議な回りあわせであった。
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 本石町(ほんごくちょう)の金物店へはいった。
「開き戸のパタンパタン煽(あお)るのを止める、こんなふうな金具はありませんか。」
 おぼつかない手まねをしながら聞いた。
 主婦はにやにや笑いながら、「ヘイ、ございます。……煽り留めとでも申しましょうか。」
 出して来たボール箱には、なるほど、アオリドメと片仮名でちゃんと書いてあった。
 うまい名をつけたものだと感心した。
 物の名というものはやはりありがたいものである。
 おつりにもらった、穴のある白銅貨の二つが、どういうわけだか、穴に糸を通して結び合わせてあった。
 三越(みつこし)で買い物をした時に、この結び合わせた白銅を出したら、相手の小店員がにやにや笑いながら受け取った。
 この二つの白銅の結び合わせにも何か適当な名前がつけられそうなものだと思ったが、やはりなかなかうまい名前は見つからない。(大正十二年八月、渋柿)[#改ページ]

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 道ばたの崖(がけ)の青芒(あおすすき)の中に一本の楢(なら)の木が立っている。
 その幹に虫がたくさん群がっている。
 紫色の紋のある美しい蝶(ちょう)が五、六羽、蜂が二種類、金亀子(こがねむし)のような甲虫(こうちゅう)が一種、そのほかに、大きな山蟻(やまあり)や羽蟻(はあり)もいる。
 よく見ると、木の幹には、いくつとなく、小指の頭ぐらいの穴があいて、その穴の周囲の樹皮がまくれ上がりふくれ上がって、ちょうど、人間の手足にできた瘍(よう)のような恰好(かっこう)になっている。
 虫類はそれらの穴のまわりに群がっているのである。
 人間の眼には、おぞましく気味の悪いこの樹幹の吹き出物に人間の知らない強い誘惑の魅力があって、これらの数多くの昆虫をひきよせるものと見える。
 私は、この虫の世界のバッカスの饗宴を見ているうちに、何かしら名状し難い、恐ろしいような物すごいような心持ちに襲われたのであった。(大正十二年九月、渋柿)[#改ページ]

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 震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹(えんたん)色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。
 樹という樹に生え広がって行った。
 そうして、その丹色(にいろ)が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映(は)え合っていた。
 道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。
 そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返して来る新しい生命の胚芽の先駆者であった。
 三、四日たつと、焼けた芝生(しばふ)はもう青くなり、しゅろ竹や蘇鉄(そてつ)が芽を吹き、銀杏(いちょう)も細い若葉を吹き出した。
 藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。
 焦土の中に萌(も)えいずる緑はうれしかった。
 崩れ落ちた工場の廃墟(はいきょ)に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。(大正十二年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 震災後の十月十五日に酒匂川(さかわがわ)の仮橋を渡った。
 川の岸辺にも川床にも、数限りもない流木が散らばり、引っかかっていた。
 それが、大きな樹も小さな灌木(かんぼく)も、みんなきれいに樹皮をはがれて裸になって、小枝のもぎ取られた跡は房楊枝(ふさようじ)のように、またささらのようにそそけ立っていた。
 それがまた、半ば泥に埋もれて、脱(のが)れ出ようともがいているようなのや、お互いにからみ合い、もつれ合って、最期の苦悶(くもん)の姿をそのままにとどめているようなのもある。
 また、かろうじて橋杭にしがみついて、濁流に押し流されまいと戦っているようなのもある。
 上流の谿谷(けいこく)の山崩れのために、生きながら埋められたおびただしい樹木が、豪雨のために洗い流され、押し流されて、ここまで来るうちに、とうとうこんな骸骨(がいこつ)のようなものになってしまったのであろう。
 被服廠(ひふくしょう)の惨状を見ることを免れた私は、思わぬ所でこの恐ろしい「死骸の磧(かわら)」を見なければならなかったのである。(大正十二年十二月、渋柿)[#改ページ]

