土曜夫人
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著者名:織田作之助 

 と、銀ちゃんは、昨夜から自分のアパートへ来ている女のことを、ちらと想い出した。亭主の所から逃げて来たのだ。
「女という奴は……」
 パイを揃えると、銀ちゃんはまずパイパン(白板)を捨てて、
「――済ました顔で、新聞雑誌読んでるが、バイキンみてえに食っついたら離れたがらねえ。パイパンみてえに捨てちゃえよ」
「じゃ、おれ拾うよ。パイパンおれの趣味だよ」
「ついでに、女も拾ってくれよ」
 この時、電話のベルが鳴った。

      五

 ぎおん荘でございます――と、さっきの女が電話口に出た。
「はい。おいやすどっせ。どちらはんどすか。――えッ、セント……? あ、セントズイス、セントズイスどんな」
「舌を噛んでけつかる」
 と、グッドモーニングの銀ちゃんは笑いかけたが、無理に笑っているような感じであった。そして、
「――セントルイスならおれだ」
 と、パイを伏せて腰をうかせかけたが、急にそわそわして、
「――いや、留守だといってくれ」
 と、いつもの銀ちゃんに似合わぬ落ち着きのなさは、何としたことであろう。しかし、
「京ちゃん、あんたに……」
 掛って来たのであった。銀ちゃんはほっとしたように、尻を落ちつけた。
「おれに……?」
 と、京吉は長い睫毛を、音のするようにぱちりと上げて、
「――今日はおれいやに電話に縁のある日と来てやがらア」
 パイを伏せて、わざと片手をズボンのポケットに入れながら、立って行った。
「京ちゃん……? あたし、判る……? おほほ……」
 笑い声で、セントルイスの夏子だと判った。
「何でえ……? 電話ばっかし掛けやがって、株屋の番頭みてえに一日中電話を聴かされてたまりやせんワ」
「あら。お門違いよ。あたしは封切よ。誰かさんと誤解してるんじゃない。おほほほ……。認識不足だわ」
 どうも言っている言葉がいちいち場違いにチグハグだったが、それよりも、受話器を通すと、ガラガラした声が一層なまなましく乾いて、あわれな肉感味を帯びているのが、たまらなかった。
「誰かさンて、誰だ」
「多勢いるから判らないんでしょう。えーと、あの人じゃないの。えーと、陽子さん! あれからまた掛って来たのよ。もう京都にいないって言ったら、絶望的だったわよ。おほほ……」
「…………」
「あんた、まだ京都にいたのね」
「はい、恥かしながら、パイパンで苦労してます」
「パイパン……? 何よ、それ。――京都にいるなら、リベラル・クラブへ一緒に行ってよ。今晩五時、発会式よ」
「どうぞ、御自由に」
「あら。一人じゃ行けないわ。会員は同伴、アベックに限るのよ。素晴らしいじゃないの」
「そんな不自由なリベラル・クラブよしちゃえよ!」
 電話を切ろうとすると、
「あ、ちょっと、ちょっと、用事まだ言ってないわよ」
「何だ……?」
「おほほ……」
「ハバア、ハバア!」
「せかさないでよ。今、代りますから。あたしはただお取次ぎよ」
 おほほ……と、笑い声が消えると、誰かが代って電話口の前に立ったらしく、息使いが聴えた。

      六

 誰だろう――と、声を待っていると、
「兄ちゃん……?」
 なつかしそうに、しかし、おずおずと受話器を伝わって来た声は、思いがけず、靴磨きの娘だった。
「――あたい、判る……?」
「うん」
「兄ちゃん、あたいなんぜ、こんなところから電話掛けてるか、判る……?」
 何かいそいそと弾んだ声だった。
「えっ……?」
 と考えたが、咄嗟には判らなかった。
「――おれ判るもんか。なぜ、セントルイスへ行ったんだい」
「判れへん……? ほんまに判れへんのン、兄ちゃん」
 じれったそうだった。
「判るもんか。なぜだ。言ってみろ!」
「…………」
 しかし、返辞はなかった。
「まかれてしまったのか」
 と、京吉は何気なく声をひそめた。娘に、あの男――スリを尾行しろと、ただそれだけ言ったのである。尾行して、それからどうしろ――と、注意を与える暇はなかった。だから、財布は戻るとは当てにしていなかった。ただ、わざわざスリを見つけながら、ほって置くのも癪だ――そんな軽い気持で尾行させただけである。娘がスリにまかれてしまったところで、べつに悲観もしない。ところが、
「ううん」
 まかれなかったわよ――という意味の声が、鬼の首を取った威張り方で聴えて来た。
「ほう……? 大したキャッキャッだね」
 と、京吉は思わず微笑して、
「――どこまで、つけたんだ……?」
「ここで言えないわよ。兄ちゃん」
 鮮かな東京弁だった。ははあんと、京吉は上唇の裏に舌を当てて、
「じゃ、そいつ、セントルイスにいるのか」
「うん……? ――うん!」
 ちょっとセントルイスの中を見渡してから、うなずいたにちがいない――その仕草が想像されて、京吉はこの瞬間ほど娘がいとしくなったことはなかった。
「――だから、兄ちゃん、早く来てよ」
「よっしゃ」
「ハバア、ハバアよ」
「オー・ケーッてばさ。あはは……」
 と、笑った機嫌で、
「――お前何て名だっけ……?」
「あたい……?」
 びっくりしたようにきき返したのは、子供心に名前をきかれたという意外な喜びにどきんとするくらいだったのか、
「――兄ちゃん、あたい、カラ子!」
 と、しっとり、答えた声は、もう女の声だった。そんな息使いだった。京吉がもとの席に戻って来ると、グッドモーニングの銀ちゃんはなぜか重く沈んでいた。
「お待たせ!」
 その回も京吉が上って、そのイーチャンが終った。
「しかし、二千すったよ。金はセントルイスで払う。銀ちゃん、一緒に来てくれよ」
 と起ち上ろうとすると、銀ちゃんは、あわてて、
「おいもうイーチャンやろう」
 と、ひきとめた。
「だって、おれ急ぐんだ」
「いいじゃないか! セントルイスはよせ」
 銀ちゃんの声は急に鋭く凄んだが、眼は力がなかった。

