土曜夫人
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著者名:織田作之助 

「兄ちゃん、あたいもう兄ちゃんが出て来えへんと思って、心配してたンえ」
 と言いながら、いそいそとぶら下って来た小さな手の触感には、敏感だった。
 十二歳でありながら、京吉がこれまで触れて来たどの女の手よりも、ザラザラと荒れていたのだ。それがこの青年のわずかに残っている無垢な心を温めた。
「お前、東京生れだろう……?」
「うん。あたいコビキ町で生れたのよ。あたいのお家煙草屋。あたいの学校、六代目と同じよ。銀座へ歩いて行けたわ」
「田舎へ行くより、東京の方がいいだろう。やっぱし東京へ行こう」
「うん。こんな汚い恰好で銀座歩くのンいやだけど、兄ちゃんと一緒だったら、いいわ」
 高台寺の道を抜けて、円山の音楽堂の横を交番の近くまで来た時、京吉は石段下の方から登って来た若い女の姿を見て、おやっと立ち停った。

      八

 占領軍の家族であろう。日射しをよけるための真赤なネッカチーフで、頭を包んだ二人の女が、その女の前でジープを停めて、話し掛けていた。
 写真を撮らせてくれと頼んでいるらしい。女は困って、半泣きの顔で、ノーノーと手を振っている。
 コバルト色の無地のワンピースが清楚に似合う垢ぬけた容姿は、いかにも占領軍の家族が撮りたくなるくらい、美しかったが、しかし足には切れた草履をはいていた。
 図書館や病院で貸してくれるあの冷めし草履だ。その草履のために、写されることをいやがっているのだろうか。
 しかし、京吉は、その女がなぜそんな草履をはいているのだろうと、考える余裕もなかった。
 いや、眼にもはいらなかった。
「あ、陽子だ!」
 と思いがけぬ偶然に足をすくわれていたが、しかし、偶然といえば、その時、陽子が写真をうつされることに気を取られていなかったとしたら、陽子も京吉に気がついていたかも知れない。しかし、偶然は、陽子の視線を京吉から外してしまった。
 そして、更に偶然といえば――偶然というものは続きだすと、切りがないものだから――京吉が陽子の傍へ行こうとした途端、
「おい、君!」
 と、交番所の巡査に呼び停められた。
「何ですかね……?」
「一寸来たまえ! お前も来い!」
 巡査は京吉と靴磨きの娘を、交番所の中へ連れてはいった。
 なぜ呼びとめられたのか、京吉はわけが判らず、むっとして、
「何か用ですか」
「名前は……?」
「矢木沢京吉!」
「年は……?」
「二十三歳」
「職業は……?」
「ルンペン」
「何をして食べとる……?」
「居候」
「その娘は、お前の何だ……?」
「…………」
「なぜ答えぬ」
「お前といわれては、答えられん!」
「ふーむ。その娘は君の何だ……?」
「妹です」
「職業は……?」
「見れば判るでしょう……? 靴磨きです」
 京吉はそう言いながら、陽子の方を見た。陽子は結局写されたらしい。そして、二言、三言、占領軍の家族と言葉をかわしたかと思うと、彼女たちのジープに乗った。
「あ、いけねえ!」
 今のうちに掴まえなくっちゃと、思わずかけ出そうとしたが、
「どこへ行くんだ……?」
 巡査の手はいきなり京吉の腕を掴んだ。
 やがて、陽子を乗せたジープは、交番所の横を軽快な響きを立てて走って行った。


    鳩

      一

 留置場では、釈放されて出て行く者を「鳩」という。
 陽子はチマ子が予言した通り、一晩留置されただけで、鳩になった。
 ブラックガールの嫌疑で検挙されたのだから、ひとにも言えぬ恥かしい取調べを受けたのだが、処女と判ればもう疑いの余地はなかったのだ。
 恥かしい想いをしたことで、陽子は泣けもしない気持だった。それに、なお困ったことには、靴がなかった。木文字章三に見つけられた以上、むろん田村へは取りに行けなかった。アパートへ電話して警察まで靴を持って来て貰うことも一応考えたが、事情を説明するのがいやだった。ありていに事情を打ち明ければ、かえってあらぬ疑いを掛けられるようなものだから、十番館の朋輩にも頼めない。
 こんな時、頼りになる茉莉は死んでしまっている。結局、頼めるのは京吉ひとりだった。京吉だったら、田村へ行ったことは知っているし、気軽にひきうけてくれそうだし、それに、靴を頼むことでかえって昨夜の清潔さの証明にもなるわけだと、警察の電話を借りてセントルイスへ電話してみた。
 いなかった。もう一度掛けるから、もし京吉が来たら待って貰っていてくれと頼んで置いて、十分ばかしして、また掛けてみると、
「京ちゃん、たった今帰りましてよ。ことづけ……? しましたわ。でも、電話が掛って来たら、もう京都にいないとそう言って置いてくれって、女の子と出て行きましたわ。おほほ……」
 けたたましい笑い声は、セントルイスのマダムの夏子の癖であったが、陽子はそんなことは知らずあざ笑われたように思った。
 電話が掛かることを承知していながら、わざと「女の子」と出てしまうなんて、ばかにされたような気がした。
「いいわ」
 もう京ちゃんなんかと二度と口をきくものか、靴なんかどうでもいい、はだしで歩く――と、陽子は真青になって警察を飛び出しかけたが、しかし、まさかはだしで歩けない。警察の小使が草履を貸してくれたので、それをはいて、出ると、その足ですぐ木崎を訪ねることにした。
 茉莉のアパートへも寄らなかったのは、チマ子に頼まれた用事を少しでも早く果さねばと思ったからであった。もっとも、木崎には陽子自身も会わねばならぬ用事があった。
 ところが円山公園まで来ると、占領軍の家族から写真を撮らせてくれと言われた。
「あたしは昨夜から写真ばっかり撮られている」
 悲しい偶然だと呟きながら、改めて草履ばきのみじめさに赧くなって、
「ノーノー。アイム・ソリイー。エキュスキューズ・ミイ」
 ブロークンの英語を使って断ろうとしたが、結局写された。が、その代り、彼等はお礼の意味で、ジープで送ってやろうと言ってくれた。
 陽子は草履ばきで歩くみじめさからやっと救われた想いで、ジープに乗った。そして、そんな一寸した騒ぎのおかげで、到頭交番所の中にいる京吉には気がつかなかった。
 しかし、気がついても声を掛けたかどうか。――ジープはやがて清閑荘の前に着いた。

