土曜夫人
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著者名:織田作之助 

 が、坂野は芳子には気づいていなかったようだし、まさか呼びとめも出来ず、みるみる遠ざかって行くうちに、銀ちゃんはふと、
「ひょっとすれば、もう二度とあの女に会えないのではなかろうか」
 という予感に襲われた。そして、夜具の中に見つかった針の先のように、チクリと胸をさす寂しい旅情にも似たこの予感に揺れているうちに、車夫が俥の梶棒をおろしたのは、警察署の裏手の怪しげなしもた家の前だった。門燈の色が医院の門燈のように赤かった。
「なんだ、赤提灯か」
 温泉場などでは、怪しい女のいる家には目印の赤い門燈がついていて、赤提灯という通称が春を売る商売の代名詞になっていたのだ。
「まア上っておみやす。お銚子づきで一枚にしては……」
 引揚げの女ばかりだから、びっくりするようないい女がそろっている――という車夫の言葉ほどではなかったが、主人じみたいやらしい女はいなかった。しかし、銀ちゃんは、
「酒だ、酒だ、酒がなけりゃアルプでもいいや」
 と、女には見向きもせず、やがて運んで来た冷の酒を一口のんでみて、顔をしかめた。
「――こいつアひでえキャッキャッ酒だ」
「銀ちゃん、メチルではにゃアですかね」
「そうかも知んねえだ。ふんに、おったまげた酒じゃにゃアか。おら、いっそ死ぬべいか」
 冗談口を利きながら、銀ちゃんは平気で飲んでいた。

      八

 ちょうどその頃――というのはつまり、坂野と銀ちゃんが警察署裏の怪しげな家で怪しげな酒を飲み出した頃、京吉は再び陽子のアパートの階段を登りながら、
「芳ッちゃん、ばかだなア!」
 おれの停めるのもきかずに、一人でさっさと行っちゃうなんて、今夜泊る所あるのかい……と、呟いていた。
 もっとも、本気で連れ戻したい肚もなかったのだ。一応ひき停めたことは停めたし、あとも追い、探してみたのだが、すぐ見失ってしまうと、もうそれが一人で陽子のアパートへ戻って来る自分への口実になってしまったのだ。
 持前の放浪性が、時と場合で走馬燈のようにぐるぐると京吉の気持を変らせるのは、いつものこととはいいながら、しかし、人恋しさと親切な気持からさっきまではあれ程なつかしく、いたわりもしていた芳子を、急に見捨てる気持になったのも、実に陽子の声をドア越しに聴いたという現金な気持からであろう。しかし、このエゴイズムに気づかぬほど、京吉には孤児の感情が身につきすぎていた。
 はじめは芳子をだしにして陽子の部屋に泊めて貰おうと思ったくらい、細かい神経を使いながら、急に馴れ馴れしい図太い神経になって、いけしゃアしゃアと一人で戻って来たというのも、やはり同じ孤児の感情からで、いったん泊めてくれるものと信じ込んでしまうと、渡り鳥の本能でそのネグラへ帰って来る放浪者のあわれさであった。
「陽子、おれだよ。あけてくれ。邪険はいやだぜ。ねえ、泊めてくれよ」
 その京吉の言葉を聴くと、陽子はああ、やっぱし帰って来たわと、薄い肉が透けて見える形の良い耳を、ほんのり上気させた途端、
「あら、あたしどうかしたのかしら。さっきから、横にもならないで、お床の上に坐ったきりでじっとしていたのだわ。あたし一体なにを考えていたのかしら」
 浅い眠りの眼覚めに、ふっと襲った寂しさは、茉莉が死んで一人ぽっちになったという、まるで通り魔がすぎ去ったあとのような虚しさでもあったが、しかし、それよりも、眼が覚めてみれば、部屋には灯がついたまま、窓の外は雨が降り、金木犀が匂い、そして踊っていたのは夢だったのか――という憂愁の想いの方が、孤独の底を深くしていた。どんな人間でも持っているあえかなノスタルジアのようなものであった。だから、陽子は食堂車の灯を追うて線路伝いに汽車と一緒にかけ出そうとする子供のように、思いがけず現われて、ふっと消えてしまった京吉の足音を、何かにすがりつきたい女の本能のリズムに添うて、追っていたのだ。
「女のひとを連れて泊りに来るなんて、不潔だわ。もう絶交。だけど、あの女のひと誰だろう」
 京吉を軽蔑しながら、しかし、京吉のことをぼんやり考えていたのだ。こんな晩は京ちゃんと踊りたい。でもあたしは追い出すような口を利いたのだわ。
 そんな悔恨めいた気持があっただけに、再び戻って来た京吉の言葉をきくと、陽子は思わず起ち上り、日頃の勝気な天邪鬼の手がもはや一皮むけば古い弱い女の手になって、
「どうしたの、京ちゃん、おかしい人ね」
 ついぞこれまで、どんな男にもあけなかったドアをあけた。

