土曜夫人
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著者名:織田作之助 

 警官が要領を得ずに引きあげて行くと、やがてラストのグッドナイトの曲が聴えて来た。
 京吉は陽子を事務所の隅へ連れて行った。
「おれとうとう泊る所がなくなったよ。今夜泊めてくれよ」
「だめよ。あんた今夜茉莉に借り切られてるんでしょう。お通夜してあげなくちゃ……。お通夜すれば、茉莉のアパートに泊れるわよ」
「それもそうだな。じゃ、そうしよう。その代り、こんどの土曜日泊めてくれるだろう。ねえ、おれ泊る所がねえんだよ。ねえ」
 子供が駄々をこねているようだった。陽子は微笑しながら、あいまいにうなずいた。
「お通夜、おれ一人じゃ心細いや。陽子もお通夜に行くんだろう……?」
「ええ。でも、あたし、ちょっと遅れるかも知れなくってよ」
「どっかへ行くのかい」
「田村」
「田村……? まさか木屋町の田村では……」
「木屋町よ」
「行っちゃいけない、田村はよせ。行くな!」
 京吉はいきなり叫んだ。

      十一

 行くなと言われると、陽子はもう天邪鬼な女だった。理由はきかず、命令的な京吉の調子だけが、ぐっと自尊心に来て、
「あんた、あたしに命令する権利、耳かきですくう程もないわよ」
 迷っていたのが、この一言できまってしまい、声も言葉づかいも、もうダンサーではなかった。
「じゃ勝手にしろ!」
 と、京吉も唇を噛んだが、わざとひとり言めいて、
「――しかし、陽子も田村へ出入りするようになったのか」
「お料理屋へ行くのがいけないの……?」
 校長が女教員を説教するような口きかないでよ……と、皮肉ると、京吉も口は達者で、
「うぶな女教員は、田村をただの料理屋と思ってるから可愛いいよ。――もっとも料理は出るがね。何でも出る。ボラれて足も出る。枕も二つ出る。寝巻も二つ出る。出るに出られん籠の鳥さ。ただの待合とは違うんだ」
「へえん……? よく知ってるわね」
 はっとする所を、わざと露悪的に言った。
「そりゃ、知ってるさ。だって、おれ……」
 田村で寝起きしているのだ。田村のママの居候だからね――と言おうとしたが、さすがにそれは言いだしかねて、
「――それより、田村の帰り、お通夜には来ない方がいいぜ。仏がよごれるからな」
「それ、どういう……?」
 意味かも考えても、すぐにはぴったり来ないほど、陽子は何も知らぬ娘だったが、
「――あ、あんた、あたしが誘惑されると思ってるのね。失礼だわ。まさか……」
 と、これは半分自分に言いきかせて、二階の脱衣室へ上って行った。そして、イヴニングを腰まで落して、素早くシュミーズに手を通していると、ラストの曲も終ったのか、ガヤガヤとダンサーがよって来た。
 土曜日は、ダンサーの足も火のようにほてる。それほど疲れるのだが、しかし、大声で話ができるのはこの部屋だけだ。ことに今夜は茉莉の事件もある。シュミーズを頭にかぶったまま、喋っているダンサーもいた。
 しかし、陽子はいつものように黙っていた。澄ましてるよと、言われてから、一層仲間入りをしなくなっていた。
 黙々とコバルト色の無地のワンピースを着て、衿のボタン代りに丸紐をボウ(蝶結び)に結んでいると、上海帰りのルミが、
「殺生やわ、ほんまに……」と、遅れて上って来て、ペラペラひとり喋った。
「――今夜はパトロン、あしたは二時まで寝たる積りやのに、マネージャーの使いか。茉莉が倒れたとこ写した男いたんやテなア。朝のうちにその写真貰って来い、発表されたら困る、ルミの心臓で行って来てくれ。ダンサーを使うのん屁とも思てへん。マネージャーの方がよっぽど心臓や」
 陽子は何思ったのか、ルミの傍へ寄って行って、
「あたし、代りにあした行ってあげてもいいわよ」
 と、ルミがマネージャーの机から貰って来た木崎の名刺を、覗きこんだ。


    夜光時計

      一

 三条河原町の元京宝劇場は、占領軍専用の映画が掛り土曜日の夜はジープとトラックが並んだ。
 木崎が十番館を出て河原町通りまで来た時は、丁度その劇場のハネで、夜空に点滅する――
「KYOTO THEATRE」
 のピンクの電飾文字のまわりを囲って、ぐるぐる廻る橙色の点滅燈のテンポが、にわかにいきいきとして、劇場から溢れでる米兵の足も速かったが、木崎の足はソワソワと速かった。
 昂奮していたのだ。なぜだろう……。
 レンズが肉体に化した木崎の写真は、印画紙からニヒリズムの体臭が漂うくらい、個性が強く、彼のねらう構図にはつねに夜が感じられて、ふとデカダンめいたが、今夜の陽子と茉莉の写真も「夜のポーズ」という彼の好みのテエマにふさわしかった。
 しかし、美しい陽子をわざと最も醜いポーズで撮り、茉莉の倒れた姿に醜悪なポーズを見出したのは、単なる好みだけだろうか。ほかの場所では、それほどまでにしなかった筈だ。
 つまりは、彼のホールぎらいのせいだ。それというのも、亡妻がダンサーだったからである。
 亡妻の名は八重子といった。
 学生の頃の木崎が八重子と知り合った時は、しかし八重子はもうダンサーではなく、阪神間のあるホテルの受付で働いていた。
 四年の長い恋愛ののち結婚した木崎はダンスは出来ず、彼女もダンスレコードは集めたが、踊りたがらなかった。二年たって、八重子は軽い肺炎に罹り、南紀の白浜温泉に出養生した。ある日、彼が見舞いに行くと、八重子は旅館のホールで見知らぬ男と踊っていた。クンパルシータだった。咳をしながら、しかしうっとりと踊っていた。
 はじめて妻のダンスを、しかも、自分以外の男に抱かれて踊っている姿を見た途端、木崎はダンサー時代の妻が、毎夜抱かれて踊った男の数を考えて茫然とした。結婚前に既にホールの客と二三の関係があった、という打ち明け話も、にわかに思い出されて、なまなましい嫉妬が、今更のように感覚的に甦った。
 木崎はもはや、妻の過去に寛大な夫ではなくなり、嫉妬に背を焼かれてデカダンスに陥った。
 そして、この嫉妬の火は、一昨年八重子が死んでしまっても、消えてしまわず、十番館へ来てはじめて陽子を見た途端、再び燃え上った。
 陽子は、死んだ八重子に似ていたのだ。だから、陽子を撮ろうときめて、陽子の美しさを追うたのだが、旅館のホールで八重子の姿態を醜いとしか見られなかった木崎の、嫉妬の眼は、陽子の美しさに反撥して、どんなポーズも男にひきずられる女の本能の、あわれな醜さに見え、空しく三日通ったあげく、
「よしッ! こうなったら、もうあの女の一番いやらしいポーズを、撮ってやれ!」
 そんな自虐の快感に燃えて、シャッターを切った途端、茉莉が……。
 倒れたその姿に投げたのは、ホールへの諷刺だ。歪んだ昂奮に青ざめて、やがて木崎は四条通りを円山公園の方へ、歩いて行った。
 そして、祇園の石段を登って行くと、暗闇の中から、いきなり若い娘が飛び出して来た。