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 ある日。
 汽車のいちばん最後の客車に乗って、後端の戸口から線路を見渡した時に、夕日がちょうど線路の末のほうに沈んでしまって、わずかな雲に夕映えが残っていたので、鉄軌(レール)がそれに映じて金色の蛇のように輝き、もう暗くなりかけた地面に、くっきり二条の並行線を劃(かく)していた。
 汽車の進むにつれて、おりおり線路のカーヴにかかる。
 カーヴとカーヴとの間はまっすぐな直線である。
 それが、多くは踏切の所から突然曲がり始める。
 ほとんど一様な曲率で曲がって行っては、また突然直線に移る。
 なるほど、こうするのが工事の上からは最も便利であろうと思って見ていた。
 しかし、少なくもその時の私には、この、曲線と直線との継ぎはぎの鉄路が、なんとなく不自然で、ぎごちなく、また不安な感じを与えるのであった。
 そうして、鉄道に沿うた、昔のままの街道の、いかにも自然な、美しく優雅な曲線を、またなつかしいもののように思ってながめるのであった。(大正十三年一月、渋柿)[#改ページ]

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 震災後、久しぶりで銀座を歩いてみた。
 いつのまにかバラックが軒を並べて、歳暮の店飾りをしている。
 東側の人道には、以前のようにいろいろの露店が並び、西側にはやはり、新年用の盆栽を並べた葭簀張(よしずば)りも出ている。
 歩きながら、店々に並べられた商品だけに注目して見ていると、地震前と同じ銀座のような気もする。
 往来の人を見てもそうである。
 してみると、銀座というものの「内容」は、つまりただ商品と往来の人とだけであって、ほかには何もなかったということになる。
 それとも地震前の銀座が、やはり一種のバラック街に過ぎなかったということになるのかもしれない。(大正十三年二月、渋柿)[#改ページ]

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 ルノアルの絵の好きな男がいた。
 その男がある女に恋をした。
 その女は、他人の眼からは、どうにも美人とは思われないような女であったが、どこかしら、ルノアルの描くあるタイプの女に似たところはあったのだそうである。
 俳句をやらない人には、到底解することのできない自然界や人間界の美しさがあるであろうと思うが、このことと、このルノアルの女の話とは少し関係があるように思われる。(大正十三年三月、渋柿)

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 夢の世界の可能性は、現実の世界の可能性の延長である。
 どれほどに有りうべからざる事と思われるような夢中の事象でも、よくよく考えてみると、それはただ至極(しごく)平凡な可能性をほんの少しばかり変形しただけのものである。
 してみると、事によると、夢の中で可能なあらゆる事が、人間百万年の未来には、みんな現実の可能性の中にはいって来るかもしれない。
 もしそうだとすると、その百万年後の人たちの見る夢はどんなものであるか。
 それは現在のわれわれの想像を超越したものであるに相違ない。(大正十三年四月、渋柿)[#改ページ]

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 日本は地震国だと言って悲観する人もある。
 しかし、いわゆる地震国でない国にも、まれにはなかなかの大地震の起こることはある。
 そうして、日本ではとても見られないような大仕掛けの大地震が起こることもある。
 一九〇六年のサンフランシスコ地震の時に生じた断層線の長さは四百五十キロメートルに達した。
 一九二〇年のシナ甘粛省(かんしゅくしょう)の地震には十万人の死者を生じた。
 考えてみると、日本のような国では、少しずつ、なしくずしに小仕掛けの地震を連発しているが、現在までのところで安全のように思われている他の国では、存外三千年に一度か、五千年に一度か、想像もできないような大地震が一度に襲って来て、一国が全滅するような事が起こりはしないか。
 これを過去の実例に徴するためには、人間の歴史はあまりに短い。
 その三千年目か、五千年目は明日(あす)にも来るかもしれない。
 その時には、その国の人々は、地震国日本をうらやむかもしれない。(大正十三年五月、渋柿)[#改ページ]

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 晩春の曇り日に、永代橋(えいたいばし)を東へ渡った。
 橋のたもとに、電車の監督と思われる服装の、四十恰好の男が立っていた。
 右の手には、そこらから拾って来たらしい細長い板片(いたぎれ)を持って、それを左右に打ちふりながら、橋のほうから来る電車に合図のような事をしていた。
 左の手を見ると、一疋の生きた蟹(かに)の甲らの両脇を指先でつまんでいる。
 その手の先を一尺ほどもからだから離して、さもだいじそうにつまんでいる。
 そうして、なんとなくにこやかにうれしそうな顔をしているのであった。
 この男の家には、六つか七つぐらいの男の子がいそうな気がした。
 その家はここからそんなに遠くない所にありそうな気がした。(大正十三年六月、渋柿)