      七

 京吉をひきとめた銀ちゃんの強気は、しかし、実はセントルイスで女を待たせてあるという弱みのせいであった。
 女は坂野の細君であった。
 銀ちゃんと坂野とは、坂野が京極の小屋へ出ていた頃の知り合いで、坂野が細君と結婚する時も、せめて形式だけでもと挙げた式は銀ちゃんのアパートで、銀ちゃんが盞をしてやったのだ。いわば仲人で、だから坂野も銀ちゃんを頼りにし、細君も夫婦喧嘩の時は銀ちゃんのアパートへ泣きついて行った。
 ある夜、ヒロポンのことから大喧嘩になり、飛び出した細君は銀ちゃんのアパートへ泣きに来た。遅いから、今夜は泊って行け、明日はおれが坂野の所へ行って謝らせて来てやる、くよくよせずに、これでも飲めと、グラスにウイスキーを注いだ。
 それがアルプ・ウイスキーだった。四条のある酒場へ行くと、顔で一本八十円でわけてくれる。公定価格は三円五十銭だが、それでも一本八十円のウイスキーは安い。死んだという噂もきかないから、少々眼にやにが出ても、メチルではあるまいと、専らこれにきめ、その晩も二人で二本あけてしまった。
 安いのと、口当りがいいので、ガブガブやったのが、いけなかったのだ。ほかのウイスキーではそんなことにもならなかったが、やはりアルプだった。銀ちゃんは前後不覚に酔っぱらい、意識が混濁したまま、坂野の細君と妙な関係になってしまった。細君も女に似ず強かったが、さすがに参っていた。
 坂野はむろん疑いもしなかった。昨夜は女房の奴がまた御厄介で――と、へんに律儀に恐縮していた。銀ちゃんは返す言葉もなかった。
 細君も悩んだが、しかし、この女は奇妙な女だ。悩んでいるかと思うと、あんなヒロポンマニアとは別れた方がましだと、サバサバしたり、不義の子を孕んだといって泣いたり、あんたの子うむのうれしいわとやに下ったり、ああ、おろしてしまいたい。
 と、とりとめがなかったが、昨夜いきなり、置いてくれと、家出して来た。
「そりゃ困るよ、だいいち坂野に知れたら……」
 銀ちゃんは少しでも女と一緒にいることを避けたかった。細君が逃げたと判れば、坂野はきっとその報告にやって来るだろう。夜が明けると、銀ちゃんは拝むように、
「どこかへ行っていてくれ」
「どこへ行ったらいいの。行く所ないわ」
「活動でも何でも見て来たらいいだろう。三時にセントルイスで会おう。相談はそれからのことだ」
 とにかく、ここにいてはまずいと、無理やり女を追い出した。しかし、三時に会うても何の話があろう。いい思案もうかばぬことは判り切っていたから、会うのが辛かった。
 イーチャンが終ると、柱時計を見上げて、五時を指している針を見た時、だから銀ちゃんは軽い後悔と共に、何か諦めた安心感を感じたが、実は時計は故障で停っていたのだ。まだ三時半だった。間に合う。いかねばならない。しかし、もうイーチャン打って、ずるずる時間を延ばすことが、この際のごまかしだった。
 無理に京吉をひきとめていると、風のようにふわりと一人の男がはいって来た。あッ。
 坂野だった。

      八

 北(ペー)の風から良い手のつき出した男らしく、京吉はもうイーチャン打つことには十分食指が動いていた。が、セントルイスで待っているカラ子のこともあった。
 だから、銀ちゃんにすすめられて、ふと迷っていた。その矢先の坂野の登場であった。
「あ、坂野さん、いいところへ来た」
 と、京吉はもっけの幸いの声を出し、それでもう肚がきまった。
「――おれ、のくよ。坂野さん代ってくれよ」
 ねえ、その方がいいだろう――と、銀ちゃんの顔を見ると、
「…………」
 銀ちゃんはうなっていた。
 京吉と坂野が知合いだったことを、銀ちゃんは知らなかったのだ。だから、
「亭主がアコーディオン弾きだから、すぐ腹がふくれやがる」
 云々と、女のことで口をすべらせたのだが、思えば、うかつに言ったものだ。パイを捨てる手拍子につれて、ひょいとすべった言葉だが、どだいおれは弁士時代から口が軽いと来てやがる。
 銀ちゃんは毛虫を噛んだような顔で、しお垂れていた。
 その顔をちらと見た途端、京吉もはじめて、坂野が知らぬ間に銀ちゃんに細君を寝取られていたというホットニュースを想い出して、
「うえッ! こいつアひでえキャッキャッになりやがった」
 と、坂野を残して行く皮肉さを、ひそかに砂利のように噛んでいたが、しかし、この場の空気をにやにや見ているほど、京吉はいかもの食いではなかった。
「逃げるにしかず!」
 と、起ち上ろうとすると、坂野は、
「いいよ、京ちゃんやんな! せっかくヒロポン打ったんじゃないか。あたしア高見の見物だ」
 と、とめた。
 いや、その高みの見物になりたくないから逃げるのだと、京吉はそわそわして、
「おれ、セントルイスへ取りに行くものがあるんだよ」
「じゃ、おれ行って来てやるよ。どうせ女房を探して……」
 町という町からア、丘という丘を、あちらをも、こちらをも、探すは上海リル……という唄の文句を、自嘲的に口ずさみかけた途端、
「あッ!」
 と銀ちゃんが声を上げた。が、だれも気づかなかった。まして、坂野の細君がセントルイスで待っていることを、知る由もない。
「え、へ、へ……。なアんて、うまいこといって、この使いめったにひとにやらせてなるものか」
 これ取りに行くんだからねえと、親指と人差指で丸をつくって見せると、あッという間に祇園荘を飛び出して行った。
「おい、京ちゃん、京ちゃん!」
 グッドモーニングの銀ちゃんは、なに思ったか急に起ち上って、京吉を呼びとめた。

      九

「なンや、銀ちゃん……」
 あわてふためいて……と、京吉は入口まで戻って来た。もっと傍へ来い……と、銀ちゃんは眼まぜで引き寄せると、京吉の肩に手を掛けて、
「さっきの話……」
 坂野には内証だぜ……と、囁きかけたが、急にふっと気が変った。京吉という男は、ひとは善さそうだが、それだけに口は軽そうだ。だから、京吉の口から坂野の細君とのことがばれるおそれがある――と、銀ちゃんは呼びとめて、口止めしようと思ったのだが、京吉の顔を見ると、何だか京吉に対して恥しいような気がして、もう言えなかったのだ。いや、京吉によりも自分に恥しかったのだ。あわてふためいた口止めは、男らしくもないと思ったのだ。おまけに、それではあんまり坂野が可哀相だ。もっとも、一切合財坂野に打明けるのも、坂野には酷だと思った。が、「知らぬは亭主」の坂野のいる前で、こっそり口止めは、坂野を侮辱しているようなものだ。京吉に知られてしまったのは罰が当ったようなものだから、
「喋るなら喋れ」
 と、成行きに任せるのが、自分としても気が楽だと、銀ちゃんはせめてこの点で捨身の裸になっていたかった。
「さっきの……?」
 と、京吉はききかえした。
「いや、さっきの二千点の金、いつ払うんだ」
 と、銀ちゃんはむりにそこへ話を変えた。
 なアんだ、それで呼びとめたのかと、京吉は軽蔑したような口つきになって、
「ちゃっかりしてるね。払うよ。セントルイスへ行きゃア、はいるんだ。今日中に払うよ。銀ちゃん、そんなんかね。おれ見直すよ。感じ悪いや。払やいいんだろう」
 プイと怒って、出てしまった。銀ちゃんは憂欝な顔で卓子へ戻って来た。
「銀ちゃん、どうした。女に振られたんじゃないですか。元気溌剌じゃないですな」
 坂野はうかぬ顔でパイを撫ぜていた。
「そういうおたくも、からきし元気溌剌じゃないね」
「あッしですか。」
 坂野は苦笑して、
「――女房逃げちゃったンでさア」
「へえン」
「だから、ショボショボしょげてるッてんじゃねえですがね。人間あんまり腹が立つと、目まいがしていけねえ。くらくらッとね」
「大事にしてくれよ」
「女房をですかい」
「いえさ、体を。ヒロポン打ちすぎるンじゃないか」
「大丈夫でさア。漫才のワカナは一日六十本打ってもピンピン生きてまさア。それより、銀ちゃん、アルプはいけませんぜ。あれ航空燃料だといいますぜ、しまいにゃ、アップアップ、てっきりでさアね」
「うん。てっきりだね」
 銀ちゃんはそっと坂野の顔色をうかがったが、急に、
「――おい、場をきめよう! どうせ短い命だ!」
 喧嘩腰のような声になった。