      九

「あら、京ちゃん一人……?」
 女のひとと一緒じゃなかったの――と、陽子は京吉がはいったあとのドアを、わざと閉めずにきいた。
「帰っちゃったよ」
 陽子の所はむろんはじめてだが、ほかの女のアパートには泊り馴れているせいか、京吉はキョロキョロ部屋の中を見廻したり、坐る場所を探したりせず、いきなり鏡台の前へ坐ると、雨に濡れた靴下を脱ぎながら、呟くように、
「――考えてみれば、あの女は……」
「京ちゃんの恋人なんでしょう……?」
 陽子はドアを閉めて、京吉の傍へ来た。京吉一人だと知って、何か割り切れぬ想いがなくなったのと同時に、女と二人だから泊めるのだという自分へのいいわけもなくなり、わざとドアをあけていたのだが、しかし、何だか京吉を警戒してあけているような気が、ふと陽子の自尊心を傷つけたのだろう。
「恋人……? へんなこと言うなよ。誰かの女房で、誰かのいろおんなだよ。考えてみれば、あの女もひでえキャッキャッだよ。いや、考えてみなくても、キャッキャッだよ」
「キャッキャッって何なの……?」
 坐ろうとしたが、靴下を脱いだ京吉の素足に、ふとなまなましい男を感じて、陽子はあわてて顔をそむけ、やはり立っていた。
「キャッキャッはアラビヤ語だって、グッドモーニングの銀ちゃん言っていたよ。陽子、銀ちゃん知らんだろう。銀ちゃん与太者だけど、中学校出てるんだ。キャッキャッって、一人寂しく寝ることだって、銀ちゃん学があるよ」
「つまらないこと言ってるわねえ。陽子断然軽蔑よ」
 陽子は京吉の前では、わざとはしたないダンサー口調が出た。そんな風にさせる所が京吉の徳であった。凄く大人っぽいかと思うと、まるきりテニヲハの抜けた舌足らずの喋り方をしたりする所が、女たちに気を許させるのであろう。自意識のあるもっともらしい男の前では感ずる羞恥心を京吉のような男の前では、奔放に捨ててしまうことが出来るのだった。眩しいほどの美貌だが、同時に暗闇のような男であった。
 だから陽子も寝巻に細帯というはしたない姿を、京吉の眼にさらしておれたのだが、急にこの暗闇からピカリと光る二つの眼がじろっと陽子の体を見た。
「何見てるの……?」
「陽子、今夜十番館へ行った……?」
「休んだの。あたしもうホールをよそうかと考えてるの」
「へえーン」
「このアパートも越そうと思うの。京ちゃんどこかアパート空いたら教えてよ」
「へえーン。越すの……? そうだろうね」
 昨夜首ったけ侯爵の春隆とてっきりだった――それが陽子の心境を変えてしまったのだと、京吉の眼は言葉のように針を含んでいた。
「何よ、そんな眼をして……」
「…………」
「京ちゃん、そんな眼をするんだったら、帰ってよ」
 陽子はふと気味悪くなった。ジリジリ迫る男の眼を感じたのだ。