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 三、四年前に、近所の花屋で、小さな鉄線かずらを買って来て、隣家との境の石垣の根に植えておいた。
 そのまわりに年々生い茂る款冬(かんとう)などに負かされるのか、いっこうに大きくもならず、一度も花をつけたことは無かった。
 去年の秋の大地震に石垣が崩れ落ちて、そのあたりの草木は無残におしつぶされた。
 しかし、不思議につぶされないで助かった鉄線かずらに今度初めて花が咲いた。
 それもたった二輪だけ、款冬の葉陰に隠れて咲いているのを見つけた。
 地べたにはっているつるを起こして、篠竹(しのだけ)を三本石垣に立て掛けたのにそれをからませてやったら、それから幾日もたたないうちに、おもしろいように元気よくつるを延ばし始めた。
 少し離れた所に紅うつぎが一本ある。
 去年は目ざましい咲き方をして見せたのに、石垣にたたきつぶされて、やっと命だけは取り止めたが、花はただの一輪も咲かなかった。(大正十三年七月、渋柿)[#改ページ]

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 大道で手品をやっているところを、そのうしろの家の二階から見下ろしていると、あんまり品玉がよく見え過ぎて、ばからしくて見ていられないそうである。
 感心して見物している人たちのほうが不思議に見えるそうである。
 それもそのはずである。
 手品というものが、本来、背後から見下ろす人のためにできた芸当ではないのだから。(大正十三年八月、渋柿)[#改ページ]

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「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする」
と、今年十二になる女の子がいう。
 こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思う。
 しかしまた、こういう種類の子供には、どこか病弱なところがあるのではないかという気がする。(大正十三年八月、渋柿)[#改ページ]

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 白山下(はくさんした)へ来ると、道ばたで馬が倒れていた。
 馬方が、バケツに水をくんで来ては、馬の頭から腹から浴びせかけていた。
 頸(くび)のまわりには大きな氷塊が二つ三つころがっていた。
 毎年盛夏のころにはしばしば出くわす光景である。
 こうまでならないうちに、こうなってからの手当の十分の一でもしてやればよいのにと思うことである。
 曙町(あけぼのちょう)の、とある横町をはいると、やはり道ばたに荷馬車が一台とまっていた。
 大きな葉桜の枝が道路の片側いっぱいに影を拡げている下に、馬は涼しそうに休息していた。
 馬にでも地獄と極楽はあるのである。(大正十三年九月、渋柿)[#改ページ]

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 向日葵(ひまわり)の苗を、試みにいろんな所に植えてみた。日当たりのいい塵塚(ちりづか)のそばに植えたのは、六尺以上に伸びて、みごとな盆大の花をたくさんに着けた。
 しかし、やせ地に植えて、水もやらずに打ち捨てておいたのは、丈(たけ)が一尺にも届かず、枝が一本も出なかった。
 それでも、申し訳のように、茎の頂上に、一銭銅貨大の花をただ一輪だけ咲かせた。
 この両方の花を比較してみても、到底同種類の植物の花とは思われないのである。
 植物にでも運不運はある。
 それにしても、人間には、はたしてこれほどまでにひどくちがった環境に、それぞれ適応して生存を保ちうる能力があるかどうか疑わしい。(大正十三年十月、渋柿)[#改ページ]

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 雑草をむしりながら、よくよく見ていると、稲に似たのや、麦に似たのや、また粟(あわ)に似たのや、いろいろの穀物に似たのがいくつも見つかる。
 おそらくそれらの五穀と同じ先祖から出た同族であろうと想像される。
 それが、自然の環境の影響や、偶然の変移や、その後の培養の結果で、現在のような分化を来たしたものであろう。
 これらの雑草に、十分の肥料を与えて、だんだんに培養して行ったら、永い年月の間には、それらの子孫の内から、あるいは現在の五穀にまさる良いものが生まれるという可能性がありはしないか。
 人間の種族についてもあるいは同じことが言われはしないか。(大正十三年十一月、渋柿)[#改ページ]