    暮色

      一

 東京や大阪のバラック建ての喫茶店は、だいいち椅子そのものがゴツゴツと尻に痛く、ゆっくり腰を落ちつけて雰囲気をたのしむという風には出来ていないが、さすがに京都の喫茶店は土地柄からいっても悠長だ。
 例えば、セントルイスには半日坐り込んでいる常連がいる。三条河原町のD堂という古本屋の主人など、自分の店に坐っている時間よりも、セントルイスの片隅に坐っている時間の方が多いのだ。
 この主人の人生の目的は享楽にある。しかし、多くの金を要する享楽は、彼にとっては不愉快そのものだ。出来るだけすくない金で、出来るだけ効果的に楽しむことが、彼にとっては、真の享楽なのだ。彼はこの主義にもとづいて、毎日セントルイスでねばる。なぜなら、この店は場所柄先斗町あたりの芸者の常連が多く、それを見ていることが、彼にとっては目の正月であり、顔見知りの芸者を相手にいやがらせを言っておれば、お茶屋散財しているような気がするからである。むろん、芸者たちはいやな顔をする。が、どうせ金を使って散財しても、もてないことを知っているから、苦にはならない。色男を気取らず、見栄も張らず、けちで通った五十男らしいいやがらせを言っているのが、むしろサバサバしたたのしみであり、一杯十円の珈琲の高さが安くなるこの享楽にまさる享楽がほかにあろうか。京都人であった。
 セントルイスはめったに満員にならない。だからといってさびれているというわけではないのだ。京都では満員になる喫茶店なぞ殆んどないのである。しかし、たまにセントルイスが満員になることがあっても、彼は席を譲ろうとしない。泰然と落着きはらっている。チェーホフの芝居に出て来る下宿代を払わない老人のように、澄ましこんでいる。
「商談、お待ち合わせにお利用下さい」
 という女文字の貼紙の下で、あたかも誰かを待ち合わせているかの如き顔をしているのだが、むろん誰を待ち合わせているのでもない。
 しかし、D堂の主人を除けば、その時セントルイスにいたひと達は、まるで申し合わせたように、誰かを待っていた。
 マダムの夏子さえも、待っていた。京吉を待っていた。
 先斗町の千代若も旦那を待っていた。喫茶店で待ち合わせる旦那は、むろん上旦那ではなかったが、しかし、イロと旦那を兼ねた所謂イロ旦(那)はただの旦那、ただのイロよりもいいにはきまっている。だから、D堂の主人にからかわれながら、いつまでも待っていた。
 カラ子が祇園荘から尾行して来たスリも、誰かを待っているのか、いらいらしていた。
 そのカラ子は勿論京吉を待ちこがれていた。早く来てくれぬと、スリが出てしまう。カラ子は何度も表へ出て、京吉の来そうな方へ遠い視線を送っていた。が、来ない。
「遅いなア。どないしたンやろか」
 再びセントルイスへ戻って来たカラ子の心配そうな声をきいた時、一人の若い女がふっと顔を上げた。坂野の細君の芳子であった。
「遅い。本当に遅い。銀ちゃんどうしたんだろう」
 と、芳子はつり込まれたように、にわかに不安になって来た。

      二

 三時に行くと銀ちゃんは言っていたが、もう四時をすぎている。狭い横町にあるだけに、セントルイスの店なかは、ただでさえ早い秋の暮色が、はやひっそりと、しかし何かあわただしく忍び込んでいた。
 もしかしたら銀ちゃんは来ないのではないかという心配が、その暮色のように迫り、芳子は、昨夜銀ちゃんのアパートへ転がり込んで行った時の、銀ちゃんの迷惑そうな顔を改めて想い出した。
「あたしが来ては、迷惑なんでしょう……?」
「迷惑じゃないが、困るよ」
「あたしがきらいなんでしょう……?」
「きらいじゃないが、ここにいちゃまずいよ」
「それごらんなさい。きらいなんでしょう」
「…………」
 坂野の手前困るんだ――という銀ちゃんの気持は、芳子には判らない。
 女というものは、こういう場合、相手が自分を好いているか、きらっているか――という二つのことしか考えず、それ以上のことは考えようとしない。すくなくとも、そんな顔をしている。三時セントルイスで会おうという口実でアパートを追い出されたのは、相手が自分をきらっているせいだ、――という風にひたすら思い込んでしまうのだ。
 その証拠に、三時の約束が四時をすぎても来ないではないかと、芳子はもう捨てられた女の顔であった。
 もっとも、はじめは銀ちゃんが好きでも何でもなかった。好きで結びついた関係ではない。アルプ・ウイスキーの魔がさした。――というより、酔ったゲップを吐き出すような、まるで冗談まぎれのような結びつきであった。出来心という言葉さえ、大袈裟であろう。ところが、そんな冗談から、もう銀ちゃんが忘れられなくなるという駒が出たのだから、肉体のつながりの不思議さは、われわれの考える以上だ。
 乗り掛った不義の駒を、動かせるのはいつも女の方だ。だから、芳子はわざとヒロポンにかこつけて、アンプルを割るという芝居までして、銀ちゃんのふところへ転がり込んで来たのだが、しかし、一つにはお腹の子供のこともあった。坂野にもそれと感づかれそうになっていたのだ。
 そのお腹の子のことがあるから、きらわれても、とにかくもう一度銀ちゃんに会わねばならない。が、銀ちゃんはどこにいるのだろう。アパートへ電話してみたが、むろんいなかった。半泣きの顔で、ふっと入口の方を見た途端、芳子ははっとした。京吉がはいって来たのだ。悪いところを見つけられたように、芳子はあわてて顔をそむけた。
 が、京吉はむろん芳子に気がついた。
「ははアん」
 セントルイスから祇園荘へ電話が掛った時の、銀ちゃんの狼狽ぶりが想い出された。京吉はわざと芳子には顔を向けて、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、くわえた煙草を、舌の先でペッと吐き捨てると、
「ひでえキャッキャッだ!」
 そのキャッキャッという言葉をきくと、芳子は何思ったか、急に起ち上って、京吉の傍へ来た。