      二

「おっちゃん、煙草の火貸してんか」
 ドスンドスンと歩いていた木崎の前に、娘はバスガールのように足をひらいて、傲然と立ちはだかった。
 声も若かったが、木崎がライターの火をつけると、まだ大人になり切らない娘の顔が、ぱっと白く浮び上り、十七か八であろう。
 しかし、娘は三十芸者のように、器用に火をつけて、
「おっちゃん、どこまで行きはるのン……?」
 と、きいて、アパートへ帰るんだ――という返辞もまたず、煙をふきだしながら、ついて来た。
「まだ、何か用か……?」
「夜道は物騒やさかい、そこまで送って行ってくれたかテ、かめへんやろ」
「そこまでって、どこまでだ……?」
「おっちゃんは……?」
「清閑寺の方だ」
「うちもその辺や」
「嘘をつけ!」
 と言おうとしたが、木崎はだまって娘と肩を並べて円山公園を抜けると、高台寺の方へ折れて行った。
 三条大橋、四条大橋、円山公園に佇む女は殆んどいかがわしい女ばかりだ――と、噂にもきき、目撃もして来たから、すぐにそれと直感したが、しかし、ふと、そうとも決め切ってしまえない感じが、その娘のどこかにあったせいだろうか。
 若すぎるから……ではなかった。十七や八はざらだった。そして、そんな年頃の、いかがわしい女は、若さの持ついやらしさがベタベタとぬった白粉や口紅を、不潔に見せていたが、この娘の白粉気のない清潔な皮膚には、遠いノスタルジアがあった。
 紫の御所車のはいった白地の浴衣に、紫の兵児帯――不良少女じみて煙草を吸っていても、何か中学時代のハーモニカの音を想わせた。
 ――といって、興味は感じなかった。ただ、帰れといわぬだけ、――いや、何一つ口を利かずに、ついて来るのに任せて、やがて、高台寺の道を清水の参詣道へ折れ、くねくねと曲って登って行くと、音羽山が真近に迫り、清閑荘というアパートが、森の中にぽつりと建っていた。
 門燈の鈍い灯りのまわりに、しんとした寂けさが暈のように渦を巻いていて、にわかに夜の更けた感じだ。
 木崎は遠くから指して、
「あそこだ、おれのアパートは……」
 と、はじめて口を利いた。
「――君の家はどこだ。まさか、あの山の中でもないだろう。帰れ!」
「そんなン殺生や。こんなとこから……」
「怖くて帰れんのか。ついて来るのがわるいんだ。幽霊は出んから、走って帰れ!」
「おっちゃん、アパートでひとり……?」
 うんと、不興気にうなずくと、娘はいきなり、
「ほな、うちも泊めて。――いや……?」
 と、木崎の顔を覗き込んだ。汗くさい髪の毛がにおいと一緒に、木崎の鼻にふれた。

      三

「いやだ!」
「そんなこと言わんと、泊めて!」
「…………」
「うち、帰るとこあれへんねン」
「どうしてだ……?」
「うち、家出してん」
「ふーん、なぜそんな莫迦なことをしたんだ」
「…………」
「帰るところはなくっても、泊るところはあるだろう。宿屋で泊ればいい」
「うち、泊るお金あれへん」
 そこは藪の中で、蚊が多く、立ち話しているうちに、木崎は神経がいらいらして来たので、いきなり十円札を三枚つかみ出すと、
「じゃ、これをやるから宿屋で泊れ!」
 娘の手に渡して、やっぱりただの夜の花だったのか――と、且つはがっかりし、且つはサバサバして、あとも見ずに清閑荘の玄関へはいって行った。
 二階の階段を上って掛りの六畳が、木崎の部屋だった。六畳の中二畳ばかり、黒いカーテンで仕切ってこしらえた現像用の暗室へ、カメラを置いて、蚊やり線香に火をつけていると、ドアを敲く音がした。あけると、さっきの娘がしょんぼりと、しかし顔だけはニイッと笑って、立っていた。
「帰らんのか」
「うん」
 ペロリと舌を出した――のを見ると、木崎は思わず噴き出しそうになって、もう追いかえせなかった。娘はいそいそとはいると、
「木崎さん、ええ写真機持ったはンねンなア」
 部屋の外に掛った木崎の名札をもう見ていたらしい。それには答えず、
「君は大阪だろう」
 木崎も大阪人だけに、娘の言葉のなまりがなつかしかった。
「うん。焼けてん」
 娘は暗室のカーテンへ素早い視線を送っていた。
「お父さんは……?」
「監獄……。未決に……」
 はいっているのだと、ケロリとした顔で言ったが、ふと声を弾ませると、
「――未決にはいっていると、金が要るねン。差入れせんならんし、看守にもつかまさんならンし、……それに、弁護士は金持って行かなんだら、もの言うてくれへん」
 そんな心配を、この娘がしているのかと、驚いて、母親はあるのかときくと、いきなり、
「お母ちゃん、きらいや」
 と、その言葉のはげしさはなお意外で、ピリピリと動く痩せた眉のあたりを見ていると、
「――あんな妾根性の女きらいや。男ばっかし……」
 こしらえているようだった。が、木崎はそれ以上きく興味もなく、
「もう寝ろ!」
 と、押入れから蒲団を引き出した。
 娘は急に固い表情になって、木崎の動作を見つめていた。

      四

 その固い表情に、木崎はふと女を感じながら、夜具を敷こうとすると、娘ははっとしたように飛び上って、部屋の隅へ後ろ向きに立った。
 六畳のうち、二畳は暗室に使っているので、狭い。だから、夜具を敷く邪魔にならぬように起ち上って隅の方へ寄った――という風に考える方が自然だろうが、やはり飛び上ったと感じたのは、木崎の思いすごしだろうか。
「家出してから、どのくらいになるんだ」
 木崎はふときいてみた。
「十日!」
 背中で答えた娘の、腰のふくらみへ、木崎はふと眼をやって、あわてて外らした。
 浴衣に兵児帯という姿に、淡いノスタルジアを抱いたとはいうものの、胴をきゅっと細く緊めているせいか、一層まるみを帯びて見えた娘の腰に、木崎はその娘の十日間のくらしを想った。暗がりで借りる煙草の火。しかし、それは木崎の好色の眼ではなかった。むしろ、痛々しさと反撥を感じていたのだ。
 外科手術台の女の姿態を連想したのだ。寝床、外科手術、若い女の裸身。痛々しさの感覚!
 好んで外科手術を受ける女はなかろう。が、それを受けるのが病人の、いや女の悲しい運命だ。手術台に横たわった女のあきらめ! 強いられた自己放棄! 失神状態! 手術者へすがりつく本能、不安! そして、憎悪と恨み……。自虐の快感!
 目出たいと騒ぐ初夜の儀式は、メスの祭典だ。唯の祭典ではない。手術のメス! 女の生理の宿命的な哀れさは、木崎にはつねに痛々しかった。それというのも、亡妻の八重子への嫉妬が、女の生理に対する木崎の考え方を変えてしまったからではなかろうか。
 八重子は木崎と結婚する前に、二三の男と関係があった。が、それは八重子が進んで求めたのだとは考えられず、ダンサーという職業の周囲に張りめぐらされたワナに、弱気な八重子がひっ掛って、のっぴきならなくなったのだ――という風に木崎は思いたかったのだ。
 八重子はその頃十八か九だったという。相手の男は市井無頼の不良の徒であった。十八か九の何も知らぬ小娘と不良少年、何という残酷さだ!
 木崎が外科手術を連想したのも、一つにはその男たちへの得体の知れぬ憎悪からであったろう。しかも、八重子が逃れようと思いながら、いつかその男たちの体の魅力にひきずられて行ったと考えると、女の生理の脆さに対する木崎のあわれみは、殆んどいきどおりに近いまでに高まったのだ。
 あわれみと反撥――その振幅の間には中間はなかった。いわば木崎は誇張的にしか女の肉体が考えられなかったのだ。しかし、嫉妬とはつねに誇張に歪んだ情熱だ。
 木崎がその小娘に感じたもの、やはりそれだった。ここに女の肉体がある! 木崎はいじらしいばかりに痩せた娘の肩と、ふっくりした腰を交互に見ているうちに、いらいらして来て、いきなり声を掛けた。
「おい!」