      十

 この唇……この耳……この首筋……この肩……この手……この胴……この腰……この足……をあの首ったけ侯爵が髭の剃り跡のような青い触感と蛇の動きにも似たリズムで濡らしたのか、――という視線で陽子の体をジロジロなめまわしているうちに、京吉の眼は次第に妖しく据って、ジリジリ迫る男の眼になっていたのだ。
 陽子自身にも、そのような眼は意外だったが、京吉自身にとっても思い掛けなかった。
 女の体は十六の歳から知っていながら、恋は一度もしなかった京吉にとって、ただ一人ひそかに陽子へ抱いているなつかしさは、もはや恋心といってもよかった。それだけに、陽子の体だけは指一本触れず、そっとして置きたかったのだ。自分の踊りの技巧が相手の女の生理を迷わすことを知っていたから、恋をしながら陽子とは踊ろうともしなかったくらいだのに、いま陽子の触感を求めている。このありきたりの情熱は一体何としたことであろう。
「ねえ、帰ってよ」
「…………」
「帰ってったら! 京ちゃん!」
 そんな眼をすると怖いわ――という声はわざと聴かぬふりをして、京吉は窓の外の雨の音を聴いていた。焦躁のような音であった。
 その音を陽子も聴いていた。そしてもし京ちゃんが強く出て来たら、自分はもう拒む力もないだろう――と、がっかりしてしまったくらい、その雨は気の遠くなるような孤独の音を、陽子の耳に降らせていた。
 しかし、京吉がいきなり陽子を抱き寄せようとすると、
「あ、京ちゃん、待ってよ。あたしはそんな女じゃないわ」
 陽子にとって一番大事なものが自尊心であるとすれば、この自尊心を与えているのは、自分は二十四の今日までたった一つ捨てずに来たものがあるという誇りだった。何れは捨てねばならぬものではあろうが、しかし、それをこんな風に簡単に……。その屈辱と、そして羞恥心と恐怖が、必死の力で京吉を防ぎながら、
「――あッ、京ちゃん、あたしに死ねというの、あたしをそんな女と思ってるの……?」
「だって陽子昨夜キャッキャッじゃなかったじゃねえか」
 一人寂しく寝るという意味を「キャッキャッ」に含ませて、昨夜は首ったけ侯爵に許したじゃないか――と、なおも迫ると、
「違うわよ。キャッキャッよ。昨夜はキャッキャッよ。あたしを信じてよ。何でもなかったのよ」
 陽子は必死で「キャッキャッ」を口にしていた。
「本当か」
 京吉は陽子の眼を覗きこんで、その瞳に自分の醜い表情が夜光虫の光のようにうつっているのを見た。
「本当よ。逃げたのよ。はだしで逃げたのよ。わたしは……」
 そんな女じゃないわ――という言葉を、三度目に聴いた途端、京吉はいきなり陽子をはなして、ものも言わずにそのアパートを飛び出して行った。

      十一

 アパートの玄関の石段にさっと降り掛った雨は、京吉の昂奮をすっかりさましてしまったが、しかし、
「おれ二度と陽子に会えなくなっちゃった!」
 という気持は、冷たく背筋を伝わった。
 陽子に挑んだのは、陽子はもう失われてしまったと信じ込んでいた京吉が、執拗に迫る嫉妬からのがれるためにきりひらく唯一の血路であり、また、失われたものをなつかしむ気持の逆説的なあらわれであったが、しかし、一つには、陽子は春隆に許したのだから、自分にも許してもいいだろうという現金な気持からでもあった。
 この現金な気持があったから、京吉は陽子が清かったことを知ると、さすがに自分のしようとしていた行為の醜さを、恥じたのだ。
 だから、逃げるように飛び出して来たのだが、もう二度と会わす顔がないと思うと、京吉はノコノコとまたアパートの中へ逆戻りして、陽子の部屋へ上って行った。
 部屋のドアはあいたままだった。閉めようともせず、陽子は部屋の中で泣き伏していた。しかし、泣き声はなかった。
 なぜ泣いているのか、京吉には判らなかったが、陽子自身にも判らなかった。恥かしい目に会おうとした悲しみか、京吉もまた自分を侮辱しようとしたのかという怒りか、抵抗の昂奮がさめたあとのすすり泣きか、びっくりしたように京吉が去って行ったあとの思いがけぬ寂しさか、自分をあわれみ、そしてまた京吉をあわれんでいたのか、どんな人間にもある憂愁のノスタルジアだろうか、ヒステリーか――何れにしても、女の涙は男はもちろん女にも判らない。
 陽子は京吉がはいって来た気配に、気がつくと、頭をあげて、涙を拭いた。けろりとした顔のようだった。が、声はキンキンと、
「何かご用……?」
「ううう? うん」
 口ごもったが、いきなり京吉は手を出して、
「――金かしてくれ。おれ宿屋へ泊る金ねえんだよ。掏られたんだよ」
 こんなに遅くなると、もう田村へ帰るのが怖かったのだ。陽子はハンドバッグを投げ出して、
「いるだけ、持ってらっしゃい」
「恐れ入りやの……」
 京吉はもう軽薄な口調になって、ハンドバッグから百円札を一枚抜きかけたが、ちょっと思案して、
「――じゃ、これだけ借りるよ」
 三百円手につかむと、陽子がふっと微笑したくらい無邪気な表情を残して、出て行った。
 そして河原町通りへ出ると、空の人力車がすれ違った。宿屋へ連れて行けといったが、車夫は、もう遅いから、宿屋はだめだ、それより安く飲ませて泊める家があるからと、一人ぎめの方角へ走り出した。
 途中、土砂降りの雨の中を濡れて歩いている女にすれ違った。芳子ではないかと思ったが、ひと違いだった。
 警察署の近くまで来ると、京吉は道端にたたずんでいる五十男の顔を見て、おやっと思った。田村で見たことのある銀造だった。銀造は車夫の顔を見ると、急にほっとした顔で、笑いかけて来た。




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