      三

「京ちゃん、あんた……」
 芳子はちょっと言いにくそうに、
「――元橋さんの居所知らない……?」
「元橋さん……? そんな男……」
 知るもんか、おれきいたこともねえよ――と、銀ちゃんの本名を知らない京吉は、寄ってきた芳子へ、わざとらしい背中を向けて、そしてカラ子とうなずき合った眼を、ちらとスリの方へ光らせていた。
 日頃の京吉は、友達の坂野よりも、むしろ細君の芳子の方へ、ペラペラと冗談口を利いていた。口は悪いが、しかし、それが一種の愛嬌になっていて、芳子も京吉がアパートへ遊びに来ると、何となく気がまぎれるのだった。が、その京吉の今日のこの不愛想さは一体どうしたことであろう。
 芳子は取りつく島のない想いの底に、何か後ろめたい気持を、ひやりと覗きながら、
「銀ちゃんのことよ。グッドモーニングの……」
 われにもあらず、赧くなっていた。
「おれ知らねえよ」
「あんた、銀ちゃんと会うて来たんじゃな……?」
「おれ知らねえよ」
 すねたように、うそぶいている言い方で、芳子には、京吉が今まで銀ちゃんと会うていたらしいと、判った。もっとも、さっき京吉が、
「ひでえキャッキャッだ」
 と、言った途端に、芳子にはピンと来ていたのである「キャッキャッ」というものは、銀ちゃんの口癖であり、その言葉が今京吉の口から出るのは、つい今のさきまで、会うていた証拠だ。
 どこで会うていたのか。芳子は、半時間ほど前に祇園荘へ電話をかけて、京吉を呼び出したことを、想い出した。京吉は祇園荘でマージャンをしていたにちがいない。そして、その相手は、もしかしたら銀ちゃんだったかも知れない。いや、そうにちがいあるまい。銀ちゃんは、まだ祇園荘にいるだろうか。
「ちょっと電話おかし下さいません……?」
 芳子はいきなり夏子にそう言って、祇園荘へ電話を掛けた。
 自動式ゆえ、どこへ掛けているのか、はじめはまるで見当がつかなかったが、
「もしもし、祇園荘さん……? そちらに……」
 という芳子の言い方で、すぐそれと判った――途端に、京吉は、
「あれッ、こりゃいけねえ」
 と、驚いて、芳子の言葉をさえぎるように、
「――だめ、だめ! いま掛けちゃいけねえよ。祇園荘、だれもいねえよ。いねえッたら!」
 坂野もいるんだとは言いかねた見えすいた嘘でごまかしていると、
「京ちゃん、邪魔しないでよ」
 京吉まで自分を銀ちゃんに会わすまいとするのかと、芳子はもう邪推のキンキンした声であった。
 その時、例のスリが急に立ち上って、勘定を払うと、セントルイスを出て行こうとした。
「兄ちゃん!」
 カラ子はじれったそうに、京吉の袖を引いた。

      四

 カラ子にうながされて、京吉はすぐそのスリのあとをつけて出ようと思ったが、しかし、坂野の細君の芳子の方へ、気は取られた。
 放って置けば、芳子は銀ちゃんに電話を掛けるだろう。しかし、銀ちゃんの傍には今坂野がいる筈だ。芳子から銀ちゃんへ電話が掛ったことを、もし坂野がその場で知ったら、どんな波瀾が起きるか知れたものではない。よしんば、坂野が気づかなくても、銀ちゃんは困るだろうし、だいいち、京吉の気持としても、昨日までの亭主と情夫がいる場所へ、女が電話を掛けるという光景を、だまって見ているにしのびなかった。何かいやアーな気持だ。
「だめッたらだめだ!」
 よせッと、京吉はいきなり、芳子の手から受話機をひったくって、ガシャンと切ってしまった。芳子は真青になった。
「気ちがいッ!」
「おれ気ちがいなら、おめえはキャッキャッだ!」
「…………」
 芳子は肩をふるわせて、京吉を睨みつけていた。半泣きの顔だった。
「…………」
 京吉も半泣きの顔だった。――女ってみなばかだ。茉莉は死ぬし、陽子は誘惑されるし、この女は間男して亭主の所を逃げ出す……。おまけに、何も知らずに電話を掛けやがる。おやッ、姙娠してけつかる。おシンの奴もでかい腹だったっけ!
「兄ちゃん、早う……」
 行かないと見失うわよと、カラ子はそんな京吉に、気が気でない声をあげた。あ、そうだと、京吉はセントルイスを飛び出した。カラ子もついて飛び出して来て、
「あっちよ」
 と、河原町通りの方へ歩いて行くスリを指した時、芳子がバタバタと出て来た。そして血相をかえて、木屋町の方へ小走りに行こうとする――のを、京吉は、
「どこへ行くんだ……?」
 と、とめた。
「余計なお世話よ。どこへ行こうと……」
 あたしの勝手よ――と、いわんばかしに突っぱなしたそのいい方には、祇園荘へいるとにらんだ銀ちゃんに会いに行こうとする女の思いつめた激しさが読み取れた。
「おい、ちょっと待った」
「はなしてよ!」
「いや、はなさねえ」
「やぶけるわよ!」
「ねえ、待ってくれよ。祇園荘に行くんだろう……? ねえ、おれ頼むよ。行くのかんべんしてくれよ。ねえ、芳ッちゃん!」
「芳ッちゃん、芳ッちゃんって、お安くいわないでよ」
 と、いわれながら、京吉はしかし、ねえ、たのむよ、と、だんだん甘えるような哀願的な声になっていた。
 そして芳子をひきとめながら、ひょいと振り向くと、もうスリは河原町通りへ姿を消していた。同時にカラ子の姿も見えなくなっていた。

      五

 四条河原町の三味線屋の飾窓の中に、委託品として陳列されているスリービーのマドロスパイプを吸口の所だけ照らしていた落日の最後のあかりも、市電を待っているうちにいつか消えてしまい、黄昏がするすると落ちて来た。古い都のうらさびた寂けさよりも、銀座風に植民地じみた雑然とした色彩の洪水の方がむしろ最近の特徴になっているこの界隈も、灰色の秋風が肌寒く走ると、さすがに古い京都らしいくすんだ黄昏(たそが)れ方であった。町も人もうらぶれたように風に吹かれて、都会の憂愁がほつれ毛のようにふるえていた。
 三味線屋の飾窓の前に立って、電車を待っているスリも、何かしらうらぶれていた。スリも人並みにうらぶれるのか。いや、その男はスリが本職ではなかった。本職のスリなら、電車を待つ行列の中にまぎれ込んでいるはずだ。ひとりぽつりと行列からはなれて、手巻きの、三分の一以上葉が抜けたような煙草を吸ったりしないはずだ。
 その男――北山正雄は大阪のある銀行の下級行員であった。商業学校の夜間部を出ると、出納係に雇われたが、間もなく応召し、五年の後復員して来たが、その五年の歳月はこの実直な青年の実直さを、すこしも変えていなかった。ボソボソとした小さな声も、応召前と同じで、ソロバンをはじく手にも五年間の異常な経験のしみはついていないようだった。けろりとした手だった。
 しかし、ただ一つ帰ってから闇の女を買うことを覚えた。
 ある夜、大阪の中之島公園で拾った娘に、北山は恋心めいた情熱を感じた。ところが、無理をして二三度会うているうちに、右の眼の下にアザのあるその娘はふいに中之島公園に現われなくなった。大阪駅前の闇の女の群の中にも見当らなかった。難波や心斎橋附近の夜の場所も空しく探したあげく、検挙されたのだろうか。病気だろうかと心配していると、ある日その娘から手紙が来て、
 ――大阪は何かときびしくなったので、京都へ来て働いている。こんどの日曜日、三時半に四条河原町の横町のセントルイスという店で待っているから来てくれ――という。
 飛び立つ思いとはこのことだと北山は日曜日が来ると、朝のうちにもう京都へついた。そして駅前で靴磨きに生れてはじめて靴を磨かせた。ところが、磨き終って金を払おうとするとズボンの尻のポケットに入れて置いた財布を掏られていることに気がついた。金がなくてはもう娘にも会えない。魂が抜けたようになって河原町通りを歩いていると、朝日ビルの前で靴を磨かせている若い男のズボンの尻から財布がはみ出していた。急に魔がさした。はっと思った途端、北山の手は伸びていた……。
「ああ、ああ!」
 その時のことを、北山はなまなましく想い出して、溜息とも叫びともつかぬ、得体の知れぬ声をうめきながら、ぶるんと首を振っていると、電車が来た。北山はそわそわと、しかし、何か心を残しながら、その電車に乗った。すると、そのうしろから、十二三の娘が急いで乗って来た。いうまでもなく、カラ子であった。