      二

 自動車を降りようとした時、陽子は、
「あなた、ダンス出来る……?」
 ときかれて、うなずくと、
「じゃ、こんどの日曜日、パーティに来ません……?」
 自動車のマダムたちは、陽子が気に入ったらしかった。ブロークンの英語が喋れるという点も彼女らには珍らしかったのであろう。
「ありがとう。もし行けましたら……」
 辞退のつもりで陽子は言ったのだ、が彼女らには、承諾の意味に聴えたらしく、ここへアドレスを書けと、手帳を出された。
「ノー・サンキュウ!」
 と、はっきり断るには、陽子は余りに日本人であった。とにかく、アパートの所を書いて渡すと、
「こんどの日曜日、夕方の五時に、このアドレスの所へ、自動車で迎えに行きます。よくって……?」
「ありがとう」
 わざわざ送っていただいて――と、陽子が車を降りながら言ったその言葉は、パーティーへ招待されたことへの感謝の「ありがとう」にもとれて、それで約束出来たのも同然だった。
 そよ風の吹く松林の道を、自動車は風のように下って行った。
 赤いネッカチーフを巻いた頭がふり向いて、秋の日射しの中に振られている血色のよい手が見えなくなるまで、陽子も手を振っていたが、おずおずとした振り方しか陽子は出来なかった。ちょうど陽子の立っている所は、清閑荘の建物に太陽の光線がさえぎられて、日かげになっていたが、陽子の心もふと翳っていた。
 陽子は十番館へはいる時、姓はかくしたが、名前は本名をそのまま使ったくらい、自分の持っているものの中で、陽子という名が一番好きだった。明るく陽気に、太陽の光の下で生きるという人間本然の憧れを、自分の名は象徴しているのだと、思っていた。が、今、自動車に乗っているアメリカの女性たちの屈託のない明るさを見ると、明るいとか陽気にとか、太陽の光の下で――などという形容詞が、うかつに使えぬような気がして、ふと思えば、自分もまた、この陰欝な清閑荘の建物にふさわしい人間かも知れないと、気が滅入ってしまった。
 誇張していえば、一町先が晴れても、そこだけが曇りその上を吹きわたる秋風の色がふと黒ずんで見えるような、そんな清閑荘だった。
 建物も陰欝だったが、しかし、やがておシンに案内されて、木崎の部屋へはいって行った時、陽子は木崎の表情の陰欝さに驚いた。
 木崎はちょうどドアをあけて、出かけようとしているところだった。東京の雑誌社から、
「シャシンイソグ……」
 すぐ送らぬと間に合わぬという意味の催促の電報が来たので、断りの返事を打つため郵便局へ出かけようとしていたのだ。
「あら。お出掛け……?」
 自動車で送って貰わなかったら、会い損ったわけだと、陽子はほっとしながら言ったが、
「…………」
 木崎はだまって部屋の中へ戻りながら、ちらと陽子の足許を見た。その表情がぞっとするくらい陰欝だったのだ。

      三

 木崎の陰欝な表情については、
(なまなましい嫉妬が甦ったのだ)
 と、一行の説明があれば、もはや明瞭だろうが、しかし、表情というものは、心理のズボンに出来た生活の皺だ。一行の説明はズボンの皺を伸ばすアイロンの役目をするだろうが、言葉のアイロンに頼っても、目に立たぬ細かい皺は残っているはずだ。が、この細かい皺を説明するには千行の説明を以てしても不十分だ。まして、泛んでは消え、消えては泛ぶ心理の皺は、いや、意識の流れは、ズボンの皺のように定着していない。
 だから、一行を不足ともいえず、千行を過とするわけにもいかないが、しかし、人間のある瞬間の表情を、過不足なく描写する方法は、一体どこにあるのだろうか。
 ありきたりの言葉、ありきたりのスタイルを以てしても、過不足なく描写出来たと思い込んでしまうのは、自分の人間観察力に与える秩序の正しさを過信しているからだろうか、小説作法の約束というものへの妄信からだろうか。
 ――などという、こんな前書きは、作法には外れているから、小説作法の番人から下足札を貰って、懐疑の履物をぬぎ、つつましやかに小説の伝統の茶室にはいり、描写の座蒲団の上に端坐して、さて、作法通りに行けば――。
 木崎ははいって来た陽子の顔を見た途端、しびれるようななつかしさと同時に、何か、
「しまった!」
 という悔恨に狼狽したのだ。得体の知れぬ悔恨であった。
 陽子がなぜ自分をたずねて来たのか、まるで判らなかったが、カメラのレンズだけで覗いていた陽子が、今こうして一個の肉体となって現実に自分の前に現れて来た以上、もはや陽子は赤の他人ではなかった。
 はじめて、十番館のホールで陽子を見た時、
「似ている!」
 亡妻の八重子に似ていると、どきんとしたことは事実だが、しかし、仔細に観察すれば、他人の空似というほども似ていず、ただ少し感じが似ているというだけに過ぎないのだ。が、木崎は仔細に観察する余裕なぞなく、ホールの雰囲気の中で踊っている陽子の後姿をカメラの眼で追っているうちに、陽子の姿は嫉妬というレンズの額縁の中で捉えた亡妻の影像に変ってしまっていたのだ。
 だから、陽子が眼の前に現れたのは、木崎にとっては八重子の影像がレンズから脱け出して来たのも同然であり、もはや似ているというような生やさしいものではなかった。当然しびれるようななつかしさを感じたのだが、しかし、それは恋情というものだろうか。
 恋情とすれば、それはもう苦悩の辛さを約束したのも同様であり、心の自由を奪われてしまうことは覚悟しなければならない。だから、しまったと、悔恨を感じたのだ。
「到頭来たのか。やっぱし来たのか。何がこの女をおれの前へ連れて来たのか」
 という悔恨であった。それが木崎の表情を陰欝にしたのだ。この女とはきっと何かが起るだろうという予感には、いそいそとした喜びはなく、何か辛かったのだ。
 しかし、なぜ来たのだろう。木崎は陽子が口をひらくのを待った。

      四

「わたくしお願いがあって、上りましたの」
 十番館では「あたし」と言っていたが、陽子には、改まって言う時の「わたくし」の方が似合っていた。すくなくとも、とってつけたようには聴えず、ダンサーに似合わぬ育ちの良さ……と、木崎の耳には聴えた。
 それがふと、木崎には悲しかった。しかし、それは、上品な育ちのよい女が身をおとして行く淪落の世相へのなげきではなかった。やはり、ダンスというものについて木崎の抱いている偏見のせいであった。清楚な女とダンスというものを、結びつけて考えたくないという偏見だ。事情は個人的なものだった。
 木崎にとっては、ダンスとはつねに淫らなリズムに乗って動く夜のポーズであり、女の生理の醜さが社交のヴェールをかぶって発揮される公然の享楽であった。
 だから、結びつけて考えたくないのだが、げんに陽子が結びついている。八重子が結びついていたように……。なぜ、ダンスなどするのかと、それが悲しかったのだ。むりやり悲しんでいたのだ。そして、ますます重く沈んでいた。
「――お願い二つございますの。どちらも無理なお願いですの。きいていただけるでしょうか」
「とにかく伺いましょう」
 木崎はじっと陽子の眼を見た。陽子も木崎の眼を見た。眼と眼とが触れ合ったが、しかし、陽子の眼は何一つ語っていなかった。木崎の眼の熱っぽさにくらべて、陽子の眼は取りつく島がないくらい、冷やかであった。眼は触れても、心は通わず、若い女というものは若い男と二人いる場合たいてい無意識のうちに恋愛へのスリルを感じている――という俗説に反撥するような、冷やかな無関心に陽子は冴え切っていた。
 だから、言葉は事務的であった。
「実は、昨夜十番館でおうつしになったフィルムを、わたくしにいただきたいのです」
「なぜ……?」
「理由は申し上げたくございませんの。言えませんの。――理由を申し上げなくっちゃ、フィルムをいただけないでしょうか」
「いや、きいてもきかなくても同じ事です。お譲りすることは、どんな理由があっても、出来ません」
「なぜ……?」
「理由は言えません」
 陽子と同じ返事をしたのは、皮肉ではなかった。陽子は暫らくだまっていたが、やがて、
「なぜ、わたくしをおうつしになられましたの……?」
「その理由も、今は言えません」
「…………」
「それより、あなたはなぜダンスなどしているんです」
 木崎はいらいらした声になっていた。
「生活のためです」
 陽子もむっとしていた。
「ダンサーをしなければ食えないんですか」
 追っかぶせるように、木崎は言って、陽子をにらみつけた。