      五

「何……?」
 と、振り向いたが、木崎はとっさに言葉が出なかった。
 何のために声をかけたのか、まるで自分にも判らず、やっと、
「君は何という名だ……?」
 と、きいた木崎の声はなぜか乾いていた。
「うち、チマ子や。うふふ……。けったいな名やろ……?」
 クスクスと無邪気に笑っていたが、ふと敷かれた夜具を見ると、
「――お蒲団一つしかないの……?」
「枕も一つだ。大阪で罹災したから、これだけだ」
「うち、眠とうなった。ここへ横になったかテかめへん……?」
 兵児帯のまま腹ばいになって、夜具の裾の方に投げ出してあったハンドバッグを、素足の先につまんで、ひょいと肩越しに枕元へほうり上げ、その中から煙草を取り出すと、
「火貸してちょう……。あ、これで点けるわ」
 蚊やり線香の火で、はすっぱに吸いはじめたが、いきなり仰のけになると、じっと天井を見つめていた。
 眼がピカピカ光っていた。そして、暫く化石したように動かなかった。が、全身で木崎を意識しているようだった。眼かくしをされ、麻酔薬をかがされても、メス皿にカチリと触れる音はかすかに聴いている患者のように。
「何を考えてるんだ。――灰が……」
 落ちるよと、木崎はつとにじり寄りながら、自分の血管の中で凶暴な男の血が脈を打っていることを、はじめて意識した。
 あわれんでいるものを、逆に残酷に苛めたいという得体の知れぬ衝動だろうか、それとも、反撥し、嫌悪しているものに逆に惹かれるという自虐作用であろうか。
 人は崇高な気持で愛しているものにも、ふと昆虫のような本能で挑むことがある。まして、チマ子はきのうきょう巷の夜にうごめいているいかがわしい女の、あわれさと醜さを見せているのだ。
 あわれさとは手術台に横たわる宿命的な受動性!
 醜さとは、醜さを意識しない官能の脆さ、好奇心!
 しかし、このあわれさと醜さが、木崎の描く夜のポーズの主題だ。そして、そんなデカダンスの底に、亡妻への嫉妬がうずいているのだ。好色ではなかった。
 だから、何を考えてるのかときかれて、チマ子が、
「……監獄にいたはるお父さんのこと……」
 と、ぽつりと言って、ふっと深く吸い込んだ煙を輪にして吐き出しながら、その消えて行く方に放心したような視線を向けているのを見ると、木崎ははっと手をひっこめて、もうチマ子が抱けなかった。
 その時、廊下に足音がして、
「木崎さん、只今ア!」
 と、声が来た。

      六

 声ですぐ、隣の部屋の坂野という楽師だと判った。
 ホールがひけて帰って来たのであろう。いつもより不健康に濁った声が、夜更けの時間と、肩に掛けたアコーディオンの重さをガラガラと無気力に響かせていた。
「あ、お帰り……」
 と、木崎は頓狂な声を出したが、その声も何か浅ましくふるえて、不健康であった。
 醜く昂奮していたのが判り、情なくなっていると、やがて、
「木崎さん、木崎さん!」
 ちょっと来て下さいと、再び坂野の声がして、その頓狂な声も浅ましくふるえていた。マージャンに誘う声にしては、何かあわただしく取り乱している。
 木崎はチマ子の枕元から起ち上って、キラッと光る素早い視線を背中に感じながら、
「どうかしたんですか」
 と、坂野の部屋へはいって行った。
「女房が逃げました」
 わりに上手な、しかし右肩下りの字で、置手紙があった。
「……ヒロポン中毒とは一しょに暮していけません……」云々。
 ヒロポンは鎮静催眠剤とは反対に、中枢神経を一時的に刺戟して、覚醒、昂奮させる注射薬だが、坂野はもと「漫談とアコーディオン」を売物に舞台に出ていた頃から、この味をおぼえたらしく、煙草を吸うように、ひんぱんにこの劇薬を注射していて、その量と回数は、さすがの木崎もあきれていた。木崎があきれるくらいだから、坂野の細君は、
「十本入り二十三円でしょう。それを二箱も打つ日があるんですから、たまりませんわ。ヒロポン代だけでサラリーが……」
 飛んじゃいますわと、こぼしていたが、到頭逃げてしまったらしい。――米よりもまず注射薬を買い、米は買えなかったのだ。
「畜生! ひでえアマだ。(あなたは坂野医院の看板を出して、毎日注射して幸福にくらして下さい)か。ばかにしてやがる。いや、手紙よりも、木崎さん、一寸これ見て下さい」
 細君が出しなにたたき割って行った買いだめの注射薬のアンプルのかけらを、坂野は見せ、土色の顔を一層土色にして、ふぬけていたが、やがてエヘッと笑うと、
「印籠みたいなもンでさあ」
 と、ポケットからヒロポンの箱を出して来た。
「――これだけは肌身はなさず。エヘッ……。これがないと、アコーディオンも弾けませんや。何はともあれ……」
 まず一本……と、二CC、針のあとだらけの腕に打って、ペタペタたたいた。
「僕にも打って下さい」
 坂野を慰める最上の方法はこれだと、木崎は腕を出したが、一つにはヒロポンを打って、徹夜で陽子と茉莉の写真を現像しようと思ったのだ。
「チマ子に触れないためにも……」
 現像をすることだ――と、つぶやいて、やがて木崎は部屋へ戻ってみると、チマ子はいつの間にかいなくなっていた。
 そして、暗室へはいると、そこへ置いた筈のライカが見当らず、暗がりの中でただ夜光時計の青い針が十一時二十分をひっそりと指していた。