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 第一流の新聞あるいは雑誌に連載されていた続きものが、いつのまにか出なくなる。
 完結したのだか、しなかったのだか、はっきりした記憶もなしに忘れてしまう。
 しばらく経てから、偶然の機会に、それの続きが、第二流か三流の新聞雑誌に連載されていることを発見する。ちょっと、久しぶりで旧知にめぐり会ったような気がする。
 なつかしくもあれば、またなんとなくさびしくもある。(大正十三年十二月、渋柿)[#改ページ]

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 古典的物理学の自然観はすべての現象を広義における物質とその運動との二つの観念によって表現するものである。
 しかし、物質をはなれて運動はなく、運動を離れて物質は存在しないのである。
 自分の近ごろ学んだ芭蕉(ばしょう)のいわゆる「不易流行」の説には、おのずからこれに相通ずるものがある。(昭和二年五月、渋柿)[#改ページ]

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 俳諧(はいかい)で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。
 数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。
 虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。
 二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
 これは単なる言葉の上のアナロジーではあるが、連句はやはり異なる個性のおのおののXY、すなわちX1Y1X2Y2X3Y3……によって組み立てられた多次元の世界であるとも言われる。
 それは、三次元の世界に住するわれらの思惟(しい)を超越した複雑な世界である。
「独吟」というものの成効(せいこう)し難いゆえんはこれで理解されるように思う。
 また「連句」の妙趣がわれわれの「言葉」で現わされ難いゆえんもここにある。(昭和二年五月、渋柿)[#改ページ]

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 ラジオの放送のおかげで、始めて安来節(やすぎぶし)や八木節(やぎぶし)などというものを聞く機会を得た。
 にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。
 自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯(ひ)を聯想(れんそう)する。
 しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。
 謡(うた)う人の姿を見ないで、拡声器の中から響く声だけを聞く事によって、そういう感じがかえって切実になるようである。
 われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを抛棄(ほうき)して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。(昭和二年七月、渋柿)[#改ページ]

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「聊斎志異(りょうさいしい)」の中には、到るところに狐の化けたと称する女性が現われて来る。しかし、多くの場合に、それはみずから狐であると告白するだけで、ついに狐の姿を現わさずにすむのが多い。
 ただその行為のどこかに超自然的な点があっても、それは智恵のたけた美女に打ち込んでいる愚かな善良な男の目を通して、そう見えたのだ、と解釈してしまえば、おのずから理解される場合がはなはだ多い。
 それにもかかわらず、この書に現われたシナ民族には、立派にいわゆる「狐」なる超自然的なものが存在していて、おそらく今もなお存在しているにちがいない。
 これはある意味でうらやむべき事でなければならない。
 少なくも、そうでなかったとしたら、この書物の中の美しいものは大半消えてしまうのである。(昭和二年九月、渋柿)[#改ページ]

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 糸瓜(へちま)をつくってみた。
 延びる盛りには一日に一尺ぐらいは延びる。
 ひげのようなつるを出してつかまり所を捜している。
 つるが何かに触れるとすぐに曲がり始め、五分とたたないうちに百八十度ぐらい回転する。
 確かに捲きついたと思うと、あとから全体が螺旋形(らせんけい)に縮れて、適当な弾性をもって緊張するのである。
 一本のひげがまた小さな糸瓜の胴中にからみついた。
 大砲の砲身を針金で捲くあの方法の力学を考えながら、どうなるかと思って毎日見ていた。
 いつのまにかつるが負けてはち切れてしまったが、つるのからんだ痕跡だけは、いつまでもちゃんと消えずに残っている。
 棚の上にひっかかって、曲玉(まがたま)のように曲がったのをおろしてぶら下げてやったら、だんだん延びてまっすぐになって来た。
 しかしほかのに比べるとやっぱりいつまでも少し曲がっている。
  ある宵(よい)の即景
名月や糸瓜の腹の片光り(昭和二年十一月、渋柿)