      五

 木崎ににらみつけられて、陽子の眉はピリッと動いた。自尊心が静脈の中をさっと走ったようであった。
「じゃ、おききしますが、ダンサーになってはいけないんですか」
「いけない!」
 木崎は思わず叫んでいた。
「なぜ、いけないんですの」
「…………」
 咄嗟に木崎は答えられなかった。持論だが、言葉にはならなかったのだ。なぜ、いけないのか、その理由はこれだと、昨夜うつしたホール風景の写真――陽子の後ろ姿の、ふと女体の醜さを描いた曲線を、見せるよりほかに、致し方のないものだった。
「あなたはダンサーという職業を軽蔑してるんでしょう……?」
「軽蔑……?」
 びっくりしたように、木崎はききかえした。
「ダンサーだって真面目な職業ですわ」
 陽子の口調は、新聞記者に語るダンス教師のように、ふと正面を切っていた。
「――ダンサーは労働者と変りはないんです。わたくし達は、三分間後ろ向きに歩いて、八十銭の賃金を貰う労働者です。わたくし達は、一晩のうちに、何里という道を歩くのです。人力車夫と同じ肉体労働者です。真冬でも、ぐっしょり汗をかきますわ」
 ああ、その汗……と、木崎は想い出した。背中のくぼみにタラタラと流れるその汗を、木崎は、女の生理のあわれな溜息のように見たのだった。
 その同じ汗を、亡妻の八重子は死ぬ前の日に流していたのだ。
 木崎は夏に八重子と結婚した。木崎の借りていたアパートの一部屋で過した初夜の蚊帳を、木崎は八重子と二人で吊った。暗くして、螢を蚊帳の中に飛ばした。螢のあえかな青い火は、汗かきの八重子のあらわな白い胸のふくらみの上に、すっと停って瞬いた。
 しかし、胸を病んでからの八重子は、もうどんなに暑い夜でも、きちんと寝巻を着て、ひとり蚊帳の中に寝た。汗をかく力もないくらい、衰弱していたのだ。
 そして、死ぬ前の晩、八重子はか細い声で木崎を蚊帳の中に呼び入れて、
「短い縁だったわね」
 ポロリと涙を落して、木崎の頭髪を撫でていたが、急にはげしく燃えた。
「ばか、死ぬぞ!」
「死んでもいい! 死んでもいい!」
 と、叫ぶ八重子の体は寝巻の上から触れても、火のように熱く、掌には汗がにじみ、八重子の最後のいのちを絞り出したような、哀しい触感だった。――木崎はこの時ほど、妻の中の女のあわれさを感じたことはなかったのだ。
「しかし、その汗は、男に絞り出された汗じゃないか! 男と手を握り合って流す汗じゃないか」
 木崎は苛々した声で言った。陽子はものも言わず、いきなりハンドバッグを掴んで、起ち上った。

      六

「おやッ!」
 怒ったのか――と見上げた木崎の顔へ、陽子は投げつけるように、
「げすッ!」
 白い眼をキッと向けたかと思うと、もう背中を向けていた。
 そして、さっと部屋を出て行こうとしたが、はいてみれば草履はみじめだった。陽子は半泣きになったが、しかし、ドアの音だけは、さすがに自尊心のように高かった。木崎はぽかんと坐っていた。
「何がげすだッ!」
 と、追って行こうともしなかったのは「げす」と言われたことに、むしろ喜びを感じていたからだ。
 勿論、木崎は自分をげすだとは思っていなかった。しかし、女というのを官能の角度からでしか見られない自分のデカダンスを、もはや主張する気にもなれないくらい、木崎はデカダンスであったが、しかし、げすと言われたことに甘んずる自虐の喜びではなかった。
 陽子が自分を「げす」と呼んで、ふんがいして出て行ったことを、デカダンスの沼に溺れている自分が掴むせめてもの藁にしたかったのだ。矛盾ではあったが、しかし、それが恋情というものであろう。なぜ陽子がそんな薄汚い草履をはいて来たのか、木崎には判らなかったが、しかし、草履をはいた陽子の後姿は、いつまでも瞼にこびりつき、淡い失恋の甘さにも似た後味があった。
「これでいいのだ」
 ほっとした諦めであった。陽子を見た途端「しまったッ!」もうおれはこの女とはただでは済まない――という悔恨が、薄れて行く安心であった。
 木崎は煙草に火をつけた。そして、かつて八重子への嫉妬に苦しんでいた頃、「法華経」の中から見つけ出した――
「愛する者に相逢うなかれ」
 という文句をふと想い出していると、煙草は孤独のにおいがした。
 しかし、配給の「ひかり」はすぐ火が消えた。木崎はごろりと仰のけに転って、天井をながめた。
 天井には蜘蛛が巣をつくっていた。
「女たらしになってやろうか」
 何の連想か判らない。が、だしぬけに泛んだこの考えに、木崎はどきんとした。
 その時、いきなりドアがあいた。木崎ははっと起き上った。ドアをあけたのは陽子だった。
 陽子は真青な顔で突っ立っていた。肩がふるえていた。
 そして、そのふるえが、身体全体に移ったかと思った途端、陽子はいきなり木崎の前へぺたりと坐った。

      七

「木崎サン!」
 陽子ははじめて木崎の名を口にして、
「――あなたはなぜ、わたくしを侮辱……」
 しなければならないのか――という、あとの声はふるえて出なかった。
 そんなに昂奮している状態が、陽子はわれながら情なかった。
「げすッ!」
 と、いって一旦飛び出したのにおめおめと戻って来るなんて、自尊心が許さなかったが、しかし、やはり戻って来たのは、ただ、チマ子のことづけがあるためだけだろうか。
 何か得体の知れぬものが陽子を引き戻したのではなかろうか。しかし、それが何であるかは、陽子には判らない。
「侮辱なんか僕はした覚えはない」
 木崎はぽつりといった。
「――あなたは勘違いしているんだ」
「じゃ、どうしてあんなことをおっしゃるんです」
「…………」
「あなたは、なぜダンサーという職業を軽蔑されますの……?」
「軽蔑はしていない。しかし、もし軽蔑しているように聴えたとしたら、それは……」
 僕があなたを好いているためだ――といいかけた時、天井から蜘蛛がするすると陽子の頭の方へ降りて来た。
 木崎はいきなり手を伸ばして、蜘蛛を払おうとした。
 陽子はぎくっと身を引いた。
「蜘蛛です」
 木崎はひきつったように笑い、もう、陽子を好きだということは思い止った。
 女たらしになってやろうか――などという心にもない思いつきは、女を軽蔑する最も簡単な方法だったが、しかし、そんな思いつきの中にも、陽子だけは、たらしたくないという気持はあったのだ。
 そんな木崎の気持は、陽子にすぐ通じたのか、もう陽子の声も安心したように落ちついて、
「木崎さん、わたくしの願いをきいていただけます……?」
「ききましょう」
 木崎はもう素直な声だった。それがどんな願いであろうと、もう陽子にはその願いをききとどけてやることが、木崎のせめてもの愛情の表現であった。触れたいということのない愛情であった。
「実は……」
 と、陽子もチマ子のことづけを伝えて、
「――警察へそういって助けてやっていただけます……?」
 木崎はだまって、うなずいた。やがて陽子は起ち上った。
「おや、もう……」
 帰るんですかと、木崎の顔には瞬間さびしい翳が走った。
「いずれまた……」
 陽子は階段を降りて行きながら何かしらもう一度このアパートへやって来ることがありそうな気持に、ふっとゆすぶられていた。