    貴族

      一

「十一時二十分ですわ。もう……」
 時間をきかれて、貴子はむっちりと贅肉のついた白い腕を、わざと春隆の前へ差し出した。――田村の二階の一室である。
 貴子は一日に五度衣裳をかえたが、土曜日の夜は、白いショートパンツに白いワイシャツという無造作な服装になることが多かった。男の子のように色気のない服装だが、それがかえって四十女の色気になっていると、この田村の女将は計算していた。
 長襦袢の緋の色で稼げる色気の限界なぞたかが知れている――というのが、十五年前銀座の某サロンのナンバーワンだった頃から今日まで、永年男相手の水商売でもまれて来たこの女の、持論であった。
「エロチシズムよりもエキゾチシズムだわよ」
 大阪でバーを経営していた頃、貴子が女給たちに与えた訓戒である。が、女給たちはその意味が判らなかった。銀座式のハイカラさが大阪では受けるのだと思ったのは、まだいい方で、たいていは外国映画のメーキャップを模倣し、エキゾチシズムとはアイシャドウを濃くして、つけ睫毛を太くすることだと考えたので、グロテスクな効果だけ残って、失敗した。
 貴子が言ったのは、白いショートパンツに白いワイシャツの魅力であった。が、このような服装が成功するには、美貌を前提としている。幸い貴子は美貌であった。しかし、美貌だけが成功するのではない。美貌が成功するには、彼女のいわゆるエキゾチシズムが必要なのだ。男は色気たっぷりの芸者をある程度の金で縛りつけることが出来るのだ。それを自分の方に惹きつけて無制限に金をひき出させるには、もうエキゾチシズムよりないと、貴子は水商売の女の考える限界の中では、まずギリギリの知慧を働かせていた。
 そして、彼女は成功して来た。もっとも、彼女のいう成功とは、二号として、即ち日かげ者としての成功であることは、いうまでもない。
 しかし、彼女はその服装では、一つだけ失敗していた。彼女の服装が時に滑稽に見えるということに、気がつかなかったのだ。これは重大な手落ちだ。すくなくとも、春隆はそんな貴子の恰好を見て、噴き出したくなっていた。
 しかし、春隆という男に、もし取得というものがあれば、いんぎんなエティケットがわずかにそれであろう。
 春隆は噴き出す代りに、彼女の時計をほめてやることにした。ダイヤの指輪をほめるには、春隆は余りに侯爵だったし、だいいち、せっかくのショートパンツとワイシャツにダイヤはぶちこわしで、ふとパトロンのある女の虚栄のあわれさであった。――時計は型が風変りだったのだ。
「拝見!」
 時間や分秒のほかに、日付や七曜が出て来るその時計を、覗こうとすると、
「見にくいでしょう」
 貴子はにじり寄って、ぐっと体を近づけて来た。
「たしかに、見にくいですな」
 相槌を打ちながら、見にくいという言葉に「醜い」の意味を、春隆は含ませていた。

      二

 いきなり貴子から媚態を見せつけられて、さすがに春隆は辟易していた。
 このような場合、でれりとやに下るには、春隆は若すぎた。女にかけては凄い方だったが、四十男のいやらしさも冷酷さも、まだ皮膚にはしみついていず、一応はうぶに見えていたから、なるべく自分でもうぶに見せていた。
 いわば、首ったけ侯爵などと綽名されるような、純情な甘さの中に、女たらしの押しの強さをかくしていたのだ。――大して利口ではなかったが、馬鹿ではなかった証拠である。
 しかし、その純情らしさの外面を、仮面にすぎないと言い切ってしまっては、酷であろう。計算はしていたが、しかし全くの計算ずくめではない。やはり、うぶらしく自然に照れていた。十代のように照れていた。しかし、十代とちがうところは、照れている状態の効果の損得を、損も得も心得ているという二十代の狡さだ。
 そして、春隆はその二十の最後の年齢に達していた。二十九という厄介な歳だ。
 春隆が若すぎたように、貴子は年がいきすぎていた。
 貴子がもっと若ければ、春隆もこれほどまで照れなかっただろう。姥桜という言葉の魅力も、せいぜい三十三までだ。それ以上は姥桜という言葉は、もう二十代の自尊心にかけても、一応生理的にやり切れない。
 春隆は、貴子の歳を、自分では三十二と言っているが、三十五か六だろうと見ていた。ところが、実は貴子は丙午だから、ことし四十一歳である。
 春隆の辟易もむりはなかったわけだが、しかし、すっかり辟易していたといっては、言いすぎだろう。
 辟易したような顔をしながら、春隆は時計を見ている間、じっと貴子のむっちりした腕を握っていることを、さすがに忘れなかったのだ。
 そして、貴子の胸の動悸を冷静に聴いていた――のだから、「見にくい時計ですね」という言葉に「醜い」という意味を含ませたのは、春隆にわずかに残っていた自嘲の精神だろう。
 含ませるといえば、貴子の体を胸にもたせかけるまでにはしなかったが、含みはもたせたわけだ。
 将棋でいえば、王手はせぬが、攻め味は残して置くという手! 王手を掛ける相手はやがて来るだろう。
 陽子だ。
 陽子と貴子の魅力の違いを計りながら、
「いい時計ですね」
 春隆はわざとソワソワしたように、身を引いた。貴子は何の表情もない顔をしていた。燃えるような視線が、急にケロリと冷めていた。
「この女はおれに来ている」
 という春隆のうぬぼれを、ふと錯覚にさせてしまうくらい、冷やかであった。
 いわば双方とも申し分のない態度だった。陽子を待っている春隆にとっても、階下にパトロンが待っている貴子にとっても……。
「では、ごゆっくり……」
 と、やがて貴子は出て行った。が、何思ったか急にまた引き返して来た。

      三

 春隆はちょっとあわてた。
 貴子のショートパンツは、尻の重みに圧されて、皺をくぼませていたので、起ち上った時は腰のまるみが裸の曲線とそっくりに二つに割れて、ふと滑稽な、しかしなまなましい色気が後姿に揺れていた。
 むき出した膝から下も、むっちりと弾んで、若くから体を濡らして男の触感に磨かれて来た女の、アクを洗いとったなめらかな白さに、すくっと伸びていた。
 陽子を待ちわびている春隆には、べつに心をそそるほどの魅力でもなかったが、やはりふとその後姿に眼が注がれて、じっと見送っていたので、いきなり貴子がひきかえして来ると、さすがにあわてたのだ。
 いきなり……だが、しかし、のっそりと貴子ははいって来ると、声もしずかに、
「この次いらっしゃる時は、お一人でいらっして下さいね」
 北海道生れだが、案外訛りのすくない言葉で言って、またしずかに出て行った。
 貴子は、同時に何人もの男をつくるのは平気であったが、その代り、その埋め合せといわんばかしに、男が何人も女をつくるのには平気でおれなかった。何人も女をつくる男は不潔だと思うことが、この何人も男をつくる女の潔癖を辛うじて支えているのだろうか。
 しかし、彼女にとって幸か不幸か、この潔癖を満足させてくれるような男は、ついぞこれまで一人も現れなかった。
 すくなくとも、田村へ来る男は、一人ではめったに来なかった。表向き料理店だが、その実連れ込み専門の貸席旅館だから、女を連れずに来る男もいなかったわけだ。
 貴子は大阪で経営していたバーが焼けてしまうと、一時蘆屋の山手のしもた家で、ひそかに闇料理をしていたのだが、終戦と同時に、焼け残った京都という都会に眼をつけて、木屋町の廃業した料亭のあとを十五万円の安値で買いとった。
 そして、改造費や調度家具類に二百万円を投じて、どの部屋にも鍵つきの別室がついているという構造と、数寄を凝らした装飾、一流料理人を雇った闇料理、朝風呂、夜ぬいだワイシャツは朝までに洗いプレスするというサーヴィスで、田村の看板を出した。
 敗戦後の京都の、いかにも女の都、享楽の町らしい世相を見ぬいたこの敏感な経営法はたちまち狙いが当って、木屋町の貸席や料亭は、すっかりこの大阪の資本に圧されてしまったのを見ると、貴子の水商売への自信は増すばかりで、丙午の運の強さも想い出されたが、しかしバーの時と違って、このような田村へ来る客は、宴会を除いてはみな女づれだ。これはと眼をつけた男が、まれに一人で来たかと思えば、ダンサーを待っている。
 そう思えば、店がはやりながら、やはり寂しく、男は何人もつくり金も出来たが、打ち込んだ恋は結局ただ一度もせずに四十を越してしまった女のあせりを、わざとゆっくりした足取りで押えながら、階段を降り、自分の居間に戻って来ると浴衣がけの男が、寝そべったまま、
「おい、あの子今日はおれへんな。どないしたんや」