      六

 電車が動き出すまで、少し間があった。その間、北山もカラ子もそれぞれ河原町通りの舗道を、窓ごしにキョロキョロ見ていた。カラ子は京吉が来るのを、待っていたのだ。
 せっかく祇園荘からセントルイスまで尾行して、電話で兄ちゃんを呼び出したのに、兄ちゃんはよその女の人にばっかし気を取られていたので、カラ子は結局機転を利かしてひとりで尾行して来たのだったが、さすがに嫉妬じみた気持に、カラ子は唇を噛んでいた。
 しかし、そのために京吉を恨もうという気もなかったのは、恋心の幼なさのゆえではない。ひとから優しくされることは、何となく諦めているこの少女の哀しいならわしだった。それゆえか、カラ子はひとから優しくされたいと願う前に、まず自分の方から献身して媚びて行こうとした。しぜん、ひとから頼まれごとをするのが好きだった。いや、頼まれぬことも進んでやりたがった。しかし、報酬はあてにせず、いわば孤児の感情のさびしさがさせる無償の献身であった。十二の小娘にしては、荷の重すぎるスリの尾行という仕事も、だからカラ子を、いそいそと弾ませていた。そして、それを立派にやりとげることが、京吉への恋心めいた気持の、せめてもの表現であった。
 電車が動き出した。カラ子はふと兄ちゃんとこのまま別れてしまって、もう二度と会えないのではないかという予感にさびしく揺れたが、眼はピカピカ光り、北山をにらんでいた。北山は未練たらしく、いつまでも河原町通りの方へ、視線を泳がせていた。あの娘を探していたのだ。その女のことがあるから、京吉の財布を掏ったのだった。さきに自分が掏られたことへの腹いせでもあり、魔がさしたともいえるが、しかし、その闇の娘を買う金という目的がなかったら、実直で小心な北山には、ひとを掏るなどという大それたことは出来なかったはずだ。掏ると、すぐ人ごみの中へ姿を消した。約束の三時半にはまだ間があった。行きあたりばったりに歩いていると、悔恨と恐怖が追うて来て、ジリジリと背中を焼いた。歩いていることが怖くなり、北山は祇園荘へ飛び込んだ。マージャンは戦地でならったことがある。マージャンで時間をつぶして、セントルイスへ行った。が、その娘はいつまで待っても来なかった。その娘が昨夜、仏壇お春たちと一緒に検挙されたとは、むろん北山は知らなかったのだ。
 いらいらと待っていると、いきなり、
「おれはこんな所でボヤボヤしていてもいいのやろか」
 という焦躁が、蛇のように頭をもたげて、北山の右の手首へからみついた。スリ、悪事、手繩! 気の小さい男だった。北山はソワソワとセントルイスを飛び出し、京都駅行きの電車に乗ったのだった。
 そして、女への未練と、一刻も早く京都を逃げ出したい気持を、二本の電車線路のように感じているうちに、電車は駅前についた。
 駅前の広場を横切る北山の足は速かった。カラ子はハアハア息をはずませて、チョコチョコついて行った。

      七

 改札口をはいって階段を登ると、狭い通路を繩で仕切った中に、旅行者の群が陰欝な表情を無気力にうかべて、しょぼんとうずくまっていた。誰も立っている者はなかった。
 引揚者だろうか。それとも、汽車がはいるまで、その薄汚い通路で鈍い電燈のあかりを浴びながら、何時間も待たされているただの旅行者だろうか。ひとりひとりは独立の人格を持った人間だが、こうして群をつくっていると、もうそこから漂って来るのは、意志を失った一つの動物的な感覚のようであった。
 人々は彼等の傍を通り抜けながら、ふと優越的な気持が同情に先立つらしく、さげすみの眼をちらと投げて行ったが、北山の眼はそんな旅行者が羨ましい眼付だった。
 何もかも投げ出して、旅行者の中へもぐり込み、どこか見知らぬ土地へ行ってしまいたかった。うずくまっている旅行者の一人と、ふと視線が合った。何だか見覚えのある顔だった。
「…………」
 北山は半泣きの顔に弱々しい微笑をうかべて、何か言いかけようとしたが、その時駅員が前方からやって来た。北山ははっとして顔をそむけると、固い歩き方で通路を抜け、省線のプラットの方へ階段を降りて行った。駅員の服装が警官のそれに見えたのだった。
 女に会うという期待の下へ消していた「おれはスリを働いた」という悔恨の火が、会えずに帰る北山の背中に執拗に迫り、それを振り切って逃げようと焦る行手には、恐怖が怪獣のように立ちはだかり、ペロペロと法律の赤い舌を出しているのだった。
 大阪行きの省線はすぐ来た。高槻で座席があいたので、ぐったりとして坐り、向い側の座席にちょこんと坐っているカラ子を見た途端、
「おやっ!」
 北山ははじめて、カラ子が祇園荘からずっと自分について来ているらしい――と、気がついた。
 吹田を過ぎ、東淀川の駅を過ぎると、やがて南側の車窓に、北野劇場のネオンサインが見え、大阪はもう夜であった。大阪駅前の広場に、闇の娘たちが夕顔の蔓に咲いた夜の花のように、ひっそりとした姿を現わす時刻だ。
 北山は眼の下にアザのある娘がその中にいないだろうかと、空しく探す眼付になりながら、うしろからつけて来るらしいカラ子のことは瞬間忘れていた。
「いない」
 しかし、もしかしたら中之島公園にいるかも知れないという藁のようなはかない希望は、北山の足を中之島公園へ連れて行った。
 北山は公園の中をぐるぐると歩きまわった。白粉をどんなに濃く塗ってもかくし切れないアザは、どの娘の眼の下にも見当らなかった。
 ぐるぐると歩きながら、北山は孤独な自分の足音をきいていた。気の遠くなるようなさびしさに足をすくわれて、北山は急に立ち停った。そして振り向いた。カラ子が立っていた。
「なぜおれをつけるんだ……?」
 北山は自分でも不思議なくらい荒々しい力で、いきなりカラ子の肩を掴んだ。その時、パーン、パーンと銃声が聴えた。

      八

「花火だな」
 と、北山はその銃声を遠い想いで聴いた。中之島公園は真中を淀川が流れ、花火を連想させる。げんに二月ほど前、この公園で水都祭が催され、お祭り好きがお祭り騒ぎの花火を揚げたのだった。だから、銃声とは聴かなかった。
「お、お、お前、京都から、お、お、おれをつけて来たんだろう」
 なぜつけた――と、北山は昂奮に吃りながら、狂暴な力でカラ子の肩を掴んでいた。
「…………」
 カラ子は咄嗟に返事が出来なかった。空襲以来こわい目には随分会うて来たし、こわい人間にも会うて来たが、しかし、北山の表情ほどこわいものを見るのは、生れてはじめてだった。声も出ず、カラ子はぶるぶるふるえていた。
「言ってみろ!」
 北山は血走った眼で睨みつけながら、カラ子の肩をゆすぶった。ゆすぶられて、カラ子はふっと空を見た。降るような星空に、星が流れ、あえかな尾を引いてすっと消えた拍子に、カラ子は京吉を想い出した。
「兄ちゃん、あたい、こんなこわい眼に会うてるのよ」
 何も中之島公園までつけて来なくても、途中交番の前を通った時、かけ込んで、あいつスリだと一言いえば、京吉の財布は戻った筈だった。が、交番というものには、やはり浮浪孤児らしい反撥があった。今日の昼間、円山公園の交番でもいやな想いをさせられたのだ。
 それと、一つには、警官のたすけを借りずに、京吉へスリを渡したいという子供らしい虚栄心もあった。スリの落ちつく場所を見届けて、それを京吉に知らせる時の喜びが、カラ子をいつまでも尾行させていたのだろう。
「言え! 言わんのか! こいつ! なぜ、おれをつけた……?」
 日頃大きな声も出せぬくらい大人しい北山には、ついぞこれまでなかった狂暴なその表情は怒りに逆上しているように見えたが、しかし、それは憤怒というより、むしろ北山の恐怖から出たものだった。
「こいつはおれがスリをしたことを知ってやがる!」
 という予感が、北山を逆上させていたのだろう。臆病者の方がいざという時には狂暴な行動をやりがちなのだ。
「――お前、何もかも知っているんだろう。畜生!」
 北山の手がカラ子の肩から首へ動いて、ぎゅっと力がはいりかけた途端、パーン、パーン……再び銃声が聴えて、なだれを打ったように、群衆がかけ出して来た。
「脱走だッ! 脱走だッ!」
「おい、こっちへ逃げろ!」
 近くの大阪拘置所を破って脱走して来た一団であった。銃声は守衛が威嚇的に射ったものだろう。誰かが川へ飛び込んだ。
 北山ははっとわれにかえると、その一団にまじってぱっとかけ出して行った。北山の狂暴な血は一時に引き、野卑な顔はただ狼狽の色に歪んでいた。