    キャッキャッ団

      一

「間抜けたポリ的(巡査)もあったもんだ。おれを樋口だと思いやがるんだよ。円山公園感じ悪いよ。うっかり女の子連れて歩くと、ひでえ眼に会う」
 祇園花見小路のマージャン倶楽部「祇園荘」で、パイを並べながら、言っていた京吉もやがて鉛のように黙り込んでしまった。
 相手はグッドモーニングの銀ちゃん、投げキッスの泰助、原子爆弾の五六ちゃん――この三人は、マージャン倶楽部専門の不良団で、キャッキャッ団と称し、いつも三人一組で市中のマージャン倶楽部でとぐろを巻いており、いいカモが来れば、三人しめし合わせて、賭金を巻き上げるのだった。
 京吉はキャッキャッ団の手を知っていた。しかも、キャッキャッ団を相手に一勝負しようという気になったのは、マージャンの腕への過信であろうか。それとも、インチキに挑戦して行く破れかぶれの賭のスリルだろうか。
 京吉はたちまち旗色が悪くなって行き、イーチャンが済む頃には、もう四千もすっていた。
「京ちゃん、やけに大人しいね。ウンとかスンとか、音を上げたらどうだ」
 グッドモーニングの銀ちゃんがにやにやしながら言った。
「バクチと色事は黙ってしなきゃア、意味ないよ」
 京吉はそう応酬していたが、しかし顔色は蒼白になっていた。
「――バクチは負けるほど、面白いんだ」
 半ば自分に言いきかせながら、京吉はガメっていたが、テンパイになった途端に、いつも上りパイを押えられていた。
 北北(ペーペー)の風が廻って来た時、京吉に北が二枚あった。紅中(ホンチュン)が二枚。うまく行けば、スー(四)ファンの、満貫(マンガン)に近い手で上られる。
「しめたッ!」
 と、叫びながら、京吉は投げキッスの泰助が捨てた北のパイをポンして、泰助に向って、
「チュッ!」
 と、キッスを投げた。
 その時倶楽部の会計で金を払っている若い男の革の財布が、京吉の眼にはいった。
 その財布に見覚えがある!
「あッ!」
 おれの財布だと、京吉が起ち上ろうとした途端、グッドモーニングの銀ちゃんが紅中(ホンチュン)を捨てた。
「ポン!」
 京吉は威勢よく声を掛けて、
「――これは貰わずに置くものか」
 パイを拾いながら、もう財布どころでなかったが、急に隅の方のソファに坐っていた靴磨きの娘を呼んで、何ごとか囁いた。

      二

「オー・ケー」
 娘は弾んだ声でうなずくと、いそいそとその男のうしろから祇園荘を出て行った。
「おや、邦子さん、消えちゃったね」
 グッドモーニングの銀ちゃんが言った。
「いえ、なに、ちょっと、そこまで煙草を買いに……。え、へ、へ……」
「御機嫌だね」
「絶対ですワ」
 北北(ペーペー)と紅中(ホンチュン)をポンして、四(スー)のファンのテンパイになった京吉は、もう掏摸どころではなかったのだ。
 何も娘にいいつけて、尾行させたりしなくても、一言「掏摸だ!」と騒ぎ立てれば、もうそれでよかったのだが、しかし、せっかくの満貫(マンガン)直前の気分を、そんなことでこわしたくなかったのだ。親の死目に会えぬマージャンの三昧境であった。
「五万」か「八万」のパイで上りだった。しかし、キャッキャッ団の三人はさすがに「万」パイは警戒して、自分たちの手をくずしてまで「万」パイを押えていた。だから、京吉はツモって上るよりほかに仕方がなかった。
「よしッ、ツモってみせる!」
 京吉の眼はギラギラと輝いていた。ダンスを踊らせても、玉を突かせても、マージャンを打たせても、何をやらせても、京吉は天才的な巧さを発揮したが、とくにマージャンの場合、京吉の巧さとは、いざという時には、無理なパイでもツモってみせるという闘志と勝負運の強さだった。
 そして、そんな瞬間だけ、生き甲斐を感ずるのだった。
 二十三歳という若さでありながら、何ごとにも熱中することが出来ず、倦怠した日々を送ってる京吉にとっては、日々の行動は単なる気まぐれでしかなく、たとえば、靴磨きの娘を連れての放浪や東京行きの思いつきも、マージャンで旅費を稼ごうという思いつきも、その相手にわざわざキャッキャッ団を選ぶという思いつきも、みんな、どうでもいい、気まぐれに過ぎなかったのだが、一たんパイのスリルの中にはいってしまうと、もう、それだけが京吉の青春であり、何ごとも忘れて熱中出来たのだ。
 東京行きの旅費が稼げるかどうかというようなことはもう問題ではなかった。何点すってしまうか、あとのイーチャンで取り戻せるかどうか、もし負ければ、無一文の自分には賭金が払えないが、どうすればいいだろうか――など、そんなことは、念頭にはなかった。
「五万か八万をツモってみせる!」
 これだけしか考えていなかった。
「流しちゃえよ。キャッキャッとね」
 と、投げキッスの泰助が言った。
「いや、おれツモるよ。ツモれや紫、食いつきゃ紅よ。色できたえたこのキャッキャッだ」
 京吉はそうふざけながら、しかし、表情だけはさすがに固く、パイを取って来ると、くそッと力を入れてその表を撫ぜた。