      四

 いきなりそう言ったのは、この田村へ女を連れずにやって来るたった一人の男――いいかえれば、貴子が田村の改造費の二百万円を借りた木文字章三だった。
 木文字章三は、姓も変っているが、それ以上に風変りな男であった。彼は年中、
「俺は爪楊枝けずりの職人の息子だ」
 と、昂然と言っていた。
 卑賤に生れたが、それをかくそうとせず、卑屈な態度は少しもなかった。美貌だが、自分から女を口説こうとしなかった。
 彼は北浜の株屋の店員だった頃から、貴子のバーの常連だった。ある時、女給が、
「くにの母さんの病気の見舞いに行くから……」
 と、彼に旅費を無心した。彼は言われた額の二倍くれてやった。
 ところが、その女給は見合いに帰ったのだと判ったが、章三は、
「見舞いと見合いは一字違いやが、考えてみたら、えらい違いや」
 と、笑っていた。そして、その女給が縁談がまとまって、バーへ挨拶に帰って来ると、
「これ葬式の費用や」
 と、結婚の祝をくれてやった。
 しかし、その女給は半年たたぬうちに、夫婦別れして、もとのバーへ戻って来た。そして、章三をパトロンにしようとした。彼は金をやったが、手をつけようとしなかった。女は彼をホテルへ誘った。彼は別に部屋を取った。女はバーのわらい者になった。
 それが彼の三十の年だった。
 それから五年がたち、三十五歳の章三は、終戦直後の北浜に木文字商事会社の事務所を持っていた。株で四五十万円は儲けたのだろうかと、貴子が田村の改造費のことを相談に行くと、ただ一言、
「京都へ行ったら泊めてくれ」
 と、二百万円だしてくれた。
 二号になれという意味だろうと貴子は察してむろんそれは百も承知だという顔をしたが、ところが章三はその後土曜日の夜ごとにやって来ても、口説こうとしない。
 たまりかねて、到頭貴子の方からむりやりこの美貌のパトロンを口説いてしまったが、その時章三は言った。
「おれは爪楊枝けずりの職人の息子や。女には金は出すが、金で口説けへん。女の方から惚れて来よったら口説かれてやる」
 その自尊心の強さに、貴子はむっとしたが、しかしこの三十五歳の青年には、何か頭の上らぬ感じだった。
「何をッ! 爪楊枝けずりの息子が……」
 と、思うが、鋭く迫って来る剃刀の光はヒヤリと冴えすぎていた。仮面のような美しい無表情も気になる。だから、
「あの子、おれへんな。どないしたンや」
 と、いきなり言われると、どきんとして、
「あの子……?」
 京吉のことを勘づかれたのだろうか、土曜日だけは田村へ置かずによそへ泊めているのにと、ひそかに呟いていると、
「うん。チマ子のことや。チマ子は……?」

      五

「チマ子……?」
 わざと問い返して、貴子はワイシャツをぬぎはじめた。
 章三は黙ってうなずいて、ひそめた貴子の眉に、とっさに答えられぬ表情を読み、それから裸になった上半身を見た。ワイシャツの下はシュミーズもなく、むかし子供をうんだことのある乳房が、しかし二十歳の娘のように豊かに弾んで、ふといやらしい。
 うんだのはチマ子。十六年前、貴子が銀座の某サロンで働いていた頃のことだ。その頃貴子は、文士や画家の取巻きが多く、
「明日はスタンダールで来い」
 と、言われると「赤と黒」の二色のイヴニングで現れたり、
「今日は源氏物語よ」
 と、紫の無地の着物で来たりするくらい、文学趣味にかぶれていたが、彼女がパトロンに選んだ姫宮銀造は、大阪の鉄屋でむろん文学などに縁のない男だった。その代り、金があった。貴子は銀造の子をうんだ。チマ子だ。貧しい家に生れて早くから水商売の女になった貴子は、美貌と肉体という女の二つの条件を極度に利用することを、きびしい世相に生きぬいて行く唯一の道だと考えていた。世の封建的な親達が娘の配偶者の条件に、家柄、財産、学歴を考えるのとほとんど同じ自己保存の本能から、貴子は男の条件をパトロンとしての資格で考える女だった。そして男を利用しながら、男を敵と考えて来た。
 だから、チマ子をうんでも、うまされたと考えたのだ。しかし銀造はチマ子を可愛がったから、銀造の本妻が死んだ時、そのあとへはいれたのだが、銀造は既に破産していた。沈没船引揚げ事業につぎ込んで、失敗したのだ。
 貴子に見捨てられた銀造は満州へ走り、その後消息は絶えたので、サバサバしていると、終戦になりひょっくり内地へ引揚げて来た。みるかげもなく痩せ衰えて田村を頼って来た父親を見ると、チマ子は喜ばぬ貴子の分まで喜んで、あいた部屋へ泊めた。が、ある夜銀造は貴子に挑んだ。貴子は冷酷にはねつけて田村を追い出そうとすると、銀造の方から飛び出したが、一月のちには、どんな罪を犯したのか、大阪の南署から検事局の拘置所へ送られていた。チマ子は差し入れに行った。貴子はきびしく叱りつけ、銀造を見る眼は赤の他人以上に冷たく白かった。チマ子は家出した。
 浴衣に兵児帯、着のみ着のままで何一つ持たず飛び出したのである。環境のせいか、不良じみて、放浪性も少しはある娘だったから、貴子は箱入り娘の家出ほど騒がなかったが、しかしひそかに心当りは探してみた。そして空しく十日たっている……。
 と、そんな事情をありていに章三に言ったものかどうか。貴子は素早く浴衣をひっ掛けて、
「チマ子お友達と東京よ。芸術祭とか何とかあるんでしょう。気まぐれな子だから……」
 困っちゃうわと、東京弁で早口に言うと、章三は、
「ふーん。東京ならおれも行けばよかった。――いや、用事はあれへん。ただ、あの子と行くのがたのしいんや。どや、あの子おれにくれんか」