      九

 逃げろ、逃げろという声は、拘置所を脱走して来た未決囚の一団が、良心の囁きに傾きがちな不安な耳へ、ぶっつける群衆心理の叫び声であったが、北山の耳は、
「お前も逃げろ!」
 と、聴いたのだ。だから、その一団にまぎれ込んで駈け出しながら、北山は自分もまた囚人であるかのような錯覚に、青ざめていた。
 その夜、脱走した囚人は、あとで警察へ報告されたリストが四度も訂正されたくらい故、その時は誰も正確には判らなかったが、ざっと数えて百名ぐらいはあったろう。それが三方に分れて逃げたらしく、中之島公園へ逃げて来た連中はざっと三十名ばかり、差入れの着物や洋服などのいわゆる私服を持たぬ青い官服の囚人姿の者がその大半だったので、一眼見るなり拘置所からの脱走者だと判った。
 その官服の青さは、月明りに照らされていたので、一層なまなましい不気味さに凄んで、悔恨の心のように北山の心に突きささったのだ。
「おれはスリのほかに、人殺しをしようと思ったのだ!」
 もう少しであの小娘を殺すところだった――と、もはや北山にとっては、中之島公園はあの闇の娘を拾ったなつかしい場所ではなかった。
「逃げろ、逃げろ!」
 中之島から逃げるんだ――と、北山もいつか囚人と同じ声を出して走りながら、あ、そうだ、こいつを持っていてはまずい。北山は京吉から掏った財布を投げ捨てた。
 再び銃声が聴えた。守衛がまた威嚇的に発砲したのであろう。気の抜けた遠い音だったが、ひとり一団からぽつりとはなれて駈けていた五十四、五の男が、いきなり身を伏せた。
 銀造であった。田村のマダムの貴子のかつてのパトロン、チマ子が木崎に「お父っちゃんは監獄……」と語ったその父親の銀造だ。
 銀造がひとりおくれて駈けていたのは、実は逃げる意志を持っていなかったからだ。
 横になることも出来ぬくらい収容定員の何倍もぎっしり詰った部屋の狭さの不平や、贈賄をしなければ差入れを許さぬ守衛への反感や、食事の苦情……が積み重っていたところへ、その日は夕食がいつまで待っても与えられず、ガヤガヤ騒ぎ立てていた矢先、たまたま起った囚人同士の口論が、それを鎮圧しようとした守衛に向って飛び火して囚人と守衛の間に険悪な空気が高まって行くうちに、極度にふくれ上った昂奮はついに拘置所の檻を破り、なだれを打って飛び出したのだが、銀造はその仲間にひき込まれながら――逃げ出してもどうせつかまって、罪が重くなるばかりだと、何か諦めていた。
 だから、逃げ足は渋りがちだったが、銃声に身を伏せた拍子に、北山の捨てた財布が眼にはいった。銀造は素早くそれを拾うと、
「そうだ、これさえあれば逃げられる!」
 淀屋橋の方へ通り魔のように走って行きながら、娘のチマ子の顔が頭をかすめ、京都へ行こう、京都へ行ってチマ子に会おうという想いの息を、ハアーハアーと重く吸っていた。


    登場人物

      一

 中之島公園を抜けて、淀屋橋の北詰まで来ると、銀造は一緒に脱走して来た連中を見失ってしまった。銀造は梅田新道の方へ広々とした電車通りを走って行ったが、追われている背中には、その一本道は長すぎた。大江橋まで来ると、銀造はいきなり左へ折れた。そして、川沿いの柳の並木にかくれながら、渡辺橋の方へ走った。一人になると、さすがに追われている身は不安だった。
 もっとも、財布を拾うまでは不安はなかった。追われる気持よりもいっそつかまった方が気が楽だと、脱走の意志は耳かきですくうほどしかなく、逃げられれば逃げたいという願いよりさきに、諦めが立っていた。しかし、財布を拾ったという偶然は、数字のように明確に銀造の迷いを割り切って、チマ子のいる京都までの道のりは、もはや京都行きの省線が出る大阪駅までの十町でしかなかった。
「この金があれば、京都まで行ける!」
 と、チマ子への想いをぐっと抱き寄せると、もう追われる不安がガタガタ体をふるわせて、何度も柳の木に突き当り、よろめいた途端、巡査とすれ違った。
 しかし、巡査はじろりと見ただけで、通り過ぎた。拘置所の脱走さわぎは十分前の出来ごとであり、その巡査の耳にはまだはいっていなかったのだろう。大量脱走者を出した大阪拘置所が、警察へ報告したのは、一時間たってからであった。
 もっとも、青い囚人服を着ていたとすれば、その場は無事に通り過せなかっただろうが、その時銀造はチマ子が差入れてくれた洋服を着ていたのだ。面会に来て、父親の銀造が青い着物を着ているのを見るのが辛く、チマ子は工面して闇市で洋服を買い、守衛にたのんで差入れたのだった。
「チマ子のおかげでたすかった!」
 と、ほっとしながら、渡辺橋の方へ折れると、道はぱっと明るく、バラック建ての商店街の灯が銀造の足下を照らした。――草履ばきだった。
 チマ子は靴も差入れようとしたのだが、拘置所では靴をはくことは許されず、持って行った靴は守衛への賄賂になったのだ。「この草履はまずい!」銀造は、もう誰も追って来ないと判ると、息苦しい胸を撫ぜて歩きながら、呟いた。洋服に草履ばきは、昨日今日ざらにある敗戦の身なりで、何の不思議もないとはいうものの、烱眼に掛れば、囚人用の草履であることを見抜くかも知れない。
 銀造は桜橋まで来ると、曾根崎の方へ折れて闇市の中へまぎれ込み、ズックの靴を買った。財布の金はまだ百円近く残っていた。
 大阪駅まで来て、京都までの切符を買い、何くわぬ顔でプラットホームで並ぶと、はじめてほっとした。が、さすがに不安は残り、キョロキョロうしろをみていると、十番線のホームで大阪仕立ての東京行き急行列車の二等に乗ろうとしている三十過ぎの男の精悍な顔が眼にはいった。銀造はいきなりどきんとした。