      三

 京吉はパイをツモる時に、気合を掛けるようなことはめったにしなかった。が、ここぞという一枚にだけは「くそッ!」と、声に出した。そして、そんな時は、もうどんなパイも思いのままのパイに変えてみせるという魔術使いのようなインスピレーションに憑かれており、狙いはめったに外れなかった。自信がなければ、気合は掛けなかったのだ。追い込んで、抜く自信がある時だけ、ゴール直前で使う名騎手の鞭のような気合であった。
「くそッ! 五万!」しかし、五万でも八万でもなかった。
「なんだ、紅中(ホンチュン)か!」紅中ならカンになっており、リンシャンカイホウ(同じパイが四枚の時、もう一度ツモってそれで上る上り方)のチャンスがある。
 一同ははっと固唾を呑んだ。グッドモーニングの銀ちゃんは、煙草の火のついた方を口の中に入れて、火を消してしまった。弁士上りのグッドモーニングの銀ちゃんは、ひとの二倍は唇が分厚かった。
 京吉はもう黙って、手の汗を拭くと、すっと手を伸ばして、リンシャンパイを掴んで、ギリギリと掻くようにパイの表を撫ぜた。見なくとも、触感だけで判る。五万だった。京吉はがっかりしたように、パイを倒した。
「おれ知らねえよ。満貫だよ。五八(ウーパー)のトイトイだ。ウーファンだ。満貫だろう。意味ないよ。キャッキャッだ。怒るなよ。おれ辛いよ。感じ悪いだろう。おれのせいじゃないよ。怒るなよ」
 とりとめもないことを、ひとりペラペラ喋っていると、ふと孤独の想いがあった。
「ひでえキャッキャッだよ。おれも随分キャッキャッは見て来たが、おたくのようなキャッキャッははじめてだ。こうなりゃ、おれもやけだ。五六ちゃん、おれたちもキャッキャッで行こうよ」
 グッドモーニングの銀ちゃんがガラガラとパイをかきまぜながら言うと、祇園荘の女が、
「キャッキャッって、一体何のことです……? はい、満貫の景品!」
 卓子へ寄って来て、景品の煙草を置くと、何気なく京吉の肩へ手を載せた。
「揉んでくれ。おれも年取ったよ」
 京吉はふと女の顔を覗きこんで、ほう、ちょっといけるな――。いきなり、
「――今夜一緒に寝ようか。キャッキャッとは即ち寝ることだよ」
「知りまへん」
 女は赤くなって逃げて行った。
「いやか。いやで幸いだ。義理何とかは三年寿命が縮むと来てやがらア」
 パイを並べながら、もう軽佻浮薄な口を利いている、このとりとめなさは一体何であろう。一度満貫のスリルを味わってしまえば、もう交尾を終った昆虫のように、緊張は去り、ヒロポンの切れ目にも似た薄汚い粉だらけのような黄色い倦怠が来ていたのだろうか。
「ところがまた、そういうのに限って、よく孕みやがるんでね。ひでえ目に会うたよ。いやいや口説いたんだよ」
「いやいやねえ……?」
「はい。いやいや口説きました。孕みました。キャッキャッですワ。人妻ですワ。亭主にアコーディオン弾きを持つぐらいの女だから、アコーディオンみたいにすぐ腹のところがふくれやがる」
 銀ちゃんがそう言った途端京吉はおやっとパイから手を離した。

      四

「だけど、銀ちゃん、それ、本当にあんたの子なの……? 坂……」
 野の子じゃないか……と、京吉はうっかり坂野の名を口にしかけたが、あわてて、いえさ、亭主の子かも知れないぜ――と、言い直した。
「余計なお世話だい。女はおれの子だと言ってるんだ。まさか、亭主の子だとは突っ放せまい。おれもグッドモーニングの銀ちゃんだ」
 ひょんな所で、グッドモーニングの銀ちゃんを利かせたが、もともと銀ちゃんは京極の盛り場では、本名の元橋で知られた相当な与太者であった。しかし、銀ちゃんは今では元橋という名を捨てて掛っている。与太者としての顔を、敗戦後のどさくさまぎれの世相の中で利かすことをむしろ軽蔑し、わざとグッドモーニングの銀ちゃんなどという安っぽい綽名を作って、自嘲しているのだった。
 銀ちゃんにいわせると、与太者というものは、結局バクチ打ちで、女たらしで、宵越しの金を持たぬ、うらぶれた人種だというのである。ところが、銀ちゃんの仲間の多くは、闇市のボスになり、キャバレーと特殊関係を作り、またたく間に産をなして、もはや宵を越さずに使おうと思えば四十万円、百万円の別荘を買うよりほかに方法がない。げんに買った連中がいる。
 敗戦当時、彼らはよれよれの国民服に下駄ばきだった。しかし、半月ばかりすると、彼等は靴をはいていた。五日たつと、ジャンパーを着ていた。三日たつと、りゅうとした背広を着て、革の鞄をさげていた。間もなく髭をはやし、目もさめるような美人を連れてホールで踊っていた。そして、ついに別荘を買ったのである。ところが銀ちゃんは、
「与太者が企業家になって、別荘を買うとは何たるキャッキャッの世の中だ。別荘から出て来たと思ったら、もう別荘を買ってやがる」
 と、言いながら、一日一日影うすく落ちぶれて行って、子分も投げキッスの泰助と原子爆弾の五六ちゃんの二人っきり、わけのわからぬキャッキャッ団を作って、
「――与太者はバクチで稼げばいいんだ」
 マージャンクラブに出没していたが、大したカモも掛らず、宵を越す金も危なかった。が、それで満足していた。ボスとなった仲間への、ささやかな抗議であった。だから、酒を飲んでも、安いアルプ・ウイスキーしか飲まなかった。ところが、そのアルプ・ウイスキーがいけなかったのだ。
「アルプのおかげで、おれもひとの女房に手を出すようなへまをしたンだ」
 と、銀ちゃんは、昨夜から自分のアパートへ来ている女のことを、ちらと想い出した。亭主の所から逃げて来たのだ。
「女という奴は……」
 パイを揃えると、銀ちゃんはまずパイパン(白板)を捨てて、
「――済ました顔で、新聞雑誌読んでるが、バイキンみてえに食っついたら離れたがらねえ。パイパンみてえに捨てちゃえよ」
「じゃ、おれ拾うよ。パイパンおれの趣味だよ」
「ついでに、女も拾ってくれよ」
 この時、電話のベルが鳴った。

      五

 ぎおん荘でございます――と、さっきの女が電話口に出た。
「はい。おいやすどっせ。どちらはんどすか。――えッ、セント……? あ、セントズイス、セントズイスどんな」
「舌を噛んでけつかる」
 と、グッドモーニングの銀ちゃんは笑いかけたが、無理に笑っているような感じであった。そして、
「――セントルイスならおれだ」
 と、パイを伏せて腰をうかせかけたが、急にそわそわして、
「――いや、留守だといってくれ」
 と、いつもの銀ちゃんに似合わぬ落ち着きのなさは、何としたことであろう。しかし、
「京ちゃん、あんたに……」
 掛って来たのであった。銀ちゃんはほっとしたように、尻を落ちつけた。
「おれに……?」
 と、京吉は長い睫毛を、音のするようにぱちりと上げて、
「――今日はおれいやに電話に縁のある日と来てやがらア」
 パイを伏せて、わざと片手をズボンのポケットに入れながら、立って行った。
「京ちゃん……? あたし、判る……? おほほ……」
 笑い声で、セントルイスの夏子だと判った。
「何でえ……? 電話ばっかし掛けやがって、株屋の番頭みてえに一日中電話を聴かされてたまりやせんワ」
「あら。お門違いよ。あたしは封切よ。誰かさんと誤解してるんじゃない。おほほほ……。認識不足だわ」
 どうも言っている言葉がいちいち場違いにチグハグだったが、それよりも、受話器を通すと、ガラガラした声が一層なまなましく乾いて、あわれな肉感味を帯びているのが、たまらなかった。
「誰かさンて、誰だ」
「多勢いるから判らないんでしょう。えーと、あの人じゃないの。えーと、陽子さん! あれからまた掛って来たのよ。もう京都にいないって言ったら、絶望的だったわよ。おほほ……」
「…………」
「あんた、まだ京都にいたのね」
「はい、恥かしながら、パイパンで苦労してます」
「パイパン……? 何よ、それ。――京都にいるなら、リベラル・クラブへ一緒に行ってよ。今晩五時、発会式よ」
「どうぞ、御自由に」
「あら。一人じゃ行けないわ。会員は同伴、アベックに限るのよ。素晴らしいじゃないの」
「そんな不自由なリベラル・クラブよしちゃえよ!」
 電話を切ろうとすると、
「あ、ちょっと、ちょっと、用事まだ言ってないわよ」
「何だ……?」
「おほほ……」
「ハバア、ハバア!」
「せかさないでよ。今、代りますから。あたしはただお取次ぎよ」
 おほほ……と、笑い声が消えると、誰かが代って電話口の前に立ったらしく、息使いが聴えた。