      六

 貴子ははっとした。
「チマ子をくれって、あなたあの子に……」
 惚れてるの――と、あとの方はあわてて冗談にしてしまった。
「阿呆ぬかせ。――しかし、あの子は面白い子や。おれの顔を見ると、いつも白い侮辱したような眼で、にらみつける。おれはああいう眼を見ると、なんぼでも、おれの財産ありったけでも、出して、おれの自由にしたい――いう気になるンや。あはは……」
 章三は三十五歳に似合わぬ豪放な笑いを笑ったが、しかしふと虚ろな響きがあり、おまけに眼だけ笑っていなかった。それが油断のならぬ感じだ。
「金さえ出せば、女はものになると……」
 思ってるのねと、貴子は浴衣の紐を結んだ。
「君のような女がいる限り、男はみなそない思うやろ。君は男と金を同じ秤ではかってる女やさかいな」
「いやにからむのね」
「いや、ほめてるんや。女はみなチャッカリしてるが、しかし君みたいに、徹底したのはおらんな。男に金を出させといて、その男を恨んどるンやさかい、大したもンや」
「女ってそんなものよ。自分の体を自由にする男は、ハズだってどんなに好きなリーベだって、ふっと憎みたくなるものよ」
「つまり、おれなんか憎くて憎くてたまらんのやろ」
「あら。あなたは別よ」
「別って、どない別や」
「カーテン閉めましょうね。秋口だから、川風がひえるわ」
 窓の外は加茂の川原で、その向うに宮川町の青楼の灯がまだ眠っていなかった。
「――このお部屋、宮川町からまる見えね」
 いやねえ――と、わざと若い声を出しながらスタンドの青い灯だけ残して、あかりを消したが、章三はいつになく執拗になおもからんで、
「しかし、憎まれる方がおれはうれしいよ。好かれるためなら、何も二百万円君に貸すもんか。女は佃煮にするくらいいる。東京では紅茶一杯の女もいるということやが、女の地位は上った代りに、相場は下ったもンや。その点、おれに担保、証文、利子、期限なしで二百万円出させた君は大したもンや。しかし、おれが君に金を出したのは、実は君から薄情冷酷という証文を取りたかったからや」
 そして、にやりと冷笑をうかべて貴子を見た。自尊心のかたまりのようなその眼を貴子は全身で受けとめていた。章三はつづけた。
「――君は、男というものは見栄坊だから、虚栄心をつつけば、けちと思われるのがいやさに、しぶしぶ金を出すものと心得ているらしいが、しかしおれはしぶしぶじゃなかった。喜んで出したぜ。君のような女には、そうするのが一番君を……」
 侮辱することになるのだと、言いかけた時、玄関から若い女の声が聴えて来た。
「乗竹さんいらっしゃるでしょうか」
 陽子だった。

      七

 春隆を訪ねて来た陽子の玄関の声をきいた時、章三はなぜかはっとした。
 しかし、なぜはっとしたのか、その理由はあとで判ったが、その時は判らなかった。いや、自分がはっとしたことすら、気づいていたかどうか。
「聴いたような声だな」
 という、しびれるような懐しさも、はっきり意識の上へは浮び上っていなかったようだ。
「乗竹というと、あの乗竹……か」
 侯爵の乗竹とちがうかと、章三はきいた。そうよと、貴子はすかさずいったが、
「侯爵よ。侯爵の若様よ。いやな奴よ」
 と、畳みかける口調がふとぎこちなかった。
「来てるのか」
「いやな奴よ」
「いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ……?」
「へんな女なんか、連れ込んで……。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね」
 自分でもそれと気がつかぬ女の本能から、貴子は章三の手前、春隆をやっつけていたが、しかしまんざら心にもないことをいっているわけでもなかった。嘘の中に軽い嫉妬の実感はあったのだ。もっとも貴子は春隆をそんなに好いているわけでもなかった。真底から男に惚れるには、余りに惚れっぽいのだ。つまり、簡単な浮気の気持――だが、春隆には大した魅力を感じているわけでもなかった。ただ、貴族――それだけかも知れない。貴族も相場は下った。しかし、相場が下ったから、貴子のような女は近づいて行くのだ。パトロンのある女は、こんどは逆に自分より非力の男と浮気したがるものだ。春隆も、貴子の眼にはそれだけ相場が下ったのか、終戦後の輿論だろうが、一つには、げんに金払いがわるい。もっとも、貴子は貴族を軽蔑しているわけではなかった。貴子は自分の名に「貴」の一字があることを、つねにある種の誇りを持って、想い出していたのだ。
 章三は鈍感ではなかったから、貴子が春隆の悪口を余りにいいすぎることに気がついた。貴子という女は、めったに客の悪口をいったことがなかった。自分の店へ来る客はいわゆる上客ばかしだというのが、貴子の自慢で、パトロンの章三にはとくにそれを誇張していたくらいだ。
「なんや、こいつ侯爵に気があるのンか」
 章三は不機嫌な唇を噛んだまま、鉛のように黙ってしまった。
 そして三十分許りたった頃、いきなりバタバタと階段を降りる足音がして、靴を出してくれと、昂奮した女の声が聴えた。
「まア、そないお怒りにならんと、泊っとうきやす」
「履物どこですの……?」
「もう電車おへんえ。泊っとうきやす」
「帰ります。履物出して下さらないの?」
 章三ははっとして廊下へ出て行った。玄関の女は振り向いた。視線が合った。
「あ」
 女はいきなり、はだしのままで、玄関を飛び出して行った。――陽子だった。


    夜の花

      一

 四条通りを横切ると、木屋町の並木は、高瀬川のほとりの柳も舗道のプラタナスも急に茂みが目立った。
 田村の玄関をはだしのまま逃げ出して来た陽子は、三条の方へその舗道を下って行きながら、誰もついて来る気配のなかったのにはほっとしたが、章三を見た驚きは去らなかった。
「あたしはいつもあの男から逃げている!」
 小石があるせいか一層歩きにくいはだしを、情なく意識しながら、陽子はつぶやいた。
 陽子が東京の家を逃げ出して京都へ来ているのも、実は章三という男のせいだったのだ。
 陽子の父の中瀬古鉱三は、毒舌的な演説のうまさと、政治資金の濫費と、押しの強さで政界に乗り出していたが、元来一徹者の自信家で、人を小莫迦にする癖があり、成り上り者の東条英機などを、政界の軽輩扱いにして、鼻であしらい、ことごとに反撥したので、東条軍閥に睨まれて、軽井沢の山荘に蟄居し、まったく政界より没落していた。
 ところが、終戦直前のある日、鉱三崇拝者の山谷某が大阪から山荘を訪れて来て、同行の木文字章三という青年実業家を紹介した。
 陽子が茶を運んで行くと、章三は陽子には眼もくれず、ひとりぺらぺらと喋っていた。
「僕は儲けました。これからも儲けます。最近、ある化学的薬品を使えば、酢、醤油、ソース、いや酒までつくれるという簡単な醸造法の特許権を、安く買い取りました。日本もいよいよポツダム宣言で手を打つらしいでンな。そうなったら、大いに今言いました事業で儲けます。あんさんの時代も日本がポツダム宣言で手をあげたら、やって来ますな。政治資金のことなら、一つ僕に心配させて下さい」
 鉱三はあっけに取られていたが、やがて終戦になり、政界復帰の機が熟したと見ると、大阪へ電報を打った。
 章三は東京の鉱三の寄寓先へ飛んで来て、三百万円の小切手を渡すといきなり言った。
「先生、何か情報ありまへんか。僕のほしいのは早耳と、それから、お嬢さんです」
 いつの間に見染めたのか、陽子を妻にくれという章三の言葉は、鉱三を驚かせたが、しかし、小切手を背景にした章三の精悍な顔と、押しの強さは、鉱三の青年時代を想わせて、満更でもなかった。難になる家柄の点も、民主主義という言葉が、この際便利だった。
 まず妻を説き、それから陽子を説き伏せに掛ったが、陽子もやはり民主主義を言った。そして、親娘は言い争った。
「民主主義のために闘うというパパが、あたしにいやな人と結婚しろとおっしゃるの……?」
 言い過ぎたと思ったが、陽子はもう家を出る肚をきめていた。父ものっぴきならなかったが、陽子ももうせっぱ詰っていた。
 陽子はたれにも頼らず自活して行くむずかしさを思ったが、そのむずかしさが自分の能力を試すスリルだと、ひそかに家を出て京都へ来たのだ……。
 おそくまでともっている紅屋橋のほとりのしるこ屋の提灯ももう灯が消えて、暗かった。
 三条小橋まで来ると、陽子はうしろからいきなり肩を掴まれた。