      二

 見覚えがある――と思ったのと、
「あ、あの男だ!」
 と、想い出したのと、殆んど同時だった。
 木文字章三――というその男の名前は知らなかったが、しかし、その顔は田村で見たことがあったのだ。
「たしか土曜日の晩だった!」
 満州から引揚げて来た銀造が、昔の二号だった貴子と、その貴子にうませたチマ子のいる田村を頼って、板場(料理人)の下廻りでも風呂番でもいいから使ってくれと、かつては鉄成金だった五十男の男を下げて転がり込んでから、ちょうど四日目の土曜日の晩、銀造は貴子の所へ来ていた章三を見たのだった。ちらと一眼だけ、あとにも先にも一度だけ見た顔だったが、咄嗟の勘でその男が貴子の現在のパトロンであることが判り、その時以来、銀造にとっては生涯忘れられぬ顔となったのだ。というより、忘れたいくらいだった。どうせ貴子にパトロンがありそうなことは気づいてはいたが、顔を見れば、さすがに年甲斐もなくこの男かと嫉妬が起った――その証拠には、拘置所の夜明けにも、その男の顔が夢に現われたこともある。
 その顔が向い側のプラットホームから、汽車に乗ろうとしているのだ。銀造はどきんとして、苦痛に青ざめた顔をそむけた途端に、
「……十番線の列車は二十一時発東京行き急行であります……」
 という拡声機の声をきいた。銀造はプラットホームの電気時計を見上げた。
「二十時十分か。発車までにまだ五十分ある」
 銀造はそう呟いたが、肚の中はべつのことを考えていた。――あの男は東京へ行くのだな、すると今夜は京都へ行かないなと、そんなことを考えていたのだ。
 京都――田村――貴子!
「――今夜は貴子はひとりだ!」
 豊満な貴子の肉体、その体温、体臭の魅力がよみがえり、もはや銀造にとって、京都へ行く喜びは娘のチマ子に会うことよりも、貴子の顔が見られることであった。
 銀造はもう一度振り向いた。章三の顔は二等車の窓にあった。
 彼の傲岸な顔は、やがて来た京都行きの省線に乗った銀造の瞼にいつまでも残り、銀造はおれも昔はあんな顔だったこともあると、東京で囲っていた貴子に会いに、大阪から寝台車に乗っていた時のことを想い出していた。何もかも昔の夢だ。寝台車で結んだ夢ももう夢になってしまった。日本も変ったが、銀造もすっかり変ってしまった。満州から引揚げてからは、からきし意気地のない男になってしまったのだ。
 頼る所はなく一部屋貸してくれと、田村へ転がり込むのはまだいいとして、章三を見た翌日、夜更けて貴子の寝室へ忍び込んで、こっぴどくはねつけられ、田村をおん出てしまう羽目になったのは、何としてもだらしがなさすぎた。
 しかし、電車が京都へ着くと、銀造は駅前の人力車を拾って、田村のある木屋町へ走らせながら、貴子恋しさにしびれて、その時のだらしなさを忘れるくらい、だらしがなくなっていた。

      三

 銀造を乗せた人力車夫は、見掛けは上品な顔だちだったが、車賃だけでは食って行けぬのか、怪しげな周旋もするらしく、旦那は木屋町へ行ってヤトナを買うのか、ヤトナは芸者よりは安いようで結局高いものにつく、それよりも、もっと安直で面白い所を紹介しようか――と、しきりにすすめるのだった。
「お銚子が一本ついて、タイムどしたら、百円でお釣りが来るのどっさかい、安おっしゃろ。それに、女は満州から引揚げて来た素人の女ばっかしで……」
 場所もM署の裏手だから、燈台下暗しで、かえって安全だという車夫の言葉を、銀造は辛い想いで聴いていた。
 引揚げとか、警察とかいう言葉は、銀造にとっては余りに身近な言葉だった。貴子に挑んで拒まれ、田村を飛び出してからの銀造の生活はうらぶれの底に堕ちていたが、しかし、さすがに大阪商人らしい気概は残っていたのか、おれも昔はひとかどの鉄屋だった。今に見やがれ、あの女を見返してやると、大阪の闇市の片隅で煙草を売り、握り飯を売り、砂糖を売り、酒を売り、その酒がメチルだったのだ。
 メチルとは知らずに売ったが、それでも人が死ねばやはり過失致死罪なのだろう、やがて投獄される憂目に会うたが、今はそれに脱走という罪が二重に重なって、おまけに拾った財布の金を無断で使っている。
 五条を過ぎると、急に雨だった。銀造の体が急に重くなったように、俥の歩みが遅くなった。さっと風が来て、横なぐりの雨を幌の隙間から吹きこんだ。
 幌につけたセルロイドの窓に雨滴が伝わり、四条通りの灯りをチラチラと流すと、やがて車は四条小橋から木屋町へ折れた――その途端、銀造ははげしい欲情を感じた。
 引揚者のわびしさも、脱走者の焦燥も、貴子への恨みも恥も外聞も忘れて、ただ貴子の白い肉体へのもだえに揺れているうちに、やがて俥は田村の玄関についた。
 さすがに敷居は高かった。女中に会わせる顔もなかった。が、思い切って勝手口からはいり、女中にきけば、
「ママはお留守どす。いま、東京へ立たはりました」
「チマ子は……?」
「こないだ(この間)からお居しまへんのどっせ」
 家出したらしいと、軽口の女中がペラペラと喋るのをききながら、魂が抜けたように料理場でぺたりとへたり込んでいると、貴子がいない失望よりも、家出したチマ子への心配が銀造をぽうっとさせ、いきなり十も老けてしまった。しかし、その時、電話が掛ってきて、
「M署……?」
 とききかえしている電話口の女中の声を聴いた途端、はや銀造の眼はピカリと光り、青ざめた顔を緊張が走った。
 丁度その頃、京都駅では、二十一時に大阪を出た東京行き急行列車がホームにはいり、昼間しめし合わせた乗竹侯爵と落ち合った貴子が、東京の女友達と一緒に、二等車へ乗ろうとしていた。

      四

 大阪からその汽車に乗っていた章三は、貴子たちが二等車にはいって来たのを見て、ニヤリと凄い微笑を泛べた。
「やっぱりおれの思った通りや」
 貴子は今日の昼間、夜の九時頃に立つといっていたが、その時間に出る東京行きの急行はこの二十一時大阪発の一本しかないと、章三は田村から大阪へ帰った足で、すぐ切符の手配をして、その汽車に乗り込んだのだった。
 もっとも、貴子がただ女友達と二人きりで乗ったとすれば、章三のその計画も無意味なものになってしまうところだったが、案の定貴子は上品な顔立ちの青年と二人空いた座席へ並んで腰を掛けた。その青年の顔を一目見るなり、章三は、
「あいつやな、乗竹侯爵は……」
 と、疑いもなくピンと来て、自分の勘の適中に満足した。しかし、その満足は、非常に愉快なものだ――といっては、言い過ぎになる。
 なぜなら、げんに章三の眼の前にある光景は、自分の妾がよその男と旅行しようとしている――いわば章三のような自尊心の強い男にとっては、随分と男の下る事実なのだ。しかも、その男、乗竹春隆は昨夜田村へ、陽子を連れて来ているのだ。
 にやりと微笑したが、さすがに章三の顔がこわばった青さに青ざめていたのも当然だ。
「今に見ろ!」
 章三は今朝田村で見た新聞の売家広告を想い出した。
「売邸、東京近郊、某侯爵邸」とあったその広告を見て、大阪へ帰ると、章三は早速東京へ電話して、それが乗竹侯爵邸であることを調べ上げたのだ。そして、その偶然にスリルを感じていた。
 陽子――春隆――田村――貴子――売邸――東京行き……。
 偶然は偶然を呼んで、章三を取り巻いている。更にいかなる偶然が降って湧くか――と、章三の眼は人生のサイコロの数を見つめる人間のように血走っていた。
 いわば、偶然の糸を、章三は自分の人生のコマに巻いたのだ。そして、ぶっぱなせば、コマは廻って行く。それが章三にとっては、生き甲斐であり、章三の人生は絶えずコマのように回転している必要があるのだ。
 今に見ろ――とは、だから、ただ陽子の居所をきくために、春隆をとっちめるという最初の目的から飛躍して、
「おれがこの汽車に乗ったことは、ただで済むまい」
 春隆をもただで済まさないが、おれ自身もただでは済むまい。おれはもうサイコロを投げた――という、偶然への挑戦であった。
 偶然といえば、貴子も春隆も、その車室の隅に章三がいることに気がつかなかった。章三の方からははっきり見えるが、貴子や春隆の方からは見えにくいという位置に、それぞれ坐っていた。
 そして、貴子と春隆がそんな偶然を少しも感じずに、ピタリとつけたお互いの肉体からただ肉体だけを感じているうちに、汽車は山科のトンネルに入った。