      六

 誰だろう――と、声を待っていると、
「兄ちゃん……?」
 なつかしそうに、しかし、おずおずと受話器を伝わって来た声は、思いがけず、靴磨きの娘だった。
「――あたい、判る……?」
「うん」
「兄ちゃん、あたいなんぜ、こんなところから電話掛けてるか、判る……?」
 何かいそいそと弾んだ声だった。
「えっ……?」
 と考えたが、咄嗟には判らなかった。
「――おれ判るもんか。なぜ、セントルイスへ行ったんだい」
「判れへん……? ほんまに判れへんのン、兄ちゃん」
 じれったそうだった。
「判るもんか。なぜだ。言ってみろ!」
「…………」
 しかし、返辞はなかった。
「まかれてしまったのか」
 と、京吉は何気なく声をひそめた。娘に、あの男――スリを尾行しろと、ただそれだけ言ったのである。尾行して、それからどうしろ――と、注意を与える暇はなかった。だから、財布は戻るとは当てにしていなかった。ただ、わざわざスリを見つけながら、ほって置くのも癪だ――そんな軽い気持で尾行させただけである。娘がスリにまかれてしまったところで、べつに悲観もしない。ところが、
「ううん」
 まかれなかったわよ――という意味の声が、鬼の首を取った威張り方で聴えて来た。
「ほう……? 大したキャッキャッだね」
 と、京吉は思わず微笑して、
「――どこまで、つけたんだ……?」
「ここで言えないわよ。兄ちゃん」
 鮮かな東京弁だった。ははあんと、京吉は上唇の裏に舌を当てて、
「じゃ、そいつ、セントルイスにいるのか」
「うん……? ――うん!」
 ちょっとセントルイスの中を見渡してから、うなずいたにちがいない――その仕草が想像されて、京吉はこの瞬間ほど娘がいとしくなったことはなかった。
「――だから、兄ちゃん、早く来てよ」
「よっしゃ」
「ハバア、ハバアよ」
「オー・ケーッてばさ。あはは……」
 と、笑った機嫌で、
「――お前何て名だっけ……?」
「あたい……?」
 びっくりしたようにきき返したのは、子供心に名前をきかれたという意外な喜びにどきんとするくらいだったのか、
「――兄ちゃん、あたい、カラ子!」
 と、しっとり、答えた声は、もう女の声だった。そんな息使いだった。京吉がもとの席に戻って来ると、グッドモーニングの銀ちゃんはなぜか重く沈んでいた。
「お待たせ!」
 その回も京吉が上って、そのイーチャンが終った。
「しかし、二千すったよ。金はセントルイスで払う。銀ちゃん、一緒に来てくれよ」
 と起ち上ろうとすると、銀ちゃんは、あわてて、
「おいもうイーチャンやろう」
 と、ひきとめた。
「だって、おれ急ぐんだ」
「いいじゃないか! セントルイスはよせ」
 銀ちゃんの声は急に鋭く凄んだが、眼は力がなかった。

      七

 京吉をひきとめた銀ちゃんの強気は、しかし、実はセントルイスで女を待たせてあるという弱みのせいであった。
 女は坂野の細君であった。
 銀ちゃんと坂野とは、坂野が京極の小屋へ出ていた頃の知り合いで、坂野が細君と結婚する時も、せめて形式だけでもと挙げた式は銀ちゃんのアパートで、銀ちゃんが盞をしてやったのだ。いわば仲人で、だから坂野も銀ちゃんを頼りにし、細君も夫婦喧嘩の時は銀ちゃんのアパートへ泣きついて行った。
 ある夜、ヒロポンのことから大喧嘩になり、飛び出した細君は銀ちゃんのアパートへ泣きに来た。遅いから、今夜は泊って行け、明日はおれが坂野の所へ行って謝らせて来てやる、くよくよせずに、これでも飲めと、グラスにウイスキーを注いだ。
 それがアルプ・ウイスキーだった。四条のある酒場へ行くと、顔で一本八十円でわけてくれる。公定価格は三円五十銭だが、それでも一本八十円のウイスキーは安い。死んだという噂もきかないから、少々眼にやにが出ても、メチルではあるまいと、専らこれにきめ、その晩も二人で二本あけてしまった。
 安いのと、口当りがいいので、ガブガブやったのが、いけなかったのだ。ほかのウイスキーではそんなことにもならなかったが、やはりアルプだった。銀ちゃんは前後不覚に酔っぱらい、意識が混濁したまま、坂野の細君と妙な関係になってしまった。細君も女に似ず強かったが、さすがに参っていた。
 坂野はむろん疑いもしなかった。昨夜は女房の奴がまた御厄介で――と、へんに律儀に恐縮していた。銀ちゃんは返す言葉もなかった。
 細君も悩んだが、しかし、この女は奇妙な女だ。悩んでいるかと思うと、あんなヒロポンマニアとは別れた方がましだと、サバサバしたり、不義の子を孕んだといって泣いたり、あんたの子うむのうれしいわとやに下ったり、ああ、おろしてしまいたい。
 と、とりとめがなかったが、昨夜いきなり、置いてくれと、家出して来た。
「そりゃ困るよ、だいいち坂野に知れたら……」
 銀ちゃんは少しでも女と一緒にいることを避けたかった。細君が逃げたと判れば、坂野はきっとその報告にやって来るだろう。夜が明けると、銀ちゃんは拝むように、
「どこかへ行っていてくれ」
「どこへ行ったらいいの。行く所ないわ」
「活動でも何でも見て来たらいいだろう。三時にセントルイスで会おう。相談はそれからのことだ」
 とにかく、ここにいてはまずいと、無理やり女を追い出した。しかし、三時に会うても何の話があろう。いい思案もうかばぬことは判り切っていたから、会うのが辛かった。
 イーチャンが終ると、柱時計を見上げて、五時を指している針を見た時、だから銀ちゃんは軽い後悔と共に、何か諦めた安心感を感じたが、実は時計は故障で停っていたのだ。まだ三時半だった。間に合う。いかねばならない。しかし、もうイーチャン打って、ずるずる時間を延ばすことが、この際のごまかしだった。
 無理に京吉をひきとめていると、風のようにふわりと一人の男がはいって来た。あッ。
 坂野だった。