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 子猫がふざけているときに、子供や妻などが、そいつの口さきに指をもって行くと、きっと噛(か)みつく、ひっかく。自分が指を持って行くと舌で嘗(な)め回す。すぐ入れちがいに他の者が指をやると、やはり噛みつく。
 どうも、親しみの深いものには噛みついて、親しみの薄い相手には舐(な)めるだけにしておくらしい。(昭和三年一月、渋柿)[#改ページ]

三毛の墓


三毛(みけ)のお墓に花が散る
こんこんこごめの花が散る
小窓に鳥影小鳥影
「小鳥の夢でも見ているか」

三毛のお墓に雪がふる
こんこん小窓に雪がふる
炬燵蒲団(こたつぶとん)の紅(くれない)も
「三毛がいないでさびしいな」(昭和三年二月、渋柿)

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 S. H. Wainwright という学者が、和歌や俳句の美を紹介した論文の中に引用されている俳句の英訳を、俳句の事を何も知らない日本の英学者のつもりになって、もう一遍日本語にしかもなるべく英語に忠実に飜訳してみると、こんな事になる。
「いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川(もがみがわ)に」
「大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島(さどがしま)へ横切って延び拡がる」
 このごろ、よんどころない必要から、リグヴェーダの中の一章句と称するもののドイツ訳を、ちょうどこんな調子で邦語に飜訳しなければならなかった。
 そうして実ははなはだ心もとない思いをしていた。
 今、右の俳句の英訳の再飜訳という一つの「実験」をやった結果を見て、滑稽(こっけい)を感じると同時に、いくらか肩の軽くなるのを覚えた。(昭和三年三月、渋柿)[#改ページ]

   最上川象潟(きさかた)以後


 (はがき)今日(きょう)越後(えちご)の新津(にいつ)を立ち、阿賀野川(あがのがわ)の渓谷を上りて会津(あいづ)を経、猪苗代(いなわしろ)湖畔(こはん)の霜枯れを圧する磐梯山(ばんだいさん)のすさまじき雪の姿を仰ぎつつ郡山(こおりやま)へ。
 それより奥羽線(おううせん)に乗り替え上野に向かう。
 先刻西那須野(にしなすの)を過ぎて昨年の塩原(しおばら)行きを想い出すままにこのはがきをしたため候(そうろう)。
 まことに、旅は大正昭和の今日、汽車自動車の便あればあるままに憂(う)くつらくさびしく、五十一歳の懐子(ふところご)には、まことによい浮世の手習いかと思えばまたおかしくもある。
 さるにても、山川の美しさは、春や秋のは言わばデパートメントの売り出しの陳列棚にもたとえつべく、今や晩冬の雪ようやく解けて、黄紫(おうし)赤褐(せきかつ)にいぶしをかけし天然の肌の美しさは、かえって王宮のゴブランにまさる。
 枯れ芝の中に花さく蕗(ふき)の薹(とう)を見いでて、何となしに物の哀れを感じ侍(はべ)る。
自動車のほこり浴びても蕗の薹(昭和三年四月、渋柿)[#改ページ]

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 公園劇場で「サーカス」という芝居を見た。
 曲馬の小屋の木戸口の光景を見せる場面がある。
 木戸口の横に、電気人形(アウトマーテン)に扮した役者が立っていて、人形の身振りをするのが真に迫るので、観客の喝采(かっさい)を博していた。
 くるりと回れ右をして、シルクハットを脱いで、またかぶって、左を向いて、眼玉を左右に動かしておいて、さて口をぱくぱくと動かし、それからまたくるりと右へ回って同じ挙動を繰り返すのである。
 生きた人間の運動と器械人形の運動との相違を、かなり本質的につかんでいるのは、さすがに役者である。
 たとえば手の運動につれて、帽子がある位置に来て、その重心が支点の直上に来るころ、不安定平衡の位置を通るときに、ぐらぐらと動揺したりする、そういう細かいところの急所をちゃんと心得ている。
 もちろんこの役者は物理学者ではないし、自働人形の器械構造も知らないであろうが、しかし彼の観察の眼は科学者の眼でなければならない。
 人形の運動はすべて分析的である。総合的ではない。
 たいていの人間は一種のアウトマーテンである。
 あらゆる尊敬すべききまじめなひからびた職業者はそうである。
 そうでないものは、英雄と超人と、そうして浮気な道楽者の太平の逸民とである。
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