      二

 陽子はどきんとした。どんな女でも、深夜の暗い道でいきなり肩を掴まれれば、はっとするだろうが、しかし、陽子は肩を掴まれたということよりも、掴んだ男が章三ではないかという予感の方がどきんと来たのだ。章三をそれほど怖れている自分が、不思議なくらいだった。
 田村をはだしで逃げ出したのも、そうだ。春隆の誘惑をのがれるために逃げるのだったら、堂々と靴を出させて、帰った筈だ。それだけの気位の高さは持っていたのだ。ところが、章三を見ると、もう靴どころではなく、はだしという、自尊心から言っても人に見せたくない醜態を演じてしまったとは、何としたことであろう。
 京都へ逃げて来ていることを、一番知られたくない章三に見つかってしまったという狼狽にはちがいなかったが、しかし、それも章三という男だけには、何かかなわないという気持があったからであろう。何かジリジリとした粘り強い迫力に、みこまれているようだった。だから肩を掴んだ背後の男を、章三だと……。しかし、振り向くと、巡査であった。
「何をしてるんだ……?」
「はア……?」
 咄嗟に意味は判らなかった。
「今時分、何をしてるんだと、きいとるんだ」
「歩いているんです」
 むっとして答えると、巡査もむっとして、
「歩いてることは判ってる。寝てるとは言っとらん。何のために歩いとるんだ……?」
「家へ帰るんです」
「家はどこだ……?」
「京都ホテルの裏のアパートです」
 章三に居所を知られたくないという無意識な気持から茉莉のアパートの所を言った。
「今時分まで、何をしとった……?」
「お友達のお通夜に行っていました」
「商売は何だ……?」
「お友達はダンサーです」
「お前の商売をきいとるんだ」
「ダンサーです」
「なぜ、はだしになっとるんだ……?」
 半分むっとした気持から、からかうような口調になっていた陽子も、しだいに気味悪くなって来た。夜おそく歩いていて、闇の女と間違えられて、拘引された女もいるという。
「踊ると、足がほてって仕方がないんです。電車があれば、靴をはいて帰りますが、歩くのははだしの方が気持がいいんです」
「靴はどうした……? 持っとらんじゃないか」
「お友達のアパートへ預けて来ました」
「どこだ、そのアパート」
「京都ホテルの……いいえ、丸太町です」
「丸太町から来たのなら、逆の方向に歩いてる筈だ。来い!」
 巡査はいきなり陽子の腕を掴むと、三条大橋の方へ連れて行った。
 橋のたもとには、女を一杯のせたトラックが待っていて、どれもこれも闇の女らしかった。

      三

 検挙した闇の女を警察へ送るトラックであることは、一眼で判った。
「違います。あたしは……」
 商売女ではないと、陽子は言いかけたが、巡査はそれには答えず、
「そら一丁!」
「よし来た!」
 トラックの上の声が応じて、陽子はまるで荷物のように簡単に、積み上げられてしまった。
 橋のたもとの街燈は、ガス燈のように青白く冴えて、柳の葉に降り注ぐ光の中を、小さな虫が群がって泳いでいた。陽子はトラックの上からふっとそれをながめた途端、気の遠くなるような孤独を感じた。
 加茂川のせせらぎの単調なあわただしさは、何か焦躁めいた悔恨の響きを、陽子の胸に落していたが、やがてそれがエンジンの騒音に消されて、トラックが動き出した。
 橋を渡ると、急にカーブした。途端に陽子は茉莉を想い出した。
 陽子がダンサーになったのは、茉莉と知り合ったからであった。しかし、直接の動機はロマンティックなものではない。実は、家出して京都で宿屋ぐらしをしているうちに、二月の金融非常措置令の発表という殺風景な事情が、陽子をダンサーにしたとも言えよう。
 家の方へは行先を隠し、また京都では素姓を隠す必要上、陽子は転入証明も配給通帳もわざと持って来なかった。だから、旧円を新円に替えることも、通帳から生活資金を引き出すことも出来なかった。旧円流通の期限が来ると、宿賃はおろか電車にも乗れないと、陽子は狼狽した。
 新聞には、鉱三の封鎖反対論が出ていた。陽子は身にしみて同感だったが、しかし、一月前の父は、インフレ防止のためには封鎖策よりほかにないと、会う人毎に喋っていた筈だ――と想い出すと、一徹者だった父も選挙の成績をよくするためには、清濁ばかりか、黒も白も一緒に呑んでしまうようになるのかと、不可解な気がした。それが利口なのか利口でないのか、判らなかったが、父も鳩山一郎と共に何かタガがゆるんだような気がして、尻尾をまいて帰る気になれなかった。
「あたしの家出が封鎖のためにオジャンになったと判れば、パパは封鎖賛成論に逆戻りするかも知れないわ」
 皮肉だけはつぶやいたが、しかし、たまたまセットに行った美容院で、茉莉と知り合い、相談を持ちかけた時は、全く途方に暮れていたのだ。
 陽子は十五の年からダンスを知っていたし、好きでもあった。が、ダンサーをして新円を稼いで行くことを、陽子の自尊心が許したのは、ホールの環境に汚れずに、溺れるくらいダンスが好きでありながら、毅然として純潔を守って行く茉莉の自信の強さに刺戟されたからであった。
 だから、陽子は茉莉がたよりであり、茉莉の死が陽子を全く孤独な気持に陥しいれたのもそのためだ。茉莉も陽子をたよっていた。
「それだのに、あたしはお通夜に行ってあげられない」
 取りかえしのつかぬ二重の想いに揺れているうちに、やがてトラックは警察署についた。

      四

 トラックから降りると、陽子はそのまま闇の女たちと一緒に、留置場へ入れられた。
 深夜の町をはだしで歩いていたというだけでも、疑われるのは無理もないと諦めていたが、しかし、警察へ行けばすぐ釈放されるだろうと、楽観もしていた。
 それだけに、留置場の狭い穴をくぐった時は、泣けもしない気持だった。身動きも出来ない狭さや、不潔さや、いやな臭気もたまらなかったが、何よりも茉莉のお通夜に行けなくなったことが、情なかった。
 それもみな、田村なぞへ行ったからだと、今更の後悔と一緒に、京吉の顔がうかんだ。
「田村はよせ、行くな!」
 と、京吉も停めたし、お通夜も気になったし、素姓をかぎつけたのを好餌にして釣ろうという春隆のワナは月並みで俗悪だったから、余りに見えすいてもいた。
 ところが、わざわざそのワナの中へ飛び込んで行ったのは、むろん春隆に口止めさせるためであった。
 京都でダンサーをしているという秘密が春隆の口から洩れて父の耳にはいれば、強引につれ戻されるおそれはあったし、それに家出生活の辛さを我慢している気持の中には、誰も自分の素姓を知らないというひそかなスリル感があった。新聞の種になってしまっては、もうつまらないし、父の政治的人気に疵がつくという心配もあった。
 一つには、京吉が命令するように停めたということへの、天邪鬼の反撥が、陽子の足を田村へ向けたのだ。
 しかしまた、それと同じ天邪鬼が、田村へ行く時間を出来るだけ伸ばして、春隆を待たせてやろうという気持を、ふと起させた。
「お願いです。誰にもおっしゃらないで……」
 と、思わず哀願したホールでの、みじめに狼狽した自分をそのまま持って行きたくなかったのだ。必ず来るという春隆の自信にも一応反撥したかったのだ。待たせる方が有利だという、女特有の本能も無意識に働いていた。
 だから陽子は十番館を出た足で、まず近くのすし常という店へわざわざ寄って行った。
 すし常の主人は変った男で、毎晩ホールへ行ってラストまで踊り、帰ってからそろそろ店をあけて、すしを握るのだが、準備に暇が掛るので、ホール帰りのダンサーがわざと遅く行っても、大分待たされる。しかし、やはりダンサーの常連が多いのは、この店の主人からチケット代りに無料でくえるすし券を貰うからであろう。
 やっとすし常を出ると、陽子は田村へ行ったが、案内されてはいった時の春隆の部屋は、煙草のけむりが濛々として、待たせた時間の長さを思わせていた。
 ――と、そんなことまで今陽子が想い出したのは、ちょうど陽子の隣りに膝をかかえて坐っている若い娘が、留置場の中へいつの間に持ってはいったのか、急に煙草を吸い出したからであろうか。
「姉ちゃん、一口吸わしたげよか」
 浴衣をだらんと着たその若い娘は、陽子へ話し掛けて来た。チマ子だった。

