郷愁
著者名:織田作之助
どうしても会わねばならないと思いつめた女の一途さに、情痴のにおいを嗅ぐのは、昨日の感覚であり、今日の世相の前にサジを投げ出してしまった新吉にその感覚がふと甦ったのは当然とはいうものの、しかし女の一途さにかぶさっている世相の暗い影から眼をそむけることはやはり不可能だった。
しかし、世相の暗さを四十時間思い続けて来た新吉にとっては、もう世相にふれることは反吐が出るくらいたまらなかった。新吉はもうその女のことを考えるのはやめて、いつかうとうとと眠っていた。
揺り動かされて、眼がさめると、梅田の終点だった。
原稿を送って再び阪急の構内へ戻って来ると、急に人影はまばらだった。さっきいた夕刊売りももういない。新吉は地下鉄の構内なら夕刊を売っているかも知れないと思い、階段を降りて行った。
阪急百貨店の地下室の入口の前まで降りて行った時、新吉はおやっと眼を瞠った。
一人の浮浪者がごろりと横になっている傍に、五つ六つ位のその浮浪者の子供らしい男の子が、立膝のままちょぼんとうずくまり、きょとんとした眼を瞠いて何を見るともなく上の方を見あげていた。
そのきょとんとした眼は、自分はなぜこんな所で夜を過さねばならないのか、なぜこんなひもじい想いをしなければならないのか、なぜ夜中に眼をさましたのか、なぜこんなに寒いのか、不思議でたまらぬというような眼であった。
父親はグウグウ眠っている。その子供も一緒に眠っていたのであろう。がふと夜中に眼を覚ましてむっくり起き上った。そして、泣きもせず、その不思議でたまらぬというような眼をきょとんと瞠いて、鉛のようにじっとしているのだ。きょとんとした眼で……。
新吉は思わず足を停めて、いつまでもその子供を眺めていた。その子供と同じきょとんとした眼で……。そして、あの女と同じきょとんとした眼で……。
それはもう世相とか、暗いとか、絶望とかいうようなものではなかった。虚脱とか放心とかいうようなものでもなかった。
それは、いつどんな時代にも、どんな世相の時でも、大人にも子供にも男にも女にも、ふと覆いかぶさって来る得体の知れぬ異様な感覚であった。
人間というものが生きている限り、何の理由も原因もなく持たねばならぬ憂愁の感覚ではないだろうか。その子供の坐りかたはもう人間が坐っているとは思えず、一個の鉛が置かれているという感じであったが、しかし新吉はこの子供を見た時ほど人間が坐っているという感じを受けたことはかつて一度もなかった。
再び階段を登って行ったとき、新吉は人間への郷愁にしびれるようになっていた。そして、「世相」などという言葉は、人間が人間を忘れるために作られた便利な言葉に過ぎないと思った。なぜ人間を書こうともせずに、「世相」を書こうとしたのか、新吉ははげしい悔いを感じながら、しかしふと道が開けた明るい想いをゆすぶりながら、やがて帰りの電車に揺られていた。
一時間の後、新吉が清荒神の駅に降り立つと、さっきの女はやはりきょとんとした眼をして、化石したように動かずさっきと同じ場所に坐っていた。
ページジャンプ青空文庫の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶし青空文庫
Size:16 KB
担当:undef