      八

 北(ペー)の風から良い手のつき出した男らしく、京吉はもうイーチャン打つことには十分食指が動いていた。が、セントルイスで待っているカラ子のこともあった。
 だから、銀ちゃんにすすめられて、ふと迷っていた。その矢先の坂野の登場であった。
「あ、坂野さん、いいところへ来た」
 と、京吉はもっけの幸いの声を出し、それでもう肚がきまった。
「――おれ、のくよ。坂野さん代ってくれよ」
 ねえ、その方がいいだろう――と、銀ちゃんの顔を見ると、
「…………」
 銀ちゃんはうなっていた。
 京吉と坂野が知合いだったことを、銀ちゃんは知らなかったのだ。だから、
「亭主がアコーディオン弾きだから、すぐ腹がふくれやがる」
 云々と、女のことで口をすべらせたのだが、思えば、うかつに言ったものだ。パイを捨てる手拍子につれて、ひょいとすべった言葉だが、どだいおれは弁士時代から口が軽いと来てやがる。
 銀ちゃんは毛虫を噛んだような顔で、しお垂れていた。
 その顔をちらと見た途端、京吉もはじめて、坂野が知らぬ間に銀ちゃんに細君を寝取られていたというホットニュースを想い出して、
「うえッ! こいつアひでえキャッキャッになりやがった」
 と、坂野を残して行く皮肉さを、ひそかに砂利のように噛んでいたが、しかし、この場の空気をにやにや見ているほど、京吉はいかもの食いではなかった。
「逃げるにしかず!」
 と、起ち上ろうとすると、坂野は、
「いいよ、京ちゃんやんな! せっかくヒロポン打ったんじゃないか。あたしア高見の見物だ」
 と、とめた。
 いや、その高みの見物になりたくないから逃げるのだと、京吉はそわそわして、
「おれ、セントルイスへ取りに行くものがあるんだよ」
「じゃ、おれ行って来てやるよ。どうせ女房を探して……」
 町という町からア、丘という丘を、あちらをも、こちらをも、探すは上海リル……という唄の文句を、自嘲的に口ずさみかけた途端、
「あッ!」
 と銀ちゃんが声を上げた。が、だれも気づかなかった。まして、坂野の細君がセントルイスで待っていることを、知る由もない。
「え、へ、へ……。なアんて、うまいこといって、この使いめったにひとにやらせてなるものか」
 これ取りに行くんだからねえと、親指と人差指で丸をつくって見せると、あッという間に祇園荘を飛び出して行った。
「おい、京ちゃん、京ちゃん!」
 グッドモーニングの銀ちゃんは、なに思ったか急に起ち上って、京吉を呼びとめた。

      九

「なンや、銀ちゃん……」
 あわてふためいて……と、京吉は入口まで戻って来た。もっと傍へ来い……と、銀ちゃんは眼まぜで引き寄せると、京吉の肩に手を掛けて、
「さっきの話……」
 坂野には内証だぜ……と、囁きかけたが、急にふっと気が変った。京吉という男は、ひとは善さそうだが、それだけに口は軽そうだ。だから、京吉の口から坂野の細君とのことがばれるおそれがある――と、銀ちゃんは呼びとめて、口止めしようと思ったのだが、京吉の顔を見ると、何だか京吉に対して恥しいような気がして、もう言えなかったのだ。いや、京吉によりも自分に恥しかったのだ。あわてふためいた口止めは、男らしくもないと思ったのだ。おまけに、それではあんまり坂野が可哀相だ。もっとも、一切合財坂野に打明けるのも、坂野には酷だと思った。が、「知らぬは亭主」の坂野のいる前で、こっそり口止めは、坂野を侮辱しているようなものだ。京吉に知られてしまったのは罰が当ったようなものだから、
「喋るなら喋れ」
 と、成行きに任せるのが、自分としても気が楽だと、銀ちゃんはせめてこの点で捨身の裸になっていたかった。
「さっきの……?」
 と、京吉はききかえした。
「いや、さっきの二千点の金、いつ払うんだ」
 と、銀ちゃんはむりにそこへ話を変えた。
 なアんだ、それで呼びとめたのかと、京吉は軽蔑したような口つきになって、
「ちゃっかりしてるね。払うよ。セントルイスへ行きゃア、はいるんだ。今日中に払うよ。銀ちゃん、そんなんかね。おれ見直すよ。感じ悪いや。払やいいんだろう」
 プイと怒って、出てしまった。銀ちゃんは憂欝な顔で卓子へ戻って来た。
「銀ちゃん、どうした。女に振られたんじゃないですか。元気溌剌じゃないですな」
 坂野はうかぬ顔でパイを撫ぜていた。
「そういうおたくも、からきし元気溌剌じゃないね」
「あッしですか。」
 坂野は苦笑して、
「――女房逃げちゃったンでさア」
「へえン」
「だから、ショボショボしょげてるッてんじゃねえですがね。人間あんまり腹が立つと、目まいがしていけねえ。くらくらッとね」
「大事にしてくれよ」
「女房をですかい」
「いえさ、体を。ヒロポン打ちすぎるンじゃないか」
「大丈夫でさア。漫才のワカナは一日六十本打ってもピンピン生きてまさア。それより、銀ちゃん、アルプはいけませんぜ。あれ航空燃料だといいますぜ、しまいにゃ、アップアップ、てっきりでさアね」
「うん。てっきりだね」
 銀ちゃんはそっと坂野の顔色をうかがったが、急に、
「――おい、場をきめよう! どうせ短い命だ!」
 喧嘩腰のような声になった。


    暮色

      一

 東京や大阪のバラック建ての喫茶店は、だいいち椅子そのものがゴツゴツと尻に痛く、ゆっくり腰を落ちつけて雰囲気をたのしむという風には出来ていないが、さすがに京都の喫茶店は土地柄からいっても悠長だ。
 例えば、セントルイスには半日坐り込んでいる常連がいる。三条河原町のD堂という古本屋の主人など、自分の店に坐っている時間よりも、セントルイスの片隅に坐っている時間の方が多いのだ。
 この主人の人生の目的は享楽にある。しかし、多くの金を要する享楽は、彼にとっては不愉快そのものだ。出来るだけすくない金で、出来るだけ効果的に楽しむことが、彼にとっては、真の享楽なのだ。彼はこの主義にもとづいて、毎日セントルイスでねばる。なぜなら、この店は場所柄先斗町あたりの芸者の常連が多く、それを見ていることが、彼にとっては目の正月であり、顔見知りの芸者を相手にいやがらせを言っておれば、お茶屋散財しているような気がするからである。むろん、芸者たちはいやな顔をする。が、どうせ金を使って散財しても、もてないことを知っているから、苦にはならない。色男を気取らず、見栄も張らず、けちで通った五十男らしいいやがらせを言っているのが、むしろサバサバしたたのしみであり、一杯十円の珈琲の高さが安くなるこの享楽にまさる享楽がほかにあろうか。京都人であった。
 セントルイスはめったに満員にならない。だからといってさびれているというわけではないのだ。京都では満員になる喫茶店なぞ殆んどないのである。しかし、たまにセントルイスが満員になることがあっても、彼は席を譲ろうとしない。泰然と落着きはらっている。チェーホフの芝居に出て来る下宿代を払わない老人のように、澄ましこんでいる。
「商談、お待ち合わせにお利用下さい」
 という女文字の貼紙の下で、あたかも誰かを待ち合わせているかの如き顔をしているのだが、むろん誰を待ち合わせているのでもない。
 しかし、D堂の主人を除けば、その時セントルイスにいたひと達は、まるで申し合わせたように、誰かを待っていた。
 マダムの夏子さえも、待っていた。京吉を待っていた。
 先斗町の千代若も旦那を待っていた。喫茶店で待ち合わせる旦那は、むろん上旦那ではなかったが、しかし、イロと旦那を兼ねた所謂イロ旦(那)はただの旦那、ただのイロよりもいいにはきまっている。だから、D堂の主人にからかわれながら、いつまでも待っていた。
 カラ子が祇園荘から尾行して来たスリも、誰かを待っているのか、いらいらしていた。
 そのカラ子は勿論京吉を待ちこがれていた。早く来てくれぬと、スリが出てしまう。カラ子は何度も表へ出て、京吉の来そうな方へ遠い視線を送っていた。が、来ない。
「遅いなア。どないしたンやろか」
 再びセントルイスへ戻って来たカラ子の心配そうな声をきいた時、一人の若い女がふっと顔を上げた。坂野の細君の芳子であった。
「遅い。本当に遅い。銀ちゃんどうしたんだろう」
 と、芳子はつり込まれたように、にわかに不安になって来た。