      五

「あたし……? いらないわ」
 陽子が断ると、チマ子は吸い掛けの煙草を突き出して、
「遠慮せんでもええわ。はよ吸わんと、日本の煙草すぐ消えるさかい……」
 留置されている娘とは思えなかった。
「いいのよ。あたし喫めないのよ」
「へえん……? 真面目やなア」
 チマ子のその言葉に、陽子は微笑した。
 実は田村へ行った時、春隆も同じような言葉を言った――それを、想い出したのである……。
「煙草いかがです。どうぞ」
「喫めませんの、あたし……」
「本当……? 真面目だなア」
 そう春隆は言ったが、ビールの瓶は持って、
「――しかし、この方なら……」
「あら、いただけませんの」
「そうですか。じゃ、無理にすすめちゃ悪いから……しかし本当に飲めないんですか。少しぐらいなら……、飲むんでしょう……? 半分だけ……注ぐだけです。悪いかな、飲ましちゃ。僕も好きな方じゃないんです」
 細かい神経を働かせながら、さすがに粘りも見せて、一人ペラペラ薄い唇を動かせていた。
「東京へお行きになるんですの?」
「ええ、明日」
「お行きになっても、あたしのこと誰にもおっしゃらないで下さいません……?」

「今夜のこのこと……?」
 春隆はもううぬぼれていた。
「いいえ、ホールでおっしゃったこと……」
「ああ、あのこと……」
「もし誰かに知れると、あたしまた姿をくらまさなくっちゃなりませんわ。そしたら、十番館で踊っていただけなくなりますわねえ」
 これくらいの殺し文句は、陽子も使えるくらい、――頭がよかった。
「いや、大丈夫ですよ。あはは……。二人っきりの秘密にして置きましょう。じゃ、かん盃!」
「だめですの。本当に……」
「そうですか。じゃ、食事……」
「済んで来ましたの」
 それで遅かったのか、誰と食べて来たのかと、春隆は興冷めしたが、しかし、陽子の来た時間が遅かったのは、もっけの幸いだと思った。女中を呼んで、
「くるま呼べる……? くるまなければ、この方帰れないんだ」
「今時分、おくるまなンかおすかいな」
 あっては困る春隆のはらを、むろん女中は見ぬいていて、これは上出来だったが、余り心得すぎて、春隆がだんだんに陽子をひきとめる技巧を使おうと思っているのも知らず、あっという間に、さアどうぞと別室の襖をあけてしまった。
 行燈式のスタンド、枕二つ並んでいる。今見せてはまずい! と春隆が眉をひそめた途端、陽子はいきなり部屋を飛び出してしまったのだ。帰るきっかけをなくしかけていた陽子にとっては、女中が申し分のないきっかけを与えてくれたようなものだが、しかし、そのあとが……廊下の章三、はだし、巡査、留置場……。
「ああ、いやな土曜日!」
 思わず額をおさえていると、
「姉ちゃん、飴あげよか」
 チマ子がまた話し掛けて来た。

      六

 陽子はあきれてチマ子を見た。
 兵児帯は留置される時に、取られたのであろう。だらんとはだけた浴衣の裾は立てた膝にまきつけていても、すぐみだれ勝ちになるのだが、それが案外だらしなく見えなかったのは、白粉気のない皮膚の清潔さと、青み勝ちに澄んだ眼の、怜悧そうな光のせいであろう。にやっと笑ってうかべたエクボには、あどけない少女も感じられた。
「こんな可愛いい子が……」
 煙草や飴玉をひそかに留置場へ持ってはいっている大胆不敵さに、陽子は驚いたのだ。
「トラックに乗ってる間に、浴衣の縫込みへこっそり入れといたってン」
 チマ子はペロリと舌を出して、素早く陽子に飴玉を渡した。陽子は茉莉を想い出した。
「姉ちゃん、ブラックガールのわりにきれいな」
「ブラックガール……?」
 すぐに意味が判らなかったが、
「――ああ。ちがうのよ。間違えられたのよ」
「そうやろと思った」
 チマ子は留置場の中を見廻して、
「――そこらにいる奴と大分ちがうと思った。あそこにいる女、あれ常習犯で病院へ入れられとったのに、毎晩こっそり逃げ出して、商売しとってん。病院にいると、親が養われへんそうや。まず親の働き口から見つけたらんと、あの女の病気いつまでたっても癒れへん。うちが警察やったら、あの女が入院してる間、毎日五十円ずつやる。ほな、あの女も安心して病気癒す気になるやろ。けど、巡査でも一日五十円月給取ってるやろかなア」
「そうね。――あんた頭いいじゃないの。政治家より頭いいわ」
「うちが頭よかったら、日本中みな頭ええわ。たれかテこないしたらええいうこと、判ってる。政治家かテ阿呆ばっかしと違う。けど、政治家が日本中の人間の一人一人のことを考えてたら、演説してまわるひまもないくらい、忙しいさかいに、だれのことも考えんと、自分のことばっかし考えてるンやろ。――うちは阿呆や、阿呆やなかったら、泥棒みたいなもンせえへん。しても、ドジ踏めへん」
「あんた泥棒したの……?」
「うん、下手売ったワ」
 と、与太者の口調になって、
「――監獄にいたはるお父さんを助けたげよ思って、娘が泥棒するなんテ、トックリ味噌つめるより、まだ阿呆や。けど、壺がなかったから、トックリにつめな仕様がない」
「一体、何を盗んだの……?」
「写真機!」
「ふーん」
 陽子はふと木崎を想い出し、そこが留置場だということをいつか忘れていた。
「あんまりええ写真機持っとるさかい、こんなン盗んだったかテ構めへんやろ思って、アパートまでついて行って、笑って来たってん。ほな、掴まってン」
「笑う……?」
「笑ういうたら、盗むこっちゃ」
 そして、ケタケタとチマ子は笑った。

      七

「喧しいな。ええ加減におしやす」
 長い体を持て余して、窮屈そうにゴロンゴロン寝ていた痩せぎすの女が、チマ子の笑い声に眉をひそめた。

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