神経
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著者名:織田作之助 

 そしてこちらから言いだす前に「改造」や「中央公論」の復刊号を出してくれた。
「文春は……?」
「文芸春秋は貰ったからいい」
「あ、そうそう、文春に書いたはりましたな。グラフの小説も読みましたぜ。新何とかいうのに書いたはりましたンは、あ、そうそう、船場の何とかいう題だしたな」
 お内儀さんは小説好きで、昔私の書いたものが雑誌にのると、いつもその話をしたので、ほかの客の手前赤面させられたものだったが、しかし、今そんな以前の癖を見るのもなつかしく、元の「波屋」へ来ているという気持に甘くしびれた。本や雑誌の数も標札屋の軒店の時よりははるかに増えていた。
「波屋」を出て千日前通へ折れて行こうとすると、前から来た男からいきなり腕を掴まれた。みると「花屋」の主人だった。
「花屋」の主人は腕を離すと妙に改まって頭を下げ、
「頑張らせて貰いましたおかげで、到頭元の喫茶をはじめるところまで漕ぎつけましてん。今普請してる最中でっけど、中頃には開店させて貰いま」
 そして、開店の日はぜひ招待したいから、住所を知らせてくれと言うのである。住所を控えると、
「――ぜひ来とくれやっしゃ。あんさんは第一番に来て貰わんことには……」
 雑誌のことには触れなかったが、雑誌で激励された礼をしたいという意味らしかった。
 二つとも私自身想いだすのもいやな文章だったが、ひょんなところで参ちゃんと「花屋」の主人を力づける役目をしたのかと思うと、私も、
「ぜひ伺います」
 と、声が弾んで、やがて「花屋」の主人と別れて一人歩く千日前の通はもう私の古里のようであった。この二人に同時に会えたというのも偶然といえば偶然だが、しかしそれだけに千日前が身近かに寄って来たという感じだった。
 焼けた大阪劇場も内部を修理して、もう元通りの映画とレヴュが掛っていた。常盤座ももう焼けた小屋とは見えず、元の姿にかえって吉本の興行が掛っていた。
 その常盤座の前まで、正月の千日前らしい雑閙に押されて来ると、またもや呼び停められた。
 見れば、常盤座の向いのバラックから「千日堂」のお内儀さんがゲラゲラ笑いながら私を招いているのだった。
「やア、あんたとこも……」
 帰って来たのかとはいって行くと、
「素通りする人がおますかいな。あんたはノッポやさかい、すぐ見つかる」
 首だけ人ごみの中から飛び出ているからと、「千日堂」のお内儀さんは昔から笑い上戸だった。
「あはは……。ぜんざい屋になったね」
「一杯五円、甘おまっせ。食べて行っとくれやす」
「よっしゃ」
「どないだ、おいしおますか。よそと較べてどないだ? 一杯五円で値打おますか」
「ある。甘いよ」
 しかし砂糖の味ではなかった。そのことをいうと、
「ズルチンつこてまんねン。五円で砂糖つこたら引き合えまへん。こんなちっちゃな餅でも一個八十銭つきまっさかいな。小豆も百二十円になりました」
 京都の闇市場では一杯十円であった。
「あんたとこは昔から五割安だからね」
 というと、お内儀さんはうれしそうに、
「千日堂の信用もおますさかいな、けったいなことも出来しめへん。――まアこの建物見とくなはれ。千日前で屋根瓦のあるバラックはうちだけだっせ。去年の八月から掛って、やっと暮の三十一日に出来ましてん。元日から店びらきしょ思て、そら天手古舞しましたぜ」
 場所がいいのか、老舗であるのか、安いのか、繁昌していた。
「珈琲も出したらどうだね。ケーキつき五円。――入口の暖簾は変えたらどうだ、ありゃまるでオムツみたいだからね」
 私は出資者のような口を利いて「千日堂」を出た。
「チョイチョイ来とくなはれ」
「うん。来るよ」
 千日前へ来るのがたのしみになったよと、昔馴染に会うたうれしさに足も軽く私は帰った。
 ところが、四五日たったある朝の新聞を見ると、ズルチンや紫蘇糖は劇薬がはいっているので、赤血球を破壊し、脳に悪影響がある、闇市場で売っている甘い物には注意せよという大阪府の衛生課の談話がのっていた。
 私は「千日堂」はどうするだろうか、砂糖を使うだろうか、砂糖を使って引き合うだろうか、第一そんなに沢山砂糖が入手できるだろうかと心配した。「花屋」も元の喫茶店をやるそうだが、やはり、ズルチンを使うのだろうかと、ついでに「花屋」のことも気になった。
 しかし翌日、再び千日前へ行くと、人々はそんな新聞の記事なぞ無視して、甘いものにむらがっていた。「千日堂」のぜんざいも食べてみると後口は前と同じだった。しかし人々は平気で食べている。私はズルチンの危険を惧れる気持は殆んどなかった。
 私たちはもうズルチンぐらい惧れないような神経になっていたのか。ズルチンが怖いような神経ではもう生きて行けない世の中になっているのか。
 千日前へ行くたびに一度あの娘の地蔵へ詣ってやろうと思いながら、いつもうっかりと忘れてしまうのだった。




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