      二

 三時に行くと銀ちゃんは言っていたが、もう四時をすぎている。狭い横町にあるだけに、セントルイスの店なかは、ただでさえ早い秋の暮色が、はやひっそりと、しかし何かあわただしく忍び込んでいた。
 もしかしたら銀ちゃんは来ないのではないかという心配が、その暮色のように迫り、芳子は、昨夜銀ちゃんのアパートへ転がり込んで行った時の、銀ちゃんの迷惑そうな顔を改めて想い出した。
「あたしが来ては、迷惑なんでしょう……?」
「迷惑じゃないが、困るよ」
「あたしがきらいなんでしょう……?」
「きらいじゃないが、ここにいちゃまずいよ」
「それごらんなさい。きらいなんでしょう」
「…………」
 坂野の手前困るんだ――という銀ちゃんの気持は、芳子には判らない。
 女というものは、こういう場合、相手が自分を好いているか、きらっているか――という二つのことしか考えず、それ以上のことは考えようとしない。すくなくとも、そんな顔をしている。三時セントルイスで会おうという口実でアパートを追い出されたのは、相手が自分をきらっているせいだ、――という風にひたすら思い込んでしまうのだ。
 その証拠に、三時の約束が四時をすぎても来ないではないかと、芳子はもう捨てられた女の顔であった。
 もっとも、はじめは銀ちゃんが好きでも何でもなかった。好きで結びついた関係ではない。アルプ・ウイスキーの魔がさした。――というより、酔ったゲップを吐き出すような、まるで冗談まぎれのような結びつきであった。出来心という言葉さえ、大袈裟であろう。ところが、そんな冗談から、もう銀ちゃんが忘れられなくなるという駒が出たのだから、肉体のつながりの不思議さは、われわれの考える以上だ。
 乗り掛った不義の駒を、動かせるのはいつも女の方だ。だから、芳子はわざとヒロポンにかこつけて、アンプルを割るという芝居までして、銀ちゃんのふところへ転がり込んで来たのだが、しかし、一つにはお腹の子供のこともあった。坂野にもそれと感づかれそうになっていたのだ。
 そのお腹の子のことがあるから、きらわれても、とにかくもう一度銀ちゃんに会わねばならない。が、銀ちゃんはどこにいるのだろう。アパートへ電話してみたが、むろんいなかった。半泣きの顔で、ふっと入口の方を見た途端、芳子ははっとした。京吉がはいって来たのだ。悪いところを見つけられたように、芳子はあわてて顔をそむけた。
 が、京吉はむろん芳子に気がついた。
「ははアん」
 セントルイスから祇園荘へ電話が掛った時の、銀ちゃんの狼狽ぶりが想い出された。京吉はわざと芳子には顔を向けて、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、くわえた煙草を、舌の先でペッと吐き捨てると、
「ひでえキャッキャッだ!」
 そのキャッキャッという言葉をきくと、芳子は何思ったか、急に起ち上って、京吉の傍へ来た。

      三

「京ちゃん、あんた……」
 芳子はちょっと言いにくそうに、
「――元橋さんの居所知らない……?」
「元橋さん……? そんな男……」
 知るもんか、おれきいたこともねえよ――と、銀ちゃんの本名を知らない京吉は、寄ってきた芳子へ、わざとらしい背中を向けて、そしてカラ子とうなずき合った眼を、ちらとスリの方へ光らせていた。
 日頃の京吉は、友達の坂野よりも、むしろ細君の芳子の方へ、ペラペラと冗談口を利いていた。口は悪いが、しかし、それが一種の愛嬌になっていて、芳子も京吉がアパートへ遊びに来ると、何となく気がまぎれるのだった。が、その京吉の今日のこの不愛想さは一体どうしたことであろう。
 芳子は取りつく島のない想いの底に、何か後ろめたい気持を、ひやりと覗きながら、
「銀ちゃんのことよ。グッドモーニングの……」
 われにもあらず、赧くなっていた。
「おれ知らねえよ」
「あんた、銀ちゃんと会うて来たんじゃな……?」
「おれ知らねえよ」
 すねたように、うそぶいている言い方で、芳子には、京吉が今まで銀ちゃんと会うていたらしいと、判った。もっとも、さっき京吉が、
「ひでえキャッキャッだ」
 と、言った途端に、芳子にはピンと来ていたのである「キャッキャッ」というものは、銀ちゃんの口癖であり、その言葉が今京吉の口から出るのは、つい今のさきまで、会うていた証拠だ。
 どこで会うていたのか。芳子は、半時間ほど前に祇園荘へ電話をかけて、京吉を呼び出したことを、想い出した。京吉は祇園荘でマージャンをしていたにちがいない。そして、その相手は、もしかしたら銀ちゃんだったかも知れない。いや、そうにちがいあるまい。銀ちゃんは、まだ祇園荘にいるだろうか。
「ちょっと電話おかし下さいません……?」
 芳子はいきなり夏子にそう言って、祇園荘へ電話を掛けた。
 自動式ゆえ、どこへ掛けているのか、はじめはまるで見当がつかなかったが、
「もしもし、祇園荘さん……? そちらに……」
 という芳子の言い方で、すぐそれと判った――途端に、京吉は、
「あれッ、こりゃいけねえ」
 と、驚いて、芳子の言葉をさえぎるように、
「――だめ、だめ! いま掛けちゃいけねえよ。祇園荘、だれもいねえよ。いねえッたら!」
 坂野もいるんだとは言いかねた見えすいた嘘でごまかしていると、
「京ちゃん、邪魔しないでよ」
 京吉まで自分を銀ちゃんに会わすまいとするのかと、芳子はもう邪推のキンキンした声であった。
 その時、例のスリが急に立ち上って、勘定を払うと、セントルイスを出て行こうとした。
「兄ちゃん!」
 カラ子はじれったそうに、京吉の袖を引いた。

      四

 カラ子にうながされて、京吉はすぐそのスリのあとをつけて出ようと思ったが、しかし、坂野の細君の芳子の方へ、気は取られた。
 放って置けば、芳子は銀ちゃんに電話を掛けるだろう。しかし、銀ちゃんの傍には今坂野がいる筈だ。芳子から銀ちゃんへ電話が掛ったことを、もし坂野がその場で知ったら、どんな波瀾が起きるか知れたものではない。よしんば、坂野が気づかなくても、銀ちゃんは困るだろうし、だいいち、京吉の気持としても、昨日までの亭主と情夫がいる場所へ、女が電話を掛けるという光景を、だまって見ているにしのびなかった。何かいやアーな気持だ。
「だめッたらだめだ!」
 よせッと、京吉はいきなり、芳子の手から受話機をひったくって、ガシャンと切ってしまった。芳子は真青になった。
「気ちがいッ!」
「おれ気ちがいなら、おめえはキャッキャッだ!」
「…………」
 芳子は肩をふるわせて、京吉を睨みつけていた。半泣きの顔だった。
「…………」
 京吉も半泣きの顔だった。――女ってみなばかだ。茉莉は死ぬし、陽子は誘惑されるし、この女は間男して亭主の所を逃げ出す……。
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