      五

「窓を少しあけましょうか」
 トンネルを過ぎると、春隆は腰を浮かして窓の金具に手を掛けた。春隆の上衣の裾が窓側の貴子の顔に触れた。
「でも雨じゃないですか……?」
 貴子は口にあてていたハンカチをはなしながら、分別くさい調子でゆっくりと言った。顔も体も声も若かったが、さすがにそんな言い方には、四十一歳という年齢がふと現れるのだった。
「あ。そうね」
 と、春隆は例のいんぎんな調子で、腰を下したが、貴子のそんな言い方が何だか面白くなかった。雨が降り込むことをうっかり忘れていた間抜けさ加減を嗤われた――と思い込むほど、春隆も貴族の没落を感じている昨今妙にひがみ易くなっていた。
 一つには、煤が眼にはいった不快さも手伝っていた。煤が眼にはいるのは不可抗力とはいうものの、春隆はそれをくしゃみのように恥かしいことだと感ずる男だったのだ。煤というものは下賤の人間だけにはいるものだと思っているのだろう。
 むっとしながら眼をこする代りに、だから春隆はその手で貴子の手を握ることを思いついた。
 眼の中のコロコロとした痛みを我慢しながら、一方で女の手の触感をたのしむなんて、思えばわれながら噴き出したくなるようなものだったが、もともと気のすすまぬ旅行だ、それぐらいはしてもいいだろうと、春隆は思ったのである。
 京都の悪友から遊びに来いと誘われて、東京を立ってから、もう一月以上にもなる春隆のもとへ、すぐ帰れという母親の手紙が来たのは、もう三日も前のことだった。春隆の父は五年前に、築地の妾宅で睡眠中に原因不明の死に方をし、兄は映画女優のあとを追うて満州へ行ったきり、長春かどこかで石鹸を売りながら生きのびているという風の便りが、一度あったほかは消息が判らず、現在は母親と妹の信子と三人家族だったが、母親の手紙によれば、妹の信子の品行が心配だから、兄のお前から意見をしてやってくれ云々とあり、春隆も母親の手紙を黙殺することは出来なかった。といって、京都には未練があった。
 陽子を誘惑し損ったまま東京へ帰るのは、何としても後味が悪い。どうせ東京へ帰らねばならぬとすれば、貴子から誘われたのはもっけの道連れだと、切符を手配する手間のはぶけるその汽車に乗って、
「途中熱海で降りるとしても、宿賃は向う持ちだ」
 と、存外俗っぽい、しかし、それが持ちまえのチャッカリしたやに下り方をしていたとはいうものの、さすがに、
「あっちが駄目になったから、こっちを……」
 という、陽子から貴子に乗りかえる現金さには、軽い悔恨があった。
 しかし、またそれだけに、くしゃみよりも簡単に手が握れる。いきなり膝の上の手を握ると、貴子は表情も変えずに握りかえした。
 それを、四つの眼が見ていた。

      六

 貴子の女友達の露子と章三の二人が、それを見ていたのだ。
「ははアん。やってるな」
 露子は斜向いの座席から、握り合わされた貴子と春隆の手を、安物の彫刻を見るように、眺めていた。
 血が通っていないようだった。恋人同士はこんな風には握り合わない。こんな風に何の感激も何の感慨もない握り方はしない。
 だから、見ている露子の方でも、何の感慨もなかった。美しいとも、醜いとも、感じなかった。露子はただその握り方に、自分が銀座でやろうとしているキャバレエへ貴子が出してくれる資本の額を計算していた。
 どうやら、貴子はキャバレエの話には大して乗っていないらしい。が、せっかく京都まで来て、その日のうちに東京行きの汽車に乗せてしまうという早業に成功した限り、キャバレエの話にも乗せずに置くものかと、露子は意気込んでいた。そのためには、この旅行で貴子がさんざんたのしんでくれることが好ましい。
「さんざん見せつけたのじゃないの。おごる代りに資本を出しなさいよ。ね。気を利かせっぱなしじゃ、合わないわよ」
 という科白を用意しながら、露子はわざわざ貴子と春隆を二人並ばせて、自分は別の座席へ遠慮したのである。
 京都駅で春隆に紹介された時も、
「侯爵を燕にするなんて今時悪趣味じゃないの」
 と、皮肉りたいところだったが、じっと我慢して、
「――ちょっとハンサムね」
 という言葉で、貴子の耳をくすぐったりした――それも商売人が資本主との会談に芸者を当てがうというあの心理からだったのだ。
 しかし、貴子の何の情熱もなさそうな表情を見ていると、露子は、五十万円も出させるのは無理かなと失望気味でもあった。
 しかし、失望していたのは、貴子の方だ。自分の若さを金に換算し、男というものをパトロンになる資格の有無で見るならわしが身にしみ込んでいる貴子にも、もし夢があるとすれば、貴族への憧れだった。どんなチャッカリした女にも、一つだけ抜けたところがある。貴子の場合は、貧しい家に生れて若くから体を濡らして来た生活の中でも捨てなかった「貴子」という自分の名前への、浅はかな誇りがそれだった。
「この人とは恋が出来そうだ」
 そんな予感がふっと一筋の藁のように、頭に浮んだのだが、しかし、簡単に春隆から手を握られてみると、あっけなく夢はこわれ、もう貴子はリアリズムの女であった。米原を過ぎると、貴子は、
「ちょっとこっちを向いてごらん……?」
 春隆の瞼を眼医者のようにくるりとむくと、いきなり顔を寄せて、舌の先でペロッと一嘗めした。煤が取れた。
「――どう……?」
 ニイッと笑った貴子の顔は、恋をしない女の、恋の技巧がしたたるようだった。
 遠くから見ていた章三は、いきなり起ち上った。

      七

 もう我慢が出来ぬ――と、章三は貴子の座席の方へ行こうとした。貴子の横面を殴ろうとしたのだ。
 自分の女がほかの男と手を握り合っているばかりか、男の眼にはいった煤を、舌の先で嘗めて取っているのだ。遠くから見ていると、そのポーズがもっと別のことを錯覚させる。
 章三でなくても、誰でも殴りたいと思うのは、当然だろう。
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